私が善とは思わぬが。 映画『裸の十九歳』から学んだこと

「やらない善よりやる偽善」についてどう思いますか?

私が善とは思わぬが

こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。 自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。 この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。 生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。 生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。 もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。 それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。 フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。 親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。 「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。 ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。 誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。 ピコさんへ、こんにちは。 もう人生を杭を残すことはない、まで極めてしまったのですね。 素晴らしいことです。 それであればいつお迎えが来てもいいのですから、気長に余生を送りましょう。 もちろん自殺はダメですよ(笑)。 私も半ば人生もう充実したと思って同じく死んでもいいやって思いましたが、今は違うようになりました。 あっという間に50歳になってあと20年で自分の夢が実現できるのだろうか?尊敬する漫画家の手塚治虫先生の「もっと書きたい」と言って死んでいったように、もっと生きたいと生への未練タラタラで死ぬのもいいなーと思って、今は生きたいと思い少し運動するようになりました(笑)。 将来、この世の中がどうなるのか、見てみたい気もします。 息子のために素晴らしい日本でいてほしい。 日本の文化、天皇陛下の御代、国体護持を守って死にたい。 とも思うようになりました。 命とははかなくものと知る度に、自分はどう生きるべきか、考えています。 もう少し精進しなければと思う今日この頃です。 合掌 ハッキリもう上げます。 あなたは入り口にさしかかたに 過ぎません。 これからです。 お釈迦さまは、 長い厳しい修行ののち、 35歳で悟りを開かれましたが、 どうせ伝えても誰もわかってもらえないと、説法をされなかったのですが、 仏教の守護神であらせられる梵天さまが、お出ましになって教えを説きなさいと、繰り返し言われたので、 教えを広めるようになりました。 その後、齢80で入寂されるまで、 御布教に御身を尽くされました。 そう考えると、あなたが獲得した境地は、始まりに過ぎないと思えます。 私は、浄土の教えを信奉していますので、自力の修行はしていません。 詳しく書くことを憚りますが、 一種のこれ以上はないのではないか、 と思えるような満足感、充足感を、 味わった時がありました。 ただ、それは始まりの始まりに 過ぎない。 ちょっと辛辣な言い方かもしれませんが、 門前の小僧が、門の中の極楽浄土を 垣間見たに過ぎないと、 いまでは思っています。 何故かというと、 人は社会的な生き物なんです。 一人では生きていけません。 生業の仕事をして、生活をし、 人との軋轢や息苦しさに、 時には苦しみ、悩み、 はたまた、人との有難いご縁の中で、 有難いと、手を合わせて感謝する。 そんな娑婆世界の下世話な生活の中で、いやあ、自分の体得した、 境地なんぞは、 夢幻に過ぎなかったと気付かされる。 まだまだなんだなあ。 これからなんだなあ。 とつくづく思い知らさる。 あなたも、そんな境涯は いますぐかなぐり捨てて、 今を生き抜く、 生き切られたらよろしい。 死んでも大丈夫? まだまだじゃないですか? 私もまだまだ、これから。 あなたもまだまだこれから。 還暦に近い爺さんの私が、 いうんだから間違いない。 ガツガツともっとどデカイ目標を、 見立てて、頑張ることを期待します。 拙僧は、お寺を繁盛させること。 信者さんを増やす。 次に、お寺は寺子屋、駆け込み寺、 そうした社会的な役割を果たすべく、 生き抜く。 だから、終わりがない。 始まりすらない。 お寺があったことで、救われた人を、 一人でも多く求めること。 だから、あなたも頑張りなさい。 こんにちは、ピコサさん。 自分の思うような仕事を 仕上げたのですね。 良かったですね!。 幸福感に満たされているのですね。 でもすぐに、心はころころ変わって行きます。 イチローはなぜに満足することなく、 事あるごとに通過点ですと笑って受け流すのですか?。 彼の大切なことはヒットを打つ事ですが もう十分世界中の人が認める大打者となり 世界一の数のヒットを打ちました。 でも彼は満足しない。 彼は、ヒットの数よりもヒットを打つまでの 日々の努力の中に人間が生きていく上での 大切な教えがあるという事を知っているのではないでしょうか!。 彼の言葉は何時も求道者のようで いつも世間の人を引き付けて 止まないのはそのせいではないでしょうか?。 ピコさんまだまだ先は長いです イチローの様に頑張ってください。 拝読させていただきました。 あなたのお考えはそれでいいと私は感じましたね。 それぞれに生きる目的を持って希望を抱いて生きるわけですからね。 ご自分が望ましいと思う人生を歩んでいただきたいと思います。 また人生生きていくとその時その時で価値観や生き様や目的も変わってきます。 それもありかと思います。 人生は永遠に続くわけではありません。 己れの生命が全うされるのは一瞬先かもしれませんし、明日かもしれませんし、10年後かもしれませんし、50年後かもしれません。 一時一時を自分に向き合い生きることが大切かと思います。 どうかこれからもあなたに充実した豊かなひと時ひとときでありますようにと心より神仏やあなたのご縁あるご先祖様にお祈りさせていただきます。 ピコ様 川口英俊でございます。 問いへの拙生のお答えでございます。 ある意味では、生にも死にも、とらわれない、こだわらない、かたよらないということは、まさに「中道」的な考え方として、仏教の理想ではございます。 とにかく、生も死も、因縁(原因と条件)によるものでございます。 まだまだ生きる因縁があるのであれば、善き心と善き行いへと向けて、できるだけ善き因縁をしっかりと調えて参りたいものでございます。 その善き因縁を調えていくための教えが仏教となります。 是非、これも一つの機縁として、更に仏教に興味を持って頂きまして、学び修されて頂けましたら有り難くに存じます。 ピコ様のお幸せを祈念申し上げます。 川口英俊 合掌 お坊さま方、早々にたくさんのお返事をいただき、誠にありがとうございます。 いずれもとても有り難く拝読し、何度も読み返させていただきました。 お返事の内容ばかりでなく、私の漠然とした悩みにこんなにも真摯に向き合ってくださり、時間をかけてお返事を綴ってくださったお気持ちがすごく嬉しかったです。 それに、同じ仏教のお考えを持っているお坊さま方にもかかわらず、様々なご回答をくださったことも、とても意外なことでした。 私は今までお寺にはあまり縁がありませんでしたが、お坊さまお一人お一人のご信念や情熱に触れられたような気がして、仏教にも初めて親しみやすさを感じました。 こちらに投稿させていただいて、本当によかったです。 「人間、生まれることも死ぬことも、自分の好きなタイミングではできないんだな」と改めて思いました。 生きることは喜びや幸せであるとともに、試練や罰でもある気もします。 喜びの部分だけではなく、苦しみの部分からも逃げないことが、ちゃんと「生き切る」ということなのかもしれませんが、弱い私はそう思うとちょっとうんざりというか、ごほうびを先に受け取ってから義務にとりかかる時の子どものような…「うへぇ…」という気持ちになってしまうのです。 でも、毎日が辛く苦しいわけではなく、それなりに楽しいです。 たとえるなら私は今、おとぎ話のエンディングのその向こうにいるのだと思います。 シンデレラは王子様と結婚して「いつまでも幸せに暮らしました」けれど、きっとその後の人生でも、お城の中の人間関係にちょっと疲れたり、王子様との子どもが反抗期になったり、喜怒哀楽がそれなりにあったんだろうと思います。 ストーリーが終わった何十年後に、中年のシンデレラがもっとドラマティックな出来事に遭遇することもあったのかもしれません。 皆様にお褒めいただき、人生の早い時期に1つのハイライトを終えて「悔いのない人生だった!」と言える確証を得られたことは、私にとってとてもラッキーなことだったのだと改めて思いました。 続きの人生も焦ることなく、天命を迎えるその日まで、自分らしく生きていきたいと思います。 貴重なご指針をいただき、誠にありがとうございました。 あなたは、悩みや相談ごとがあるとき、誰に話しますか? 友だち、同僚、先生、両親、インターネットの掲示板など相談する人や場所はたくさんあると思います。 そのひとつに、「お坊さん」を考えたことがなかったのであれば、ぜひ一度相談してみてください。 なぜなら、仏教は1,500年もの間、私たちの生活に溶け込んで受け継がれてきたものであり、僧侶であるお坊さんがその教えを伝えてきたからです。 心や体の悩み、恋愛や子育てについて、お金や出世とは、助け合う意味など、人生において誰もが考えることがらについて、いろんなお坊さんからの癒しや救いの言葉、たまに喝をいれるような回答を参考に、あなたの生き方をあなた自身で探してみてはいかがでしょうか。

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「やらない善よりやる偽善」についてどう思いますか?

私が善とは思わぬが

私たちの夢 園長 一柳 智真 善東幼稚園は、子ども達の元気なあいさつ 「おはようございます」の声ではじまり、 「さようなら」と弾んだ声で終わります。 「はじめまして、よろしくね」と可愛い手を差し出す在園児の姿・・・ 思わず笑いがこぼれます。 「明日からあそぼうね」と言う元気な呼びかけは、温かい気持ちにしてくれます。 「ありがとう」「どういたしまして」という声がたくさん聞くことができますように。 こんな小さな触れ合いから、お互いに支え合って成長する喜びを感じます。 「目で観て・手で触れて・耳で聴いて・肌で感じて!!」 昭和27年開園。 仏教精神を大切に見守り続けて、創立以来62年、長い歴史の中で良き伝統を守り、園と家庭との信頼関係を築いていけるように。 「子ども達の未来に向かって」お父さん、お母さんと一緒に、ずっと応援していける園でありたいと願います。 幼稚園の子ども達 善東幼稚園の子ども達と同じように私も仏教園に通っていました。 幼いながらにも仏様に手を合わせ、花まつりや成道会、涅槃会等に参加し様々な事を学んできました。 中でも覚えているのは 「いただきます」の言葉です。 様々な言われはありますが、 「いただきます」は命をいただくという意味であると教えて頂きました。 私たち人間は様々な命を頂いて生きていると思います。 大人になり、仏教園に再び関わることが出来、学びました。 幼いながらに感じたこと、体験したことは頭の片隅に残っています。 善東幼稚園の子ども達も年齢差はありますが、感じとり、植物に水をあげ生長を喜び、 食べ物を大切にしようとする心が少しずつ育っているように感じます。 物を大切にする気持ちや思いやりの心を持ち仏様の教えを3年間を通し、学んでいきます。 子ども達と一緒に様々な事を学び成長していけたらと思い、そのお手伝いをさせて頂ける事に感謝しています。

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望む善は行わず、望まない悪を行うばかりの私たちを

私が善とは思わぬが

プラトンの考える善 プラトンの善の定義は、 存在するものの存続の原因。 万物が自己の目標としてもっている元のもの、それによって何を選択すべきか決定される元のもの(プラトン全集より) というようにまとめられます。 実際のところ、プラトンのいう「善」はかなり「神」に近い概念です。 人間がそれ自体で素晴らしいと感じる 「真善美」や「愛」といった経験の「すべての原因」であり、人知をはるかに超えたところに実在するもの、としています。 プラトンは、この神のような「善そのもの」について説明することは畏れ多く、とてもできない。 しかし善の子供のようなものであれば説明できる、と前置きした上で、かの有名な 「太陽の比喩」を語りました。 太陽の比喩 太陽は、植物、動物問わず、万物を生成させる原因であり、また、すべてはその光に向かって成長していきます。 善の場合も同様に、人間は善のもとに存在し、善を目標に成長を望み、可能な限り近づこうとします。 また、万物は太陽によって照らされることで認識されて存在しうるように、人間の知性においては、この太陽のような善が、同時にものごとの判定基準として存在することで、様々な概念を認識することができます。 例えば上下、大小、美醜といった反対概念がありますが、私たちはこれを誰から教えてもらうでもなく認識し、完璧とまでにはいえないまでも、ある程度判定することができます。 これは、そういった 識別する能力、判定基準(=太陽)がもともと人間の魂に備わっているためです。 何かを美しいと判断するためには、前提として、美しさを識別する能力や判定基準が自分の中になければならないでしょう。 プラトンは、人間が元来このような判定基準をもっているのは、 人間が生を受ける前に、全ての原因である「善そのもの =イデア 」を観たことがあるからだとしています。 実際のところ、幼児でさえも不協和音を聞き分けることができるのですから、人間がこの判断基準という知識を持ったタイミングは、確かに生れる前としか考えられません。 そして、生まれる前に何かを知るということは、物事を知る主体、すなわち魂の存在がなければならないのです。 人間は絶えず「善」を希求している 「善」そのものを観た魂は、人間の肉体に宿っていても、あたかも離別した母を探し求めるように、絶えずそれを探し求めます。 プラトンは、「饗宴」において、そのもっとも顕著な例として 「愛」を挙げ、人が愛を美しいものと感じ、それを所有することを望んでやまないこと、それこそが、かつて目にしていた真善美の原因でもある「善そのもの」へのあこがれに他ならないとしました。 人間は知らないものを欲求することができませんが、私たちはかつて善と共にあり、その素晴らしさを知っているからこそ、現世において美しい体験を必死に求めているのかもしれません。 人間は、そのような 善きものを「永久に」所有しようとすることによって、幸福になろうとするのだといいます。 その思いの実現のために、私たちは、様々な生産活動、たとえば自らが最も美しいと思う者との間に子をなしたり、美しいものを創造しようとしたり、あらゆる種類の徳を産出し、それにあずかろうとするのでしょう。

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