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金融コード ufj

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金融コード ufj

数値は、後身の「」ウェブサイトに記載されているUFJ銀行財務諸表( 、 )によって記載した。 概要 [ ] 本店はにあった(旧:東海銀行本店)。 実質的な本社機能は大手町の UFJ東京ビル(現:三菱UFJ銀行大手町ビル)に設置された東京本部(旧:三和銀行東京本部)であった。 UFJは、 United Financial of Japan(ユナイテッド・フィナンシャル・オブ・ジャパン)の頭文字を取って名付けられた。 スローガンに「 こたえていくチカラ。 」を定めていた。 にに合併されて解散した。 以後の沿革などについてはを、三和銀行ならびに東海銀行の沿革などについては、・の各項目を参照。 しかし、両行の交渉が長引く中で、8月に 、 、 による3行の経営統合((みずほFG)の設置)、続く同年10月には三井財閥系の 、住友財閥系の の合併()が発表され、企業グループの枠を超え、急速に都銀上位行のへの再編が進む。 こうした金融再編に取り残されていたのは、破綻後は都銀下位行に甘んじたと、強烈な行風が倦厭されたであった。 再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ出身 であった「東海あさひ銀行」連合に急接近する。 東海あさひは、営業エリアが・に集中して規模的に中途半端となっていた為、地方銀行の他、大和銀行の参加を呼び掛けた。 しかし、2000年2月に名古屋市内で室町鐘緒三和銀行頭取と西垣覚東海銀行会長の会食を経て、大和銀行ではなく三和銀行を加えた「持株会社設立による経営統合」を2000年3月に発表した。 2000年4月より3行間でのATM利用手数料を自行扱いとする施策の実施や、同年中に三和銀行系列の金融各社で構成される「」へ、東海・あさひ両行の参入検討を図った。 その後、三和銀行は経営の迅速化を名目に三行を合併させて 三和東海あさひ銀行の発足構想を主張したために、経営主導権を三和に握られることを嫌った あさひ銀行 が2000年6月に構想より離脱。 結局、三和銀行・東海銀行の合併という形で決着した。 この経営統合から離脱したあさひ銀行は、2001年には処理による損失から注入のに対する中間配当が困難となり、経営危機が表面化する。 一方、東海あさひの経営統合参加を当初有力視されるも、三和の参入で破談となった大和銀行は、同年12月に親密地銀とを設立した。 2002年3月にあさひ銀行がその持株会社の傘下に入る形で経営統合を行った。 両行は5月の発生を予見出来ぬまま、前途多難な船出を強いられた。 UFJグループ発足 [ ] 2001年4月2日に上場企業であった ・・株式を、新設した へさせ、経営統合を行った。 ここからUFJ銀行の発足までのあいだは、UFJホールディングスの傘下に三和・東海・東洋信託銀行に入っていた。 また、この期間中に 三和銀行・東海銀行はシステム統合の準備をするため、2002年1月まで休日と年末年始を中心にシステムを休止させ、による明けの1月15日に合併し、 UFJ銀行が発足した。 合併時のシステム統合 [ ] 三和・東海銀行が合併した2002年(14年)1月15日に、両行の(三和が・東海が)を三和銀行系のシステムに統合している。 両行ともを窓口端末のベンダとしていたことから実現できた。 通常、銀行の合併に際しては当事銀行間の基幹システムをリレー方式で接続し、1 - 2年かけて統合するという流れを採用しているが、UFJ銀行は合併のシナジー効果を顧客にいち早く提供する主旨が有った。 これによって顧客は、三和・東海の別なく、統一された商品・サービスを享受出来たが、同月23日から同月末にかけて口座自動振替システムの障害が発生。 の二重引落が約18万件、引き落としが遅延されたり、引き落としがされないトラブルが175万件生じた。 後の同年4月に発生したのシステムトラブルと比較すれば、小規模なトラブルだったが、前例とされたUFJ銀行のトラブルを教訓にせず、合併とシステム稼働を見切り発車させた、は非難されることになる。 不良債権処理の遅れ [ ] 三和銀行時代から引き継がれた的営業スタイルの伝統、他行に比べ積極的な貸し出しの姿勢によって、2002年時点の4大メガバンクのなかでに次ぐ収益力の高さを誇っていた。 反面、三和・東海はそれぞれ・を地盤とする銀行であり、における基盤は他のメガバンクほど強くなかった。 また、財務体質は劣悪で経営再建問題で揺れる、・日商岩井(現:)、日本信販(現:)、、、、など構成企業やおよび、東海銀行の・藤和不動産( 現:)・に対しての過剰な貸付や焦げ付き、それらに対する貸倒引当損失不足が当初から懸念されており、比率はメガバンクでは最も高いとされた。 結果的に業務で利益が上がっていても損失引き当ての強化及びの処理に伴い利益をはるかに上回る巨額の赤字の計上する状態で、UFJ銀行は発足から消滅までの3年間に黒字を計上することはなかった。 特にダイエー向けの債権はUFJ銀行の発足前は東海銀行、三和銀行、富士銀行、がそれぞれ5000億円を超える融資額を横並びで貸し付けていたが、合併によって融資額が1兆円を超えて突出し、結果的にメインバンクとしての責任を背負い込むと共にその処理が経営の足を大きく引っ張ることになった。 2002年9月に金融担当大臣(経済財政担当大臣兼任)にが就任し、同年10月には大手行に対して2005年3月末までに不良債権残高を半減するように要請する「」が発表された。 これを受け、みずほFGが1兆円の増資を実現し、三井住友銀行が破格の条件でに優先株を発行し、さらにとのにより含み益を吐き出すなど、他のメガバンクは形振り構わず資本増強による不良債権処理を進めた。 しかし、会長だった寺西正司UFJ銀行頭取は「銀行はルールの中で経営されている。 をしていたのに、突然、だといわれても困る。 」と反発した。 この発言はのちに辿るUFJグループの行末を考えると、当時のUFJグループの経営陣にとっては非常に厳しい条件を突きつけられていたことを物語っている。 しかし、あさひ銀行が合流したは2003年3月期決算の会計上、自己資本比率の大幅な毀損が生じて「」へと陥り、自主経営を事実上断念する事態となった。 結果、日本の株式市場は後に株価は上昇に転じ、UFJHD株は結果的に株価上昇の先導役となって株安で抱えていた銀行の含み損はかなり解消した。 ただし、から業務改善命令を受けるなど経営の視野や選択肢が限られる状況であり現金資産が増えていたわけではなかった。 に対して約束した利益は1300億円程度であった。 派閥抗争 [ ] 当時のUFJ銀行内は三和銀行以来の派閥抗争に終始し、積極的な資本増強策を行っていなかった。 UFJ銀行は対等合併とは言われながらも、実際の行内の主導権は規模が旧:東海の1. 6倍あった旧:三和が主導権を握っていた。 また、前述の大口融資先には、こうした人事抗争に敗れた有力OBを天下りさせた経緯もあり、銀行側が事業再生に主体的にかかわることもできず、なれ合い関係が深まっていった。 こうした動きは、元々名古屋財界のメインバンクとして機能していた地元銀行を(在阪銀行であった三和により)事実上冷遇した事となり、名古屋財界から顰蹙を買ってしまう。 結果、東海3県における預貸シェアは低下し、多くの地元企業が地方銀行、信用金庫などに融資元を変更するに至り、これによる海外進出への弊害も発生した。 皮肉にもこの一件により、により、手薄となっていたへのの営業拡大を許してしまう遠因ともなった。 金融庁との対立と特別検査 [ ] (平成15年)10月に実施された『特別検査』では、多額の不良債権の処理不足が指摘された。 しかし、当局の指示通りに不良債権処理を行えば、UFJ銀行は巨額の赤字決算となり、これは公的資金注入行に対する「3割ルール」 により、経営陣が退陣することを意味し、必死の抵抗を試みた。 この検査時に、大口融資先の再建・処理は、頭取直轄の「戦略支援グループ」が担当していた。 実権を握っていたのは、グループ長の岡崎和美副頭取(卒)、その補佐で大蔵省接待汚職時にだった早川潜常務(卒)、稲葉誠之執行役員審査第五部長(慶應大卒)の3人である。 彼らは、大口先の審査資料として「楽観」「成り行き」「最悪」の3シナリオを用意し、どれを採用するかは、その協議で決めた。 その結果、「楽観」シナリオが採用され、債務者区分は「破綻懸念先」が格上げされることにより、不良債権処理損失は圧縮された。 また、「成り行き」「最悪」のシナリオは隠蔽され、さらに議事録も改竄し、金融当局と全面対決する道を選んだ。 岡崎らがここまで金融当局に強気に出たのは、過去における実績からであった。 旧:三和銀行は、事件や(別名:事件)等、過去の金融スキャンダルでは、常に自行に有利な事後処理を実現していた。 特に1998年(平成10年)の大蔵省接待汚職事件の際は、当時MOF担だった早川常務を中心にに積極的に情報提供し、自行から逮捕者を出さない目的は達成したものの、大蔵省金融検査部門よりノンキャリア検査官2名が逮捕、1名が自殺に追い込まれる結果となり、以来、金融当局から不興を買っていた。 また早川自身も、金融当局に対しては、かねてより反抗的であった。 こうした状況下での特別検査におけるUFJ銀行の金融当局に対する姿勢は、敵対派閥からと見られるにより前述の資料等の隠蔽・改竄が発覚するに及んで金融庁、特に現場の検査官の逆鱗に触れることになる。 また、2004年(平成16年)1月、が金融庁の特別検査が入っている実態が報道され計画されていた永久劣後債による4000億円にのぼる増資は取り止めになった。 さらに、2004年(平成16年)4月、今度はがの形で、UFJグループの不良債権に対する引き当てが不十分とされる報道がなされ、金融庁に約束した利益が未達となり、寺西らの経営トップの辞任の見通しを報じた(UFJショック)。 結局、2004年(平成16年)3月期決算では、不良債権処理のために損失引当の大幅な積み増しによって、約4000億円の赤字となった。 この2期連続のとなり、経営責任を取って、2004年(平成16年)5月に、頭取のは退任に追いこまれ、この検査忌避により、UFJ銀行は一部業務停止を含む金融庁の行政処分を受け、さらに、(平成16年)10月、法人としてのUFJ銀行と、岡崎元副頭取ら「戦略支援グループ」の元担当役員ら3人が、違反(検査忌避)容疑で、金融庁より刑事告発を受けた。 三和銀行の行風 [ ] 再編前、会長を輪番で担当する都銀大手6行(三和・東京三菱・第一勧業・さくら・住友・富士)の中で、三和銀行は唯一の業容が拡大した銀行であった。 このため、財閥系やを起源とする他行 に比べ優秀な新入行員確保に苦労した。 これらは、必然的にリクルーターを通じて内の繋がりが密接になり人事抗争に繋がっていく事になった。 他行はこれを「三和のDNA」と蔑称した。 また、2019年1月4日の朝日新聞の記事では、実力主義をかかげ、「野武士集団」と呼ばれていたことが触れられている。 特に頭取(卒)時代には企画・秘書・人事中枢部門に権限を集中させ、同時に一橋大・出身者、中でも中村明秘書室長(京都大卒)が重用された。 こうした経営の意思決定の迅速化は成果を出したものの、学閥を中心にした側近政治の弊害に対する内部に溜まった不満は1999年当時会長となった渡辺と佐伯尚孝頭取(卒)の主導権争いで爆発し、怪文書等の流布等陰惨を極めた。 結局両者が辞任し、中間派の(卒)が頭取に昇進したものの、2002年、UFJ銀行の発足を目前にして赤字決算の責任を取り退任した。 室町の後任は秘書室長経験者だった(卒)であった。 寺西は幹部層を岡崎副頭取、中村正人企画部門担当常務、末席の執行役員から抜擢した松本靖彦秘書室長(卒)ら阪大・慶大出身の側近で固める一方、対立派閥に属し三和銀行時代にを立ち上げるなどかつて頭取候補と言われた杉山淳二常務(東京大卒)をに転出させ 、また東海で合併を担当した藤田泰久常務(卒)に事実上退行を迫るなど 、より側近政治・派閥抗争を悪化させる。 前述の金融庁特別検査の結果、2004年5月に寺西頭取が退任。 沖原隆宗が取締役付きでないにも関わらず常務執行役員からいきなり頭取に就任するという異例の昇進をした。 この時沖原は「(2005年3月期の)上期中に大口融資先の対応について布石を打つ」「十指に満たない融資先の債権の処理を念頭に置いている」「UFJ銀行の問題は一言で言えば大口融資先の問題に尽きる」などと述べ不良債権処理の断行を示唆した。 しかし、人事面で見れば寺西と共に退任を余儀なくされた岡崎副頭取を会長へ、常務の中村を専務への転出 を決定、また松本秘書室長も常務執行役員に昇格させ、松本を筆頭に直属の部下である(秘書役、京都大卒)・企画部長・広報部次長のいわゆる「4人組」を側近に据えた。 こうした旧態依然たる人事施策は再び金融庁の逆鱗に触れ、これらの人事が撤回させられたばかりでなくUFJ消滅への遠因となった。 その後、すでに優秀な人材は流出していたUFJ内部は疲弊、派閥抗争の余裕すら失っていくこととなった。 このため、2004年に持株会社のはをへ3000億円で売却すると発表せざるを得なくなった。 しかし、この売却でようやく繰延税金資産の自己資本への組み入れが監査法人に認められて、2004年3月期の自己資本比率割れを何とか繕っている形であり、UFJの不良債権処理は体力的に難しい問題を抱えていた。 特に問題になった債権は 、で貸付の規模は1兆円を上回っていた。 この発表からわずか3日後の5月24日、UFJホールディングスの2004年3月期決算がUFJ信託銀行の売却でも埋められない大幅赤字となることが判明する。 この売却発表から2ヶ月も経たない7月14日、持株会社経営陣はUFJ信託銀行の住友信託銀行への売却を撤回と、 (MTFG)と(UFJHD)の 経営統合で大筋合意し、翌にと経営統合に向けての協議を開始すると発表した。 統合の時期は2005年度上半期を目標とし、2004年、2005年10月をメドにMTFGが(当時の仮称)へ商号変更のうえ、UFJHDは吸収される事に基本合意し、「」に行名を改める予定となった。 これに対して、住友信託側がに交渉差し止めを求める申請を行ない、東京地裁は2004年、当該仮処分申請を認める決定を下した。 UFJ側がこれに対し異議を申し立てるも、に却下された。 さらに、UFJ 側は即日にし、2004年、東京高裁は、地裁の決定を取消し、東京三菱とUFJの統合交渉を可とする決定を下した。 住友信託側は同日、に特別抗告を行ったが、最高裁は、高裁の判断を妥当とし、住友信託側の申請を退ける決定が確定した。 その後、住友信託側が売却の白紙撤回に対する民事訴訟に切り替えてUFJ側と争ったものの、に東京高裁の提案による住友信託に対して25億円の和解金を支払う事で和解が成立した。 三井住友FGによる経営統合の申入れ [ ] 2004年7月30日、電撃的に(SMFG)がUFJホールディングス(UFJHD)に対して経営統合の申入れを表明、8月24日に発表した「1:1」の合併比率はUFJにとっては破格の条件だった。 8月30日には、UFJに対する増資引受条件に関する提案を送付する。 2004年8月12日、MTFGとUFJが2005年10月までの経営統合で基本合意。 さらに、9月10日、それまで9月29日までに行うとしていたMTFGからUFJに対する増資を9月17日への前倒しする事を発表した。 2004年9月下旬、SMFGは、株主提案を行うために必要なUFJHD300株を取得、「委任状争奪戦」()を仕掛ける姿勢を鮮明にする。 2004年秋までには、SMFG側が大勢を覆すには至らないのは明白になっていくが、この動きが、三菱東京との交渉においてUFJ側に有利に働いたことは否定できない効果であった。 救済までの不良債権処理 [ ] この間、UFJは三菱東京との統合前に不良債権処理を進めていく。 特に、UFJグループのなかでもっとも問題とされたのは向けの債権だった。 当時のダイエーはの会長退任後、の指揮下で資産の売却や売り場の改善を進めていたがその売り上げは低迷凋落の一途をたどっていた。 高木は2002年3月に決まった再建計画の途中(期限は2005年2月)でメインバンクサイドの意向でに送られてしまうことに難色を示した。 また経済産業省もこれを支持していた。 しかしダイエーの決算の前提に金融機関の支援の不可欠とする監査法人の見解を受けて高木が翻意して再生機構へ送られることが決定した。 金融庁の懸念と合併延期 [ ] 年が明けた、三菱東京とUFJは正式に合併を決定し社名を「」とすることになった。 翌2月18日には合併比率を「1:0. 62」で最終合意 、4月20日、合併契約が正式調印、同年6月29日、それぞれの株主総会で合併が承認される。 なお、東京三菱銀行との合併について、持株会社や傘下の信託銀行・証券会社と同じく2005年10月1日を予定していたが、システム統合準備の遅れが金融庁より指摘され、8月12日、3ヶ月延期が発表された。 そして、2006年1月1日にUFJ銀行は、に事実上救済合併され、発足からわずか3年11カ月と15日余りで消滅した。 引当と経営統合の妥当性 [ ] 東京三菱との経営統合から1年後、三菱UFJフィナンシャル・グループ が2006年11月21日発表した2006年9月中間決算では、UFJグループ が過去に積んだ戻入益などが過去の累計で1兆円を超えた。 前述の金融庁の指導により旧:UFJが2004年度から一気に不良債権として処理を進めた大口債務者の一つが、この中間期に正常債権となり、多額の繰戻益につながったためである。 その内訳は、2005年度上期で約4000億円、同年下期にも、UFJの経営悪化で「評価性引当金」として簿外に計上していたを、5000億円近く資本として繰入れた。 2005年通期だけでUFJからの戻益は9000億円規模となり、2006年上期分を合わせて1兆円を超えたことになる。 もっとも、戻益の過半を占める繰延税金資産の計上は、経済環境の好転もさることながら、経営統合により収益性が増したために可能であったとの見方もあり、一概には言えない。 沿革 [ ]• (平成11年)- 東洋信託銀行と三和信託銀行が合併。 (平成13年) - 三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行が株式移転により株式会社UFJホールディングスを設立し、これら三行はUFJホールディングスの完全子会社となる。 同年7月、東洋信託銀行と東海信託銀行が合併。 (平成14年) - 三和銀行が東海銀行を合併し、株式会社ユーエフジェイ銀行となる。 (平成15年) - 個人顧客サービスの24時間営業化を図る「UFJ24」が開始。 「UFJちょっとコール」を「UFJ銀行コールセンター」に改称し、24時間有人対応を開始。 (平成17年)10月1日 - 三菱東京フィナンシャル・グループ MTFG が UFJホールディングス UFJHD を救済合併し、三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)となり、東京三菱銀行及びUFJ銀行は、MUFGの傘下に入る。 (平成18年) - 東京三菱銀行に合併、三菱東京UFJ銀行(Bank of Tokyo-Mitsubishi UFJ)が発足。 関連企業 [ ] 三和銀行 [ ] 「」を参照 関連会社• 三和システム開発(現:)• (現:)• (現:)• 東洋情報システム(現:)• 東洋興業• 東洋ホテル (現:大阪)• 東洋不動産• 東洋プロパティ• 洋伸不動産• 三信(東京都新宿区)• 大蔵屋• 東海銀行 [ ] 関連会社• (後:UFJニコス、現:)• セントラルリース(現:)• セントラルシステムズ(後:、現:)• (現:)• 新東昭不動産• 御幸ビルディング• (旧:)• ミックスキューブ• 中央倉庫• ブルーブルーエ• シナジーキャピタル• (旧:同和火災)• (現在の)• (現在の徳島大正銀行)• 旧:東海銀行関連 旧: さつき会構成企業• (2000年経営破綻)• 千代田火災海上保険 (現:)• ・グループ• の一部• (現:)• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 三和・東海時代には本店の営業窓口においても「本店営業部」と呼称したが、合併にあたり登記上本店を名古屋にあった元々の東海銀行本店としつつ、本社機能は事実上は三和銀行東京本部(サンワ東京ビル、後の三菱東京UFJ銀行大手町ビル)に置いたため、本店営業部と称する営業店を設けなかった。 三和の「本店営業部」「本店公務部」は、「大阪営業部」「大阪公務部」へ、東海の「本店営業部」「本店公務部」は、「名古屋営業部」「東海公務部」へと、それぞれ合併時に改称された。 いずれも三菱東京UFJ銀行の店舗として承継している。 尚、東京本部内には「東京営業部」があったが、これは合併前の三和店舗であり、東海の「東京営業部」(の東海朝日ビルに所在。 2006年にへ改称)は合併時に「東京中央営業部」と改称後、旧:三和・東京営業部に統合・閉鎖された。 さらに、東海の「東京公務部」は「虎ノ門公務部」に改称後、三和の「東京公務部」に統合されたが、その跡地に統合後の東京公務部が設置された。 なお、2001年3月31日に開業したユニバーサル・スタジオ・ジャパン(通称:USJ)のパーク内には、2001年3月31日から2002年1月14日までの間、UFJ銀行の前身でありUFJホールディングス傘下の三和銀行がATMコーナーを設置していた関係で、UFJ銀行大阪営業部が「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン出張所」として、UFJ銀行のATMコーナーを設置していた。 前半に富士銀行との合併も検討されたが、この時はの許可が出ず決裂となった。 また、1998年には東京三菱銀行との合併交渉もあったが、東京三菱側が合併間もないこともあり、雲散霧消した。 しかし、この事が後の救済合併の伏線になる。 当時、3行の首脳であった三和銀行頭取、西垣覚東海銀行会長、あさひ銀行頭取は、ともに名古屋大学出身であった。 この背景には、あさひ行内で主導権を握りつつあった旧:出身者及び埼玉財界の意向が働いた。 後年に救済合併相手となるも、同日に東京三菱銀行・三菱信託銀行らの株式移転によって発足している。 金融庁に提出した経営計画の目標数値が2期連続して3割以上下回った場合、その経営責任を問うというもの。 2005年4月、一審・東京地裁は岡崎元副頭取に10月・3年、早川・稲葉元役員に懲役8月・執行猶予3年、法人としてのUFJ銀行に罰金9000万円とする判決を言い渡した。 3名とUFJ銀行は控訴せず判決は確定した。 東京三菱・さくら(とが合併)・住友・富士(旧:安田)は旧財閥系であり、第一勧銀(とが合併)は前身の第一が1873年8月1日に営業開始した日本初の商業銀行で、勧銀は旧特殊銀行である。 後にアプラスの親会社となったの副会長に転出、後に同社会長。 新生銀行の会長就任後にアプラス会長も兼任していたが、2008年6月にいずれも退任している。 その後藤田は2007年6月より社長に就任。 後ににとして迎えられ、副社長に就任。 現在は退任。 前日8月23日の株価を基準にすれば、MTFG:UFJは「1:0. 48」、SMFG:UFJは「1:0. 78」だった。 余談だがUFJ(United Financial of Japan)のFは「フィナンシャル」であるため「」は「Mitsubishi United Financial of Japan Financial Group」となってしまった。 当初は持株会社を意味する「ホールディングス」を用い「三菱」となる予定だった。 直近の時価比率は「1:0. 6弱」で推移していた。 合併による新行名は、合併の主導権をとった「三菱」と、国際業務における周知行名である「」、事実上の救済合併となった「UFJ」の順に並べて、 「」となり、「UFJ」の呼称は消滅しなかった。 東洋信託の関連会社• 2004年に連結子会社化し、を吸収合併。 前身の泉州銀行は子会社としていた。 2007年に・と資本提携しグループ離脱。 と親密であるがの設立に協力。 2行に次ぐ最多の融資をしていた。 準主力行であったが破綻時点で457億円を融資していた。 ()と親密。 三井住友銀行(住銀)と親密。 の中核企業であり、にも属する。 ()と親密。 と親密。 戦後の時点で既に日立製作所のグループ外企業。 旧:はと親密。 三和銀と合弁で設立。 同行が第3位の大株主となっている。 三和銀行・東洋信託銀行とによって設立。 2004年にへ持株売却し離脱。 2004年にへ持株売却し離脱。 と三和銀行を主体に設立。 MUFG発足後はと親密。 発足により構成企業へ。 あいおい損害保険発足時にへ軸足を移す。 東海証券として設立。 2006年にと資本提携し東海色が薄まる。 (旧:)に次ぐ準主力行。 三井住友銀行(旧:さくら銀行)とも親密。 の完全子会社化に伴い関係色が薄まる。 (旧:)・に次ぐ準主力行。 同行が第7位の大株主となっている。 2006年3月31日のによると第4位の大株主となっている。 また、同行の親会社であるから大量保有報告書が提出されている。 同行が第9位の大株主となっているほか、が第2位の大株主となっている。 出典 [ ]• 朝日新聞. 2019年1月4日閲覧。 関連項目 [ ]• - システム統合後の旧:UFJ銀行の基幹システムを引きとる。 - の。 完結編である「消失 金融腐蝕列島・完結編」で、協立銀行と東亜銀行が合併してJFG(Japan Financial Group)銀行となり、その後の派閥争いや金融庁検査を経て、最後は東都光陵銀行に救済合併され「東都光陵JFG銀行」が成立する。 協立は三和、東亜は東海、東都光陵は東京三菱がモデルである。 JFGはいわずともかなUFJがモデルであり、旧:三和側行員が旧:東海側行員を冷遇する部分などを再現している。 小説 金融庁 - の。 五輪銀行と大東銀行が合併して発足した大東五輪銀行の不良債権処理のために金融庁の特別検査が行われ、遂には大東京四菱銀行に吸収合併されるという物語。 五輪は三和、大東は東海、大東京四菱は東京三菱がモデルである。 旧:五輪銀行と旧:大東銀行の派閥争い、それに端を発する内部告発、また合併で業績不振だった国内最大手スーパーのメインバンクとなる設定などが再現されている。 外部リンク [ ]•

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「責任ある機関投資家」の諸原則≪日本版スチュワードシップ・コード≫~投資と対話を通じて企業の持続的成長を促すために~(再改訂版)の確定について:金融庁

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数値は、後身の「」ウェブサイトに記載されているUFJ銀行財務諸表( 、 )によって記載した。 概要 [ ] 本店はにあった(旧:東海銀行本店)。 実質的な本社機能は大手町の UFJ東京ビル(現:三菱UFJ銀行大手町ビル)に設置された東京本部(旧:三和銀行東京本部)であった。 UFJは、 United Financial of Japan(ユナイテッド・フィナンシャル・オブ・ジャパン)の頭文字を取って名付けられた。 スローガンに「 こたえていくチカラ。 」を定めていた。 にに合併されて解散した。 以後の沿革などについてはを、三和銀行ならびに東海銀行の沿革などについては、・の各項目を参照。 しかし、両行の交渉が長引く中で、8月に 、 、 による3行の経営統合((みずほFG)の設置)、続く同年10月には三井財閥系の 、住友財閥系の の合併()が発表され、企業グループの枠を超え、急速に都銀上位行のへの再編が進む。 こうした金融再編に取り残されていたのは、破綻後は都銀下位行に甘んじたと、強烈な行風が倦厭されたであった。 再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ出身 であった「東海あさひ銀行」連合に急接近する。 東海あさひは、営業エリアが・に集中して規模的に中途半端となっていた為、地方銀行の他、大和銀行の参加を呼び掛けた。 しかし、2000年2月に名古屋市内で室町鐘緒三和銀行頭取と西垣覚東海銀行会長の会食を経て、大和銀行ではなく三和銀行を加えた「持株会社設立による経営統合」を2000年3月に発表した。 2000年4月より3行間でのATM利用手数料を自行扱いとする施策の実施や、同年中に三和銀行系列の金融各社で構成される「」へ、東海・あさひ両行の参入検討を図った。 その後、三和銀行は経営の迅速化を名目に三行を合併させて 三和東海あさひ銀行の発足構想を主張したために、経営主導権を三和に握られることを嫌った あさひ銀行 が2000年6月に構想より離脱。 結局、三和銀行・東海銀行の合併という形で決着した。 この経営統合から離脱したあさひ銀行は、2001年には処理による損失から注入のに対する中間配当が困難となり、経営危機が表面化する。 一方、東海あさひの経営統合参加を当初有力視されるも、三和の参入で破談となった大和銀行は、同年12月に親密地銀とを設立した。 2002年3月にあさひ銀行がその持株会社の傘下に入る形で経営統合を行った。 両行は5月の発生を予見出来ぬまま、前途多難な船出を強いられた。 UFJグループ発足 [ ] 2001年4月2日に上場企業であった ・・株式を、新設した へさせ、経営統合を行った。 ここからUFJ銀行の発足までのあいだは、UFJホールディングスの傘下に三和・東海・東洋信託銀行に入っていた。 また、この期間中に 三和銀行・東海銀行はシステム統合の準備をするため、2002年1月まで休日と年末年始を中心にシステムを休止させ、による明けの1月15日に合併し、 UFJ銀行が発足した。 合併時のシステム統合 [ ] 三和・東海銀行が合併した2002年(14年)1月15日に、両行の(三和が・東海が)を三和銀行系のシステムに統合している。 両行ともを窓口端末のベンダとしていたことから実現できた。 通常、銀行の合併に際しては当事銀行間の基幹システムをリレー方式で接続し、1 - 2年かけて統合するという流れを採用しているが、UFJ銀行は合併のシナジー効果を顧客にいち早く提供する主旨が有った。 これによって顧客は、三和・東海の別なく、統一された商品・サービスを享受出来たが、同月23日から同月末にかけて口座自動振替システムの障害が発生。 の二重引落が約18万件、引き落としが遅延されたり、引き落としがされないトラブルが175万件生じた。 後の同年4月に発生したのシステムトラブルと比較すれば、小規模なトラブルだったが、前例とされたUFJ銀行のトラブルを教訓にせず、合併とシステム稼働を見切り発車させた、は非難されることになる。 不良債権処理の遅れ [ ] 三和銀行時代から引き継がれた的営業スタイルの伝統、他行に比べ積極的な貸し出しの姿勢によって、2002年時点の4大メガバンクのなかでに次ぐ収益力の高さを誇っていた。 反面、三和・東海はそれぞれ・を地盤とする銀行であり、における基盤は他のメガバンクほど強くなかった。 また、財務体質は劣悪で経営再建問題で揺れる、・日商岩井(現:)、日本信販(現:)、、、、など構成企業やおよび、東海銀行の・藤和不動産( 現:)・に対しての過剰な貸付や焦げ付き、それらに対する貸倒引当損失不足が当初から懸念されており、比率はメガバンクでは最も高いとされた。 結果的に業務で利益が上がっていても損失引き当ての強化及びの処理に伴い利益をはるかに上回る巨額の赤字の計上する状態で、UFJ銀行は発足から消滅までの3年間に黒字を計上することはなかった。 特にダイエー向けの債権はUFJ銀行の発足前は東海銀行、三和銀行、富士銀行、がそれぞれ5000億円を超える融資額を横並びで貸し付けていたが、合併によって融資額が1兆円を超えて突出し、結果的にメインバンクとしての責任を背負い込むと共にその処理が経営の足を大きく引っ張ることになった。 2002年9月に金融担当大臣(経済財政担当大臣兼任)にが就任し、同年10月には大手行に対して2005年3月末までに不良債権残高を半減するように要請する「」が発表された。 これを受け、みずほFGが1兆円の増資を実現し、三井住友銀行が破格の条件でに優先株を発行し、さらにとのにより含み益を吐き出すなど、他のメガバンクは形振り構わず資本増強による不良債権処理を進めた。 しかし、会長だった寺西正司UFJ銀行頭取は「銀行はルールの中で経営されている。 をしていたのに、突然、だといわれても困る。 」と反発した。 この発言はのちに辿るUFJグループの行末を考えると、当時のUFJグループの経営陣にとっては非常に厳しい条件を突きつけられていたことを物語っている。 しかし、あさひ銀行が合流したは2003年3月期決算の会計上、自己資本比率の大幅な毀損が生じて「」へと陥り、自主経営を事実上断念する事態となった。 結果、日本の株式市場は後に株価は上昇に転じ、UFJHD株は結果的に株価上昇の先導役となって株安で抱えていた銀行の含み損はかなり解消した。 ただし、から業務改善命令を受けるなど経営の視野や選択肢が限られる状況であり現金資産が増えていたわけではなかった。 に対して約束した利益は1300億円程度であった。 派閥抗争 [ ] 当時のUFJ銀行内は三和銀行以来の派閥抗争に終始し、積極的な資本増強策を行っていなかった。 UFJ銀行は対等合併とは言われながらも、実際の行内の主導権は規模が旧:東海の1. 6倍あった旧:三和が主導権を握っていた。 また、前述の大口融資先には、こうした人事抗争に敗れた有力OBを天下りさせた経緯もあり、銀行側が事業再生に主体的にかかわることもできず、なれ合い関係が深まっていった。 こうした動きは、元々名古屋財界のメインバンクとして機能していた地元銀行を(在阪銀行であった三和により)事実上冷遇した事となり、名古屋財界から顰蹙を買ってしまう。 結果、東海3県における預貸シェアは低下し、多くの地元企業が地方銀行、信用金庫などに融資元を変更するに至り、これによる海外進出への弊害も発生した。 皮肉にもこの一件により、により、手薄となっていたへのの営業拡大を許してしまう遠因ともなった。 金融庁との対立と特別検査 [ ] (平成15年)10月に実施された『特別検査』では、多額の不良債権の処理不足が指摘された。 しかし、当局の指示通りに不良債権処理を行えば、UFJ銀行は巨額の赤字決算となり、これは公的資金注入行に対する「3割ルール」 により、経営陣が退陣することを意味し、必死の抵抗を試みた。 この検査時に、大口融資先の再建・処理は、頭取直轄の「戦略支援グループ」が担当していた。 実権を握っていたのは、グループ長の岡崎和美副頭取(卒)、その補佐で大蔵省接待汚職時にだった早川潜常務(卒)、稲葉誠之執行役員審査第五部長(慶應大卒)の3人である。 彼らは、大口先の審査資料として「楽観」「成り行き」「最悪」の3シナリオを用意し、どれを採用するかは、その協議で決めた。 その結果、「楽観」シナリオが採用され、債務者区分は「破綻懸念先」が格上げされることにより、不良債権処理損失は圧縮された。 また、「成り行き」「最悪」のシナリオは隠蔽され、さらに議事録も改竄し、金融当局と全面対決する道を選んだ。 岡崎らがここまで金融当局に強気に出たのは、過去における実績からであった。 旧:三和銀行は、事件や(別名:事件)等、過去の金融スキャンダルでは、常に自行に有利な事後処理を実現していた。 特に1998年(平成10年)の大蔵省接待汚職事件の際は、当時MOF担だった早川常務を中心にに積極的に情報提供し、自行から逮捕者を出さない目的は達成したものの、大蔵省金融検査部門よりノンキャリア検査官2名が逮捕、1名が自殺に追い込まれる結果となり、以来、金融当局から不興を買っていた。 また早川自身も、金融当局に対しては、かねてより反抗的であった。 こうした状況下での特別検査におけるUFJ銀行の金融当局に対する姿勢は、敵対派閥からと見られるにより前述の資料等の隠蔽・改竄が発覚するに及んで金融庁、特に現場の検査官の逆鱗に触れることになる。 また、2004年(平成16年)1月、が金融庁の特別検査が入っている実態が報道され計画されていた永久劣後債による4000億円にのぼる増資は取り止めになった。 さらに、2004年(平成16年)4月、今度はがの形で、UFJグループの不良債権に対する引き当てが不十分とされる報道がなされ、金融庁に約束した利益が未達となり、寺西らの経営トップの辞任の見通しを報じた(UFJショック)。 結局、2004年(平成16年)3月期決算では、不良債権処理のために損失引当の大幅な積み増しによって、約4000億円の赤字となった。 この2期連続のとなり、経営責任を取って、2004年(平成16年)5月に、頭取のは退任に追いこまれ、この検査忌避により、UFJ銀行は一部業務停止を含む金融庁の行政処分を受け、さらに、(平成16年)10月、法人としてのUFJ銀行と、岡崎元副頭取ら「戦略支援グループ」の元担当役員ら3人が、違反(検査忌避)容疑で、金融庁より刑事告発を受けた。 三和銀行の行風 [ ] 再編前、会長を輪番で担当する都銀大手6行(三和・東京三菱・第一勧業・さくら・住友・富士)の中で、三和銀行は唯一の業容が拡大した銀行であった。 このため、財閥系やを起源とする他行 に比べ優秀な新入行員確保に苦労した。 これらは、必然的にリクルーターを通じて内の繋がりが密接になり人事抗争に繋がっていく事になった。 他行はこれを「三和のDNA」と蔑称した。 また、2019年1月4日の朝日新聞の記事では、実力主義をかかげ、「野武士集団」と呼ばれていたことが触れられている。 特に頭取(卒)時代には企画・秘書・人事中枢部門に権限を集中させ、同時に一橋大・出身者、中でも中村明秘書室長(京都大卒)が重用された。 こうした経営の意思決定の迅速化は成果を出したものの、学閥を中心にした側近政治の弊害に対する内部に溜まった不満は1999年当時会長となった渡辺と佐伯尚孝頭取(卒)の主導権争いで爆発し、怪文書等の流布等陰惨を極めた。 結局両者が辞任し、中間派の(卒)が頭取に昇進したものの、2002年、UFJ銀行の発足を目前にして赤字決算の責任を取り退任した。 室町の後任は秘書室長経験者だった(卒)であった。 寺西は幹部層を岡崎副頭取、中村正人企画部門担当常務、末席の執行役員から抜擢した松本靖彦秘書室長(卒)ら阪大・慶大出身の側近で固める一方、対立派閥に属し三和銀行時代にを立ち上げるなどかつて頭取候補と言われた杉山淳二常務(東京大卒)をに転出させ 、また東海で合併を担当した藤田泰久常務(卒)に事実上退行を迫るなど 、より側近政治・派閥抗争を悪化させる。 前述の金融庁特別検査の結果、2004年5月に寺西頭取が退任。 沖原隆宗が取締役付きでないにも関わらず常務執行役員からいきなり頭取に就任するという異例の昇進をした。 この時沖原は「(2005年3月期の)上期中に大口融資先の対応について布石を打つ」「十指に満たない融資先の債権の処理を念頭に置いている」「UFJ銀行の問題は一言で言えば大口融資先の問題に尽きる」などと述べ不良債権処理の断行を示唆した。 しかし、人事面で見れば寺西と共に退任を余儀なくされた岡崎副頭取を会長へ、常務の中村を専務への転出 を決定、また松本秘書室長も常務執行役員に昇格させ、松本を筆頭に直属の部下である(秘書役、京都大卒)・企画部長・広報部次長のいわゆる「4人組」を側近に据えた。 こうした旧態依然たる人事施策は再び金融庁の逆鱗に触れ、これらの人事が撤回させられたばかりでなくUFJ消滅への遠因となった。 その後、すでに優秀な人材は流出していたUFJ内部は疲弊、派閥抗争の余裕すら失っていくこととなった。 このため、2004年に持株会社のはをへ3000億円で売却すると発表せざるを得なくなった。 しかし、この売却でようやく繰延税金資産の自己資本への組み入れが監査法人に認められて、2004年3月期の自己資本比率割れを何とか繕っている形であり、UFJの不良債権処理は体力的に難しい問題を抱えていた。 特に問題になった債権は 、で貸付の規模は1兆円を上回っていた。 この発表からわずか3日後の5月24日、UFJホールディングスの2004年3月期決算がUFJ信託銀行の売却でも埋められない大幅赤字となることが判明する。 この売却発表から2ヶ月も経たない7月14日、持株会社経営陣はUFJ信託銀行の住友信託銀行への売却を撤回と、 (MTFG)と(UFJHD)の 経営統合で大筋合意し、翌にと経営統合に向けての協議を開始すると発表した。 統合の時期は2005年度上半期を目標とし、2004年、2005年10月をメドにMTFGが(当時の仮称)へ商号変更のうえ、UFJHDは吸収される事に基本合意し、「」に行名を改める予定となった。 これに対して、住友信託側がに交渉差し止めを求める申請を行ない、東京地裁は2004年、当該仮処分申請を認める決定を下した。 UFJ側がこれに対し異議を申し立てるも、に却下された。 さらに、UFJ 側は即日にし、2004年、東京高裁は、地裁の決定を取消し、東京三菱とUFJの統合交渉を可とする決定を下した。 住友信託側は同日、に特別抗告を行ったが、最高裁は、高裁の判断を妥当とし、住友信託側の申請を退ける決定が確定した。 その後、住友信託側が売却の白紙撤回に対する民事訴訟に切り替えてUFJ側と争ったものの、に東京高裁の提案による住友信託に対して25億円の和解金を支払う事で和解が成立した。 三井住友FGによる経営統合の申入れ [ ] 2004年7月30日、電撃的に(SMFG)がUFJホールディングス(UFJHD)に対して経営統合の申入れを表明、8月24日に発表した「1:1」の合併比率はUFJにとっては破格の条件だった。 8月30日には、UFJに対する増資引受条件に関する提案を送付する。 2004年8月12日、MTFGとUFJが2005年10月までの経営統合で基本合意。 さらに、9月10日、それまで9月29日までに行うとしていたMTFGからUFJに対する増資を9月17日への前倒しする事を発表した。 2004年9月下旬、SMFGは、株主提案を行うために必要なUFJHD300株を取得、「委任状争奪戦」()を仕掛ける姿勢を鮮明にする。 2004年秋までには、SMFG側が大勢を覆すには至らないのは明白になっていくが、この動きが、三菱東京との交渉においてUFJ側に有利に働いたことは否定できない効果であった。 救済までの不良債権処理 [ ] この間、UFJは三菱東京との統合前に不良債権処理を進めていく。 特に、UFJグループのなかでもっとも問題とされたのは向けの債権だった。 当時のダイエーはの会長退任後、の指揮下で資産の売却や売り場の改善を進めていたがその売り上げは低迷凋落の一途をたどっていた。 高木は2002年3月に決まった再建計画の途中(期限は2005年2月)でメインバンクサイドの意向でに送られてしまうことに難色を示した。 また経済産業省もこれを支持していた。 しかしダイエーの決算の前提に金融機関の支援の不可欠とする監査法人の見解を受けて高木が翻意して再生機構へ送られることが決定した。 金融庁の懸念と合併延期 [ ] 年が明けた、三菱東京とUFJは正式に合併を決定し社名を「」とすることになった。 翌2月18日には合併比率を「1:0. 62」で最終合意 、4月20日、合併契約が正式調印、同年6月29日、それぞれの株主総会で合併が承認される。 なお、東京三菱銀行との合併について、持株会社や傘下の信託銀行・証券会社と同じく2005年10月1日を予定していたが、システム統合準備の遅れが金融庁より指摘され、8月12日、3ヶ月延期が発表された。 そして、2006年1月1日にUFJ銀行は、に事実上救済合併され、発足からわずか3年11カ月と15日余りで消滅した。 引当と経営統合の妥当性 [ ] 東京三菱との経営統合から1年後、三菱UFJフィナンシャル・グループ が2006年11月21日発表した2006年9月中間決算では、UFJグループ が過去に積んだ戻入益などが過去の累計で1兆円を超えた。 前述の金融庁の指導により旧:UFJが2004年度から一気に不良債権として処理を進めた大口債務者の一つが、この中間期に正常債権となり、多額の繰戻益につながったためである。 その内訳は、2005年度上期で約4000億円、同年下期にも、UFJの経営悪化で「評価性引当金」として簿外に計上していたを、5000億円近く資本として繰入れた。 2005年通期だけでUFJからの戻益は9000億円規模となり、2006年上期分を合わせて1兆円を超えたことになる。 もっとも、戻益の過半を占める繰延税金資産の計上は、経済環境の好転もさることながら、経営統合により収益性が増したために可能であったとの見方もあり、一概には言えない。 沿革 [ ]• (平成11年)- 東洋信託銀行と三和信託銀行が合併。 (平成13年) - 三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行が株式移転により株式会社UFJホールディングスを設立し、これら三行はUFJホールディングスの完全子会社となる。 同年7月、東洋信託銀行と東海信託銀行が合併。 (平成14年) - 三和銀行が東海銀行を合併し、株式会社ユーエフジェイ銀行となる。 (平成15年) - 個人顧客サービスの24時間営業化を図る「UFJ24」が開始。 「UFJちょっとコール」を「UFJ銀行コールセンター」に改称し、24時間有人対応を開始。 (平成17年)10月1日 - 三菱東京フィナンシャル・グループ MTFG が UFJホールディングス UFJHD を救済合併し、三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)となり、東京三菱銀行及びUFJ銀行は、MUFGの傘下に入る。 (平成18年) - 東京三菱銀行に合併、三菱東京UFJ銀行(Bank of Tokyo-Mitsubishi UFJ)が発足。 関連企業 [ ] 三和銀行 [ ] 「」を参照 関連会社• 三和システム開発(現:)• (現:)• (現:)• 東洋情報システム(現:)• 東洋興業• 東洋ホテル (現:大阪)• 東洋不動産• 東洋プロパティ• 洋伸不動産• 三信(東京都新宿区)• 大蔵屋• 東海銀行 [ ] 関連会社• (後:UFJニコス、現:)• セントラルリース(現:)• セントラルシステムズ(後:、現:)• (現:)• 新東昭不動産• 御幸ビルディング• (旧:)• ミックスキューブ• 中央倉庫• ブルーブルーエ• シナジーキャピタル• (旧:同和火災)• (現在の)• (現在の徳島大正銀行)• 旧:東海銀行関連 旧: さつき会構成企業• (2000年経営破綻)• 千代田火災海上保険 (現:)• ・グループ• の一部• (現:)• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 三和・東海時代には本店の営業窓口においても「本店営業部」と呼称したが、合併にあたり登記上本店を名古屋にあった元々の東海銀行本店としつつ、本社機能は事実上は三和銀行東京本部(サンワ東京ビル、後の三菱東京UFJ銀行大手町ビル)に置いたため、本店営業部と称する営業店を設けなかった。 三和の「本店営業部」「本店公務部」は、「大阪営業部」「大阪公務部」へ、東海の「本店営業部」「本店公務部」は、「名古屋営業部」「東海公務部」へと、それぞれ合併時に改称された。 いずれも三菱東京UFJ銀行の店舗として承継している。 尚、東京本部内には「東京営業部」があったが、これは合併前の三和店舗であり、東海の「東京営業部」(の東海朝日ビルに所在。 2006年にへ改称)は合併時に「東京中央営業部」と改称後、旧:三和・東京営業部に統合・閉鎖された。 さらに、東海の「東京公務部」は「虎ノ門公務部」に改称後、三和の「東京公務部」に統合されたが、その跡地に統合後の東京公務部が設置された。 なお、2001年3月31日に開業したユニバーサル・スタジオ・ジャパン(通称:USJ)のパーク内には、2001年3月31日から2002年1月14日までの間、UFJ銀行の前身でありUFJホールディングス傘下の三和銀行がATMコーナーを設置していた関係で、UFJ銀行大阪営業部が「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン出張所」として、UFJ銀行のATMコーナーを設置していた。 前半に富士銀行との合併も検討されたが、この時はの許可が出ず決裂となった。 また、1998年には東京三菱銀行との合併交渉もあったが、東京三菱側が合併間もないこともあり、雲散霧消した。 しかし、この事が後の救済合併の伏線になる。 当時、3行の首脳であった三和銀行頭取、西垣覚東海銀行会長、あさひ銀行頭取は、ともに名古屋大学出身であった。 この背景には、あさひ行内で主導権を握りつつあった旧:出身者及び埼玉財界の意向が働いた。 後年に救済合併相手となるも、同日に東京三菱銀行・三菱信託銀行らの株式移転によって発足している。 金融庁に提出した経営計画の目標数値が2期連続して3割以上下回った場合、その経営責任を問うというもの。 2005年4月、一審・東京地裁は岡崎元副頭取に10月・3年、早川・稲葉元役員に懲役8月・執行猶予3年、法人としてのUFJ銀行に罰金9000万円とする判決を言い渡した。 3名とUFJ銀行は控訴せず判決は確定した。 東京三菱・さくら(とが合併)・住友・富士(旧:安田)は旧財閥系であり、第一勧銀(とが合併)は前身の第一が1873年8月1日に営業開始した日本初の商業銀行で、勧銀は旧特殊銀行である。 後にアプラスの親会社となったの副会長に転出、後に同社会長。 新生銀行の会長就任後にアプラス会長も兼任していたが、2008年6月にいずれも退任している。 その後藤田は2007年6月より社長に就任。 後ににとして迎えられ、副社長に就任。 現在は退任。 前日8月23日の株価を基準にすれば、MTFG:UFJは「1:0. 48」、SMFG:UFJは「1:0. 78」だった。 余談だがUFJ(United Financial of Japan)のFは「フィナンシャル」であるため「」は「Mitsubishi United Financial of Japan Financial Group」となってしまった。 当初は持株会社を意味する「ホールディングス」を用い「三菱」となる予定だった。 直近の時価比率は「1:0. 6弱」で推移していた。 合併による新行名は、合併の主導権をとった「三菱」と、国際業務における周知行名である「」、事実上の救済合併となった「UFJ」の順に並べて、 「」となり、「UFJ」の呼称は消滅しなかった。 東洋信託の関連会社• 2004年に連結子会社化し、を吸収合併。 前身の泉州銀行は子会社としていた。 2007年に・と資本提携しグループ離脱。 と親密であるがの設立に協力。 2行に次ぐ最多の融資をしていた。 準主力行であったが破綻時点で457億円を融資していた。 ()と親密。 三井住友銀行(住銀)と親密。 の中核企業であり、にも属する。 ()と親密。 と親密。 戦後の時点で既に日立製作所のグループ外企業。 旧:はと親密。 三和銀と合弁で設立。 同行が第3位の大株主となっている。 三和銀行・東洋信託銀行とによって設立。 2004年にへ持株売却し離脱。 2004年にへ持株売却し離脱。 と三和銀行を主体に設立。 MUFG発足後はと親密。 発足により構成企業へ。 あいおい損害保険発足時にへ軸足を移す。 東海証券として設立。 2006年にと資本提携し東海色が薄まる。 (旧:)に次ぐ準主力行。 三井住友銀行(旧:さくら銀行)とも親密。 の完全子会社化に伴い関係色が薄まる。 (旧:)・に次ぐ準主力行。 同行が第7位の大株主となっている。 2006年3月31日のによると第4位の大株主となっている。 また、同行の親会社であるから大量保有報告書が提出されている。 同行が第9位の大株主となっているほか、が第2位の大株主となっている。 出典 [ ]• 朝日新聞. 2019年1月4日閲覧。 関連項目 [ ]• - システム統合後の旧:UFJ銀行の基幹システムを引きとる。 - の。 完結編である「消失 金融腐蝕列島・完結編」で、協立銀行と東亜銀行が合併してJFG(Japan Financial Group)銀行となり、その後の派閥争いや金融庁検査を経て、最後は東都光陵銀行に救済合併され「東都光陵JFG銀行」が成立する。 協立は三和、東亜は東海、東都光陵は東京三菱がモデルである。 JFGはいわずともかなUFJがモデルであり、旧:三和側行員が旧:東海側行員を冷遇する部分などを再現している。 小説 金融庁 - の。 五輪銀行と大東銀行が合併して発足した大東五輪銀行の不良債権処理のために金融庁の特別検査が行われ、遂には大東京四菱銀行に吸収合併されるという物語。 五輪は三和、大東は東海、大東京四菱は東京三菱がモデルである。 旧:五輪銀行と旧:大東銀行の派閥争い、それに端を発する内部告発、また合併で業績不振だった国内最大手スーパーのメインバンクとなる設定などが再現されている。 外部リンク [ ]•

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