経過 [ ] 水上艦艇による突入案 [ ] をさせて砲台として用いるという発想は、(昭和18年)12月中旬の時点で大本営海軍部()と(司令長官海軍大将、参謀長海軍中将)の間で俎上にのっていた。 (昭和19年)2月頃より、日本海軍ではと海軍大臣の更迭()および終戦工作への動きが本格的にはじまっていた。 海軍側では、海軍大将(当時の内閣総理大臣)が積極的に動いていた。 戦局がますます不利になる中、海軍省教育局第一課長である大佐も少将の依頼を受け、海軍中央の課長級に東條・嶋田体制打倒の流れをひろげることになった。 同年6月中旬、連合軍はに来襲して上陸作戦を開始()、日本軍は あ号作戦を発動する。 6月19日から20日にかけてので日本海軍機動部隊(司令長官:中将)は惨敗。 その頃、日本海軍はの打倒と嶋田繁太郎海軍大臣の更迭を巡って紛糾していた。 と(天皇弟宮、軍令部大佐)の間でも、今後の方針について激論になる。 高松宮は密かに海軍大将を首相にする動きをすすめていた。 同時期の神は高木とともに東條英機首相の暗殺計画を具体的に計画しており、この動きは岡田や高松宮宣仁親王も知っていた。 一方、神は戦艦・巡洋艦による突入作戦を具申したこともあった。 神自身は、扶桑型戦艦もしくは長門型戦艦艦長を希望する。 そのときは軍令部作戦部長である少将に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下された。 神は岡田(当時、岡田は東條内閣打倒運動実施中)を訪問し「サイパンを取られてはおしまいだ(によるがはじまるため)。 海軍がいつまでも大和・武蔵のような大艦を保存していてもしようがない。 護衛機があればサイパンまで近接できる。 せめていまサイパンを守りおおせば、しばらくゆとりが出来て、その間の作戦を練ることができる」と主張し、軍令部へのとりつぎを依頼した。 大本営海軍部(軍令部)はサイパン島奪還作戦を具体的に検討し、「海軍は特攻隊の考え方でやる」という方針で決死の思いであったという。 「サイパンをとられて(本土空襲がはじまれば)、大和と武蔵を残して何になる」という神や 、大本営の熱意に対し、連合艦隊はサイパン島奪還作戦に消極的だった。 6月下旬、サイパン島奪還作戦は中止。 神は高木にサイパン島奪還作戦との突入が水泡に帰った無念を訴え「嶋田繁太郎軍令部総長と軍令部次長に決断が出来ないのは終生の恨みだ」「たとえ失敗しても、大和と武蔵を惜しんで後でどこに使い道があるというのか」「その代わり海軍はこれでお終いですが」「(仮にサイパン島奪還が成功しても)得られる時間的余裕は六ヶ月」と発言している。 7月17日、嶋田繁太郎海軍大臣・軍令部総長は海軍大臣職を大将に譲る。 翌7月18日に東條内閣は総辞職に追い込まれ 、7月22日に(内閣総理大臣・外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣など)が成立した。 米内は野村を軍事参議官に、中将を海軍次官に、中将を軍務局長に任命した。 軍令部総長も8月2日より大将(元海軍大臣)となった。 7月13日附で海軍省から連合艦隊参謀に転じた神は 、その後も水上艦艇による突入作戦を立案した。 なお水上艦艇による突入作戦は、軍令部・連合艦隊・第一機動艦隊が7月下旬に実施検討した図上演習でも 、たびたび実施されている。 における(司令長官:中将)による水上艦艇突入案(戦艦の砲力と巡洋艦の魚雷戦を活用)と空母囮案は、第一機動艦隊(司令長官:小沢)から出された。 第一機動艦隊の水上艦艇突入作戦案に海上護衛総司令部参謀が反対意見をのべたが、第一機動艦隊は「第二艦隊の水上突入作戦が必要である」と反論した。 第二艦隊の水上突入作戦は(目標を敵艦隊とするか輸送船団にするかで見解の相違があったにせよ) 、軍令部・連合艦隊・機動部隊の一致した次期作戦指導方針であった。 昭和19年12月中旬、連合艦隊参謀長中将と連合艦隊参謀の神は、日本陸軍のを強硬に主張する。 これに呼応して・(司令官:少将)によるが実施された。 第二艦隊の再編 [ ] 末期、はすでに主力艦艇の多くを喪失していた。 戦艦大和以下、生き残った主力艦艇や空母を中心とした新造艦艇の多くは燃料不足のため行動することができず、(・)後に南西方面から内地へ帰投した後は 、などに繋がれていた。 ・といった特攻兵器の生産が優先され、大型軍艦の修理は後回しにされた。 この方針に対し伊藤は戦艦の修理を要請して井上と対立した。 結果的に伊藤の要望が通り大和とは呉工廠で、は横須賀で修理することが決定した。 (昭和20年)1月1日の戦時編制改訂で日本海軍は第二艦隊を再編し、第一戦隊を大和・長門・榛名で編成、第一航空戦隊を第二艦隊に編入した。 その後、軍令部は燃料がなくなった戦艦を浮砲台として軍港に繋ぐ予定だったが、連合艦隊は2月初旬に、第二艦隊を特攻に使用したい意向を明らかにした。 連合艦隊の意向に対し、第二艦隊参謀長少将は「第二艦隊ノ戦艦ニテ牽制出来ルカ」、「第二艦隊ハ出ル前ニ敵機動部隊ニ叩カレヤシナイカ」などと発言した。 いずれにせよ作戦方針は大本営海軍部(軍令部)・連合艦隊間で決定し、及川は2月8日に昭和天皇へ作戦方針を奏上、2月10日附で戦時編制を改訂した。 第二艦隊(第一航空戦隊〈大和、、、、〉・第二水雷戦隊〈矢矧、第7駆逐隊、第17駆逐隊、第21駆逐隊、第41駆逐隊〉)は 、水上特攻作戦のために残された。 は艦上機を搭載せず、囮艦として大和に随伴する予定だった。 3月15日、第二艦隊に(司令官:少将、旗艦:)が編入される。 4月1日、第二艦隊に第十一水雷戦隊(司令官:少将、旗艦:)が編入された。 沖縄戦開始 [ ] 3月17日、連合艦隊はGF電令作第564号にて大和を含めた第一遊撃部隊に出撃準備を命じ 、 「航空攻撃有利なる場合、1YBは特令により出撃し敵攻略部隊を撃滅す。 本作戦を天一号作戦と呼称す」 を告げた。 3月19日、米軍機動部隊艦上機によるで、呉地区では軽巡など在泊艦艇が被害を受けた。 3月末、アメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合軍は日本本土への上陸に向けた最終段階として方面への進攻作戦を開始し、大艦隊が沖に集結した。 これに対して日本軍は防衛のため第六航空軍(日本陸軍航空部隊)を連合艦隊司令長官の指揮下に入れた。 つづいて3月25日に警戒を発令した。 翌、米軍はに上陸を開始 、日本軍は天号作戦を発動した。 作戦であるに呼応する形で、海軍艦艇の東シナ海への出撃を検討する。 ただし、菊水一号作戦は航空戦である。 同26日、第二艦隊の稼働艦艇全力(大和、第二水雷戦隊、第三十一戦隊、第十一水雷戦隊)に対し連合艦隊はGF電令作第581号・583号にて、佐世保への回航と同港前進待機が指示される。 第二艦隊(第一遊撃部隊)を佐世保に進出させ、敵機動部隊を誘致するとともに、航空作戦が有利になれば「攻略船団撃滅を目指す作戦を容易にする」という意図があった。 連合艦隊作戦参謀である中佐は「佐世保に大和がいることでアメリカ軍の脅威となり、アメリカ軍機動部隊が大和を目標として北上して来る。 そこを基地航空隊が叩く作戦」と証言している。 これに対し第五航空艦隊長官である中将は「小細工が通用するはずもなく笑止千万。 内海待機が適当」と残している。 第一遊撃部隊では、対潜・対空・回避運動の観点から、連合艦隊の作戦案に容易に賛成しなかった。 は呉防備戦隊に対し、隷下部隊をもって豊後水道を通過する第一遊撃部隊の対潜直衛及び同海域の前路哨戒・対潜哨戒をおこなうよう命じた。 佐伯空の哨戒機、佐伯防第二掃蕩隊、第三特別掃蕩隊(第59号、第65号海防艦、男鹿、目斗)、の海防艦2隻(、第33号)が出撃して哨戒と掃蕩を開始した。 3月27日深夜から3月28日未明にかけて、は下関海峡にを投下した。 同28日午前9時30分、大和で各駆逐戦隊指揮官や艦長が作戦打ち合わせを行う。 同28日、連合艦隊はGF電令作第589号で佐世保回航兵力から「第二水雷戦隊、第三十一戦隊の兵力から一部欠」と改めた。 豊後水道は前日の27日に呉防備戦隊や佐伯航空隊などによる航路確保のための掃討作戦がおこなわれ、航行が可能であった。 午前10時30分頃、対潜哨戒機が豊後水道で敵潜水艦を発見、海防艦等が共同で撃沈した。 この潜水艦は USS Trigger, SS-237 であった。 同28日午後5時30分、第一遊撃部隊は呉軍港を出港し佐世保へ向った。 呉出港時、全ての在艦艦艇が第二艦隊に対して汽笛と「総員帽振れ」で見送ったという。 佐世保までの航路は、アメリカ軍機動部隊の誘引も考慮して経由が選択された。 下関海峡は水深10mのため大和が座礁する可能性があり、またアメリカ軍の機雷に触れる可能性も考慮して選択されなかった。 しかし出航と同じ頃、アメリカ軍機動部隊が南九州に接近し航空攻撃を加えてきた。 この報告を受けて連合艦隊の命令により佐世保回航は延期とされ(GF電令作第590号)、周防灘で待機となる。 豊後水道南部付近では、米艦載機約70が呉防備戦隊の掃蕩隊を襲撃し、御蔵 と第33号海防艦および特設艦艇2隻が沈没、8隻が損傷する大損害を受けた。 30日、B-29が再び下関海峡に機雷を敷設した。 また呉軍港と広島湾も機雷で埋め尽くされ、呉に帰還することも困難となった。 第二艦隊は宙に浮いた形となった。 3月29日、榛名の航海長を勤めていた茂木史朗中佐が新任航海長として大和に着任した。 前任者の津田弘明大佐は普通半日で終わる引継ぎを一週間かけて行った。 この点では大和艦長の大佐、矢矧艦長の大佐も1944年12月の着任で、その後も燃料不足やドック入りのため満足な訓練ができず乗艦の操艦に熟練していなかった。 午後5時26分、大和以下の艦隊とともに移動中の駆逐艦が周防灘で触雷し脱落、朝霜 に曳航されて呉に向かう。 その後、響が自力航行可能となったため、朝霜は曳航を中止して第二艦隊に合流した。 、連合軍は沖縄本島への上陸を開始した。 これに対する日本軍の菊水作戦の発動はと決定された。 現地作戦指導のため、連合艦隊の参謀(草鹿〈参謀長〉・〈航空〉・三上〈作戦〉)はに出張した。 沖縄の日本陸軍やは持久作戦を主張、内地のや連合艦隊司令部は航空特攻や海上特攻を含めた総攻撃を主張し、日本軍の作戦方針は統一されていなかった。 、昭和天皇は参謀総長である大将に対し沖縄方面戦況を憂慮、現地軍が攻勢に出ない理由を尋ね、 逆上陸(敵の上陸地点に、海上より強襲揚陸を敢行すること)を提案する。 大本営陸軍部作戦部長陸軍中将は、この経緯を以下のように記録している。 四月四日 五日 総長 上奏ノ際ノ御下問 一、沖縄作戦ニ関シテハ多大ノ御宸念ニシテ「此カ不利ナレハ陸海軍ハ国民ノ信頼ヲ失ヒ今後ノ戦局憂フヘキモノアリ 現地軍ハ何故攻勢ニ出ヌカ 兵力足ラサレハ逆上陸モヤッテドウカ」 一、御期待大ナル趣旨、御宸念ノ報 天号関係各部隊ニ発電ス 「ビルマ」作戦ニ関シテハ大体御安神ノ模様 一、総長ハ陛下ノ御心ヲ、吾人ハ総長ノ心ヲ心トシテ御奉公スルコトカ第一ナリ 此点五十ノ齢ヲ越エテ尚且大ニ反省ヲ要スルヲ自覚ス 一、 ノ行動 敵軍上陸開始以来甚シク消極自己生存ヲ第一義トスルヤノ疑アリ 依テ若キ連中モ此点ヲ考慮シ二月頃以来論議アリ 三日午前之カ指導ニ関シ発電案ヲ齎ス予ハ不同意ヲ表ス 午後総長ヨリ此点ニ関シ所要ノ指導ヲ要ストノ意見アリ依テ夕刻之カ意見ヲ発電準備セシ処其機ヲ失シ保留ス 翌四日朝ノ参謀来リ 聯合艦隊ノ沖縄周辺ニ対スル攻撃ノ企図ヲ通達ス 依テ昨夜来ノ経緯モアリ 此旨ヲ述ヘ且球ハ此航空攻撃ト連携シ勉メテ積極的行動ニ出スヘキ次長電ヲ発シタル所 夜半ハ作命ヲ以テ攻撃ヲ令シ之ト前後シ球ハ自発的ニ七日夜全力ヲ挙ケテ攻撃ノ決意ヲ打電シ来ル 然ル処更ニ之ヲ躊躇スルノ報アリ 総長モ此点憂慮セシ処 五日夕ニ至リ更ニ台ハ球ニグズグズ云ハズ総攻撃ヲ命シ 決行ヲ八日夜ト命ス 尚之ヨリ先ハ右ノ球ノ総攻撃ノ決意ヲ知リ之ヲ徹底スル為ニ対シ沖縄突撃ヲ命シ 且敵機動部隊内艦艇次テ運送船ノ攻撃ヲ令ス 此間短時間ニ数次ノ経緯アリ 余リ香シカラサル事モ在リ 中将モ真ニ攻撃精神旺盛ナル軍人トハ申シ難シ、余リ口ニ強キハ実ハ必スシモ然ラストノ原理ヲ実証ス(以下略) 一方、第二水雷戦隊司令部はアメリカ軍の優勢を認めた上で、3つの選択肢を検討した。 航空作戦、地上作戦の展開に関わらず沖縄に突入し、最後の海戦を実施する。 目的地到達前に壊滅必至。 好機到来迄極力日本海朝鮮南部方面に避退温存す。 陸揚可能兵器弾薬人員を揚陸、陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とす。 第二水雷戦隊は第3案を「最も有利なる案」として4月3日、第二艦隊司令部に意見具申する。 第二艦隊司令部は賛同の上で連合艦隊司令部に伝達した。 ところが伊藤は連合艦隊が航空部隊に総攻撃の準備命令が出されたことを知って意見具申を取りやめた。 海上特攻隊突入計画 [ ] 連合艦隊司令部では、沖縄戦以前から神重徳連合艦隊首席参謀が海上特攻の実施を主張していた。 神は、つねづね局地戦に大型艦をうまく使えるとの信念をもち、沖縄上陸戦の攻防にも参加させるべきと意見を抱いていた。 沖縄戦における海上特攻作戦は、4月3日の航空総攻撃決定を受けて、の連合艦隊司令部()で決定した。 連合艦隊司令長官である大将は「大和を有効に使う方法として計画。 成功率は半分もなし。 うまくいったら奇跡。 しかしまだ働けるものを使わず残しては、現地将兵を見殺しにする。 だが勝ち目のない作戦で大きな犠牲を払うのも大変苦痛。 しかし多少の成功の算あれば、できることはなんでもやらねばならぬ」という気持ちで決定したと回想している。 神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長である少将は反対であった。 富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。 大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。 第一燃料がない。 本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。 ところが私の知らないところで、燃料は片道でもよいということで、軍令部次長のところで承知したらしい」と話している。 神の提案を及川軍令部総長は黙って聞いていたが、小沢は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。 戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。 多少の成算はあった。 次長たりし僕に一番の責任あり」という。 沖縄突入という具体案は、草鹿が鹿屋に出かけている間に神が計画したものであった。 神の戦艦(大和)突入計画に対し、草鹿は機会を見る必要があるとなだめていた。 当時、連合艦隊は神奈川県横浜市のにあり、草鹿は沖縄戦指導のため九州に出張中であった。 そこへ神が草鹿宛に電話をかけ、応対に出た三上に対し、第一遊撃部隊による沖縄突入作戦決定を伝えた。 神は草鹿を通さずに豊田に直接決裁をもらってから「参謀長、意見はどうですか?」と電話で話したので、草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。 日吉と鹿屋の間ではげしい議論になったとき、神は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」ということを強調していた。 淵田(草鹿とともに九州出張中)も「神参謀が発意し直接長官に採決を得たもの。 連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という(昭和24年4月22日、マッカーサー司令部歴史課係官の質問に対し)。 淵田の意見に対し、三上(草鹿とともに九州出張中)は「当時の連合艦隊司令部の空気などから考えて、神参謀の発意だけで、作戦が採用されるはずなし。 水上部隊をも挙げて総攻撃をおこなうならこういう方法しかない…と提案したのが神参謀であったかもしれない」と回想している。 神は第二艦隊参謀として大和に乗艦することを希望したが、参謀副長少将は却下した。 神が三上に語ったこの作戦決定の理由は、以下のとおり。 、昭和天皇に対し及川が沖縄方面のアメリカ軍に対し特攻作戦を行うことを奏上した。 これに対し昭和天皇は、「総攻撃は航空部隊だけか。 海軍にはもう艦がないのか。 海上部隊はないのか」と(三上によれば一般的な)質問を行い、それに対して「海軍の全力を投じて作戦を行う」と及川が答えたことが決定の理由だという。 このやりとりは宇垣(九州航空基地所在)の『』4月7日の大和沈没時の日記で述べられているが、戦後の小沢は「宇垣は田舎にいてよくそんなことがわかるね」と評している。 なお、三上によれば昭和天皇の「お言葉」は梅津への直言か、神が自分で付け加えた言葉かも定かでないという。 数日後、昭和天皇は沖縄方面への逆上陸作戦を提案することになった。 神は草鹿に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は「大和」の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤に作戦命令の伝達と説得を行った。 なかなか納得しない伊藤に草鹿は「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤は「そうか、それならわかった」と即座に納得した(三上の回想による)。 この作戦は、大和以下の艦隊を沖縄本島に突入させて艦をさせたうえでとして砲撃を行い 、弾薬が底をついた後は乗員がとして敵部隊へ突撃をかけるという生還を期さない特攻作戦であった 、伊藤は以下の命令を受けた。 「【電令作603号】 発信時刻13時59分 第一遊撃部隊(大和、二水戦〈矢矧及駆逐艦六隻〉ハ海上特攻隊トシテ八日黎明沖縄ニ突入ヲ目途トシ、急遽出撃準備ヲ完成スベシ。 部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。 の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。 海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ」• 「【電令作607号】 発信時刻15時 海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。 陸軍第十方面軍第三十二軍もこれに呼応し攻撃を実施す。 7日黎明時豊後水道出撃。 8日黎明沖縄西方海面に突入せよ」• 「【電令作611号】 発信時刻15時 一 帝国海軍部隊及第六航空軍ハX日 六日以後 全力ヲ挙ゲテ沖縄周辺艦船ヲ攻撃撃滅セントス 二 陸軍第八飛行師団ハ右ニ協力攻撃ヲ実施ス 第三十二軍ハ七日ヨリ総攻撃ヲ開始 敵陸上部隊ノ掃滅ヲ企図ス 三 海上特攻隊ハH日黎明豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇竝ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ Y日ヲ八日トス アメリカ軍の制空権下における航空機の援護のない水上部隊の特攻を、当初から悲観していたものもいた。 沖縄第三十二軍司令官である中将は、海上特攻実行と陸軍総攻撃を求める機密電報を投げ捨てたという。 米内海軍大臣は神に対し「成功したら奇蹟だ」と述べる。 これに対する神の答えは「戦わずに沈められるより、戦って沈んだ方が良い」であった。 大和に華々しい最後を飾らせたいという考えは、神だけでなく、海軍首脳の誰もが抱いていた可能性も指摘される。 たとえば宇垣は作戦そのものには反対しつつも「(沖縄日本陸軍が総攻撃を行うので)決戦ならば之もよからん」と諦めており 、草鹿も「いずれその最期を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所に」と述べている。 高田も「大和を特攻に使わないで戦争に負けたら、次の日本は作れない」と考え、神の提案に内心では賛成だったという。 能村次郎(当時、大和副長)によれば、午後の日課中に有賀艦長から特攻出撃命令書を受け取り 、すぐに当直配置員を除く全乗組員2,500名を大和前部一番主砲塔付近に整列させて特攻出撃を伝達した。 海上特攻は否応なしの至上命令であったという。 そして、第二艦隊に配属されたばかりの士官候補生や老兵・傷病兵を退艦させる。 特に第七十四期士官候補生達(大和49名、矢矧28名)は4月3日夕刻に大和や矢矧に乗艦したばかりで 、空母やにうつされた (4月10日、12日附で正式に転勤発令)。 夜、酒保が開かれて宴会が行われ、有賀も酒宴に加わった。 若手士官の居室で著『』で描かれるような出来事があったかどうかについて、生還した士官達の証言は定まっていない。 伊藤は妻子に向け手紙を書いていた。 伊藤の息子は航空機搭乗員として特攻が予定されており、伊藤は副官に「息子は特攻だ。 もう生きていても良いことがない」と語ったことがある。 大和とは別地点に停泊していた軽巡洋艦では、水上特攻命令受領を受けて第二水雷戦隊隷下の駆逐隊司令や駆逐艦長が集まり、二水戦司令官少将のもとで会議が開かれた。 全員が驚き、駆逐艦初霜の酒匂雅三艦長は「豊田副武連合艦隊司令長官がなぜ陣頭指揮をしないのか」と批判したという。 他の駆逐隊司令や艦長も同意見であったが、大和での第二艦隊司令部作戦会議では伊藤が「この命令は我々に死所を与えたものである。 死んでこいということである」と発言し、第二水雷戦隊各艦も命令に従い出撃準備に着手した。 この後、各艦で酒宴が開かれた。 司令や艦長達は矢矧の司令官公室で酒宴を開いた。 駆逐艦長達は厳しい戦いを覚悟しつつ「自分の艦は大丈夫」という雰囲気があったという。 4月6日午前6時、矢矧以下の第二水雷戦隊が徳山沖停泊中の大和に合流した。 当初、中央からの指示により第一遊撃部隊の搭載燃料は片道分のみ(2,000トン)を搭載予定となっていた。 だが「人が死ににゆくのに腹一杯食わさんでどうする」と各艦長が抗議 、連合艦隊護衛総隊割り当て分の一部及び基地補給班が員数を集め、呉鎮守府や呉軍需部長である島田藤治郎少将に掛け合い 、第二艦隊全ての艦艇の燃料を確保した。 徳山にある燃料タンクの底に残っていた帳簿外の重油までもかき集めたという。 また出撃しない駆逐艦から燃料と弾薬を出撃艦艇に移譲している。 各艦に補給された燃料は満タンの量ではなかったが、巡航速度であれば沖縄本島と呉との間を4往復はできるだけの量はあったという説もある [ ]。 詳細は、大和4,000トン、矢矧1,250トン、冬月900トン(佐世保到着時残量650トン)、涼月900トン(400トン)、磯風599トン、浜風599トン、雪風588トン(170トン)、朝霜599トン、霞540トン、初霜500トン(300トン)。 満州の大豆からとった油が混ざっているので馬力が2割下がったという雪風機関長の異説もある。 海上護衛総司令部参謀である大佐によれば、大和と第二水雷戦隊のために輸送船の護衛艦の燃料割り当てが割かれたという。 初霜艦長である酒匂は「燃料を満タンにしてくれたおかげで回避行動ができた」と回想している。 なお、連合艦隊機関参謀である小林は「予定どおりの燃料(片道分)を補給した」と報告したので、大本営海軍部(軍令部)と連合艦隊司令部は「第一遊撃部隊は片道燃料で出撃した」と思っていた。 陸軍第三十二軍司令官中将は、沖縄方面の制空権の状況から「ご厚志は感謝するが、時期尚早と考察するので、海上特攻の出撃は取止められたし」と電報した。 日本側はアメリカ軍の機動部隊が沖縄東方に存在することを前提に計画を立てていた。 7日早朝を通過し、沖縄突入は8日黎明を予定。 アメリカ機動部隊出現の場合は一旦計画を中止して北上し、基地航空兵力の特攻作戦成果を待って反転突入を企図した。 日本海軍の計画について古村は「出撃時期と到着時期を固定してただ走れば、途中の壊滅は必至である」と回想した。 アメリカ海軍の対応 [ ] アメリカ海軍は、「マジック」極東情報が行った日本軍の暗号電報の傍受と解読と、(B-29の偵察機型)の空中偵察により大和出撃についてほぼ全容を把握していた。 4月3日菊水一号作戦発動を天信電令作第39号の解読により察知し、4月4日のGF電令作第601号電番などにより突入の日が6日であること、4月5日には「第一遊撃部隊が6日に徳山で燃料を補給すべし」との連合艦隊司令長官の指令を、4月6日には天一号作戦部隊発の沖縄特別根拠地隊宛のGF電令作第607号電番解読により第二遊撃部隊が海上特攻隊であること、さらにGF電令作第611号電番により大和以下8隻の駆逐艦と矢矧であることを、そして、あらかじめ6日夕刻ごろに艦隊が豊後水道を出撃せよとの連合艦隊の命令まで解読しており、潜水艦に「敵艦隊が被害を受けて引き返すことのないよう」魚雷発射を禁止して、哨戒配置につかせていた。 また、F13(偵察型のB29)による偵察で、午前9時30分に呉西方を行動中の駆逐艦6隻と大型艦の行動を捕捉し、6日の日没後にはついに豊後水道通過時に艦隊はアメリカ潜水艦SS295「」がレーダーにより発見して追跡、しばらくの間接触を保つことができた。 これによりアメリカ艦隊は、暗号情報が正しいことを確認できた。 詳細は「」を参照 4月6日、大規模な神風攻撃「」が行われ、これを見たスプルーアンス大将は、神風攻撃に呼応して水上部隊も出撃してくるだろうと推測した。 スプルーアンス大将は潜水艦と航空機による哨戒を厳重にするよう命じる。 この4月6日午後、から「光輝アル海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘントスル」が出撃する。 上述のようにデヨと同期換算の伊藤整一中将に率いられた第二艦隊は戦艦大和と(司令官少将)で構成され一路沖縄を目指すが、通過後に2隻のアメリカ潜水艦 USS Threadfin, SS-410 と USS Hackleback, SS-295 から相次いで発見され、情報はスプルーアンス大将の下に集められる。 はたしてスプルーアンス大将の予測は的中し、4月7日未明にデヨを呼び出して水上戦闘の準備を行うよう命令を発した。 同時に、艦隊には航空部隊も連ねていると推測したスプルーアンス大将は、司令官中将に対しても、空からの脅威に対処するよう命じた。 スプルーアンス大将は一つの夢を見ていた。 しばらくは陸上砲撃という任務しか与えられなかった指揮下の戦艦に、艦隊決戦を実施させる最後の機会を与えたかった。 幕僚の中には大和を恐れる者もいたが、第54任務部隊の数的優勢をもってすれば撃破はたやすいとも考えられていた。 機動部隊指揮官である中将は、戦艦に対する航空機の優位性を証明できる最良の機会として闘志を燃やし 、機動部隊に「空からの脅威に対処するよう」という命令が出ていたため、三個の空母部隊を大和への攻撃が可能な九州より最も遠い海域に集結させた。 日本の艦隊出撃 [ ] 4月5日、呉防備戦隊の対潜掃蕩部隊が再び豊後水道方面に出撃した。 日本陸海軍は、4月6 - 7日にかけて300機近くの特攻機を投入した。 飛行技術の練度不足や興奮などの諸条件により小型艦艇を目標にした特攻機が多く 、駆逐艦2隻、掃海艇1隻、揚陸艇1隻、貨物船2隻撃沈・駆逐艦8隻がなんらかの損傷を受けた。 沖縄の第三十二軍は撃沈(戦艦2・艦種不詳2・大型3・小型2)・撃破(戦艦1・炎上駆逐艦1・輸送船6・小型2・艦種不詳9)を報告した。 東京のラジオは、アメリカ軍戦艦2隻・巡洋艦3隻・小型艦船57隻撃沈、アメリカ軍空母5隻を含む61隻を撃破したと報じた。 第五航空艦隊司令官は特攻出撃が充分な戦果をあげたと判断している。 4月6日、連合艦隊長官は第二艦隊に対し 「帝国海軍部隊は陸軍と協力、空海陸の全力を挙げて沖縄島周辺の敵艦隊に対する総攻撃を決行せんとす。 皇国の興廃は正に此の一撃に在り、 茲 ( ここ )に特に海上特攻隊を編成壮烈無比の突入作戦を命じたるは帝国海軍力を此の一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚すると共に其の栄光を 後昆 ( こうこん )に伝へんとするに外ならず、各隊は其の特攻隊たると否とを問わず 愈々 ( いよいよ )殊死奮戦敵艦隊を随所に 殲滅 ( せんめつ )し以て皇国無窮の礎を確立すべし」 — 豊田副武連合艦隊長官 と電報訓示する。 九州の鹿屋(第五航空艦隊)に出張して宇垣とともに特攻出撃を見守っていた草鹿と三上は、東京から第二艦隊出撃計画が豊田の決裁を受けたという連絡を受けた。 「きまってから(長官の決裁をうけてから)参謀長の意見はどうですかもないもんだ」と憤慨しつつ、草鹿は水上機に乗って大和を訪れた。 大和内部にある長官公室での打ち合せでは、伊藤長官は作戦に納得しなかった。 だが、既に陸軍の総攻撃が計画されていると三上が告げると、伊藤は作戦を了承した。 草鹿の「一億総特攻の 魁 ( さきがけ )となって頂きたい」という言葉も要因だったとされる。 一方で、草鹿参謀長の回想録には特に言及がない。 伊藤は「途中で沖縄到達の見込みがなくなった場合はどうするか」と質問し、草鹿は「貴方に一存する」と答えると、伊藤は喜色満面となって「わかった。 安心してくれ、気もせいせいした」と返答したという。 時代の草鹿は伊藤の後輩であり、草鹿は「何かにつけて下級生をかばう良き先輩であり、訣別の辞を伝えにいかなくてはならぬ破目になったことは皮肉な巡り合わせ」と述べている [ ]。 なお高田利種連合艦隊参謀副長は、草鹿が大和特攻作戦をむしろ熱心に主導したと断言しているが、「何時出撃するかを知らされなかった」可能性はあるとしている。 その後、大和にて各戦隊司令官、艦長が集合した。 そこで草鹿による作戦説明と 、伊藤による訓示が行われた。 草鹿が「沖縄に乗り上げて陸戦隊になって欲しい」と告げると、第二艦隊将校から「陸戦武器がないじゃないか」と疑問がぶつけられた。 古村によれば、草鹿の「一億総特攻の先駆け」はこの将校会議で出た発言である。 結局、伊藤が反論や不満を抑える形となり、艦長達は命令に従った。 伊藤は1人上機嫌だったという証言も残されている。 草鹿が宇垣に語ったとこによれば「第二艦隊の空気は最初沈滞気味なりしが伊藤二艦隊長官の訓示にて其の気になりたりと云ふ」。 15時20分、大和以下、第二艦隊は徳山沖を出撃した。 16時10分、伊藤は麾下の艦艇に対し出撃に際しての訓示を発する。 「皇国ノ運命ヲ賭シタル作戦ノ指導ガ、慎重性、確実性ヲ欠ク嫌アルコトハ極メテ遺憾ナルモ戦艦ノ価値昔日ノ比ニアラザルヲ以テ驚クニ足ラズ」 とである。 夕刻、大和甲板では総員が集合し、訓示の後「各自の故郷に向かって挨拶せよ」との命令が出た。 矢矧艦長は「生きて帰ることをためらってはならない」と乗組員に説明していた。 夜間、第二水雷戦隊は大和を目標とした雷撃訓練を行う。 第二水雷戦隊は新編成以降燃料不足のため、4月6日まで一度も総合訓練を行ったことがなかった。 連合艦隊の命令により、佐伯航空隊の14機と、呉防備戦隊の掃海部隊や、海防艦および第194号海防艦が第二艦隊の前方を進んだ。 17時前に哨戒機が敵潜水艦を発見し、特別掃蕩隊や志賀が攻撃をおこなって撃沈確実を報じた。 豊後水道で対潜掃討隊と分離した後、艦隊は一路沖縄本島への進路を取る。 20時20分頃、南方30の地点に配備されていたアメリカ軍の(USS Threadfin, SS-410)と(USS Hackleback, SS-295)の2隻の潜水艦はを南へ向かう日本艦隊を発見し、アメリカ艦隊へ日本艦隊の出撃を通報した。 両艦には魚雷攻撃禁止命令が出ていた。 これは中途半端な損害を与えて内地に戻られるのを避けたためである。 ただし、ハックルバックは駆逐艦を狙って魚雷を装填したが、接近されたために発射のチャンスを失った。 第二艦隊でも、アメリカ潜水艦の電文を探知していた。 一方、大和の艦内では乗組員にが出た。 4月7日午前6時、日本艦隊はを通過し外洋へ出ると、沖縄本島へ向かった。 この時、大和は唯一搭載していたを発進させている。 陸上航空部隊からは次々と特攻機突入の報告が入り、「正規空母3隻、特設空母1隻、戦艦1隻撃破」という誤戦果や 、7日午前4時には「敵機動部隊大打撃。 空母を含む数隻撃沈確実、敵艦隊大混乱」との誤報を受取っている。 日本艦隊は大和を中心とし、その周りを1,500メートルずつ離れて矢矧と8隻の駆逐艦がを敷き、20で進んだ。 護衛する駆逐艦のうち朝霜は午前7時に機関故障を起こして速力が12ノットとなり、艦隊から落伍した。 大和の零式水上偵察機は、異状排気を起こして速力を低下させる朝霜を目撃している。 その後、大和所属機は矢矧所属機に哨戒をひきついで鹿児島県の指宿基地に向かった。 8時15分、矢矧からも水上偵察機1機が射出されており、午前9時ごろ指宿基地に到着した。 8時、昭和天皇がにを御名代として差遣したとの連絡が入る。 午前11時、朝霜が第二艦隊の視界外に脱落した。 同時刻、大和のレーダーがアメリカ軍編隊を探知する。 それから間もなく艦隊は小型艦艇3隻からなる大島輸送隊(第146号輸送艦、駆潜艇49号、駆潜艇17号)とすれ違った。 大島輸送隊はへの強行輸送を任務とした部隊でとを基幹とする。 今回は輸送艦3隻(第17号、第145号、第146号)・海防艦1隻(186号)・駆潜艇2隻(17号、49号)で編成され、第17号輸送艦艦長を指揮官として3月31日に佐世保から出撃、4月2日に奄美大島に到着、輸送物資を揚陸した。 同島でのアメリカ軍の航空攻撃と座礁事故により輸送艦2隻と海防艦1隻を失い、帰投中であった。 第二水雷戦隊は12時19分視認距離で遭遇 、大和は12時22分、45km先に発見としている。 1月まで駆逐艦砲術長兼第一分隊長だった輸送隊指揮官、丹羽正之(正行)大尉 は旗艦 から大和に対して無線もしくは手旗・発光信号で答礼すると「有難ウ、ワレ期待ニ応エントス」という返礼があった。 同時刻、佐世保へ向かう海防艦も第二艦隊とすれ違い 、第二艦隊の無線電報を受信している。 記録によれば屋代は佐世保に在泊となっているが、大和を目撃したという乗組員の証言もある。 日本軍の航空掩護 [ ] 鹿屋基地では、第二艦隊の上空援護を巡って宇垣と草鹿の間にやりとりがあった。 宇垣は唐突に決まった作戦に反対しつつ「連携ある作戦で友軍の援護をすることは当然」として、配下の戦闘機隊に対し、第二艦隊掩護命令を出した。 第二艦隊は5機から10機の(零戦)が、午前10時まで上空警戒をしていたと報告している。 ただし、アメリカ軍の記録によると8時15分から正午すぎの空襲に至るまで、F6Fヘルキャット偵察隊やマーチン・マリナー飛行艇が第二艦隊上空に留まって監視任務を続行している。 大和も8時40分にヘルキャット7機を確認したが 、日本軍機との間で空戦が起こった記録はない。 一方で、矢矧に乗艦した機関将校は第二艦隊上空を通過する特攻機を目撃している。 阿部三郎(海軍中尉、五航艦第二〇三空)は、自らの所属していた戦闘三一一飛行隊を含めて、幾つかの部隊に第二艦隊掩護命令が出たことを記憶している。 だが出撃準備中の4月7日午後3時、第五航空艦隊から発進中止命令が下った。 阿部の戦後の調査によれば、戦闘三〇三飛行隊から早朝に4機が出撃したが、視界不良のため大和を発見できず帰投した。 戦闘三一二飛行隊(笠之原基地)からは8機(伊藤康夫中尉)発進して第二艦隊と大和上空を護衛し 、三五二空(大村基地)からは零戦隊・甲分隊が午前10時まで第二艦隊上空を護衛していた。 美濃部正少佐が指揮する(部隊)にも第五航空艦隊から大和掩護要請があったが、芙蓉部隊の戦闘機は美濃部の方針で空戦の訓練を行っておらず 、美濃部は芙蓉部隊に制空戦闘はできないと断っている。 このように宇垣の第五航空艦隊が軍組織として上空掩護を行ったことは確実だが、混乱と準備不足のために戦闘機部隊を手配しきれず、午前中のみの、少数機による中途半端な掩護で終わってしまった。 海軍から第二艦隊の出撃を知らされた陸軍航空隊司令官中将は、「(大和特攻の際に)南九州の第100飛行団が疾風48機を投入して、奄美大島付近の制空権を一時的に掌握、協力する」と海軍側に約束している。 約束通り、第100飛行団を主力とする陸軍航空隊の戦闘機41機が出撃、12:00から14:00にかけて制空戦闘をおこない10機が未帰還となった。 アメリカ軍攻撃隊発進 [ ] 大和の爆発 一方、アメリカ軍の偵察機は日本艦隊を追跡した。 8時15分、3機の索敵隊(ウィリアム・エスツス中尉)が大和を発見した。 8時23分、空母エセックスのジャック・ライオンズ少尉隊も第二艦隊に接触し、大和は沖縄へ向かっていると報告した。 ミッチャーは付近のヘルキャット16機に接触を続けるよう命じる。 ミッチャーは攻撃隊が飛行する距離が長いことを考慮し、不時着回収機として「空飛ぶ象」と呼ばれたマーチン飛行艇を配置することにした。 その他の支援艦艇も、航空攻撃が失敗に終わった場合に備えて日本艦隊阻止のため集結した。 8時40分、日本艦隊もヘルキャット隊を発見する。 10時、日本艦隊は西に向きを変え撤退するように見せかけたが、11時30分に沖縄本島へ向けて進路を変えた。 アメリカ軍はさらにマーチン・マリナー飛行艇2機(VPB-21哨戒飛行隊)を投入した。 ディック・シムズ大尉は小型船3隻の船団と、大和を中心とした第二艦隊を発見。 シムズは大和から射撃され、レーダー妨害用の 錫箔 ( すずはく )をまいて雲に入った。 11時14分(アメリカ軍の記録11時37分)にもヘルキャット6機に射撃した。 大和の出撃を察知し、沖縄諸島攻略の任に当たっていたアメリカ第5艦隊司令長官である大将は迎撃を命令、沖縄本島周辺に艦砲射撃任務を遂行中だった司令官の少将率いる第3戦艦隊の3隻(アイダホ、ニューメキシコ、テネシー)と第4戦艦隊の3隻(ウェストバージニア、メリーランド、コロラド)、巡洋艦7隻(バーミングハム、モービル、ビロクシー、サンフランシスコ、ミネアポリス、タスカルーザ、ポートランド)、駆逐艦21隻を任務から外して迎撃準備を行わせた。 艦隊の進路が不明なため、最終的にミッチャー中将の第58機動部隊による航空攻撃を許可した。 実際には、ミッチャーはスプルーアンス大将の命令を受ける前に攻撃隊を発進させている。 10時ごろ、近海に位置していた空母サン・ジャシント、ベニントン、ホーネット CV-12 、ベローウッド、エセックス、バターン、バンカーヒル、キャボット、ハンコックからの戦闘機と戦闘機132、爆撃機50、雷撃機98が発進した。 戦闘機はロケット弾を装備するか、250kg爆弾2個を搭載して出撃した。 280機はすぐ第二艦隊に向かったが、ハンコックから発進した53機は道に迷った。 10時45分、イントレピッド、ラングレー、ヨークタウン(CV-10)から106機が発進した。 少なくとも3機が事故で墜落するか、故障で引き返した。 この時点で、はじめてミッチャーはスプルーアンスに対し第二艦隊を攻撃することを通知し、「貴官がやられますか?それともこちらでやりますか?」と報告した。 そのスプルーアンスは、アメリカ海軍史上最も短い作戦命令「貴官が奴らをやれ」(You Take Them)を伝えた。 第1波攻撃 [ ] 日本艦隊には第五航空艦隊所属の予備機の零戦20機が直掩として付随したが、九州近海で陸上基地に帰還した。 天候は雨雲が1,000メートル程度、風速10メートル、視界は8キロ以下であった。 大和の主砲を除いて光学照準式の高射指揮装置と時限信管式の対空砲しかない日本艦隊の防空砲火側には極めて不利であり、「攻撃隊にはもってこいの天候」とする意見がある。 大和の艦橋にいた第二艦隊参謀長の森下も悪天候により対空砲火の効果と威力が低下したと回想している。 反面、大和が煙幕を展開すれば簡易型のレーダーを装備(雷撃機と攻撃機の電信席に装備)していても空中衝突の危険が大きく攻撃不能の可能性があったとするアメリカ軍パイロットや、大和主砲方位盤射手村田大尉の意見など評価が分かれる。 2時間かけて到着したアメリカ軍の攻撃隊は雲の上で日本艦隊の対空攻撃の射撃を受けずに、攻撃を行うために日本艦隊を取り囲むことができた反面、目標の進路や速度を目視において確認するためには一旦雲の下に下りなければならなかった。 第1波の攻撃隊は12時32分に攻撃を開始した。 日本艦隊は速度を24ノット、続いて最大戦速として回避行動を開始し、対空戦闘を始める。 この時の駆逐艦配置については、著作によって差異がある。 しかし回避行動によって輪形陣はすぐに崩れてしまった。 たとえば雷撃機を回避しようと大和が右に転舵したため、輪形陣先頭にいた矢矧は大和の左舷4000 - 5000mに引き離されている。 大和は近距離の敵機に対して24門のや約150門のなどの対空火器を装備していたが、日本軍生還者が「凄まじい」と表現するアメリカ軍機の雷撃・爆撃・銃撃の同時攻撃を阻止するには至らなかった。 大和はこの海戦で主砲を一発も撃つことはなかったという回想もある まず、ベニントンの第82爆撃中隊11機が大和に攻撃を開始した。 雷撃機は転覆を狙うため大和の左舷に攻撃を集中したとされるが、特に拘っておらず、機会があり次第、左右同時雷撃を行っている。 12時45分、駆逐艦浜風が被弾して航行不能となった。 12時46分、矢矧の右舷機関部にベニントン隊の放った魚雷が命中した。 これにより機関部員は全滅し、矢矧は航行不能となった。 第1波の攻撃で大和には爆弾2発と魚雷推定1本(森下2 - 3本、アメリカ軍主張8本)が命中した。 左舷への傾斜は右舷への注水で回復したが、爆弾の命中により後部艦橋と後部副砲が破壊され、火災が発生した。 また、この攻撃で12時48分に浜風が爆沈した。 13時8分には涼月が前部に爆弾の直撃を受け大破、落伍した。 さらに、機関の故障で艦隊から落伍していた朝霜も大和以下に対する空襲の開始直前にサンジャシントの飛行隊14機 、もしくはバンカーヒルの飛行隊10機に攻撃された。 魚雷2本が艦橋右舷下と機械室に命中、大爆発を起こして朝霜は沈没した。 最後の電信は12時21分であった。 アメリカ軍の攻撃隊は、朝霜をと判断している。 第2波・第3波攻撃 [ ] 13時20分から14時15分の間に第2波と第3波の攻撃隊が来襲した。 攻撃隊はエセックスのハーモン・アター中佐が指揮している。 攻撃は大和に集中した。 爆弾は艦上構造物に損害を与え、対空射撃能力が低下した。 魚雷はほとんどが左舷に命中していたが、特に意図はなく、大和が左旋回を繰り返していたため左舷を狙いやすかったからだった。 アメリカ軍は第2波、第3波攻撃で魚雷命中29本を主張。 艦は傾き転覆の危機が迫った。 13時25分、通信施設を破壊された大和は、随伴する初霜に通信代行を依頼する。 13時33分、右舷の機関室とボイラー室に注水がおこなわれた。 この際、機関科兵員に命令が伝わらず水にのまれたと一部の書物には記載されているが 、注水作業を瞬時に行うことは不可能であり、退避する時間は十分にあったと能村副長は証言している。 右舷の機関の喪失と多量の浸水のため、大和の速度は10ノットに低下した。 低速で進む大和は雷撃機の格好の目標となり、航行能力を削ぐために舵や船尾に攻撃は集中した。 この間、13時25分には霞が直撃弾2発、至近弾1発を受けて缶室に浸水、航行不能となり落伍。 第一波攻撃で航行不能となっていた矢矧にはさらに複数の魚雷と爆弾が命中し、14時5分に沈没した。 古村および第二水雷戦隊司令部移乗のため矢矧に接舷を試みていた磯風も攻撃を受けて機械室に浸水、やがて航行不能となった。 14時10-17分、ヨークタウン(CV-10)の雷撃隊による右舷への複数魚雷命中が致命打となり、大和の傾斜は急速に大きくなった。 このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機 による波状攻撃を受けた。 戦闘機も全機爆弾とを装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。 ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。 その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、機戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である。 では魚雷10本・爆弾5発、森下は魚雷命中15本・爆弾命中数十発、アメリカ軍第58任務部隊は魚雷13-14本・爆弾5発以上、アメリカ軍攻撃隊は合計魚雷30-35本・爆弾38発が命中したと記録している。 大和の沈没が避けられないことを知らされ、伊藤は作戦の中止を命じた。 その一方で森下によれば、伊藤は「駆逐艦冬月は大和に横付けせよ」「大和は沖縄まで到達不能。 幕僚は駆逐艦に移乗して沖縄へ先行せよ」と命じ、自分は大和と運命を共にすべく艦橋下の長官控室に降りていったという。 艦長の有賀は退艦を拒否して艦に残った。 総員退去命令が出て間もない14時20分、大和は転覆を開始、14時23分、完全に転覆すると大爆発を起こした。 この爆発は弾薬庫の誘爆または、機関室の水蒸気爆発によるものと考えられている。 大和の沈没地点は であった。 帰投 [ ] アメリカ軍機の撤退と同時に、各艦は脱出者の救助を開始した。 駆逐艦冬月の吉田正義第四一駆逐隊司令は先任指揮官が自分であると判断すると、15時52分に連合艦隊司令長官・軍令部総長・海軍大臣にあて「1141ヨリ数次ニ亙ル敵艦上機大編隊ノ攻撃ヲ受ケ 大和、矢矧、磯風沈没 浜風、涼月、霞航行不能 其ノ他ノ各艦多少ノ損害アリ 冬月、初霜、雪風救助ノ後再起ヲ計ラントス(1445)」と発信した。 冬月は艦橋から望遠鏡で海上を探索し2隻の内火艇に指示して救助を進めた。 第二艦隊参謀長の森下は同副官の石田少佐らと共に冬月の内火艇で救助された。 雪風からも負傷者の救助のため2隻の内火艇が降ろされ、救助切り上げの直前まで重傷者や体力が尽きて動けない兵を拾い上げた。 頭部を負傷し漂流中意識を失った大和副長の能村も副長補佐らに支えられて雪風に救助されている。 能村は襟章が判別できない程重油で汚れ、救助後に雪風の兵が懸命に張り手を加えても意識が回復しなかったが、そのまま縫合手術を受けて生還した。 16時39分、第一遊撃部隊指揮官に対し連合艦隊は作戦の中止と乗員救助の上で佐世保への帰投を命じた(GF電令作第616号、二水戦の受信は17時50分)。 第二水雷戦隊司令官の古村は17時20分、初霜に救助され、二水戦司令部を初霜に移乗すると共に第一遊撃部隊の指揮権を継承。 作戦継続の電報を起案していたが、暗号翻訳中に作戦中止命令を受信、特攻作戦の中止に至った。 この海戦で日本側は、大和、矢矧、浜風が撃沈され、霞は航行不能となり冬月に処分された。 磯風は自力で北方に向かったが航行不能となり、雪風による曳航を試みる。 だが初霜(二水戦司令部)からの下令で放棄が決まり、午後10時40分雪風に処分された。 また機関故障により単独行動中の朝霜も撃沈され、駆逐隊司令部を含め全員が戦死した。 涼月は艦首を失ったが後進で佐世保に帰還したものの、ドック内部で擱座した。 被害の少なかった冬月、雪風、初霜の3隻の駆逐艦は大和の生存者280名、矢矧の生存者555名と磯風、浜風、霞の生存者800名以上、1706名(戦闘詳報)を救助したが、第二艦隊司令長官の伊藤(戦死後大将)、大和艦長の有賀(同中将)を始め、推定3,721名がこの戦いで戦死した。 昭和20年7月に連合艦隊司令長官が布告した戦死者総数は4,044名。 アメリカ軍機の多くは日本側からの対空砲火を受け損傷を負い、5機が撃墜され、52機が被弾損傷で、内5機が経済的修理不能として海上投棄され、2機が不時着水した。 1機が往路で原因不明の墜落で、実質的損失は13機であった。 乗員のうち何人かは水上機や潜水艦に救助された。 アメリカ軍の戦死・行方不明は合計13名であった。 また大和沈没後に五航艦の戦闘303飛行隊が坊ノ岬260度100キロ付近の海面でF4Uコルセア戦闘機3機を撃墜したと報告している。 14時43分、最後のアメリカ機の編隊が大和の生存者に機銃掃射を浴びせるために出撃した。 大戦を通じてアメリカ軍などの連合軍が行ってきた沈没船生存者への機銃掃射はこのときも現出し、古村司令官・能村副長・少尉をはじめ多くの第二艦隊生存者が、このときアメリカ軍機の機銃掃射を受けたと証言している。 航行不能となった磯風の周囲を漂う日本兵(沈没した矢矧の生存者)に対しても、撃墜された味方の敵討ちとしてアメリカ軍爆撃隊が機銃掃射を浴びせた。 星亮一はこれらの機銃掃射は計画的な人間狩りであったと批判している。 英国人ジャーナリストのラッセル・スパーは坊ノ岬沖海戦について記した著書において、第二次大戦当時のアメリカ人は絶望的な状況の敵国人を殺戮することに気がとがめることがなく、日本人に対しては、捕虜への虐殺行為や神風特攻の異常な狂信主義の報告があったため、「(当時のアメリカ人は)日本人は人間の出来損ないであり慈悲をかけるのに殆ど値しないと信ずるようになっていた」と指摘している (スパーは「彼ら(日本の特攻兵)はアメリカ人が想像した様な狂信者ではなく、彼らの殆どが充分に考えた上で恐るべき決意に到達した献身的な息子たちだった」と伝えている )。 一方で、日本軍艦艇も救助作業中の無抵抗な敵兵に発砲したとする証言が日米両軍に残されている。 アメリカ海軍第三十雷撃中隊第二分隊副隊長であるは大和の高角砲に撃墜され、部下2名と共にパラシュートで機から脱出。 海面への着水に成功した。 ディラニーは救命筏(アメリカ軍パイロットの救命チョッキは空気により膨らみ筏となる構造だった)にしがみ付き約二時間漂流した後、味方のPBM(マーチン飛行艇)2機に発見されたが、この時近くの海上に冬月と初霜がいた。 2機の内、スイムス大尉が機長を務めるPBMが対空砲火からディラニーを逸らすため危険を犯し日本艦隊の方向に飛んで行き、もう1機のヤング大尉機は水上滑走しながら着水してディラニーの救助に当たった所、これを見た日本の駆逐艦が砲撃を加えた。 第二水雷戦隊戦闘詳報によれば冬月がPBMに向けて発砲したとある。 この後、冬月に救助される吉田満も、冬月が飛行艇に発砲する光景を目撃しているが、彼はまだ航空攻撃に反撃しているものと思っていた。 初霜では艦長である酒匂の命令を受けた砲術長が12. 7センチ主砲でPBMを数発撃った。 この発砲について、酒匂は「飛行艇を追っ払えと命じ、落とせとは一切言わなかった」と述べ 、命令を受け発砲した砲術長の藤井は、無抵抗な日本兵の生存者には機銃掃射を浴びせる反面、自国のパイロットを救助するアメリカ軍の行動に腹を立てていたと述べている。 同じく初霜の松井中尉も「射程距離外であった事はわかっていたが威嚇のため2、3発撃った」と証言している。 一方のディラニーの証言には「(駆逐艦は)射撃しながら接近してきた」とあり、ヤング大尉機の搭乗員は、日本の駆逐艦の主砲弾は飛行艇に向かって泳ぐディラニーの200ヤード以内に落ちていたと証言している。 ヤング大尉機はディラニー中尉を収容して飛び立ったが、ディラニーの部下2名は発見できなかった。 2機のマーチン飛行艇は救助活動を終えると、帰り際、大破炎上して航行不能状態だった涼月に対して機銃掃射を浴びせている。 抵抗力を失った敵兵に対する発砲や報復を動機とした攻撃に同調しなかった将兵らの記録も残されている。 アメリカ軍機動部隊第九攻撃隊のビル・バワーズ少尉は、同僚のパイロットたちが漂流中の日本兵に機銃掃射を浴びせる行為を野蛮と感じ、「俺はこの攻撃パターンに入らない」と空撃ちした。 大和の主砲指揮所で弾着修正手を務めた小林健水兵長も、彼を救助した駆逐艦がアメリカ軍攻撃機の機銃掃射を受けたが、編隊のような纏まった形ではなく、1、2機による散発的なものだったと証言している。 小林水兵長の証言の中で機銃掃射を受けたとされる駆逐艦は雪風で(小林水平長の「大和生存者を救助した」、「19時30分以降も長時間戦闘海域で救助活動を続けた」の証言 と雪風の行動記録 が合致する)、他の大和元乗員も雪風は敵機の攻撃があったため艦を低速で動かしたまま味方の救助を行ったと回想しているが 、その雪風はアメリカ軍飛行艇が近くに着水してアメリカ軍パイロットを救助する姿を発見しても、艦長や士官の指揮下、彼らに攻撃を加えることをせず、味方の日本兵の救助のみ行いその場を去った。 雪風艦上では上述のマーチン飛行艇による涼月への機銃掃射が目撃され、将兵らを激怒させたが、雪風は報復行為を行っていない。 午後5時、日本軍は「我が特別攻撃隊 航空部隊並に水上部隊が四月五日夜来、沖縄本島周辺の敵艦船並びに機動部隊を反復攻撃し、特設航空母艦二隻ほかを撃沈又は撃破したが、我が参加部隊のうち戦艦一隻、巡洋艦一隻、駆逐艦三隻が沈没した」旨のをおこなった。 4月13日、第二艦隊参謀長である森下が軍令部で作戦経過を報告した折、連合艦隊参謀長の草鹿は海上特攻隊員の人事処理について、航空特攻と同様に取り扱うことを要望した。 4月20日、第二艦隊と第二水雷戦隊は解隊された。 二水戦残存部隊 は第三十一戦隊に編入され、三十一戦隊と第十一水雷戦隊は連合艦隊附属となる。 第一航空戦隊も解隊され、葛城は連合艦隊附属に、天城と龍鳳は呉鎮守府部隊に編入、隼鷹は佐世保鎮守府部隊に編入された。 なお、アメリカ海軍は沖縄での特攻機による艦艇の被害は一切報道せず 、大和とその他の艦の撃沈についてのみアメリカ陸軍記念日の司令長官ニミッツ提督の演説として、太平洋の全部隊にむけ放送した。 日本軍に対しては、大和撃沈のをまいている。 その後、日本占領後の1945年(昭和20年)12月9日より開始されたラジオ番組『』において、は坊ノ岬沖海戦および大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した。 アメリカ軍の認識であるため、大和の排水量や被害艦艇などを誤認している。 時系列 [ ] 4月5日 13:59 第1遊撃部隊に出撃準備下令。 4月6日 15:20 第1遊撃部隊が沖を出撃。 16:52 午後4時頃から対潜哨戒を開始した水上機がアメリカ潜水艦発見を報告、特別掃蕩隊を誘導する。 18:00 海防艦、爆雷攻撃により油の湧出を認める。 19:45 第1警戒航行序列(対潜序列)。 20:20 磯風が敵潜水艦らしきものを発見、第二艦隊、アメリカ潜水艦に発見される。 4月7日 06:00 第3警戒航行序列(対空序列)を取る。 06:30 大和が唯一搭載していた、本土に帰還。 06:57 朝霜(司令座乗)が機関故障のため随伴不能となり艦隊より離脱。 06:30頃-10:00頃 第5航空艦隊所属の部隊による艦隊上空直衛が交代で実施される。 08:15頃 矢矧、水上偵察機を発進、本土に帰還。 第1遊撃部隊、アメリカ軍の2機に発見される。 その後、艦隊は、アメリカ高速空母機動部隊から攻撃隊に先駆けて出撃した戦闘機、戦闘機計10数機の接触を受けながら、偽装航路を中止し、沖縄に向けて南下する。 10:00-10:30 近海に展開していたアメリカ海軍第58機動部隊から、作戦機約400機からなる攻撃隊が、第1次攻撃隊と第2次攻撃隊とに分かれて、相次いで出撃する。 11:35頃 大和に搭載された対空が、約100キロの距離にいるアメリカ軍艦上機の大編隊の接近を探知する。 12:10 落伍した朝霜より、「ワレ敵機ト交戦中」との無電が入る。 12:15 大和以下の各艦が総員対空戦闘配置を完了する。 第二艦隊、大島輸送隊とすれ違う。 12:21 朝霜より「九十度方向ヨリ敵機三十数機ヲ探知ス」との無電連絡が入る。 この後、連絡途絶。 この直後に沈没した。 12:30頃 大島輸送隊、視界外の距離6万m以上南方に黒い大爆煙を見る。 12:32 敵攻撃隊の大編隊が雲間から降下し、第1遊撃部隊上空へ殺到し始める。 第一次空襲が始まる。 12:34 大和以下の各艦が対空戦闘開始。 12:41 大和の後部に中型爆弾2発命中。 電探室および主計課壊滅。 12:45 大和の左舷前部に魚雷1発命中。 12:47 浜風、轟沈。 矢矧、航行不能。 13:00 第一次空襲終了。 13:08 涼月、前部砲塔付近に爆弾命中、大破。 13:22 敵機群第二波約50機来襲。 13:25 霞、爆弾2発命中、航行不能。 大和、初霜に通信代行を依頼。 13:33 第二次空襲始まる。 大和の左舷に魚雷3本が命中。 大和の副舵が取舵のまま故障。 大和、涼月と衝突しかける。 13:45、舵中央で固定。 13:56 磯風、矢矧の救援中に被弾。 14:05 矢矧、沈没。 14:20 大和、左舷に傾斜20度、総員最上甲板が命ぜられる。 伊藤長官が長官室に向かう。 14:23 大和、沈没(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。 14:23 伊藤中将の戦死により第1遊撃部隊指揮権を先任指揮官の古村少将が承継(この時点で漂流中)。 14:40 アメリカ軍の攻撃が終了。 16:30 磯風、浸水増大のため航行不能となる。 16:39 作戦中止が下命される。 16:57 霞、沈没(砲雷撃により処分)。 17:42 初霜が古村少将(第2水雷戦隊司令官)を救助。 22:40 磯風、雪風の砲雷撃により処分。 4月8日 08:30 大島輸送隊、佐世保軍港に帰投。 08:45 冬月が佐世保軍港に帰投。 10:00 初霜及び雪風が佐世保軍港に帰投。 14:30 涼月が佐世保軍港に帰投。 影響 [ ] 4月13日、第二艦隊参謀長である森下信衛は軍令部で海上特攻隊の作戦経過について報告をおこなう。 森下は「中央が水上部隊の使用方針を明確にせず、艦隊の整備実施期間中に急に特攻作戦を実施させたこと」について言及し、「突入作戦ハ周密ナル装ヲ要ス」「必死必殺ノ作戦ナルモ作戦其ノモノハ成算アル計画ナラザル可カラズ」などの所見をのべた。 森下の所見と同様に、第二水雷戦隊のは、事前の打ち合わせもなく急遽決定したこの特攻作戦を厳しく批判している。 「軍艦大和戦闘詳報」には、「戦況逼迫せる場合は兎に角焦燥感にかられ、計画準備に余裕なきを常とするも、特攻兵器は別として、今後残存駆逐艦等を以てこの種の特攻作戦に成功を期せんが為には慎重に計画を進め、事前の準備を可及的綿密に行うの要あり。 思いつき作戦は精鋭部隊(艦船)をもみすみす徒死せしむるに過ぎず」との記載がある。 矢矧に乗艦していた機関参謀は、戦後「世に不沈艦なるものなし。 事前の準備なくして戦勝非ず」と述懐した。 を通じて大和と関わった宇垣纏は、『戦藻録』で「 嗚呼 ( ああ )!」と嘆き「全軍の士気を昂揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる外何等得る所無き無暴の挙と云はずとして何ぞや」と記して日本海軍上層部を批判している。 4月30日、米内海軍大臣の人事内奏をした際に昭和天皇は「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と下問した。 三戸 壽 ( ひさし )海軍省人事局長は富岡軍令部第一部長に連絡し、以下の結論を出した。 同時ノ燃料事情及練度、作戦準備等ヨリシテ 突入作戦ハ過早ニシテ 航空作戦トモ吻合セシムル点ニ於テ 計画準備周到ヲ欠キ 非常ニ窮屈ナル計画ニ堕シタル嫌アリ 作戦指導ハ適切ナリトハ称シ難カルベシ 大和の沖縄突入は天候や航路の選定、各隊の協力および中央と現地の意志疎通が図られていれば可能だったとみられるが 、「佐世保回航も突然なら、特攻の指令も突然であり、その間に関連した方策の指示など聞いていない。 これでは作戦が成立するはずもなく」(第二水雷戦隊司令官の古村啓蔵)であった。 なお4月9日から11日まで沖縄周辺はに覆われており、大和が特攻するならこの時期であった。 7月30日、小沢治三郎連合艦隊司令長官は機密聯合艦隊告示 布 第114号において「第一遊撃部隊ノ大部 昭和二十年四月初旬沖縄海上特攻隊トシテ沖縄島周辺ノ敵艦隊ニ対シ壮烈無比ノ突入作戦ヲ決行シ帝国海軍ノ伝統ト我ガ水上部隊ノ精華ヲ遺憾ナク発揮シ艦隊司令長官ヲ先頭ニ幾多忠勇ノ士皇国護持ノ大義ニ殉ズ 報国ノ至誠心肝ヲ貫キ忠烈万世ニ燦タリ 仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス」という感状を授与した。 首相は 、大和沈没8時間後の親任式でこの情報を聞き、内閣全員が降伏を現実のものとして受け止めたという。 これ以降、水上部隊による攻撃作戦は極度の燃料不足のために行われず、長門(4月20日に予備艦となる)を筆頭に伊勢・日向・榛名など残存主力艦は海軍の方針により浮砲台として係留された。 その後、アメリカ艦載機による空襲で長門を除き大破着底し、長門も7月末の爆撃後に武装を主砲以外全て陸上に移設しほぼ戦闘能力を失った。 坊ノ岬作戦に参加する事も計画された長門と軽巡洋艦酒匂は戦後にアメリカ軍に引き渡された後、 ()でにおいて原爆実験により沈没した。 『どこに眠る戦艦大和』( 1980年)において、当時大和の沈没位置は不明であったが、磁気探知により海底の巨大な鋼鉄を発見した。 しかし、テレビカメラによる探査は天候悪化のため行えなかった。 参加戦力 [ ] 日本海軍 [ ] 日本軍では、作戦のために第2艦隊からなる第1遊撃部隊が編成され、水上特攻を担当する部隊となった。 出撃した部隊は以下の編制であった。 参加兵力は計4,329名。 平均年齢は27歳であったという。 第1遊撃部隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:少将)• 戦艦大和(:大佐、副長:大佐、砲術長:黒田吉郎中佐):沈没。 被雷10本以上 は魚雷13-14本確実と結論付けている 、直撃弾5発以上。 戦死2,740、戦傷117名。 (司令官:少将)• 軽巡洋艦矢矧(艦長:大佐):沈没。 被雷7本、直撃弾12発。 戦死446、戦傷133名。 第41駆逐隊(司令:吉田正義大佐)• (艦長:山名寛雄中佐):帰還。 直撃弾2発(不発)。 戦死12、戦傷12名。 (艦長:平山敏夫中佐):帰還。 大破、艦首~前部主砲付近に直撃弾を受け大火災となる。 後進で佐世保に帰還。 戦死57、戦傷34名。 第17駆逐隊(司令:新谷喜一大佐)• (艦長:前田実穂中佐):至近弾により機関室浸水。 航行不能になり雪風が処分。 戦死20、戦傷54名。 (艦長:前川万衛〈萬衛〉中佐):沈没。 被雷1本、直撃弾1発。 被弾で航行不能になった後、被雷し轟沈。 戦死100、戦傷45名。 (艦長:中佐):帰還。 至近弾のみ。 損傷無し。 戦死3、戦傷15名。 ロケット弾が直撃したものの不発に終わった(帰還後判明)とする説もあるが元乗員らの記録では別の戦闘での損傷とある。 (司令:小滝久雄大佐)• (艦長:杉原与四郎中佐):機関故障を起こし艦隊より落伍、正午過ぎに敵機と交戦中との無電を発信後連絡が途絶えた。 撃沈されたものと推定。 隊司令及び艦長以下326名全員が戦死した。 (艦長:酒匂雅三少佐):帰還。 至近弾のみ。 損傷無し。 戦傷2名のみ。 (艦長:松本正平少佐):直撃弾2発。 うち1発が機関室を直撃、破壊。 航行不能により冬月が処分した。 戦死17、戦傷47名。 対潜掃討隊(瀬戸内海離脱後、命令により反転帰還)• (司令官:鶴岡信道少将)• (艦長:東日出夫中佐)• 第43駆逐隊(司令:作間英邇大佐)• (艦長:岩淵悟郎少佐)• (艦長:石塚栄少佐) 第7駆逐隊(駆逐艦:響)も参加予定だったが出撃直前に触雷で脱落した。 アメリカ海軍 [ ]• 第58機動部隊(司令官:中将)• 第58・1任務群• 航空母艦(第17航空群101機搭載中、44機出撃) 、(第82航空群102機搭載中、28機出撃)• 軽航空母艦(第30航空群34機搭載中、14機出撃)、(第45航空群34機搭載中、15機出撃)• 第58・3任務群• 航空母艦(第83航空群100機搭載中、40機出撃)、(第84航空群103機搭載中、41機出撃)、(第6航空群94機搭載中、48機出撃)• 軽航空母艦(第29航空群34機搭載中、19機出撃)、(第47航空群36機搭載中、21機出撃)• 第58・4任務群• 航空母艦(第9航空群102機搭載中、46機出撃)、(第10航空群120機搭載中、42機出撃)• 軽航空母艦(第23航空群34機搭載、19機出撃)• 第58機動部隊所属の戦艦6隻(、、、、、)• 第58機動部隊所属のその他の支援艦艇(大型巡洋艦、、軽巡洋艦9隻、多数の駆逐艦) 題材にした作品 [ ] 映画• 『』 原作:吉田満『戦艦大和ノ最期』、、1953年• 『』 監督:、:、、1981年• 『』 原作:『決定版 男たちの大和』、監督:、、2005年• 『』 原作:『アルキメデスの大戦』、監督:、東宝、2019年• 監督作品『』(東宝・1971年)や、1964年の映画『』などでも、坊ノ岬沖海戦が描かれている。 ドラマ• 『』(「」。 ・東映、1983年。 第6部「長官機撃墜の謎・戦艦大和の出撃」)• 『』(原作:吉田満『戦艦大和ノ最期』、監督:、・東宝、1990年)• 『』(監督:、・東宝、1990年) 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2017年1月)• (防衛省防衛研究所)• Ref. C08030566400「昭和20年4月6日〜昭20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報」• Ref. C08030749900「軍艦矢矧艦歴等 附機関参謀大迫吉二氏沈没当時の回想記 」• Ref. C08030103000『昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 1 』。 Ref. C08030103100『昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 2 』。 Ref. C08030103200『昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 3 』。 Ref. C08030147700「昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報 8 」• Ref. C08030147800「昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報 9 」• Ref. 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他に、宿毛から第三十四掃海隊の特設掃海艇3隻が派遣され、東経132度以東の対潜掃蕩を実施した。 高松宮宣仁親王は4月7日に東京を出発、9日にとを参拝した。 第17号輸送艦が沈没したため、丹羽(第17号輸送艦長)は第146号輸送艦に移乗していた。 丹羽正行 「一等輸送艦十七号 沖縄方面輸送の顛末」によれば第146号輸送艦から手旗と発光信号を送り「有難ウ、ワレ期待ニ応エントス」という返礼があったとしつつも、吉田満『戦艦大和』には「ワレ期待ニソムカザルベシ」と記述があるとも記している。 なお丹羽は大島輸送隊の大和発見を午前11時としている。 記述は出典のまま。 磯風と浜風の損害報告が逆で、実際は浜風が沈没、磯風が航行不能だった。 第7駆逐隊(潮、響)、第17駆逐隊(雪風、初霜)、第41駆逐隊(冬月、涼月)。 レイテ沖海戦以来、「カミカゼ」には完全な報道管制が敷かれていた。 ……昭和二十年四月七日の事です。 暁の太陽が、まさに昇らうとして居る時、本州の南方洋上を哨戒飛行中のアメリカ機は戰艦大和を発見しました。 わが最大の戰艦四万五千トンの大和は、の軽巡洋艦、及び他の軽巡洋艦、各1隻と少くとも九隻の駆逐艦にまもられて、全速力で南に向って航行中でした。 敵機の搭乗員は、警告を発し、マーク・ミツチヤー中将旗下に属する第五十八機動部隊所属の四隻の航空母艦は、直ちに出動しました。 午前十時頃には、既にわが艦隊は、本州南方五十哩の沖合で、敵に発見され、敵の艦上機約四百機がわれに迫つて來ました。 かくて、東支那海で三十分にわたり、彼我の激闘が展開されたのです雨・霰の如き、わが防御砲火網、を潜つて敵機の一團は大和に殺到して八本の魚雷と八ヶの爆彈をたゝきつけました。 かくて、さしもの巨艦大和も、爆発を起し油の一面に漂ふ海の中に没したのです。 二隻の巡洋艦と三隻の駆逐艦も、亦撃沈され、三隻の駆逐艦は火焔に包まれて戰列を脱しました。 わが防御砲火は七台の敵機を撃墜しました。 然しこの戰が、わが航空基地の容易に手のとどく處で行はれたにもかゝはらず敵機に挑戦すべく出動した我が飛行は一機もありませんでした。 武藏の最後に就ては、次の二週間以内にお答へ致します。 」 出典 [ ]• 2020年4月15日閲覧。 , p. 372大和部隊の沖繩突入作戦• 、167-169頁 昭和18年12月15日記事• 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143頁、487頁• 143頁、70頁• 249頁• , p. 356. , p. 草鹿龍之介『一海軍士官の半生記』80頁• 60、64頁• , p. 357. 219頁• 84-92、「軍艦矢矧艦歴等」p. 74、. 「軍艦矢矧艦歴等」p. 74頁• 頁、219頁• 「軍艦矢矧艦歴等」p. 27、111頁• 210、221頁• 221頁• 29頁、90-92頁、180頁• , p. 180. , p. 181. 81頁• , pp. 151. 150頁• 「昭和18年12月1日~昭和20年4月6日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報」• 408. 152頁• , pp. 190-192. 80頁• 85頁、114頁、. , p. 187頁• 61-63頁• 61-63頁、.. 489頁、. 、633-634頁「(昭和二十年四月)五日 木曜日(略)御名代として神宮参拝の宣仁親王と御対面」• , p. , p. , p. 239. , p. 417a輸送艦による輸送• , p. 417b. 117頁• 丹羽正行 「一等輸送艦十七号 沖縄方面輸送の顛末」(潮書房光人社刊 『補助艦艇奮戦記』所収 p72-p88・大和との遭遇についてはp86-p87)• 113頁• 丹羽正行 「一等輸送艦十七号 沖縄方面輸送の顛末」(潮書房光人社刊 『補助艦艇奮戦記』所収 )は指揮官本人による記述なので正行が正しいか。 119頁、253頁「ワレ期待ニソムカザルベシ」とも。 (潮書房光人社刊 『補助艦艇奮戦記』所収 p87)• 115頁• 225. 251頁• 487-488頁、244頁• 29、「軍艦大和戦闘詳報」p. 「軍艦矢矧艦歴等」p. 286頁• 288頁• 289-290頁• 291頁• , p. 139• , p. 184• 297頁• 390頁、298-300頁• , p. 369. , p. 462. , p. 付表3その1. 100-101• , p. 230. , p. 237. 231. , p. 234. , p.
次のそして部隊は敵部隊殲滅を任務とし、上陸地点へ「」「」などの戦を突入させ、射撃による敵戦の撃滅を図ることにした。 こうして立案された捷号のうち、最も侵攻してくるが高い方面は『捷』と呼称した。 西村艦隊は捷発動後、部隊の中核を担う第一遊撃部隊(第二艦隊/艦隊)の支隊として編成された。 テの北側から攻めかかる艦隊と呼応して、南側から進軍するものとされた。 軍・祥治を官とし、旗艦は「山」。 戦は2隻・1隻・4隻となっていた。 この部隊を二手に分けて進軍する構想は案としてはあったが、正式なものとなったのは発動を受けて前進拠点であるに到達したあとのからであり、当初からのものではない。 そもそも捷計画は上陸地点までを細かく想定しておらず、実際側の上陸想定地点の本命はオであり、テは第二補だった。 なので上陸の地点がテ湾だと判明する18日以降でないとこの挟撃構想は正式決定されないし、この時艦隊はからへ出撃しており、挟撃はこの間に正式決定された事が判る。 午後、西村艦隊は、午前中に出動したの艦隊とは別にを出撃。 西南のを通り、24日にテのスリガオ峡へさしかかる。 この日の、のシブヤンを進撃していた艦隊は、機動部隊の猛攻を受けて「」撃沈などの損となり、拡大を避けるため、いったん後退。 これにより本来の計画だった、西村艦隊とのテ湾への同時突入攻撃はになってしまう。 が艦隊の状況をしていたかどうかは不明だが、日未明、艦隊は単独でのテ湾突入を選択。 これに対しは、の6隻など隻以上の艦艇によって迎撃体制を取る。 午前ごろより火を交えた日両艦隊だったが、圧倒的戦の艦隊の前に西村艦隊の各艦は次々と撃沈。 過ぎ、旗艦「山」の撃沈をもって上は終わる。 同じころ、西村艦隊とは別にテ湾突入をす清英の艦隊もスリガオ峡へ突入してきたが、電探がを敵艦と誤認して発射するなど成果はく、その直後に艦隊旗艦「」が西村艦隊残存艦の「」と衝突を起こし、戦況をできなくなった艦隊は離脱。 「」は艦隊からされた「」の護衛で離脱を図ったが、明けとともにの襲を受け、艦放棄・自沈せざるを得なくなる。 「」は、退避中に故障を起こしながらもかろうじて離脱に成功。 西村艦隊一の生き残りとなる。 その他の艦艇は、「」は「」へ者を退避できたものの、艦長など首部は交戦中に艦へ直撃弾を受けてほとんどが戦死。 「山」は者10名足らず。 「」「」は戦死(ただし「」に関しては10名前後の者がに救助されたらしく、者の言もある)。 「」「」はそれぞれ艦長以下数十名がに救助されている。 西村艦隊編成の経緯 【第一遊撃部隊(第二艦隊)第三群】 官:祥治 旗艦:「山」• 第二 「山」「」• 「」「」「」• 第二十七 「」• (附属) () 「」 西村艦隊の構成は上記のようなものであるが、の初期からこの編成で戦っていたというのではもちろんく、正直なところ 他の艦を編成していて残ったを集めたという趣が強い。 第二は開戦時、「」「」「」「山」で編成されていただが、がとなったではお呼びがかからず、「」「」はでの四喪失の埋めとしてへされ、を離れた。 その後「」「」の編入で第一より移動してきた「」「」が加わるが、「」がでの爆沈、「山」は艦任務を受けることになり、は「」「」の2隻体制となる。 は「」爆沈後に諸に向かうが、に同諸が機動部隊に襲される恐れが出たので、「」ら要艦艇と共にに避難する。 開戦以来第二は部隊である第一艦隊部が直率するであったが、第一艦隊がに止されたことでは解体され、「」は直轄から第二艦隊所属となった「第一」に所属替えとなり、残った「」は所属が宙に浮いた状態のまま「」らと訓練に勤しむ日々が続く。 方面の渾へ参加することもあったが会敵には至らず、「」には参加すらできずに湾に待機していた。 この間「山」はとして常にに留め置かれ、までのほとんどの期間、本土から離れたことはかった。 後「」は本土に帰還する。 次の捷号では、当初は第一遊撃部隊に替わって部隊直衛艦隊となる「 第二遊撃部隊」(第五艦隊基幹:通称 艦隊)に「山」と共に部直轄艦として所属するであった。 つまり機動部隊の前衛の中心艦となる予定だったのだ。 だが治長官が「部隊の第一遊撃部隊にもっとをつけた方がよくない?」の進言が通り、2隻は再度第二を編成、官に祥治を迎え旗艦は「山」となり、はに移送する陸軍の混成第団を便乗させ、第二と同じく第一遊撃部隊の戦強化の為部隊から異動となったの3隻(「」「」「」)の護衛のもとに本土を出発、第一遊撃部隊のいるに向かう。 にに到着し第一遊撃部隊第一部隊所属となる。 其れから間もない10日にはを機動部隊が襲、「 」が勃発する。 16日まで行われた戦で機動部隊は大損を受けたとしたは第一遊撃部隊にも出撃準備を下、その準備の最中に今度はテ湾口のスに上陸の報が入り、テへの接近が判明する事になる。 到着なくの「」勃発により、第二の2隻はど訓練が出来ぬまま出撃を迎える事になった。 低速などの性不足も問題ではあったが、何よりも艦隊として行動するには重要な訓練が出来ていないのは致命的であり、それが同隊を別行動させる要素の一つとなった。 は開戦時、「」「」「」「」の 4隻で編成されていたが、の時点で「」のみが残存していた。 その間「」「」の が他のから埋め的に編入(時期は)され、にはこの3隻体制で第二基幹の本隊部隊に加わっていた。 その後「」()が編入。 4隻体勢となる。 後、3隻(、、)は本土に帰還する「」の護衛任務を務め、その後の装備などを済ませには今度は「」を護衛して本土を出港する。 が所属していたは本来機動部隊を護衛する部隊なのだが、第二の際と同様、第一遊撃部隊の戦増加として同隊への配置換えが長官より進言され、第一遊撃部隊への配置変更がなされたためである。 なお同じ所属のもに第二と共に本土を出発してに向かったのは上記のとおりである。 に到達し、「」とも合流したは、以後所属として第一遊撃部隊第二部隊(第三義尾揮)に加わる。 捷発動に際し、前進拠点のに補給船が用意されているか不安だった長官の独断で、の油槽船団をに向かわせることになり、その護衛に「」「」の2隻が参加。 残りの2隻はと共にに向かいに到着、油槽船団も翌日に到着するが、この間に部隊は新たに第三部隊を編成する事になり、「」だけが、に留まり、は以下第三部隊へされることになる。 なお、余談ながら艦隊に編入されていた「」も同日ので沈み、は、解隊となった。 第二十七は開戦時、 の「」「夕暮」と の「」「」で編成。 18年に「」「夕暮」が戦没後、「」「」を編入していたが、までに残存は「」のみとなっていた。 資料によっては、付で第二十七は解隊としているものもある。 「」はに所属する事になるが、捷発動時にいなかったので直接に向かう事になりに到着。 しかし第三部隊の新編により「」は同部隊の所属替えとなる。 (附属)となっている「」は、開戦時はによる第七所属。 での「」との衝突にかこつけてへされたが、へ復帰しても他艦との性の違いで扱いに困ったのか、第七が第八と統合された際に「」だけは外へ出され、単なる第二艦隊所属艦となる。 では第一遊撃部隊第一部隊に所属、第五の揮下で行動していたが、捷が発動しに到着後の日に第三部隊新編に伴いこれに加わる。 このように第三部隊参加艦艇はどれも日の編成決定で第三部隊が編成されるまで、同一行動した事はどなく、の自体も任地着任から1~2週間ほどでの出撃となり、その間ど訓練を行えなかった(の発生により、部隊に何時出動がかかってもいいように艦艇の訓練が自制された)のも問題であった。 第一遊撃部隊の編成を決めるの際、は参加していなかったという言があり、その理由として、自分の割り当てられる艦隊が、艦隊の進撃を容易にするための、 囮の存在となる(=有な艦隊を任されるはずがない)ことを、知っていたからだとしている。 しかし、実際にははに参加しており、参謀長は終始した表情で持っていたグラスをのグラス合わせて惜別したと言している。 が参加しなかったのは第三部隊下の各艦長 旗艦山艦長は不参加 を集めて行われた第三部隊内の打ち合わせであり、それを混同した上での憶測に過ぎないと思われる 別動隊による挟撃という連携が重要なを任された部隊がに参加しない等という事はもまずあり得ない 意はともかくとして西村艦隊に割り当てられたのは、実戦経験に乏しい旧式の低速と寄せ集めの、からあぶれただけだった。 な艦隊にもかかわらず、艦隊の中へ突撃していったの揮を「謀」とする意見は多い。 例えばに関する著書で最もくに刊行されたものである・著「The te f」(は戦から3年後の、邦訳本「テの艦隊」の初出は)ではのことを手厳しく書いており、この戦でののの原因をの突入を予定よりもめた事であると結論している。 同著では艦隊と西村艦隊が同じ行動せずに別々に動いたことを、士官ながら出世の遅れていたがの揮下に入る(軍では同階級なら最初にその階級に昇進した者が先任者として揮を執る事になっている)のを潔しとしなかったのが原因としているが、実際は所属する部隊が異なっていた(西村艦隊は第一遊撃部隊の健男の揮下だが、艦隊は第一遊撃部隊と同格の南隊の三軍一揮下である)からであり、がを揮する事も、またその逆も出来ないのだが著書ではその事を理解していないようである。 また同著では西村艦隊一の艦となった「」の繁艦長の言も掲載しているが、同著では艦長は艦隊が後続している事を知っていたと書いているが、艦長が後年言した内容が掲載されている「艦長たちの」では全く逆の「知らなかった」と言しており、内容がしている。 一方で、もうひとつの囮艦隊を率いていた治は、にを振り返ってこう言ったという。 テで本当に面に戦ったのは、だけだった。 関連項目•
次の第五遊撃部隊とは、『』の版第5話で編成された艦隊の名称である。 のを暴く「」での鍵を握るといわれている。 概要 第5話にてでは 何故かいつもどこかにしているのにより、全艦隊の解散・再編成がなされた。 ()はから共に戦ってきた旧の僚艦との別れを惜しみ、新たにを組む僚艦に不安と期待を抱く。 そして組まれ、の配属先となった第五遊撃部隊は の仲の二隻と、 に住まう二隻を含んだ最悪の編成だった。 4話まで編成されてきた各艦隊は2. 3艦種の混合はあったが、当艦隊では「」「」「(2種別)」「」と4艦種にも及ぶ編成であり、 性的には遊撃隊の名にふさわしく万な艦列ではあるが、上記のとおり性格的な部分での相性が悪く、後にに旗艦が決まるまで5回ものたびにになるところであった(それでも沈はしなかったのはなのか不意は突かれなかったのか、やはり練度分はあったは定かではない)。 第7話においてはをったが負傷したため戦線を離脱。 代理としての嘆願と・・そしての判断によってがの代わりに参入している。 5話で旗艦に就任。 金剛型一番艦 高速戦艦 金剛。 4話にてを支えようとするのを示し、第五遊撃部隊でもを支える。 加賀型一番艦 正規空母 加賀 の片にしてさんの。 5話ではに対して手厳しいものの7話ではをい、やの事を認めている ている 節がある。 翔鶴型二番艦 航空母艦 瑞鶴 五航戦のの方。 に反するものの5話を経て少し打ち解ける。 いつの間にかに対してはある程度認めている模様。 球磨型三番艦 重雷装巡洋艦 北上 の。 2話ではにの講義を行ってやっていたが本人は忘れていた模様。 球磨型四番艦 重雷装巡洋艦 大井 の。 やにも手厳しい事を言うがと組んでの満載っぷりは健在。 翔鶴型一番艦 航空母艦 翔鶴 7話でをって負傷したの代わりに、自身の懇願と・・の判断を経て代理で加入。 がと打ち解けるようになった件に関してにはしている模様。 主人公としての吹雪 あまりにも今更な話だが、 は開始前の宣伝から「の」として取り扱われている。 当然だがなどではない。 「離散しかけたを何とか取り持とうとする」という姿はの在り方の一つである。 の像として・問わず「同士の不和を仲介しようとする」はあまり見ないため、 や、友人達の抱える問題に首を突っ込んで信頼を勝ち得ていく版も 「とは違う方面で艦隊を維持しようとする」であると言えるだろう。 関連動画 関連項目• - ノベラにおける難あり部隊• 礼号 - 史実における「 が ・ を揮した」.
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