キラー・ブルックス プロフィール リングネーム キラー・ブルックス キラー・ティム・ブルックス "クレイジー" キラー・ブルックス ルーク・マリガン 本名 ティモシー・ポール・ブルックス ニックネーム 狂乱の問題児 身長 185cm 体重 120kg(全盛時) 誕生日?? 日 出身地 ワクサハチー トレーナー デビュー 引退 キラー・ブルックス( "Killer" Tim Brooks、本名: Timothy Paul Brooks、 - )は、の元。 ワクサハチー出身。 生年はともされる。 火のついたをくわえ動物の骨を振りかざして入場する狂乱ファイターとして知られ、試合スタイルも殴る・蹴る・凶器攻撃主体のを徹底。 参戦時以外はエース級の存在ではなかったものの、日本でも昭和期の各団体で活躍した。 来歴 [ ] (説もあり)、従兄弟のに誘われてプロレスラーとしてデビュー。 が主宰する地元の地区を本拠地に、からはが牛耳る地区にも進出。 、、、、などの陣営と対戦し、シークやともタッグを組んだ。 日本には3月にに初来日。 、、ディック・マードック、、らと共に、の第14回大会に出場した。 10月にはマードックやと共にに来日している。 帰国後の11月中旬、デトロイト地区でを起こし、シークの団体から選手を引き抜いて新団体を発足。 シークはに来日中だったが、お家の一大事のために緊急帰国を余儀なくされている。 このレスリング・ウォーはという後ろ盾のあったシークに軍配が上がり、ブルックス派はに本拠を移すが、結局はブルックスも新団体と絶縁した(この新団体は、にを初代世界王者として設立されたIWA の母体となっている)。 その後はテキサスに戻り、1975年は地区にてらと共闘し、やと抗争。 が保持していたにも挑戦した。 に・のに参戦し、3月17日にフラッグシップ・タイトルの北米ヘビー級王座を獲得。 同年11月、カルガリーと提携していたに初登場を果たす。 以降も国際プロレスの常連外国人となり、のに再三挑戦、5月9日の大会では、途中からルールをに変更して行われた。 はブラックジャック・マリガンのパートナーとして、従兄弟の ルーク・マリガン( "Cousin" Luke Mulligan)を名乗りに参戦、マリガンと抗争を展開していた、、らと対戦した。 ザ・シークとも復縁し、1980年6月28日にデトロイトで行われたワンナイト・タッグ・トーナメントにシークと組んで出場。 翌3月には全日本プロレスに再来日し、のに参加。 以降は日本での主戦場を全日本マットに移した(なお、国際プロレスは1981年8月に崩壊)。 その間、アメリカ・マットではに主宰ので活動。 から奪取したNWAナショナル・ヘビー級王座をに売却するというで物議を醸した。 は地区のサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングにて、、、らとサウスウエスト・ヘビー級王座を争った。 中盤からは古巣ダラスのWCCWに定着。 5月には、当時WCCWと提携関係にあったに来日。 のに出場し、開幕戦で同ブロックのと対戦したが、からの不戦勝以外は全敗の戦績に終わった。 、ダラスにて NAWA( North American Wrestling Allegiance)なる兼任のインディー団体を設立。 1月には、教え子のケニー・ザ・ストライカー(ケニー・ザ・スティンガー)も参戦したに来日している。 9月から6月にかけては、WCCWの後を引き継ぐ形で旗揚げされたグローバル・レスリング・フェデレーションに出場、若手時代の、、らと対戦した。 に現役を引退し、以降はNAWAの責任者兼ヘッドトレーナーとして、団体の運営と若手選手の育成に携わった。 NAWAの主な出身者には、にワイルド・ブルマンのでに来日したブルマン・ダウンズ 、後半にテキサス州のプロフェッショナル・チャンピオンシップ・レスリングでやと抗争したクリス・クロニックなどがいる。 得意技 [ ]• 噛みつき・かきむしり・など全般 獲得タイトル [ ]• テキサス・ヘビー級王座:1回• WCCW TV王座:1回• スタンピード北米ヘビー級王座:1回 パシフィック・ノースウエスト・レスリング• NWAナショナル・ヘビー級王座:1回 サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング• SCWサウスウエスト・ヘビー級王座:2回 脚注 [ ]• Online World of Wrestling. 2015年12月3日閲覧。 『プロレスアルバム16 THE HEEL』P10(1981年、)• 『昭和プロレスマガジン 第34号』P29(2014年、昭和プロレス研究室)• Wrestlingdata. com. 2015年9月12日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2015年9月12日閲覧。 Puroresu. com. 2015年9月12日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2015年9月12日閲覧。 『THE WRESTLER BEST 1000』P25・P244(1996年、日本スポーツ出版社)• Wrestling-Titles. com. 2010年6月19日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2014年5月28日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2010年4月7日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2014年10月4日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2014年10月4日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2014年10月4日閲覧。 Puroresu. com. 2015年9月12日閲覧。 Puroresu. com. 2015年9月12日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2010年4月7日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2011年6月1日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2014年5月28日閲覧。 Puroresu. com. 2015年9月12日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2015年1月19日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2015年1月19日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2015年1月19日閲覧。 Online World of Wrestling. 2010年9月23日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2014年10月4日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2014年10月4日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2014年10月4日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2014年10月4日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2016年6月19日閲覧。 外部リンク [ ]•
次の殴る蹴るだけの狂乱ファイトで活躍。 68年にに誘われてデビュー。ダラス地区で活躍後、デトロイト地区に転戦しと抗争。 72年3月に日本プロレスに初来日。 74年10月、仲のよかったとディック・マードックと共に全日本プロレスに登場。 同年11月、シークの日本遠征中に、シークの団体ビッグ・タイム・レスリングから過半数のレスラーを引き抜いて新団体を結成。 デトロイトでシークと1年以上興行戦争を繰り広げた。 結果的にはNWAに加盟していたシークの団体に敗北し、ブルックス派は消滅。 その後は一レスラーとして南部テキサスに移動して活躍した。 76年にと組んでテキサスタッグ王座を獲得。 77年3月17日、カルガリーのスタンピード・レスリングでを破り北米ヘビー級王座を獲得。 11月、国際プロレスに登場。 78年3月にと組んでテキサスタッグ王座を獲得。 79年5月9日、国際プロレスの焼津市民体育館大会でのIWA王座にチェーン・デスマッチで挑戦。 が乱入して木村を攻撃し、14分56秒、無効試合に終わった。 80年、と組んでテキサスタッグ王座を獲得。 81年にはテキサスヘビー級王座を獲得。 83年3月20日、アトランタでNWAナショナルヘビー級王座を獲得。 84年2月にSCW南西部ヘビー級王座を獲得。 85年6月10日、を破りWCCW・TV王座を獲得。 87年5月、新日本プロレスに登場。 88年にテキサスでレスリング学校を開校。 91年1月4日、SWSの東京ベイNKホール大会でと対戦。 6分3秒、サソリ固めに敗れた。 1月6日、SWSの静岡産業館大会でと対戦。 10分10秒、ジャンピングパイルドライバーに敗れた。 グーグル検索 レスラーノート検索.
次の2002年3月に行われた3周年記念オフ会の目玉企画として国際プロレスの秘蔵映像を鑑賞した。 雑誌でしか知りえなかった試合の数々が映し出せれて、筆者は非常に感激したわけであるが、中でも一番新鮮だったのは「エースとして」登場しているキラー・ブルックスの姿である。 ブルックスはディック・マードックの従兄弟であり、海外でもトップ・クラスのレスラーではあったが、日本の団体で彼をエースとして扱ったのは国際プロレスだけであった。 当時の国際のエースはラッシャー木村であり、木村にはロビンソンのようなテクニシャンタイプよりもブルックスや、ジプシー・ジョー、トーア・カマタ、アレックス・スミルノフといった狂乱型のラフ・ファイターをぶつけるほうが試合がスウィングするのである。 そんな理由でブルックスもエースに抜擢されたのである。 私がテレビ観戦をはじめたころのブルックスは、全日本プロで3番手ぐらいの扱いを受けており、TVに登場しても彼がフォールを奪うシーンはお目にかかれなかった。 それだけにブルックスのフィニッシュ・ホールドは何なのかということに非常に興味を引かれのである。 ビデオではブルックスとマイティ井上の試合が映し出されている。 ブルックスが木村に挑戦する1週前のテレビ中継ようだ。 試合の中盤に体育館の2階バルコニーにスポットがあたる。 浮かび上がったのは、翌週にブルックスの挑戦を受ける木村であった。 これが腕を組み無表情なのがおかしい。 ブルックスは木村を十分に意識し、井上のサンセットフリップを自爆させ、ロープに飛んで豪快なギロチンドロップ1発でフォールを奪い、木村を指差し「カムラー!」と叫ぶ。 と同時に「次週 IWA世界選手権 木村VSブルックス」のテロップが・・・。 本番のタイトルマッチでブルックスはなんとセカンドロープからのギロチンドロップで木村からフォールを奪っている。 木村が偵察していた試合では奥の手を温存していたというわけだ。 うーん深い! 同じ国際プロに準エースとしてよく来日していたカナダの復讐鬼 ギル・ヘイズもギロチンドロップを得意としていた。 彼は飛び上がった瞬間に舌をべろっと出し、残忍な表情をするのを売りにしていた。 昭和50年代に来日したレスラーの中ではなんと言ってもブルーザー・ブロディのギロチン・ドロップが豪快であった。 フィニッシュのジャンピング・ニードロップと同じ入り方をするため、ファンは大いに盛り上がりブロディがギロチンを出すと、的が外れてさらに盛り上がるという。 これはブロディのすばらしい計算であった。 もう一人忘れてはならないのがハルク・ホーガンである。 アメリカでの試合ではこの技をフィニッシュとして多用していたが、日本ではこの技をフィニッシュにはしなかった。 日本のファンにこの技は受けないということを察知したのであろう。 トップ・レスラーにはこのようにファイトする土地土地でスタイルを変える柔軟性も必要なのである。
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