カテゴリ• ヒレかつサンド• 特選上ヒレかつサンド• ミンチかつサンド• 手作りコロッケサンド• 厚切りもち豚ロースかつサンド• 海老かつサンド• ミルフィーユロースかつサンド• 特選黒毛和牛ヒレかつサンド• とんかつ専門店の絶品かつサンド• 2つの味が楽しめるペアサンド• 期間限定の梅しそとんかつ弁当• 期間限定の梅おろしとんかつ弁当• 九条ねぎとんかつ弁当• 九条ねぎおろしとんかつ弁当• かつひろJr. のお弁当• かつひろJr. の黒毛和牛• とんかつ専門店の惣菜• とろーりとろけるチーズかつ• とんかつ専門店のかつカレー• サラダ• ドリンク・デザート• とんかつ専門店のかつ盛り合わせオードブル• ハンバーグ弁当.
次の1 2 3 4 5 6 7 8 1 政界登場の仕方 岩倉具視は文政八年 (一八二五)に生れ、大久保利通は、その五歳年下、天保元年 (一八三〇)の生れである。 具視は前権中納言堀河康親 (やすちか)の子で、岩倉具慶 (ともやす)の養子となった。 彼は、朝廷の制度改革、公卿の気風一新の自説をとりあげてもらうため、関白鷹司政通 (たかつかさ・まさみち)の和歌の弟子に志願した。 その効あって、安政元年 (一八五四)侍従となった。 この地位を具視と競ってやぶれた滋野井公寿の父実存は 「嗚呼今日は、執柄家にイン縁 (いんねん=手づる)するに非らざれば立身栄達を計ること能はざるなり」 (『岩倉公実記』)となげいた。 同じような話が、 大久保利通についても伝えられている。 大久保家は薩州下級藩士の家、父の次右衛門は、御家騒動の高崎崩れ (お由羅(ゆら)騒動)に関係して島流しの処罰をうけた。 利通は、岩下方平・伊地知正治 (いじち・まさはる)・有馬新七・海江田信義らと精忠組と名づける尊攘派を結成したが、彼の行き方は、同志の西郷隆盛や有馬新七とちがい、藩権力と正面から抗争するという危険な道をとらなかった。 藩主の父で、その実権をにぎる島津久光に接近する機会を求め、久光の囲碁の相手の吉祥院のもとに通って、碁の稽古をはじめ、ついに久光の知遇をえて出世の緒口をつかんだ。 既成の秩序に歯向かわず、それを利用し、具視の場合は関白、利通の場合は藩主の父に接近し、その信任をえ、それによって自己の志の実現をはかるいき方は、似かよっていた。 それだけに両者ともに、漸進的な改革派であった。 具視の改革意見は、安政五年 (一八五八)孝明天皇に内奏した「神州万歳策」に明らかである。 結論は、幕府が要請していた日米通商条約の勅許に反対し、攘夷の武備充実に全力をつくせというにあるが、その特色は、幕府排除の動きに反対し、公武一和を主張した点にあり、みだりに王政復古を夢み、あるいは雄藩大名の力に依頼することに反対の意を表明している。 利通も、久光を通しての上からの改革という線を崩さず、先輩で親友の西郷が、久光とぶっかり、主君の措置に不信と不満の言をもらしていたのとちがって、同志の過激派の抑制につとめる「忠臣」ぶりを発抑し、その功で異例の抜擢をうけ、文久元年 (一八六一)、小納戸 (こなんど=調度係)役の重職についた。 両人とも、このままでいけば、危ない目にあわずにすんだかもしれないが、同時に維新変革の波にとりのこされたにちがいない。 ところが時勢の激流は、彼らを危ない橋を渡らさずにはおかなかった。 岩倉具視 大久保利通 2 公武合体をかかげて 大老井伊直弼は、尊攘派および将軍継嗣に一橋慶喜を擁立する幕政改革派にたいしていっせいに弾圧を強行した。 この安政大獄の嵐は、朝廷内にも吹き荒れた。 安政六年 (一八五九)幕府の強請によって、対幕強硬派の前関白鷹司政通・左大臣近衛忠照 (このえ・ただひろ)・右大臣鷹司輔煕 (すけひろ)前内大臣三条実万 (さねつむ)は、官を辞し剃髪引退することとなった。 具視の出世の手引をしてくれた政通が処罰されたからには、彼の運命にも危険はあった。 しかしたくみにこの危機をのりきった。 彼は持説の公武合体論を看板に、政通らの処罰の緩和を求める孝明天皇の信任と依頼をうけるとともに、所司代 (しょしだい=御所の幕府側責任者)酒井忠義 (ただよし)に接近しその信頼をえた。 万延元年 (一八六〇)、井伊大老は、桜田門外で水戸浪士の襲撃をうけ殺された。 老中安藤信睦 (のぶまさ)・久世広周 (くぜ・ひろちか)を中心とする幕閣は、反幕運動の鋒先をそらすため、公武合体政策をとり、皇妹和宮 (かずのみや)と将軍家茂 (いえもち)の結婚を実現しようとはかった。 天皇の反対と幕閣の熱望、その間の斡旋にあたったのが幕府側では所司代酒井忠義、朝廷側では具視と千種有文 (ちぐさ・ありぶみ)であった。 具視は、和宮の婚儀を天皇にすすめた。 彼の説く理由は、幕府には内憂外患を解決する力がないから、朝廷に政権を回復する計画を立てるべきだが、それには天下の大乱をひきおこす急進策ではいけない、皇妹の婚儀を許す条件として、幕府に条約破棄を誓約させ、幕政を監督する実を獲得すべきであるというのであった。 攘夷は熱望するが、倒幕には反対だという天皇の意向にまったく一致した、巧妙な説得であった。 かくて文久元年 (一八六一)、和宮が江戸におもむくにあたって、中山忠能 (ただやす)ら公卿の一員に加わって供奉した。 このころになると具視は、朝廷における対幕折衝の実力者になっていた。 当時彼の綽名 (あだな)は、守宮 (やもり)であった。 すばしこくて、出没を予測できぬ策謀ぶりを評したのであろうが、陰険冷血の感がこい。 文久二年 (一八六二)三月、一〇〇〇人の大兵をひきいて、島津久光は上京の途についた。 公武合体を実現し、これによって中央政局での薩藩の地位を確立するのが、久光のねらいであった。 具視は、久光に公武合体の実現と、折から京都に集まって挙兵を策していた尊攘激派志士の鎮圧とを期待し、議奏中山忠能・同正親町 (おおぎまち)三条実愛 (さねなる)らとともに、斡旋にはたらき、久光に賜わるべき勅旨案を相談した。 彼は公然朝議に関係する地位になかったが、この枢機に加わる隠然たる実力をもっていた。 すでに薩藩側の対朝廷折衝を担当した堀次郎・大久保利通らと連絡をもっていた。 その後利通との十数年にわたる密接な関係がはじまった。 具視らと利通らが画策した筋書きに従って、久光は四月入京し、安政の大獄で処罰をうけた公卿の赦免と幕閣人事の更迭を建言し、これにたいし不穏の企てある浪人を鎮静するようにとの勅諚が下った。 ときに薩摩の有馬新七、久留米の真木和泉 (保臣)、筑前の平野二郎 (国臣)、豊後の小河一敏、長州の久坂玄瑞らの激派は、久光の入京を機会に尊王擅夷の兵をあげようともくろんでいた。 大島に流されていた西郷は、許されて久光の一行に加わることを命ぜられると、さっそく無断で京都に先行し、志士の中にとびこんだ。 彼は「私死地に入らず候では、死地の兵を救ふ事出来申すまじく」というつもりで、志士の蜂起を鎮めるために、志士の仲間に入った。 しかし久光の眼には、彼が暴徒を煽動していると映じた。 そこで久光は、西郷を無断上京の罪で、徳之島に流した。 西郷は罪のないのに「国賊」あつかいされたのを憤り、「馬鹿らしき忠義立」てはやめたと、はげしい不満を書簡に吐露した。 西郷は、同志が久光の弾圧をうけるにしのびなかった。 しかし利通は、冷静に、忠実に、主人の命に服し、迷いなく忠義立てをつづけた。 久光は激徒の鎮圧にのり出し、家臣をして、有馬新七ら薩藩激派八人を「上意」の名で不意打ちに斬らせた。 これが寺田屋騒動である。 利通は、同志と藩府との和協をのぞみ、その努力もした。 しかしそれができぬと見きわめると、躊躇なく久光の措置を支持した。 骨肉同様の人々を、事の真意を問わず罪におとしいれるとは何事かと憤りなげいた西郷とは対照的であった。 島津久光は勅使大原重徳 (おおはら・しげとみ)を擁して、江戸におもむき、幕制改革の勅旨を伝え、一橋慶喜と松平慶永が中心とする幕閣を実現させた。 利通はこれに随行し、江戸政局の晴れの舞台で活動した。 ときに具視も、六人の競望者をおしのけて、左近衛権中将に昇任した。 両人ともに得意の時節であった。 3 波瀾の政局 島津久光が江戸におもむいている間に、京都では薩州藩の競争相手である長州藩と土州藩の尊攘派が、一層強硬な勅旨を幕府に下す策謀をめぐらした。 彼らは、佐幕派公卿の排撃運動をおこし、和宮の婚儀に尽力した内大臣久我建通・左近衛権少将千種有文・中務大輔富小路敬直と具視、および少将掌侍今城重子・右衛門掌侍堀河紀子を「四奸二嬢」として、これに「天誅」を加うべしと脅嚇攻撃した。 紀子は具視の実妹である。 そこで朝廷では、具視・有文・敬直らに内諭して、近習の役を辞退させた。 しかし尊攘派は追求の鉾先をゆるめず、一三人の少壮公卿は連署して、幕府に「阿諛 (あゆ=こびる)」した罪をもって処罰されたいと建言した。 この一三人の中には、のちに維新政府に具視とならんで柱石となった右近衛権少将三条実美も加わっていた。 こうした圧力によって、朝議はついに具視ら三名に蟄居・辞官・剃髪を命じ、建通・重子・紀子も同様の処罰をうけた。 しかも尊攘派の攻撃はやまず、天皇毒殺を意図したとして、二日以内に洛中を退去せねば、首を四条河原にさらすであろうとおどした。 そこで 具視は知行地である洛北岩倉村の民家に身をひそめることとなった。 岩倉村・岩倉具視隠栖の庭 岩倉らが屏息 (へいそく=ちじこまる)したあとの朝廷は、尊攘派志士と手をむすんだ三条実美・姉小路公知らの天下となった。 文久二年一〇月、三条と姉小路は勅使となり、土州藩主山内豊範をしたがえて幕府にのぞみ、攘夷実行を督促する勅書を伝達した。 浪人志士は次から次と強硬策かうち出し、これが朝議で決定され叡慮となった。 彼らに反対する者は、誰でも佐幕派の「奸物」と非難され、「天誅」のおどしの対象とされた。 翌年三月将軍は上京参内するを余儀なくされた。 天皇は関白以下の公卿、将軍以下の大名をしたがえて賀茂社に行幸、攘夷を祈願した。 将軍は攘夷実行の期日を奏上するのやむなきに至り、五月一〇日と定めた。 尊攘派は、この攘夷実行を機会に、王政復古を実現することを夢みた。 しかし孝明天皇は、強い攘夷主義者であったが、倒幕は好まず、まして浪人・志士勢力をもって「下より出る叡慮」という事態をひきおこすことに不満をもっていた。 この天皇の意向をもとに、中川宮 (朝彦親王)らの公武合体派公卿と会津藩・薩州藩とが提携し、文久三年 (一八六三)八月十八日の政変を起した。 クーデターは美事に成功した。 これまで京都政局を左右していた長州藩は、三条実美ら尊攘派公卿を擁して、京都を退かねばならなくなった。 朝廷側では、中川宮・前関白近衛忠熈、武家側では島津久光、会津藩主で京都守護職の松平容保、将軍後見職一橋慶喜らが京都政局の中心となった。 かねて具視が主張してきた公武合体策に賛同する勢力の天下がやってきた。 しかし具視らの勅勘は解けず閉居生活が続いた。 4 逆境に立ちむかう具視 具視がふたたび政治活動をはじめたのは、慶応元年 (一八六五)になってからである。 彼は薩人井上石見が来訪したので、「叢裡鳴蟲」と題する意見書を示し、小松帯刀と利通の見解を求めた。 この意見は公武一和説であるが、将軍は常時京都にあり、国是は、朝廷と幕府が施政の大綱を起案し、諸藩主にこれを諮問し、その答申をまって宸裁 (しんさい=天子の考え)をもって天下に布告するというのだから、公武合体の形式をとった漸進的王政復古策だといえよう。 ついで「続叢裡鳴蟲」を草して、これまた利通に示した。 これは、島津久光の偉材であることをたたえ、征長問題について、薩藩が幕府と長州の間に立って斡旋・調停すべきだとうつたえたものである。 さらに九月には、「全国合同策」を中御門経之に渡し、叡覧に供してほしいと頼んだ。 これは、列国が合力して我にせまる状勢にかんがみ、全国合同をはからねばならぬとし、これには叡慮終始一貫せず、聖断前後齟齬しか弊か改め、朝廷が幕府・薩長両藩および志士に御沙汰書を下し、上下が一新協和することが必要だと論じたものである。 具視はあせっていた。 急迫した内外状勢を座視するに忍びぬ衷情からかも知れない、あるいはかつて大原勅使東下の際に交渉のあった薩州藩の中央政界での復帰に、自己の政界復帰を賭けていたのかも知れない。 しかしこれらの意見書が、希望する大久保・小松や天皇の眼にふれるより前に、意外な不幸の結果をもたらしてしまった。 というのは、具視ら和宮降嫁に関係し処罰された四人の公卿を宥免 (ゆうめん=赦免)する問題が朝廷に起ったが、具視が薩州藩士の出入りを許しているという理由から反対され、実現を見なかったのである。 反対論者の中心は中川宮であり、「岩倉は中々六箇敷 (むつかしき)者にて必ず天下を引くり返す程の事も可致 (いたしかねない)」と疑惑の眼をもって見ていた (『岩倉公実記』)。 しかし具視は、落胆もしないし、謹慎することもしない。 親友六条有容に書を送り、公卿はたかいに猜疑を去り嫉妬の念を棄てて同心協力すべきだと堂々論じたものであるが、書中、近来公卿で時局につき建白し、その書の朝廷に達せぬうちにすでに世間に流布するものあり、その多くは建白者の本人が流している、それは愛君憂国の至誠より出るか、己の才名を売り己の智力を誇るための行為か、前者であることはほとんど稀だとのべている。 一体彼の場合は、どちらなのであろうか。 前記した「全国合同策」は、中御門経之に託して叡覧に供せんと願ったものであるが、他方でこの謄本は井上石見の手によって島津久光に提出され、この実現の報をえて具視は喜んだと『岩倉公実記』は記している。 自分の場合だけは例外だというのだろうが、第三者から見れば、具視いうところの己の才名を売りこむ行為だと考えられても仕方のないことではないか。 しかし具視は、めあての薩藩の支持がえられなかった。 彼は井上石見に、薩藩への依頼の熱意を語り、もし自分が貴藩に到底容れられぬというのであれば、腹蔵なくありのまま知らせてくれとのべ、その模様によっては禅門に帰するか、風月を楽しむかの覚悟を固めるであろうと衷情を披瀝している。 これは具視だけの嘆きではなかった。 数年前の朝廷と幕府との関係が一変しようとしていた。 幕府の権威は、第二回征長の役での幕軍のみじめな敗北で、一気に失われた。 幕府の権威の失墜は、公武合体により朝威の強化をはかってきた朝廷の権威が同時に失われる危険をふくんでいた。 幕府に代わって依頼すべき実権あるものが必要であった。 兵力をもつ雄藩、兵力を動かす実権をもつ雄藩指導者の力に頼ることによってのみ、朝廷・公卿の権威の維持・強化、王政復古の実現を企てることができた。 それならば、雄藩指導者の側は、どう考えていたのか。 5 権力奪取の謀略 当時利通は京都にあり、西郷とともに大活躍をしていた。 彼らはすでに単純な尊王攘夷論者ではなかった。 利通は第二回征長の役に反対であった。 征長を行ない内乱となれば、清国の轍をふむであろう。 独立を達成するには攘夷では駄目で、開国による富国強兵が必要だとはっきり自覚していた。 慶応二年 (一八六六)四月、利通は薩藩の出兵拒絶建白書を書き、これを留守居木場伝内の名で幕府に提出したが、老中は、その書面が藩主の名でなければ受理できぬと拒んだ。 そこで利通は家老岩下方平と相談し、藩主忠義の署名に改めて提出し直した。 老中は、藩主のいる鹿児島と往復するには数十日を要するはずであるのに、このように速かに再提出したのは、在京藩臣の専断に外ならぬとなじった。 これにたいし岩下は、重役の意見はすなわち主人の意見だと突っぱった。 このエピソードが物語るように、利通や西郷や小松や岩下ら指導層は、すでに藩政の実権をにぎっていた。 必ずしも藩主の決裁を一々仰ぐ必要はない。 いな、公武合体論の島津久光の意向を無視して、倒幕の方向に藩の進路を決め、藩主の名を使っていた。 利通は、もはや三、四年前までのような、久光に忠実な家来ではなかった。 それだけではない。 利通は、幕府の征長の奏請が勅許されても、「非義の勅命」は勅命でないのだから、従う必要はないとのべている。 尊王絶対ではない。 勅命は彼らが正義と考える価値を体現する故に尊重されるのだと考えるのである。 この考えをもう一歩すすめれば、天皇の権威は、彼らの政治目的に役立つが故に、尊敬に値することになるのである。 岩倉も、大久保同様、従来の限界をふみこえていた。 慶応二年 (一八六六)八月、彼の背後での画策にもとづいて、中御門経之・大原重徳ら二二人の公卿が列参し、諸藩召集のこと、具視らの赦免のこと、征長解兵のこと、朝政改革のことを建言した。 朝政改革の要求には、征長勅許の責任を問い、関白二条斉敬と中川宮の辞任を要求することが含まれていた。 この結果、両人は一度は辞表を提出したが、 孝明天皇はこれを許さず、かえって一〇月には、列参関係者の「徒党建言」にたいし処罰をおこなった。 かくて具視ら一派の画策は、天皇によって阻まれた。 このとき、一二月二五日天皇は、突然天然痘で亡くなられた。 当時薩長志士と密接な連絡のあった英国公使館員アーネスト・サトウは、数年後に、裏面の消息に通ずる一日本人から毒殺だと確言するのを聞いたと記した (『一外交官の見た明治維新』)。 毒殺説は、天皇の死と同時に宮中内部に流れていたことは、明治天皇の祖父にあたる中山忠能の日記に載せられている宮中勤仕の老女浜浦の書簡にも記されている。 誰が下手人か、疑惑の眼は、具視とその周辺に向けられていた。 孝明天皇 毒殺か病死か、事実をつきとめる的確な史料は不足している。 しかし毒殺説が宮中内部に流れたことが物語るように、天皇の死がもたらす政治的意味は大きかった。 没年三六歳、まだ壮年の天皇が、もしこの後数年生き永らえたとしたら、後述する具視の活動も、倒幕の「密勅」も円滑には実現されなかったであろう。 天皇の死から最大の利益をえたものが、彼であったことは事実である。 具視は、文久二年の排斥運動をうけたときも、天皇毒殺を計画した罪が非難され、その雪寃 (せつえん=無実にする)のため苦心した。 その彼がまたこの噂の主となったのである。 6 専制政治家への成長 毛利家の歴史編纂にあたった中原邦平は、往年の志士と親交のあった人であるが、具視を評して「時と場合に拠ると、二枚の舌を使ひ兼ねまじき御方」とのべた (『坂本龍馬関係文書』第二)。 具視は「権謀術数」を得意とした。 慶応二年九月薩藩側に提示した「時務策」にこうのべている。 また障害も多い。 たとえば、屏風を立てるのに直立させれば、必ず倒れるから、これを屈曲せねばならぬようなものだ。 だから「権道」をもって、要路その他二、三の公卿、心志堅固の者と極密に熟計熟議して、内外相応じ、陰陽並び行なう時は、力を用いることがきわめて少なくして、功を収むることが速かである。 少数同志との熟計による極密の権謀術数、具視の本領発揮は、まだ 年少一五歳の明治天皇の践祚 (せんそ=天子になる)によって、俄然有利な道が開かれた。 処罰をうけていた親王・公卿がいっせいに赦免され、具視も入洛を許された。 朝廷内の状勢は一変した。 具視の政治活動は、慶応三年 (一八六七)に入って公然化した。 彼は大久保・小松・西郷をはじめ、中岡慎太郎・坂本龍馬ら志士と会談し、大宰府にいる三条実美とも連絡をとり、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之ら公卿とともに、王政復古の謀議にあたった。 この年後半期における大久保・西郷の権謀術数は、具視のそれを上廻っていた。 兵力のない朝廷にとっては、実力者である薩長両藩の提携に依頼せざるをえない。 また勅勘のとけていない長州藩にとっては、薩州藩に頼って、中央政界に復帰する機会をねらう以外にはない。 薩州藩は、実力もあり、中央政界に地歩もしめており、己の一挙手一投足如何で、天下の状勢も左右できる位置にあった。 まさに西郷・大久保の謀略の腕を存分にふるうことができる条件があった。 両人を中核とする薩州藩指導者は、薩長同盟をむすび、さらにこれを出兵盟約に発展させ、これに芸州藩を引き入れ、土佐藩倒幕派板垣退助とも提携を約束しながら、他方では後藤象二郎ら土佐藩主流派の大政奉還運動にたいしても協力を約した。 長州とむすんで幕府にたいし武力行使に出るか、士佐とむすんで幕府と平和的妥協をぱかるか、この両刀を適当に使いかけて、長土両藩を牽制し、ひとまず土佐の主張する将軍慶喜の大政奉還建白を実現させることを支持した。 しかしその裏では、その成果を無にするよう、薩長両藩主に幕府討伐の密勅を降下する工作をすすめた。 この密勅降下は、具視が得意とする権謀術数をめぐらす独壇場であった。 一〇月一三、四日薩長両藩主に倒幕の密勅が出たが、これは具視が玉松操をして起草させ、中山忠能が密奏し、宸裁を経たと『岩倉公実記』は記しているが、地の文の記述であり、「密奏」「宸裁」を証拠だてる史料は見あたらない。 今日島津家・毛利家に現存している密勅原本の写真から判定すると、勅旨伝宣の奏者として名を列ねる中山・正親町三条・中御門の三名は、その職務をもつ地位にもなく、かつ誰の花押もなく、形式上からいえば、きわめて異常なものといわざるをえない。 幕府側の史書、たとえば福地源一郎の『幕府衰亡論』も『徳川慶喜公伝』も、婉曲ながら、その真偽に疑いをさしはさんでいるのは、当然のことである。 しょせん真偽の判定は無用であろう。 それが密勅の密勅たるゆえんであり、権謀術数を本領とすると自称する具視の功績なのである。 38 この倒幕の密勅は、一四日に慶喜が政権ならびに位記 (いき=位書き)の返上を奏上するに一歩先んじたことによって、絶大の政治的効果をもった。 なぜなら、密勅の出ることが一日おくれれば、倒幕の名義は失われたからである。 7 維新指導者の政治手腕 一二月九日の王政復古大号令も、天皇と藩主を完全なロボットにした大久保・西郷・岩倉らの大芝居であった。 この計画は、文久三年 (一八六三)八月一八日の政変の「故智」を踏襲した、宮中クーデターである点は同じであるが、決定的に異なる点は、五年前の政変では、天皇や松平容保・島津久光ら藩主が主体的に行動したのだが、今回は藩士出身の倒幕派や具視ら一、二の公卿にイニシアティブがまったくにぎられていたことにあった。 一二月九日、勅使千種有任が具視の邸に行き、蟄居宥免の宣旨を授け、具視が王政復古の勅書をもって宮中におもむき、かねての手筈で突如参朝した 王政復古派の公卿・藩主を集めた小御所で、摂関・幕府の廃止を宣言する王政復古の大号令が天皇から言い渡された。 西郷は諸隊を率いて宮中周辺を警備し、利通は宮中に入って、計画の進行を監視し、激励した。 小御所会議のクーデター この間、利通は、厳重な機密の保持、意外と思わしめる英断、そして人心をして戦慄せしめるほどの権威の発揮というクーデター方式を強硬に主張し、これなくては朝廷の基礎は確立しないと力説した。 この方針を朝廷内で十二分に実行したのが具視であった。 両人は、人心が二百余年の泰平の旧習に汚染しているから、戦争をおこすことで、天下の耳目を一新し、天皇政権を樹立できるのだとのべ、無理を承知で、徳川家の厳罰論を唱え、徳川氏と一戦を交える機会を待ちのぞんだ。 そして思惑どおり、鳥羽・伏見の戦から戊辰戦役にもちこみ、天皇政権の樹立に成功した。 公卿の実力者岩倉、藩士層倒幕派の実力者大久保、この二人のコンビを基軸に、王政復古は実現した。 明治維新の功績者は多い。 大久保とならんで「維新の三傑」と称された西郷と木戸がいる。 公卿の中で三条の名を逸することができない。 中道で倒れた武市瑞山・高杉晋作・坂本龍馬たち、また勝海舟ら幕府側の人材も数えなければならない。 いや無名の全国草莽の志士の力こそ評価せねばなるまい。 それならば岩倉と大久保の、余人と異なる独自の活動とは一体何であるか。 結論を先にいえば、大政奉還から王政復古という、維新変革の決定的瞬間に、宮中クーデター方式の政変を実行したことであった。 それは権力の交替を最少限の規模の内乱をもって実現したこと、しかも内乱が小規模かつ短期であった割りに、なしくずし的変革の効果を大きくし、旧幕権力の残存を最少とし、新しく創出された天皇権力の強化をもたらすという効果かあげた。 そのことは、東アジアに向けての列強の侵略が進められつつある国際状勢の下で、歴史が必然たらしめた封建的分立国家から近代的な統一国家への移行の基礎をきずく、最短かつ安全な路線をたどったことを意味するといえよう。 彼らはクーデターの名手であった。 その策謀の手腕は、幕末政局の中で養われた。 古代以来の因襲の強い宮中、中世的ともいうべき、おくれた土地制度をもつ薩州藩、およそ開明的な空気とは縁遠い場で、育ちきたえられ、かつ維新後の政治的権威のより所もそこにおかれていた。 しかも両人の視野は、そうしたせまい世界から、他人に先がけてぬけ出ていた。 岩倉の場合は、対幕折衝にあたった経験から、大久保の場合は、藩の代表として江戸・京都の中央政局で活動した閲歴 (えつれき=経歴)からえた識見であった。 広く国際状勢の中で、日本全体をどう導いていくか、その損得勘定を冷静にできる現実主義のナショナリストであった。 その政治活動は皇室の権威と藩の実力に依拠しながら、公卿の利益、藩主・藩士の利害だけを代表しなかった。 天皇・公卿・大名・藩士の古いあり方を否定することに容赦はなかった。 新しい国家体制の中での、新しい彼らのあり方を指示し、その限りでのこれら封建支配者の利益を擁護した。 この絶対主義政治家としての方針と、衆と行を共にせぬクーデター政治家の資質と相まって、彼らにとり、心を許す同志は少なかった。 ある意味で、 盟友を次々と裏切ることで、明治政府の最大の指導者となったともいえよう。 三条実美は太政大臣の栄職にありながら事実上ロボット化され、薩の西郷、長の前原一誠、土の板垣・後藤象二郎、肥の江藤新平らの同僚は、彼らのために追われ、また殺され、数少ない味方の木戸も、大久保に裹切られるという不安をぬぐい去れなかった。 しかしそれは岩倉・大久保の個人的責任ではない。 なしくずし的変革としての明治維新の性格、一九世紀後半東アジアでの日本の近代化という歴史的条件の要請には、こうした冷酷無惨な政治行動の他には応じ切れなかったと見るべきだろう。 盟友・後輩の忠実な友、信頼される親分であり続けようとする努力において、最後まで鹿児島の小天地から脱却できなかった西郷の行き方とは対照的である。 渡米した大久保のマンガ 8 大久保の予見と岩倉 岩倉と大久保は、官僚政治家の原型を創り出した。 両人のコンビになる政権が、明治初年、天皇制国家の建設に果たしたはなばなしい業績は、彼らに指導された維新官僚陣の有能さを物語っている。 それは世界の大勢を知り、国家の進路に見とおしをもっていたからである。 これは、当年では、欧米の情報と文化を摂取する独占権をもっていた中央政府首脳の特権であった。 在朝政治家と在野政治家との識見のへだたりは、一層ひろがった。 自分だけが日本を富強の国たらしめる針路を知っているという自負の強さと、自分だけが国家社会の運命に責任をもっているという責任感の深さがあった。 これが彼らをして、終始政敵の非難にさらされながら、自己の歩みに迷いをもたず、勇断の政治を行ないえた精神的支えであった。 明治一一年 (一八七八)五月一四日、大久保は馬車で参朝の途中、麹町清水谷で暴漢におそわれて死んだ。 犯人は石川県士族島田一郎ら六名で、士族的自由民権派であり、大久保の専制の罪を弾劾した斬奸状をもっていた。 時に数え年四九歳。 兇刃に倒れた日、彼は福島県令山吉盛典にこう語った。 明治元年から一〇年に至る第一期は、兵事多くして創業の時であったが、一一年から二〇年までの第二期は、内治を整え、民産を殖するもっとも大切な時期であり、その後の一〇年の守成期は、後進賢者の継承修飾を待つものであると。 軍事中心政策から内治中心政策への転換、同時に従来の専制政治の形態に修正を加える必要を予感していた。 そのことは一一年三月地方会議の設置をふくむ地方自治制についての大久保の建議にあらわれていた。 大久保の死後、岩倉と伊藤博文のコンビが明治政府の大黒柱となった。 しかしこのコンビは、前代ほどしっくりいかなかった。 大久保のいう第一期の・目標、中央政府の強化と統一国家の確立に代わる第二期の目標は、決して迷いない確信あるものではありえなかった。 在野の要求に機先を制して、上からの文明開化政策を遂行するのとはちがった、在野の自由民権運動に譲歩しながら対抗することであったからである。 自由民権運動は、一二年から、国民運動としての性格をもつ本格的な盛りあがりを見せ、一四年 (一八八一)北海道開拓使官有物払下げ事件という政府の汚職問題を契機に、最高潮に達した。 このとき、岩倉は、腹心の井上毅 (こわし)の助言をえ、伊藤の協力をえて、己が本領とするクーデターの手腕を存分に発揮した。 彼は、今回もまた舞台裏で秘密にお膳立てをととのえた上で、一気に国会即時開設と自由主義的憲法を主張する大隈重信の参議罷免を決定すると同時に、来る二三年をもって国会を開くとの詔勅を発して、民権派の攻撃の鋒先をそらした。 それ以後、 彼は、天皇の大権を維持した憲法を実現すること、議会開設前に皇室制度の基礎を固めることに全力を傾けた。 彼のもくろみは美事に成功したといえる。 明治二二年 (一八八九)発布された大日本帝国憲法は、天皇の権力を実質的には制限するのではなく、逆にこれを法的に確立するものであった。 サンフランシスコの雑誌に のった岩倉具視のマンガ しかし彼は、死の直前、明治八年の漸次立憲制度を採用するとの詔勅を発布したことを後悔し、すでに開かれていた府県会の中止を求めたように、歴史の進歩、日本の前進を指導したと自負しえたかつての立場から、自らの行動に自信を失い、そして歴史の進歩をおしとどめようとする反動の立場に転落していた。 それは岩倉個人の問題というよりも、近代天皇制それ自体の歴史的位置と役割とが変わっていたからである。 彼は明治十六年 (一八八三)七月二〇日、数え年五九歳で死んだ。 参考史料・文献 勝田孫弥『大久保利通伝』 『大久保利通文書』 『大久保利通日記』(共に史籍協会叢書の内) 『岩倉公実記』 『岩倉具視関係文書』(史籍協会叢書の内) ****************************************.
次の「叙爵」の表現に関してはこのページのでの議論に基いて記述されています。 編集作業を行う方は、に目を通してから作業を行ってください。 日本の華族一覧(にほんのかぞくいちらん)はにからまであった制度の叙爵者の一覧である。 ここでは五十音順で表記する。 目次 あ行 [ ] あ [ ] 叙爵者 (名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (あいうら のりみち) 男爵 勲功 明治28年8月20日 海軍中将、の功により叙爵。 昭和18年11月に孫は爵位を返上 (あおき しゅうぞう) 子爵 勲功 明治20年5月9日 条約改正にあたり功。 のち (あおき しげよし) 子爵 武家 1万石 明治17年7月8日 (あおやま ただしげ) 子爵 武家 6万石 明治17年7月8日 (あおやま ゆきよし) 子爵 武家 4万8000石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (あおやま ただす) 男爵 勲功 明治20年5月24日 、秋田県知事等を務めた功 (あおやま たねみち) 男爵 勲功 大正6年12月14日 研究者。 東京帝大医科大学長等を歴任 (あかし もとじろう) 男爵 勲功 士 大正8年10月24日 、在任のまま死去の前々日に叙爵 (あかまつ のりよし) 男爵 勲功 幕府十五番組() 明治20年5月24日 造船学で重きをなす。 昭和20年7月子の没後、襲爵手続きせず (あきた あきすえ) 子爵 武家 5万石 明治17年7月8日 (あきづき たねしげ) 子爵 武家 2万7000石 明治17年7月8日 父のは参与、のちの侍読 (あきもと おきとも) 子爵 武家 6万石 明治17年7月8日 (あさだ のぶおき) 男爵 勲功 明治40年9月21日 に功。 陸軍大将 (あさの ながこと) 侯爵 武家 42万6500石 明治17年7月7日 に出兵、維新後元老院議官 (あさの ただずみ) 男爵 武家 広島藩家老・三原領3万石 明治33年5月9日 筆頭家老。 叙爵時の名は哲吉。 (あさの もりお) 男爵 武家 広島藩家老・東城領1万石 明治33年5月9日 (あさの やすなが) 男爵 武家 浅野侯爵家分家 明治21年11月1日 (あしかが おとまる) 子爵 武家 5000石(10万石格) 明治17年7月8日 ・の末裔 (あすかい まさもち) 伯爵 公家 928石 明治17年7月7日 (あそ これあつ) 男爵 神官 神職 明治17年7月8日 (あだち まさな) 男爵 勲功 明治39年12月15日 東宮亮・諸陵頭を歴任 (あねがこうじ きんとも) 伯爵 公家 200石 明治17年7月7日 父のは幕末、の中心として活躍 (あの さねちか) 子爵 公家 478石 明治17年7月8日 昭和19年12月子没後に後継者を欠く (あぶらのこうじ たかてる) 伯爵 公家 150石 明治17年7月7日 (あべ まさこと) 子爵 武家 陸奥10万石 明治17年7月8日 (あべ まさたけ) 伯爵 武家 備後11万石 明治17年7月7日 で功 (あべ まさのり) 子爵 武家 1万6000石 明治17年7月8日 福山阿部家の分家。 貴族院子爵議員。 (あぼ きよやす) 男爵 勲功 肥前国 明治29年6月5日 海軍中将に進み、日清戦争で功 (あやのこうじ ありかず) 子爵 公家 200石 明治17年7月8日 (あらい きよかず) 男爵 勲功 肥前国 明治40年10月2日 父のは陸軍中将に進み、に功 (あらお これしげ) 男爵 武家 家老・米子領1万5000石 明治39年9月17日 之茂の夫人はの三女 (あらお よしなり) 男爵 武家 鳥取藩家老・倉吉領1万2000石 明治39年9月17日 (あらき さだお) 男爵 勲功 昭和10年12月26日 の功により叙爵、のち (あらきだ やすくに) 男爵 神官 神職 明治23年8月27日 (ありさか なりあきら) 男爵 勲功 長州藩士 明治40年9月21日 陸軍でを発明して陸軍中将 (ありち しなのじょう) 男爵 勲功 長州藩士武術指南役1000石 明治29年6月5日 日清戦争に功 (ありま よりつむ) 伯爵 武家 21万石 明治17年7月7日 (ありま よりゆき) 子爵 武家 下野1万石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員。 子のが昭和18年11月に爵位返上 (ありま みちずみ) 子爵 武家 5万石 明治17年7月8日 (ありま しんいち) 男爵 勲功 明治40年9月21日 海軍中将に進み、日露戦争で功 (ありま よりかず) 男爵 武家 明治30年7月1日 (ありよし たつひろ) 男爵 武家 家老1万8000石 明治39年9月17日 上卿三家(第三座) (あわた あきつね) 侯爵 皇族 昭和15年10月25日 の三男、願いに依り臣籍降下 (あわたぐち さだたか) 男爵 公家 50石 明治17年7月8日 (あんどう のぶもり) 子爵 武家 陸奥3万石 明治17年7月8日 (あんどう さだよし) 男爵 勲功 明治40年9月21日 陸軍大将、日露戦争に功あり (あんどう なおゆき) 男爵 武家 3万8800石 明治17年7月8日 (あんべ のぶまさ) 子爵 武家 2万250石 明治17年7月8日 昭和21年12月養子の没後、襲爵手続きせず い [ ] 叙爵者 (名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (いい なおのり) 伯爵 武家 20万石 明治17年7月7日 戊辰戦争で倒幕軍に加わった (いい なおやす) 子爵 武家 2万石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (いいだ としすけ) 男爵 勲功 長門国 明治40年9月21日 陸軍中将に進み、日露戦争に功 (いえ ちょうえい) 男爵 武家 明治23年5月26日 (いが うじひろ) 男爵 勲功 家老・宿毛領6300石 明治年5月9日 の弟。 伊賀氏初代はの甥。 養父の維新の功 (いぎ ただなる) 男爵 武家 家老・虫明領3万3300石 明治39年9月17日 筆頭家老 (いけがみ ともふさ) 子爵 公家 50石3人扶持 明治17年7月8日 (いけだ あきまさ) 侯爵 武家 31万5200石 明治17年7月7日 (いけだ かつよし) 男爵 武家 岡山池田家分家 明治17年7月8日 (いけだ けんさい) 男爵 勲功 東京都 明治31年2月2日 日本最初の (いけだ ながとし) 男爵 武家 岡山藩家老・周匝領2万2000石 明治33年5月9日 (いけだ てるとも) 侯爵 武家 32万石 明治17年7月7日 (いけだ のりさだ) 子爵 武家 因幡1万5000石 明治17年7月8日 鳥取池田家分家 (いけだ のります) 男爵 武家 1万573石 明治17年7月8日 播磨神崎郡福本領主。 陸軍医総監を歴任。 昭和16年4月没後に襲爵手続きせず栄典喪失。 (いしこ みつてる) 男爵 武家 家老・美濃駒塚領1万石 明治33年5月9日 (いしだ えいきち) 男爵 勲功 明治29年6月5日 大正15年3月24日に孫のは爵位返上。 陸軍少将、特命全権公使、元老院議官等歴任 (いたがき たいすけ) 伯爵 勲功 土佐藩士 明治20年5月9日 東山道先鋒総督府参謀。 華族一代論を主張し、没後襲爵手続きせず (いたくら かつすけ) 子爵 武家 備中2万石 明治17年7月8日 (いたくら かつひろ) 子爵 武家 備中2万石 明治17年7月8日 (いたくら かつみ) 子爵 武家 上野3万石 明治19年4月24日 元川越藩主松平康載。 松井(松平)家を離籍後に板倉家の婿として家督相続 (いたくら かつみち) 子爵 武家 三河2万8000石 明治17年7月8日 (いたみ しげかた) 男爵 勲功 明治29年6月5日 諸官を歴任、後に元老院議官 (いちき きとくろう) 男爵 勲功 昭和8年4月25日 、等を歴任 (いちじょう さねてる) 公爵 公家 2044石 明治17年7月7日 海軍大佐から東宮侍従長に任ぜられた (いちじょう さねもと) 男爵 公家 明治35年3月10日 (いちはし ながひさ) 子爵 武家 1万7000石 明治17年7月8日 (いつつじ やすなか) 子爵 公家 200石 明治17年7月8日 に随行 (いとう けいすけ) 男爵 勲功 明治34年1月22日 に師事。 長官 (いのうえ こわし) 子爵 勲功 家老長岡監物家臣 明治28年1月7日 発布に尽力。 や諸法令を起草 (いのうえ まさより) 子爵 武家 1万石 明治17年7月8日 (いのうえ まさおと) 子爵 武家 常陸1万石 明治17年7月8日 (いのうえ まさひで) 子爵 武家 上総6万石 明治17年7月8日 (いのうえ よしか) 子爵 勲功 薩摩藩士 明治40年9月1日 海軍大将。 昭和9年2月子隠居後、孫の良正は襲爵手続きせず (いのうえ ひかる) 男爵 勲功 明治40年9月21日 陸軍大将に進み、日露戦争に功 (いのうえ よしとも) 男爵 勲功 薩摩国 明治40年9月21日 海軍中将に進み、日露戦争に功 (いばらき これあき) 男爵 勲功 紀州藩士 明治28年8月20日 陸軍中将に進み、日清戦争に功 (いまえだ なおのり) 男爵 武家 家老1万2000石 明治33年5月9日 今枝内記家。 貴族院男爵議員 (いまき さだよし) 子爵 公家 118石 明治17年7月8日 (いまその くにてる) 男爵 公家 50石 明治17年7月8日 貴族院男爵議員 (いりえ ためもり) 子爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月8日 貴族院議員で、東宮侍従長 (いわい ゆきまさ) 子爵 公家 130石 明治17年7月8日 (いわき たかはる) 子爵 武家 2万石 明治17年7月8日 明治22年に夭折し弟のが家督相続。 (いわくら ともさだ) 公爵 公家 150石 明治17年7月8日 の次男。 その功により叙爵 (いわくら ともつね) 子爵 公家 明治24年4月23日 具視の三男。 明治17年7月8日男爵。 その功により長男が子爵に陞爵。 (いわくら とものり) 男爵 公家 明治17年7月8日 具視の孫。 明治16年7月13日、特旨ヲ以テ華族ニ被列候事 (いわくら みちとも) 男爵 公家 明治29年12月3日 具視の四男 (いわさ じゅん) 男爵 勲功 越前国 明治40年9月23日 宮中の侍医として奉仕 (いわさき ひさや) 男爵 勲功 土佐藩 明治29年6月9日 父のはを創立し、実業に功あり (いわさき やのすけ) 男爵 勲功 土佐藩 明治29年6月9日 総裁を歴任。 彌太郎の弟。 昭和20年12月子没後、襲爵手続きせず (いわした みちひら) 子爵 勲功 薩摩藩士 明治20年5月9日 元老院議官をつとめる (いわの もとすけ) 子爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月8日 (いわむら みちとし) 男爵 勲功 家老宿毛領主伊賀家臣 明治29年6月5日 農商務大臣、宮中顧問官を歴任 (いわむら たかとし) 男爵 勲功 家老宿毛領主伊賀家臣 明治29年6月5日 通俊の弟 う [ ] 叙爵者 (名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (うえすぎ もちのり) 伯爵 武家 14万石 明治17年7月7日 沖縄県令・元老院議官を歴任 (うえすぎ かつかた) 子爵 武家 出羽1万石 明治17年7月8日 (うえだ ありさわ) 男爵 勲功 明治40年9月21日 日露戦争に功あり。 陸軍大将 (うえまつ まさとみ) 子爵 公家 130石 明治17年7月8日 (うえむら いえひろ) 子爵 武家 2万5000石 明治17年7月8日 (うさがわ かずまさ) 男爵 勲功 長州藩士 明治40年9月21日 日露戦争の功により叙爵。 陸軍中将 (うじ いえひこ) 伯爵 皇族 昭和17年10月5日 の二男で、昭和17年に臣籍降下 (うずまさ ともやす) 男爵 公家 50石 明治17年7月8日 養父は慈尊院住職。 陸軍歩兵少佐、貴族院男爵議員を務めた。 内務大臣を歴任 (おおおか ただたか) 子爵 武家 三河1万石 明治17年7月8日 の信任厚かったの子孫 (おおおか ただつら) 子爵 武家 2万3000石 明治17年7月8日 (おおき たかとう) 伯爵 勲功 明治17年7月7日 司法卿・元老院議長などを歴任 (おおぎまち さねまさ) 伯爵 公家 355石 明治17年7月7日 養父のは戊辰戦争で功をなす (おおぎまち すえただ) 男爵 公家 明治22年5月6日 公董の三男。 大正11年9月子没後に後継者を欠く (おおくぼ としなか) 侯爵 勲功 薩摩藩士御小姓与 明治17年7月7日 父のは王政復古に大きな働きをした (おおくぼ ただのり) 子爵 武家 11万3192石 明治17年7月8日 の本家 (おおくぼ ただひろ) 子爵 勲功 旗本 明治20年5月24日 維新後、東京府知事・元老院議官を歴任し、叙爵 (おおくぼ ただより) 子爵 武家 下野3万石 明治17年7月8日 (おおくぼ のりまさ) 子爵 武家 相模1万3000石 明治17年7月8日 (おおくぼ はるの) 男爵 勲功 祠官家 明治40年9月21日 日露戦争に功あり。 叙爵後、陸軍大将。 (おおすみ みねお) 男爵 勲功 本籍: 昭和10年12月26日 の功により叙爵。 (おおぜき ますとし) 子爵 武家 下野1万8000石 明治17年7月8日 (おおた すけよし) 子爵 武家 上総5万3000石 明治17年7月8日 (おおたに こうえい) 伯爵 僧家 明治29年6月9日 から寺域を得、以後、 (おおたに こうそん) 伯爵 僧家 明治29年6月9日 その子が。 法主 (おおたに きくぞう) 男爵 勲功 藩校「順造館」教授 大正9年12月28日 陸軍大将に進み、シベリア出兵の功で叙爵。 大正12年11月没後、襲爵手続きせず (おおたわら かずきよ) 子爵 武家 下野1万1400石 明治17年7月8日 (おおでら ちよたろう) 男爵 勲功 薩摩藩 明治28年8月20日 父のの日清戦争中の功により叙爵 (おおとり けいすけ) 男爵 勲功 旗本 明治33年5月9日 幕臣でにたてこもり入獄した。 昭和6年11月子の没後、襲爵手続きせず (おおぬま わたる) 男爵 勲功 黒羽藩 明治32年10月14日 陸軍少将に進み、維新の功により叙爵。 元帥・陸軍大将 (おくだ なおつぐ) 子爵 武家 1万石 明治17年7月8日 旧姓堀 (おくだ なおのぶ) 子爵 武家 3万石 明治17年7月8日 旧姓堀 (おくだ なおあきら) 子爵 武家 信濃1万石 明治17年7月8日 旧姓堀 (おくだ よしと) 男爵 勲功 因幡国鳥取藩士 大正6年8月14日 文部大臣・東京市長・長を歴任 (おくだいら まさゆき) 伯爵 武家 豊前10万石 明治17年7月7日 ・昌邁父子は戊辰戦争で功を挙げた (おくむら てるしげ) 男爵 武家 家老1万7000石 明治33年5月9日 奥村河内守家 父のの功による (おくむら のりひで) 男爵 武家 家老1万2000石 明治33年5月9日 奥村内膳家 父のの功による (おぐら ひですえ) 子爵 公家 150石 明治17年7月8日 陸軍歩兵大佐・貴族院子爵議員 (おざき ただはる) 男爵 勲功 明治33年5月9日 判事・大審院長を歴任 (おざき さぶろう) 男爵 勲功 明治29年6月5日 国事に尽くし、元老院議官等を歴任 (おざわ たけお) 男爵 勲功 士 明治20年5月24日 陸軍中将・陸軍士官学校長等を歴任 (おしこうじ きんあき) 子爵 公家 130石 明治17年7月8日 (おしこうじ もろなり) 男爵 公家 54石 明治17年7月8日 (おだ ながずみ) 子爵 武家 1万石 明治17年7月8日 の弟・の系統 (おだ のぶひろ) 子爵 武家 大和1万石 明治17年7月8日 信長の弟・有楽斎の系統 (おだ のぶとし) 子爵 武家 2万石 明治17年7月8日 信長の二男、が祖 (おだ のぶちか) 子爵 武家 2万石 明治17年7月8日 (おたぎ みちずみ) 子爵 公家 130石 明治17年7月8日 桂宮家祗候・殿掌 (おとは ただひこ) 侯爵 皇族 昭和11年4月1日 二男、臣籍降下。 昭和19年2月戦死後に後継者を欠く (おの たかみつ) 男爵 神官 神職 明治17年7月8日 貴族院男爵議員 (おばた うましね) 男爵 勲功 明治29年6月5日 を歩き、元老院議官を歴任 (おはら ただみち) 男爵 勲功 家老750石 明治33年5月9日 父のの維新時の功により叙爵 か行 [ ] か [ ] 叙爵者 (名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (かいえだ のぶよし) 子爵 勲功 明治20年5月24日 元老院議官等を歴任。 昭和17年12月の没後、襲爵手続きせず (かじゅうじ あきよし) 伯爵 公家 708石 明治17年7月7日 貴族院伯爵議員 (かたおか としかず) 男爵 勲功 明治33年5月9日 (かたおか しちろう) 男爵 勲功 明治40年9月21日 日露戦争に功あり、のち海軍大将 (かたぎり さだたけ) 子爵 武家 1万1100石 明治17年7月8日 (かたくら かげみつ) 男爵 武家 家老・主1万8000石 明治31年7月20日 北海道開拓の功による (かたの ときつむ) 子爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月8日 「」の伊藤家とつながる (かちょう ひろのぶ) 侯爵 皇族 家 大正15年12月7日 三男で、大正15年に臣籍降下 (かつ やすよし) 伯爵 勲功 旗本小普請組 明治20年5月9日 戊辰戦争のとき、を導いた。 (かとう やすのり) 子爵 武家 1万石 明治17年7月8日 (かとう やすあき) 子爵 武家 6万石 明治17年7月8日 (かとう ひろゆき) 男爵 勲功 明治33年5月9日 帝国学士院長・元老院議官等を歴任 (かとう さだきち) 男爵 勲功 東京都 大正5年7月14日 海軍大将。 第一次大戦に功あり (かとり もとひこ) 男爵 勲功 大津郡三隅村 明治20年5月24日 維新に功あり。 海軍大将・を歴任 (かみお みつおみ) 男爵 勲功 大正5年7月14日 陸軍大将で第一次世界大戦に功 (かみむら ひこのじょう) 男爵 勲功 明治40年9月21日 日露戦争に功あり。 海軍大将。 昭和22年2月に孫は爵位を返上 (かめい これあき) 伯爵 武家 4万3000石 明治24年4月23日 父のの功。 戊辰・日清・に功。 昭和9年9月孫の没後女戸主となり栄典喪失 (かわぐち たけさだ) 男爵 勲功 明治28年8月20日 陸軍から海軍に転じ主計総監に進み、日清戦争の功により叙爵 (かわさき すけな) 男爵 勲功 鹿児島県 明治33年5月9日 (かわさき よしたろう) 男爵 勲功 鹿児島県 大正9年1月13日 など実業界で活躍。 昭和21年4月子の没後、襲爵手続きせず (かわせ まさたか) 子爵 勲功 明治20年5月24日 、等を歴任 (かわた かげとも) 子爵 勲功 明治20年5月24日 維新に功あり。 兵部大丞、福岡藩大参事、鳥取県権令などを歴任。 (かわた こいちろう) 男爵 勲功 旭村 明治28年10月31日 を助け、等を創業。 総裁 (かわばた さねふみ) 子爵 公家 150石 明治17年7月8日 (かわべ たかつぐ) 男爵 公家 明治17年7月8日 明治30年3月爵位返上 (かわべ ひろなが) 男爵 神官 神職 明治17年7月8日 貴族院男爵議員 (かわむら すみよし) 伯爵 勲功 明治17年7月7日 維新前後の国事に奔走。 元帥・陸軍大将 (かんだ たかひら) 男爵 勲功 岩手村 明治31年7月4日 維新後、新政府の諸制度の整備に尽力。 昭和5年6月に孫は爵位を返上 (かんろじ よしなが) 伯爵 公家 200石 明治17年7月7日 子のは。 のち宮司 き [ ] 叙爵者 (名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (き としひさ) 男爵 神官 神職 明治17年7月8日 (きくち だいろく) 男爵 勲功 ・父方の菊池家を継ぐ 明治35年2月27日 長・文部大臣等を歴任。 大正10年3月子没後に後継者を欠く (きくち たけおみ) 男爵 勲功 明治17年7月8日 先祖のへの忠節と維新の功により叙爵。 貴族院男爵議員。 (きくてい ゆきすえ) 侯爵 公家 1655石 明治17年7月7日 (きごし やすつな) 男爵 勲功 明治40年9月21日 陸軍中将に進み、日露戦争に功 (きたおおじ きんひさ) 男爵 公家 21石 明治17年7月8日 (きたがき くにみち) 男爵 勲功 鳥取県 明治29年6月5日 地方行政の功 (きたかわはら きみのり) 男爵 公家 45石 明治17年7月8日 (きたこうじ としちか) 子爵 公家 60石 明治17年7月8日 (きたこうじ よりみつ) 子爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月8日 (きたこうじ としまさ) 男爵 公家 別家 明治17年7月8日 明治34年3月に子のは爵位を返上 (きたざと しばさぶろう) 男爵 勲功 大正13年2月11日 を設立した医学博士。 海軍中将・を歴任。 明治21年臣籍降下 く [ ] 叙爵者 (名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (くき たかよし) 子爵 武家 摂津3万6000石 明治17年7月8日 「九鬼水軍」当主の後裔 (くき たかとも) 子爵 武家 丹波1万9500石 明治17年7月8日 (くき りゅういち) 男爵 勲功 丹波一門 明治29年6月5日 綾部藩家老の養子 館長・枢密顧問官を歴任 (くしげ たかまさ) 子爵 公家 183石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (くじょう みちたか) 公爵 公家 3043石 明治17年7月7日 戊辰戦争にとして従軍 (くじょう よしまさ) 男爵 公家 明治35年3月10日 道孝の四男 (くじょう よしむね) 男爵 公家 明治41年3月23日 道孝の五男。 昭和15年8月没後、襲爵手続きせず (くすだ ひでよ) 男爵 勲功 明治33年5月9日 ・元老院議官を歴任。 昭和12年10月孫の没後、襲爵手続きせず (くろき ためもと) 伯爵 勲功 明治40年9月21日 陸軍大将。 のち内閣総理大臣 (くろだ きよつな) 子爵 勲功 明治20年5月24日 子のはとして有名 (くろだ ながしげ) 侯爵 武家 52万3100石 明治17年7月7日 (くろだ ながとし) 男爵 武家 明治29年12月3日 (くろだ ながのり) 子爵 武家 筑前5万石 明治17年7月8日 (くろだ ひさたか) 男爵 勲功 東京都 明治28年8月20日 陸軍中将に進み、日清戦争に功。 昭和3年8月養子の隠居後、襲爵手続きせず (くろだ よりゆき) 子爵 武家 上総3万石 明治17年7月8日 黒田侯爵家とは別系統。 貴族院子爵議員。 (くわばら すけなが) 子爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月8日 大正8年10月爵位返上 け [ ] こ [ ] 叙爵者 (名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (こいけ まさなお) 男爵 勲功 明治40年9月21日 陸軍医務局長となり日露戦争の功により叙爵 (こいで ふさのぶ) 子爵 武家 2万6700石 明治17年7月8日 (ごう じゅんぞう) 男爵 勲功 黒野、幕臣 明治33年5月9日 財政畑を進み、大蔵次官となる (こうの とかま) 子爵 勲功 明治26年10月30日 ・農商務卿・等を歴任 (こうのいけ ぜんえもん) 男爵 勲功 明治44年8月25日 経済の発展に功あり叙爵 (こうやま くにきよ) 男爵 勲功 土佐藩士 明治20年5月24日 維新に尽力し、のち元老院議官 (こが みちつね) 侯爵 公家 700石 明治17年7月7日 戊辰戦争で功。 子の家督相続時に父・源太郎の生前の功により、子爵から伯爵に陞爵。 長女は夫人。 昭和12年7月孫の没後、襲爵手続きせず (ごとう もりぬし) 子爵 武家 1万2500石 明治17年7月8日 (このえ あつまろ) 公爵 公家 2860石 明治17年7月7日 筆頭。 学習院院長等を歴任。 昭和20年12月子の没後、襲爵手続きせず (このえ ひでまろ) 子爵 公家 大正8年1月9日 篤麿の二男。 として有名。 昭和21年5月爵位返上 (こばやかわ しろう) 男爵 武家 一門 明治17年7月8日 毛利家一門の名跡相続、毛利公爵家当主の子。 戊辰戦争に功。 の弟 (さいごう とらたろう) 侯爵 勲功 御勘定方小頭47石余 明治35年6月3日 父は西郷隆盛。 長女は夫人 (さかい ただあき) 子爵 武家 越前1万石 明治17年7月8日 酒井伯爵家の分家 (さかい ただあきら) 子爵 武家 上野2万石 明治17年7月8日 酒井伯爵家の分家 (さかい ただおき) 伯爵 武家 播磨15万石 明治20年6月23日 雅楽頭流宗家 (さかい ただしげ) 男爵 武家 分家旗本5000石 明治22年5月11日 大正9年6月15日子のは失爵した。 (さかい ただずみ) 伯爵 武家 17万石 明治17年7月7日 ・の後裔 佐衛門尉流宗家 (さかい ただとし) 子爵 武家 1万2000石 明治22年5月11日 酒井伯爵家の分家。 院長 (さとう しょうすけ) 男爵 勲功 昭和3年11月10日 教育に尽力した功。 初代社長 (さの のぶかつ) 男爵 勲功 東京都 明治29年12月3日 日清戦争に功あり叙爵。 陸軍中将。 昭和19年4月子の没後、襲爵手続きせず (さめしま かずのり) 男爵 勲功 明治40年9月21日 海軍大将に進み、日露戦争に功あり (さめしま しげお) 男爵 勲功 明治40年9月21日 陸軍大将に進み、日露戦争に功あり叙爵。 為量・の功により宣嘉長男が陞爵。 (さわ のりもと) 男爵 公家 明治28年5月27日 為量の孫。 父の功。 (さわむら しげし) 男爵 武家 家老1万1000石 明治39年9月17日 (さんじょう さねとみ) 公爵 公家 472石 明治17年7月7日 実美の功により公爵。 内閣制度発足に伴いとなった (さんじょう きんてる) 男爵 公家 明治25年2月19日 実美の三男。 大正13年5月、三条公爵家相続により廃家 (さんじょうにし きんあえ) 伯爵 公家 502石 明治17年7月7日 父のは幕末王事に尽力 (さんのみや よしたね) 男爵 勲功 明治29年6月5日 宮内省に出仕して功あり。 大正8年12月子の没後女戸主となり栄典喪失 し [ ] 叙爵者(名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (しかぞの さねひろ) 男爵 公家 50石 明治17年7月8日 奈良華族・貴族院男爵議員 (しげの きよひこ) 男爵 勲功 明治20年5月24日 西南戦争に功あり。 のち陸軍中将。 大正13年10月子の没後、襲爵手続きせず (しげのい きんひさ) 伯爵 公家 180石 明治17年7月7日 知事等をつとめる。 子は大正2年1月27日に失爵。 の一人。 のち陸軍中将 (しじょう たかとし) 男爵 公家 明治31年7月20日 隆謌の弟、養子(廃嫡後分家) (しちじょう のぶのり) 子爵 公家 200石 明治20年4月15日 華族令制定時、女戸主の為、信義の代に叙爵 (しではら きじゅうろう) 男爵 勲功 大正9年9月7日 外務大臣・総理大臣を歴任 (しながわ やじろう) 子爵 勲功 明治17年7月17日 幕末王事に尽力、のち内務大臣 (しば しげる) 男爵 武家 家老1万石 明治33年5月9日 維新時に功あり叙爵 の末裔 (しばこうじ とよとし) 男爵 公家 50石 明治17年7月8日 (しばてい よしふる) 男爵 公家 40石 明治18年5月2日 (しばやま すけとよ) 子爵 公家 100石 明治17年7月8日 (しばやま やはち) 男爵 勲功 明治40年9月21日 の従兄弟、海軍大将に進み、日露戦争に功あり (しぶさわ えいいち) 子爵 勲功 血洗島村 大正9年9月4日 で活躍。 貴族院男爵議員。 (しまむら はやお) 男爵 勲功 大正5年7月14日 第一次世界大戦の功により叙爵 (しみず すけはる) 男爵 勲功 家老2600石 明治33年5月9日 戦国武将・の末裔。 義父の功による。 貴族院男爵議員 (しみずだに さねあきら) 伯爵 公家 200石 明治17年7月7日 父のは箱館知事・旧幕軍の追討に功 (じみょういん もとあき) 子爵 公家 200石 明治17年7月8日 殿掌・貴族院子爵議員 (しょう たい) 侯爵 武家 明治18年5月2日 王家の家系 (しょう いん) 男爵 武家 尚侯爵家分家 明治29年6月30日 泰の二男 (しょう じゅん) 男爵 武家 尚侯爵家分家 明治29年6月30日 泰の四男 (しょうだ よもぞう) 男爵 勲功 長門国 明治40年9月21日 陸軍中将・日露戦争に功 (しらかわ すけのり) 子爵 公家 200石 明治17年7月8日 、、大掌典等を歴任しに携わる。 (しらかわ よしのり) 男爵 勲功 昭和7年5月23日 陸軍大将。 に功あり叙爵 (しらね せんいち) 男爵 勲功 長門国 明治30年2月7日 等を歴任。 内務大臣等を歴任 (すぎ まごしちろう) 子爵 勲功 長門国 明治20年5月9日 維新時に功をなし、秋田等を歴任 (すぎたに ときなが) 男爵 公家 50石 明治17年7月8日 貴族院男爵議員 (すずき だいすけ) 男爵 勲功 明治28年10月31日 日清戦争の功により叙爵 (すずき かんたろう) 男爵 勲功 昭和11年11月20日 海軍大将・侍従長等を歴任 (すふ こうへい) 男爵 勲功 68石 明治41年5月8日 父のと公平の功により叙爵 (すみとも ともいと) 男爵 勲功 大阪府 明治44年8月25日 当主。 産業の発展に尽くした功。 昭和21年5月に子は爵位を返上 (すわ ただまさ) 子爵 武家 信濃3万石 明治17年7月8日 せ [ ] 叙爵者(名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (せいかんじ もりふさ) 伯爵 公家 180石 明治17年7月7日 (せき ひろなお) 子爵 武家 備中1万800石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (せき よしおみ) 男爵 勲功 明治40年9月23日 日露戦争の功により叙爵 (せんげ たかとみ) 男爵 神官 宮司、 明治17年7月8日 叙爵ののち、元老院議官等を歴任 (せんごく まさかた) 子爵 武家 但馬3万石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (せんしゅう すえたか) 男爵 神官 明治17年7月8日 貴族院男爵議員・学習院教授 (せんだ さだあき) 男爵 勲功 薩摩藩士 明治31年2月26日 維新時に功あり、のち各府県知事を歴任 そ [ ] 叙爵者(名前の読み) 爵位 種別 出自 叙爵日 備考 (そう しげまさ) 伯爵 武家 5万2170石 明治17年7月8日 (そうま ともたね) 子爵 武家 6万石 明治17年7月8日 をはじめに閨閥 (そえじま たねおみ) 伯爵 勲功 肥前藩校教授 明治17年7月17日 維新後 (そが すけのり) 子爵 勲功 福岡県 明治17年7月7日 陸軍中将・・枢密顧問官を歴任 (そね あらすけ) 子爵 勲功 一門家老宍戸家一門 明治40年9月21日 日英同盟に功。 等を歴任 (たかくら ながつね) 子爵 公家 150石 明治17年7月8日 陸軍歩兵大佐・貴族院子爵議員 (たかさき まさかぜ) 男爵 勲功 薩摩藩士 明治20年5月24日 維新の功。 歌人、國學院院長、枢密顧問官。 (たかさき ごろく) 男爵 勲功 薩摩藩士 明治20年5月24日 元老院議官、東京府知事。 (たかしま とものすけ) 子爵 勲功 薩摩藩士 明治17年7月8日 陸軍中将に進む。 陸軍大臣・拓殖務大臣・枢密顧問官等を歴任。 (たかちほ のぶまろ) 男爵 神官 明治17年7月8日 実父は。 のち枢密顧問官 (たけうち はるのり) 子爵 公家 187石 明治17年7月8日 (たけぞの みちなが) 男爵 公家 50石 明治17年7月8日 明治32年8月爵位返上 (たけのこし まさわれ) 男爵 武家 3万石 明治17年7月8日。 貴族院伯爵議員。 (たちばな たねゆき) 子爵 武家 筑後1万石 明治17年7月8日 (たちばな こいちろう) 男爵 勲功 福岡県 大正12年10月16日 陸軍大将。 のち (たつた のりひこ) 伯爵 皇族 昭和18年6月7日 の三男、臣籍降下 (たつみ なおふみ) 子爵 勲功 小姓 明治40年10月2日 陸軍大将 明治28年8月20日男爵。 昭和21年5月孫は爵位返上 (たなか よしお) 男爵 勲功 信濃国 大正4年12月1日 ・元老院議官等を歴任 (たに たてき) 子爵 勲功 土佐藩士 明治17年7月7日 長・学習院長等を歴任 (たに としえ) 子爵 武家 丹波1万2000石 明治17年7月8日 (たぬま のぞみ) 子爵 武家 上総1万石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員。 子のは大正9年6月15日失爵。 (たねがしま もりとき) 男爵 武家 薩摩藩家老・1万1000石 明治33年5月9日 戦国大名・の後裔 (たままつ まさき) 男爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月8日 養父はの側近として王政復古に功 (たみや すずたろう) 男爵 勲功 尾張国 明治30年10月27日 祖父はの側近として王政復古に功 (たむら くによし) 子爵 武家 陸奥3万石 明治17年7月8日 一門 ・の後裔 (だん たくま) 男爵 勲功 筑前福岡藩士 昭和3年11月10日 理事長。 孫のはとして有名 ち [ ] 叙爵者(名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (ちくさ ありとう) 子爵 公家 150石 明治17年7月8日 (ちょう かつつら) 男爵 武家 家老3万3000石 明治33年5月9日 家臣の後裔 (ちょうしょ ひろたけ) 男爵 勲功 明治33年5月9日 等を歴任。 実父は。 姓の読みを"ずしょ"から改める。 臣籍降下 (つじ いがく) 男爵 勲功 安芸広島藩士 明治23年6月27日 王政復古に功。 知事などを歴任 (つじ しんじ) 男爵 勲功 信濃 明治41年12月12日 ・を歴任 (つだ まみち) 男爵 勲功 備前岡山藩士 明治33年5月9日 (つちみかど はれなが) 子爵 公家 183石 明治17年7月8日 の末裔 (つちや しげなお) 子爵 武家 常陸9万5000石 明治17年7月8日 (つちや みつはる) 男爵 勲功 三河岡崎藩士 明治40年9月21日 日清・日露戦争で旅団長・師団長を歴任 (つづき けいろく) 男爵 勲功 伊予国 明治41年8月3日 をつとめる (つつみ いさなが) 子爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (つつみ まさよし) 男爵 勲功 越前国 明治33年5月9日 ・戊辰戦争で功 (つのだ たけお) 男爵 勲功 明治40年10月2日 父の功により叙爵 (つぼい こうぞう) 男爵 勲功 長州藩士 明治28年8月20日 海軍中将に進む。 昭和3年10月子没後に襲爵手続きせず (つもり くによし) 男爵 神官 宮司 明治17年7月8日 (つるどの ただよし) 男爵 公家 明治22年12月18日 貴族院男爵議員。 家名の「靏」を「鶴」と改めた。 日露戦争時の陸軍大臣 (てらしま むねのり) 伯爵 勲功 脇本村 明治17年7月7日 維新後の外交交渉に尽力 (てらしま あきすけ) 男爵 勲功 長州藩士・周防国 明治29年6月5日 戊辰戦争時、奥羽追討参謀として功。 元老院議官・貴族院勅選議員を歴任。 貴族院男爵議員 (とうどう たかきよ) 伯爵 武家 32万3950石 明治17年7月7日 (とうどう たかのり) 子爵 武家 伊勢5万3000石 明治17年7月8日 (とうどう たかしげ) 男爵 武家 家老・名張領1万5000石 明治39年9月17日 (とおやま ともやす) 子爵 武家 美濃1万21石 明治17年7月8日 (とき よりおき) 子爵 武家 上野3万5000石 明治17年7月8日 嫡流の後裔 (ときわい ぎょうき) 男爵 僧家 管長 明治29年6月9日 父は (とくがわ あつし) 男爵 武家 分家 明治17年7月8日 四男。 (とくがわ まこと) 男爵 武家 大正2年11月5日 慶喜の九男 (とくがわ もちつぐ) 侯爵 武家 55万5000石 明治17年7月7日 (とくがわ よしあきら) 侯爵 武家 尾張61万9500石 明治17年7月7日 (とくがわ よしくみ) 男爵 武家 尾張徳川家分家 明治21年6月23日 (とくがわ よしとし) 男爵 勲功 日本陸軍航空兵分野確立の功労 昭和3年11月10日 (伯爵)の8代目だが、父の篤守のときに爵位返上となり、別途軍功により男爵。 (とざわ まさざね) 子爵 武家 出羽6万8200石 明治17年7月8日 (とだ うじたか) 伯爵 武家 美濃10万石 明治17年7月7日 戊辰戦争で官軍の先鋒をつとめた (とだ うじよし) 子爵 武家 美濃1万3099石 明治17年7月8日 (とだ ただとも) 子爵 武家 下野7万7850石 明治17年7月8日 (とだ ただゆき) 子爵 武家 下野1万1000石 明治17年7月8日 (とだ ただよし) 子爵 武家 下野1万1139石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (とだ やすひろ) 子爵 武家 信濃6万3000石 明治17年7月8日 戸田松平家 (とまつ まごたろう) 男爵 勲功 明治40年9月21日 陸軍主計総監に進み、西南・日清・日露戦争の功により叙爵。 等を歴任 (なかむら ゆうじろう) 男爵 勲功 明治40年9月23日 (なかやま ただやす) 侯爵 公家 200石 明治17年7月7日 明治天皇の生母の父 (なかやま のぶさね) 男爵 武家 2万5000石 明治17年7月8日 (ながやま たけしろう) 男爵 勲功 薩摩藩士 明治28年12月4日 ・西南戦争で功。 昭和20年2月孫死後に襲爵手続きせず (ながやま もりてる) 男爵 勲功 薩摩藩士 明治33年5月9日 ・等を歴任 (ながよ しょうきち) 男爵 勲功 肥後漢方医 明治43年8月25日 (ながよ またろう) 男爵 勲功 昭和16年8月15日 東京帝国大学医学部長・同大学長、称吉の弟 (なきじん ちょうふ) 男爵 武家 明治23年5月26日 (なしは ときおき) 男爵 勲功 長州藩士 明治40年9月21日 海軍中将に進み、日清・日露戦争で功 (なべしま なおひろ) 侯爵 武家 肥前35万7000石 明治17年7月7日 元老院議官等を歴任 (なべしま なおとう) 子爵 武家 肥前5万2600石 明治17年7月8日 (なべしま なおよし) 子爵 武家 肥前2万石 明治17年7月8日 孫のはを務めた (なべしま なおとら) 子爵 武家 肥前7万3252石 明治17年7月8日 (なべしま しげはる) 男爵 武家 家老・武雄領2万1600石 明治30年10月27日 武雄鍋島家、 戦国大名・の後裔 (なべしま ていじろう) 男爵 武家 大正8年1月9日 (なべしま なおあきら) 男爵 勲功 佐賀藩家老2万石 明治30年10月27日 祖父の維新の功。 陸軍少将・貴族院議員 (なべしま みき) 男爵 勲功 佐賀藩老 明治28年10月31日 県知事・元老院議官・貴族院議員を歴任 (なら たけじ) 男爵 勲功 下野国 昭和8年4月25日 陸軍大将。 昭和20年1月孫戦死後に襲爵手続きせず (にわ うじひろ) 子爵 武家 播磨1万石 明治17年7月8日 二本松丹羽家と別系統。 司法・宮内各大臣 (はちじょう たかとみ) 子爵 公家 150石 明治17年7月8日 (はちすか もちあき) 侯爵 武家 阿波25万7900石 明治17年7月7日 昭和20年7月孫のは爵位返上 (はなぞの きんとし) 子爵 公家 150石 明治17年7月8日 名の2文字目は「季」の「子」の部分が「千」になった字 (はなぞの たくしょう) 男爵 僧家 明治29年6月9日 次男。 元老院議官・枢密顧問官・宮中顧問官歴任 (はら よしみち) 男爵 勲功 信濃足軽小頭 昭和19年8月7日 の司法大臣、議長 (はらぐち けんさい) 男爵 勲功 豊後国 明治40年9月21日 陸軍中将に進み、西南・日清・日露戦争に出征して功 (はらだ いちどう) 男爵 勲功 備中 明治33年5月9日 陸軍少将に進み、兵器・軍律刑法研究の功 ひ [ ] 叙爵者(名前の読み) 爵位 種別 出自 叙爵日 備考 (ひがしくぜ みちとみ) 伯爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月7日 七卿の一人。 功により伯爵。 維新後の新政府成立時の外交にあたった (ひがしくぜ ひでお) 男爵 公家 明治30年12月6日 通禧の四男。 をつとめた。 昭和9年9月に孫のは爵位を返上 (ひだか そうのじょう) 男爵 勲功 薩摩国 明治40年9月21日 に功。 (ひらの ながよし) 男爵 武家 大和1万石 明治17年7月8日 (ひらまつ ときあつ) 子爵 公家 200石 明治17年7月8日 新潟県令・元老院議官・貴族院議員等を歴任。 (ひらやま せいしん) 男爵 勲功 東京都 大正13年2月11日 (ひろさわ きんじろう) 伯爵 勲功 長門国 明治17年7月7日 父、は現職時に。 後に内閣総理大臣を務めた (ひろはし まさみつ) 伯爵 公家 850石 明治17年7月7日 明治維新後に入った (ひろはた ただあや) 侯爵 公家 500石 明治17年7月7日 江戸時代の当主は代々の ふ [ ] 叙爵者 (名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (ふかお しげたか) 男爵 武家 家老・佐川領1万石 明治39年9月17日 (ふくおか たかちか) 子爵 勲功 家老 明治17年7月7日 大政奉還を慶喜に勧め、王政復古で参与 (ふくしま やすまさ) 男爵 勲功 信濃 明治40年9月21日 西南・日清・日露戦争に出征 (ふくば よししず) 子爵 勲功 石見 明治20年5月9日 神道の制度確立に尽力 (ふくはら としまる) 男爵 武家 家老・宇部領1万1000石 明治33年5月9日 一門家老、生母の実家 (ふくはら もとぞう) 男爵 勲功 一門家老 明治30年10月27日 陸軍大尉。 父の功により叙爵。 子のは初の戦後爵位返上者(昭和21年5月) (ふくはら みのる) 男爵 勲功 一門家老 明治33年5月9日 陸軍少将に進み、戊辰・西南戦争の功。 (ふじい ゆきみち) 子爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月8日 (ふじい かねすけ) 男爵 勲功 安芸国 明治40年9月21日 陸軍中将に進み、戊辰・西南・日清戦争に出征して功 (ふじえ まさゆき) 男爵 公家 50石 明治17年7月8日 貴族院男爵議員 (ふじおおじ のりちか) 男爵 公家 50石 明治17年7月8日 (ふじた でんさぶろう) 男爵 勲功 長門国酒屋 明治44年8月25日 藤田組()を創立して・を営む (ふじたに ためちか) 子爵 公家 200石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (ふじなみ ことただ) 子爵 公家 173石 明治17年7月8日 (ふしはら のぶたる) 子爵 公家 230石 明治17年7月8日 貴族院議員・賀茂別雷神社宮司兼賀茂御祖神社宮司 (ふしみ ひろひで) 伯爵 皇族 昭和11年4月1日 の四男。 昭和11年に臣籍降下 (ふじむら しろう) 男爵 勲功 肥後熊本藩士 明治29年6月5日 維新の功、山梨・愛媛県知事。 子没後に後継者不在で昭和12年1月爵位返上 (ふたあら よしゆき) 伯爵 皇族 明治30年7月1日 の五男 (ふなこし まもる) 男爵 勲功 安芸広島藩士20石3人扶持 明治29年6月5日 にを学び、戊辰戦争で (ふなばし なるかた) 子爵 公家 400石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (ふるいち こうい) 男爵 勲功 兵庫県 大正8年12月27日 内務省土木局長等を歴任 (ふるかわ とらのすけ) 男爵 勲功 大正4年12月1日 の地位を確立 へ [ ] 叙爵者 (名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (へき けんたろう) 男爵 武家 家老金川領1万6000石 明治39年9月17日 ほ [ ] 叙爵者(名前の読み) 爵位 種別 出自 叙爵日 備考 (ほうじょう うじゆき) 子爵 武家 河内1万石 明治17年7月8日 戦国大名・の後裔 (ぼうじょう としあや) 伯爵 公家 180石 明治17年7月7日 参与・陸軍中佐・貴族院議員 (ぼうじょう としのぶ) 男爵 公家 明治17年7月8日 (ほしな まさあり) 子爵 武家 上総2万石 明治17年7月8日 (ほづみ としか) 男爵 公家 50石 明治17年7月8日 (ほづみ のぶしげ) 男爵 勲功 伊予 大正4年12月1日 日本初の。 をつとめる (ほそかわ もりひさ) 侯爵 武家 肥後54万石 明治17年7月7日 父のは戊辰戦争で軍功を挙げる (ほそかわ おきつら) 子爵 武家 下野1万6313石 明治17年7月8日 (ほそかわ ゆきざね) 子爵 武家 肥後3万石 明治17年7月8日 (ほそかわ としなが) 子爵 武家 肥後3万5000石 明治17年7月8日 (ほそかわ おきなが) 男爵 武家 家老・2万5000石 明治30年10月27日 細川刑部家 (ほそかわ じゅんじろう) 男爵 勲功 土佐藩士 明治33年5月9日 (ほそかわ ただよし) 男爵 武家 家老・6000石 明治33年5月9日 細川内膳家 (ほそかわ もりあき) 男爵 武家 明治29年12月3日 養子が細川侯爵家相続のため大正3年10月廃家 (ほった まさのり) 伯爵 武家 下総11万石 明治17年7月7日 (ほった まさやす) 子爵 武家 近江1万3000石 明治17年7月8日 (ほった まさつぐ) 子爵 武家 下総1万6000石 明治17年7月8日 (ほなみ つねふじ) 子爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月8日 明治38年6月爵位返上 (ほり ちかあつ) 子爵 武家 信濃1万7000石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (ほりかわ やすたか) 子爵 公家 180石 明治17年7月8日 昭和19年7月孫戦死後に後継者を欠く (ほんじょう ひさなお) 子爵 武家 美濃1万石 明治17年7月8日 の甥の子孫。 貴族院子爵議員 (ほんじょう むねたけ) 子爵 武家 丹後7万石 明治17年7月8日 の甥の子孫 (ほんじょう しげる) 男爵 勲功 播磨国 昭和10年12月26日 日露・第一次大戦・シベリア出兵に出征。 昭和20年11月没後に子の一雄は襲爵手続きせず (ほんだ さねふさ) 子爵 武家 信濃2万石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員。 昭和18年2月子没後に襲爵手続きせず (ほんだ ただあつ) 子爵 武家 三河5万石 明治17年7月8日 ・の直系子孫 (ほんだ ただつら) 子爵 武家 伊勢1万5000石 明治17年7月8日 (ほんだ ただひこ) 子爵 武家 陸奥2万石 明治17年7月8日 (ほんだ ただゆき) 子爵 武家 三河1万5000石 明治17年7月8日 (ほんだ まさのり) 子爵 武家 安房4万石 明治17年7月8日 戦国武将・の弟の後裔 (ほんだ やすしげ) 子爵 武家 近江6万石 明治17年7月8日 (ほんだ ていきち) 子爵 武家 播磨1万石 明治17年7月8日 (ほんだ ちかお) 男爵 勲功 薩摩藩士 明治20年5月24日 戊辰戦争で参謀 (ほんだ すけもと) 男爵 武家 家老・府中領3万9000石 明治17年7月8日 戦国武将・の甥の後裔 (ほんだ まさざね) 男爵 武家 家老5万石 明治33年5月9日 戦国武将・の二男の後裔 (ほんどう ちかひさ) 男爵 武家 常陸1万110石 明治17年7月8日 常陸新治郡志筑 ま行 [ ] ま [ ] 叙爵者(名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (まいた ひろたか) 子爵 武家 備中1万石 明治17年7月8日 , (まえじま ひそか) 男爵 勲功 中頸城郡津有村 明治35年6月19日 維新後、郵便制度を確立 (まえだ としあつ) 伯爵 武家 越中10万石 明治17年7月7日 (まえだ としあき) 子爵 武家 上野1万石 明治17年7月8日 (まえだ としか) 子爵 武家 加賀10万石 明治17年7月8日 (まえだ いさむ) 男爵 勲功 大和国 明治40年10月2日 陸軍大佐。 養父の戊辰・日露戦争中の功により叙爵 (まえだ つこう) 男爵 武家 一門・1万8000石 明治33年5月9日 加賀八家 昭和22年2月子のは爵位返上 (まえだ としたけ) 男爵 武家 明治17年7月8日 加賀藩主の十二男 (まえだ なおつら) 男爵 武家 一門・1万1000石 明治33年5月9日 加賀八家筆頭 (まえだ まさな) 男爵 勲功 薩摩藩医 大正10年8月11日 ・農商務次官を歴任。 昭和5年2月子没後に後継者を欠く (ましやま まさとも) 子爵 武家 伊勢2万石 明治17年7月8日 (ますだ あきよし) 男爵 武家 家老・須佐領1万2000石 明治33年5月9日 永代家老、戦国武将・の後裔 (ますだ たかし) 男爵 勲功 大正7年11月26日 会社設立に参加 (まちじり かずひら) 子爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月8日 (まつい やすよし) 子爵 武家 武蔵8万400石 明治17年7月8日 (まつい けいしろう) 男爵 勲功 大阪府 大正9年9月7日 第一次大戦の講和全権委員、外務大臣・枢密顧問官等歴任 (まつい としゆき) 男爵 武家 家老・領3万石 明治25年10月15日 筆頭家老、上卿三家 (まつお しげよし) 男爵 勲功 播磨国 明治40年9月23日 大蔵省に出仕、のちに総裁 (まつおか やすこわ) 男爵 勲功 阿波中老長谷川家家臣 大正6年8月14日 検事総長・農商務大臣等歴任 (まつがさき つむなが) 男爵 公家 明治17年7月8日 明治29年10月22日、爵位返上。 昭和2年12月に子は爵位を返上 (まつぞの ひさよし) 男爵 公家 明治17年7月8日 最後の・隆芳 により院は廃絶されて本人は (まつだ まさひさ) 男爵 勲功 肥前 大正3年1月19日 大蔵・司法・文部の各大臣をつとめた (まつだいら かたはる) 子爵 武家 28万石 明治17年7月8日 ・ (まつだいら さだのり) 子爵 武家 伊勢11万石 明治17年7月8日 、の分家 (まつだいら たけなが) 子爵 武家 石見6万1000石 明治17年7月8日 ・ (まつだいら ただかず) 子爵 武家 肥前7万石 明治17年7月8日 (まつだいら ただなり) 子爵 武家 信濃5万3000石 明治17年7月8日 (まつだいら ただのり) 子爵 武家 武蔵10万石 明治17年7月8日 (まつだいら ただゆき) 子爵 武家 上野2万石 明治17年7月8日 (まつだいら ちかのぶ) 子爵 武家 豊後3万2000石 明治17年7月8日 ・貴族院子爵議員 (まつだいら なおあき) 伯爵 武家 出雲18万6000石 明治17年7月7日 ・貴族院伯爵議員 (まつだいら なおとし) 子爵 武家 出雲1万石 明治17年7月8日 (まつだいら なおのり) 子爵 武家 播磨8万石 明治17年7月8日 、貴族院子爵議員 (まつだいら なおひら) 子爵 武家 出雲3万石 明治17年7月8日 (まつだいら なおやす) 子爵 武家 越後1万石 明治17年7月8日 (まつだいら のぶまさ) 子爵 武家 5万石 明治17年7月8日 (まつだいら のぶやす) 子爵 武家 出羽2万7000石 明治17年7月8日。 (まつまえ ながひろ) 子爵 武家 3万石 明治17年7月8日 昭和19年10月孫戦死後に後継者を欠く (まつまえ たかひろ) 男爵 武家 明治22年10月16日 (まつむら じゅんぞう) 男爵 勲功 薩摩国 明治20年5月24日 海軍中将に進み、西南戦争で功 (まつむら つとむ) 男爵 勲功 加賀国 明治40年10月2日 父の日清・日露戦争の功により叙爵 (まつもと かなえ) 男爵 勲功 長門国 明治40年10月22日 禁門の変・幕長戦・戊辰戦争で功、元老院議官・衆議院議員 (まつもと じゅん) 男爵 勲功 江戸 明治38年3月1日 陸軍等をつとめ、確立に功 (まつら あきら) 伯爵 武家 肥前6万1700石 明治17年7月8日 (まつら はかる) 子爵 武家 肥前1万石 明治23年12月26日 (までのこうじ みちふさ) 伯爵 公家 390石 明治17年7月7日 戊辰戦争で功を挙げた (までのこうじ まさひで) 男爵 公家 明治17年7月8日 (まなべ あきのぶ) 子爵 武家 越前4万石 明治17年7月8日 (まなべ さかり) 男爵 勲功 長門国 明治40年9月21日 陸軍中将に進み、西南戦争・日清戦争等で功 み [ ] 叙爵者(名前の読み) 爵位 種別 出自・出身 叙爵日 備考 (みうら たかつぐ) 子爵 武家 2万3000石 明治17年7月8日 ・重臣の後裔 (みうら ごろう) 子爵 勲功 長州藩士 明治17年7月7日 西南戦争で功、。 陸軍中将 (みうら ごんごろう) 男爵 武家 家老・貴志領1万5000石 明治33年5月9日 (みしま みちつね) 子爵 勲功 薩摩藩士指南役 明治20年5月24日 維新の功。 内務官僚、山形県令・警視総監などを歴任。 (みす そうたろう) 男爵 勲功 近江彦根藩士 明治40年9月21日 日露戦争時、第1戦隊司令官。 陸軍中将 (みよし なりゆき) 男爵 勲功 長州藩士 明治40年9月21日 幕末、四国艦隊と交戦。 西南・日清・日露戦争に功。 農商務・外務各大臣等歴任。 昭和22年2月に孫は爵位を返上 (むとう のぶよし) 男爵 勲功 肥前佐賀藩士 昭和8年5月27日 元帥陸軍大将に進み、日清・日露・シベリア出兵に功。 没後女戸主となり栄典喪失 (むらい ちょうはちろう) 男爵 武家 加賀藩家老1万9500石 明治33年5月9日 (むらかみ けいじろう) 男爵 勲功 安芸国 明治40年9月21日 海軍主計総監に進み、海軍関係法律整備、日露戦争の功。 昭和9年12月子没後女戸主となり栄典喪失 (むらき まさみ) 男爵 勲功 土佐国 明治40年9月21日 陸軍中将に進み、日清・日露戦争の功。 昭和20年9月子没後に襲爵手続きせず (むらた つねよし) 男爵 勲功 薩摩藩士 明治29年6月5日 陸軍少将。 と称されるの改良をした (むろまち きんやす) 伯爵 公家 200石 明治17年7月7日 め [ ] 叙爵者(名前の読み) 爵位 種別 出自 叙爵日 備考 (めがた たねたろう) 男爵 勲功 東京都 明治40年9月28日 も [ ] 叙爵者(名前の読み) 爵位 種別 出自 叙爵日 備考 (もうり もとのり) 公爵 武家 周防山口藩36万9千石 明治17年7月7日 周防山口藩主・明治維新の原動力となった。 (もうり たかのり) 子爵 武家 豊後2万石 明治17年7月8日 (もうり もといさ) 子爵 武家 周防4万10石 明治17年7月8日 (もうり もとただ) 子爵 武家 1万石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (もうり もととし) 子爵 武家 長門5万石 明治17年7月8日 (もうり ごろう) 男爵 武家 山口毛利公爵家分家 明治25年3月16日 (もうり じゅうすけ) 男爵 武家 明治33年5月9日 鉄道技術者・会社副社長 (もうり よしひさ) 男爵 武家 明治30年10月27日 (もちはら へいじ) 男爵 勲功 薩摩国 明治40年9月21日 海軍中将。 西南・日清・日露戦争に出征 (もとだ ながさね) 男爵 勲功 熊本藩士 明治24年1月24日 明治天皇に。 外務大臣 (もり ありのり) 子爵 勲功 薩摩藩士 明治20年5月9日 初代 (もり ただよし) 子爵 武家 播磨2万石 明治17年7月8日 織田信長の側近・の血統 (もり ながさち) 子爵 武家 播磨1万5千石 明治17年7月8日 (もりおか まさずみ) 男爵 勲功 薩摩国 明治31年3月26日 海運業発展に功績。 共同運輸会社・日本郵船会社各社長 (もりかわ ひさし) 子爵 武家 下総1万石 明治17年7月8日 (もりむら いちざえもん) 男爵 勲功 東京都 大正4年12月1日 日本銀行理事をつとめるなど、実業界に功 や行 [ ] や [ ] 叙爵者(名前の読み) 爵位 種別 出自 叙爵日 備考 (やぎゅう としろう) 子爵 武家 大和1万石 明治17年7月8日 、将軍家 (やしろ ろくろう) 男爵 勲功 尾張国丹羽郡楽田村(犬山市)の地主 大正5年7月14日 海軍大将に進み、日清・日露戦争で功 (やすかわ けいいちろう) 男爵 勲功 福岡藩 大正9年1月13日 各種学校・会社設立、経済発展に功績。 昭和9年11月没後に襲爵手続きせず (やすば やすかず) 男爵 勲功 熊本藩 明治29年6月5日 県知事・元老院議官等歴任、戊辰戦争で功 (やなぎさわ やすのぶ) 伯爵 武家 大和15万1288石 明治17年7月7日 (やなぎさわ のりただ) 子爵 武家 越後1万石 明治17年7月8日 (やなぎさわ みつくに) 子爵 武家 越後1万石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (やなぎわら さきみつ) 伯爵 公家 202石 明治17年7月7日 (やぶ あつまろ) 子爵 公家 150石 明治17年7月8日 昭和11年、旧姓・高倉に復姓。 元帥陸軍大将、内閣総理大臣 (やまがた ありみつ) 男爵 勲功 長州藩蔵元付中間 大正11年2月1日 山縣公爵家分家。 外祖父、山縣有朋の功 (やまかわ けんじろう) 男爵 勲功 家老 大正4年12月1日 総長をつとめる。 陸軍大将 (やまざき はるとし) 男爵 武家 5000石 明治17年7月8日 (やまさわ せいご) 男爵 勲功 薩摩藩 明治28年12月4日 陸軍中将に進み、薩英戦争・戊辰戦争・日清戦争に出征 (やました げんたろう) 男爵 勲功 出羽米沢藩士 昭和3年11月10日 海軍大将に進み、日清・日露戦争に出征 (やましな ときなお) 伯爵 公家 300石 明治17年7月7日 (やましな よしまろ) 侯爵 皇族 大正9年7月24日 の二男 (やまだ あきよし) 伯爵 勲功 長州藩士大組士・藩海軍頭102石 明治17年7月7日 維新の功、陸軍中将・初代司法大臣等歴任 (やまだ のぶみち) 男爵 勲功 熊本藩士 明治29年6月5日 維新の功、県知事・農商務大臣等歴任。 戊辰・日清戦争の功、陸軍中将 (やまな よしみち) 男爵 武家 1万1000石 明治17年7月8日 但馬国村岡6700石 ・の末裔 (やまなか のぶよし) 男爵 勲功 長門国 明治40年9月21日 陸軍中将に進み、西南・日清・日露戦争で功 (やまね たけすけ) 男爵 勲功 長門国 明治40年9月21日 陸軍中将に進み、西南戦争に出征 (やまね のぶなり) 男爵 勲功 長門国 明治28年10月1日 日清戦争の功により臨終に際して叙爵 (やまのい かねふみ) 子爵 公家 30石3人扶持 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (やまのうち おさひと) 男爵 勲功 江戸 明治40年9月21日 陸軍中将に進み、西南戦争で功 (やまのうち ますじ) 男爵 勲功 肥後国 明治40年9月21日 海軍中将に進み、造船技術向上に功績。 内閣総理大臣、海軍大将 (やまもと さねもち) 子爵 公家 175石 明治17年7月8日 貴族院子爵議員 (やまもと たつお) 男爵 勲功 豊後臼杵藩士 大正9年9月7日 日銀理事を経て総裁 (やまもと のぶなり) 男爵 勲功 長門国 明治40年10月2日 父の日露戦争の功により叙爵 ゆ [ ] 叙爵者 (名前の読み) 爵位 種別 出自 叙爵日 備考 (ゆあさ くらへい) 男爵 勲功 福島県 (山口県) 昭和15年12月24日 、などを歴任。 死亡日付けで叙爵、死後未亡人が女戸主となったため直ちに爵位を返上。 昭和19年7月孫の武治戦死後、襲爵手続きせず (わたなべ つなさと) 男爵 武家 家老・三河寺部領1万4000石 明治33年5月9日 渡辺半蔵家、・の後裔 を [ ] ん [ ] 脚注 [ ].
次の