実際、これが日本最初の「物語」(「昔話」など口承・伝承的なものではなく、たとえ不詳だとしても確かに「作者」を持ちテキストとなった作り物)だとされている。 しかしながら、作者や年代を含めてその成り立ちは未だ謎のままである。 『竹取物語』出生の秘密は意外にも、日本人の手になる物語か否かということを越えて、ニッポン文化そのものの奥行きに関する問題を孕んでいる。 回りくどいことは後にして、先に筆者の考えを述べてしまおう。 『竹取物語』とは、オーストロネシア語 (注)諸族に系譜的につながる海人族系に伝承されてきた竹取・羽衣説話などの潮流の上に、稲作地帯でもある中国華南の説話などが伝来し、これを一大素材として取り込み、日本人が大きくは二度の手を加えて「説話」段階から「物語」段階へと整序・創作し定着させ、平安初期にほぼ現在の姿を整えたもので、中国生まれというよりは、南中国を含めた西太平洋広域流布の説話群の海の中から一輪美しく咲いた花なのである。 (注)台湾・フィリピン・インドネシア・メラネシア・ミクロネシア・ポリネシアに及ぶ地域に分布する約700語の総称。 なお、マダガスカル語もその一つ。 マライ-ポリネシア語、南島語とも称する。 このように単純に「日本の物語」とは言えない素性を持っていたことを、もしかしたら清少納言は知っていたのかも知れない。 その証拠に『源氏物語』と同時代であるはずの『枕草子』中の「物語尽くし」(201段)には『竹取物語』の名は見当たらない。 ちなみにそこでは「物語」は「住吉、宇津保」から始まっている。 「あれは唐物、あんなものを〈日本の物語の祖〉と云うとは式部さまも随分お目が曇られて…」なぞと決めつけていたのかも知れないと想像すると面白い。 初めは外国産の翻案という考えが有力で、仏典や中国史書などが探索された。 例えば『後漢書』には、今の貴州省西北にあった夜郎国の建国神話として竹から生まれた男王の話がある。 一方の日本国産派には、本居宣長や柳田国男らがいて、羽衣伝説や致富長者(貧者が長者になる)説話が成長して成ったと主張する。 「竹取物語」とは通称である。 それは「竹取翁の物語」とも「かぐや姫の物語」とも呼ばれてきた。 ともあれ、十世紀成立の『大和物語』や『宇津保物語』、十一世紀成立の『栄華物語』や『狭衣物語』などに、ほぼ現存のテキストがそれ以前に成立していたことを示す引用や言及がある。 (注)十二世紀成立の『今昔物語集』(巻三一第33話)中にも「竹取物語」がある。 しかしこれは現存の『竹取物語』とは少し違う。 難題求婚部分が三題(『竹取物語』は五題)であり、その探求すべき宝物も異なる。 また、昇天も十五夜ではないし、富士山も出てこないのである。 実は困ったことに、時代を遡る『万葉集』にも「竹取翁の物語」がある。 巻十六であるが、ある丘で九人の天女に遭遇して、翁が半生を振り返り、このような自分にもモテた若かりし頃があったと長歌(3790番歌)を詠み、天女たちも一首ずつ応える歌物語である。 これは、竹もかぐや姫も登場しない「竹取翁の物語」である。 『竹取物語』とは無関係だとも言われる。 しかしながら羽衣伝説の一変奏だとは言えよう。 それが「竹取翁」とくくりつけてあるのだ。 潮の香りがする。 もう一つ、別の話をする。 かぐや姫はウグイスの卵から生まれたという話だ。 竹林にウグイスの巣があり、その卵からかぐや姫がかえり、それを竹取翁が見つけて育てた、というもう一つの「かぐや姫の物語」が中世以降少なからず流布している。 梅はウグイスが鳴く所で、棲む所は竹林でもおかしくはない。 問題は、かぐや姫は竹あるいは月の精なぞではなく、鳥の精だったということなのだろうか、ということだ。 その構成要素を分解すれば、次のように六つに分けられる。 A.かぐや姫の誕生(竹中生誕説話) B.竹取翁の長者譚(致富長者説話) C.妻どい・五人の貴人の求婚(難題求婚説話) D.御狩の行幸・帝の求婚譚 E.かぐや姫の昇天(羽衣説話) F.ふじの煙(地名起源説話) これを立体的に分かるように、所要ページ数で数量化する(角川文庫版の原文で算定)。 A.かぐや姫の誕生 0. 5頁(1%) B.竹取翁の長者譚 0. まず、大変いびつな構成の物語であることが一目瞭然だろう。 ここで物語の二つの通称に引き付けて分解すれば、「竹取翁」が主人公の物語部分はA・Bであり、「かぐや姫」はC・D・Eであろう。 Fは後日談である。 物語(フィクション)にリアリティーを与え、単なる説話ではあり得ない部分は、物語の六割以上を占めて五貴人が登場するCと、残りの大部分を占め、最高の貴人であり地上の王である天皇が登場するDおよび関連するE・Fである。 これを筆者が推察するに、最初に「A-B-E」の「竹取翁」伝承があったのだと思う。 ただし、現存の『竹取物語』と違い、Eの昇天パートはごくあっさりとしたものであっただろう。 この「竹取翁の物語」は、早い話が羽衣伝説である。 テーマは天(異界)から「女」がやってきて、不可思議な方法で「翁」を富ませ、やがて去っていくというものだ。 鶴女房説話など羽衣伝説は、天人女房説話とも言われるように、「翁」である必然はない。 元々はもしかしたら「若者」であったかも知れないし、結婚したのかも知れない。 その方がむしろふさわしい。 また「天」を「竜宮」に替えれば、浦島説話に近くなるし、紀記神話の山幸彦神話もその系譜にある。 『竹取物語』の特徴は、羽衣伝説に加えての「竹中生誕」にある。 すなわち、竹から生まれたこととその小ささである。 羽衣伝説は、オーストロネシア語諸族など古モンゴロイド(南方モンゴロイド)に広く共有されているが、竹中生誕説話についても同様なのである。 当然、これは竹の生育地域と重なる。 竹や笹はアジアが原産である。 日本の代表的な真竹(マダケ)は南九州が原産地である。 そして意外なことには、竹林そのものが今のように日本全国に拡がるのは中世後期以降のことなのである。 それまでは笹類が竹細工の素材に使われていた。 竹は、その驚異的な生長力や、不死と見紛うほどの生命力、節間が作る不思議な空洞などから聖なる植物とされてきた。 竹や笹が本当に神秘的だ思われることには、120年に一度と言われる一斉開花がある。 竹や笹は、花が咲き実が成る種子植物なのである。 ただし、ご存知の通り地下茎が繁殖器官である。 この植物らしくない植物であることもその聖性を高めているものと思われる。 タケノコが美味で食用であることはもちろん、竹は長らく医薬としても用いられてきた。 竹は呪力を持つ。 この観念は、竹や笹が生育する地域が共有する民俗文化である。 神降ろしの結界を作るとき、生竹を立てて注連(しめ)縄で囲むのは、現在の東南アジアなどでも広く行なわれている竹民俗である。 神社などの竹垣も、境界を聖別するものである。 竹で編んだ籠(かご)も呪具であった。 籠目は「鬼の目」とも呼ばれるが、実は邪霊の侵入を拒む聖なる目である。 逆もあり、時代劇などで設えられる刑場での竹囲みや罪人を入れる籠は、邪を封じ込める呪法であった。 〈箕〉 関西地方のエビス祭や関東地方の酉の市では、本来農具である箕(み:ザルの片方が開いたような形状の竹を編んだ器)や熊手が家福を集める呪具として売買されている。 また、エビス祭や七夕祭での笹は、神の依り代である。 紀記のアメノウズメは天照大神のために手に笹を持って踊った。 能や歌舞伎そして神楽の舞人が手にするものを採物(とりもの)と言うが、それが笹であるなら依り代である。 それから、小正月のどんど焼き(左義長)祭では、三本の竹を組んで正月の松飾りなどを焼くが、そのとき大音をたてて竹が破裂するのが「爆竹」である。 そしてこの音と心竹の倒れ方によって、その年の神占が行なわれてきた。 さらに、バチバチと音をたて人間の罪穢れを焼き払うお水取りの大松明は、修二会のクライマックスを彩るが、それは真竹から出来ている。 それ故の激しい炎なのである。 もう一つだけ、竹で作られた櫛(くし)を取り上げておきたい。 イザナギがイザナミを探しに黄泉国を訪れたとき、左の角髪(みずら)から櫛を抜き、それに火を灯した。 そしてそこから逃げ出すときには、右の角髪の櫛を追ってくる黄泉醜女(よもつしこめ)の方へ投げつけた。 するとそこにタカンナ(タケノコの古名)が生え、それを黄泉醜女が食べている間にイザナギは逃げ延びた。 実は、スサノヲも櫛の呪力でヤマタノオロチに打ち勝っている。 これは神話の話ではない。 櫛が古代人にとってどれほどの聖なる力を持ったものであったのかは、例えば宮崎県で鳥居龍蔵によって発掘された、天下(あもり)古墳や浄土寺山古墳の副葬品をよく見るがいい。 前者棺内の遺体の頭は十四本の竹櫛を挿していた。 後者には二遺体が葬ってあったが、一体は十本、もう一体には何と三十八本の漆塗りの竹櫛が挿してあった。 なお、他の武器などの副葬品からも鳥居博士は、これらの古墳が古代インドネシア文化へのつがなりを持つことを指摘していた。 竹中生誕説話は東南アジアなどに広く流布している。 かぐや姫はそういう竹の節が作る神聖空間に生まれたのだ。 それは籠もりに他ならない。 この「籠もる」という字を見て頂きたい。 竹かんむりが付いたカゴという字である。 聖なる者は籠もりながら、何かに被い包まれて現れる。 天孫降臨のニニギ命は真床追衾(まとこおうふすま)に包まれて天降ったし、桃太郎の桃もそうだ。 〈小さ子〉も聖なる異界からの来訪者であることを示す「異常」の標(しる)しである。 大国主の国造りを助けにガガイモの小舟で海をやって来た小さなスクナビコナがそうであったし、お伽噺の一寸法師や桃太郎もこの範疇に入る。 これには言わば「原典」がある。 中国四川省西北部に、アバ・チベット族自治州(チベット高原・カム地方東北端)という所がある。 ここは竹原産地の一つであり、稲作発祥の揚子江の上流・金沙江流域に当たる。 ここの住民を必ずしもこの地に固定的に考えることはない。 またここに伝わる民話も彼らが独自に作り出したものとすることもない。 さて、そこで20世紀になって採集された民話に『斑竹姑娘』というものがある。 「まだら竹娘」というような意味になるが、彼女は竹の中から生まれ、母子家庭の一人息子に出会う。 その後、領主の息子たちの無理やりの求婚を退け、めでたく主人公と結ばれるという話である。 この求婚譚部分が『竹取物語』の難題求婚譚に酷似しているのである。 それはもう、どちらかがもう片方の話を引き写したとしか考えられないほどなのである。 すべてを対照させて書くことはできないので、探求が要求された宝物だけを挙げておく。 しかし『斑竹姑娘』に対照させてみると、三つまではその説明がついてくる。 一つ目の「仏の御石の鉢」とは釈迦が所持した石の鉢だと言うが、その「石」とは「打っても割れぬ」という意味だったのではないかと察せられる。 求婚者・石作皇子はこの代用品を山寺から取ってくるが、かぐや姫が偽物だと見抜くのは「金の鐘」のように光り輝いていないからだった。 『斑竹姑娘』では偽物を被う金箔がはげ落ちる。 二つ目の「蓬莱の玉の枝」は「打っても砕けぬ玉の樹」の枝だと分かる。 「仏の御石」と同様に「蓬莱」(中国道教思想から観た神仙峡)という語は、むしろ大陸文化の香りがする。 実際、『竹取物語』文中に「東の海に蓬莱という山あるなり」とあり、どこから来た話であるかを示唆している。 求婚者・車持皇子は鍛冶匠を雇い三年をかけて代用品を作り上げるが、かぐや姫へ披露中に工人たちがその報酬を求めて現れ、すべてが露見する。 この展開は、見事なまでに『斑竹姑娘』のストーリーと一致している。 三つ目の「火鼠の皮衣」とは「火にも燃えぬ」ものであった。 火鼠(ひねずみ)とは中国民俗中で南方の火山に棲むという動物であるが、『竹取物語』文中に「唐土にある」とあってこれも大陸の方向を指示している。 求婚者・阿倍右大臣は商人にだまされて偽物の皮衣を手に入れる。 これをかぐや姫のもとに持参するが、試みに火中に入れてみると、灰となってしまう。 この顛末も、『斑竹姑娘』と全く同一なのである。 『竹取物語』の順で検討を続けよう。 「竜の首の玉」(『斑竹姑娘』では「あごの下」)である。 求婚者・大伴大納言は家来たちを探索に向かわせるが、誰も本気で探そうとはしない。 時間だけが過ぎて埒があかず、大納言はとうとう自身で南海へと漕ぎ出すが、嵐で散々な目に遭う。 宝物は見つからない。 この、まず家来に探させ、次に本人が南海へと向かい、遭難し、宝物は見つからないというのは『斑竹姑娘』も同じである。 最後の「燕の子安貝」は、『斑竹姑娘』では「燕の巣にある金の卵」となっている。 燕の卵を女が呑んで処女懐妊する(そして神の子を産む)のは中国神話での定番である。 子安貝もその名の通り懐妊を暗示し、今でも安産のお守りである。 わざわざ「燕の」と付けてあるように、どちらも同テーマだと言ってよい。 求婚者・石上中納言は、ある家屋の天井にその宝物があると聞く。 供の者に取らせようするがうまくいかず、自分で高所に登るが、足を踏み外して転落死する。 これまた、同展開である。 さらに、それぞれの求婚者たちのプロフィール、にせの旅立ちの際のあいさつ、ヒロインへの報告、本物かと思った際の彼女の反応に到るまで、大筋で合致しているのである。 無論、この『斑竹姑娘』が、そのままわが『竹取物語』求婚譚部分の原典ではない。 遠い昔にあったはずの「原典」の存在を確証し、それを受け継いだ一物語である。 ややこしい話だが、その『斑竹姑娘』の原典の求婚譚も、すでに「発展型」である。 五人の求婚譚のストーリー・パターンが、前半の三人と後半の二人とでは異なるのである。 伝承や昔話のストーリー・パターンは、「三匹の子豚」よろしく、「三」(トライアット)から出来ている。 この五人の求婚譚も、原形は初めの三人の求婚譚だったと思われるのである。 それに、後から他の二人の話が付け加えられた。 実際、前半と後半とでは、求婚者たちのプロフィール紹介の仕方が違う。 それから、前半の三話では、求婚者は自分自身で偽物を作ったり見つけたりして、ともあれヒロインの前に持っていき、そこで偽物だと判明する。 その間のヒロインの心情描写もある。 しかし後半の二話では、最初は他人に探させて、最後に自分で探しもするが、結局手に入れられないし、ヒロインの前にも行けない、というパターンなのである。 遙か昔から、東アジア・東南アジア・西太平洋地域にあまねく様々な羽衣伝説が流布していた。 それは『万葉集』の「竹取翁」型を始め、鶴女房型、浦島型、七夕型、かぐや姫型など多様であった。 そこへ、想像するにだが、難題求婚譚が接合する。 初めは昔話常套の三題物であり、その三題にも幾種かあった。 後ちにわが『今昔物語』に収められる三題(雷・優曇華・鼓)は古いタイプで、『斑竹姑娘』原典-『竹取物語』の原形となった三題は比較的新しいものであろう。 それに二題が付加されて、五難題物が仕上がる。 これにも数種あっただろう。 わが国へ、『今昔物語』型「竹取物語」と『竹取物語』型「竹取物語」がいつ頃いかなる形で漂着したのかは分からない。 それでも前者が早くかつ竹取「説話」に近い姿で定着し、後者はすでにやや「物語」めいたものとして日本に到着したとみてよい。 どちらも漢文としてあったと推測されるが、特に後者は口承するには複雑すぎるであろう。 かくして原「竹取物語」は、求婚者たちを天武・持統朝に活躍した実在人物と見立てる内容からも、それ以前に本朝に存在したと推定したい。 筆者は『竹取物語』には二度の「成立」があったと考えている。 その一度目とは天武・持統朝政権が開いた藤原京の時代、二度目とは平安時代初期(900年前後)である。 よく知られているように、難題に挑戦する五貴人には実在モデルがいる(考証は省く)。 登場順に次の通りである。 ・石作皇子 多治比嶋 (701年没) ・車持皇子 藤原不比等(720年没) ・阿倍右大臣みうし 阿倍御主人(703年没) ・大伴大納言みゆき 大伴御行 (701年没) ・石上中納言まろたり 石上麻呂 (717年没) いずれも672年の壬申の乱とその後の天武・持統朝政権で活躍した功臣たちである。 後の三人は官名も符合する。 物語中のこき下ろしぶりから、『竹取物語』の作者は反天武朝政権派の誰かだ、と言われてきた。 筆者はここではその詮索はしない。 しかし、少なくともそういう気分を持った貴人が「第一の作者」であることは否定しない。 それよりもここで重要なことは、『竹取物語』は平安時代になってから一気に書き上げられたものではないということだ。 彼らをいくら滑稽に取り扱っても、読者がその仮託を理解し享受し得る「賞味期限」とでも言える期間がやはりある。 そのリアリティーから言っても、「第一の作者」は彼らの同時代人でなければならないし、五人の死後よりも生前の間にこそウマ味があろう。 それに「大伴」の氏(うじ)名は、823年の淳和天皇即位の際、その諱(いみな)を避けて「伴」と改められている。 また、物語にある一般的な地名群の中で、ただ一つだけ明記された「大和国十市郡」の地名は、平安遷都以前を強く示唆するように思える。 以上のことから、藤原京時代に「成立」した第一次『竹取物語』は、次のようなものであったと筆者は推断したい。 すなわち、「竹取翁」型羽衣説話と「五難題」型求婚説話とが接合した原「竹取物語」を素材として、当時の日本人読者層に見合うように換骨奪胎した、つまり、素材の五難題説話の求婚者を、日本の実在モデルと入れ替え、当時最新の仏教や神仙知識を調合し、全体を整えて仕上げた漢文物語であったと。 第一次の「成立」から第二次の成立まで、約200年間ある。 この間に『竹取物語』中の「かぐや姫」は「日本人」として成長したのだと筆者は考える。 その成長の内容は、五貴人求婚譚のさらなる合時代的彫琢、日本国の帝王たる天皇の妻どいへの参入、求婚者とかぐや姫との和歌交換挿入(歌物語化)、十五夜昇天の細密化、後日談としての富士縁起付加、そして漢文からの和文化、以上の六点だと思う。 現存『竹取物語』には、敬語の用法において前から後にかけて登り勾配があり、後になるほど和文化が目立つ。 一方、漢語の使用も多く、前半部を中心にした漢文物語の先行が想定される。 これを読み下して和文化することが、まず行なわれたかと思う。 合時代的彫琢ということで明白なのは、「火鼠の皮衣」の項で大陸と交易する商人が登場するが、これは平安期の唐商の活躍が盛り込まれている。 また、道教の不老不死思想から富士縁起譚が設えられたのだろう。 天皇の登場部分には、難題求婚譚を総括する別挿話があった可能性もある。 しかし日本化のプロセスの中で、かぐや姫の超絶性つまり天女性を強調し「月の王」に対するために、どうしても最高の貴人にして「地上の王」たる天皇が登場することになったのだろう。 この天皇の参入は日本人にはかなり納得性があって、おそらく説話レベルでも受容され、それが『今昔物語』に取り込まれる別系「竹取物語」にも採り入れられたのだろう。 和歌の挿入が意味するところは、物語の日本語化であった。 この段階で、最初の難題物名「仏の御石の鉢」が確定されたのかも知れない。 一話の末尾は「鉢」(はち)と石作皇子の失敗した「はぢ」を掛けて終わっている。 他の求婚譚各話の末尾にも同様の言葉遊びが見える。 後日談である「富士」(ふじ)名の縁起譚もご存知のように、かぐや姫が残した「不死」の薬との掛け詞で出来ている。 この解明の前に、第一次と第二次『竹取物語』とのつなぎ目跡について指摘しておこう。 実は翁の年齢について、物語の前後で齟齬がある。 妻どいの初めのところでは「年七十」とあり、昇天前の部分には「五十」とある(ここには「かぐや姫を育てて二十余年」ともあり、さすれば「翁」は三十歳前にかぐや姫に出会ったことになる)。 また、これに呼応するように、前半ではかぐや姫は自身の身の上を「化生の身とはつゆ知らず」と言うが、後半では「罪があり因縁で翁のもとに下った」と言う。 しかし前言も嘘をついたとも思えない筆致なのである。 十五夜は、難題である。 しかしその解明は「かぐや姫」のニッポンにおける出生地をやがて照らし出すだろう。 まず、「かぐや姫」とはどういう命名であるか。 そう、光り輝くヒメである。 これは第一に満月時の月光の謂いであろう。 すなわち、満月信仰や観月民俗が「かぐや姫」誕生の前提である。 しかしながら、日本最古であるはずの紀記にもこのようなものはないのである。 果たして「かぐや姫」は日本生まれか。 仲秋の名月つまり陰暦八月十五日(今年なら十月一日)に観月するという民俗は唐から日本に移入された。 平安『竹取物語』はこれを承けていると言ってよい。 ところが『竹取物語』には、月を観て嘆くかぐや姫に「観月は忌むべきこと」とある人が言った、とある。 これは唐の観月民俗が入って来るまでの日本貴族の常識を代表するものであろう。 そこには、西洋で狼男が吠える「ルナティック」と同様、月は狂気を誘うものという俗信があったものと思われる。 ここで、一見は無関係とも思える私たちの民俗を思い出したい。 観月はどうかは知らぬが「月見」というものはある。 そして、そこには少し以前まではイモが供せられていたはずだ。 実は、そのイモは古くは竹製の箕に乗せられていた。 この箕は初物を乗せる神饌の容器である。 これは、唐からの観月民俗とは別な、古来からの満月信仰なのである。 「かぐや姫」は唐文化を承けた観月民俗よりも深層にある、もっと古い信仰の大海原の流れの中に浮き沈みしている。 笹類はあるとは言え、竹林がそれほど広がらない古代日本でなぜ『竹取物語』が成立したのかである。 実は畿内には早くから大和国吉野などに竹林が移植されていた。 それは南九州からで、その担い手は隼人たちであった。 彼らは支配を拡げる朝廷によって畿内に移住させられ、竹器製作に従事していた。 彼らの故郷である南九州こそ、日本産竹林の原産地であった。 紀記は述べる。 ニニギ命が「日向」に降臨して最初に行った所は阿多(薩摩半島)の笠沙岬であったと。 日向とは、今の宮崎県地方ではなく、当時は南九州全般のことである(大隅・薩摩国は後に日向国より分国)。 ニニギ命は笠沙で、妻となる「コノ花咲クヤ姫」と出会う。 この姫の名の「ヤ」は「かぐや姫」の「ヤ」と同一である。 この姫は竹のように一夜にしてたちまち懐妊して、鵜の羽で葺いた産屋に入り、まわりには火を放った。 三子を出産し、竹の刀でへその緒を切る。 産屋に火を焚き、竹の刀でへその緒を切るのは、オーストロネシア語諸族の民俗である。 ニニギ命とコノ花咲クヤ姫の子が、海幸彦と山幸彦である。 その山幸彦が浦島型の羽衣伝説を演じるのは周知の通りである。 詳細は省くが、ここでも箕や籠それに櫛が登場する。 山幸彦の妻は、海神の娘・豊玉姫である。 彼女はワニの姿で子を産む。 ウガヤフキアエズ命と言うが、その「ウ」には隼人の習俗である鵜飼の「鵜」の字が当てられており、吉野に移住した隼人でさえ鵜飼にも従事していた。 その命は、海神の娘である豊玉姫の妹・玉依姫と結び、神武天皇を産む。 こうしてみると日向神話とは、海人族(オーストロネシア語諸族系の一派)と天孫族を無理やり接合して、何かを交換し簒奪(さんだつ)しようとする試みとも読める。 事実、山幸彦は神武天皇の祖父となる一方で、兄の海幸彦は服従の隼人舞いを強いられる始めとなる。 それはニッポンにおける海人族(海神族)の無視できない広がりを示すとともに、かぐや姫の秘密についても何かを語ってくれそうである。 阿多(薩摩)隼人の移住地である。 ここには阿多比売神社というものがあり、コノ花咲クヤ姫を祭っている。 山背国南部(現京田辺市)にも竹林が多い。 ここには大隅半島の隼人が移住させられていたのだ。 奈良あるいは平安時代の竹民俗は、これらの地にこそ伝承されていたと言うべきだろう。 さらに符合的に言うならば、『竹取物語』末尾の富士山には浅間神社があり、その祭神はコノ花咲クヤ姫である。 「かぐや姫」とはコノ花咲クヤ姫の別名なのかも知れない。 そろそろ、十五夜の秘密に迫れそうな所まで来た。 隼人は海人族・海神族であり、つまりオーストロネシア語諸族の一つ、そして南方モンゴロイドであり、竹民俗の担い手だと断定してよいだろう。 そしてオーストロネシア語諸族とは、後ちに稲作を開いた南方モンゴロイドの一派でありながら、居住気候風土から古風である焼畑イモ文化を担い続けた諸民族である。 その焼畑イモ文化とは、かつては日本を含め南中国や東南アジア全体を一度は被ったはずの基層文化である。 ニッポンの焼畑イモ文化とはそういう汎アジア文化としてかつてあった。 そのとき、行なわれていたのが観月ならぬ「月見」であった。 月見こそ正月以前の「正月」であったはずだ。 この忘れられた民俗の古層から生まれたのが「かぐや姫」であり、その「月光」は現代においても私たち日本人に言い知れぬ何かを呼び起させる。 それは「妣が国」とでも言うべき、ニッポン人の来し方を照らす光なのであろうか。 (七) いくつか蛇足を加え、本稿を閉じたい。 それにしても、かぐや姫の昇天部分の描写は圧巻である。 現代人に、これは宇宙人の実際の到来を描いたものだと言う人がいるのも宜なるかなである。 このパートを書き上げた「第二の作者」の芸術的昇華ぶりには全く敬服する。 背景思想的にも、素朴な天女昇天のベースの上に、道教思想を深く吸い込んで神仙峡を「月」世界と見立て、さらに仏教的な輪廻や因果応報思想の香りまでうっすらと漂わせている。 〈阿弥陀二十五菩薩来迎図(知恩院)〉 筆者はこの描写を、仏教の「来迎」図をもとに描かれたものではないかと思う。 月の王を始め天人たちが宙に浮いている姿なぞ、阿弥陀如来や弥勒菩薩が聖衆たる諸菩薩などを従えて人間世界にまで下降してきた来迎図そのままだ。 彼らは、かぐや姫が天上で罪があって下賤の地上に降ろされたのだと言う。 こういうのを「天人流謫(るたく)」と言うが、日本人らしい仏教ではないかと思う。 すなわち、仏教というよりニッポン教的な信仰としてこそぴったり来る。 I am GOD'S CHILD(私は神の子ども) この腐敗した世界に墜とされた How do I live on such a field? (こんな場所でどうやって生きろというの?) こんなもののために生まれたんじゃない こう歌ったのは、鬼束ちひろという現代日本人歌手である。 そしてその歌のタイトルはずばり「月光」である。 おそらく当人は無意識であろうが、これはかぐや姫昇天の本歌取りと言うべきものだろう。 かぐや姫昇天の想い出は、今に至るも私たち日本人の深層にしっかりと刻み込まれている。 最後に、ニッポンの昔話に一疑問を提起しておこう。 それは、どうして「翁」(老人)なのか、という問題である。 先述のように『竹取物語』の後段で翁自身が語るところによると、主人公は何と三十歳前で「翁」なのである。 こぶ取り爺さん、桃太郎、花咲か爺さん、一寸法師、舌切りスズメ、等々、すべて老人が人間側の主人公である。 これはいったい何なのか。 こんなことも機会があれば、考えてみたい。 (あとがき) この論考それ自体が、専門家でも何でもない筆者がわが「かぐや姫」についてあれこれ臆断に臆断を積み重ねて築いた、『竹取物語』の出生をめぐる一物語にすぎないことは言うまでもない。 [主な典拠文献] 『』角川文庫 伊藤清司『』講談社現代新書(現在品切れ) 沖浦和光『』岩波新書 (参考) mjf-050 Copyright c 1996. 20,TK Institute of Anthropology ,All rights reserved.
次の竹取物語のあらすじ 昔、竹取の翁という竹を取って 生活をする男がいました。 ある日、翁は竹林に入ると 金色に光る竹を見つけ切ってみると、 竹の中には小さな女の子がいました。 翁はその女の子を連れて帰り 夫婦で育てることにしました。 3カ月ほどで女の子は、 とても美しく成長し 「なよ竹のかぐや姫」と 名付けられました。 かぐや姫の美しさは、 あっという間に噂になり 求婚者が続出します。 その中でも特に熱心だったのは 5人いるのですが、 かぐや姫は言い伝えしか 聞いたことのない 宝物を持ってくるよう 無理難題を要求します。 その結果、 宝物を探すために怪我をしたり、 中には命を落としたりとして 誰もクリアすることは できませんでした。 かぐや姫の美しさは帝にも届き、 かぐや姫に会おうとするのですが、 かぐや姫は会うのを拒否しました。 そこで帝は狩りに行くついでに 不意を突き、 かぐや姫の家に入り会うのですが、 一瞬のうちに姿を消しました。 その後、 帝とかぐや姫は和歌を詠み合うなど 手紙で文通するようになるのですが、 3年の月日が経過した8月のある日、 かぐや姫は月を見て泣いてしまいます。 翁がそれを聞くとかぐや姫は 自分は月の人間であり、 十五日にはお迎えが来て 月に帰られければならないと言います。 それを知った帝は兵士を出して 帰さないようにするのですが、 お迎えの人たちが現れると 兵士たちは戦意を失います。 かぐや姫は別れ際に 手紙と天の羽衣と 不死の薬を帝に送ります。 新たな衣をかぐや姫が着たとき、 これまでの思い出が無くなり、 月へ帰りました。 かぐや姫が月へ帰った後、 翁と妻は 生きる気力を失って病んでしまい、 帝は手紙を読んで悲しみ、 かぐや姫がいないのに 不死の薬が何になると詠み、 薬と手紙を駿河の山で燃やしました。 後にその山は富士の山と 呼ばれるようになりました。 かぐや姫の原作との違いは? かぐや姫の物語も 最後には月に帰って終わるのですが 竹取物語は、 その後のお話があるのが 大きな違いです。 とても明るいものではなく 暗くなってしまう話題なので かぐや姫のほうは その部分を描いていません。 最後に 最後の部分が違うというのが 驚きですよね。 かぐや姫は絵本やアニメだと 月に戻って終わりですからね。 竹取物語をそのまま 忠実通りに絵本やアニメに 再現したら、 それを見たり読んだりした 子供たちは、 どうなってしまうでしょうか?.
次の「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。 …」という書き出しから始まる「竹取物語」は、「かぐや姫」というタイトルで小さな子供からお年寄りまで広く知られています。 作られたのはおおよそ平安時代前期とされ、作者は未詳、現存する最古の物語とされています。 紫式部の「源氏物語」に於いても「物語の出で来はじめの祖」と記され、「源氏物語」をはじめとする後世の多くの物語文学に大きな影響を与えたとされています。 物語の素となっているのは伝説や説話などの民間伝承と考えられますが、求婚者の名前に実在した人物名が使われていたり、貴族の暮らしぶりなどが描かれていることなどから、当時の貴族社会を風刺した風刺物語とも言えます。 今まで繰り返し書籍や映像で何度も取り上げられてきたこの「竹取物語」を、今回はできるだけ現文に沿った形でそのあらすじをご紹介したいと思います。 今回「終活ねっと」では竹取物語に関して以下のような事柄を中心に説明していきます。 竹取物語とは• 竹取物語のあらすじ 時間がないという方やお急ぎの方も、知りたい情報をピックアップしてお読みいただけます。 ぜひ最後までお読みください。 竹取物語・前半あらすじ 生い立ち かぐや姫の誕生 昔、竹を取って籠などの竹細工を作ることを職業としている竹取の翁(おきな)という者がいました。 ある時、翁がいつものように竹を切っていると、その竹の中に光る竹が一本あるのを見つけます。 翁が不思議に思ってその光る竹に近づいてみると、竹の筒の中が光っていて中に小さなかわいらしい子供が座っていました。 翁は自分が毎日取っている竹の中にいたのだから、自分と縁がある子供に違いないと思い家に連れて帰り、妻の媼(おうな)と共に育てることにします。 その子供を見つけて以来、竹取の翁が竹を切ると中に黄金が入った竹を見つけることが重なり、翁はだんだんと裕福になっていきました。 かぐや姫の成長 子供は育てていくうちにどんどんと成長し、三か月ほどで十二・三歳くらいの大きさになったので裳着(もぎ)や髪上げなどの成人の儀礼を行い、帳の中から出すこともせず、大切に育てました。 その子供は世にまたとないような美しさであったので、家の中は光が満ち溢れ、翁は気分がすぐれない時も苦しい時もその子を見れば気分が良くなり、腹立たしいことがあっても気がまぎれました。 なよ竹のかぐや姫 翁は黄金が入った竹を見つけることが長く続き、いつのまにか大変な金持ちになりました。 子供はすっかり大人に成長したので、翁は御室戸斎部(みむろといんべ)の秋田を招き、名前をつけさせることにしました。 秋田はその子を「なよ竹のかぐや姫」と名付けました。 翁は命名のお祝いに多くの男たちを呼んで、三日間の盛大な祝宴を開きました。 やがて多くの男達がかぐや姫の噂を聞きつけ、身分に関わらず皆このかぐや姫を妻にしたいと望むようになります。 竹取物語・中盤あらすじ 求婚 五人の貴公子と五つの難題 五人の貴公子からの求婚 多くの男たちが、かぐや姫を一目見ようと夜昼なく姫の家の周りをうろうろするようになります。 そのうちにあきらめて来なくなった者もいましたが、中には最後まであきらめず熱心に通い続けた男たちもいました。 通い続けたのは、石作(いしつくり)の皇子、車持(くらもち)の皇子、右大臣阿倍御主人(あべのみうし)、大納言大伴御幸(おおとものみゆき)、中納言石上麻呂足(いそのかみのまろたり)の五人の貴公子たちでした。 彼らはなんとか一目かぐや姫に会いたいと何度も翁を説得しようとしますが、「自分が産んだ子ではないので思い通りにはいかないのです。 」と言って断られ続けます。 それから月日が経っていきますが、貴公子たちはあきらめようとはしないので、とうとう翁も折れて「自分も高齢になってきて、姫の将来のことが心配です。 熱心に通ってきてくださっている五人の方たちの中から一人選んで結婚してはどうですか。 」とかぐや姫に結婚を勧めます。 しかし、結婚をしたくないかぐや姫は、相手の愛情の深さを確かめた上でなくては結婚はできないと言い、結婚の条件として五人の貴公子たちにそれぞれ難題を課すように翁に頼みます。 五つの難題 五人の貴公子たちに与えられた課題は、かぐや姫が見たいを思っている物を持ってくることでした。 石作の皇子には仏の御石の鉢を、車持の皇子には蓬莱(ほうらい)の玉の枝を、右大臣阿倍御主人には火鼠の皮衣を、大納言大伴御幸には龍の頸の玉を、中納言石上麻呂足には燕の子安貝(こやすがい)を。 いずれも誰も見たことがなく存在するかさえも分からない宝物でした。 五人の貴公子たちはあまりの難題にがっかりして帰っていきます。 しかし、やはりかぐや姫をあきらめきれない五人は、それぞれに課題とされた物を用意するべく知恵を絞り、大金を投じ、命をかけて贈り物を用意しようとします。 難題に答える貴公子たち 石作の皇子と仏の御石の鉢 石作の皇子は三年後に、大和の国の山寺にあった煤けた鉢を蓬莱から持ってきた仏の御石の鉢と偽り、姫のもとに持っていきます。 しかしすぐに見破られてしまい姫に冷たくあしらわれて去って行きます。 この時に鉢を捨てて、しつこく言い寄ったことから「恥 鉢との掛詞 捨てる」と言われるようになります。 車持の皇子と蓬莱の玉の枝 車持の皇子は、蓬莱の玉の枝を工匠に作らせ姫に贈ります。 姫は見事な細工に騙されそうになりますが、枝を作った工匠が謝礼を翁のところにもらいに来たため偽物だとわかり、枝を突き返され結婚を断られます。 これを恥て皇子は深い山に姿を隠します。 このことから玉の枝と魂離る(魂が抜けたようになる)を掛けて「たまさかる」と言われるようになります。 右大臣阿倍御主人と火鼠の皮衣 右大臣阿倍御主人は、大金を投じ火鼠の皮衣を天竺から取り寄せ姫に贈りますが、真偽を疑ったかぐや姫に衣を燃やすように言われます。 右大臣が言葉通りに火をつけてみたところ衣は燃え尽きてしまい、姫を妻にという望も尽きてしまいます。 このことから無駄になってしまうことを「阿倍なし」に掛けて「あへなし」と言われるようになります。 大納言大伴御幸と龍の頸の玉 大納言大伴御幸は龍の頸の玉を家来に取りに行かせますが、家来たちは従ったふりをして取りに行きません。 業を煮やした大納言自らが海に漕ぎ出し玉を取りに行こうとしますが、途中で嵐に合います。 船頭に嵐が龍のせいだと言われた大納言は計画の中止を龍に誓います。 すると嵐はおさまり、なんとか播磨の浜に流れ着くことができました。 大納言は命からがら家に帰りつきますが、あまりにひどい目にあったため、かぐや姫をあきらめます。 この時に大納言は目を患い両目の上にスモモのような腫物がができ、それを見た人が「あな食べ難い」と言ったことから「あな堪え難=割に合わない」と言われるようになります。 中納言石上麻呂足と燕の子安貝 中納言石上麻呂足は、燕の子安貝を得るために家来にツバメの巣から子安貝を採らせる策を講じますが、なかなかうまくいきません。 埒が明かないことにイライラした中納言は、自ら籠に乗り子安貝を採ろうとしますが誤って籠から落ち大怪我をしてしまいます。 これを聞いたかぐや姫は中納言の事を気の毒に思い歌を送りました。 歌を受け取った中納言は姫に返歌をしたのち息を引き取ります。 中納言が落ちた時に手にしていたものが貝ではなく燕の糞であったことから、巣に貝は無い「かひなし=甲斐なし」と言われるようになります。 また、かぐや姫が中納言を気の毒に思ったことから「甲斐あり」とも言われるようになります。 帝からの求婚 かぐや姫の美しさと五人の貴公子を拒絶した噂は、とうとう帝のもとにも届きます。 帝は使いの者をかぐや姫のもとに遣わし、姫を見てくるように命じますが姫は頑なに会おうとせず、困り果てた使いの者は帝にその旨を訴えます。 帝は竹取の翁を呼んでかぐや姫に宮仕えをするように申し渡しますが、かぐや姫はこれにも「従うくらいなら死にます。 」と言って拒絶しました。 そこで帝は狩を口実に翁の家に行幸することにしました。 かぐや姫を見た帝は姫を連れて帰ろうとしますが、突然かぐや姫は影のようになってしまいます。 帝はかぐや姫をただ人ではないと理解し、連れて帰ることをあきらめます。 その後、帝はかぐや姫と文を取り交わすことで心を通わせるようになりました。 竹取物語・後半あらすじ 昇天 かぐや姫の嘆き それから三年ほど経ったある年の春ごろから、かぐや姫は月を見ては物思いにふけるようになります。 その悲しげな様子に翁をはじめまわりに仕える人々は心配しますが理由はわかりませんでした。 やがて八月十五日近くのころになると、かぐや姫はひどく嘆き悲しむようになります。 心配した翁と媼が尋ねると、かぐや姫は自分は本当は月の都の人間であり今月の十五日には迎えが来るので月へと帰らなければならないこと、今は慣れ親しんだこの国を去ることが辛く、翁たちとの別れを思うと嘆き悲しまずにはいられなかったことを話します。 このことを聞いた帝は、翁の家に二千の武装した兵を差し向け警護に当たらせます。 かぐや姫はどれほどの備えをしても月からの迎えを妨げることはできないと言い、両親との別れに涙します。 翁はかぐや姫を媼と共に塗籠に入れしっかりと鍵をかけその前に座ります。 かぐや姫の昇天 そうこうしているうちに夜も更け、夜中の十二時頃、あたりが急に真昼以上に明るくなり空から雲に乗って月からの使者が降りてきました。 翁や兵たちは、かぐや姫を連れて行かせまいとして戦おうとしますが、身体に力が入らず戦意も失い為す術がありません。 とうとう塗籠も開けられてしまい、かぐや姫も媼の手を離れて出てきてしまいます。 あまりに嘆き悲しむ翁たちを見て、かぐや姫は両親に着物と手紙を、帝には手紙に不死の薬を添えて形見として渡しました。 そうして、天の羽衣を着せられたかぐや姫は今までの事をすべて忘れてしまい、月からの使者と共に天に帰って行きました。 富士の山(不死の山)の煙 かぐや姫を失った翁と媼は悲しみのあまり病の床に就いてしまいます。 また、かぐや姫から手紙と不死の薬を贈られた帝も悲しみ、天に一番近いと言われる駿河の山の頂上にてその手紙と薬を燃やすようにと命じました。 その時にたくさんの兵士を引き連れて山に登ったことからそれ以降、その山を士(兵士)が富む山と不死(不死の薬)を掛けて「富士の山」と呼ぶようになり、不死の薬を焼いた煙は今だ雲の上まで立ち上っていると言い伝えられています。 日本各地には、かぐや姫の伝説が残っている場所があります。 こちらの記事にまとめてありますので、ぜひお読みください。 以上ができるだけ現文に添った「竹取物語」のあらすじになります。 今も新たな解釈や演出によって表現されることが多い作品なので、皆さんがそれぞれご存知の「竹取物語」や「かぐや姫の物語」とは若干あらすじが違うところがあるかもしれません。 しかしながら、約千年に渡ってほぼ現文通りに伝えられているということは、多くの人々に好まれる内容であったことと、完成度の高い魅力的な作品であったからだと言えるのではないでしょうか。 一部の原文は、中学や高校の古典の授業などでも必ずと言ってよいほど教材として使われています。 比較的わかりやすい内容の為、挑戦しやすいと思いますのでチャレンジしてみてください。 かぐや姫のあらすじについては、こちらの記事でより深く考察していますので、ぜひ併せて読んでみてください。
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