二 銭 銅貨。 江戸川乱歩『二銭銅貨』あらすじ|南無阿弥陀仏の、暗号を解く。

『二銭銅貨』・『一枚の切符』 江戸川乱歩

二 銭 銅貨

二銭銅貨 写真:明治10年, 角鱗, 31. 85mm, 14. 26g, 概要• 年号: 明治6年 1873 〜17年 1884• 発行枚数: 約2億7570万枚• 材質: 銅980 錫10 亜鉛10• 直径: 31. 818mm,• 重量: 14. 256g 発行の経緯• 西洋式のコインは明治4年に制定された新貨条例に基づいて初めて発行されました。 この法律で銅貨は補助貨幣として、一銭、半銭、一厘の3種類が制定され、この時点で二銭銅貨は制定されていませんでした。 この3種の銅貨は制定はされたものの、銀貨の発行を優先してか実際には発行されず、試鋳貨のみの製作にとどまっています。 明治7年(年銘は明治6年)にこの3種のコインは、一部デザイン・大きさの小変更を行って発行されることになりますが、この時に二銭銅貨は品目に追加されて発行されました。 デザインは、竜の面(発行時は裏面、明治8年から表面)が顔が右向きで口を閉じた竜(吽竜、うんりゅう)、反対の面は菊と桐の枝葉と菊花の紋章で、、半銭銅貨と同一のデザインです。 重量は竜一銭のぴったり2倍になっており、明治政府が貨幣の品質に気を使っていることが伺えます。 竜1銭銅貨、半銭銅貨と同様、明治10年付近でウロコの形が変わっています。 明治10年銘は角ウロコ(下の写真)・波ウロコ(上の写真)の2種類があり、これより古いものは角ウロコ、新しい物は波ウロコになります。 明治11,12年銘は発行されていません。 他の銅貨同様十分な量が発行されて補助貨幣が、明治17年銘に製造が中止されました。 は明治21年まで発行されていますが、それより先に発行は停止されたのは、大きさが大きすぎてあまり評判がよくなかったためのようです。 かと行っても銀貨にするには額面が小さすぎ(は小さすぎて扱いにくくことも廃された理由の一つのようです)たため、結局2銭はこの1種で発行は終了してしまいました。 希少性• 立派で風格を感じるコインですが、通常品ならば数百円で手に入ります。 初年度の明治6年のものが特に流通数が少ないようで、販売価格では普通品でも1万円に近い額になっています• 他の竜貨幣と同じように、シカゴの展覧会に出品された明治25年銘の試鋳貨が存在するそうです。 コメント• 新貨条例の制定に当たっては、当時の欧米の現行コインを参考にしていました。 アメリカでは明治6年 1873年 と時期的に近い、1864〜1872年の短期間だけ2セント銅貨が発行されており(その後は妙に半端な3セントが発行されています)これを参考に追加されたのかもしれません。 近代貨では最大の銅貨で、竜五十銭銀貨よりも重く、ずっしりとした重量感があります。 これより重い近代貨幣は、一円銀貨、貿易銀、新旧二十円金貨、旧二十円金貨の5種類ありますが、前二種は貿易用の貨幣で、残りは高額の金貨ですので、一般的に目に触れてきた貨幣としては、最大のものになると思います。 デザイン的には竜一銭銅貨と同じですが、二銭がこれしかないため、一般的な呼び名には、"竜"の字が記されていません。 一円銀貨はこれをしのぐ大きさですが、海外との貿易の決済のために製造されていますので、• 「二銭銅貨」は一般的には明治の貨幣としてよりも、江戸川乱歩の小説のタイトルとしての方が著名のようです。 二銭銅貨は小説の中では、薄い缶状に細工二銭銅貨の中に暗号が記された紙が隠されていという設定で登場しますが、それが現実的思えるほど大きくてしっかりとしたコインです。 この時代の他の硬貨• 新一円銀貨•

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『二銭銅貨』・『一枚の切符』 江戸川乱歩

二 銭 銅貨

「二銭銅貨」あらすじ(ネタバレあり) 簡単なあらすじ 芝区にある電機会社の工場の給料日に、現れた紳士泥坊。 新聞記者に変装し、まんまと支配人の隙をつき、職工たちの給料5万円を盗んでしまった。 刑事の入念な捜査によって、ついにお縄になるのだが、盗んだ5万円の在処については白状しなかった。 そして、盗まれた5万円の給料に5千円の懸賞金がかけられることとなった。 場末の下駄屋の2階の6畳に下宿する貧乏青年「私」と友人の松村武は、この事件に強い興味を持っていた。 ある日、松村は机の上に私が置いた二銭銅貨に目を留める。 そして、二銭銅貨の秘密に気づき、ついに盗まれた5万円の行方をつきとる。 そして、「私」に得意げにその謎を解き明かしていくのだが、私の反応は・・・ 詳細なあらすじ(ネタバレあり) 芝区にある電機会社の工場の給料日に新聞記者が取材目的で支配人を訪ねてきた。 支配人は気を良くし熱弁していたのだが、ちょっと便所に立った隙に、記者はいなくなっていた。 支配人は不作法なやつだと思った程度で気にもとめなかったが、すぐに賃金払いの金がなくなったと大騒ぎになる。 新聞記者は実は紳士盗賊として世間を騒がせていた大泥棒だったのだ。 支配人が泥棒の特徴を思い出そうとしても、鼈甲ぶちのめがね、口ひげなどどれも変装の定番で犯人像を絞るのにはたよりない特徴ばかりだった。 しかし、刑事の丹念な捜査によってついにお縄になることとなった紳士泥棒。 この煙草の吸殻が旅館の前に落ちているのを発見、その旅館の宿泊者の部屋から鼈甲めがねやつけ髭が出てきて、逃げれぬ証拠となって逮捕に至ったのであった。 犯行の手口などについては、詳細に語った犯人だったが、肝心の金の在処については何一つ白状しなかった。 そして、5千円の懸賞がかけられることになった。 場末の下駄屋の2階の6畳に下宿する貧乏青年「私」と友人の松村武は、「あの泥棒が羨ましい」などと言うほど、生活がひっ迫していた。 ある日、松村が机の上に置いてあった二銭銅貨に異様な興味を示した。 その二銭銅貨は、私が煙草屋のおつりでもらったものだった。 すると、松村は私に煙草屋の情報について質問してきた。 店には婆さんの他に爺さんもいること、一人娘は監獄の差入屋に嫁入ってること、などを私は松村に教えた。 すると、松村は一人考えこみ、私の食事の誘いも断り考え続けた。 私が飯屋から戻ってくると、松浦は按摩を呼んで、何やらおしゃべりしながら肩をもませていた。 その後、机に2枚の紙を広げ、熱心に比較し何やら書いては消しを繰り返していた。 松村は、私に10円を借りて、何も言わずに出かけて行っき、私はそのまま寝込んでしまった。 翌朝10時頃に、目を覚ますと枕元に、風呂敷包みを背負った商人風の男が立っているのに驚いた。 よく見ると、それは友人の松村で 「この風呂敷包みの中には、君、五万円という金がはいっているのだよ」 と言った。 泥棒が隠した五万円をどこかから持ってきたのだった。 松村は警察も発見できなかった五万円を手に入れたことに、有頂天になっていた。 そして、嬉しそうに謎を解いた経緯について語りだした。 発端は、私が置いた二銭銅貨だった。 銅貨の側面に線が入っており、パカッと開く仕掛けになっていた。 中から1枚の紙片がでてきた。 これが暗号文ではないかと考えた松村、南無阿弥陀仏の六文字の組み合わせであること、点字が六つの点の組み合わせであることに気づき、点字のいろはを教わるために按摩を呼んだのだった。 そして、南無阿弥陀仏の紙片と点字の考え方を組み合わせ、次のような表を作成した。 これに従って、暗号を解読すると、 「ゴケンチヨーシヨージキドーカラオモチヤノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤシヨーテン」 となる。 だが、松村はいちばん安全な隠し方は隠さないことであると考えた。 つまり、玩具と見せかけて本物の紙幣であると。 そして、私に借りた十円を使って商人風に変装し、風呂敷包みを抱えて帰ってきたというわけだった。 5万円に狂気し気持ちよさげに話す松村を見ていた私は、ついに我慢できず笑い転げてしまった。 そして、私は松村にこう言った。 「暗号文の答えを八字づつ飛ばして読むということはできないだろうか」と。 「 ゴケンチヨーシヨー ジキドーカラオモチ ヤノサツヲウケトレ ウケトリニンノナハ ダイコクヤシヨーテ ン」 「ゴジョウダン(御冗談)」という言葉が浮かんでくるのだった。 実は、すべて私のいたずらであったのだ。 私は、すべてを松村に話した。 正直堂という印刷屋は私の遠い親戚で、借金のために先日訪れていたこと• 正直堂にあるおもちゃの紙幣は大黒屋という長年の得意先の注文品と知ったこと• 煙草屋の娘が差入屋に嫁いでいるのはでたらめ 松村が私にまんまとだまされたというわけだった。 このトリックの出発点になった二銭銅貨を手に入れたわけについては、詳細な説明はできない。 ある人に迷惑がかかるかもしれないから。 私が偶然それを所持していたと思ってくれればよいのである。 「二銭銅貨」感想と考察 1923年(大正12年)に発表された乱歩のデビュー作ですが、シンプルながらも後に繰り返し描かれる乱歩的な要素(変装、大胆不敵な犯行方法等)が凝縮されています。 冒頭の「あの泥棒が羨ましい」という始まりもつかまれますし、オチの脱力感も人間椅子をどこか思わすくらいストンと落としてくれ、心地良く感じました。 当時の時代背景も感じることができて、今読み返すとどこか懐かしいような気分にもさせてくれます。 5万円の価値 すこし気になったのが、紳士泥棒が盗んだ5万円の価値です。 大きな電気工場の1万に近い職工たちの給料の大半を盗んだわけですから、それはもうたいへんな金額だったのではないかと想像できます。 いったい、今の金額になおすとどれほどの価値があるのでしょうか? 2千万円程度 おおよそこれくらいの金額のようです。 やはり、相当な大金ですね。 すると、作中で懸賞金とされたのは一割でしたから、今でいう200万円程度になるわけです。 こうすると、金額はぐっと下がってしまいますね。 松村のように、届け出ずに独り占めしたくなりますね。 ちなみに、二銭銅貨そのものを今売買しようとしても、さほどの価値はなく、相場は1000円~程度のようですね。 暗号 点字と南無阿弥陀仏の組み合わせ 暗号については、なるほどと思いました。 乱歩自身さまざまな暗号に精通していたわけですが、本作には表がちゃんと記載されているので、しっかりとわかります。 あまりミステリーのトリックなどの物分かりがよくないほうなのですが、この作品については一目でわかるので、とてもありがたかったです。 南無阿弥陀仏という日本的なものをミックスするのが、なんとも趣があって好きなところです。 疑問点 私が二銭銅貨を手に入れたのは偶然? この物語は、松村が二銭銅貨に興味を示しいろいろ考えて、謎(私のいたずら)を解いていくところがメインですが、この発端となった二銭銅貨の入手先が明記されていません。 最後にこのような意味深な文章が書かれているのみです。 最後に、 彼のトリックの出発点となった二銭銅貨については、私は茲に詳しい説明を避けねばならぬことを遺憾に思う。 若し、私がへまなことを書いては、後日、あの品を私に呉れたある人が、飛んだ迷惑を 蒙るかも知れないからである。 読者は、私が偶然それを所持していたと思って下さればよいのである。 となっており、読者にとっては偶然と考えるしか手だてがないです。 いくら小説を読み返してみても、入手先をほのめかすような記述はありません。 これは、乱歩が自然な入手先を書き入れるのに苦心したために、このような形になったのかなとも想像します。 私が二銭銅貨を机の上に置くシーンを時系列通りに書くと、あまりにわざとらしくなってしまいます。 これでは読者をだますことはできません。 かと言って、最後にそれを書いても後出しじゃんけん感が強く、ミステリーとしてどうなの?となってしまうでしょう。 だから、このような形で意味深に、ある人に迷惑かかるから言いにくかったみたいな雰囲気でまとめたのかなぁと。 あくまで勝手な想像ですが。

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文学考察: 二銭銅貨ー黒島伝治

二 銭 銅貨

日本の補助貨幣(にほんのほじょかへい)とは、(太政官布告第267号)、(明治30年法律第16号)および(昭和13年法律第86号)の下、でされ発行、流通したすなわち補助銀貨、補助銅貨、補助白銅貨、補助青銅貨、補助ニッケル貨、およびの総称である。 これらは、すなわちに対する補助貨幣として発行されたものである。 本来、日本の補助貨幣単位は「」および「」であったが、戦後の激しいに伴い、23年()からおよび一円と単位の臨時補助貨幣が発行されるに至り、補助貨幣の定義に対する認識が曖昧となっていた。 昭和63年(1988年)4月に施行されたにより日本の補助貨幣の歴史は幕を閉じ、現在日本において造幣局が製造し政府が発行する硬貨は全て「貨幣」と称する。 本項では、主にの日本における新貨条例および貨幣法に基づいてで製造、発行され流通を目的とした補助貨幣を解説する。 これらの内、補助銀貨については「」を、6月の臨時通貨法施行後の貨幣については「」を参照すること。 の日本の現行貨幣については「」を、また現行記念貨幣については「」の項目を参照されたい。 歴史的経緯 [ ] 施行に伴い、明治3年()におよびの製造が開始されたが、当時製造所は完成していなかったため、制定当初の銅貨(一銭、半銭および一厘)は試作のみで発行されなかった。 金銀貨の製造に遅れること3年、明治6年()暮れに造幣局に銅貨製造所が完成し、新しく制定された二銭、デザインが変更された一銭、半銭および一厘銅貨の製造が始まった。 二銭から半銭銅貨までは金貨および銀貨と同様に量目()が額面と比例関係となった。 補助銅貨の通用制限額は金種の混用に拘りなく一回の取引につき最高額で一とされた。 龍図のデザインについては、金貨・銀貨の阿龍に対して、銅貨には吽龍が採用された。 一厘銅貨だけは小さすぎて龍図を描くことが困難だったことから、他の銅貨の龍図に当たる場所は菊紋となった。 二銭銅貨はサイズが過大であり、逆に一厘銅貨は過小なものであったため流通不便貨幣としての扱いを受け明治17年()をもって製造停止となった。 また五銭銀貨もサイズ過小から明治13年()をもって製造停止となり流通不便貨幣としての扱いを受けていたため、明治22年()、代わりに五銭貨が発行されることとなった。 この菊五銭白銅貨は繊細な明治貨幣の中にあって、シンプルで斬新なデザインが大いに受けたというが、偽造貨幣の対象ともなったため、明治30年()ににより稲穂の図柄に改正された (このとき同法により一銭青銅貨および五厘青銅貨も以前の一銭銅貨および半銭銅貨と同様のデザインで制定されたが、試作すら行われなかった)。 明治31年()には同じ稲穂の図柄の一銭貨が発行され(このとき五厘青銅貨も制定はされたが、見本貨幣のみの製造で、流通用としては製造されていない)、これは銅貨と直径、量目伴に同一のものであった。 この一銭青銅貨では龍図が外され旭日のデザインに変更されているが、これは龍を尊ぶのは当時の敵国の清国の思想であるという意見が高まったためである。 白銅貨の通用制限額は当初、一圓であった。 一厘貨幣としては銅一文が依然その役割を果たしていた。 また、寛永通寳四文銭は二厘、銅四文銭は一厘半、當百銭は八厘(明治4年太政官布告第658号)、寛永通寳一文銭は16枚で一厘、および寛永通寳鉄四文銭は8枚で一厘として通用した(明治5年太政官布告第283号)。 このうち寛永通寳鉄一文銭および鉄四文銭は明治6年12月25日(正式には1897年の貨幣法施行時に廃止)に、天保通寳は明治24年()末をもって通用停止となった。 鉄銭の通用制限額は五十銭、銅銭は一圓と定められた。 5年()、一銭および五厘の青銅貨が小型化され発行された。 続いて大正6年()、五銭白銅貨は造幣局始まって以来の有孔貨幣となった。 さらに銀価格の高騰から大正9年()に十銭も白銅貨となり、バランスをとるため五銭は小型化された。 大正9年(1920年)から白銅貨の通用制限額が五圓に引き上げられた。 後世界情勢は悪化し、昭和6年()のをきっかけに日本は戦時体制へ突き進むこととなり、昭和8年()に軍事物資として必需品であるの備蓄を兼ねた十銭および五銭ニッケル貨が発行された。 これ以降、貨幣のデザインは戦時色の強いものとなっていった。 ニッケル貨の通用制限額は五圓であった。 これらの銭、厘単位の補助貨幣、および寛永通寳銅一文銭、寛永通寳真鍮四文銭、文久永寳は昭和28年末をもって「」により廃貨措置がとられ、貨幣としての役割を終えた。 補助銀貨 [ ] 詳細は「」を参照 以下の補助貨幣は「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」により昭和28年(1953年)末限りで廃止された。 明治4年には50銭、20銭、10銭、および5銭の補助銀貨が制定された。 明治5年には5銭の補助銀貨が改正された。 明治5年には50銭、20銭、10銭、および5銭の補助銀貨が改正された。 ただし20銭、10銭、および5銭は発行されず。 明治6年には50銭、20銭、10銭、および5銭の補助銀貨が改正された。 明治30年には50銭、20銭、および10銭の補助銀貨が制定された。 明治39年には50銭、20銭、および10銭の補助銀貨が改正された。 明治40年には10銭の補助銀貨が改正された。 大正7年には50銭、20銭、および10銭の補助銀貨が改正された。 ただし20銭は発行されず。 大正11年には50銭、および20銭の補助銀貨が改正された。 ただし20銭は発行されず。 明治6年制定の銅貨 [ ] 以下の補助貨幣は「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」により昭和28年(1953年)末限りで廃止された。 詳細は「」を参照 昭和13年(1938年)の臨時通貨法(昭和13年法律第86号)制定以降発行された補助貨幣は全て同法を根拠とした臨時補助貨幣であった。 以下の臨時補助貨幣のうち銭単位のものおよび1円黄銅貨は「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」により昭和28年(1953年)末限りで廃止された。 10円洋銀貨は発行されず通貨として有効で無かった。 1円黄銅貨および10円洋銀貨を除く円単位の臨時補助貨幣は、により、この法律の下で発行された「貨幣」と見做され現在通用力を有する。 昭和13年には10銭、5銭、および1銭の臨時補助貨幣が制定された。 昭和21年には50銭の臨時補助貨幣が追加された。 昭和23年には5円、および1円の臨時補助貨幣が追加された。 昭和25年には10円の臨時補助貨幣が追加された。 ただし、10円洋銀貨は発行されず、昭和26年から青銅貨が製造された。 昭和30年には50円の臨時補助貨幣が追加された。 昭和32年には100円の臨時補助貨幣が追加された。 昭和39年には「の発行に関する法律」(昭和39年法律第62号)により1000円の臨時補助貨幣が発行された。 昭和56年には500円の臨時補助貨幣が追加された。 製造・発行は翌昭和57年から。 昭和61年には「の発行に関する法律」(昭和61年法律第38号)により100000円、および10000円の臨時補助貨幣が発行された。 昭和63年(1988年)3月末を以て貨幣法及び臨時通貨法は廃止され、日本の補助貨幣の歴史は幕を閉じた。 年銘別発行枚数 [ ] 本表は、補助銅貨、白銅貨、青銅貨およびニッケル貨の年銘別発行枚数を示したものである。 しかし、貨幣面の年号の発行枚数と暦年上の発行枚数は一致しているとは限らない。 明治30年頃までは貨幣の年号による発行枚数の記録が行われなかったためである。 銅貨は明治6年銘から存在するが、1銭を除いて製造が開始されたのは明治7年である。 また明治11年および12年は明治10年銘の極印を用いて製造が続けられた。 金貨および銀貨と同様に、2銭、1銭、半銭、および1厘銅貨にはいずれも明治25年銘が存在するが、これは流通用に発行された貨幣ではなく、出品用に各2枚ずつ製造されたもので 現在に展示されている。 銅貨 年号 二銭銅貨幣 一銭銅貨幣 半銭銅貨幣 一厘銅貨幣 1,301,486 3,949,758 25,564,953 16,804,440 6,979,260 22,835,255 32,832,038 17,037,928 3,718,840 25,817,570 38,048,906 24,292,478 33,097,868 30,519,429 29,728,520 23,000 25,650,419 30,222,360 18,170,870 17,639,979 37,300,035 29,963,706 33,142,307 33,947,810 14,090,894 810 38,475,569 16,123,612 17,929,026 43,527,187 19,150,666 26,458,976 3,632,360 19,476,164 47,613,017 38,202,062 14,128,150 12,090,586 53,702,768 38,480,248 16,009,130 46,846,352 31,166,240 26,886,198 31,831,224 22,249,580 35,651,654 25,864,939 25,744,686 合計 275,702,662 488,174,149 395,552,952 44,491,550 白銅貨(菊) 年号 五銭白銅貨幣 28,841,944 39,258,103 15,924,782 9,510,289 8,531,858 14,680,000 1,030,000 5,119,988 7,880,012 合計 130,776,976 白銅貨・青銅貨(稲) 年号 五銭白銅貨幣 一銭青銅貨幣 4,144,677 18,197,271 3,649,448 10,658,052 9,764,028 2,426,632 3,086,524 7,124,824 5,555,155 2,448,544 4,444,845 372,000 1,628,000 6,000,000 15,000,000 10,000,000 13,000,000 合計 53,000,000 64,500,000 白銅貨・青銅貨(桐) 年号 十銭白銅貨幣 五銭白銅貨幣(大型) 五銭白銅貨幣 一銭青銅貨幣 五厘青銅貨幣 19,193,946 8,000,000 6,781,830 27,183,078 5,287,584 9,131,211 121,794,756 11,661,877 44,980,633 209,959,359 17,130,539 30,386,990 47,906,326 52,549,211 281,829,256 68,716,815 127,499,120 250,924,715 161,093,766 163,951,669 262,032,666 181,691,351 80,000,000 147,899,058 101,183,166 56,008,078 57,105,449 37,499,386 26,501,286 39,998,165 10,000,000 2,998,714 5,000,000 1,850,000 25,000,000 16,150,000 8,000,000 35,065,000 38,935,000 100,000,000 200,000,000 109,165,000 133,190,000 87,645,000 合計 660,500,000 108,800,000 432,000,000 2,185,500,000 42,080,000 ニッケル貨 年号 十銭ニッケル貨幣 五銭ニッケル貨幣 14,570,008 16,150,008 37,349,992 33,849,992 35,585,000 13,680,000 77,495,000 36,320,000 40,000,000 44,400,000 10,000,000 合計 205,000,000 154,400,000 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 補助貨幣は本位金貨に相対する名称であるが、昭和6年(1931年)12月を最後に金兌換は停止され、昭和17年(1942年)2月の旧制定により金貨の自由鋳造も適用されないこととなり金本位制は名目化し、その後金貨は1988年3月末まで現行貨幣()として通用力を有したものの全く有名無実のものであった。 円単位の臨時補助貨発行後から1988年3月末までは、当時の事実上の現金通貨がと臨時補助貨幣のみであったため、補助貨幣は日本銀行券に対立する用語として一般には捉えられていた。 (『世界大百科事典』26、平凡社、2009年, p275. 日本銀行に引き渡されたが流通せず鋳潰し。 出典・注釈 [ ]• 参考文献 [ ]• 青山礼志『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』ボナンザ、1982年。 久光重平『日本貨幣物語』、1976年、初版。 塚本豊次郎『貨幣沿革図録』愛久商会、1920年。 『明治財政史(第11巻)通貨』明治財政史編纂会、明治財政史発行所、1905年。 『明治大正財政史(第13巻)通貨・預金部資金』大蔵省編纂室、大蔵省、1939年。 『造幣局長年報書(第一〜第六十五年報告書)』大蔵省造幣局、大蔵省造幣局、1876-1939。 『貨幣の生ひ立ち』大蔵省造幣局、朝日新聞社、1940年。 『造幣局六十年史』大蔵省造幣局、大蔵省造幣局、1931年。 『造幣局百年史(資料編)』大蔵省造幣局、大蔵省造幣局、1971年。 『図録 日本の貨幣・全11巻』東洋経済新報社、1972-1976。 『日本の貨幣-収集の手引き-』日本貨幣商協同組合、日本貨幣商協同組合、1998年。 関連項目 [ ]•

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