フライイング・バットレス Flying Buttress フライイング・バットレス アーチ・バットレス arch buttress はアーチ構造から構成されるの特別な型式で、 このアーチ構造は壁の上部から大きな重さのせり持ち pier に延長し、 壁を外に押し出す横方向の力を地面に伝えるものであり、 この横方向の力は石造のアーチ天井 vaulted ceiling と屋根における風の負荷に起因している。 リューベックの聖マリア教会の主ヴォールトを支える フライイング・バットレス、側廊の 1 つの上から見る。 フライイング・バットレスを機能的によく表す特徴は、 通常のバットレスのように支える壁と接触しておらず、 壁とせり持ち pier の間の介在する空間を越えて、横方向の力を伝達することである。 横方向の支えを提供するために、 フライイング・バットレスのシステムは 2 つの部分から構成される:• ずっしりとしたせり持ち pier 、 これは建物の壁から離れた所にある石細工の垂直ブロック、• 歴史 横方向支持システムとしてフライイング・バットレスは古代末期に発展し、 後にゴシック建築の時代 12 世紀頃 - 16 世紀頃 に繁栄した。 フライイング・バットレスの古代の実例はラヴェンナの Basilica of San Vitale in Ravenna とテッサロニキ Thessaloniki の Rotunda of Galerius に見出すことができる。 中世のフライイング・バットレスの先駆となる建築要素は 教会デザインにおけるビザンチン建築 Byzantine architecture とロマネスク建築 Romanesque architecture に由来し、 例えば Durham Cathedral があり、 ここではアーチは石造ヴォールトの横方向の押し出す力を側廊 aisle を越えて伝達している; アーチは廊下の屋根に隠され、横方向の力をずっしりとした外壁に伝達している。 」 ギリシャ、テッサロニキ 4 世紀の フライイング・バットレスの初期の実例。 のフライイング・バットレス の絵 このような横方向の支持システムの利点は、 ヴォールトの横方向に押し出す力に逆らって、外側の壁をずっしりと重くする必要がないことである。 その代わりに、壁の表面を少なくすることができる これにより窓を大きくして、の窓をはめることができる。 というのは垂直質量が外部のバットレスに集中しているからである。 初期のフライイング・バットレスのデザインは静的負荷に必要とされるよりは重くなる傾向がある。 例えば Chartres Cathedral, 1210 年頃 と Saint Remi Basilica のがある。 後者は現存し、元々の形式 1170 年頃 の初期の実例である。 後の建築はますますフライイング・バットレスのデザインを洗練させ、 フライヤー flyer を狭くし、このうちの幾つかは レンガの楔 一枚の 厚さで建設され、笠石 capping stone が上についていた。 例えば、 the Amiens Cathedral , サン・ジュリアン大聖堂 the Le Mans Cathedral , 及び サン・ピエール大聖堂 the Beauvais Cathedral がある。 ゴシック建築末期の建築デザインはフライイング・バットレスを呼び物にし、 このうちの幾つかはフライヤーの crocket, 鉤型の装飾 の装飾と、 バットレスの aedicule、壁龕 に設置された 彫像を売り物にした。 結局、ルネッサンスの建築様式はフライイング・バットレスの横方向支持を避けて、 分厚い壁を建築した。 機能の不使用と、建設・建築様式にもかかわらず、20 世紀初頭には フライイング・バットレスのデザインはカナダの技術者である ウィリアム P. アンダーソン William P. Anderson により復活されて、灯台が建設された。 建設 重量負荷の大半が上部の壁を通じて、天井から伝達されるため、 フライイング・バットレスは 2 部構成の支えで、 壁から随分離れて、どっしりとしたせり持ちに延びる半アーチを呼び物にし、 従って、普通のバットレスの負荷を支える能力の大半を提供する。 普通のバットレスは上から下まで壁と連動する必要があり、 従って、フライイング・バットレスは、より軽く・より費用効率の高い建築構造である。 負荷を支える壁から過剰な重さと分厚さを軽減し、接触する領域を少なくして、 フライイング・バットレスの使用が、より広い壁に窓を設置することを可能にしている。 この造作ともっと光を取り込む望みにより、フライイング・バットレスが中世ゴシック建築の決定的な要因となり、 造作がその時以来、教会のデザインで広範囲に使用された。 ゴシック教会のデザインでは、2 重アーチのフライヤーが適用され、 一方が他方の上にあり、 低い方のフライヤーが ヴォールトのアーチの飛び出し点 springer より下にあって ヴォールトの横方向の押し出す力に拮抗し、 一方、高い方のフライヤーは屋根の風の負荷の力に拮抗した。 フライヤー flyer の外側の端にある垂直バットレス せり持ち、pier は 円錐あるいはピラミッド形の pinnacle で蓋がしてあり、 通常は crocket, 鉤型の装飾 で飾られ、垂直負荷の追加の支えを提供し、 これによりフライヤー flyer により伝達される横方向の力に拮抗した。 19 世紀末のウィーンの Votive Church ネオ・ゴシックのフライイング・バットレスの建築図面 ゴシック時代の美的様式 複数の廊下 aisle と共に多くの信者を収容する大きな大聖堂を建設する望みが登場し、 この望みがゴシック様式を発展させた。 フライイング・バットレスはこれらのどっしりした石造建築物への解答であったが、 このような建築物には多くの支えが必要で、大きさを広げる必要もあった。 フライイング・バットレスは元々は構造目的の役目を果たしたが、 ゴシック時代の美的スタイルでは不可欠な要素となった。 フライイング・バットレスは元々はと高い天井を支えることによって、安定と構造を通じ、 大聖堂に開放スペースと光の考えを持ち込む助けとなった。 大聖堂の高さとの随分多くの窓がのぞき込む人に開放空間を創り、空間をもっと連続的に見せ、 明白な境界がないような幻想を与える。 これは空間をもっと動的にして、静的にならないようにし、 ゴシック様式を、平坦でもっと 2 次元的なロマネスク様式から分離している。 フライイング・バットレスの導入後にはこの同じ概念が大聖堂の外部にも見ることができた。 フライイング・バットレスのアーチの下には開放空間があり、この空間は教会内のと同じ効果があり、 見る人にアーチを通して見ることを可能にする。 バットレスは教会内の柱と類似して空にも達し、これは上方空間を創っている。 外部空間を内部空間と同じように動的にし、 首尾一貫性と連続性の感覚を創っている。 フライイング・バットレスのギャラリー の St.
次のケルン大聖堂 1880年、ドイツのケルン大聖堂が完成しました。 身廊(ドーム)の高さ46m、双塔の高さは157m。 北ヨーロッパ最大の聖堂です。 ケルン大聖堂の建築が始まったのは、1248年でした。 しかし、資金難から1320年に内陣が完成したものの、1560年以降は建築工事は完全に停止してしまいました。 以後、3世紀もの間、南塔には巨大なクレーンが据え付けられたままになってしまいます。 1814年、ケルン大聖堂のオリジナル図面が発見されました。 折しも、中世以来、小国家の分立状態が長く続いていたドイツは、ナポレオンの支配からの解放を機に、統一の機運が急速に高まっていました。 ゲーテがケルン大聖堂の完成を呼びかける声に賛同したこともあり、ケルン大聖堂は、いつしか ドイツ統一と愛国心の象徴となっていきます。 そして、1842年、ついに工事が再開されたのです。 ケルン大聖堂は、300年の空白によって、かえって中世のゴシック様式を忠実に再現することになりました。 その間に起こった聖堂改築の嵐を避けることができたからです。 では、ゴシックとはいったいどのような様式なのでしょうか。 (写真:ケルン大聖堂 ドイツ観光局HPより ) ゴシック建築とは? ルネサンスの時期、人々は、それまでの建築様式を「ゴート風の」と呼んで蔑みました。 しかし、これはまったくの偏見であったことは言うまでもありません。 そもそもゴシック様式の大聖堂は、ルネサンスを生み出した原動力の一つである都市の発展と密接な関係があるのです。 ゴシックの壮麗な大聖堂は、 都市の経済的発展のシンボルでした。 東京都庁舎がパリのノートル・ダム大聖堂にインスピレーションを得ていると言われるのも、両者がともに都市の繁栄のシンボルであるからに違いありません。 ゴシック建築の3要素と言われるのが、 1 尖頭アーチ、2 リブ・ヴォールト、3 飛び梁(フライング・バットレス)です。 尖頭アーチは、従来の半円アーチと比べ、視線を上へと導く効果があります。 「ヴォールト」とは、アーチの原理を利用して作られた石造やれんが造りの屋根、天井のことを言いますが、内輪に突出した棒状のリブを持つものをリブ・ヴォールトと呼びます。 ヴォールトによって生じる水平力を支えるため、身廊の外壁から、外側に設けられた控え壁に斜めに架け渡されたアーチをフライング・バットレスと言います。 つまり、「突っかえ棒」のようにして身廊が外に傾こうとする力を支えるのがフライング・バットレスの役割なのです。 この飛び梁のおかげで、窓を広く取り、ステンドグラスをはめ込むことが可能となったのでした。 パリ大聖堂(ノートル・ダム)の東側の内陣を支えるために周囲に張り巡らされたフライング・バットレスは、まるでロケットのような景観を与えています。 ゴシック建築はよく「針葉樹林」にたとえられますが、その高い幹は、控え壁やフライング・バットレスといった「枝」によって支えられていると言えます。 ゴシック様式の教会と言えば、真っ先に思い浮かぶのが美しいステンドグラスです。 前述したように、ゴシック建築は、窓を広くとることを可能にしました。 その窓には、様々な色彩に彩られたステンドグラスがはめ込まれ、堂内をを神秘的な光で満たしました。 その空間は、宗教的な世界の中に生きていた中世の人々にとっては、まさに「神の国」を表すものだったことでしょう。 ゴシック建築の高さ競争 建築技術の進歩は、一方で、ゴシック建築に高さへの挑戦をもたらしました。 下の表は、ゴシック誕生の地といわれるフランスのイル・ド・フランス地方 (パリを中心とした半径100kmほどの地域)におけるゴシック大聖堂の高さ(身廊の高さ)を比較したものですが、約100年の間に、ほぼ2倍の高さになっていることがわかります。 ボーヴェー大聖堂の48mという天井の高さは、当時としては驚異的な高さでした。 しかし、この大聖堂は、完成からわずか12年で天井が落下してしまいます。 このあたりが石造建築の限界とも言えるでしょうか。 名称 建築年代 高さ サンス大聖堂 1140年頃〜 24m ラン大聖堂 1160年頃〜 24m パリ大聖堂(ノートル・ダム) 1163年〜 32m シャルトル大聖堂 1194年〜 34m ランス大聖堂 1211年〜 38m アミアン大聖堂 1220年〜 42m ボーヴェー大聖堂 1247年〜 48m 再びケルン大聖堂 中世ドイツには、約3000の都市があったと言われていますが、そのほとんどは人口1万人未満の小さな都市でした。 12世紀頃のケルンは、例外的に3万人の人口を抱える大都市であり、ライン川を結ぶ毛織物交易の要衝として、繁栄を極めていました。 このような状況のもと、市民の間に、古い大聖堂を建て替えようとする機運が盛り上がったのは当然のことでした。 14世紀になると、ケルン大司教は神聖ローマ皇帝を選ぶことができる七選帝侯の一人となり、政治的な権力まで手中に収めます。 ところが、16世紀になると、宗教改革によって宗教的権威は失墜し、さらにそれに続く三十年戦争が国土の荒廃をもたらしました。 さしものケルンの繁栄にも翳りがさしてきます。 これと歩調を合わせるかのように、ケルン大聖堂の建築も中断します。 まさに、ケルン大聖堂の建築は、ケルンの繁栄と衰退を象徴しているのです。 「ケルン」の語源は、「コロニア」すなわちローマ帝国時代の「植民市」(帝国の北の守りを固める軍隊駐留地)です。 18世紀、その同じイタリアから一人の商人がケルンにやってきます。 彼は、オレンジのエキスをアルコールで溶解して、一種の芳香剤を発明しました。 「香水」という商品を開発したのです。 それは、ケルンの名をとって オー・デ・コロン( EAU DE COLOGNE、フランス語で「ケルンの水」の意)と呼ばれました。 今でも、大聖堂前にある 店「4711」がオー・デ・コロン発祥の地として知られています。 「ケルンの水」は、ナポレオン軍の兵士たちが妻や恋人にお土産として持ち帰ったことによって、瞬く間にフランスに広がりました。 ケルン大聖堂の完成と同様、ここでも ナポレオンが一役買っているのです。 All rights reserved.
次の前回、飛び梁 フライング・バットレス・flying buttress の装飾が、ミラノ大聖堂のものは非常に美しい・・と言う事を書いたが・・。 いろいろ考えて見ると、もしかしたら昔は他でも美しい装飾があったのかもしれない。 ただ、修復にかかる経費が倍増するので他のところではそこまで手を入れて修復していないからなのかも・・。 この大聖堂はいつ行っても修復工事をしているそうだ。 確かに直すところは果てしなく多い。 外壁に設置されている彫像は取り外されてメンテされ、壊れた所は修復。 そしてしっかり落ちないように固定される。 ものによっては公害などにより石が溶けて修復出来ない物もあるようだ。 そんな物は近くのドゥオモ博物館にオリジナルが保存されレプリカが飾られる。 彫像だけで 約3600体 怪物96体 ガーゴイル150体、この大聖堂の場合、修復とは永遠に終わる事のない仕事に違いない。 ミラノ Milano 5 ミラノ大聖堂 3 外壁の装飾 ミラノ大聖堂 Duomo di Milano ファサードは西、主祭壇は東の法則 屋上テラスの図面 E・・・エレベータ S ・・・階段 ピンクが屋上のルートで オレンジ部分が屋根のテラス部分。 側廊のテラスから屋上の屋根に上る階段。 この階段はファサードのガレリア側。 ファサードの装飾の裏側に階段がある。 このネオ・ゴシック様式のファサードの完成は1813年。 ナポレオンが自分の戴冠式に間に合わせる為に短期間で、かつ少ない経費で建設出来るよう奔走したのである。 ファサードは西、主祭壇は東の法則 ところで 聖堂の入り口である ファサードは西に向かって建っているのが一般的。 それは欧州の場合、 内陣の主祭壇が東に位置するから なのである。 現在は土地の問題もあるだろうが、 基本聖堂はエルサレムの方向を向いて建てられ、エルサレムの方向に祈るようにできているから らしい。 最初からモスクとして建てられた所はミフラーブが必ず礼拝堂内部正面の壁に設置され、それが聖地メッカのカアバ神殿の方角を示している。 後からモスクになった所は正面に無い それにしてもイスラム教徒は必ずカアバ神殿の方角に祈りを献げる。 だから出先にモスクが無い時はカアバ神殿の方角を示している キブラ Qibla に向かって祈るのだ。 階段にも凝った装飾が付けられている。 注意深く見ていると、けっこう笑える物もある。 おそらく、法則はなく、石工の人がそれぞれ好きな物を掘ったのだろう・・と考えられる。 珍しい事に、 この大聖堂建築では、設計段階のやりとりや、職人とのやり取りまで細かく記載された記録資料が残っていると言う。 1回目に紹介した建築プロジェクト「ヴェネランダ・ファッブリカ・デル・ドゥオーモ Veneranda Fabbrica del Duomo 」が一貫して管理しているからなのだろう。 身廊の屋根の上。 左が正面のファサードの天辺部分 非常に贅沢な石のスレート屋根。 初期の大聖堂の屋根は木造だったそうだ。 ファサード方面を撮影。 この写真は今回のものではありません。 今回は身廊の屋根の半分が修復工事だったので、ファサード方面は障害物.の無い昔の写真を採用。 下は聖堂方面。 これは今回撮影。 なぜか屋根瓦 大理石のスレート の上に被いがされている。 ここで何かイベントでもするのでは? 尖塔の上には全てに聖人の像が据え付けられている。 これら聖人は全て教会の外に向いて立っている そもそも尖塔は何の為にあるのか? 当初は時計や鐘をつるす役目もあったそうだ。 もちろんそびえる 塔は天を指して神をイメージする・・と言う意味もあったろう。 しかし、ここでは尖塔の数だけでも135本。 これは非常識に多い。 これはぶっちゃけ、 世間に目立つ、驚くような大聖堂を造って自慢したい・・と言う司教や建築家や、当時の市民の気持ちの表れのようだ。 立 派な大聖堂は街に冨と名声をもたらすのだそうだ。 大半の尖塔は1800年代のものらしい。 飾り、ファルコナトゥーラ スペル不明 ファルコナトゥーラのトップやフリルの部分はだいたい植物で葉か花。 中にはひまわりの花も・・。 中には人や人の頭部を彫った凝った彫り物もある。 下はキリストと天使? 雨樋・ガーゴイル gargoyle 巨人が支えるガーゴイル gargoyle この大聖堂の雨樋であるガーゴイルのうち96体は巨人が支える形をしていると言う。 ガーゴイルだけでなく、重い物を支える時、こうした使い方がされるようだ。 背中の部分が割れていて、そこに樋 とい が通されて口から雨水が排出される。 ガーゴイル gargoyle と言えば、基本ゴブリン 小鬼 のようなグロテスクなものが魔除けとして好んで用いられるが、まれに変わり種がある。 司教や職人に似せてからかったものもあるそうだ。 昨年紹介したブリュッセル、グランプラスの市庁舎のガーゴイルは人間が多かった。 もし、アザミなら地の悲しみと罪のシンボルであるし、中世では薬草としても珍重された花である。 フライングパットレスには裏表に彫像が据えられている。 石像だけでなく、頭の上のテインパノや足下の装飾もセット。 尖塔の上の聖人像に哀愁を感じる ミラノ大聖堂つづく.
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