新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大の防止と、お客様および関係者の安全を考慮した結果、3月7日(土)国立代々木競技場・第一体育館で開催予定の『「乃木坂46のオールナイトニッポン」 presents 乃木坂46 2期生ライブ』を 【中止】させていただきます。 本イベントを楽しみにしていただいておりました皆様には、大変ご迷惑をおかけいたしますこと、深くお詫び申し上げます。 【チケットご購入者様へ】 乃木坂46モバイル会員、オールナイトニッポン番組先行にてチケットを購入されたお客様へ、払戻しの対応を行います。 払戻手続きは購入方法により異なります。 詳細は下記をご確認ください。 返金の時期は各クレジットカード会社により異なりますので、詳細はカード会社へご確認ください。 遠方のお店で発券されないようご注意ください。 チケットを発券された店舗レジにてチケットを渡していただき、公演中止に伴う払戻しの旨をお伝えください。 【払戻に関するお問合せ】 楽天チケットカスタマーサポート050-5893-9366 平日10:00-17:00 開催直前のご案内になりましたことを重ねて心よりお詫び申し上げます。 ご理解、ご協力を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。 令和2年2月26日 株式会社ニッポン放送•
次のこの記事には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 はなどを用いてください。 ( 2013年2月)• 的な記述になっています。 ( 2013年2月)• 事項が 過剰に含まれているおそれがあり、。 ( 2013年2月) オールナイトニッポン 愛称 オールナイト、ANN、1部 ジャンル 放送方式 (の場合あり) 放送期間 - ( - の間、など) 放送時間 火 - 日曜 1:00 - 3:00(月 - 土曜 25:00 - 27:00)(120分) 放送局 ネットワーク 他(詳細は) パーソナリティ テーマ曲 「」 と ティファナ・ブラス 公式サイト 特記事項: 1998年3月まで、広義の放送時間は25:00 - 29:00(240分)であり、その中で25:00 - 27:00を「第1部」、27:00 - 29:00を「第2部」(現:『』)として放送。 各曜日の番組内容については各記事を参照。 『 オールナイトニッポン』( All Night-NIPPON)は、・をキー局として日本全国で放送されているラジオのである。 通称「」、「 」。 ここでは現在の放送枠である25:00 - 27:00の内容のほか、「オールナイトニッポン」をタイトル内に含む番組全体の歴史などについても記述する。 詳細については枠・番組の記事をそれぞれ参照のこと。 概要 [ ] の番組開始以来ののであり、 ライバルであるの『』・の『』と並び"深夜放送御三家"ないしは"三大深夜放送"と呼ばれ、あるいはの『』を加え、"深夜放送四天王"ないしは"四大深夜放送"と呼ばれた。 [ ]2019年10月現在ニッポン放送制作番組の中で、放送期間は『』に次ぐ第2位となっている。 詳しくは「」を参照。 現在は、旧1部(25:00 - 27:00)を『オールナイトニッポン』、旧2部(27:00 - 29:00)を『オールナイトニッポン0 ZERO 』と称している。 現在放送中の番組枠一覧 [ ] 2020年度 プロ野球ナイターイン(2020年4月 - ) 放送時間 月曜日 - 木曜日 金曜日 土曜日 日曜日 月一回 22:00 - 23:30 オールナイトニッポン MUSIC10 オールナイトニッポン GOLD 別番組 別番組 23:30 - 24:00 オールナイトニッポン サタデースペシャル 24:00 - 25:00 別番組 25:00 - 25:30 オールナイトニッポン 25:30 - 27:00 放送休止 27:00 - 28:30 オールナイトニッポン0 ZERO オールナイトニッポン0 ZERO オールナイトニッポン0 ZERO 高嶋ひでたけの オールナイトニッポン 月イチ 28:30 - 29:00 別番組 別番組 放送時間 [ ] 現在放送中の番組枠放送時間一覧 2020年度 2020年4月~ 番組名 月 - 木 金曜日 土曜日 日曜日 月一回 MUSIC10 22:00 - 24:00 (120分) (放送なし) GOLD (放送なし) 22:00 - 24:00 (120分) (放送なし) オールナイトニッポン 25:00 - 27:00 (120分) (放送なし) 0(ZERO) 27:00 - 28:30 (90分) 27:00 - 29:00 (120分) 27:00 - 28:30 (90分) サタデースペシャル (放送なし) 23:30 - 25:00 (90分) 月イチ (放送なし) 27:00 - 29:00 (120分) ネット詳細は参照 オールナイトニッポン• 月曜 - 土曜 25:00 - 27:00(36局ネット)• 月曜 - 木曜 27:00 - 28:30、金曜 27:00 - 29:00(12局ネット、とは28:00に飛び降り)• 土曜 27:00 - 29:00(19局ネット、、、、、西日本放送、は28:00、ニッポン放送は28:30に飛び降り)• 月曜 - 木曜 22:00 - 24:00(20局ネット(東北放送は月曜のみ自社制作番組放送のため非ネット)。 月曜はが23:49、火曜 - 木曜は北陸放送が23:49、東北放送が23:50飛び降り)• 金曜 22:00 - 24:00(18局ネット、は23:50に飛び降り、IBC岩手放送は23:00に飛び乗り)• 土曜 23:30 - 25:00(34局ネット)• 別番組 別番組 23:00 - 24:00 llnightnippon. com 24:00 - 25:00 別番組 25:00 - 27:00 llnightnippon. com 別番組 27:00 - 28:30 allnightnippon-r allnightnippon-r 28:30 - 29:00 別番組 2000年04月 - 2001年09月 22:00 - 23:30 allnightnippon SUPER! 別番組 23:30 - 24:00 allnightnippon Saturday Special allnightnippon Sunday Special 24:00 - 25:00 別番組 25:00 - 27:00 llnightnippon. com 別番組 27:00 - 28:30 allnightnippon-r allnightnippon-r 28:30 - 29:00 別番組 2001年10月 - 2002年09月 22:00 - 23:00 allnightnippon SUPER! 別番組 別番組 23:00 - 23:30 allnightnippon Sunday SUPER! 23:30 - 24:00 allnightnippon Saturday Special 24:00 - 25:00 別番組 24:30 - 25:00 llnightnippon Sunday. com 25:00 - 25:30 llnightnippon. com 25:30 - 27:00 別番組 27:00 - 28:30 allnightnippon-r allnightnippon-r 28:30 - 29:00 別番組 2002年10月 - 2003年03月 22:00 - 23:00 allnightnippon SUPER! allnightnippon SUPER FRIDAY! 別番組 別番組 23:00 - 23:30 allnightnippon Sunday SUPER! 23:30 - 24:00 allnightnippon Saturday Special 24:00 - 24:00 別番組 24:30 - 25:00 llnightnippon Sunday. com 25:00 - 25:30 llnightnippon. その状況に対し、ニッポン放送は1964年4月より「」編成を導入し編成方針を抜本的に見直していたが、その動きが深夜に波及したことにある。 放送が開始された後半は、いわゆるが大学生生活を送っていた時代であり、『オールナイトニッポン』はそのような大学生、また受験勉強に明け暮れている高校生・中学生にターゲットを絞り、それまでテレビやラジオで流れることはほとんどなかったや、など海外のミュージックからなど日本のまで、若者世代の最先端を走る音楽をふんだんに流す編成とした。 前身となる番組は、ニッポン放送にてから放送していた『』(DJ:)となる。 子会社の「株式会社深夜放送」 が制作していたこの番組は、糸居が選曲・ターンテーブルの操作といった通常はスタッフが行う作業を一人でこなすというスタイルであり、それが局の省力化した番組を作れないかという思惑と合致していたことから、番組を発展させる形で『オールナイトニッポン』は放送を開始した。 に、が、をDJとして始めた『』が「深夜放送の原型」としてみていたのがだったが、亀淵はのちのインタビューで「土居さんは今の放送では当たり前のように使われている擬音語や擬声語をふんだんに、しかも上手に使って、それまでのアナウンサーのテンポとは全く違う、まるで機関銃のような早口で若者たちに語りかけたのです。 ラジオ放送という概念を覆したという意味で、新しい時代の到来を予感させました」と述べている。 1967年10月2日深夜から放送開始。 放送時間は月曜日 - 土曜日25:00 - 29:00(翌日未明1:00 - 5:00)。 当初のDJ(「」と呼ぶようになったのは1969年頃から)はニッポン放送アナウンサーの糸居五郎(月曜日)、(火曜日)、(水曜日)、(木曜日)、(金曜日)、(土曜日。 アナウンサーではなかったが、プロデューサー兼DJとしてニッポン放送の番組に出演していた)。 初回放送のDJは、前身番組『オールナイトジョッキー』のDJだった糸居が務めた。 本番組で最初にかかった曲となる、初回の第1曲目はの「あなただけを」だった。 当時編成局長だったや当時編成部長だったは、番組を立ち上げるに当たって、次のような4つの大原則を立てている。 外部のタレントではなく、アナウンサーやディレクターといったニッポン放送内部の人間を起用する• スポンサーを付けない• 提供スポンサーから番組内容に口出しされることを嫌ったため、番組開始後1年間はスポンサーを付けなかった。 のちにスポンサーを付ける際にも、「協賛スポンサー」という形で、番組内容にはタッチしないことを条件としており、パーソナリティがスポンサー名を読み上げる 際、「以上各社の 協賛で」と付け加えるのはこの原則に由来する。 この原則は現在も守られているが、や『SUPER!! 』では「以上各社の 提供で」と読み上げていたこともある。 これについて、亀淵はのちのインタビューで「番組の自由度を保持するためにはスポンサーに縛られたくはない。 とはいっても、無名の番組は安い値段でしか売れない。 人気があれば高く売れる。 番組を安売りするぐらいだったら無理やりスポンサーを付ける必要はない。 良い番組を作って、良い放送をすれば、黙っていてもカロリーの高いスポンサーが付いてくるはずだ。 」と述べている。 協賛の原則は守っているものの、1988年に始まった『』以降、土曜 のみのスポンサー起用がはじまることになる。 狭いスタジオを使う、ゲストは呼ばない• 狭いスタジオに閉じこめ孤独感を味わわせることで、聴取者と一対一で喋っているような感覚にさせる。 同様にゲストを呼ぶことも禁止した。 生放送時のスタッフもディレクターのみと最小限の人数であった。 はやらない• 『オールナイトニッポン』開始前は、深夜帯はお色気番組全盛だった。 高崎も懇意にしていたから「これではのが売りにくい」と苦言を呈されていたという。 40周年となった2007年10月1日、『』に特別出演した斉藤安弘は、「ニッポン放送の品位に関わることであって、それで他局に負けてはならないということで、下ネタはやらなかった。 そのため、相手を置かずに一人でやった」と語った。 その一方、「下ネタはやらない代わりに、自分は26時になると、トイレの話を専門にしていた」とも言った。 この4つの大原則について、亀淵昭信はのちのインタビューで「受験戦争と若者。 深夜帯にはチャンスがあると思っていたでしょう。 すべては石田イズムでもいうのでしょうか、石田常務と彼の右腕の羽佐間編成局長には、ラジオの将来的ビジョンがありました。 それが深夜帯の番組開発に繋がっていくわけです。 企画段階で、若者、特に中学生や高校生、浪人生、大学生を対象にすることが明確に打ち出されました。 そして、若者は出演者の名前じゃない、DJもパーソナリティの知名度じゃないんだ、何を聞かせてくれるかなんだ、ということを肝に銘じだのです。 それが石田や羽佐間の掲げた4か条です」と述べている。 また、亀淵昭信によれば「孤独な寂しがり屋の若い人々に、若者の広場をつくろう」というのが、オールナイトニッポンの番組開始当初のコンセプトだったという。 具体的なコンセプトについて、ニッポン放送新入社員で広報部員だった中川公夫は、「基本は音楽番組の発想、何をしゃべるかについては自分で考える。 リスナーからのハガキを使ってもいいし、自分の身辺で起こったことでもいい。 困ったら曲をかければいいというイージーな部分をありましたね」と話している。 番組としてもこれといったコーナーも設けられず、聴取者からのお便り紹介とパーソナリティ自ら選曲した音楽をひたすら流すというシンプルな番組であった。 そのような初期の番組におけるアイデンティティとして、番組の冒頭の「 君が踊り僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる。 太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を、フレッシュな夜 をリードする オールナイトニッポン」というフレーズがあげられる。 このフレーズは80年代まで笑福亭鶴光が大きくアレンジして使っていたほか、初代DJの斉藤安弘がパーソナリティを務める2003年 - 2009年にかけて放送された『』、国際線の機内プログラム、SKY AUDIOの『オールナイトニッポンClassics』の中で聞くことができた。 この口上は、当時の番組構成作家、山之井慎によるものである。 先述の若者をターゲットとした番組は好評を博す。 それを表すエピソードとして、1967年9月に解散コンサートを行ったアマチュアグループ・が卒業記念に自主制作したアルバムの楽曲『帰ってきたヨッパライ』を、がの深夜番組で評判になったのを聞きつけ、1967年10月13日に、ラジオ関西の関係者から、この曲の原盤を手に入れて、1967年10月14日、すぐに、オールナイトニッポンでオンエアした所、リスナーからの反響が大きく、一晩のうちに同じ曲を何回かにわたって放送するほどとなり、それを切っ掛けに全国圏のブームとなり2か月で180万枚の売り上げを記録したことが挙げられる。 ちなみに、この曲をTBSラジオのでも放送しようと検討したものの、『パック』の提供スポンサーである の存在によって、放送することができなかったという。 こういった昼間のラジオ番組では決してかけられないようなマイナーな曲や時に反体制的 な曲、海外からの新しい音楽を含む深夜番組ならではの選曲が若者を刺激した。 「年上のお兄さん」的存在だった気取らないアナウンサーパーソナリティ達の人柄に惹かれて、各パーソナリティ宛には毎週2万枚ものリクエストやお便りが届き、人知れずひっそりと始まった『オールナイトニッポン』は、1年もせず当時の若者層に絶大的な支持を受けるニッポン放送の看板番組に成長、TBS『』・文化放送『』と並んで深夜放送そのものが『深夜の解放区』として一種の社会現象となるに至る。 )を採用。 また、1968年9月には会報「Viva young」も発行し、発行した5万部は常に完売(ラジオ番組に印刷物というメディアを持ち込んだのも、オールナイトニッポンが最初)。 )は60年代からにかけての『オールナイトニッポン』の合言葉となる。 、1月から木曜日担当にが、10月から土曜日担当に亀渕昭信が参入する。 特に、亀渕はアナウンサー出身ではなかったが、月曜未明(日曜深夜)に放送されていた「電話リクエスト」のDJで人気が出て、オールナイトニッポンに起用されることとなった。 その亀淵はディレクター出身のパーソナリティとしてマイクの前に座って、それを逆手にスタジオの中を跳んだり走り回ったり、ある日の放送では歌手のの自宅から実況中継を行い、トイレに潜入した時に水を流す音まで放送してしまう など奇抜かつ斬新なDJスタイルをすることで聴取者から注目が集まり、一気に『オールナイトニッポン』の看板パーソナリティとなると共に、深夜放送に新しい息吹を送り込んだ。 同年7月には、同じパーソナリティ仲間のとともに「 」としてCBS・ソニーレコード(現:)からザ・フォーク・クルセダーズが別の名義で使っていたザ・ズートルビーの同名の曲である「」という曲のレコードを出し、20万枚を売り上げるスマッシュヒットとなった。 この歌は、ベートーベンや、メンデルスゾーンまで取り込んでしまう自在な遊び心と反骨精神が「帰ってきたヨッパライ」に通じていた。 1970年6月30日深夜(7月1日未明)より、 全国ネットを開始。 この日の では、 「STVラジオ」「静岡放送」「ラジオ大阪」の3局をネット局として、協賛スポンサー各社のクレジット読み上げを聞くことができる。 また、この日は全国ネット開始の記念放送として、当時の月曜から土曜までのパーソナリティが勢揃いした(火曜深夜・斉藤安弘の他、月曜・糸居五郎、水曜・高岡尞一郎、木曜・天井邦夫、金曜・今仁哲夫、土曜・亀渕昭信)。 更に、1971年には今仁哲夫と(その後ニッポン放送副社長や顧問を歴任し、2009年12月3日逝去 )が日本全国を縦断してリスナーと交流するという画期的な企画「 ビバくりげ」も行われる。 この企画は、もともと学生時代から車好きが高じた天井が、今仁と共に当時発売されたばかりのに乗って全国各地でリスナーと握手をするというもので、いわば天井の公私混同である深夜放送ならではの企画だった。 斎藤安弘の記憶では、3ヶ月で64万1780人のリスナーが2人と出会ったという。 このクーペ9は、ホンダから提供されたもので、あっという間にリスナーからの書き込みによって、真っ黒になっていったとされる。 こうして、最初は関東ローカルであり、協賛スポンサーもニッポン放送サービス(現:)一社だけだった番組も、夜間はラジオの電波が広範囲に届くことから関東のであったにもかかわらず日本全国からはがきが届き、それを受けてネット局数が順次増加していき、複数の協賛スポンサーが付くようになった。 この時代が『オールナイトニッポン』の第1次黄金期である。 これについて、亀淵はのちのインタビューで「実際、開始1年経って番組に力がついてくると、日本を代表するような一流企業が続々協賛スポンサーになってくれました」と述べている。 また同年、50歳を迎えた糸居五郎が1月17日13時30分 - 19日15時30分にかけて放送を続けるといった過酷な企画『』も行われ、無事完走している。 深夜放送ブームは70年代に入っても続いていたが、若者層の嗜好の変化や時代の変化(学生運動世代からへの移行など)にあわせ、ニッポン放送も新たな放送スタイルを追求し始めることになる。 そのため、1972年6月末をもって、亀淵昭信、今仁哲夫、糸居五郎を除くパーソナリティが降板する。 7月からの1年間は亀渕昭信が『 ビバカメショー』と称して、毎日25:00 - 27:00を担当した(9月までは月曜日担当の糸居五郎が継続していたため、月曜を除く毎日25:00 - 27:00。 10月から月曜を含む毎日25:00 - 27:00となった)。 次いで毎日27:00 - 29:00までは最初は今仁哲夫が担当した『 ビバテツショー』が、1月からは [ ]が担当する『 ビバケンショー』が放送された。 この時に初めて27時で番組を分割する2部制の概念が生まれる。 この時代はオールナイトニッポンにとっての最初の停滞期となっており、亀渕は「僕一人で週6日番組を担当するのはとてもつらかった。 『オールナイトニッポン』だけじゃなくて、深夜放送全体が駄目になってきていたのね。 それじゃ深夜放送になってないんだよね。 もう一度変えなきゃいけないと、作り手もしゃべり手も思ってはいたんだが、一度出来上がったものはなかなか変えにくい。 ネット局も増えて全員がニッポン放送のアナウンサーというわけにもいかなくなって。 でも局アナが基本でしたから、じゃあお前がやれって。 形を変えるまでの踊り場みたいな感じかな。 それまでは音楽担当の糸居さん、今仁さんみたいな面白いことをやる人の中間みたいな放送をやってたんだけど、『ビバカメショー』になってからはもっと音楽に徹しました。 の詞を訳して特集したり、ビートルズの海賊版を流したり、僕自身は楽しかった。 テーマの『ビタースイートサンバ』も代えたんだよ。 というモータウンのファンクギタリストがいて、頼んで作ってもらったり(参照)。 残念ながらレーティング(聴取率)はあんまりよくなかった。 とにかく次に大きくジャンプするためには一度縮こまって昔のイメージを壊し、まっさらにするのが僕のやること。 今度は制作者としてまったく新しい『オールナイトニッポン』を作ろうと思ったんです」と、当時の苦悩を語っている。 一方で1973年にディレクターになった中川も「転機といえば『ビバカメショー』『ビバテツショー』が始まった段階でステーションのアナウンサーがすっかりやめてしまったときでしょうね」と、転機だったことを明かす。 さらに「その後にタレントが入るようになるわけで、番組自体が大きくなって、もっとビックな人でも入ってもらえるようなフィールドができたんです」と1973年のタレントパーソナリティ起用の本音を明かす。 こうして、1973年から亀渕昭信は、それまでのパーソナリティから総合プロデューサー兼ディレクターに転身して、オールナイトニッポンの制作に取り組むことになる。 そして、1973年7月からはタレントや芸人・歌手が従来通り4時間にわたってパーソナリティを担当するという決定的な転機を迎える。 このタレントパーソナリティ第1期の布陣は(月曜日)、(火曜日)、(水曜日)、覆面パーソナリティである(金曜日)、(土曜日)である(木曜日は斉藤安弘が一旦復活した。 また、カルメンは オールナイト史上初の女性パーソナリティである)。 いわば、第二次『オールナイトニッポン』の始まりでもあり、現在のオールナイトニッポンの原型が完成した。 しかし、岸部シローがわずか3ヶ月で降板したのをはじめ、あのねのねを除く各パーソナリティは翌夏までに全て降板し、その後約3年間はパーソナリティが根付かずに短期間で入れ替わる不安定な時代が続く。 その原因として、体力的にも話力的にも4時間のロングラン放送に耐えられないという点があった事から、1974年7月からは27時を境にパーソナリティを入れ換える 2部制が本格的に導入される。 2部制の導入でパーソナリティの数が足りなくなったことから、1970年代半ばにはタレントや歌手だけでなく一般オーディションの形(オールナイトニッポン主催・「全国DJコンテスト」)でも無名の新人発掘に力を注いでいる。 また、番組をネットしていた地方ローカル局のアナウンサーなどにも一時期番組を持たせたこともあった(『』グランプリのなど)。 一方、タレントパーソナリティ選考に当たっては基本的に番組スタッフが前もってオーディションをした上で採用の合否を決定していったのだが、あくまでラジオ番組をやっていけるだけの話力や実力があるのなら職種や音楽知識の有無に囚われることなくパーソナリティに採用するようになったため、やなど本来の『オールナイトニッポン』の流れとは明らかに外れた異色のパーソナリティも登場している。 この時点で番組当初のコンセプト(ニッポン放送アナウンサー及び関係者による音楽主体の若者向け4時間枠深夜番組)は失われた が、それでも「若者向け」というコンセプトと、主に歌手が番組を持ったことで「音楽番組」としての体裁はかろうじて保たれた格好となっている。 一方、一旦降板していたDJ・糸居五郎はに金曜2部、さらに水曜を経て10月に古巣である月曜(2部)で復活しており、音楽主体からトーク主体に変わった『オールナイトニッポン』において、唯一開始当初の雰囲気とスピリッツを醸し出していた。 は糸居が1981年に定年退職するまで続いた。 迷走状態が続いていた1970年代中盤からにかけて最初に頭角を現したのがや、、、などの系・歌手の担当番組であった。 当時大人気のあのねのねは番組中、が当時が担当していた『』の生放送中にのスタジオに電話をかけ、も『セイ! ヤング』の生放送中のスタジオに乗り込み電話を通して「」と番組宣伝、番組ジャックを敢行しファンの人気をさらに広めた。 番組後半に一般のファンにスタジオを公開して「七不思議のコーナー」などいろんな企画を進行していく「あのねのね・ハッピースタジオ」も人気を博した。 は鶴光が同じ話題として取り上げる「論争」や「NHKつぎはぎニュース」などタモリのアングラなキャラクターを発揮した番組内容で話題となる。 さらに当時全盛であったや系シンガーの番組に火がつき、・・・・・自切俳人〔ジキルハイド〕()・・・・などそうそうたる顔ぶれが入れ替わりながらパーソナリティを務めていった。 これに加え、従来からの流れであるやなどのLFアナウンサーも番組を支え続けた。 そして、(- 月曜1部)や(- 木曜1部)が登場した1980年代初頭には第2期の黄金時代を迎えることになる。 また以降には『』、『』、『』、『』などの映画劇場公開にあわせて、ラジオドラマと出演者やスタッフのトークによる4時間のスペシャルが放送された。 のちに文化放送が注力するようになる、 のはしりと言える。 現在のオールナイトニッポンの柱となっている 「トーク主体」・「コーナー主体」・「ネタはがき主体」の番組構成は、この時代に確立したシステムであり、が幅を利かせるようになったのもこの頃である。 このようにオールナイトニッポンが番組内容やDJを大きく変えたことで番組全体に見切りをつけた聴取者もかなり多かったが、逆にそれまでとは違う「パーソナリティそのものの魅力」に惹かれた新規のリスナーを大量に獲得することになり、結果として番組名と放送時間帯、テーマソングだけはそのままに、番組を「作る人」も「聴く人」も、番組の「コンセプト」でさえも時代とともに移り変わっていくという流動的なスタイルが形成されていくことになる。 このスタイルゆえに時代の変化に対応できなかった『パックインミュージック』『セイ! ヤング』のオリジナル放送が1980年代初めに打ち切られる中で『オールナイトニッポン』だけが時代の波にうまく乗りながら、深夜放送の代名詞として唯一生き残り続ける。 1973年に第1期黄金期の人気パーソナリティから番組製作・編成部門に戻り、裏方として新時代の『オールナイトニッポン』を模索し続けた亀渕昭信の努力が実を結んだ格好となった。 その亀淵は、「僕が番組のチーフプロデューサー時代に、タレント起用が始まった。 でも、社員アナウンサー時代の成功と失敗があればこそ、さまざまなことを学ぶことができた」と述べている。 に足掛け12年にわたった鶴光のオールナイトが終了し、その後もABブラザーズやが土曜のお笑い枠を引き継いだが(ABブラザーズ時代の4月より土曜も2部制に移行)、からはニューミュージックの大御所・が土曜1部を担当しまでの長期にわたる活躍をすることになる。 には20年目突入を記念して『ALL DOGETHER NOW(オール・ドゲザー・ナウ)』という特別番組が放送され、、、、、、の当時の1部パーソナリティ6組が一堂に会した(公式には開催のでの「」の企画とされ、DOGETHERは「TOGETHER」と「土下座」の掛け言葉とされる)。 1980年代半ばから90年代初頭にかけてはが沸き起こり、オールナイトのパーソナリティ人選にもその影響が次第に現れてくる。 1部では・・・などが、2部では()・()・()・・などが活躍し、ブームの一端を担うことになる。 続く1990年代前半も、()、()、、と、などの有名どころから、コアなファンが多いやまで幅広い層のパーソナリティを輩出した。 お笑い系パーソナリティは1985年に火曜1部でが登場、さらにには金曜1部でが登場する。 落語家の弟子であったが水曜や金曜の2部で活躍し一気にラジオスターとしての頭角を見せたのもこの頃である。 80年代を駆け抜けたは途中代役を立てながらまで番組を継続したが、その後はのなども担当。 にが、そしてには、2014年9月までの長期に渡りパーソナリティを務めたが登場する(2014年10月2日から2020年5月7日はが単独で担当)し、2020年5月14日から第2期として放送開始となった。 また、この時代には70年代の迷走期とは違った意味で、別業種パーソナリティを投入した時代でもある。 トップアイドルだったが水曜1部に登場したのは1986年。 その後も、女性アイドル担当番組は・など散発的に見受けられる様になった。 他に、劇団『』を主宰していた、雑誌『』編集者の、漫画家など。 後に作家となったも、この時代にのボーカル・「辻 仁成(つじ じんせい)」としてパーソナリティを務めている。 (1992年1月から1994年6月、同年11月から1998年3月、及び2000年4月から2015年3月まで担当)が、当時若手イケメン俳優・歌手というポジションで認知されていた彼の「素」を本番組で公に広く知らしめた。 ただ、この頃になるとオーディションでパーソナリティを発掘し番組で育てていくことよりも、知名度ありきでパーソナリティに採用することが増えてきた。 10月には、25年目突入を記念して、中島みゆき、タモリ、ビートたけし、笑福亭鶴光の各オールナイトニッポンが、一夜限りの復活放送を行った。 また、10月から3月まで、番組放送開始30周年を記念して、過去のパーソナリティが担当する『』が、19:00 - 21:00に放送されている。 しかし、1990年代中頃になると、テレビの深夜番組の充実化や、、、の普及等によって、若年層を中心としたが顕著になり、深夜ラジオ全体の長期低落傾向が目に見えて現れて来る。 さらに同じラジオ業界内でも80年代末以降の民放FM局急増、『』()『』()など、民放FM局が深夜帯にAMラジオ的なネタ・トークを中心に据えた番組を制作する様になったことから聴取者全体のパイが分散し、一部の地方局でのCM収入の減少による制作費減少等、AMラジオの深夜放送に対する逆風は強くなっていった。 番組に寄せられるはがきやFAXの数も激減し(1997年当時、宛てに送られてくるはがき・FAXの数はトータルで週3000枚程度であり、60 - 70年代の人気番組の7分の1程度にまで落ち込んでいた)、オールナイトニッポンだけでなく、AMラジオの若者向け深夜放送自体の将来に暗雲が垂れ込めていた。 その様な中で、ニッポン放送はパソコンや携帯電話、メールなど新しいツールに目をつけ、それらのIT機器とAMラジオの関係を融合させるべく『オールナイトニッポン』を含めた夜帯の大改編を行うことになる。 春の改編では、2部枠(27:00 - 29:00)が R(リラックスの略)がついた『』に改称。 金曜深夜と土曜深夜を除き28:30終了と30分短縮された。 この時期にはでのスタジオ同時生中継が試験的に行われ、この試みは後に「」に生かされた。 2000年に土曜深夜の23:30 - 25:00の90分枠に『 』(『』の後継番組)を立ち上げ、1998年に降板していたを再起用した。 com枠である25:00 - 27:00は4年ぶりにタイトルが『オールナイトニッポン』に、『allnightnippon-r』も『オールナイトニッポンR』と1998年から1年間使用していたタイトルに戻った。 若者層を中心としたやテレビの終夜放送が進むなかで、ラジオ業界はかつて1960年代 - 70年代にラジオを聴いていた団塊の世代など高年齢者を対象とした番組を多数制作するようになる。 オールナイトニッポンも『』との競争が激化し若者層聴取が先細りする中で、2003年秋の改編では深夜放送に参入したの『』の好調に影響を受け、若者向けであった『オールナイトニッポンR』の月曜から木曜を打ち切り、代わって中高年層を強く意識した『 オールナイトニッポンエバーグリーン』を放送開始、パーソナリティは初代DJの1人である斉藤安弘を再起用した。 番組は6年続き、斉藤が2009年春改編にて定年退職で降板した後も、1970年代後半にオールナイトを担当したを起用し『』が放送された。 また、2009年11月30日からは22時〜23時台の夜ワイド枠において『 』を開始。 深夜枠に放送される本来のオールナイトニッポンよりはやや上の年齢層をターゲットとしたパーソナリティが起用されている。 2006年7月には『オールナイトニッポン』の一部番組でを開始。 詳細は「」を参照。 2007年、40周年を記念して週6日放送の生番組では最長であることから、に申請した。 同日から、『オールナイトニッポンエバーグリーン』は、ニッポン放送では28:30(翌日早朝4:30)で打ち切られるようになった。 一方、2008年1月29日に放送した特別番組『のオールナイトニッポン』での倖田の発言が問題となる。 番組は事前収録であり、チェック体制が機能しなかったとして、担当プロデューサーの謝罪(『ナインティナインのオールナイトニッポン』・2月8日放送)や制作担当社員のほぼ半数を入れ替える社内処分が行われた。 4月より携帯端末向けとして新たにスタートする「」のサービスの目玉の一つとして『』(月-金曜 27:00 - 29:00)の開始、並びにNOTTVによる」が開始された。 この『オールナイトニッポン0 ZERO 』は2003年秋に『オールナイトニッポンR』の月曜 - 木曜が終了して以来8年半ぶりの第2部の位置づけ的な番組の復活となった。 この枠のパーソナリティオーディションが2012年1月よりを活用した一般公募の形式でプロ・アマ問わず実施され、その結果、1609組の応募が集まり、オールナイトニッポンのスタッフによる動画審査の後、それを通過した方による2次審査のオールナイトニッポンのスタッフによる面接を行った結果、2012年3月21日に5組のパーソナリティが発表・選出された。 特に、19年ぶりに一般人パーソナリティとして選ばれたと西岡隼基が2012年4月から2013年3月の1年間にわたり起用された。 これについて、『オールナイトニッポン0 ZERO 』の制作統括責任者のは「そもそもオールナイトニッポンという番組は、新しい才能をリスナーに紹介する場だったからです。 「新しい才能を発掘していくのがオールナイトニッポンだ」という想いが私自身の中にあったのです」と語っていて 、1990年代から2000年代にかけて見られた知名度ありきのパーソナリティを起用するという方針から、かつて、1970年代半ばに見られた新人パーソナリティの発掘・育成を図るという方針に転換している事を窺わせている。 また、を利用した投稿を用いたことについて松岡は「とにかく面白いことができる人であれば何人でもかまわない。 とにかく気軽に応募して欲しいということ。 これだけインターネットが普及している時代なのでやはり、動画投稿サイトを使うのが良いだろうという結論に達しました」とも語っている。 特に、2014年4月から2015年3月に放送された『』の場合、27時から29時の放送時間帯にもかかわらず、有楽町にあるニッポン放送本社の出入り口には多くの女性ファンが出待ちする中で、NOTTVにチャンネルを合わせて、この番組を見ていたという。 2013年2月22日 22:00 - 2月24日 22:00は『』を放送。 同番組は24日 9:00 - 12:00「2013」の生中継などを挟みながら45時間の長時間生放送(一部録音)となった。 2013年4月の改編期には、NOTTVが2012年から始まった『オールナイトニッポン0 ZERO 』の映像配信に続いて、火曜日()と水曜日()のオールナイトニッポン1部でも映像付きの同時生放送が1年間にわたって行われた。 また、2014年4月の改編期には、金曜日から水曜日に枠が移動となった「」をNOTTVで映像付きの同時生放送を行った。 2015年2月2日からニッポン放送とが共同で企画制作するインターネット配信番組『』(月-金曜19時から10分から15分程度の動画を配信)がを用いて配信。 2016年6月末をもって、『オールナイトニッポン0 ZERO 』を同時放送していたNOTTVの放送が終了になったことに伴い 、この『オールナイトニッポン0 ZERO 』の動画配信は2016年3月28日の放送分からに受け継がれた。 『AKB48のオールナイトニッポン』は、『オールナイトニッポン0 ZERO 』のLINE LIVE移行後も引き続き放送が続けられたが、NOTTV閉局当日の同年6月30日(6月29日深夜)をもって同時放送を終了し、その後の空白期間を経て、同年8月11日(10日深夜。 当日はがパーソナリティ。 )からでの映像配信に移行した。 2017年10月にオールナイトニッポンが放送開始50年を迎えることを記念した企画の一環として、「 オールナイトニッポン50周年記念ロゴ・制作プロジェクト」が発足し、2016年11月10日から2016年12月15日23時59分までの期間を設け、2017年10月2日にオールナイトニッポンが放送開始して50周年を記念するロゴをプロ・アマ問わず一般公募という形でニッポン放送主催によって行い 、その結果、応募総数が1081案となり、2017年2月4日に、最終選考結果を『ニッポン放送 オールナイトニッポン50周年 ALL LIVE NIPPON VOL. 5』のステージにて発表すると同時に、オールナイトニッポンの放送開始50周年記念ロゴが正式に決定した。 応募総数が1081案の中から、オールナイトニッポン50周年記念ロゴに選ばれたのは大分県に住むグラフィックデザイナーがデザインしたロゴで、「ヘッドフォンをつけて、ニヤニヤしながらこっそり聴いているリスナー」だと自らデザインした記念ロゴのイメージについて説明した。 また、別のインタビューでは「自分がラジオを聴いていた思いを形にできないかって思って、リスナーさんが夜な夜なイヤホンを付けて、こっそり笑って聴いているっていう」イメージで制作したと説明した上で、「1人でニヤニヤ笑いながら、でも時間だけは共有できている。 いろいろなパーソナリティのファンの方がいると思いますが、その中で、みんなで時間共有してるというのは、1つの繋がり、絆みたいなものですよね。 そういうものを表現しました」というふうにこのロゴを制作した意図について説明している。 2017年1月14日からはオールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、『』の復活版『』という制作のテレビの「 地元密着オトナトークバラエティ」番組として放送。 また、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、2012年以来、5年ぶりに「新たなラジオパーソナリティ発掘」を目的にした、「 オールナイトニッポン50周年・パーソナリティオーディション」をプロ・アマ問わず、行われた。 応募方法は「LINE LIVE」を用いて、自己PR動画を作り、その上で、ニッポン放送のホームページの中にある応募フォームには、動画のURLと必要事項などを書き、エントリーを完了させるという方法を取る。 2017年1月11日から2月5日23時59分の期間で応募を受け付け 、2月中旬に、映像をどのぐらい視聴したのかというその数に加え、LINE LIVEの機能の一つである評価した数を考慮したうえで、1次選考を行い、その結果を応募者に連絡し、2月下旬にオールナイトニッポン番組スタッフによる面接を行い 、3月22日にこのオーディションに応募した693組の中から新パーソナリティとしてお笑いコンビのが選ばれた。 また、惜しくも合格できなかった応募した方の中から・・EMILY()・の4組が2017年9月までに『』のパーソナリティに起用した。 2017年4月28日に、第54回(主催)の入賞作品が発表され、50年の歴史を刻んて来たオールナイトニッポンのパーソナリティとしては初めてとなる「 DJパーソナリティ賞」をが受賞した。 2017年6月3日・6月4日には『 ALL NIGHT NIPPON 50th Anniversary ブリトニー・スピアーズ -JAPAN TOUR 2017-』と題して、2002年以来の来日となるブリトニー・スピアーズの東京公演を「オールナイトニッポン」という冠を付け、オールナイトニッポン放送開始50周年記念公演として行った。 2017年7月15日には『 ありがとう! オールナイトニッポン50周年』と題して、5時から13時までのレギュラー番組において、「オールナイトニッポンにまつわる曲」を放送し、13時から17時まではパーソナリティにを迎え、「 ありがとう! オールナイトニッポン50周年クロニクル」として放送。 2017年7月31日からオールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、ニッポン放送が運営しているWebメディア「allnightnippon. com」の新しいサービスとして『』の運営を始めた。 2017年8月7日-8月12日にはオールナイトニッポン50周年企画として、「 Welcome Ariana! また、オールナイトニッポン50周年企画としての協力により「MY HOMETOWN」をテーマにしたリスナー参加のスマホムービーコンテストを春夏秋冬の4期(2017年10月から2018年9月まで)にわたって行うことになった。 2017年10月から2018年3月のいわゆるナイターオフ期には、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、過去に起用されたオールナイトニッポン歴代パーソナリティを起用した『 』を放送。 2017年11月12日は、当番組のベースにしたテレビでの特別番組『』(21:00 - 22:55。 )を放送。 過去にパーソナリティを務めた 、、 、2017年現在現役の()が出演した。 オールナイトニッポンが放送開始50周年を迎えるにあたって、2017年1月から2018年10月までの期間中、「50の企画」を行っている。 オールナイトニッポンの50周年記念企画は番組初期のパーソナリティが社員アナウンサー・ディレクターがかかわっていたことから、ニッポン放送のすべての社員から募集をかけ、150の企画案の中から「50の企画」が選ばれた。 すでに、「星野源制作による50周年記念ジングル(後述)」「ALL LIVE NIPPON Vol. 5」「リスナーの一般公募による50周年記念ロゴ制定」「50周年パーソナリティオーディション」「ブリトニー・スピアーズ JAPAN TOUR 2017」「開局記念日特番「ありがとう! オールナイトニッポン50周年クロニクル」」「Welcome Ariana! One Love Manchester with ANN」「東京ガールズコレクションにオールナイトニッポンのパーソナリティが出演」といった8つの企画を行っている。 その50周年記念企画の一つとして、スマートフォンで録音した30秒程度の「私とオールナイトニッポン」をテーマにした音声メッセージをメールで募り、その音声メッセージを作曲のBGMに乗せてスペシャルジングルとして放送する「〜あなたの声がオールナイトニッポンで流れる! 〜「私とオールナイトニッポン」リスナージングル」を実施。 また、2017年11月27日から2018年2月25日の3か月間で、リスナーの中からオールナイトニッポンを担当する放送作家を発掘する「50年に一度の天才を探せ! オールナイトニッポン放送作家オーディション」を行う。 選考方法は、それぞれの番組の対象となっているコーナーで期間中に採用されたネタの数を集計して、毎週ランキングの発表を行い、最終的に、ランキングが上位に入った方とオールナイトニッポンの番組ディレクター面接を行い、何人かを絞り込んで、2018年4月からオールナイトニッポンの番組スタッフとして採用することになっている。 また、2017年に続いて次の時代を築くパーソナリティを一般公募して2018年4月からの『オールナイトニッポン0 ZERO 』のレギュラーパーソナリティに起用することになっている「〜次の50年を担うパーソナリティは誰だ? 応募方法は「LINE LIVE」を用いて、「自分の残念な話」をテーマにした自己PR動画を作り、その上で、ニッポン放送のホームページの中にある応募フォームには、動画のURLと必要事項などを書き、エントリーを完了させるという方法を取る。 期間は2018年1月26日正午から、2018年2月11日23時59分までで、2月中旬に、1次審査を通過した方への連絡をニッポン放送から行い、2月下旬に、2次選考として、面接を行って 、3月23日に合格者がと、と女優のの2組が正式に発表され、2018年4月からの『オールナイトニッポン0 ZERO 』のレギュラーパーソナリティに起用された。 また、とが2018年4月からの『オールナイトニッポン0 ZERO 』の土曜週替わり枠で起用された。 また、「オールナイトニッポン」をモチーフに家族を題材にした「鴻上尚史書き下ろしミニドラマ「オールナイトニッポン劇場」」という60秒ラジオドラマを2018年4月2日から12週にわたって放送。 これは、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、鴻上尚史が「60秒の連続ミニドラマ」を執筆したもので、放送形式は全6話で、1話ごとに20回放送されることになっている。 そのほか、すでに明らかになっているものとして、• 50年の歴史を「知られざるエピソード」でつづる「オールナイトニッポン サイドストーリー」• オールナイトニッポンのレギュラーパーソナリティが月替わりで登場して、応募した日本全国の学校の中から、毎月抽選で10校限定で、その学校のみ流れる番組を制作し校内放送で流す「オールナイトニッポン in 校内放送」• 50年間にわたり放送してきたジングルを放送する「もう一度聴きたい! オールナイトニッポン ジングルライブラリー」• 岡村隆史がプロデュースするライブイベント「岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭 in 横浜アリーナ2017」• オールナイトニッポンのパーソナリティが集う初の2日間のライブイベント「ALL LIVE NIPPON Vol. オールナイトニッポンとセイコーのコラボレーションが実現した限定500個の「大人の腕時計」「オールナイトニッポン50周年記念限定モデル クロノグラフ腕時計」 といった企画が用意されている。 2018年2月26日から3月2日の期間中、21時から21時50分の放送枠(関東ローカル、全国ではradikoプレミアムで聴取可能)で、笑福亭鶴光をパーソナリティに迎えて、「 オールナイトニッポン50周年スペシャル〜今だから言えるアノ話」と題して、50年の歴史を誇るオールナイトニッポンが巻き起こした社会現象に加えて、当時の担当ディレクターが書いた「始末書」に至るまで、当時のパーソナリティと当時のスタッフの証言から紐解いていくものである。 2018年2月19日から25日の1週間、首都圏のJRと東京メトロの駅で、オールナイトニッポン50周年の記念広告のポスターが貼られることになった。 また、これは『 』キャンペーンの一環として、このポスターを撮影して、ツイッターやインスタグラムで「 radikoでオールナイトニッポン」というハッシュタグを付けて投稿するか、あるいは、SNSの中で、この写真を見つけて、リツイートあるいはリポストすることによって、抽選でオールナイトニッポンとタワーレコードがコラボレーションしたクリアファイルと、radikoオリジナルのブルートゥースイヤフォンをセットにして、50人にプレゼントする企画がある。 2018年3月4日に、で「オールナイトニッポン50周年記念 あの素晴しい歌声をもう一度コンサート」がおこなわれた。 2018年3月28日12時から2018年4月4日24時にかけて、放送開始50周年を迎えたオールナイトニッポンとメジャーリーグ通算50勝を達成したがコラボレーションした50着限定のスタジアムジャンパーが制作・販売されることになった。 田中将大は年末年始に「田中将大のオールナイトニッポンNY」のパーソナリティを担当していて、その関わりが深いことからこの企画が実現。 田中は「ニッポン放送では毎年、「田中将大のオールナイトニッポンNY」を放送させてもらっています。 自分にとっては正月の風物詩のような存在になっていて、楽しみの1つにもなっています。 今回、オールナイトニッポン50周年という事で、昨年達成した自分のメジャー50勝とかけて、コラボレーショングッズとしてスタジアムジャンパーを作らせて頂きました。 自分も普段から着こなしたいと思っています。 是非このジャケットを着て、スタジアムに遊びに来てください! 」と述べている。 2018年4月からは『 コラボレートニッポン』と題し、オールナイトにレギュラーの有無を問わず、毎月一組のパーソナリティが一企業とタイアップを組んでコラボレーションをする3分間のコーナーを開始。 このコーナーは全曜日を横断して2時台に行われる。 2018年4月19日(18日深夜)1時から『菅田将暉のオールナイトニッポン』の中で、オールナイトニッポン50周年スペシャルラジオドラマとして2013年4月から2016年3月までレギュラーとして放送された『』のリスナーを主人公にした小説『』を、・・・の主要キャストの出演で放送。 2018年4月24日に、ニッポン放送が「オールナイトニッポン50周年企画」の一環として、のに新しく設けられる「くらてビレッジ」の取り組みに協力することを発表した。 2018年5月19日に行われた一般社団法人「放送人の会」主催の「放送人グランプリ2018」の授賞式において、「オールナイトニッポン50周年」が準グランプリを獲得した。 2018年8月27日から9月1日にかけて、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、『 』として、『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0 ZERO 』のパーソナリティを12組のお笑い芸人が担当した。 8月27日・ANN:・ANN0:• 8月28日・ANN:・ANN0:• 8月29日・ANN:・ANN0:• 8月30日・ANN:・ANN0:• 8月31日・ANN:・ANN0:• 9月1日・ANN:・ANN0: 2018年10月1日から昨年のナイターオフに続いて『』を放送することになり、放送時間も月曜から金曜の18:00-20:30となり、2017年度と比べると、40分にわたって放送時間が拡大されることになった。 特に金曜日は、オールナイトニッポン50周年の歴史でジャニーズのユニットとしては初めてのパーソナリティとしてを起用した。 2018年9月28日13:00 - 17:20 には50周年企画の締めくくりとして『 ありがとう50周年! 垣花正と新内眞衣のオールナイトニッポンミュージックリクエスト 』と題し、「『音楽』で『オールナイトニッポン』の50周年」を振り返るもので、「もう一度聴きたい! あの名場面」と「ミュージックリクエスト」、それに、歴代のパーソナリティに話を伺う「あなたとオールナイトニッポン」で番組は構成された。 ゲストとして(13時台)、(14時台)、(15時台)が出演した。 2018年10月2日には、東京・の『』にてオールナイトニッポン50周年の記念企画を支えた関係者が集まってオールナイトニッポン50周年感謝パーティー『 オール感謝ニッポン』が行われた。 このパーティーにはおよそ500人に及ぶオールナイトニッポンの歴代のパーソナリティと関係者が出席した。 この中で、1974年から1985年までオールナイトニッポンを支えたは「28歳から40歳まで人間として大事なときにANNに毒されまして、エロまっしぐら! 」とスピーチを行った。 また、1988年から1999年までの11年間とオールナイトニッポンの中でも女性パーソナリティの最長出演記録を持つ、は「ANNで人間性を磨かせてもらいました。 これからも楽しく続けさせていただきたいです」と決意を新たにした。 を手掛けたは「『』50年、『』50年、本当におめでとう! 」と深夜放送の黄金時代を支えたオールナイトニッポンと人気を分け合った他局の番組タイトルを引き合いにスピーチを行った。 また、オールナイトニッポン初期のパーソナリティ「」や、のオールナイトニッポンに関わったもスピーチを行い、さらに、やのもこのパーティーに駆け付けた。 パーティーの最後にはがの「」を弾き語りして、オールナイトニッポンの次の50年に向け、新たなスタートを切った。 2018年4月からオールナイトニッポンのチーフディレクターにが就いた。 その時期に立てた目標が「ANNの裏番組の『』に聴取率で勝つこと」だという。 」と述べている。 2018年10月7日(6日深夜)から毎月第1土曜日に『』と題して、オールナイトニッポンの中で初めてを取り扱う番組がスタートした。 2019年2月1日に、『オールナイトニッポン』のリスナーでもあるイラストレーターのが、『オールナイトニッポン』(火曜から日曜の1時から3時(月曜から土曜の深夜))のパーソナリティのオリジナルイラストを手掛けたことが明らかにされ、そのイラストがニッポン放送のタイムテーブル2019年2月号に掲載され、同時に、2月1日から2月28日までオリジナルイラストを描いたポスターがニッポン放送本社1階にて展示。 、『』が、に替わる新しい元号「」の下で最初のオールナイトニッポンとなった。 2019年10月5日から2020年3月21日まで、土曜日の19時から21時までの放送枠に『』が編成され、パーソナリティには2018年度の金曜日のパーソナリティを務めたがリスナーの復活要望に応えて、再び起用された。 2019年10月14日から10月19日の1週間にわたって、ニッポン放送開局65周年を記念して「音楽を大切にする1週間」として『 』を展開。 2019年10月14日• ANN0: 2019年10月15日• ANN:• ANN0: 2019年10月16日• ANN:(・・)• ANN0: 2019年10月17日• ANN:・• ANN0:・井口理 2019年10月18日• ANN:• ANN0: 2019年10月19日• ANN:• ANN0:・、・ 2019年10月24日から2020年5月31日まで、オールナイトニッポンととの共同制作による『 』というイベントが行われる。 また、2018年4月にオールナイトニッポンのプロデューサーに就いたは「僕が『オールナイトニッポン』のプロデューサーに就任してからは、『オールナイトニッポン』はすでに、聴取率とともにradikoの数値を判断基準にしています。 radikoには「ライブ 生放送 」と「タイムフリー 聴き逃し 」、その合計である「トータル」という3つの数値があり、それを番組作りの上での評価軸にしています。 」と述べている。 また、石井は「パーソナリティのみなさんも交流に積極的で、これをきっかけにほかのANNも聞いてくれる人も増えてきました。 今まではANNからANN0という縦のつながりだけでしたが、今はradikoのタイムフリー機能で1週間以内ならいつでも聴けるので、横のつながりが効果的になっています。 (の)若林さんが結婚を発表した回や、井口さんがゲストのさんと『』を熱唱した回などは、特にタイムフリー再生が多かったですね」と述べている。 また、冨山は「実はradikoだけの数値でいうと、この1年前くらい前から非常に伸びています。 『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0 ZERO 』の数字は、ここ数年で、タイムフリー数字が生放送の数倍も聴かれていることもあり、トータル数字が非常に底上げされています。 」と述べている。 この時期はパーソナリティが相互に番組に出演し、パーソナリティが『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0 ZERO 』にゲストに出演したりした。 また、2020年のにおいて、が優秀助演男優賞を受賞し、「話題賞」も狙って、とをライバルとしてけん制していた。 そして、その間の取り組みが功を奏し、2020年2月のビデオリサーチが行っている「首都圏ラジオ聴取率調査」で『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0 ZERO 』において、月曜から土曜平均で同じ時間帯で単独首位に立った。 この同じ時間帯の単独首位は、2019年12月に行われた「首都圏ラジオ聴取率調査」に続いて2期連続となった。 この番組作りの取り組みと聴取率の分析について石井は「JUNKは昔からANNをはじめとする裏番組をしっかり研究していて、『このゲストのときに盛り上がっていた』とか分析をしていた。 一方のニッポン放送は、JUNKに聴取率で負けていたのに対策を十分にやっていなかったんです。 なので、僕が最初にチーフDになったときに『裏番組をちゃんと気にしましょう。 JUNKはいい番組で、どんな企画をやっているのか調べて聴くのも勉強になるし、それを踏まえての戦い方もあるはずです』と話しました。 同世代のDが作っているので、ちゃんと聴いていいところは参考にしようと。 ANNがナンバーワンという奢りを捨てることから始めました」と述べている。 また、石井は「各番組のリスナーはそれぞれのファンが中心ですが、横や縦のつながりで他の番組も聴いてもらえるように意識的に仕掛けて、それが聴取率やradikoの再生数の向上という結果につながっています」とも述べている。 また、2020年で、がサービスを始めて10年となったので、石井は「極端に言うと、僕がやってる番組はradikoで聴く人をターゲットにしていますし、ANNでは従来の聴取率ではなくradikoの数字が完全な判断基準になっています。 ラジオ局全体としては従来のラジオで聴いてくださる方も対象にして番組作りをしますが、ANNとしてはそこを考えなくていい」と述べている。 また、冨山は「radikoの登場で、今までのアナログラジオの要素に加えて、デジタルコンテンツの文脈で制作をしています。 だからSNSも活用するし、タイムフリーでいつ聴かれてもいいという考え方で。 」とした上で「若い人たちとラジオの接点が見つからないという問題点があるなかで、スマホの中にradikoアプリが入ると1人1台、ラジオが入っているのと一緒になるというのはラジオ業界にとって21世紀で最も大きな出来事だと思います。 このデジタルと融合することで一番良いのは、ラジオを知らない人との新しい接点と拡散だと思います。 」とも述べている。 さらに、石井は「ラジオ業界が厳しいことは間違いないので、若いDや放送作家がラジオで生活できるために、コンテンツを制作する人に正しくお金が入る仕組みを作りたいです。 ANNは初めてラジオに触れる人の入り口であることが多いので、その突破口になればいいなと。 」と気合を見せた。 2020年4月23日放送の『』で、が番組内で女性を軽蔑する不適切発言をしたとして問題視された。 翌週4月30日の放送で岡村が謝罪したほか、相方のが『ナインティナインのオールナイトニッポン』以来約5年7か月ぶりに出演し、番組終盤まで公開説教となった。 日曜日 [ ] 日曜深夜にも1984年以前に『』という、糸居五郎や、はたえ金次郎()などが担当した電話リクエスト番組があった。 歴代担当者は以下の通り。 (1968年4月 - 1968年10月)• (1968年10月 - 1970年3月)• (1970年3月15日 - 1971年4月)• (1971年4月19日 - 1972年10月)• (1972年10月 - 1974年12月)• (1975年1月5日 - 1980年3月)• (1980年4月6日 - 1984年4月1日) 1984年4月以降はオールナイトニッポンを冠しない、女性アーティストやアイドルが担当する番組となった(最初の番組は『タッチ・ミー・EPO』)。 その後、オールナイトニッポン30年を迎えた1997年10月に日曜日の電話リクエストが復活。 のオールナイトニッポン電話リクエスト(1997年10月12日 - 1999年3月28日、23:00 - 25:30)• llnightnippon. com HYPER REQUEST SUNDAY! ()(1999年4月4日 - 1999年10月3日、23:00 - 25:00)• の llnightnippon. com Sunday Request Night(1999年10月10日 - 2000年3月26日、23:00 - 25:00)• のallnightnippon Sunday Special(2001年4月15日 - 2001年9月23日、23:30 - 25:00)• 中澤裕子のallnightnippon Sunday SUPER! (2001年10月7日 - 2003年3月30日、23:00 - 24:30)• の llnightnippon Sunday. com(2001年10月7日 - 2003年3月30日、24:30 - 25:30) 他にオールナイトニッポンを冠した番組として、2008年4月 - 2009年3月には、『』(25:00 - 25:30)が、2009年10月11日 - 2010年9月12日には、『』が放送されている。 その後、単発で放送された 『とのオールナイトニッポンR』(2012年10月14日、27:00 - 29:00)以外は日曜日のオールナイトニッポンは放送されていなかったが、2013年4月改編から2018年10月改編にかけて『』が放送された。 日曜のオールナイトニッポンレギュラー枠では、2003年3月に『中澤裕子のallnightnippon Sunday SUPER! 』と『飯島愛の llnightnippon Sunday. com』が終わって以来、10年ぶりとなる。 また『中島みゆきの月イチ』は、一部の局ではあるがネットされており、サンデースペシャルが放送される時間帯はほとんどの局では他番組の遅れネットやプロダクション制作の番組の放送、あるいはメンテナンスに充てることがほとんどのため、日曜日の枠が全国ネット(一部)がなされるのは初めてのこととなった。 2019年4月からは月に一度、25:30 - 27:00に『』 を、27:00 - 29:00に『』 を放送開始した。 WANIMAは土曜の月一放送からのスライドとなり、高嶋は47年ぶりにオールナイトニッポンに復帰した。 テーマ曲 [ ]• 『(ビタースウィート・サンバ)』• 作曲:• 演奏:とティファナ・ブラス• 収録アルバム:『』(1965年、よりリリース)• 原曲は演奏時間1分46秒だが、番組用に長く編集されている。 テーマ曲として採用された経緯については諸説ある。 「ティファナ・タクシー」は別のアルバム『Going Places!! 』のA面1曲目であり、間違えるはずはないという指摘もある。 編集盤やシングル盤という可能性もあるが詳細は不明)。 違う曲(「レモン・ツリー」または「ティファナ・タクシー」)をテーマ曲候補としていたが、収録されたレコードの同じ面に収録されていた「ビタースウィート・サンバ」が誤って流れ、曲を聴いた高崎一郎がテーマ曲として決定した。 上記の説を否定する証言が存在する。 1970年代から1980年代にかけてプロデューサーをつとめた(岡崎正通)は、高崎一郎からテーマ曲選びを依頼されたが、最初から「ビタースウィート・サンバ」を選んだのに過ぎず、上記のかけ間違え説は高崎が「都市伝説みたいなストーリーを作った」という証言を行っている。 斉藤安弘は「もともとこの曲をテーマにする予定だったと聞いていた」と、自身の番組『』で発言している [ ]。 『』(2007年2月19日放送分) [ ]の中で、が、スタッフの間違いではなく高崎一郎が初めから決めていたことだと明らかにし、同時に「スタッフ間違え説」を否定した。 開局50周年ラジオスペシャル『真夜中のビター・スウィート・サンバ』(2014年3月23日放送) にて、朝妻一郎がインタビューでこのことに触れており、高崎からテーマ曲の候補を探すよう依頼され、朝妻の会社が著作権を持っている曲の中から選んで高崎に視聴させたところ、「演奏はよいがリズム感が...... これじゃないだろう」と言われ、高崎自身が同じ盤の他の曲の中で「ビタースイート・サンバ」を選んだという。 その後、高崎が逸話として話を面白くするため「盤を裏返しに…」と話したそうである。 『』において、ハーブ・アルパートが特別ゲストとして招かれたとき、その当時のテーマ曲のバージョンを、トーク無しのフル演奏で流したことがある。 原曲は演奏時間2分40秒。 テーマ曲として使われた時のは原曲を多少アレンジしてある)でアレンジされた「ビタースイート・サンバ」を採用。 かつては、ネット局により午前3時(第1部終了)までの局(全ての局ではないが、CBCラジオやなど)はそれぞれの局において、第2部のオープニング(午前3時の時報)までにかかる繋ぎの曲の途中からカットインしエンディングとして流し、各局のアナウンサーが番組協賛及び番組終了のアナウンスを入れていた。 現在は行われておらず、次番組が始まるまでに繋ぎの曲(つまり、第1部のエンディング曲)をフェードアウトしてからなどが入るようになった。 1986年までは『ビバヤング、オールナイトニッポン。 』のように協賛スポンサーの読み上げも流されていたが、1987年頃は『ビバヤング、オールナイトニッポン。 それでは今日はこの辺で。 』のみのナレーションが入っていた。 1988年頃から使用されなくなり、現在のように各CMが流れて3時を迎えている。 また、現在は、木曜日の『』、土曜日の『』などで一節が繰り返されている物のフル演奏を聴くことができる。 また、一部の番組では、先のものとは別の部分を延々繰り返している物を曲紹介・スポンサー読み・コーナー呼び込みまで掛ける事もある。 第2部では番組設置の経緯(4時間の大きな放送枠を便宜上二つに分ける)から、オープニングでは流さず、エンディングに流し、曲の終了と共に番組も終了するというスタイルが長らく続いていた が、「R」では旧オールナイトニッポンとは別の番組枠となったとしてオープニングにもかけられる場合が多数となった他、エンディングも単なるフェードアウトとなる場合が多くなった(土曜単独となっても行われる。 また週によってはニッポン放送飛び降りのところで流されることもある)。 「ZERO」では旧・第2部の復活という理由付けを行い、旧第2部と同じ構成で曲が使われている。 1988年10月から1989年1月にかけて、の体調の悪化で日本国内が自粛ムードに包まれ、その間全く異なるBGMに差し替えた。 2014年、ニッポン放送開局60周年企画の1つとして行われた投票企画「あなたが『オールナイトニッポン』で出会った忘れられぬミュージックランキング」にて1位を獲得したが、この旨をハーブ・アルパートに連絡したところ「使用されていたこと自体を知らなかった」事が発覚した。 ウィークリーソング [ ]• 週替わりで各曜日にかかわらず「ニッポン放送ディレクターズプッシュ」としてヘビーローテーションで新譜が流される。 これはかつて月間(月間時のヘビロテの名称は「オールナイトニッポン・スーパーディスク」)であった。 2012年4月から当番組の推薦曲がエンディングで流されるようになったこともある。 番組ジングル [ ] CM前とCM明けのを数々のアーティストが手がけており、放送開始から40周年・45周年・50周年を記念した特別番組・特別企画においてはこれらのジングルが様々使用された(90年代後半のものなど、使用されなかったジングルも多い)。 現在の通常放送でも、ディレクターの意向により現在使用されていないジングルを放送する場合もある。 下記のものは22時・23時台の『SUPER!! 』から『MUSIC10』を除く番組で流れた共通ジングル。 CM前にこちらを流し、CM明けにそれぞれの番組のジングルを流すパターンもある。 このジングルは、他の担当者では使われなくなっても、担当回ではまで使用され続けた。 一時期、全ての番組で使用されなくなったが、担当回では当時唯一「ビバ! ヤング」をタイトルに付けていたため、全国一斉放送のCMの時のみ(毎時00分から30分台)使用されていた。 その後、糸居五郎死去の際の追悼番組で流された。 過去にはが担当する『』や斉藤安弘が担当する『オールナイトニッポンエバーグリーン』でも流れていた。 1970年代、亀渕昭信が担当していた『ビバ・カメショー』にも「 カメ、カメー」や、斉藤安弘が担当していた頃の「 オールナイートニーッポン、アンコー(アンコーさーん)」などの担当DJ専用ジングルもあった。 1977年4月- 1982年10月 1982年10月- 1986年4月12日 不定 1980年代 ・・・・が担当した。 1986年4月14日- 1989年1月6日 20周年記念バージョンのジングルで「 20th Anniversary」のフレーズが入っている。 20周年目以降も該当部分を削除して使用を継続。 1989年1月9日- 1992年3月14日 1992年3月16日- 1992年7月11日 開始とともに使用。 1992年7月13日- 1993年2月27日 25周年記念バージョンのジングルで「 25th Anniversary」のフレーズが入っている。 1993年3月1日- 1994年5月14日 1994年5月16日- 1995年10月7日 このうちの1パターンは『くり万太郎のオールナイトニッポンR』で使用。 1995年10月9日- 1997年7月19日 1997年7月21日- 1997年11月1日 30周年記念バージョンのジングルで「 thirty Years」のフレーズが入っている。 「SUPER! 」で使用。 ボーカル・作詞の、キーボードの、作曲・ギターの。 com」で使用。 2003年3月31日- 2008年9月18日 海外のアーティストがこの番組のを手がけるのはこれが初。 毎日使用していたのは2005年7月1日までであるが、ナインティナイン担当回では2008年9月18日まで1パターンのみ使用され続いた。 2003年7月7日- 2007年4月12日 毎日使用していたのは2005年7月1日までであるが、木・金のみ2007年4月12日まで使用され続けた。 2003年10月3日- 2009年10月3日 金・土の「R」専用ジングル。 「オールナイトニッポンR〜」と歌っているもの。 「ANN」は全て2009年10月9日より25時台と同じものへ統一されたため、「R」専用のジングルは消滅した。 2005年7月4日- 2007年4月10日 2006年5月19日- 2007年4月11日 2007年4月13日- 2008年9月30日 40周年記念バージョンのジングルで「 40th」もしくは「 40th Anniversary」のフレーズが入っている。 2008年10月1日- 2009年10月3日 2009年10月5日- 2011年12月31日 2012年1月2日- 2013年3月30日 45周年記念バージョンのジングルで「 45th Anniversary」などのフレーズが織り込まれている。 2017年1月3日1時台後半 - 現在 当初は「 50周年」などのフレーズが織り込まれた50周年記念バージョンのジングルとして使用され、その後歌詞を一部変更して使用を継続している。 『』の放送中から使用開始となり、星野の作であることが併せて発表された。 CD・レコード [ ] シングル [ ]• 今、僕たちにできる事()- 歌:オールナイトニッポン・パーソナリティーズ(1992年10月期当時のパーソナリティ全員 が参加 対運動のために制作された。 各番組では放送当時のCMフィラーにインスト版が使われた。 ビタースウィート・サンバ() - 演奏:ハーブ・アルパートとティファナ・ブラス(1994年10月26日発売。 当初テーマ曲の予定だったティファナ・タクシーも収録。 廃盤) アルバム [ ]• オールナイトニッポン(LP盤)( : 1970年12月)- 最初のオールナイトニッポンのアルバム、当時のパーソナリティ全員参加• 海賊放送局(LP盤)( : 1971年11月)- 今仁哲夫と天井邦夫によるビバ栗毛の珍道中記、パーソナリティ全員参加のラジオドラマ、カメカメ合唱団の歌• 深夜放送グラフティ オールナイト・ニッポン( : 1991年11月)- 糸居五郎、ビバ・カメショー(ゲスト:あのねのね - オールナイトニッポンに初めてゲストに招かれ、のちパーソナリティとなるきっかけとなった貴重な録音)、斉藤安弘(最終回、電話出演で翌週から木曜深夜のパーソナリティを引き継ぐのの他、スタジオゲストに、(ビリーバンバン))のそれぞれの抜粋を収録• オールナイトニッポン Radio Days Bitter Hits(東芝EMI(現))• オールナイトニッポン Radio Days Sweet Hits()• オールナイトニッポン パーソナリティーズヒッツ〜青春 ON AIR〜(ポニーキャニオン) 以上の3作品は、2003年に発売した35周年記念のコンピレーションアルバム• オールナイトニッポン EVERGREEN(EMIミュージック・ジャパン、ほか) - 2008年1月23日に6枚同時発売した40周年記念のコンピレーションアルバム 商品 [ ]• 青春のオールナイトニッポン() BCLラジオのフィギュア。 つまみを模したボタンを押すと、ジングルや糸居五郎や笑福亭鶴光らの番組の一部音声が流れる。 ビタースウィートサンバはオリジナル。 2004年発売。 懐かしのオールナイトニッポンキャンデー() 番組内容の一部とパーソナリティの持ち歌で構成した8cmCD付きのコーヒーキャンデー()。 2004年発売。 () 有名なゲーム『』の一部キャラクターのグラフィックを、当時のパーソナリティの顔に差し替えたもの。 1987年、番組放送開始20周年を記念してと共同製作した。 オールナイトニッポン40周年記念カップ麺が日清食品、明星食品の制作でにて2007年10月31日発売• オールナイトニッポンを作ろう! () 自分で番組運営ができるほか、多彩なゲストと魅力的なスポンサー集め、他のユーザーとの交流や名刺の奪い合い、携帯電話のGPS機能を利用した位置でエリア拡大などを詰め込んだ番組運営シミュレーションソーシャルゲーム ネット局 [ ] 現在、『オールナイトニッポン(1部)』は全国36局ネットであり、放送対象地域上ではすべての都道府県で聴取可能な番組である。 2019年10月現在、全国の民間AM局のうち、ニッポン放送の所在する東京・横浜エリアの局以外で『オールナイトニッポン』シリーズを一切ネットしていないのは(ぎふチャン)、、の3局のみとなっている。 一覧 [ ]• 表中「放送番組」欄については以下の通り。 東海地方 [ ] 東海3県では、1部枠を単独系列の(以下、CBC) でネットしており、CBCはニッポン放送から東京都九段のCBC東京支社経由で番組をネットしている。 伝送にはの帯域保証のIP回線を使用している。 これはニッポン放送が番組開始当初、全国ネット拡大を試み、この地区はまずNRN系列のにネットの依頼をしたが、東海ラジオは自社制作の人気番組『』(現在は、『』)を放送中でネットを断られてしまった。 このため、CBCに依頼したところ、当初は『』といった自社番組を放送していたものの、反対に『ミッドナイト東海』に劣勢であったこと、また社内部の反発などもあり、ネットを了承したという経緯があったためである。 後に東海ラジオは、22時枠及び『サタデースペシャル』のネットを開始したため、東海地方では本番組シリーズが2局でまたがって放送されることになった。 CBCでは1部のみのネットである。 また東海地区では東海ラジオが平日27・28時台に『』を文化放送から受けており、東海地区では27時以降の枠がネットされていない。 また、東海ラジオが月 - 木曜25・26時台に『』のネット受けを2012年10月から開始したため、月 - 木曜の25・26時台はNRN系の番組が表裏になっていた。 しかし、2020年3月をもって25時台のネットも取りやめ、同年4月より本番組と被る2時間は自社制作番組を編成している。 京阪神地区 [ ] 京阪神地区で本番組をネットしていたのは、長らくラジオ大阪(以下、OBC)とKBS京都(以下、KBS)であったが、2001年4月から3年にわたり独立局のAM KOBE(以下、AMK、現在のCRK・)でも『SUPER! 』がネットされた。 それまでは自社製作の深夜ワイド番組『』を放送していたが、ニッポン放送からの番販購入の形でこの番組を同時ネット受けすることになった。 また、2007年4月からは変則的に『エバーグリーン』の飛び乗りネットを開始し、10月以降は27時からのフルネットに枠拡大、その後継枠である『くり万太郎のオールナイトニッポンR』『オールナイトニッポン0 ZERO 』もネットを継続している。 また、『オールナイトニッポン(1部)』をネットしないが『オールナイトニッポン0 ZERO 』はネットする唯一の局でもある。 2009年7月、京阪神地区で長年22時台に独自の夜ワイド番組『』を製作していた朝日放送(以下、ABC、現在の)は、月曜から木曜までの自社製作を打ち切り、ニッポン放送の『』をネットすることになった。 この枠は2009年11月に『オールナイトニッポンGOLD』に移行したため、在阪局ではOBCに次いで、ABCでも本番組シリーズがネットされることになった。 ただし、当該時間帯におけるABCのニッポン放送からのネット受け開始を受けて、CRKとKBSは『TAKUYA』の途中の2009年10月改編で当該時間帯のネット受けを撤退し、KBSは金曜を除いて文化放送の裏番組『』を全編ネット、CRKは当該時間帯の自社制作を再開 している。 また、2010年4月からは『サタデースペシャル』枠の『魂のラジオ』もABCラジオでネット開始され、その後継枠である『大倉くんと高橋くん』も引き続きネットを継続している。 2013年10月からは『中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ』を、大阪のFM局 がネットすることとなり 、本番組の歴史上、初めてFM局でネットされることとなった。 さらに2014年4月改編からは『オールナイトニッポンGOLD』のABCのネット終了を受ける形で、FM COCOLOでネットすることとなった(金曜を除く。 2015年10月からの『オールナイトニッポン MUSIC10』も引き続きネット)。 この結果、2019年10月時点で京阪神地区においては、『MUSIC10』はFM COCOLO、1部はOBCとKBS、27・28時台はCRK(土曜0を除く)とKBS、『サタデースペシャル』はABCとKBSというように、番組ごとにネット局が変わる事態となった。 KBSは4月に開始しているが、ネット開始する以前(1976年7月当時)は『』(23:00 - 26:00)と『ミュージック・オン・ステージ』(26:00 - 29:00 木-土曜は別番組の関係で時差開始)を放送していた。 北海道では、以前は25時-29時枠と同様STVラジオがネットしていたが、2002年3月に打ち切ったため、1年半のブランクを置いて、10月より競合局の(HBC)でネットしている。 福岡県でも同様に、22・23時枠、25時 - 29時枠(月イチも含む)は全て(KBC)で流れているにもかかわらず、『サタデースペシャル』枠だけはがネットするという現象が起きている。 特に、RKBラジオはNRNには加盟していないため、CBC同様特殊なケースとなっている。 東海地区では、『ジャンベルジャン』枠を引き継いだ東海ラジオが『魂のラジオ』放送開始時からネット、2010年4月からは上記の通りABCでもネットを開始しているなど、特に都市圏における『サタデースペシャル』枠は1部のネット局とは異なっている状況である。 ネット局での番組割愛時の対応 [ ] 12月25日午前1時(新聞上は12月24日の放送欄)からの本番組は『』として放送される(の一環)。 以前は、ニッポン放送は関東ローカル独自の放送のため放送されず、裏送りのみされたが、2007年度以降は、ニッポン放送発の番組をミュージックソン非参加局を含む各ネット局がネットしている。 一方、独自で『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』の企画番組を放送する局は、ネットは割愛されるが、ニッポン放送発の番組を受ける場合もある。 また、24日午後10時からの2時間もミュージックソンの一環で『オールナイトニッポンMUSIC10(オールナイトニッポンGOLD)』を送るが、こちらはニッポン放送+ミュージックソン非参加局のみで放送する。 ただし、隣県でミュージックソンを展開する局がある場合は、別パーソナリティの特別版を送る場合がある(茨城、大阪、山口など)。 やなど、日本時間の深夜に日本あるいは海外で行なわれる野球・サッカー中継をニッポン放送が中継・ネットする当日に、本番組の放送と重なる場合は、本番組を放送せず、裏送りのみを行なう。 その際、放送される試合によってはの関係ででの放送はできないため、フィラー音楽とその間にニッポン放送のアナウンサーによる「 放送権の都合によりradikoでの放送は行ないません。 地上波でお聴きください」という説明が放送される。 また、NRN系の多くの局も試合の中継を優先するため、本番組は放送されない(場合によっては飛び乗り)。 そのため、場合によってはネット受けがラジオ大阪とCBCの2局のみの時もある(中京広域圏では東海ラジオ、関西広域圏はABCでサッカー中継をネットすることが多いため)。 放送時間以前に(・・・)が発生した場合でも、基本的には、一部の例外を除き、本番組のシリーズを通常通り放送することが多いが、その自然災害の被災地でのその日の放送は割愛と言う形になる場合もある(例として、時においての熊本をはじめとする九州の一部地域が該当)。 備考 [ ]• いわゆる「1部」の放送時間は3:00までだが、一部ネット局(主に「オールナイトニッポン0 ZERO 」非ネット局)では、局名告知もしくはCMのため2時59分頃にフェードアウトして終了する。 このため、2時59分までには必ず放送を終了するように構成されている。 それは金曜と土曜の「ZERO」においても同様であるが、多くの局が局名告知の時間を設ける都合上、4:58までにはコメントを切り上げるように構成されている。 なお、ニッポン放送など一部の局では「1部」の終わりで各パーソナリティによるタイトルコールが入って時報へつなぎ、「ZERO」となる。 ニッポン放送と()共同制作の番組『お笑いネクストブレーカー』の番組内でが出されたテーマに、オールナイトニッポンをベースにトークをするコーナー「オールナイトニッポンへの道」があった。 では、2009年2月1日から2月28日まで、であるの施設改修工事に伴い、午前0時から午前4時までの間放送が休止されたため、1ヶ月間オールナイトニッポンの放送が休止となった(協賛部分のみ休止直前の番組でCMとして流した)。 では2009年4月 - 9月の間、経費削減などのため停波を伴う放送休止時間を設定することに伴い、祝日に当たる日のみ、オールナイトニッポンの放送を休止とした。 協賛各社のCMのみ、休止直前と再開直後にまとめて放送していた。 では、北部九州ローカル番組で、月に1回、という番組が放送されている。 ホームページ・メールアドレスは基本的にニッポン放送の深夜放送の番組(オールナイトニッポンの冠が入っていない番組も含む)で使用される「allnightnippon. com」のドメインが使われているが、一部の派生番組(MUSIC10・サンデーなど)では通常番組のドメイン「1242. com」が使われる番組もある。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• その時の放送中のスタジオの様子について、1968年に入社し、後に泉谷しげる、あのねのね、笑福亭鶴光のオールナイトニッポンのディレクターとして名をはせる鈴木隆は「(有楽町の旧社屋の)第5スタジオというのが4階にあって、そこで『オールナイト』をやっていたんだけど、とにかく静かでしたよ。 なぜかというと、ディレクターが一人しかいない。 ミキサーも兼ねているわけですから。 構成作家もいないし、しゃべり手が自分でハガキを選んで曲を決める。 基本的にそれだけだし、ちょっと、仕掛けを考えるのも本人ですし。 それが第一次黄金時代のパターンですよ。 だから、ディレクターにも責任があるし、緊張感ありますよね。 僕らが夜中に通ってもスタジオには入れなかったんですもん。 外から覗いて『やってるな』という印象は強烈にありましたね」と語っている。 [ ]• この曲の歌詞の一節に「酔っ払らい運転」というフレーズがあり、飲酒運転を撲滅する立場の自動車メーカーがスポンサーの番組で流すには相応しくないことも理由に挙げられる。 なお、日産は途中でスポンサーから降板している。 ある日の放送での「」をサンプル盤として放送したこともあったが、これについて斉藤安弘は「反体制までいかないけど、放送局の自主規制に突っかかっていた。 安保闘争など世の中が騒然として活気があり、面白いことをやろうという深夜放送を、受け入れてくれる素地がありました」と当時の時代背景を振り返る。 初代のパーソナリティの1人である斉藤安弘は「多岐にわたる選曲で、音楽の世界になじんだ人がいっぱいいた。 も私の放送をよく聞いて、リクエストはがきを何十枚も出したそうです」と番組初期の当時のエピソードを語る。 これについては亀淵自身が「くだらないことがいくらでもできた。 亀渕は当時について、「僕は、女の子3人組、モコ・ビーバー・オリーブの『』とか、前田武彦さんの『』といった番組を作っていたんですけど、よくしゃべるし、面白いからお前がしゃべれよと。 その分、ほかでカバーしないと追いつかない。 立ってしゃべったらとか、走り回ったらとか、ハガキを放り投げたら(当時リスナーから届いた2万枚のはがきをスタジオに放り投げ、一番遠くに飛んだハガキ(リスナー)に1万円をプレゼントしていた)とか、一生懸命いろんなことをやりましたね。 演出感覚ですね、それがちょっと違ってたんじゃないでしょうか」と語っている。 さらに、亀淵は、「特に、常木さんや高岡さんには感謝している。 そういうものばかりでは番組は長続きしないから」と述べている。 13:42 - 13:49にミニ番組『』14:30頃に『一番ノリ! 』、15:26頃 - 15:33頃に通販番組『』、16:42 - 16:48に『〜噂を求めてどこまでも』をそれぞれ途中挿入。 当初は上柳昌彦が新内と共にパーソナリティを担当する予定だったが、上柳が喉の不調により出演を辞退したため垣花正が代役を務めた。 それに伴ってタイトルも一部変更された。 2014年 日本民間放送連盟賞優秀賞受賞作品。 の視聴ブースで聴取可能。 編成上は4月1日深夜• 1・5については『オールナイトニッポン』の冠がついた番組に限る。 4は4時30分まで。 5は2002年3月終了。 1977年7月までは2部も放送していた。 1は金曜は23時飛び乗り。 1は2013年4月2日開始。 火 - 金曜のみ、23時50分に飛び降り。 3は2013年4月1日開始。 1は2011年9月終了。 5は2004年10月開始。 5は2000年3月の放送開始から。 また、ネット開始の時の放送枠は22時枠。 27時台の平日ネットは2009年4月開始、2010年3月終了(旧タイトルの『オールナイトニッポンR』時代)。 4は2017年4月終了。 3・4(当時2部枠)は1976年6月開始、1993年9月打ち切り、2020年3月30日より3のみネット再開• 1については一時期月曜のみ未ネットだった時期がある。 1974年6月の2部制導入までは放送終了まで放送。 以降は平日のみ第1部終了で飛び降り。 2012年4月から2014年3月、2015年4月からは土曜日も第1部終了で飛び降り。 27時台(土曜のみ)は2005年9月終了。 1は月 - 木曜のみ、23:50飛び降り。 金は2018年3月終了• 5は2005年10月開始。 1は2014年3月末終了• 5は2010年4月開始。 オールナイトニッポンとその関連番組のネット局の中で、唯一の放送局。 1は2014年4月開始。 月 - 木曜のみ。 正確な放送対象地域は、・・・、・、、。 3(当時平日2部枠)は1995年9月終了。 5は2009年3月終了。 1は2010年4月再開。 3は旧エバーグリーン枠(月 - 木曜)を2007年4月から、2012年10月からは金曜もネット開始。 2001年4月 - 2004年3月に22時台をネット。 1は2010年3月終了。 1は2015年4月開始。 かつては2部も放送していたが、にのネット局になったため放送打ち切りとなった。 3は1995年9月(当時平日2部枠)終了、1998年10月(当時R)再開。 1は2010年10月再開。 4は2008年4月 - 9月は4時30分まで。 4は長崎エリアは2014年3月まで、佐賀エリアは2013年3月までは4時まで。 3は、2010年4月開始、2015年3月終了。 4は2013年4月開始。 4は2010年1月開始。 2019年9月までは、4時まで。 5は2009年3月に一旦打ち切り、2012年4月再開。 一例として、2013年9月26日の東北楽天ゴールデンイーグルスリーグ優勝時での「オールナイトニッポンGOLD」~「オールナイトニッポン0」を休止した東北放送や、2016年9月10日の広島東洋カープリーグ優勝時のRCC中国放送、同年10月29日の北海道日本ハムファイターズが日本一となった時の「オールナイトニッポンサタデースペシャル 大倉くんと高橋くん」を休止した北海道放送のケースなど。 出典 [ ]• とは別。 余談ではあるが、オールナイトニッポンシリーズを放送しているのテレビ放送のネットワークはテレビ朝日系列に属している。 『プロが教えるラジオの教科書』( 著、199ページ - 203ページ)より。 『』の放送期間が49年6ヶ月のため、2017年3月をもってオールナイトニッポンの放送期間が歴代2位になった。 一部のネット局は120分。 2020年4月以降、第5水曜日がある月の場合、当該日はスペシャルパーソナリティが担当• 2020年3月までは水曜日。 2020年3月までは火曜日。 2017年3月までは月曜日。 第2期の開始日。 第1期は1994年4月から2014年9月まで放送された。 プロデューサー• 放送時間では4時間放送していたが最長である。 またアナウンサーを含めると、は5年半の期間を毎週4時間、エバーグリーンとして5年半、週4日を2時間放送(更に増刊号放送もある)したのが放送時間最長となるほか、は11年半の期間DJを務めている。 2014年10月から2020年5月までは単独で、それ以外はコンビ()で担当。 2010年7月 - 11月まで休養のため出演せず• 1998年5月2日 不慮の事故により他界。 享年33 「」も参照• アナウンサーを含めると、番組初復帰は今仁哲夫(1969年9月)である。 アナウンサーを含めると、最長期間での復帰は高嶋秀武の47年3ヶ月である。 一部のネット局は24:00まで。 現・フジサンケイエージェンシー。 現在は保険代理店とイベント関連のみで、制作事業からは手を引いている• パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、113ページ-114ページ。 『月刊』1987年4月号『深夜放送20周年ぐらふぃてぃ』24ページより。 パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、107ページ。 パーソナリティがスポンサー読み(ネット局が出来てからはネット局数も)を行う体制は当時から一貫して変わっていない(原則生放送で読み上げるが、予め録音したものを流すパーソナリティもいる。 )ただし、ピンチヒッターパーソナリティの場合はニッポン放送のアナウンサーが読み上げるケースもある。 パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、114ページ。 東京新聞. 2017年1月8日. 2017年1月8日閲覧。 糸居五郎は「新しい時代の夜」、また「エバーグリーン」当時の斉藤安弘は「フレッシュな夜明け」と言っていた。 このように、パーソナリティによっては部分的にアレンジして使うこともあった。 『月刊』1989年8月号『ニッポン放送35周年グラフィティ』29ページより。 パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、108ページ-109ページ。 パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、109ページ-110ページ。 産経新聞. 産経デジタル. 2017年11月28日. 2017年12月2日閲覧。 2019年9月5日閲覧。 上記、オールナイト初期のオープニングキャッチである「君が踊り僕が歌うとき・・・」の口上はタレントパーソナリティ投入後にはほとんど使用されなくなり、かろうじて笑福亭鶴光とあのねのねだけがパロディ化し原型を大きく崩す形で継続した。 ただし、1985年の鶴光ANNの最終回の際はパロディにせず、ほぼオリジナルそのままに読み上げた。 一方で同じオールナイト初期の代名詞である「ビバヤング」のキャッチは比較的長く生き残り、タレント導入後もジングルや提供読みのときにそのフレーズを聴くことができたが、1980年代後半にはほぼ使われることはなくなった。 - AV Watch・2011年11月29日• 「」『音楽ナタリー』、2012年3月21日。 2019年9月8日閲覧。 2015年1月30日閲覧。 株式会社mmbi 2015年9月21日. 2015年10月12日閲覧。 株式会社mmbi 2013年3月29日. 2013年3月29日閲覧。 株式会社mmbi. 2014年4月1日. 2014年4月1日閲覧。 2013年9月14日より9月23日までの10日間、総合プロデューサーにを迎えて開催される、『エンターテイメントコンテンツの祭典』• BARKS. 2013年9月4日. 2013年9月9日閲覧。 お笑いナタリー. 2013年9月2日. 2013年9月3日閲覧。 スポーツニッポン. 2015年1月31日. 2015年1月31日閲覧。 2016年3月23日閲覧。 工藤ひろえ 2016年8月11日. ネタとぴ インプレス. 2016年9月2日閲覧。 築島渉 2016年8月9日. 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NET(シンラドットネット. 2019年2月1日. 2019年2月1日閲覧。 オリコンニュース. 2019年2月1日. 2019年2月1日閲覧。 rockinon. com. 2019年2月1日. 2019年2月2日閲覧。 「」『ニッポン放送』、2019年9月14日。 2019年9月14日閲覧。 「」『ニッポン放送』、2019年9月30日。 2019年9月30日閲覧。 「」『お笑いナタリー』、2019年10月23日。 2019年10月23日閲覧。 「」『お笑いナタリー』、2019年7月20日。 2019年10月23日閲覧。 2020年4月4日閲覧。 「」『オリコンニュース』、2020年4月5日。 2020年4月5日閲覧。 『会報「Viva young」』No. 4 より。 『会報「Viva young」』No. 20 より。 『会報「Viva young」』No. 34 より。 2005年 "EPISODE1 真相はいまだ不明? 『ビタースウィート・サンバ』の謎", p. 6ページ. 『オールナイトニッポン Radio Days Sweet Hits』のアルバム・ノーツ ユニバーサルミュージック. 「ビタースウィート・サンバ」と「レモン・ツリー」は同一アルバム内、A面の4曲目と5曲目• 、2017年8月20日• 2019年8月19日閲覧。 1973年12月30日放送の『』のオープニングより。 しかし、土曜2部の『』や『』では、第1部と同じくオープニングに「ビタースウィート・サンバ」を流して番組を始めており、例外も存在している。 2014年12月19日放送「オールナイトニッポンGOLD 忘れられぬミュージックスペシャル」にて吉田尚記が発言• オリコンスタイル. 2017年1月3日. 2017年1月4日閲覧。 2017年1月8日閲覧。 Narinari. com. 2017年1月3日. 2017年1月3日閲覧。 この企画に反感を持っていた電気グルーヴだけ参加していない(CDのクレジットと寄せ書きには電気グルーヴの名も入っている)。 出典・1973年6月と7月の東奥日報・RABラジオ欄から(五所川原市立図書館にて閲覧)。 ただし、1970年代後半から1983年3月31日までネットしていた事がある。 その後にネット再開した。 1970年10月8日 信濃毎日新聞 ラジオ欄• 2013年3月まではがラジオ放送免許を持っていたが、2013年4月1日をもって、に分割譲渡・免許承継され、ラジオ単営放送局のCBCラジオとして再出発した。 中部日本放送 編「CBC技術報告会」第55回、中部日本放送、2012年3月• 2017年4月まで土曜日はRを27時台のみネット。 2003年3月までは27時から29時までネット。 2009年4月から2010年3月までは平日にRを28時までネットしていた• なお、同様にJRNの25時・26時台の番組もネットされていない• 2019年10月現在は、金曜を除いて文化放送の裏番組『』を全編ネット• 現在の運営会社であるはニッポン放送が筆頭株主という資本的繋がりがある。 ,BARKS,2014年3月18日• 月〜木は「ZERO」は4:30で終わるが、そのあとの番組である『』が同じような構成にしている。 参考文献 [ ]• 夜明けの紙風船(ペップ出版、1975年刊行)• 夜明けの紙風船 パート2(ペップ出版、1977年刊行)• オールナイトニッポン大百科(、1997年刊行)- オールナイトニッポン30周年記念。 『深夜放送がボクらの先生だった』(、2008年刊行)• 関連の深い項目だけに絞ってください。 必要ならばとして独立させることも検討してください。 ( 2020年5月)• 放送枠 [ ]• (1997年10月 - 1998年3月)• (1999年 - 2003年)• (1999年 - 2003年)• (1999年 - 2003年)• (1998年 - 1999年、2003年 - 2018年)• (1998年、2003年 - 2018年)• (2003年 - 2004年)• ラジオ番組 [ ]• (全国ネットは2002年 - 2004年)• (2003年 - 2009年)• (2006年 - 2007年)• (2002年 - 2004年)• (1994年 - 1998年、2003年 - 2004年)• (2003年)• (2007年 - 2008年)• (2007年 - 2009年)• (2008年)• (2009年 - 2010年)• - オールナイトニッポン45周年記念特別番組 テレビ番組 [ ]• (2017年-) - ので放送しているテレビ番組 企画・イベント [ ]• - 毎年・日曜深夜(月曜未明)以外の12月24日(12月25日未明)に放送• (2010年 - 2011年)- 1960年代末期から1980年代初期まで当番組の裏番組として放送の『セイ! ヤング』(文化放送)とタッグを組んだ番組。 放送は、土曜日の20時30分-21時30分で、21時まで文化放送で放送して、時報の後21時からニッポン放送で放送するというリレー放送である。 サービス [ ]• - 携帯電話専用ウェブサイトとレコチョクで配信されているダウンロード販売ラジオ番組• 外部リンク [ ]• 公式サイト• (オールナイトニッポン・ニッポン放送夜の番組ページ)• allnightnippon1967 -• 非公式サイト•
次のこの記事には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 はなどを用いてください。 ( 2013年2月)• 的な記述になっています。 ( 2013年2月)• 事項が 過剰に含まれているおそれがあり、。 ( 2013年2月) オールナイトニッポン 愛称 オールナイト、ANN、1部 ジャンル 放送方式 (の場合あり) 放送期間 - ( - の間、など) 放送時間 火 - 日曜 1:00 - 3:00(月 - 土曜 25:00 - 27:00)(120分) 放送局 ネットワーク 他(詳細は) パーソナリティ テーマ曲 「」 と ティファナ・ブラス 公式サイト 特記事項: 1998年3月まで、広義の放送時間は25:00 - 29:00(240分)であり、その中で25:00 - 27:00を「第1部」、27:00 - 29:00を「第2部」(現:『』)として放送。 各曜日の番組内容については各記事を参照。 『 オールナイトニッポン』( All Night-NIPPON)は、・をキー局として日本全国で放送されているラジオのである。 通称「」、「 」。 ここでは現在の放送枠である25:00 - 27:00の内容のほか、「オールナイトニッポン」をタイトル内に含む番組全体の歴史などについても記述する。 詳細については枠・番組の記事をそれぞれ参照のこと。 概要 [ ] の番組開始以来ののであり、 ライバルであるの『』・の『』と並び"深夜放送御三家"ないしは"三大深夜放送"と呼ばれ、あるいはの『』を加え、"深夜放送四天王"ないしは"四大深夜放送"と呼ばれた。 [ ]2019年10月現在ニッポン放送制作番組の中で、放送期間は『』に次ぐ第2位となっている。 詳しくは「」を参照。 現在は、旧1部(25:00 - 27:00)を『オールナイトニッポン』、旧2部(27:00 - 29:00)を『オールナイトニッポン0 ZERO 』と称している。 現在放送中の番組枠一覧 [ ] 2020年度 プロ野球ナイターイン(2020年4月 - ) 放送時間 月曜日 - 木曜日 金曜日 土曜日 日曜日 月一回 22:00 - 23:30 オールナイトニッポン MUSIC10 オールナイトニッポン GOLD 別番組 別番組 23:30 - 24:00 オールナイトニッポン サタデースペシャル 24:00 - 25:00 別番組 25:00 - 25:30 オールナイトニッポン 25:30 - 27:00 放送休止 27:00 - 28:30 オールナイトニッポン0 ZERO オールナイトニッポン0 ZERO オールナイトニッポン0 ZERO 高嶋ひでたけの オールナイトニッポン 月イチ 28:30 - 29:00 別番組 別番組 放送時間 [ ] 現在放送中の番組枠放送時間一覧 2020年度 2020年4月~ 番組名 月 - 木 金曜日 土曜日 日曜日 月一回 MUSIC10 22:00 - 24:00 (120分) (放送なし) GOLD (放送なし) 22:00 - 24:00 (120分) (放送なし) オールナイトニッポン 25:00 - 27:00 (120分) (放送なし) 0(ZERO) 27:00 - 28:30 (90分) 27:00 - 29:00 (120分) 27:00 - 28:30 (90分) サタデースペシャル (放送なし) 23:30 - 25:00 (90分) 月イチ (放送なし) 27:00 - 29:00 (120分) ネット詳細は参照 オールナイトニッポン• 月曜 - 土曜 25:00 - 27:00(36局ネット)• 月曜 - 木曜 27:00 - 28:30、金曜 27:00 - 29:00(12局ネット、とは28:00に飛び降り)• 土曜 27:00 - 29:00(19局ネット、、、、、西日本放送、は28:00、ニッポン放送は28:30に飛び降り)• 月曜 - 木曜 22:00 - 24:00(20局ネット(東北放送は月曜のみ自社制作番組放送のため非ネット)。 月曜はが23:49、火曜 - 木曜は北陸放送が23:49、東北放送が23:50飛び降り)• 金曜 22:00 - 24:00(18局ネット、は23:50に飛び降り、IBC岩手放送は23:00に飛び乗り)• 土曜 23:30 - 25:00(34局ネット)• 別番組 別番組 23:00 - 24:00 llnightnippon. com 24:00 - 25:00 別番組 25:00 - 27:00 llnightnippon. com 別番組 27:00 - 28:30 allnightnippon-r allnightnippon-r 28:30 - 29:00 別番組 2000年04月 - 2001年09月 22:00 - 23:30 allnightnippon SUPER! 別番組 23:30 - 24:00 allnightnippon Saturday Special allnightnippon Sunday Special 24:00 - 25:00 別番組 25:00 - 27:00 llnightnippon. com 別番組 27:00 - 28:30 allnightnippon-r allnightnippon-r 28:30 - 29:00 別番組 2001年10月 - 2002年09月 22:00 - 23:00 allnightnippon SUPER! 別番組 別番組 23:00 - 23:30 allnightnippon Sunday SUPER! 23:30 - 24:00 allnightnippon Saturday Special 24:00 - 25:00 別番組 24:30 - 25:00 llnightnippon Sunday. com 25:00 - 25:30 llnightnippon. com 25:30 - 27:00 別番組 27:00 - 28:30 allnightnippon-r allnightnippon-r 28:30 - 29:00 別番組 2002年10月 - 2003年03月 22:00 - 23:00 allnightnippon SUPER! allnightnippon SUPER FRIDAY! 別番組 別番組 23:00 - 23:30 allnightnippon Sunday SUPER! 23:30 - 24:00 allnightnippon Saturday Special 24:00 - 24:00 別番組 24:30 - 25:00 llnightnippon Sunday. com 25:00 - 25:30 llnightnippon. その状況に対し、ニッポン放送は1964年4月より「」編成を導入し編成方針を抜本的に見直していたが、その動きが深夜に波及したことにある。 放送が開始された後半は、いわゆるが大学生生活を送っていた時代であり、『オールナイトニッポン』はそのような大学生、また受験勉強に明け暮れている高校生・中学生にターゲットを絞り、それまでテレビやラジオで流れることはほとんどなかったや、など海外のミュージックからなど日本のまで、若者世代の最先端を走る音楽をふんだんに流す編成とした。 前身となる番組は、ニッポン放送にてから放送していた『』(DJ:)となる。 子会社の「株式会社深夜放送」 が制作していたこの番組は、糸居が選曲・ターンテーブルの操作といった通常はスタッフが行う作業を一人でこなすというスタイルであり、それが局の省力化した番組を作れないかという思惑と合致していたことから、番組を発展させる形で『オールナイトニッポン』は放送を開始した。 に、が、をDJとして始めた『』が「深夜放送の原型」としてみていたのがだったが、亀淵はのちのインタビューで「土居さんは今の放送では当たり前のように使われている擬音語や擬声語をふんだんに、しかも上手に使って、それまでのアナウンサーのテンポとは全く違う、まるで機関銃のような早口で若者たちに語りかけたのです。 ラジオ放送という概念を覆したという意味で、新しい時代の到来を予感させました」と述べている。 1967年10月2日深夜から放送開始。 放送時間は月曜日 - 土曜日25:00 - 29:00(翌日未明1:00 - 5:00)。 当初のDJ(「」と呼ぶようになったのは1969年頃から)はニッポン放送アナウンサーの糸居五郎(月曜日)、(火曜日)、(水曜日)、(木曜日)、(金曜日)、(土曜日。 アナウンサーではなかったが、プロデューサー兼DJとしてニッポン放送の番組に出演していた)。 初回放送のDJは、前身番組『オールナイトジョッキー』のDJだった糸居が務めた。 本番組で最初にかかった曲となる、初回の第1曲目はの「あなただけを」だった。 当時編成局長だったや当時編成部長だったは、番組を立ち上げるに当たって、次のような4つの大原則を立てている。 外部のタレントではなく、アナウンサーやディレクターといったニッポン放送内部の人間を起用する• スポンサーを付けない• 提供スポンサーから番組内容に口出しされることを嫌ったため、番組開始後1年間はスポンサーを付けなかった。 のちにスポンサーを付ける際にも、「協賛スポンサー」という形で、番組内容にはタッチしないことを条件としており、パーソナリティがスポンサー名を読み上げる 際、「以上各社の 協賛で」と付け加えるのはこの原則に由来する。 この原則は現在も守られているが、や『SUPER!! 』では「以上各社の 提供で」と読み上げていたこともある。 これについて、亀淵はのちのインタビューで「番組の自由度を保持するためにはスポンサーに縛られたくはない。 とはいっても、無名の番組は安い値段でしか売れない。 人気があれば高く売れる。 番組を安売りするぐらいだったら無理やりスポンサーを付ける必要はない。 良い番組を作って、良い放送をすれば、黙っていてもカロリーの高いスポンサーが付いてくるはずだ。 」と述べている。 協賛の原則は守っているものの、1988年に始まった『』以降、土曜 のみのスポンサー起用がはじまることになる。 狭いスタジオを使う、ゲストは呼ばない• 狭いスタジオに閉じこめ孤独感を味わわせることで、聴取者と一対一で喋っているような感覚にさせる。 同様にゲストを呼ぶことも禁止した。 生放送時のスタッフもディレクターのみと最小限の人数であった。 はやらない• 『オールナイトニッポン』開始前は、深夜帯はお色気番組全盛だった。 高崎も懇意にしていたから「これではのが売りにくい」と苦言を呈されていたという。 40周年となった2007年10月1日、『』に特別出演した斉藤安弘は、「ニッポン放送の品位に関わることであって、それで他局に負けてはならないということで、下ネタはやらなかった。 そのため、相手を置かずに一人でやった」と語った。 その一方、「下ネタはやらない代わりに、自分は26時になると、トイレの話を専門にしていた」とも言った。 この4つの大原則について、亀淵昭信はのちのインタビューで「受験戦争と若者。 深夜帯にはチャンスがあると思っていたでしょう。 すべては石田イズムでもいうのでしょうか、石田常務と彼の右腕の羽佐間編成局長には、ラジオの将来的ビジョンがありました。 それが深夜帯の番組開発に繋がっていくわけです。 企画段階で、若者、特に中学生や高校生、浪人生、大学生を対象にすることが明確に打ち出されました。 そして、若者は出演者の名前じゃない、DJもパーソナリティの知名度じゃないんだ、何を聞かせてくれるかなんだ、ということを肝に銘じだのです。 それが石田や羽佐間の掲げた4か条です」と述べている。 また、亀淵昭信によれば「孤独な寂しがり屋の若い人々に、若者の広場をつくろう」というのが、オールナイトニッポンの番組開始当初のコンセプトだったという。 具体的なコンセプトについて、ニッポン放送新入社員で広報部員だった中川公夫は、「基本は音楽番組の発想、何をしゃべるかについては自分で考える。 リスナーからのハガキを使ってもいいし、自分の身辺で起こったことでもいい。 困ったら曲をかければいいというイージーな部分をありましたね」と話している。 番組としてもこれといったコーナーも設けられず、聴取者からのお便り紹介とパーソナリティ自ら選曲した音楽をひたすら流すというシンプルな番組であった。 そのような初期の番組におけるアイデンティティとして、番組の冒頭の「 君が踊り僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる。 太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を、フレッシュな夜 をリードする オールナイトニッポン」というフレーズがあげられる。 このフレーズは80年代まで笑福亭鶴光が大きくアレンジして使っていたほか、初代DJの斉藤安弘がパーソナリティを務める2003年 - 2009年にかけて放送された『』、国際線の機内プログラム、SKY AUDIOの『オールナイトニッポンClassics』の中で聞くことができた。 この口上は、当時の番組構成作家、山之井慎によるものである。 先述の若者をターゲットとした番組は好評を博す。 それを表すエピソードとして、1967年9月に解散コンサートを行ったアマチュアグループ・が卒業記念に自主制作したアルバムの楽曲『帰ってきたヨッパライ』を、がの深夜番組で評判になったのを聞きつけ、1967年10月13日に、ラジオ関西の関係者から、この曲の原盤を手に入れて、1967年10月14日、すぐに、オールナイトニッポンでオンエアした所、リスナーからの反響が大きく、一晩のうちに同じ曲を何回かにわたって放送するほどとなり、それを切っ掛けに全国圏のブームとなり2か月で180万枚の売り上げを記録したことが挙げられる。 ちなみに、この曲をTBSラジオのでも放送しようと検討したものの、『パック』の提供スポンサーである の存在によって、放送することができなかったという。 こういった昼間のラジオ番組では決してかけられないようなマイナーな曲や時に反体制的 な曲、海外からの新しい音楽を含む深夜番組ならではの選曲が若者を刺激した。 「年上のお兄さん」的存在だった気取らないアナウンサーパーソナリティ達の人柄に惹かれて、各パーソナリティ宛には毎週2万枚ものリクエストやお便りが届き、人知れずひっそりと始まった『オールナイトニッポン』は、1年もせず当時の若者層に絶大的な支持を受けるニッポン放送の看板番組に成長、TBS『』・文化放送『』と並んで深夜放送そのものが『深夜の解放区』として一種の社会現象となるに至る。 )を採用。 また、1968年9月には会報「Viva young」も発行し、発行した5万部は常に完売(ラジオ番組に印刷物というメディアを持ち込んだのも、オールナイトニッポンが最初)。 )は60年代からにかけての『オールナイトニッポン』の合言葉となる。 、1月から木曜日担当にが、10月から土曜日担当に亀渕昭信が参入する。 特に、亀渕はアナウンサー出身ではなかったが、月曜未明(日曜深夜)に放送されていた「電話リクエスト」のDJで人気が出て、オールナイトニッポンに起用されることとなった。 その亀淵はディレクター出身のパーソナリティとしてマイクの前に座って、それを逆手にスタジオの中を跳んだり走り回ったり、ある日の放送では歌手のの自宅から実況中継を行い、トイレに潜入した時に水を流す音まで放送してしまう など奇抜かつ斬新なDJスタイルをすることで聴取者から注目が集まり、一気に『オールナイトニッポン』の看板パーソナリティとなると共に、深夜放送に新しい息吹を送り込んだ。 同年7月には、同じパーソナリティ仲間のとともに「 」としてCBS・ソニーレコード(現:)からザ・フォーク・クルセダーズが別の名義で使っていたザ・ズートルビーの同名の曲である「」という曲のレコードを出し、20万枚を売り上げるスマッシュヒットとなった。 この歌は、ベートーベンや、メンデルスゾーンまで取り込んでしまう自在な遊び心と反骨精神が「帰ってきたヨッパライ」に通じていた。 1970年6月30日深夜(7月1日未明)より、 全国ネットを開始。 この日の では、 「STVラジオ」「静岡放送」「ラジオ大阪」の3局をネット局として、協賛スポンサー各社のクレジット読み上げを聞くことができる。 また、この日は全国ネット開始の記念放送として、当時の月曜から土曜までのパーソナリティが勢揃いした(火曜深夜・斉藤安弘の他、月曜・糸居五郎、水曜・高岡尞一郎、木曜・天井邦夫、金曜・今仁哲夫、土曜・亀渕昭信)。 更に、1971年には今仁哲夫と(その後ニッポン放送副社長や顧問を歴任し、2009年12月3日逝去 )が日本全国を縦断してリスナーと交流するという画期的な企画「 ビバくりげ」も行われる。 この企画は、もともと学生時代から車好きが高じた天井が、今仁と共に当時発売されたばかりのに乗って全国各地でリスナーと握手をするというもので、いわば天井の公私混同である深夜放送ならではの企画だった。 斎藤安弘の記憶では、3ヶ月で64万1780人のリスナーが2人と出会ったという。 このクーペ9は、ホンダから提供されたもので、あっという間にリスナーからの書き込みによって、真っ黒になっていったとされる。 こうして、最初は関東ローカルであり、協賛スポンサーもニッポン放送サービス(現:)一社だけだった番組も、夜間はラジオの電波が広範囲に届くことから関東のであったにもかかわらず日本全国からはがきが届き、それを受けてネット局数が順次増加していき、複数の協賛スポンサーが付くようになった。 この時代が『オールナイトニッポン』の第1次黄金期である。 これについて、亀淵はのちのインタビューで「実際、開始1年経って番組に力がついてくると、日本を代表するような一流企業が続々協賛スポンサーになってくれました」と述べている。 また同年、50歳を迎えた糸居五郎が1月17日13時30分 - 19日15時30分にかけて放送を続けるといった過酷な企画『』も行われ、無事完走している。 深夜放送ブームは70年代に入っても続いていたが、若者層の嗜好の変化や時代の変化(学生運動世代からへの移行など)にあわせ、ニッポン放送も新たな放送スタイルを追求し始めることになる。 そのため、1972年6月末をもって、亀淵昭信、今仁哲夫、糸居五郎を除くパーソナリティが降板する。 7月からの1年間は亀渕昭信が『 ビバカメショー』と称して、毎日25:00 - 27:00を担当した(9月までは月曜日担当の糸居五郎が継続していたため、月曜を除く毎日25:00 - 27:00。 10月から月曜を含む毎日25:00 - 27:00となった)。 次いで毎日27:00 - 29:00までは最初は今仁哲夫が担当した『 ビバテツショー』が、1月からは [ ]が担当する『 ビバケンショー』が放送された。 この時に初めて27時で番組を分割する2部制の概念が生まれる。 この時代はオールナイトニッポンにとっての最初の停滞期となっており、亀渕は「僕一人で週6日番組を担当するのはとてもつらかった。 『オールナイトニッポン』だけじゃなくて、深夜放送全体が駄目になってきていたのね。 それじゃ深夜放送になってないんだよね。 もう一度変えなきゃいけないと、作り手もしゃべり手も思ってはいたんだが、一度出来上がったものはなかなか変えにくい。 ネット局も増えて全員がニッポン放送のアナウンサーというわけにもいかなくなって。 でも局アナが基本でしたから、じゃあお前がやれって。 形を変えるまでの踊り場みたいな感じかな。 それまでは音楽担当の糸居さん、今仁さんみたいな面白いことをやる人の中間みたいな放送をやってたんだけど、『ビバカメショー』になってからはもっと音楽に徹しました。 の詞を訳して特集したり、ビートルズの海賊版を流したり、僕自身は楽しかった。 テーマの『ビタースイートサンバ』も代えたんだよ。 というモータウンのファンクギタリストがいて、頼んで作ってもらったり(参照)。 残念ながらレーティング(聴取率)はあんまりよくなかった。 とにかく次に大きくジャンプするためには一度縮こまって昔のイメージを壊し、まっさらにするのが僕のやること。 今度は制作者としてまったく新しい『オールナイトニッポン』を作ろうと思ったんです」と、当時の苦悩を語っている。 一方で1973年にディレクターになった中川も「転機といえば『ビバカメショー』『ビバテツショー』が始まった段階でステーションのアナウンサーがすっかりやめてしまったときでしょうね」と、転機だったことを明かす。 さらに「その後にタレントが入るようになるわけで、番組自体が大きくなって、もっとビックな人でも入ってもらえるようなフィールドができたんです」と1973年のタレントパーソナリティ起用の本音を明かす。 こうして、1973年から亀渕昭信は、それまでのパーソナリティから総合プロデューサー兼ディレクターに転身して、オールナイトニッポンの制作に取り組むことになる。 そして、1973年7月からはタレントや芸人・歌手が従来通り4時間にわたってパーソナリティを担当するという決定的な転機を迎える。 このタレントパーソナリティ第1期の布陣は(月曜日)、(火曜日)、(水曜日)、覆面パーソナリティである(金曜日)、(土曜日)である(木曜日は斉藤安弘が一旦復活した。 また、カルメンは オールナイト史上初の女性パーソナリティである)。 いわば、第二次『オールナイトニッポン』の始まりでもあり、現在のオールナイトニッポンの原型が完成した。 しかし、岸部シローがわずか3ヶ月で降板したのをはじめ、あのねのねを除く各パーソナリティは翌夏までに全て降板し、その後約3年間はパーソナリティが根付かずに短期間で入れ替わる不安定な時代が続く。 その原因として、体力的にも話力的にも4時間のロングラン放送に耐えられないという点があった事から、1974年7月からは27時を境にパーソナリティを入れ換える 2部制が本格的に導入される。 2部制の導入でパーソナリティの数が足りなくなったことから、1970年代半ばにはタレントや歌手だけでなく一般オーディションの形(オールナイトニッポン主催・「全国DJコンテスト」)でも無名の新人発掘に力を注いでいる。 また、番組をネットしていた地方ローカル局のアナウンサーなどにも一時期番組を持たせたこともあった(『』グランプリのなど)。 一方、タレントパーソナリティ選考に当たっては基本的に番組スタッフが前もってオーディションをした上で採用の合否を決定していったのだが、あくまでラジオ番組をやっていけるだけの話力や実力があるのなら職種や音楽知識の有無に囚われることなくパーソナリティに採用するようになったため、やなど本来の『オールナイトニッポン』の流れとは明らかに外れた異色のパーソナリティも登場している。 この時点で番組当初のコンセプト(ニッポン放送アナウンサー及び関係者による音楽主体の若者向け4時間枠深夜番組)は失われた が、それでも「若者向け」というコンセプトと、主に歌手が番組を持ったことで「音楽番組」としての体裁はかろうじて保たれた格好となっている。 一方、一旦降板していたDJ・糸居五郎はに金曜2部、さらに水曜を経て10月に古巣である月曜(2部)で復活しており、音楽主体からトーク主体に変わった『オールナイトニッポン』において、唯一開始当初の雰囲気とスピリッツを醸し出していた。 は糸居が1981年に定年退職するまで続いた。 迷走状態が続いていた1970年代中盤からにかけて最初に頭角を現したのがや、、、などの系・歌手の担当番組であった。 当時大人気のあのねのねは番組中、が当時が担当していた『』の生放送中にのスタジオに電話をかけ、も『セイ! ヤング』の生放送中のスタジオに乗り込み電話を通して「」と番組宣伝、番組ジャックを敢行しファンの人気をさらに広めた。 番組後半に一般のファンにスタジオを公開して「七不思議のコーナー」などいろんな企画を進行していく「あのねのね・ハッピースタジオ」も人気を博した。 は鶴光が同じ話題として取り上げる「論争」や「NHKつぎはぎニュース」などタモリのアングラなキャラクターを発揮した番組内容で話題となる。 さらに当時全盛であったや系シンガーの番組に火がつき、・・・・・自切俳人〔ジキルハイド〕()・・・・などそうそうたる顔ぶれが入れ替わりながらパーソナリティを務めていった。 これに加え、従来からの流れであるやなどのLFアナウンサーも番組を支え続けた。 そして、(- 月曜1部)や(- 木曜1部)が登場した1980年代初頭には第2期の黄金時代を迎えることになる。 また以降には『』、『』、『』、『』などの映画劇場公開にあわせて、ラジオドラマと出演者やスタッフのトークによる4時間のスペシャルが放送された。 のちに文化放送が注力するようになる、 のはしりと言える。 現在のオールナイトニッポンの柱となっている 「トーク主体」・「コーナー主体」・「ネタはがき主体」の番組構成は、この時代に確立したシステムであり、が幅を利かせるようになったのもこの頃である。 このようにオールナイトニッポンが番組内容やDJを大きく変えたことで番組全体に見切りをつけた聴取者もかなり多かったが、逆にそれまでとは違う「パーソナリティそのものの魅力」に惹かれた新規のリスナーを大量に獲得することになり、結果として番組名と放送時間帯、テーマソングだけはそのままに、番組を「作る人」も「聴く人」も、番組の「コンセプト」でさえも時代とともに移り変わっていくという流動的なスタイルが形成されていくことになる。 このスタイルゆえに時代の変化に対応できなかった『パックインミュージック』『セイ! ヤング』のオリジナル放送が1980年代初めに打ち切られる中で『オールナイトニッポン』だけが時代の波にうまく乗りながら、深夜放送の代名詞として唯一生き残り続ける。 1973年に第1期黄金期の人気パーソナリティから番組製作・編成部門に戻り、裏方として新時代の『オールナイトニッポン』を模索し続けた亀渕昭信の努力が実を結んだ格好となった。 その亀淵は、「僕が番組のチーフプロデューサー時代に、タレント起用が始まった。 でも、社員アナウンサー時代の成功と失敗があればこそ、さまざまなことを学ぶことができた」と述べている。 に足掛け12年にわたった鶴光のオールナイトが終了し、その後もABブラザーズやが土曜のお笑い枠を引き継いだが(ABブラザーズ時代の4月より土曜も2部制に移行)、からはニューミュージックの大御所・が土曜1部を担当しまでの長期にわたる活躍をすることになる。 には20年目突入を記念して『ALL DOGETHER NOW(オール・ドゲザー・ナウ)』という特別番組が放送され、、、、、、の当時の1部パーソナリティ6組が一堂に会した(公式には開催のでの「」の企画とされ、DOGETHERは「TOGETHER」と「土下座」の掛け言葉とされる)。 1980年代半ばから90年代初頭にかけてはが沸き起こり、オールナイトのパーソナリティ人選にもその影響が次第に現れてくる。 1部では・・・などが、2部では()・()・()・・などが活躍し、ブームの一端を担うことになる。 続く1990年代前半も、()、()、、と、などの有名どころから、コアなファンが多いやまで幅広い層のパーソナリティを輩出した。 お笑い系パーソナリティは1985年に火曜1部でが登場、さらにには金曜1部でが登場する。 落語家の弟子であったが水曜や金曜の2部で活躍し一気にラジオスターとしての頭角を見せたのもこの頃である。 80年代を駆け抜けたは途中代役を立てながらまで番組を継続したが、その後はのなども担当。 にが、そしてには、2014年9月までの長期に渡りパーソナリティを務めたが登場する(2014年10月2日から2020年5月7日はが単独で担当)し、2020年5月14日から第2期として放送開始となった。 また、この時代には70年代の迷走期とは違った意味で、別業種パーソナリティを投入した時代でもある。 トップアイドルだったが水曜1部に登場したのは1986年。 その後も、女性アイドル担当番組は・など散発的に見受けられる様になった。 他に、劇団『』を主宰していた、雑誌『』編集者の、漫画家など。 後に作家となったも、この時代にのボーカル・「辻 仁成(つじ じんせい)」としてパーソナリティを務めている。 (1992年1月から1994年6月、同年11月から1998年3月、及び2000年4月から2015年3月まで担当)が、当時若手イケメン俳優・歌手というポジションで認知されていた彼の「素」を本番組で公に広く知らしめた。 ただ、この頃になるとオーディションでパーソナリティを発掘し番組で育てていくことよりも、知名度ありきでパーソナリティに採用することが増えてきた。 10月には、25年目突入を記念して、中島みゆき、タモリ、ビートたけし、笑福亭鶴光の各オールナイトニッポンが、一夜限りの復活放送を行った。 また、10月から3月まで、番組放送開始30周年を記念して、過去のパーソナリティが担当する『』が、19:00 - 21:00に放送されている。 しかし、1990年代中頃になると、テレビの深夜番組の充実化や、、、の普及等によって、若年層を中心としたが顕著になり、深夜ラジオ全体の長期低落傾向が目に見えて現れて来る。 さらに同じラジオ業界内でも80年代末以降の民放FM局急増、『』()『』()など、民放FM局が深夜帯にAMラジオ的なネタ・トークを中心に据えた番組を制作する様になったことから聴取者全体のパイが分散し、一部の地方局でのCM収入の減少による制作費減少等、AMラジオの深夜放送に対する逆風は強くなっていった。 番組に寄せられるはがきやFAXの数も激減し(1997年当時、宛てに送られてくるはがき・FAXの数はトータルで週3000枚程度であり、60 - 70年代の人気番組の7分の1程度にまで落ち込んでいた)、オールナイトニッポンだけでなく、AMラジオの若者向け深夜放送自体の将来に暗雲が垂れ込めていた。 その様な中で、ニッポン放送はパソコンや携帯電話、メールなど新しいツールに目をつけ、それらのIT機器とAMラジオの関係を融合させるべく『オールナイトニッポン』を含めた夜帯の大改編を行うことになる。 春の改編では、2部枠(27:00 - 29:00)が R(リラックスの略)がついた『』に改称。 金曜深夜と土曜深夜を除き28:30終了と30分短縮された。 この時期にはでのスタジオ同時生中継が試験的に行われ、この試みは後に「」に生かされた。 2000年に土曜深夜の23:30 - 25:00の90分枠に『 』(『』の後継番組)を立ち上げ、1998年に降板していたを再起用した。 com枠である25:00 - 27:00は4年ぶりにタイトルが『オールナイトニッポン』に、『allnightnippon-r』も『オールナイトニッポンR』と1998年から1年間使用していたタイトルに戻った。 若者層を中心としたやテレビの終夜放送が進むなかで、ラジオ業界はかつて1960年代 - 70年代にラジオを聴いていた団塊の世代など高年齢者を対象とした番組を多数制作するようになる。 オールナイトニッポンも『』との競争が激化し若者層聴取が先細りする中で、2003年秋の改編では深夜放送に参入したの『』の好調に影響を受け、若者向けであった『オールナイトニッポンR』の月曜から木曜を打ち切り、代わって中高年層を強く意識した『 オールナイトニッポンエバーグリーン』を放送開始、パーソナリティは初代DJの1人である斉藤安弘を再起用した。 番組は6年続き、斉藤が2009年春改編にて定年退職で降板した後も、1970年代後半にオールナイトを担当したを起用し『』が放送された。 また、2009年11月30日からは22時〜23時台の夜ワイド枠において『 』を開始。 深夜枠に放送される本来のオールナイトニッポンよりはやや上の年齢層をターゲットとしたパーソナリティが起用されている。 2006年7月には『オールナイトニッポン』の一部番組でを開始。 詳細は「」を参照。 2007年、40周年を記念して週6日放送の生番組では最長であることから、に申請した。 同日から、『オールナイトニッポンエバーグリーン』は、ニッポン放送では28:30(翌日早朝4:30)で打ち切られるようになった。 一方、2008年1月29日に放送した特別番組『のオールナイトニッポン』での倖田の発言が問題となる。 番組は事前収録であり、チェック体制が機能しなかったとして、担当プロデューサーの謝罪(『ナインティナインのオールナイトニッポン』・2月8日放送)や制作担当社員のほぼ半数を入れ替える社内処分が行われた。 4月より携帯端末向けとして新たにスタートする「」のサービスの目玉の一つとして『』(月-金曜 27:00 - 29:00)の開始、並びにNOTTVによる」が開始された。 この『オールナイトニッポン0 ZERO 』は2003年秋に『オールナイトニッポンR』の月曜 - 木曜が終了して以来8年半ぶりの第2部の位置づけ的な番組の復活となった。 この枠のパーソナリティオーディションが2012年1月よりを活用した一般公募の形式でプロ・アマ問わず実施され、その結果、1609組の応募が集まり、オールナイトニッポンのスタッフによる動画審査の後、それを通過した方による2次審査のオールナイトニッポンのスタッフによる面接を行った結果、2012年3月21日に5組のパーソナリティが発表・選出された。 特に、19年ぶりに一般人パーソナリティとして選ばれたと西岡隼基が2012年4月から2013年3月の1年間にわたり起用された。 これについて、『オールナイトニッポン0 ZERO 』の制作統括責任者のは「そもそもオールナイトニッポンという番組は、新しい才能をリスナーに紹介する場だったからです。 「新しい才能を発掘していくのがオールナイトニッポンだ」という想いが私自身の中にあったのです」と語っていて 、1990年代から2000年代にかけて見られた知名度ありきのパーソナリティを起用するという方針から、かつて、1970年代半ばに見られた新人パーソナリティの発掘・育成を図るという方針に転換している事を窺わせている。 また、を利用した投稿を用いたことについて松岡は「とにかく面白いことができる人であれば何人でもかまわない。 とにかく気軽に応募して欲しいということ。 これだけインターネットが普及している時代なのでやはり、動画投稿サイトを使うのが良いだろうという結論に達しました」とも語っている。 特に、2014年4月から2015年3月に放送された『』の場合、27時から29時の放送時間帯にもかかわらず、有楽町にあるニッポン放送本社の出入り口には多くの女性ファンが出待ちする中で、NOTTVにチャンネルを合わせて、この番組を見ていたという。 2013年2月22日 22:00 - 2月24日 22:00は『』を放送。 同番組は24日 9:00 - 12:00「2013」の生中継などを挟みながら45時間の長時間生放送(一部録音)となった。 2013年4月の改編期には、NOTTVが2012年から始まった『オールナイトニッポン0 ZERO 』の映像配信に続いて、火曜日()と水曜日()のオールナイトニッポン1部でも映像付きの同時生放送が1年間にわたって行われた。 また、2014年4月の改編期には、金曜日から水曜日に枠が移動となった「」をNOTTVで映像付きの同時生放送を行った。 2015年2月2日からニッポン放送とが共同で企画制作するインターネット配信番組『』(月-金曜19時から10分から15分程度の動画を配信)がを用いて配信。 2016年6月末をもって、『オールナイトニッポン0 ZERO 』を同時放送していたNOTTVの放送が終了になったことに伴い 、この『オールナイトニッポン0 ZERO 』の動画配信は2016年3月28日の放送分からに受け継がれた。 『AKB48のオールナイトニッポン』は、『オールナイトニッポン0 ZERO 』のLINE LIVE移行後も引き続き放送が続けられたが、NOTTV閉局当日の同年6月30日(6月29日深夜)をもって同時放送を終了し、その後の空白期間を経て、同年8月11日(10日深夜。 当日はがパーソナリティ。 )からでの映像配信に移行した。 2017年10月にオールナイトニッポンが放送開始50年を迎えることを記念した企画の一環として、「 オールナイトニッポン50周年記念ロゴ・制作プロジェクト」が発足し、2016年11月10日から2016年12月15日23時59分までの期間を設け、2017年10月2日にオールナイトニッポンが放送開始して50周年を記念するロゴをプロ・アマ問わず一般公募という形でニッポン放送主催によって行い 、その結果、応募総数が1081案となり、2017年2月4日に、最終選考結果を『ニッポン放送 オールナイトニッポン50周年 ALL LIVE NIPPON VOL. 5』のステージにて発表すると同時に、オールナイトニッポンの放送開始50周年記念ロゴが正式に決定した。 応募総数が1081案の中から、オールナイトニッポン50周年記念ロゴに選ばれたのは大分県に住むグラフィックデザイナーがデザインしたロゴで、「ヘッドフォンをつけて、ニヤニヤしながらこっそり聴いているリスナー」だと自らデザインした記念ロゴのイメージについて説明した。 また、別のインタビューでは「自分がラジオを聴いていた思いを形にできないかって思って、リスナーさんが夜な夜なイヤホンを付けて、こっそり笑って聴いているっていう」イメージで制作したと説明した上で、「1人でニヤニヤ笑いながら、でも時間だけは共有できている。 いろいろなパーソナリティのファンの方がいると思いますが、その中で、みんなで時間共有してるというのは、1つの繋がり、絆みたいなものですよね。 そういうものを表現しました」というふうにこのロゴを制作した意図について説明している。 2017年1月14日からはオールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、『』の復活版『』という制作のテレビの「 地元密着オトナトークバラエティ」番組として放送。 また、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、2012年以来、5年ぶりに「新たなラジオパーソナリティ発掘」を目的にした、「 オールナイトニッポン50周年・パーソナリティオーディション」をプロ・アマ問わず、行われた。 応募方法は「LINE LIVE」を用いて、自己PR動画を作り、その上で、ニッポン放送のホームページの中にある応募フォームには、動画のURLと必要事項などを書き、エントリーを完了させるという方法を取る。 2017年1月11日から2月5日23時59分の期間で応募を受け付け 、2月中旬に、映像をどのぐらい視聴したのかというその数に加え、LINE LIVEの機能の一つである評価した数を考慮したうえで、1次選考を行い、その結果を応募者に連絡し、2月下旬にオールナイトニッポン番組スタッフによる面接を行い 、3月22日にこのオーディションに応募した693組の中から新パーソナリティとしてお笑いコンビのが選ばれた。 また、惜しくも合格できなかった応募した方の中から・・EMILY()・の4組が2017年9月までに『』のパーソナリティに起用した。 2017年4月28日に、第54回(主催)の入賞作品が発表され、50年の歴史を刻んて来たオールナイトニッポンのパーソナリティとしては初めてとなる「 DJパーソナリティ賞」をが受賞した。 2017年6月3日・6月4日には『 ALL NIGHT NIPPON 50th Anniversary ブリトニー・スピアーズ -JAPAN TOUR 2017-』と題して、2002年以来の来日となるブリトニー・スピアーズの東京公演を「オールナイトニッポン」という冠を付け、オールナイトニッポン放送開始50周年記念公演として行った。 2017年7月15日には『 ありがとう! オールナイトニッポン50周年』と題して、5時から13時までのレギュラー番組において、「オールナイトニッポンにまつわる曲」を放送し、13時から17時まではパーソナリティにを迎え、「 ありがとう! オールナイトニッポン50周年クロニクル」として放送。 2017年7月31日からオールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、ニッポン放送が運営しているWebメディア「allnightnippon. com」の新しいサービスとして『』の運営を始めた。 2017年8月7日-8月12日にはオールナイトニッポン50周年企画として、「 Welcome Ariana! また、オールナイトニッポン50周年企画としての協力により「MY HOMETOWN」をテーマにしたリスナー参加のスマホムービーコンテストを春夏秋冬の4期(2017年10月から2018年9月まで)にわたって行うことになった。 2017年10月から2018年3月のいわゆるナイターオフ期には、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、過去に起用されたオールナイトニッポン歴代パーソナリティを起用した『 』を放送。 2017年11月12日は、当番組のベースにしたテレビでの特別番組『』(21:00 - 22:55。 )を放送。 過去にパーソナリティを務めた 、、 、2017年現在現役の()が出演した。 オールナイトニッポンが放送開始50周年を迎えるにあたって、2017年1月から2018年10月までの期間中、「50の企画」を行っている。 オールナイトニッポンの50周年記念企画は番組初期のパーソナリティが社員アナウンサー・ディレクターがかかわっていたことから、ニッポン放送のすべての社員から募集をかけ、150の企画案の中から「50の企画」が選ばれた。 すでに、「星野源制作による50周年記念ジングル(後述)」「ALL LIVE NIPPON Vol. 5」「リスナーの一般公募による50周年記念ロゴ制定」「50周年パーソナリティオーディション」「ブリトニー・スピアーズ JAPAN TOUR 2017」「開局記念日特番「ありがとう! オールナイトニッポン50周年クロニクル」」「Welcome Ariana! One Love Manchester with ANN」「東京ガールズコレクションにオールナイトニッポンのパーソナリティが出演」といった8つの企画を行っている。 その50周年記念企画の一つとして、スマートフォンで録音した30秒程度の「私とオールナイトニッポン」をテーマにした音声メッセージをメールで募り、その音声メッセージを作曲のBGMに乗せてスペシャルジングルとして放送する「〜あなたの声がオールナイトニッポンで流れる! 〜「私とオールナイトニッポン」リスナージングル」を実施。 また、2017年11月27日から2018年2月25日の3か月間で、リスナーの中からオールナイトニッポンを担当する放送作家を発掘する「50年に一度の天才を探せ! オールナイトニッポン放送作家オーディション」を行う。 選考方法は、それぞれの番組の対象となっているコーナーで期間中に採用されたネタの数を集計して、毎週ランキングの発表を行い、最終的に、ランキングが上位に入った方とオールナイトニッポンの番組ディレクター面接を行い、何人かを絞り込んで、2018年4月からオールナイトニッポンの番組スタッフとして採用することになっている。 また、2017年に続いて次の時代を築くパーソナリティを一般公募して2018年4月からの『オールナイトニッポン0 ZERO 』のレギュラーパーソナリティに起用することになっている「〜次の50年を担うパーソナリティは誰だ? 応募方法は「LINE LIVE」を用いて、「自分の残念な話」をテーマにした自己PR動画を作り、その上で、ニッポン放送のホームページの中にある応募フォームには、動画のURLと必要事項などを書き、エントリーを完了させるという方法を取る。 期間は2018年1月26日正午から、2018年2月11日23時59分までで、2月中旬に、1次審査を通過した方への連絡をニッポン放送から行い、2月下旬に、2次選考として、面接を行って 、3月23日に合格者がと、と女優のの2組が正式に発表され、2018年4月からの『オールナイトニッポン0 ZERO 』のレギュラーパーソナリティに起用された。 また、とが2018年4月からの『オールナイトニッポン0 ZERO 』の土曜週替わり枠で起用された。 また、「オールナイトニッポン」をモチーフに家族を題材にした「鴻上尚史書き下ろしミニドラマ「オールナイトニッポン劇場」」という60秒ラジオドラマを2018年4月2日から12週にわたって放送。 これは、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、鴻上尚史が「60秒の連続ミニドラマ」を執筆したもので、放送形式は全6話で、1話ごとに20回放送されることになっている。 そのほか、すでに明らかになっているものとして、• 50年の歴史を「知られざるエピソード」でつづる「オールナイトニッポン サイドストーリー」• オールナイトニッポンのレギュラーパーソナリティが月替わりで登場して、応募した日本全国の学校の中から、毎月抽選で10校限定で、その学校のみ流れる番組を制作し校内放送で流す「オールナイトニッポン in 校内放送」• 50年間にわたり放送してきたジングルを放送する「もう一度聴きたい! オールナイトニッポン ジングルライブラリー」• 岡村隆史がプロデュースするライブイベント「岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭 in 横浜アリーナ2017」• オールナイトニッポンのパーソナリティが集う初の2日間のライブイベント「ALL LIVE NIPPON Vol. オールナイトニッポンとセイコーのコラボレーションが実現した限定500個の「大人の腕時計」「オールナイトニッポン50周年記念限定モデル クロノグラフ腕時計」 といった企画が用意されている。 2018年2月26日から3月2日の期間中、21時から21時50分の放送枠(関東ローカル、全国ではradikoプレミアムで聴取可能)で、笑福亭鶴光をパーソナリティに迎えて、「 オールナイトニッポン50周年スペシャル〜今だから言えるアノ話」と題して、50年の歴史を誇るオールナイトニッポンが巻き起こした社会現象に加えて、当時の担当ディレクターが書いた「始末書」に至るまで、当時のパーソナリティと当時のスタッフの証言から紐解いていくものである。 2018年2月19日から25日の1週間、首都圏のJRと東京メトロの駅で、オールナイトニッポン50周年の記念広告のポスターが貼られることになった。 また、これは『 』キャンペーンの一環として、このポスターを撮影して、ツイッターやインスタグラムで「 radikoでオールナイトニッポン」というハッシュタグを付けて投稿するか、あるいは、SNSの中で、この写真を見つけて、リツイートあるいはリポストすることによって、抽選でオールナイトニッポンとタワーレコードがコラボレーションしたクリアファイルと、radikoオリジナルのブルートゥースイヤフォンをセットにして、50人にプレゼントする企画がある。 2018年3月4日に、で「オールナイトニッポン50周年記念 あの素晴しい歌声をもう一度コンサート」がおこなわれた。 2018年3月28日12時から2018年4月4日24時にかけて、放送開始50周年を迎えたオールナイトニッポンとメジャーリーグ通算50勝を達成したがコラボレーションした50着限定のスタジアムジャンパーが制作・販売されることになった。 田中将大は年末年始に「田中将大のオールナイトニッポンNY」のパーソナリティを担当していて、その関わりが深いことからこの企画が実現。 田中は「ニッポン放送では毎年、「田中将大のオールナイトニッポンNY」を放送させてもらっています。 自分にとっては正月の風物詩のような存在になっていて、楽しみの1つにもなっています。 今回、オールナイトニッポン50周年という事で、昨年達成した自分のメジャー50勝とかけて、コラボレーショングッズとしてスタジアムジャンパーを作らせて頂きました。 自分も普段から着こなしたいと思っています。 是非このジャケットを着て、スタジアムに遊びに来てください! 」と述べている。 2018年4月からは『 コラボレートニッポン』と題し、オールナイトにレギュラーの有無を問わず、毎月一組のパーソナリティが一企業とタイアップを組んでコラボレーションをする3分間のコーナーを開始。 このコーナーは全曜日を横断して2時台に行われる。 2018年4月19日(18日深夜)1時から『菅田将暉のオールナイトニッポン』の中で、オールナイトニッポン50周年スペシャルラジオドラマとして2013年4月から2016年3月までレギュラーとして放送された『』のリスナーを主人公にした小説『』を、・・・の主要キャストの出演で放送。 2018年4月24日に、ニッポン放送が「オールナイトニッポン50周年企画」の一環として、のに新しく設けられる「くらてビレッジ」の取り組みに協力することを発表した。 2018年5月19日に行われた一般社団法人「放送人の会」主催の「放送人グランプリ2018」の授賞式において、「オールナイトニッポン50周年」が準グランプリを獲得した。 2018年8月27日から9月1日にかけて、オールナイトニッポン放送開始50周年を記念して、『 』として、『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0 ZERO 』のパーソナリティを12組のお笑い芸人が担当した。 8月27日・ANN:・ANN0:• 8月28日・ANN:・ANN0:• 8月29日・ANN:・ANN0:• 8月30日・ANN:・ANN0:• 8月31日・ANN:・ANN0:• 9月1日・ANN:・ANN0: 2018年10月1日から昨年のナイターオフに続いて『』を放送することになり、放送時間も月曜から金曜の18:00-20:30となり、2017年度と比べると、40分にわたって放送時間が拡大されることになった。 特に金曜日は、オールナイトニッポン50周年の歴史でジャニーズのユニットとしては初めてのパーソナリティとしてを起用した。 2018年9月28日13:00 - 17:20 には50周年企画の締めくくりとして『 ありがとう50周年! 垣花正と新内眞衣のオールナイトニッポンミュージックリクエスト 』と題し、「『音楽』で『オールナイトニッポン』の50周年」を振り返るもので、「もう一度聴きたい! あの名場面」と「ミュージックリクエスト」、それに、歴代のパーソナリティに話を伺う「あなたとオールナイトニッポン」で番組は構成された。 ゲストとして(13時台)、(14時台)、(15時台)が出演した。 2018年10月2日には、東京・の『』にてオールナイトニッポン50周年の記念企画を支えた関係者が集まってオールナイトニッポン50周年感謝パーティー『 オール感謝ニッポン』が行われた。 このパーティーにはおよそ500人に及ぶオールナイトニッポンの歴代のパーソナリティと関係者が出席した。 この中で、1974年から1985年までオールナイトニッポンを支えたは「28歳から40歳まで人間として大事なときにANNに毒されまして、エロまっしぐら! 」とスピーチを行った。 また、1988年から1999年までの11年間とオールナイトニッポンの中でも女性パーソナリティの最長出演記録を持つ、は「ANNで人間性を磨かせてもらいました。 これからも楽しく続けさせていただきたいです」と決意を新たにした。 を手掛けたは「『』50年、『』50年、本当におめでとう! 」と深夜放送の黄金時代を支えたオールナイトニッポンと人気を分け合った他局の番組タイトルを引き合いにスピーチを行った。 また、オールナイトニッポン初期のパーソナリティ「」や、のオールナイトニッポンに関わったもスピーチを行い、さらに、やのもこのパーティーに駆け付けた。 パーティーの最後にはがの「」を弾き語りして、オールナイトニッポンの次の50年に向け、新たなスタートを切った。 2018年4月からオールナイトニッポンのチーフディレクターにが就いた。 その時期に立てた目標が「ANNの裏番組の『』に聴取率で勝つこと」だという。 」と述べている。 2018年10月7日(6日深夜)から毎月第1土曜日に『』と題して、オールナイトニッポンの中で初めてを取り扱う番組がスタートした。 2019年2月1日に、『オールナイトニッポン』のリスナーでもあるイラストレーターのが、『オールナイトニッポン』(火曜から日曜の1時から3時(月曜から土曜の深夜))のパーソナリティのオリジナルイラストを手掛けたことが明らかにされ、そのイラストがニッポン放送のタイムテーブル2019年2月号に掲載され、同時に、2月1日から2月28日までオリジナルイラストを描いたポスターがニッポン放送本社1階にて展示。 、『』が、に替わる新しい元号「」の下で最初のオールナイトニッポンとなった。 2019年10月5日から2020年3月21日まで、土曜日の19時から21時までの放送枠に『』が編成され、パーソナリティには2018年度の金曜日のパーソナリティを務めたがリスナーの復活要望に応えて、再び起用された。 2019年10月14日から10月19日の1週間にわたって、ニッポン放送開局65周年を記念して「音楽を大切にする1週間」として『 』を展開。 2019年10月14日• ANN0: 2019年10月15日• ANN:• ANN0: 2019年10月16日• ANN:(・・)• ANN0: 2019年10月17日• ANN:・• ANN0:・井口理 2019年10月18日• ANN:• ANN0: 2019年10月19日• ANN:• ANN0:・、・ 2019年10月24日から2020年5月31日まで、オールナイトニッポンととの共同制作による『 』というイベントが行われる。 また、2018年4月にオールナイトニッポンのプロデューサーに就いたは「僕が『オールナイトニッポン』のプロデューサーに就任してからは、『オールナイトニッポン』はすでに、聴取率とともにradikoの数値を判断基準にしています。 radikoには「ライブ 生放送 」と「タイムフリー 聴き逃し 」、その合計である「トータル」という3つの数値があり、それを番組作りの上での評価軸にしています。 」と述べている。 また、石井は「パーソナリティのみなさんも交流に積極的で、これをきっかけにほかのANNも聞いてくれる人も増えてきました。 今まではANNからANN0という縦のつながりだけでしたが、今はradikoのタイムフリー機能で1週間以内ならいつでも聴けるので、横のつながりが効果的になっています。 (の)若林さんが結婚を発表した回や、井口さんがゲストのさんと『』を熱唱した回などは、特にタイムフリー再生が多かったですね」と述べている。 また、冨山は「実はradikoだけの数値でいうと、この1年前くらい前から非常に伸びています。 『オールナイトニッポン』と『オールナイトニッポン0 ZERO 』の数字は、ここ数年で、タイムフリー数字が生放送の数倍も聴かれていることもあり、トータル数字が非常に底上げされています。 」と述べている。 この時期はパーソナリティが相互に番組に出演し、パーソナリティが『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0 ZERO 』にゲストに出演したりした。 また、2020年のにおいて、が優秀助演男優賞を受賞し、「話題賞」も狙って、とをライバルとしてけん制していた。 そして、その間の取り組みが功を奏し、2020年2月のビデオリサーチが行っている「首都圏ラジオ聴取率調査」で『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポン0 ZERO 』において、月曜から土曜平均で同じ時間帯で単独首位に立った。 この同じ時間帯の単独首位は、2019年12月に行われた「首都圏ラジオ聴取率調査」に続いて2期連続となった。 この番組作りの取り組みと聴取率の分析について石井は「JUNKは昔からANNをはじめとする裏番組をしっかり研究していて、『このゲストのときに盛り上がっていた』とか分析をしていた。 一方のニッポン放送は、JUNKに聴取率で負けていたのに対策を十分にやっていなかったんです。 なので、僕が最初にチーフDになったときに『裏番組をちゃんと気にしましょう。 JUNKはいい番組で、どんな企画をやっているのか調べて聴くのも勉強になるし、それを踏まえての戦い方もあるはずです』と話しました。 同世代のDが作っているので、ちゃんと聴いていいところは参考にしようと。 ANNがナンバーワンという奢りを捨てることから始めました」と述べている。 また、石井は「各番組のリスナーはそれぞれのファンが中心ですが、横や縦のつながりで他の番組も聴いてもらえるように意識的に仕掛けて、それが聴取率やradikoの再生数の向上という結果につながっています」とも述べている。 また、2020年で、がサービスを始めて10年となったので、石井は「極端に言うと、僕がやってる番組はradikoで聴く人をターゲットにしていますし、ANNでは従来の聴取率ではなくradikoの数字が完全な判断基準になっています。 ラジオ局全体としては従来のラジオで聴いてくださる方も対象にして番組作りをしますが、ANNとしてはそこを考えなくていい」と述べている。 また、冨山は「radikoの登場で、今までのアナログラジオの要素に加えて、デジタルコンテンツの文脈で制作をしています。 だからSNSも活用するし、タイムフリーでいつ聴かれてもいいという考え方で。 」とした上で「若い人たちとラジオの接点が見つからないという問題点があるなかで、スマホの中にradikoアプリが入ると1人1台、ラジオが入っているのと一緒になるというのはラジオ業界にとって21世紀で最も大きな出来事だと思います。 このデジタルと融合することで一番良いのは、ラジオを知らない人との新しい接点と拡散だと思います。 」とも述べている。 さらに、石井は「ラジオ業界が厳しいことは間違いないので、若いDや放送作家がラジオで生活できるために、コンテンツを制作する人に正しくお金が入る仕組みを作りたいです。 ANNは初めてラジオに触れる人の入り口であることが多いので、その突破口になればいいなと。 」と気合を見せた。 2020年4月23日放送の『』で、が番組内で女性を軽蔑する不適切発言をしたとして問題視された。 翌週4月30日の放送で岡村が謝罪したほか、相方のが『ナインティナインのオールナイトニッポン』以来約5年7か月ぶりに出演し、番組終盤まで公開説教となった。 日曜日 [ ] 日曜深夜にも1984年以前に『』という、糸居五郎や、はたえ金次郎()などが担当した電話リクエスト番組があった。 歴代担当者は以下の通り。 (1968年4月 - 1968年10月)• (1968年10月 - 1970年3月)• (1970年3月15日 - 1971年4月)• (1971年4月19日 - 1972年10月)• (1972年10月 - 1974年12月)• (1975年1月5日 - 1980年3月)• (1980年4月6日 - 1984年4月1日) 1984年4月以降はオールナイトニッポンを冠しない、女性アーティストやアイドルが担当する番組となった(最初の番組は『タッチ・ミー・EPO』)。 その後、オールナイトニッポン30年を迎えた1997年10月に日曜日の電話リクエストが復活。 のオールナイトニッポン電話リクエスト(1997年10月12日 - 1999年3月28日、23:00 - 25:30)• llnightnippon. com HYPER REQUEST SUNDAY! ()(1999年4月4日 - 1999年10月3日、23:00 - 25:00)• の llnightnippon. com Sunday Request Night(1999年10月10日 - 2000年3月26日、23:00 - 25:00)• のallnightnippon Sunday Special(2001年4月15日 - 2001年9月23日、23:30 - 25:00)• 中澤裕子のallnightnippon Sunday SUPER! (2001年10月7日 - 2003年3月30日、23:00 - 24:30)• の llnightnippon Sunday. com(2001年10月7日 - 2003年3月30日、24:30 - 25:30) 他にオールナイトニッポンを冠した番組として、2008年4月 - 2009年3月には、『』(25:00 - 25:30)が、2009年10月11日 - 2010年9月12日には、『』が放送されている。 その後、単発で放送された 『とのオールナイトニッポンR』(2012年10月14日、27:00 - 29:00)以外は日曜日のオールナイトニッポンは放送されていなかったが、2013年4月改編から2018年10月改編にかけて『』が放送された。 日曜のオールナイトニッポンレギュラー枠では、2003年3月に『中澤裕子のallnightnippon Sunday SUPER! 』と『飯島愛の llnightnippon Sunday. com』が終わって以来、10年ぶりとなる。 また『中島みゆきの月イチ』は、一部の局ではあるがネットされており、サンデースペシャルが放送される時間帯はほとんどの局では他番組の遅れネットやプロダクション制作の番組の放送、あるいはメンテナンスに充てることがほとんどのため、日曜日の枠が全国ネット(一部)がなされるのは初めてのこととなった。 2019年4月からは月に一度、25:30 - 27:00に『』 を、27:00 - 29:00に『』 を放送開始した。 WANIMAは土曜の月一放送からのスライドとなり、高嶋は47年ぶりにオールナイトニッポンに復帰した。 テーマ曲 [ ]• 『(ビタースウィート・サンバ)』• 作曲:• 演奏:とティファナ・ブラス• 収録アルバム:『』(1965年、よりリリース)• 原曲は演奏時間1分46秒だが、番組用に長く編集されている。 テーマ曲として採用された経緯については諸説ある。 「ティファナ・タクシー」は別のアルバム『Going Places!! 』のA面1曲目であり、間違えるはずはないという指摘もある。 編集盤やシングル盤という可能性もあるが詳細は不明)。 違う曲(「レモン・ツリー」または「ティファナ・タクシー」)をテーマ曲候補としていたが、収録されたレコードの同じ面に収録されていた「ビタースウィート・サンバ」が誤って流れ、曲を聴いた高崎一郎がテーマ曲として決定した。 上記の説を否定する証言が存在する。 1970年代から1980年代にかけてプロデューサーをつとめた(岡崎正通)は、高崎一郎からテーマ曲選びを依頼されたが、最初から「ビタースウィート・サンバ」を選んだのに過ぎず、上記のかけ間違え説は高崎が「都市伝説みたいなストーリーを作った」という証言を行っている。 斉藤安弘は「もともとこの曲をテーマにする予定だったと聞いていた」と、自身の番組『』で発言している [ ]。 『』(2007年2月19日放送分) [ ]の中で、が、スタッフの間違いではなく高崎一郎が初めから決めていたことだと明らかにし、同時に「スタッフ間違え説」を否定した。 開局50周年ラジオスペシャル『真夜中のビター・スウィート・サンバ』(2014年3月23日放送) にて、朝妻一郎がインタビューでこのことに触れており、高崎からテーマ曲の候補を探すよう依頼され、朝妻の会社が著作権を持っている曲の中から選んで高崎に視聴させたところ、「演奏はよいがリズム感が...... これじゃないだろう」と言われ、高崎自身が同じ盤の他の曲の中で「ビタースイート・サンバ」を選んだという。 その後、高崎が逸話として話を面白くするため「盤を裏返しに…」と話したそうである。 『』において、ハーブ・アルパートが特別ゲストとして招かれたとき、その当時のテーマ曲のバージョンを、トーク無しのフル演奏で流したことがある。 原曲は演奏時間2分40秒。 テーマ曲として使われた時のは原曲を多少アレンジしてある)でアレンジされた「ビタースイート・サンバ」を採用。 かつては、ネット局により午前3時(第1部終了)までの局(全ての局ではないが、CBCラジオやなど)はそれぞれの局において、第2部のオープニング(午前3時の時報)までにかかる繋ぎの曲の途中からカットインしエンディングとして流し、各局のアナウンサーが番組協賛及び番組終了のアナウンスを入れていた。 現在は行われておらず、次番組が始まるまでに繋ぎの曲(つまり、第1部のエンディング曲)をフェードアウトしてからなどが入るようになった。 1986年までは『ビバヤング、オールナイトニッポン。 』のように協賛スポンサーの読み上げも流されていたが、1987年頃は『ビバヤング、オールナイトニッポン。 それでは今日はこの辺で。 』のみのナレーションが入っていた。 1988年頃から使用されなくなり、現在のように各CMが流れて3時を迎えている。 また、現在は、木曜日の『』、土曜日の『』などで一節が繰り返されている物のフル演奏を聴くことができる。 また、一部の番組では、先のものとは別の部分を延々繰り返している物を曲紹介・スポンサー読み・コーナー呼び込みまで掛ける事もある。 第2部では番組設置の経緯(4時間の大きな放送枠を便宜上二つに分ける)から、オープニングでは流さず、エンディングに流し、曲の終了と共に番組も終了するというスタイルが長らく続いていた が、「R」では旧オールナイトニッポンとは別の番組枠となったとしてオープニングにもかけられる場合が多数となった他、エンディングも単なるフェードアウトとなる場合が多くなった(土曜単独となっても行われる。 また週によってはニッポン放送飛び降りのところで流されることもある)。 「ZERO」では旧・第2部の復活という理由付けを行い、旧第2部と同じ構成で曲が使われている。 1988年10月から1989年1月にかけて、の体調の悪化で日本国内が自粛ムードに包まれ、その間全く異なるBGMに差し替えた。 2014年、ニッポン放送開局60周年企画の1つとして行われた投票企画「あなたが『オールナイトニッポン』で出会った忘れられぬミュージックランキング」にて1位を獲得したが、この旨をハーブ・アルパートに連絡したところ「使用されていたこと自体を知らなかった」事が発覚した。 ウィークリーソング [ ]• 週替わりで各曜日にかかわらず「ニッポン放送ディレクターズプッシュ」としてヘビーローテーションで新譜が流される。 これはかつて月間(月間時のヘビロテの名称は「オールナイトニッポン・スーパーディスク」)であった。 2012年4月から当番組の推薦曲がエンディングで流されるようになったこともある。 番組ジングル [ ] CM前とCM明けのを数々のアーティストが手がけており、放送開始から40周年・45周年・50周年を記念した特別番組・特別企画においてはこれらのジングルが様々使用された(90年代後半のものなど、使用されなかったジングルも多い)。 現在の通常放送でも、ディレクターの意向により現在使用されていないジングルを放送する場合もある。 下記のものは22時・23時台の『SUPER!! 』から『MUSIC10』を除く番組で流れた共通ジングル。 CM前にこちらを流し、CM明けにそれぞれの番組のジングルを流すパターンもある。 このジングルは、他の担当者では使われなくなっても、担当回ではまで使用され続けた。 一時期、全ての番組で使用されなくなったが、担当回では当時唯一「ビバ! ヤング」をタイトルに付けていたため、全国一斉放送のCMの時のみ(毎時00分から30分台)使用されていた。 その後、糸居五郎死去の際の追悼番組で流された。 過去にはが担当する『』や斉藤安弘が担当する『オールナイトニッポンエバーグリーン』でも流れていた。 1970年代、亀渕昭信が担当していた『ビバ・カメショー』にも「 カメ、カメー」や、斉藤安弘が担当していた頃の「 オールナイートニーッポン、アンコー(アンコーさーん)」などの担当DJ専用ジングルもあった。 1977年4月- 1982年10月 1982年10月- 1986年4月12日 不定 1980年代 ・・・・が担当した。 1986年4月14日- 1989年1月6日 20周年記念バージョンのジングルで「 20th Anniversary」のフレーズが入っている。 20周年目以降も該当部分を削除して使用を継続。 1989年1月9日- 1992年3月14日 1992年3月16日- 1992年7月11日 開始とともに使用。 1992年7月13日- 1993年2月27日 25周年記念バージョンのジングルで「 25th Anniversary」のフレーズが入っている。 1993年3月1日- 1994年5月14日 1994年5月16日- 1995年10月7日 このうちの1パターンは『くり万太郎のオールナイトニッポンR』で使用。 1995年10月9日- 1997年7月19日 1997年7月21日- 1997年11月1日 30周年記念バージョンのジングルで「 thirty Years」のフレーズが入っている。 「SUPER! 」で使用。 ボーカル・作詞の、キーボードの、作曲・ギターの。 com」で使用。 2003年3月31日- 2008年9月18日 海外のアーティストがこの番組のを手がけるのはこれが初。 毎日使用していたのは2005年7月1日までであるが、ナインティナイン担当回では2008年9月18日まで1パターンのみ使用され続いた。 2003年7月7日- 2007年4月12日 毎日使用していたのは2005年7月1日までであるが、木・金のみ2007年4月12日まで使用され続けた。 2003年10月3日- 2009年10月3日 金・土の「R」専用ジングル。 「オールナイトニッポンR〜」と歌っているもの。 「ANN」は全て2009年10月9日より25時台と同じものへ統一されたため、「R」専用のジングルは消滅した。 2005年7月4日- 2007年4月10日 2006年5月19日- 2007年4月11日 2007年4月13日- 2008年9月30日 40周年記念バージョンのジングルで「 40th」もしくは「 40th Anniversary」のフレーズが入っている。 2008年10月1日- 2009年10月3日 2009年10月5日- 2011年12月31日 2012年1月2日- 2013年3月30日 45周年記念バージョンのジングルで「 45th Anniversary」などのフレーズが織り込まれている。 2017年1月3日1時台後半 - 現在 当初は「 50周年」などのフレーズが織り込まれた50周年記念バージョンのジングルとして使用され、その後歌詞を一部変更して使用を継続している。 『』の放送中から使用開始となり、星野の作であることが併せて発表された。 CD・レコード [ ] シングル [ ]• 今、僕たちにできる事()- 歌:オールナイトニッポン・パーソナリティーズ(1992年10月期当時のパーソナリティ全員 が参加 対運動のために制作された。 各番組では放送当時のCMフィラーにインスト版が使われた。 ビタースウィート・サンバ() - 演奏:ハーブ・アルパートとティファナ・ブラス(1994年10月26日発売。 当初テーマ曲の予定だったティファナ・タクシーも収録。 廃盤) アルバム [ ]• オールナイトニッポン(LP盤)( : 1970年12月)- 最初のオールナイトニッポンのアルバム、当時のパーソナリティ全員参加• 海賊放送局(LP盤)( : 1971年11月)- 今仁哲夫と天井邦夫によるビバ栗毛の珍道中記、パーソナリティ全員参加のラジオドラマ、カメカメ合唱団の歌• 深夜放送グラフティ オールナイト・ニッポン( : 1991年11月)- 糸居五郎、ビバ・カメショー(ゲスト:あのねのね - オールナイトニッポンに初めてゲストに招かれ、のちパーソナリティとなるきっかけとなった貴重な録音)、斉藤安弘(最終回、電話出演で翌週から木曜深夜のパーソナリティを引き継ぐのの他、スタジオゲストに、(ビリーバンバン))のそれぞれの抜粋を収録• オールナイトニッポン Radio Days Bitter Hits(東芝EMI(現))• オールナイトニッポン Radio Days Sweet Hits()• オールナイトニッポン パーソナリティーズヒッツ〜青春 ON AIR〜(ポニーキャニオン) 以上の3作品は、2003年に発売した35周年記念のコンピレーションアルバム• オールナイトニッポン EVERGREEN(EMIミュージック・ジャパン、ほか) - 2008年1月23日に6枚同時発売した40周年記念のコンピレーションアルバム 商品 [ ]• 青春のオールナイトニッポン() BCLラジオのフィギュア。 つまみを模したボタンを押すと、ジングルや糸居五郎や笑福亭鶴光らの番組の一部音声が流れる。 ビタースウィートサンバはオリジナル。 2004年発売。 懐かしのオールナイトニッポンキャンデー() 番組内容の一部とパーソナリティの持ち歌で構成した8cmCD付きのコーヒーキャンデー()。 2004年発売。 () 有名なゲーム『』の一部キャラクターのグラフィックを、当時のパーソナリティの顔に差し替えたもの。 1987年、番組放送開始20周年を記念してと共同製作した。 オールナイトニッポン40周年記念カップ麺が日清食品、明星食品の制作でにて2007年10月31日発売• オールナイトニッポンを作ろう! () 自分で番組運営ができるほか、多彩なゲストと魅力的なスポンサー集め、他のユーザーとの交流や名刺の奪い合い、携帯電話のGPS機能を利用した位置でエリア拡大などを詰め込んだ番組運営シミュレーションソーシャルゲーム ネット局 [ ] 現在、『オールナイトニッポン(1部)』は全国36局ネットであり、放送対象地域上ではすべての都道府県で聴取可能な番組である。 2019年10月現在、全国の民間AM局のうち、ニッポン放送の所在する東京・横浜エリアの局以外で『オールナイトニッポン』シリーズを一切ネットしていないのは(ぎふチャン)、、の3局のみとなっている。 一覧 [ ]• 表中「放送番組」欄については以下の通り。 東海地方 [ ] 東海3県では、1部枠を単独系列の(以下、CBC) でネットしており、CBCはニッポン放送から東京都九段のCBC東京支社経由で番組をネットしている。 伝送にはの帯域保証のIP回線を使用している。 これはニッポン放送が番組開始当初、全国ネット拡大を試み、この地区はまずNRN系列のにネットの依頼をしたが、東海ラジオは自社制作の人気番組『』(現在は、『』)を放送中でネットを断られてしまった。 このため、CBCに依頼したところ、当初は『』といった自社番組を放送していたものの、反対に『ミッドナイト東海』に劣勢であったこと、また社内部の反発などもあり、ネットを了承したという経緯があったためである。 後に東海ラジオは、22時枠及び『サタデースペシャル』のネットを開始したため、東海地方では本番組シリーズが2局でまたがって放送されることになった。 CBCでは1部のみのネットである。 また東海地区では東海ラジオが平日27・28時台に『』を文化放送から受けており、東海地区では27時以降の枠がネットされていない。 また、東海ラジオが月 - 木曜25・26時台に『』のネット受けを2012年10月から開始したため、月 - 木曜の25・26時台はNRN系の番組が表裏になっていた。 しかし、2020年3月をもって25時台のネットも取りやめ、同年4月より本番組と被る2時間は自社制作番組を編成している。 京阪神地区 [ ] 京阪神地区で本番組をネットしていたのは、長らくラジオ大阪(以下、OBC)とKBS京都(以下、KBS)であったが、2001年4月から3年にわたり独立局のAM KOBE(以下、AMK、現在のCRK・)でも『SUPER! 』がネットされた。 それまでは自社製作の深夜ワイド番組『』を放送していたが、ニッポン放送からの番販購入の形でこの番組を同時ネット受けすることになった。 また、2007年4月からは変則的に『エバーグリーン』の飛び乗りネットを開始し、10月以降は27時からのフルネットに枠拡大、その後継枠である『くり万太郎のオールナイトニッポンR』『オールナイトニッポン0 ZERO 』もネットを継続している。 また、『オールナイトニッポン(1部)』をネットしないが『オールナイトニッポン0 ZERO 』はネットする唯一の局でもある。 2009年7月、京阪神地区で長年22時台に独自の夜ワイド番組『』を製作していた朝日放送(以下、ABC、現在の)は、月曜から木曜までの自社製作を打ち切り、ニッポン放送の『』をネットすることになった。 この枠は2009年11月に『オールナイトニッポンGOLD』に移行したため、在阪局ではOBCに次いで、ABCでも本番組シリーズがネットされることになった。 ただし、当該時間帯におけるABCのニッポン放送からのネット受け開始を受けて、CRKとKBSは『TAKUYA』の途中の2009年10月改編で当該時間帯のネット受けを撤退し、KBSは金曜を除いて文化放送の裏番組『』を全編ネット、CRKは当該時間帯の自社制作を再開 している。 また、2010年4月からは『サタデースペシャル』枠の『魂のラジオ』もABCラジオでネット開始され、その後継枠である『大倉くんと高橋くん』も引き続きネットを継続している。 2013年10月からは『中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ』を、大阪のFM局 がネットすることとなり 、本番組の歴史上、初めてFM局でネットされることとなった。 さらに2014年4月改編からは『オールナイトニッポンGOLD』のABCのネット終了を受ける形で、FM COCOLOでネットすることとなった(金曜を除く。 2015年10月からの『オールナイトニッポン MUSIC10』も引き続きネット)。 この結果、2019年10月時点で京阪神地区においては、『MUSIC10』はFM COCOLO、1部はOBCとKBS、27・28時台はCRK(土曜0を除く)とKBS、『サタデースペシャル』はABCとKBSというように、番組ごとにネット局が変わる事態となった。 KBSは4月に開始しているが、ネット開始する以前(1976年7月当時)は『』(23:00 - 26:00)と『ミュージック・オン・ステージ』(26:00 - 29:00 木-土曜は別番組の関係で時差開始)を放送していた。 北海道では、以前は25時-29時枠と同様STVラジオがネットしていたが、2002年3月に打ち切ったため、1年半のブランクを置いて、10月より競合局の(HBC)でネットしている。 福岡県でも同様に、22・23時枠、25時 - 29時枠(月イチも含む)は全て(KBC)で流れているにもかかわらず、『サタデースペシャル』枠だけはがネットするという現象が起きている。 特に、RKBラジオはNRNには加盟していないため、CBC同様特殊なケースとなっている。 東海地区では、『ジャンベルジャン』枠を引き継いだ東海ラジオが『魂のラジオ』放送開始時からネット、2010年4月からは上記の通りABCでもネットを開始しているなど、特に都市圏における『サタデースペシャル』枠は1部のネット局とは異なっている状況である。 ネット局での番組割愛時の対応 [ ] 12月25日午前1時(新聞上は12月24日の放送欄)からの本番組は『』として放送される(の一環)。 以前は、ニッポン放送は関東ローカル独自の放送のため放送されず、裏送りのみされたが、2007年度以降は、ニッポン放送発の番組をミュージックソン非参加局を含む各ネット局がネットしている。 一方、独自で『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』の企画番組を放送する局は、ネットは割愛されるが、ニッポン放送発の番組を受ける場合もある。 また、24日午後10時からの2時間もミュージックソンの一環で『オールナイトニッポンMUSIC10(オールナイトニッポンGOLD)』を送るが、こちらはニッポン放送+ミュージックソン非参加局のみで放送する。 ただし、隣県でミュージックソンを展開する局がある場合は、別パーソナリティの特別版を送る場合がある(茨城、大阪、山口など)。 やなど、日本時間の深夜に日本あるいは海外で行なわれる野球・サッカー中継をニッポン放送が中継・ネットする当日に、本番組の放送と重なる場合は、本番組を放送せず、裏送りのみを行なう。 その際、放送される試合によってはの関係ででの放送はできないため、フィラー音楽とその間にニッポン放送のアナウンサーによる「 放送権の都合によりradikoでの放送は行ないません。 地上波でお聴きください」という説明が放送される。 また、NRN系の多くの局も試合の中継を優先するため、本番組は放送されない(場合によっては飛び乗り)。 そのため、場合によってはネット受けがラジオ大阪とCBCの2局のみの時もある(中京広域圏では東海ラジオ、関西広域圏はABCでサッカー中継をネットすることが多いため)。 放送時間以前に(・・・)が発生した場合でも、基本的には、一部の例外を除き、本番組のシリーズを通常通り放送することが多いが、その自然災害の被災地でのその日の放送は割愛と言う形になる場合もある(例として、時においての熊本をはじめとする九州の一部地域が該当)。 備考 [ ]• いわゆる「1部」の放送時間は3:00までだが、一部ネット局(主に「オールナイトニッポン0 ZERO 」非ネット局)では、局名告知もしくはCMのため2時59分頃にフェードアウトして終了する。 このため、2時59分までには必ず放送を終了するように構成されている。 それは金曜と土曜の「ZERO」においても同様であるが、多くの局が局名告知の時間を設ける都合上、4:58までにはコメントを切り上げるように構成されている。 なお、ニッポン放送など一部の局では「1部」の終わりで各パーソナリティによるタイトルコールが入って時報へつなぎ、「ZERO」となる。 ニッポン放送と()共同制作の番組『お笑いネクストブレーカー』の番組内でが出されたテーマに、オールナイトニッポンをベースにトークをするコーナー「オールナイトニッポンへの道」があった。 では、2009年2月1日から2月28日まで、であるの施設改修工事に伴い、午前0時から午前4時までの間放送が休止されたため、1ヶ月間オールナイトニッポンの放送が休止となった(協賛部分のみ休止直前の番組でCMとして流した)。 では2009年4月 - 9月の間、経費削減などのため停波を伴う放送休止時間を設定することに伴い、祝日に当たる日のみ、オールナイトニッポンの放送を休止とした。 協賛各社のCMのみ、休止直前と再開直後にまとめて放送していた。 では、北部九州ローカル番組で、月に1回、という番組が放送されている。 ホームページ・メールアドレスは基本的にニッポン放送の深夜放送の番組(オールナイトニッポンの冠が入っていない番組も含む)で使用される「allnightnippon. com」のドメインが使われているが、一部の派生番組(MUSIC10・サンデーなど)では通常番組のドメイン「1242. com」が使われる番組もある。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• その時の放送中のスタジオの様子について、1968年に入社し、後に泉谷しげる、あのねのね、笑福亭鶴光のオールナイトニッポンのディレクターとして名をはせる鈴木隆は「(有楽町の旧社屋の)第5スタジオというのが4階にあって、そこで『オールナイト』をやっていたんだけど、とにかく静かでしたよ。 なぜかというと、ディレクターが一人しかいない。 ミキサーも兼ねているわけですから。 構成作家もいないし、しゃべり手が自分でハガキを選んで曲を決める。 基本的にそれだけだし、ちょっと、仕掛けを考えるのも本人ですし。 それが第一次黄金時代のパターンですよ。 だから、ディレクターにも責任があるし、緊張感ありますよね。 僕らが夜中に通ってもスタジオには入れなかったんですもん。 外から覗いて『やってるな』という印象は強烈にありましたね」と語っている。 [ ]• この曲の歌詞の一節に「酔っ払らい運転」というフレーズがあり、飲酒運転を撲滅する立場の自動車メーカーがスポンサーの番組で流すには相応しくないことも理由に挙げられる。 なお、日産は途中でスポンサーから降板している。 ある日の放送での「」をサンプル盤として放送したこともあったが、これについて斉藤安弘は「反体制までいかないけど、放送局の自主規制に突っかかっていた。 安保闘争など世の中が騒然として活気があり、面白いことをやろうという深夜放送を、受け入れてくれる素地がありました」と当時の時代背景を振り返る。 初代のパーソナリティの1人である斉藤安弘は「多岐にわたる選曲で、音楽の世界になじんだ人がいっぱいいた。 も私の放送をよく聞いて、リクエストはがきを何十枚も出したそうです」と番組初期の当時のエピソードを語る。 これについては亀淵自身が「くだらないことがいくらでもできた。 亀渕は当時について、「僕は、女の子3人組、モコ・ビーバー・オリーブの『』とか、前田武彦さんの『』といった番組を作っていたんですけど、よくしゃべるし、面白いからお前がしゃべれよと。 その分、ほかでカバーしないと追いつかない。 立ってしゃべったらとか、走り回ったらとか、ハガキを放り投げたら(当時リスナーから届いた2万枚のはがきをスタジオに放り投げ、一番遠くに飛んだハガキ(リスナー)に1万円をプレゼントしていた)とか、一生懸命いろんなことをやりましたね。 演出感覚ですね、それがちょっと違ってたんじゃないでしょうか」と語っている。 さらに、亀淵は、「特に、常木さんや高岡さんには感謝している。 そういうものばかりでは番組は長続きしないから」と述べている。 13:42 - 13:49にミニ番組『』14:30頃に『一番ノリ! 』、15:26頃 - 15:33頃に通販番組『』、16:42 - 16:48に『〜噂を求めてどこまでも』をそれぞれ途中挿入。 当初は上柳昌彦が新内と共にパーソナリティを担当する予定だったが、上柳が喉の不調により出演を辞退したため垣花正が代役を務めた。 それに伴ってタイトルも一部変更された。 2014年 日本民間放送連盟賞優秀賞受賞作品。 の視聴ブースで聴取可能。 編成上は4月1日深夜• 1・5については『オールナイトニッポン』の冠がついた番組に限る。 4は4時30分まで。 5は2002年3月終了。 1977年7月までは2部も放送していた。 1は金曜は23時飛び乗り。 1は2013年4月2日開始。 火 - 金曜のみ、23時50分に飛び降り。 3は2013年4月1日開始。 1は2011年9月終了。 5は2004年10月開始。 5は2000年3月の放送開始から。 また、ネット開始の時の放送枠は22時枠。 27時台の平日ネットは2009年4月開始、2010年3月終了(旧タイトルの『オールナイトニッポンR』時代)。 4は2017年4月終了。 3・4(当時2部枠)は1976年6月開始、1993年9月打ち切り、2020年3月30日より3のみネット再開• 1については一時期月曜のみ未ネットだった時期がある。 1974年6月の2部制導入までは放送終了まで放送。 以降は平日のみ第1部終了で飛び降り。 2012年4月から2014年3月、2015年4月からは土曜日も第1部終了で飛び降り。 27時台(土曜のみ)は2005年9月終了。 1は月 - 木曜のみ、23:50飛び降り。 金は2018年3月終了• 5は2005年10月開始。 1は2014年3月末終了• 5は2010年4月開始。 オールナイトニッポンとその関連番組のネット局の中で、唯一の放送局。 1は2014年4月開始。 月 - 木曜のみ。 正確な放送対象地域は、・・・、・、、。 3(当時平日2部枠)は1995年9月終了。 5は2009年3月終了。 1は2010年4月再開。 3は旧エバーグリーン枠(月 - 木曜)を2007年4月から、2012年10月からは金曜もネット開始。 2001年4月 - 2004年3月に22時台をネット。 1は2010年3月終了。 1は2015年4月開始。 かつては2部も放送していたが、にのネット局になったため放送打ち切りとなった。 3は1995年9月(当時平日2部枠)終了、1998年10月(当時R)再開。 1は2010年10月再開。 4は2008年4月 - 9月は4時30分まで。 4は長崎エリアは2014年3月まで、佐賀エリアは2013年3月までは4時まで。 3は、2010年4月開始、2015年3月終了。 4は2013年4月開始。 4は2010年1月開始。 2019年9月までは、4時まで。 5は2009年3月に一旦打ち切り、2012年4月再開。 一例として、2013年9月26日の東北楽天ゴールデンイーグルスリーグ優勝時での「オールナイトニッポンGOLD」~「オールナイトニッポン0」を休止した東北放送や、2016年9月10日の広島東洋カープリーグ優勝時のRCC中国放送、同年10月29日の北海道日本ハムファイターズが日本一となった時の「オールナイトニッポンサタデースペシャル 大倉くんと高橋くん」を休止した北海道放送のケースなど。 出典 [ ]• とは別。 余談ではあるが、オールナイトニッポンシリーズを放送しているのテレビ放送のネットワークはテレビ朝日系列に属している。 『プロが教えるラジオの教科書』( 著、199ページ - 203ページ)より。 『』の放送期間が49年6ヶ月のため、2017年3月をもってオールナイトニッポンの放送期間が歴代2位になった。 一部のネット局は120分。 2020年4月以降、第5水曜日がある月の場合、当該日はスペシャルパーソナリティが担当• 2020年3月までは水曜日。 2020年3月までは火曜日。 2017年3月までは月曜日。 第2期の開始日。 第1期は1994年4月から2014年9月まで放送された。 プロデューサー• 放送時間では4時間放送していたが最長である。 またアナウンサーを含めると、は5年半の期間を毎週4時間、エバーグリーンとして5年半、週4日を2時間放送(更に増刊号放送もある)したのが放送時間最長となるほか、は11年半の期間DJを務めている。 2014年10月から2020年5月までは単独で、それ以外はコンビ()で担当。 2010年7月 - 11月まで休養のため出演せず• 1998年5月2日 不慮の事故により他界。 享年33 「」も参照• アナウンサーを含めると、番組初復帰は今仁哲夫(1969年9月)である。 アナウンサーを含めると、最長期間での復帰は高嶋秀武の47年3ヶ月である。 一部のネット局は24:00まで。 現・フジサンケイエージェンシー。 現在は保険代理店とイベント関連のみで、制作事業からは手を引いている• パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、113ページ-114ページ。 『月刊』1987年4月号『深夜放送20周年ぐらふぃてぃ』24ページより。 パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、107ページ。 パーソナリティがスポンサー読み(ネット局が出来てからはネット局数も)を行う体制は当時から一貫して変わっていない(原則生放送で読み上げるが、予め録音したものを流すパーソナリティもいる。 )ただし、ピンチヒッターパーソナリティの場合はニッポン放送のアナウンサーが読み上げるケースもある。 パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、114ページ。 東京新聞. 2017年1月8日. 2017年1月8日閲覧。 糸居五郎は「新しい時代の夜」、また「エバーグリーン」当時の斉藤安弘は「フレッシュな夜明け」と言っていた。 このように、パーソナリティによっては部分的にアレンジして使うこともあった。 『月刊』1989年8月号『ニッポン放送35周年グラフィティ』29ページより。 パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、108ページ-109ページ。 パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命、109ページ-110ページ。 産経新聞. 産経デジタル. 2017年11月28日. 2017年12月2日閲覧。 2019年9月5日閲覧。 上記、オールナイト初期のオープニングキャッチである「君が踊り僕が歌うとき・・・」の口上はタレントパーソナリティ投入後にはほとんど使用されなくなり、かろうじて笑福亭鶴光とあのねのねだけがパロディ化し原型を大きく崩す形で継続した。 ただし、1985年の鶴光ANNの最終回の際はパロディにせず、ほぼオリジナルそのままに読み上げた。 一方で同じオールナイト初期の代名詞である「ビバヤング」のキャッチは比較的長く生き残り、タレント導入後もジングルや提供読みのときにそのフレーズを聴くことができたが、1980年代後半にはほぼ使われることはなくなった。 - AV Watch・2011年11月29日• 「」『音楽ナタリー』、2012年3月21日。 2019年9月8日閲覧。 2015年1月30日閲覧。 株式会社mmbi 2015年9月21日. 2015年10月12日閲覧。 株式会社mmbi 2013年3月29日. 2013年3月29日閲覧。 株式会社mmbi. 2014年4月1日. 2014年4月1日閲覧。 2013年9月14日より9月23日までの10日間、総合プロデューサーにを迎えて開催される、『エンターテイメントコンテンツの祭典』• BARKS. 2013年9月4日. 2013年9月9日閲覧。 お笑いナタリー. 2013年9月2日. 2013年9月3日閲覧。 スポーツニッポン. 2015年1月31日. 2015年1月31日閲覧。 2016年3月23日閲覧。 工藤ひろえ 2016年8月11日. ネタとぴ インプレス. 2016年9月2日閲覧。 築島渉 2016年8月9日. 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