同大会で優勝したミルクボーイもまた、おかんが思い出せないワードをあれやこれやと探っていく漫才で注目された。 その「何か」を面白おかしくいじるなどして笑いにつなげるようなところもあるが、ぺこぱと同じように両論併記的で、いいところも悪いところも紹介するような性質がある。 よく現代は、選択肢が多くて選べない時代だと言われることもあるし、TwitterなどのSNSを見ても、あちらを立てればこちらが立たずという状態を避けようとする向きもみられる。 彼らの笑いは、そういう時代の気分ととても合致しているように思うのだ。 そんな態度は、多様性を認めることにもつながるようなところもあるからこそ、彼らの笑いは「誰も傷つけない」「優しい」と言われるのだろう。 コンビの関係性にも変化 「優しい」という意味で言えば、第七世代をはじめとする若手芸人たちには、若いときに特有(と思われてきた)のライバル心のようなものも少ないように見える。 現在、第一線で活躍するアラフィフ世代の千原兄弟や、「吉本印天然素材」のユニットで活躍していたナインティナイン、雨上がり決死隊、FUJIWARAの面々が大阪でしのぎを削っていた1990年代頃は、今よりも緊張感のある空気だったと聞く。 それはそれで、その時代の空気感というものがあったのだろう。 また、かつてであれば、学生時代からの仲良し同士がコンビを組んだとしても、「お笑い」という仕事を始めたからには「仕事」を通じた仲間だとして、楽屋では一言もしゃべらないとか、プライベートで一緒になることもないというエピソードなどを聞くことも多かった。 そういった逸話が独り歩きして、無理にそのセオリーに縛られようとしていたコンビもいたのではないか。 しかし、最近ではーーこれは世代というよりも時代性によるものだと思うがーー、第七世代に限らず、お笑い芸人にとっての「相方」は一番わかりあえる一生の友達と見ているようなコンビも増えてきた。 仲良くするとかしないということにこだわるのではなく、相方ともニュートラルな関係性でいる人が増えてきた印象だ。 『アメトーーク! 』では、「相方大好き芸人」というテーマの回があるくらいである。 そうした時代の変化にフィットした、というよりも、むしろそれを通常の感覚として持っているのが第七世代なのかもしれない。 しかし、彼らをみて、私は「毒がない」とか「牙を抜かれている」とは決して思わないのだ。 先輩大御所芸人たちと共演するとき、先輩芸人が先輩だというだけで、よかれと思ってプレッシャーをかけてきたり、時代遅れなコミュニケーションを求めたときには、はっきりと「おかしいのではないか」と言える。 以前であれば、先輩の言うことは矛盾があっても「絶対」と従っている芸人のほうが多かったのではないか。 笑いの「毒」は「イキり」と綿密に関係していた 以前は「尖っている」というとき、芸人に限らず、自分がなめられないための「イキり」をしてみたり「反社会的」な行動を面白おかしく肯定したり、女性蔑視的な発言をすることで男同士の絆を強めたり、また横のコミュニケーションを拒否することで孤高の存在になろうとすることが「美学」として捉えられることが多かったように思う。 そのとき重要視されるのは、縦社会の強い絆であったのではないか。 かつてのお笑いの「毒」はそうした「イキり」と綿密に関係したように思えてならないのだ。 しかし、現在はそうした縦社会の関係で下の者に有無を言わさない態度は、第七世代には簡単に拒否されてしまう。 そう考えると、かつての縦社会に従順な人たちがその枠外の弱いものに向ける毒など、本当の毒だったのだろうかとも思える。 むしろ私からすると、今の縦社会の人間関係に異を唱え、長いものに巻かれない態度のほうに「反骨心」を感じるのだ。 肉声を発信するEXITの2人 そんな現在の「毒」や「反骨心」を感じる芸人が、最近の人気芸人や、 特に第七世代には何人かいる。 例えば、前出のぺこぱであれば、これまでの「突っ込み」の常識を翻したという意味での「反逆者」だと思うし、チャラ漫才で時代を表す顔となったEXITもまた、これまでの「芸人はチャラくて女性にビジュアルで受けるのは反則」と思われていた常識を覆し、パシフィコ横浜という大規模な会場で、「魅せる」笑いを追求し、ときにはかっこいいグラビア取材を受けつつも、ネタの精度では先輩芸人をもうならせている(1980年代にもザ・ぼんちが日本武道館でのライブを成功させた例などもあるが、それは特例であり、そうしたアイドル人気は、お笑い芸人にとっての邪道であるという空気は現在でもあり、議論を要するところではある)。 現代のEXITは、チャラさはそのままに、AbemaTVの『報道リアリティーショー「ABEMA Prime」』では自らの頭で考えた肉声をりんたろー。 も兼近も発信している。 特に兼近は『ワイドナショー』にも出演。 保守的な言説の人が多い中で、流されない姿勢には、個人的に希望すら感じている。 それもこれも、彼がその場の優勢の空気に迎合するのではなく、また知識がないときにはそれを表明した上で、自分が考えていることを率直に語っているからではないか。 今までのバラエティ番組は、その場を仕切るものが作る空気にいかに早く応えるかが優れた出演者だと思われてきたが、これからは、違った方向に進むのではないかと思っている。 お笑い界にあるジェンダーの不均衡 こうした変化は、女性の芸人も同様だ。 これまでは、「いじりはありがたいもの」と思えという風習があった。 女性の芸人の「毒」と言えば、今までは「女同士の戦い」を仕掛け受けて立つようなことを指していたかもしれない。 しかし、冷静に考えれば、それすらも、その場の空気や、芸人という集団の要望にただ応えているだけではなかったか。 それは、集団の強者の要望に従順であることの証であり、笑いの「毒」ではなかったのではないかと感じる。 2020年6月14日(13日深夜)放送の『ゴッドタン』には、松竹の女性芸人のヒコロヒーが登場。 先輩男性芸人のみなみかわと、2019年のM-1グランプリのために組んだコンビ「ヒコロヒーとみなみかわ」のネタを披露した。 それは、「男芸人みたいな女芸人」をヒコロヒーが、「女芸人みたいな男芸人」をみなみかわがするという、男女の日常を反転したネタで、今のお笑い界にあるジェンダーの不均衡な部分を浮き彫りにしていた。 「尖った」笑いとは何なのか 現代の「毒」というものは、こうした今までは当たり前であった悪しき習慣にメスを入れ、あきらかにすることだ。 そこにこそ刺激的な笑いがあると感じるし、同じように感じている人も多いのではないか。 「尖っている」とは、強いものに巻かれ、弱いものをいじるのではなく、「当たり前」を疑うことを言うのだと思った。 もちろん若い世代にも、今までのやり方と親和的なコンビも存在する。 しかし、第七世代の多くは、本人を含め、あらゆる立場の人を傷つけず尊重しているし、尊重されていないことには異を唱える。 そんな姿をみて「牙を抜かれている」とか「コンプライアンスのせいで表現が制限された」という人がいるが、むしろ表現の幅は広がり、深くなっているのではないか。 しかし、これまでの慣習に対して異を唱えるなど、ごく当たり前のことを発言するだけで「毒」や「反抗」になってしまう世の中のほうが私は心配だ。 それは今の社会が多様性を認めていなかったり、差別的であったりするということを浮き彫りにしているということでもあるのではないだろうか。 (文: 編集:若田悠希).
次の舞台上では抜群に実力のある若手たちが、トーク番組でそれらをネタに先輩からいじられる……この構図には、芸人界やテレビ界に根強く残る、セクハラ・パワハラの構図が見え隠れしていることにお気づきだろうか? TKO木下や友近などの言動が問題とされる今、アナクロニスティックな芸人社会の本質を解き明かしてこう。 「童貞って生きてきてそうなっただけで、別に面白くないじゃないですか」 これは現在「街ディスり漫才」でブレイク中の納言・安部が、日刊サイゾーのインタビューで発した一言である。 『アメトーーク!』(テレビ朝日系)に出演した際「童貞」と紹介された安部は「(童貞であることの)何が喜ばれているのかわからない」と感じたという。 「童貞」を公言している芸人は多い。 かつてはハライチの澤部がカミングアウトし、現在は霜降り明星の粗品、四千頭身の石橋、宮下草薙の草薙、やさしいズ佐伯……。 この世界で「童貞」が持て囃されるのも、一般的に芸人は「モテる」というイメージがあり、その揺り戻しが多少あるのは事実だろう。 ところが、「童貞」それ自体は決して面白いものではないと芸人本人は考えているのである。 確かに「童貞」のどんなところが面白いのかと言われたらわからない。 例えばそれを「処女」に置き換えてみると、面白いどころか途端にセクシャル感が増しハラスメント臭が漂ってくる。 それもおかしな話だ。 安部が言うように「童貞」や「処女」は単なる身体におけるひとつの「状態」。 「肌の調子がいい」「腰が痛い」となんら変わりはない。 同じく状態のひとつである「ブサイク」も、かつては笑いの対象ではあったものの、現在その風向きは変わりつつある。 キングオブコント2019でGAGが「ブスを武器にしないと生きていけないと思い込む女芸人」をネタにしたことでもわかるように、その構造はもう逆サイドから考察され皮肉の対象になっている。 しかしまだ「童貞」は世間から笑いの対象となっているのである。 いや、本当に世間は童貞を笑いの対象にしているのだろうか。 持って生まれた容姿を笑うこと、女性の性体験のあるなしをいじること、2019年の感覚でいえばそれらは「NO」だ。 ではなぜ「童貞」だけそのくくりから外されているのだろうか。 数多くの組織で心と体の問題に取り組んできた産業医の大室正志氏は言う。 「今の社会でセクシュアリティいじりをするのは、危険意識が足りない、迂闊な行為。 現状では、何を言っても構わないという番外地です」 確かに「LINEおじさん」(若い女性にちょいと気持ち悪いLINEを送りつけてくる男性)や「エアポートおじさん」(空港での写真を思わせぶりにアップする男性)は一時期インターネットの嘲笑の的になっていた。 そうしたLINEやツイッターのスクショはアップされ、バカにされ、さらには「LINEおじさん風LINE」など悪意120%の擬似投稿まではやっていた。 皮肉なことに平素は性差別に敏感な女性たちが率先して「おじさんいじり」に興じていた。 弱者が強者をいじる構図はまだ許されてきた。 ゲイの女装家で巨漢という異形のマツコ・デラックスなら、ある程度の毒舌が許されるのと同じです。 しかし童貞いじりはそこからも外れる。 明らかに強者(経験者)が弱者(童貞)をいじっているわけですから」(同) ハラスメント的にはタブーとされる「強者による弱者いじり」がまかり通る背景には芸人社会独特の基盤がある。 先日『水曜日のダウンタウン』(TBS系)で「電話口で『その場で土下座しろ』とキレられても、さすがにしたことにして済ます説」という企画が放送された。 結果、先輩に電話口で土下座要求された後輩の多くが人目もはばからず「本当に」土下座をしていて、なんともやるせない気持ちになった。 『水曜日』はこれまでも、「ソフトクリーム買った直後に説教食らったら食べるわけにいかず溶けて無くなっちゃう説」など、芸人たちの異常な上下関係を「説」として検証している。 一般的に「社会に馴染めないから芸人やってる」と言いながらその実、「芸人社会」のなんて厳しいことだろう。 では、そのように先輩後輩という上下関係がはっきりした芸人の世界で、さらに「童貞」「非童貞」というレッテルを貼ることの意味はどこにあるのだろうか。 「同質性を高めることによって内部を強化するというのは、今までもさまざまな組織が行ってきたひとつの手法です」。 前出の大室氏はそう話す。 「上位者たちは、同質性を高めるために『男は誰もが童貞を捨てたがっている』という前提で話を進めるのです。 納言・安倍の「単なる状態である童貞の何が面白いんだろう」という根源的疑問は、ここに行きつく。 彼らはそもそも「捨てたがっている」わけでも「捨てたくても捨てられない」わけでも「あえて捨てない」わけでもないと考えているのに、いじられる。 大室氏の言葉を借りれば「童貞いじりは『Will not』を『Can not』にすり替えているところに問題がある」。 すなわち「ただやってないだけ」が「やりたいのにできない」と変換されたことにより、単なる「状態」に「意志」がプラスされ「意味」となる。 童貞が「意味」となるのである。 喪失欄にハンコが押してある諸先輩方からすれば、やりたいのにできないともがく童貞芸人のさまは、かつての自分を見ているようで愛おしく、記憶の中で思いっきり美化された故郷の風景のように見えるかもしれない。 童貞たちの妄想を笑い、現実をアドバイスすることで優越感を覚えるかもしれない。 芸人のみならず、今テレビを作っている中心の世代の価値観は、おそらくそうだ。 童貞は「状態」ではない、「意味」であると。 今までも何度か放送されている『アメトーーク!』のチェリー芸人系企画は、その共通認識があって初めて成り立つものだ。 そして今を時めく若手芸人たちが高らかに「童貞です」と宣言している姿を見ると、また別の視点が浮かび上がってくる。 若手芸人が童貞の「足りなさ」を自覚的に武器にするという視点だ。 どの業界でもそうだが、若い才能は疎まれる。 30代、やもすれば40代も「若手」にくくられがちな芸人界で、NSCを通過せず、20代でM-1優勝、さらにR-1優勝も勝ち取った霜降り明星・粗品は明らかに異質な存在になるだろう。 しかし粗品が「童貞」で、しかも「包茎」と発言することで、先輩からの嫉妬ややっかみは薄れ、天才芸人は「男スタンプラリーで前に進めない若者」までダウンサイズされるのだ。 これはもう勝手な推測だが、テレビの中心が40代・50代である現在、20代である第七世代芸人が取り得る一種の防御のような気がしてならない。 つまり20代がおじさんおばさんの感覚にフィットしているフリをしている、先輩が気を悪くしないようにその設定に乗ってくれているだけなんじゃないかとまで思えてくる。 「実は結構前から童貞話を振られても、本当に話せなくなっていて。 もともと、自分から話を切り出すことはなくて、周りからイジられることが多かったんですけど。 単純に童貞ネタをまったくおもしろいと思えなくなってるし、その手のありふれた打算的な自虐はもうやりたくなくって」 これは「サイゾー」2019年6月号のインタビューで、DJ松永が漏らした言葉だ。 「捨てたがっている」わけでも「捨てたくても捨てられない」わけでも「あえて捨てない」わけでもない童貞が勝手に持て囃され、結果「打算的な自虐」と見られることへの警戒と憤り。 番外地だった「童貞いじり」も、若者によって徐々に地番がつけられつつある。 若手芸人が「童貞って言えば先輩やテレビマンが喜ぶから童貞を名乗る」というネタを作るのも、時間の問題なのではなかろうか。
次の2010年以降にデビューした若手お笑い芸人• 2010年代後半から活躍する若手お笑い芸人• 1987年(昭和62年)以降に生まれの芸人• 1989年(平成1年)生まれの芸人• デジタルネイティブであるゆとり世代の芸人• 20代から30代前半の世代の芸人 「お笑い第七世代」という言葉の生みの親は、霜降り明星のせいやさん。 2018年12月22日深夜放送のラジオ番組『霜降り明星のだましうち! 』にて「同世代の芸人で新しいものを作っていきたい」という思いから、「第七世代」という新しい言葉を作りだしました。 霜降り明星のせいやさんは、当初「第七世代」という言葉を打ち出した時には、芸人だけではなく「同世代のミュージシャンやユーチューバーとも一緒に何か仕掛けていきたい」と考えていました。 さらに「お笑い第七世代」については、「上の世代に勝とうとかじゃなくて、自分ら20代でしかできないお笑いがあるのではないか、そういう可能性を探る世代」とも明かしています。 テレビや書籍にて、「お笑い第7世代」が紹介されるようになり、言葉自体が一人歩きしてしまったことについて、霜降り明星のせいやさんは、「第7世代がビジネスになっている。 第7世代のうまみみたいなのは周りが持って行って、えぐみみたいなのを俺だけ飲んでる」と不満を漏らしたこともあります。
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