朝鮮,の元宗 11 1270 年から同 14年に及ぶのおよび農民蜂起。 三別抄とは左右別抄と神義別抄から成る特別のの。 13世紀前半,軍の侵入を受けた高麗王室は一時に逃れたが,元宗 11年についに降伏した。 当時高麗朝はのに左右されていたが,三別抄軍は初め崔氏の命を受けて江華島を守るため編成され,対モンゴル戦でもをあげていた。 崔氏政権がくずれてが開京へのを決定すると,これに反対した三別抄は,の王温を擁立して全羅道南西沿海の珍島に走り,ここを根地として反元反政府運動を展開した。 同 12年,珍島陥落ののち耽羅 現在の済州島 に拠って抵抗し,各地の農民蜂起を誘発させたが,同 14年鎮圧された。 この乱のによって,モンゴルの日本遠征への障害は取除かれた。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 世界大百科事典 内の三別抄の乱 の言及 …中国を支配したモンゴル民族の王朝。 国号の元は1271年 至元8 に《易経》の乾の〈大いなるかな乾元,万物資始す〉に基づき,定められた。 【政治】 1205年アルタイ地方に拠る強敵ナイマン部の撃滅をもって完結した太祖チンギス・ハーンのモンゴリア統一によって,後年アレクサンドロス大王の帝国をも凌駕するまでに成長するモンゴル帝国はその政治的基盤を固めた。 ところで牧畜経済にとって唯一の資財たる家畜はその累積がきわめて困難な関係上,遊牧国家がその発展を期するために隣接する異なる経済圏の制圧を企てるのは匈奴帝国以来の通例である。 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について.
次の手札は知識。 手札の数は知識の量。 水文明の民は皆、口を揃えてそう言った。 手札が多いということは、選択肢、可能性がそれだけ増えるということ。 言い得て妙な比喩だと僕は思うね。 手札が多ければそれだけ強い! うれしい! さて、十王篇にて大注目のドローカードが登場した。 《三・騎・繚・乱》。 5コストで3枚ドロー。 これだけではただの《トリプル・ブレイン》だ。 だが、このカードは 「チーム銀河」のカード! ギャラクシールド3がついているではないか! ギャラクシールドを用いれば3コスト3枚ドロー。 かかるコストとドロー枚数を考えれば、かの有名なプレミアム殿堂カード 《サイバー・ブレイン》を超える。 やった! 手札! いっぱい! ふえるわかめみたいにどんどん増える! これはこれで強いのだが、この「ふえるわかめ」……もとい 《三・騎・繚・乱》の使い方はそれだけじゃない。 よく考えてみよう。 《三・騎・繚・乱》は ギャラクシールドを持っている。 ギャラクシールドはコストを先に支払い、次のターンの始めにその効果を受けられる能力。 マナを使うことなくターン始めにドローが出来るのだ! ドロー効果のみを見るならばあまり気にかけることでもない。 だが、この効果によって莫大な恩恵を得られるカードが存在するのだ! 《絶海の虎将 ティガウォック》! そのターンドローしたカードの枚数分コストの下がる彼にとって《三・騎・繚・乱》は0コストで3コスト軽減出来るカード! まさに! 「Black Lotus」の様! 実質Add 3 mana! ……まあ、前のターンに3コスト払ってるから実際 Black Lotusほどとはいかないが、それでも十分すぎるくらい強い! 《天災超邪 クロスファイア 2nd》 「大量ドローなら俺も忘れないでくれ!」 お、そうだな。 というわけでこの 《三・騎・繚・乱》と 《絶海の虎将 ティガウォック》のコンボを使った「メガハンドデッキ」を紹介! デッキ名は 「三・騎・繚・乱ティガウォック」! ひねりねぇなぁおい。 《三・騎・繚・乱》と 《絶海の虎将 ティガウォック》だけでは、ドローは出来ても攻め手に欠ける。 《海底鬼面城》と 《三・騎・繚・乱》でドロー枚数を伸ばし、ティガウォックを展開。 ターンを跨いだ過剰打点にて相手を貫くのがこのデッキメインの動きになる。 大量のドローをするため手札に引き込む確率は高い。 EXターン後の打点増強に一役買ってくれること間違いなしだ。 他にも 《龍装者 バルチュリス》や 《天災超邪 クロスファイア 2nd》の手札を使った打点増強札も採用している。 大量ドローで地を固め、手札を最大限活用した超打点を打ち込む。 病みつきになること間違いなし! てなわけで今回も例に漏れずオリジナルデッキ販売コーナーにこのデッキを置こうと思う。 値段以上には楽しく、強いデッキなので是非お立ち寄りの際はお確かめを。 最後に。 《爆龍勝利 バトライオウ》使ったデッキは今回始めて作ったかも。 WINNERプロモめちゃかっこ良きだから使ってみたいなぁ。 byとかいいつつ 《爆龍勝利 バトライオウ》のプロモ持ってないスタッフ アサイシ.
次の中国,初の 1673~81。 三藩とはの平西王,の平南王,の靖南王をいう。 清は,中国内地征服に際して活躍したの呉三桂, 尚之信の父 , 耿の祖父 の大功を賞し,呉,尚,耿継茂 精忠の父 を王としてそれぞれ雲南,広東,福建に封じた。 彼らは強力な軍事・民政・財政権をみずからの手に握り,あたかも独立政権のごとき存在であった。 中国の反清を討伐すると,はこれら三藩の勢力がみずからを脅かすものとみて,警戒心を高めた。 康煕 12 73 年に尚可喜が引退して帰郷することを願い出たので,清はこの機に乗じて尚一族全員の撤藩 半独立的な藩国の廃止 を命じた。 この報に驚いた呉三桂と耿精忠は試みに撤藩を願い出てみたところ,同じように撤藩の命が下った。 清の意図を知った呉三桂は反清の兵をあげ,に進出してここを根拠地とし,四川,,江西,福建,広東へと軍を進めた。 耿精忠はこれに呼応し,尚之信も同 15年に挙兵したがまもなくくだり,精忠も翌年くだった。 三桂は同 17年に湖南で位につき反抗を続けたが,まもなく死亡し,三桂の跡を襲った孫の呉世ぱんも同 20年 10月に清軍に囲まれ自殺し,乱はされた。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 中国、清 しん 朝の1673~81年の、漢人将軍の反乱。 三藩とは雲南の呉三桂 ごさんけい 、広東 カントン の尚之信 しょうししん 、福建の耿精忠 こうせいちゅう をいう。 満州人政権である清朝は、中国支配にあたって多くの投降漢人を使用したが、その多くが「八旗漢軍」に編入された。 しかし、呉三桂、尚可喜 かき (之信の父)、耿仲明 ちゅうめい (精忠の祖父)の3人は、それぞれ配下に多くの将兵をもち、中国平定戦争に大功があったため、平定後もその軍団は解体されずに、三桂は雲南に平西王、可喜が広東に平南王、継茂 けいも (仲明の子)が福建に靖南 せいなん 王として封ぜられ、それぞれ藩府を開き、軍事、財政権を有して、やがて中央政府の意向を無視する独立政権的存在となった。 このような三藩の存在は、中国全土を支配下に収めたのちの清朝の容認しうるものではなく、1673年の尚可喜の遼東 りょうとう への引退願いに端を発して、清朝は三藩の撤藩を命じた。 このため三桂が挙兵し、74年に精忠が呼応、76年には之信が三桂に投降した。 各地の反清勢力も加わって、一時は揚子江 ようすこう 以南が三藩の支配下となった。 しかし、三藩の間に統一した動きはなく、77年ごろから清軍の攻勢が続き、78年8月に湖南で三桂が没し、後継者の呉世 せいはん も81年に自殺し鎮圧された。 この乱の鎮圧以後に清の中国支配が確立したといえる。 [細谷良夫] 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について の解説 清初期の1673〜81年に起きた漢人将軍の内乱 三藩とは雲南の平西王呉三桂,広東の平南王尚可喜 しようかき と子の尚之信 しようししん ,福建の靖南王耿継茂 こうけいも と子の耿精忠をさす。 彼らは明から降伏した漢人武将で,清の統一に活躍,それぞれ王に封じられて直属軍団をもち,軍閥化した。 1673年尚可喜の辞意表明をうけた康熙 こうき 帝の平南廃藩令に対し,まず呉三桂が明朝回復をにして反乱を起こした。 これに他の2王や漢人武将も加わって,西南部10省に及ぶ大乱となり,台湾の ていけい (の子)もこれを援助した。 やがて呉三桂はみずから帝位についたが,彼が病死(1678)すると,1681年清は乱を鎮圧して中国支配を確立した。 出典 旺文社世界史事典 三訂版 旺文社世界史事典 三訂版について 世界大百科事典 内の三藩の乱 の言及 …69年 康熙8 ,帝はクーデタによりこれをたおし,以後は50余年間にわたり名実ともに政治の実権をにぎった。 清朝は中国征服に功績のあった呉三桂ら漢人藩王3人を,雲南はじめ南方諸省に封じていたが,かれら三藩は軍事・財政・人事の特権をにぎり,半独立の専横ぶりを発揮したので,73年,帝は彼らに満州への引きあげを命じ,これをきっかけに三藩の乱が起こった。 乱は湖南省を中心に南方一帯に拡大し,一時は中国を二分する勢いをしめしたが,帝の巧みな用兵と火砲の威力により,また三藩の側の分裂や呉三桂の死なども影響して,81年平定され,あわせて83年には,長く台湾によって三藩に呼応していた鄭氏の乱も平定されて,清朝の基礎はこれによって固まり,以後台湾は中国領となった。
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