役行者とは 役小角 えんのおづぬ といい、舒明天皇六年 634年 伝 — 大宝元年 701年 伝という、飛鳥時代の「呪術者」と言われています。 修験道の祖と言われ、数多くの修験道の霊場を開創したと伝えられています。 大阪府、京都府、奈良県、和歌山県、滋賀県、三重県の二府四県にまたがった地域の三十六ヶ所の札所で構成されている霊場になります。 愛知県下にも「 役行者像」を奉安している寺院が数多く存在します。 修験道と深く関わっている真言宗だけではなく、様々な宗派の寺院で「 役行者像」を見てきた記憶があります。 さらに言えば、神社などにも「役行者像」が据えられている所もあり、現在の様に神社と寺院が区別される以前の神仏習合時代における役行者の存在感の大きさを感じざるを得ません。 江戸時代までの片山神社は「 蔵王権現」を主祭神として奉祀していますが、この「蔵王権現」は修験道の本尊であり、「役行者」が吉野の金峯山にて修行中に示現したとも伝えられています。 ちなみに、山形県と宮城県の県境にある「 蔵王山」の名称は「蔵王権現」に由来すると言われ、この地に役行者が蔵王権現の分身を奉安し修験道の霊場としたと伝えられています。 蔵王権現は、神仏習合により「 大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命そして安閑天皇」の本地仏とされてきました。 明治時代の神仏分離令により、神社では仏教色の強い「蔵王権現」は禁止され、同一視されてきた「大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命そして安閑天皇」に祭神を変更しています。 どういったいきさつで蔵王権現=安閑天皇となったのかは分かりませんが、大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命とはなんとなく異色な感じがします。 尾張名陽図会を読むと、江戸時代の時点で「 安閑天皇」が云々という言葉が見えます。 という事は、安閑天皇と蔵王権現を祀る神社だったという事なのかな?。 神社前の名古屋市教育委員会が設置した案内板によると、「安閑天皇の母は尾張氏出身の方でこの地方と所縁があるという事で安閑天皇が祀られた」とあります。 となると江戸時代に祀られていた「蔵王権現」は祭神のもう一柱である「 国狭槌命」と替えられたという事なのでしょうか・・・。 何百年をかけて築き上げてきた神仏習合の考えを明治維新後の数年で否定してうえで新たな体制を構築するという無理難題を強引に進めた結果、その歪みが現在に至るまで存在していると思っています。 蔵王権現はあくまでも蔵王権現であって、無理やり変更された祭神では置き換えられないと思うんです。 秋葉山の信仰を例にすると、近所の人と話していても、秋葉山は秋葉山であって、秋葉神社祭神である「加具土命」とはあまり認識していないんですよね。 むしろ秋葉山のイメージは可睡斎で奉斎されている三尺坊権現に近い、天狗の様な風貌といった感じなんですよね。 秋葉神社としながら可睡斎の御札が祀られていたり、逆に秋葉三尺坊堂の中に秋葉神社の御札が奉安されたりするので、再び神仏習合に近くなっている様な気がします。 また、名陽図会では片山神社は小高い丘の頂に鎮座している様に描かれていますよね。 さらに、最寄り駅である名鉄小牧線の駅名が「 尼ヶ坂」駅となっています。 片山神社からは北に進むと、下り坂が続いていきます。 名古屋城から熱田神宮にかけては「 那古野台地、熱田台地」呼ばれる周囲よりその名の通り一段高くなった台地が広がっていたのですが、片山神社はその北東側の角に近い場所に鎮座しています。 伝説の様に役行者が片山神社を建立したとすると、北側、東側は湿地帯又は伊勢湾が入ってきていた様な場所に建てた事になります。 台地の南側には熱田神宮が鎮座し、北端に片山神社が鎮座する・・そんな台地だった訳ですね。 社伝に、和銅二年 709年 の創祀という。 一説には天武十二年 683年 役行者が開基という。 「延喜式神名帳」に玉の井庄、片山神社とあり、「国内神名帳」に従三位片山天神と記する。 往古は蔵王天神、蔵王社、片山蔵王神社と呼称された。 慶長十九年 1614年 徳川内府御供田灯明田を寄進する。 明治五年、片山神社と改称し郷社に列覚した。 明治四十年十月二十六日、神饌幣帛料供進指定社となる。 参拝記 ストリートビューを見ると、名陽図会にあった様な小高い丘という感じはしませんが、片山神社の北側・・名鉄小牧線の高架となっている線路から片山神社方面を見るとかなり段差があることがわかります。 中央を走る昭和後期に作られた道路は大地を切り通して作られているので、いまいち分かりにくいですが、切り通した側面の擁壁を見て頂くとかなり高くなっている事がわかって頂けるかと思います。 境内入口 「式内片山神社」と彫られた社号標と前面道路に対して斜めに据えられた神明鳥居になります。 鳥居 建立年月は調べ忘れてしまった神明鳥居になります。 手水舎・水盤 木像瓦葺六本柱タイプの手水舎になります。 鳥よけなのかな?梁から竹筒がぶら下げられています。 手水をすると「カランコロン」と竹のいい音が鳴り響きます。 六本柱タイプの手水舎としては標準的な、水盤と井戸がセットとなった造りになっていますね。 井戸部分は木枠がはめられています。 社殿 切妻造瓦葺妻入りの唐屋根の向拝が設けられた拝殿と神門と瑞垣で囲まれた本殿が鎮座する社殿になります。 さらにここ片山神社では拝殿脇から瑞垣が設けられていて、拝殿から奥には進めなくなっています。 拝殿脇に鎮座する境内社も瑞垣越しに参拝する様式です。 境内社 拝殿向かって左側に鎮座する境内社になります。 神明造と流造の社、そして色々な大きさの社が並んでいます。 舞台・神楽殿 入母屋造の神楽殿かと思います。 重厚な感じがしますね。 鎮座地を地図で確認 神社名 片山神社 鎮座地 名古屋市東区芳野二丁目四番地二八 最寄駅 名古屋鉄道小牧線「尼ヶ坂駅」徒歩3分 次の目的地は?.
次の歴史 [ ] (16年)、当時のをはじめ地元崇敬者の人々による、生地で秀吉を祀る運動が盛んとなり、同年7月豊国神社の創建が決定。 (明治18年)1月に竣工した。 7月には神社が創建されたが 、県令の死去により以降の工事は中止された。 その後、神社は(明治34年)に開園した中村公園の一部に含まれたが、1956年(昭和31年)に都市公園として設置された際に敷地から除外されている。 建造物 [ ] 社殿自体は小ぶりの質素なもので、拝殿向かって右側に秀吉の絵姿が掲げられている。 参道入口には(4年)の名古屋市編入に際して立てられた「中村の大鳥居」が聳えている。 社殿東側には「豐公誕生之地」の碑が立ち、また中村公園内には(昭和42年)にが設置されている。 太閤まつり 5月中旬の太閤まつりでは、還暦を祝う豊太閤頭巾行列や子供の健やかな成長と出世を願う出世稚児行列の他、地元の神輿が練り歩く。 また太閤出世太鼓や新治郎太鼓も奉納される。 毎月9日・19日・29日には「九の市」が開催される。 :元日祭• 旧正月1日:生誕祭• :直前の日曜日前日:献茶祭・前日祭• :直前の日曜日:例祭(太閤まつり)• 毎月18日:月次祭 交通アクセス [ ]• 3番出口から北へ徒歩10分• から「名駅25」系統で「豊国神社」下車• 名古屋市営地下鉄東山線 、名古屋市営地下鉄 から「中村巡回」系統で「豊国神社」下車• から「幹栄2」系統で「中村公園(西)」下車、北へ徒歩11分• のから、「津島行き」または「大坪行き」で「中村公園(西)」下車北へ徒歩11分 周辺の道路 [ ]• 豊国神社参道線• 清正公通 参考文献 [ ]• 阿部繁弘 「愛知の街道を行く310 豊国神社」『中日新聞』付朝刊、23面。 、名古屋市。 脚注 [ ].
次のそこで今回は、白龍神社のご利益・見どころなどにググッと迫ってみます! 新型コロナウイルスの発生と感染拡大に伴う、県境をまたいだ移動の自粛が2020年6月19日より解除されます。 また県境をまたぐ観光については「徐々に行い、人との間隔を確保すること」というガイドラインが政府より示されています。 各種報道機関の発表、施設や各自治体のホームページなどで最新の情報をご確認ください。 (LINEトラベルjp)• 写真:大宮 つる ご本殿・イチョウのご神木・末社の三か所にお参りが済んだ後にぜひしていただきたいこと。 鳥居をくぐって外に出たら、上を見上げてみてください。 二柱の神さまが鎮座しているご本殿の上には、5本の鰹木(かつおぎ。 奇数本だと男の神さま)。 それから空に向かって大きく伸びるイチョウのご神木……なんだか龍神さまが空に向かって飛ぼうとしているような感覚が得られます。 たとえば、「KAKO 柳橋店」「KAKO BUCYO COFFEE」「モーニング喫茶 リヨン」など。 朝の参拝のあとにモーニングという流れで、名古屋の朝を満喫してみてはいかがでしょうか。
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