いまなお多くの人に愛されるバンドマン、忌野清志郎さんが2009年に亡くなられて11年。 2020年は1970年に「宝くじは買わない」(RCサクセション)でデビューして50周年となります。 忌野清志郎さんの命日である5月2日には名言集「使ってはいけない言葉」が発売。 彼が生前に著書、雑誌、番組、ファンクラブ会報、ライブMCなどさまざまな場所で残したメッセージの数々がこの1冊に集約されています。 58歳という若さでこの世を去られた忌野清志郎さんのご家族は、妻である栗原景子さんとご長男の竜平(たっぺい)さん、長女の百世さんです。 30代後半まで独身だった忌野清志郎でしたが、不遇時代より交際を続けていた「石井さん」こと栗原景子さんとご結婚されています。 忌野清志郎さんの妻、栗原景子さんと、息子の栗原達平さん、娘さんの百世さんは現在、どんな職業に就かれているのでしょうか? もくじ• 忌野清志郎の妻・栗原景子さんはどんな人?? 実は、忌野清志郎さんが都立日野高校三年生のとき、担任の先生(「ぼくの好きな先生」のモデルとなった美術教師の小林先生)から卒業式の後 「自分が本当にやりたいことがあるなら、結婚はするな」 と真剣な顔で言われたのだそうです。 その言葉が頭から離れず、30代後半まで独身だったという忌野清志郎さん。 その美術の小林先生が初めてライブに来てくれたときにそのことを伝えると、 「君はもういいんだよ」 と言ってくれたため、不遇時代より交際を続けていた「石井さん」と結婚されました。 忌野清志郎さんが不遇だった時代からお付き合いをされていた「石井さん」が妻の栗原達平さんであるようです。 奥様の栗原景子さんについては、一般の方ということであまりくわしい情報がありませんが、 ファンのかたによると、忌野清志郎さんの奥様は、 ・清志郎さんの楽曲にも出てくる『石井さん』 ・RCデビュー当時からのファンの女性で普通に大学を卒業して化粧品会社に勤めていた女性 ではないかと言われています。 忌野清志郎の息子、長男の栗原竜平さんの現在は? ナショナルのギターは自宅に置いてあり、思いついたフレーズをその場で書き留める姿を、息子である竜平さんはよく見かけたそうです。 日本のエレキギター・レジェンド「田端義夫」と、ロック・レジェンド「忌野清志郎」に共通する最初のギター — 佐藤 剛 sato go gosan5553 30代後半になられてから妻の栗原景子さんとご結婚された忌野清志郎さんご夫妻には、一男一女が誕生しています。 忌野清志郎さんがもし生きていらっしゃれば・・2020年で70歳になられます。 忌野清志郎さんのご長男、栗原竜平さんは2010年の時点で 都内の大学大学生の栗原竜平さん(21) とご紹介されていますので、2020年の時点では30歳前後になられていると思われます。 ご長男の竜平さんが誕生されたのは忌野清志郎さんが38歳頃のことです。 忌野清志郎さんの愛息、竜平さんは大学生だった20歳の頃に父、忌野清志郎さんをなくされています。 竜平さんは「どうしても男声のコーラスが必要」というスタッフの要望と後押しに応え、参加を決意されたそうです。 竜平さんは「お父さんの影響で、自分でもバンドを組んでベースを弾いているので、コーラスのリズムもばっちり」 だったのだそうです。 しかし、その後栗原竜平さんが音楽活動をされているという情報はありませんでした・・ すでに大学をご卒業されて、社会人になられている可能性が高い栗原竜平さんですが、現在音楽関係のお仕事に就かれているという情報はなく、 奥様の栗原景子さん同様、一般の方であるようです。 忌野清志郎の娘、長女の栗原百世(ももよ)さんの現在は? 古屋兎丸先生と百世先生(忌野清志郎さんの娘さん)とおれ。 — 江口寿史 Eguchinn 忌野清志郎の娘、長女の栗原百世さんは、消しゴムハンコ作家として活動されています。 2017年の時点では 父親つながりでよく音楽関係のお仕事をさせて頂く機会がある ともお話されています。 忌野清志郎さんの作品には「プリプリ・ベイビー」でコーラス参加していたこともあるのだそうです。 忌野清志郎さんの長女「ももちゃん」こと百世さんは、 清志郎さんによく似ていて、なんでも周りに合わせて、ずっと笑顔。 ちょっと恥ずかしがり屋なところもあり、清志郎さん、そのまんま・・ という女性なのだそうです。 忌野清志郎と三浦友和の関係は? 三浦友和さんは清志郎さんの中学時代からの友人。 お二人は東京都立日野高等学校でも同窓生でした。 三浦友和さんはデビュー前のRCに参加しパーカッションを担当、「シェアハウスじゃないけど一緒に住んだりして」いたそうです。 その後も三浦さんはRCサクセションのライブに飛び入り出演したり、発売禁止となったアルバム『COVERS』にも参加。 毎年1〜2回は清志郎さんが酒を持って三浦さんの自宅を訪ね、夜通し酒を酌み交わして旧交を温めていたのだそうです。 忌野清志郎の妻・栗原景子や子供 息子の竜平・娘の百世 の現在は? 三浦友和との関係も! まとめ 5月2日は忌野清志郎の命日。 生きていれば今年でデビュー50周年だった。 忌野清志郎が生きていたら2020年にどんな歌を唄っていただろうか — むらたかもめ🌏音楽ブログ houroukamome121 11年前の5月2日、病魔にむしばまれて天に召された忌野清志郎さんのご家族についてご紹介しました。 ・妻の栗原景子さん 忌野清志郎さんを不遇時代から支え続けた「石井さん」と思われる女性 忌野清志郎さんが30代後半で結婚し一男一女を設ける ・長男の栗原竜平(たっぺい)さん 現在30歳前後、 都内の大学を卒業後社会人になられていると思われます。 ・長女の栗原百世さん 年齢非公表(20代後半?)、消しゴムハンコ作家として活動されています。 ・三浦友和さん 忌野清志郎さんと中学時代からの友人で日野高校の同級生 高校卒業後も交流は続き、・RCサクセションのサポートメンバーとしてパーカッションなどを担当 その後俳優の道へ・・ 一男一女のお子さんに恵まれ、俳優の三浦友和さんとも交流のあった忌野清志郎さん。 2020年は忌野清志郎さんが1970年に「宝くじは買わない」(RCサクセション)でデビューして50周年となります。
次の忌野清志郎の息子の現在 忌野清志郎は、2009年、癌性リンパ管症で亡くなりました。 1951年生まれですから、まだ58歳という若さでした。 しかし忌野清志郎は、死を持って、その生き様を世に示したといえるでしょう。 忌野清志郎は、生涯の恩師である美術教師に、 「本当にやりたいことがあるなら、結婚はするな」と言われ、30代後半まで独身を通していました。 しかし、長年、忌野清志郎のファンだった景子さんという女性と30代中頃に結婚。 忌野清志郎と結婚相手の栗原景子さんとの間に、1男1女をもうけました。 長男の栗原竜平は、すでに大学を出て成人しています。 忌野清志郎が結婚していたことや子供がいたことが一般に知られたのも、彼が亡くなってから。 忌野清志郎は、常に、マスコミやメジャーの音楽界と距離を置き、独自の活動を続けていたのです。 忌野清志郎の息子の栗原竜平さんは音楽活動をしていたんですね。 ちなみに息子の竜平さんの読み方は「りゅうへい」では無く「たっぺい」です。 忌野清志郎の息子・栗原竜平には障害がある? 忌野清志郎の息子・栗原竜平さんには障害があるという噂がありますが、これはデマです。 もし竜平さんに障害があったとしたら、こんな事は出来ません。 また、忌野清志郎は雑誌のインタビューで 「息子が親が忌野清志郎だってバレないようにしている」や 「息子が家に友達を連れてきても、俺に会わせないようにすぐに自分の部屋に連れて行ってしまうんだ」と悲しそうに答えていた事から、息子の竜平さんにも思春期・反抗期があった事が伺えます。
次の2003年当時の清志郎(右) 基本情報 出生名 栗原 清志 くりはら きよし 別名 肝沢幅一 ボス キヨシロー 生誕 ・ 死没 2009-05-02 (58歳没) ・東京都 学歴 卒業 ジャンル 職業 担当楽器 活動期間 - レーベル SWIM RECORD 事務所 ベイビィズ 共同作業者 公式サイト 忌野 清志郎(いまわの きよしろう、〈昭和26年〉 - 〈平成21年〉)は、の。 本名: 栗原 清志(くりはら きよし)。 血液型A型。 そのステージ上における圧倒的な存在感と、1983年に発表されたRCサクセションのライブアルバム「」の印象から、 ザ・キング・オブ・ロックの異名を取った。 アニメ監督のは従弟 、作家のは娘 にあたる。 経歴 [ ] 少年時代からバンドデビューまで [ ]• 出身で、育ち。 みふじ幼稚園を経て、に通う。 時代は漫画に熱中し、自作の漫画を近所に住んでいたに見てもらったこともあった。 清志郎の母親の最初の夫(清志郎の実の父親ではない)は結婚して間もなく戦死している。 母親は清志郎が3歳の時に33歳で亡くなった。 その後、清志郎は伯母夫婦に養子として引き取られた。 (2014年5月2日放送の「」より)• 中学校時代にブームに刺激を受け、などのカバーバンド「No Name」を結成、音楽活動を始める。 初頭、ブームに刺激を受け、同級生でバンド仲間だった(のちの林小和生)、桶田賢一(のちの)と共に「The Clover」を結成する。 に進学する。 高校時代は学校に馴染めず、かと言って不良でもなく、物静かな少年だった。 あと何日休んだら単位が落ちるかを計算して、サボれるだけサボッていた。 「」の中に授業をサボッて屋上でタバコを吸っているという歌詞があるが、これは清志郎の実体験である(2014年5月2日放送のNHK「ラストデイズ」」より)。 同級生にがいる。 高校時代、清志郎はサイケデリック・ミュージックの流れでやを聞き込んでいたが、好きの友人の影響で、ブルースに傾倒するようになる。 、「R. サクセション」結成。 、フォークグループ としてシングル「」でデビュー。 「 忌野」という芸名は、テレビアニメ「」で悪役「鉄仮面」登場シーンにおいて、「あの忌まわしい鉄仮面」というナレーションを幼少期に「カッコイイ言葉だな」と感じ、「今わの際」という日本語と掛け合わせて「忌野」と命名した(1995年にゲスト出演した「」より)。 なお、日本に「忌野」という苗字は実在せず、「忌」の字が含まれる苗字は「(いんべ)」しか存在しない。 、シングル「」がスマッシュヒットしたものの後が続かず、また事務所関係のトラブルが発生したこともあり、長期にわたってバンド活動は低迷する。 その間、清志郎はとの共作「帰れない二人」「待ちぼうけ」(共に『』収録)、への作詞提供「あの唄が想い出せない」(『』収録) などので糊口を凌いだ。 バンド全盛期からソロ活動まで [ ]• 、事務所を「」から「りぼん」に移籍。 スタジオミュージシャンを大々的に起用したアルバム『』を発表。 以降、徐々にロックバンド化(俗に「エレキ化」と言われる)。 からメンバーの脱退・加入を繰り返しながら、精力的なライブ活動を展開。 また、この時期のいくつかのライブでは「栗原清志とオールスターズ」の名義を使っている。 半ば頃から徐々にライブハウスでの人気が出始め、この時期からのやなどの一派やの影響でメイクを始め、またの影響でパンクヘアにカットしたことから、独特の奇抜な風貌になる。 には音楽ライターのが『シングル・マン』再発実行委員会を組織するなど、音楽的に評価する空気が高まる。 のシングル「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」、アルバム『』のヒットで、のと並び、RCサクセションの忌野清志郎はメディアの寵児として取り上げられることになった。 、坂本龍一と組んでシングル「」を発表。 これ以降、RCサクセションとしての活動のかたわら、数多くのユニットでも活動。 このころ、ハードスケジュールなどがたたって肝臓を病むが、などの文献を読み漁り家庭治療を実践し、奇跡的に完治している。 、この時期の事務所の対応に不満を募らせ事務所「りぼん」から独立。 、RCサクセションの事務所「うむ」を設立するが、このころからRCサクセション内でも各メンバーのソロ活動が活発化し、バンドの活動は停滞。 この時期、清志郎はの日本放送版に「DANGER」で出演したり、『』に出演したりなどした。 、初のソロアルバム『』を発表。 、RCサクセションのアルバム『』の発売中止騒動を受けて、清志郎とよく似たZERRYという人物がを結成し、のライブに飛び入り。 以降、様々なミュージシャンのライブ・イベントライブに乱入を繰り返す。 清志郎がに作詞提供&コーラス参加した「谷間のうた」がとで放送禁止になった事件(1989年9月)を受けて、アルバム『THE TIMERS』のプロモーションでの音楽番組「」()に出演(10月)した際に、キャラ設定を生かした巧みなメドレー形式を逆手にとった、その中の一曲をFM東京・FM仙台をを交えて罵倒する歌に差し替えるという荒業を見せて話題になった。 時期を同じくしてRCサクセションの崩壊(メンバーの脱退・加入が激しく、既に実態が無くなっていた)が進む。 、アルバム『』発売し、それに付随するツアーの最終日の武道館公演(12月25日)、• 、RCサクセションは無期限活動休止を表明。 RCサクセションの事務所「うむ」も解散したため、清志郎は個人事務所「ベイビィズ」を設立。 RCサクセションの解散以降、前にも増してさまざまなバンド・ユニットを渡り歩く。 、プライベートスタジオ「ロックンロール研究所」を設立する。 一方で俳優としての活動も始める。 同年、映画『』に音楽監督として参加し、翌1995年の第18回で最優秀音楽賞を受賞。 この時期、清志郎と良く似たZERRYという人物が率いるザ・タイマーズが活動を再開。 彼らのを通らない楽曲を発表させるために、レーベル「SWIM RECORDS」を設立。 、「忌野清志郎 Little Screaming Revue」のアルバム『』、に「ラフィータフィー」のアルバム『夏の十字架』が三度発売中止騒動に巻き込まれるなどトラブルを数多く抱えるなか、デビュー30周年記念のトリビュートコンサート「RESPECT! 」を日本武道館で開催し、多くのミュージシャンが清志郎(およびRCサクセション)の楽曲を演奏した。 、にはまり、ラフィータフィーのメンバーを勧誘してチームLSD()を結成。 以降、ツアー間の移動にを使ったり、奥の細道自転車ツアーやなど数多くの長距離サイクリングにも挑戦した。 、中学時代の同級生に自転車の専門誌『サイクルスポーツ』の編集長がいたことから、そのつてでプロ仕様の自転車(特注)を入手。 、サイクリング中に落車して左の鎖骨を骨折という事故を起こす。 、愛車「オレンジ号」の盗難(のちに無事発見)という災難に遭う。 しかし、生涯自転車熱が冷めることはなかった。 晩年 死去 [ ]• 、でアルバム『夢助』(10月発売)をレコーディングして帰国。 、公式ウェブサイト「地味変」にてで入院することを発表し、すべての音楽活動を休止する。 癌の摘出をすると声が出なくなると宣告されたことから、やでの完治を図り、入院後2週間でへと治療法を変更。 これは、での現代医学的な治療計画では胃に穴を開けての流動食生活となることを余儀なくされ、これに伴いが消滅し、唾液が出ないためステージで歌うのは困難になると言われたことから。 、のライブにシークレットゲストとして出演して以降、徐々に活動を再開した。 、にて『忌野清志郎 完全復活祭』を開催し、本格的に活動を再開する。 、公式ウェブサイト「地味変」にて左腸骨へののを発表し、再びライブ活動を休止。 通院して治療に専念する一方で、楽曲提供や他ミュージシャンのレコーディング参加、ライブへの飛び入り参加などを続けていた。 、ファンクラブの会報が100号を突破する。 ほぼ同時期に、マラソンとヨットで世界1周する『』に挑戦するへの応援歌を描き下ろし自身の作品としては2年ぶりにレコーディングを行い、のライブに飛び入りする など徐々に音楽活動を再開する。 のキャンペーンソング「」を書き上げた以降に体調が悪化。 当初は同曲を歌うユニット「RADIO SOUL 20」に参加する予定だったが、体調不良でキャンセルして東京都内の病院に入院。 その後、病床で3月にファンに向けてデビュー39年記念イラスト「39! BABY」を書き上げ 、これが最期のメッセージとなった。 葬儀 [ ]• 午後に容態が急変し、午前0時51分に癌性リンパ管症のため死去した。 58歳没。 家族の他、容態急変の報を聞いて病院に駆けつけた盟友のらが清志郎の最期を看取った。 清志郎の愛弟子のも容態が急変した5月1日に約20分間見舞ったことを2009年5月8日付の自身のブログに記している。 、関係者のみの密葬が無宗教の献花形式で行われた。 、でファンなどを対象にしたロック葬『忌野清志郎 AOYAMA ROCK'N ROLL SHOW』が行われ、弔問数は4万3000人 に及んだ。 これは、戦後の日本のにおいてはに次ぐ2番目の参列者の多さであった (奇しくも、そのhideとは命日が同じである)。 、、らが弔辞を読んだ。 は芸名そのままの「 忌野清志郎」であった。 清志郎のは遺族の意向で「栗原清志」として笑顔で写ったプライベートパーティのものが使われた。 清志郎の墓は高尾霊園高乗寺にある。 清志郎の一周忌を前にしたに建立された。 清志郎にアースマラソンの応援歌を提供された間寛平は、そのアースマラソン挑戦中の異国で訃報を聞き、泣きながら走り続けた。 人物 [ ] この記事はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2014年6月) 音楽性 [ ] ()のイントネーションにこだわった楽曲製作が特徴で、曲先の場合でも、イントネーションがおかしくなった場合は、メロディーを修正してでもイントネーションを正しくするという手法を取っていた。 また、を強調し、のメリハリを強調するという発声法を1970年代半ばから続けていた。 日本語をはっきり明瞭に歌うというスタイルは、後に、(共に)、どんと()、水戸華之介()、宮田和弥 、()、()、()、()、()などの数多くのフォロワー を生む。 サウンド的なルーツは主に、など1960年代中期に日本で人気のあったロック、、など1960年代に日本で人気のあったフォーク、を筆頭としたソウル・ブルース系のミュージシャンで、多くの楽曲で彼らのオマージュを行っている。 ライブにおいてのマントショーを再現することもしばしばあった。 前述の促音を強調をするきっかけになったのがオーティスの「ガッタ、ガッタ」シャウトだったり、「愛しあってるかい?」のフレーズがオーティスのMCからの意訳だったりと、オーティスからの影響は非常に強く、清志郎自身も最も影響を受けたミュージシャンの一人としてオーティスの名を挙げている。 1991年にはプロデュースでアルバム『Memphis』を製作、翌1992年にはBooker T. 2006年にはオーティスの足跡を辿るドキュメンタリー番組をきっかけにスティーブと再会し、スティーブのプロデュースでアルバム『夢助』を製作した。 RCサクセションの停滞時期に、行き詰まって複雑なコード進行の曲ばかり作ってしまう悪循環に陥っているという反省から、たとえシンプルなコード進行の曲であってもロックのダイナミズムを持つの楽曲研究を重ねた。 のちに『』で結実。 RCサクセションのロックバンド化と並行しての作業だったことから、当時のライブパフォーマンスなどにも強い影響を及ぼした。 歌詞の転機は少なくとも• 「雨あがりの夜空に」を書いた時(当時の事務所に下ネタをズバズバ言う人が多く、彼らの影響を受けた)。 「サマータイムブルース」を書いた時(清志郎の父親[当時すでに故人]の誕生日にが起こったことから反原発の歌詞を書いた)。 『COVERS』製作の時(母親の遺品整理の際に中の恨みつらみが書かれた日記を発見し、それを読み強い衝撃を受け、反戦・反体制の歌詞を書くようになる )。 の3度ある。 ただし、いかにドギツイ歌詞の場合ものように諧謔精神を忘れなかった。 ミュージシャン間の交流 [ ]• ・ - 桑田佳祐はとして1983年のライブイベント「北海道スーパージャム'83」でRCと共演し、サザンが演奏した後がRCの出番であり、桑田は客席でそれを見た際に涙を流し、その理由を「 RCは 全然変な力が入ってなくて、まったくオーソドックスなことをやってるのね。 こっち サザン は意識してキメ作ってビッカンビッカンやってるのに」「要するに昔と変わらないRCというか、不滅なもの、伝統的なものに完全に負けちゃったなと思ってね」と著書で語った。 また、清志郎の話によると、ライブの打ち上げで桑田は清志郎に対し「俺の昔のオンナに似ているんですよね」「顔、姿、それにしぐさまで。 もー、何から何までそっくりなんです」と話したといい、清志郎は「いったい、どんなオンナなんだ」と感じたという。 また、桑田が企画した『』にも出演している。 清志郎が『』に出演した際に、番組のテーマソングを桑田が制作した話題に触れ、桑田の音楽性・歌唱法を揶揄する発言をし、その回をテレビで見た桑田から電話がかかってきたという。 これについて清志郎は「テレビを見て、すぐに電話してくるあたりが、なかなか憎めないヤツだ」と発言した。 清志郎の葬儀には原と共に参列し、同日の自身のラジオ「」で「数えるほどしか会ったことがないけれど、ワクワクする人でした」と思い出を語り、番組の最後には「ぼくの好きな先生」を生歌で歌唱し、清志郎を偲び 、同年に発表された「」の「」の箇所で清志郎の物真似が挿入された。 は横浜のラジオの公開収録で、フォーク時代のRCを初めて見たのがRCを知るきっかけであったと語っており、「」を大好きなアルバムであると述べている。 - 3人がブレイクする前からの知人である。 特には清志郎の物真似を得意としており、トリビュートコンサートに出演した際、清志郎の物真似を披露している。 ただし、桑田佳祐からテレビでアルフィーとのセッションを依頼された際、清志郎は「ヤダよ! 俺はアルフィーなんぞとやるのは。 俺にも友達がいる。 あんな奴らとテレビで仲良くしているところを見られたら、なんて言い訳すりゃいいんだ? アルフィーにとっちゃ、俺と共演することにはメリットあんだろうけど、俺にはなんの得にもならないよ」とセッションを断った経緯があり、清志郎自身はアルフィーを認めていなかった節があるが 、その後、坂崎とはラジオ・テレビなどで何度も共演していることから、考えを改めた可能性もある。 奇しくも清志郎の死去した2009年5月2日には、坂崎の実父も亡くなっている。 - RC・古井戸・泉谷の3組は、デビュー前から同じライブハウスの常連であった。 RCの曲「あきれて物もいえない」の「どっかのヤマ師」は、泉谷のことを歌っている(泉谷は当時、全く売れなかった清志郎を励ますため、わざと軽蔑していたらしい)。 清志郎の死に、真っ先にコメントを寄せたのも泉谷であり、「あいつの死を受け入れることはない」と沈痛な思いをのぞかせた。 清志郎への尊敬の念から時折、清志郎を「忌野さん」と呼びながら語ることがある。 - のメンバーとして知られている。 かねてより清志郎の音楽性を高く評価しており、不遇時代のRCを自ら主催したライブの前座などに出演させていた。 1977年を過ぎた頃から78年にかけて、RCにギターとして度々参加。 エレキ化していくRCの発展に一役買った。 RCを離れた後も、80年代中盤に清志郎と「ガラム」というユニットで何度かライブ活動を行い、RC末期には再びドラムとして参加している。 口癖は「思うにィ〜」と「ちゅーかさ」。 ニックネームはから来ている。 - に結成され、地元であるを拠点として活動していたが、メンバーのが親の転勤のため、東京に移住したことにより、バンドは自然消滅状態になっていた。 それに先がけて、バンドは自分達の音楽活動の記念として曲をに録り、札幌市内にある兼の「コーヒーハウスミルク(スタジオミルク)」に残していた。 このテープをたまたまプライベートで札幌に居合わせ、同店を訪れた清志郎が聴いた。 その時、清志郎が放った一言「いいじゃん!! 」をきっかけに、メンバーは上京を決心。 先に東京に住んでいた森若以外のメンバーを、清志郎が呼び寄せる形で、東京での活動が始まった。 まだバンドだったGO-BANG'Sの制作や演奏方法に、清志郎を始め、RCサクセションのメンバーも色々親身になってアドバイスしたり、スタジオを使わせたりした。 そこでレコーディングされたデモテープについて清志郎は「このテープだったら、どこのレコード会社もきっとOKだぜ! 」と言い、森若らを励ました。 森若は後に「(これらの経緯が)プロデビューの大きなきっかけになった」と語っている。 - とは、、ザ・クロマニヨンズを通して清志郎のステージにゲスト参加するなど、交流を持っている。 ハイロウズ時代には忌野清志郎30周年記念RESPECT! のステージで「テクノクイーン」を演奏した。 また、甲本は清志郎の「REMEMBER YOU」でダブルボーカルを取っている。 - 清志郎と親交のあるミュージシャンが多く関わっており、2004年1月10日のライブ(DVD『ALLD OF SHIBUSA』に収録)では、清志郎も、ほら貝とボーカルで参加。 - 伝説的なパンクバンド、の元ギタリスト。 RCのアルバム『COVERS』にゲスト参加している。 サンダースの最後となったライブをたまたま見に行っていた清志郎は、ステージに上げられてアンコールを1曲共演した。 サンダースは、その数週間後に死去した。 - メンバーの中川敬、伊丹英子、奥野真哉、高木克がRCサクセション、のファンであったことを公言しており、現在は追悼の意味を込め「ぼくの好きな先生」をライブレパートリーにしている。 一時ライブで「国王ワノン一世の唄」「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」等をカバーしたこともある。 のは2・3'Sのライブメンバーでもあった。 - 俳優。 清志郎、仲井戸の大ファンで映画のみならず、ステージでも度々共演を果たしている。 ブレーク前からの友人でもあり、付き合いは長く深く、竹中がホスト役を務めるラジオ番組にも、清志郎や仲井戸は度々ゲスト出演し、清志郎は病気療養中にも出演していた。 古井戸ファンの竹中はと結成した古井戸のコピーバンド「高井戸」でも活動を行なっていた。 清志郎の本葬では、自らを読み上げた。 De-ga-show - 片山広明とを中心とした・バンド。 清志郎は、同バンドの2作目『続デ・ガ・ショー』のを執筆し、「俺も参加させろ」「片山、なんで俺をさそわないんだよ」と書いた所、本当に共演アルバム『Hospital』を発表する運びとなった。 - のボーカリスト。 14歳の頃、友人より勧められたRCサクセションのLP「RHAPSODY」から音楽に興味を持ち、デビュー直後から清志郎の影響を公言している。 楽曲を度々カバー、ライブでも清志郎と共演するなど、親交は深い。 - プライベートでも清志郎と交友があり、2001年のミニアルバム「ジャングル野郎」では清志郎から曲を提供された。 レギュラー出演している「探偵! ナイトスクープ」では、清志郎を連れて探偵レポートをしたこともある。 2006年大阪城ホールで行われた清志郎主催のロックンロール・イベント「新 ナニワ・サリバン・ショー」では、シークレットゲストとして登場した。 しかしアースマラソン挑戦中の2009年、寛平はのにおいて、電話で清志郎の訃報を知り、声を上げ号泣した。 そのシーンは当時の日本テレビでの特番で放送された。 - 結成前に参加していたバンドに嫌気が差し、辞めて帰郷することを決意したが、帰る前にで行われたRCのライヴを観て、「もう一度バンドをやろう」と思い直した。 - 楽曲「バカンス」を清志郎から提供された。 なお、同バンドのVo. の自殺後に行われた追悼コンサートでは、「いなくなったヤツよりも残された人のために」という名言を吐いて清志郎自身が、この曲を歌い上げた。 - 清志郎が尊敬するオーティス・レディングのバックバンドとして活躍した。 また、単独でもインストゥルメンタル作品を発表している、世界的に評価されているバンド。 清志郎のソロアルバム『MEMPHIS』のバックを担当し、ツアーも行なった。 その後も清志郎はギタリストのと親交を深めて行き、クロッパーをプロデューサーとして迎えた『夢助』などを発表している。 ブルーデイ・ホーンズ - 梅津和時、片山広明によるホーンセクション。 両人は、多彩なソロ活動を行いながらもRC及びソロ転向後の清志郎と活動を共にした。 - 俳優。 清志郎の中学時代からの友人で、東京都立日野高等学校でも同窓生だった。 デビュー前のRCに参加しパーカッションを担当、その後も三浦はRCサクセションのライブに飛び入り出演したり、発売禁止となったアルバム『COVERS』にも参加していた。 毎年1〜2回は清志郎が酒を持って三浦の自宅を訪ね、夜通し酒を酌み交わして旧交を温めていた。 - の社長。 のディレクターだった頃にRCの『RHAPSODY』を手がけた。 アコースティックトリオだった頃からのRCの大ファンであり、清志郎とは公私に亘って親しい。 連野城太郎のペンネームで『GOTTA! 忌野清志郎』を執筆した。 - 度々共演している清志郎の友人。 以前はニューヨークと日本でファクスでのやり取りをしていた。 近年は矢野の「ひとつだけ」をよくデュエットしている(スタジオ・アルバムでは、矢野の『』 2006年 に収録)。 矢野の楽曲「湖のふもとでねこと暮らしている(DOWN BY THE LAKE, LIVING WITH MY CAT)」(『』収録)はRCのナンバー「山のふもとで犬と暮らしている」のアンサーソングと言われている。 また、矢野は清志郎のことを歌った「きよしちゃん」という楽曲もステージで披露している(清志郎の死後、『』 2010年 に収録)。 で連載されていた「月刊アッコちゃん」では、早朝に 「起きろー!! 」と大書きされたファックスが送りつけられていたエピソードを紹介している(刊・「月刊アッコちゃん・峠のわが家編」に掲載されている)。 また、「最近、連続紙使用(相手方の記録紙がなくなるまで)を編み出したとか」というエピソードを紹介している。 - 日本の伝説的なロックバンド、のギタリスト。 度々ステージで共演したり、RCのアルバム『COVERS』にもゲスト参加している。 - 、拓郎が定期コンサートを開催していた時に、よく前座を務めていたのがRCサクセションだった。 清志郎は当時、拓郎が嫌いで、出番が終わると顔も見ないで帰っていたという。 しかし、拓郎は清志郎を「音楽の世界ではスペシャルな男、リハーサルとかに彼が入ってくるだけで雰囲気が変わる」と高く評価していた。 吉見佑子がアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身のラジオ番組でRCの曲をプッシュしていた。 後に清志郎は拓郎に「こころのボーナス」(アルバム『』収録)を提供した。 主な事件 [ ]• 1982年6月14日、生放送番組「」(第709回)にRCサクセションとして出演した際、曲の最中に暴れ回ったり、司会者とのトーク時より噛み続けていたガムをテレビカメラに向かって吐きかけるなどの悪ふざけをし、更にそのことで視聴者へ謝罪する司会者の後ろで舌を出したり、顔をしかめるなどしたことから、テレビ局に抗議の電話が殺到。 その数は500件近くに上ったと言われている。 1988年、東芝EMIから発売予定だったRCのアルバム『COVERS』が、問題を取り扱った歌詞などがネックとなり、急遽発売中止に。 後にレコード会社を替えて、ようやく発売された(詳細は『』の頁を参照のこと)。 1999年、風にアレンジした「」を収録したアルバム『』がから発売される予定だったが、同年8月にで成立したを巡る議論に巻き込まれることを危惧した同社が発売を拒否。 結局、販売をUKプロジェクトにし、インディーズのSWIM RECORDSレーベルから発売された。 2000年、SWIM RECORDSレーベルから発売予定だったラフィータフィー名義の『夏の十字架』は、インディーズ商人の実態を揶揄した「ライブ・ハウス」という曲中で、暗に批判されたライブハウス・のオーナーが激怒、同店と系列関係にあるUKプロジェクトの逆鱗に触れ、インディーズからも販売中止という前代未聞の事態となった。 奇しくも、同曲が批判するインディーズ業界の問題点が実証された形となった。 同アルバムは、最終的にSWIM RECORDSから発売・販売された。 2002年、開局13年記念イベント「JAPANESOUL」に三宅伸治と共に、それぞれ長間敏(おさまびん)、神田春(かんだはる)と名乗ったデュオ「アルカイダーズ」として出演。 に関連した曲を演奏したが、放送ではカットされた。 2003年、日本武道館で開催された「」(TOKYO FM等、に加盟する全国のFM各局に生放送)に出演した際、当初予定になかった「君が代」や「あこがれの北朝鮮」の替え歌(発売当時のをに変更するなどした)などを歌い、会場を騒然とさせた。 混乱が心配されたが、直後に出演したによる「自由に歌える国に生まれてよかった」という発言や、佐野やバンドの冷静な演奏にイベントは救われた。 なお、演奏された曲の一部はイベント開催の趣旨説明等に差し替えられ、その部分が放送されなかった。 因みに清志郎はその後、アースデイコンサートに呼ばれてはいないが、佐野は翌年も参加している。 その他のエピソード [ ]• 右利きであるにもかかわらず、左手でハンドマイクを握るようになったのは、まだをレコードで聴いたことしかなかった頃、数少ないステージ写真で「オーティスが左手でマイクを握っていた」のがきっかけだったが、後に、かつて見ていた写真が、実は裏焼きされた物だったことを知り、愕然としたという。 時代、で飼育されていた2頭が逃げ出すという事件があり、でのライブ(1979年8月4日)が中止になった。 清志郎は警察に「虎を殺すな! 」と電話で訴えたが、結局2頭とも射殺され、一連の騒動が鎮静化。 RCサクセションはその後、渋谷屋根裏で「虎追悼コンサート」(1979年9月15日)を行なっている。 清志郎が高校三年の時、担任の先生(「ぼくの好きな先生」のモデルとなった美術教師)から卒業式の後「自分が本当にやりたいことがあるなら、結婚はするな」と真剣な顔で言われたことが頭から離れず、30代後半まで独身だった。 その先生が初めてライブに来てくれた時に、そのことを伝えると「君はもういいんだよ」と言ってくれたため、不遇時代より交際を続けていた「石井さん」と結婚した。 ただし、聴いている観客は何のことか解からず、きょとんとしていたため、「なんでもありません」とつぶやいて次の曲へと移った。 また、が企画した「オフ・オフ・マザーグース」というアルバムでは、長男を含め、二人の子供達と一緒に「フェル先生」という曲を歌っている。 「音楽で生計を立てられなければ絵描きになるしかなかった」と本人が言うほど画才があり、清志郎自身のアルバムジャケットや書籍の表紙等を描いている。 毎年恒例の日野高校OB展にも作品を出品していた。 死後には「個展 忌野清志郎の世界」という展覧会も行われ、画集も発売されている。 生前最期の作品という、真の意味での遺作は、意外にも楽曲ではなく絵画で、前述のデビュー39周年を記念して描かれた一旗ウサギの『39! BABY』 がそれに当たる。 この作品は、描かれた日付が2009年3月となっており、文字通り清志郎のラストメッセージとなった作品である(「Oh! RADIO」は2009年2月完成とされている)。 の熱狂的なファンで、ライブ衣装として中日のユニフォーム・ヘルメットを着たこともある(ビデオ『Screaming Revue』などで確認できる)。 「ズームイン! 」の野球コーナーに「おはよう川又さん」という楽曲を提供(中日勝利の翌朝の放送でBGMとして使用)した縁もあり、名古屋でのライブの際はがゲスト出演することも度々あった。 余談だが、前述のアルバム発売中止騒動が起きた1988年と1999年は、いずれも中日がリーグ優勝した年でもある。 初期の頃は、肝沢幅一ので作曲をしていたこともある。 清志郎の父親が、沢田研二のことをなぜか決まって「肝沢幅一」と間違えていたことから。 1男1女の父親であった。 特に自慢話を好む性格ではないが、冗談交じりに自慢していた例として、高校の同級生だったの事を語る際に「あいつ(三浦友和)にギターを教えたのは俺だ」というのがある。 高校三年の時、通学もろくにせずにギターばかり弾いているのを母親が「息子が音楽に夢中になっていって、将来が心配です」と朝日新聞の「身上相談」コーナーに投書し、それが実際に掲載されたことがある。 忌野がデビューすると、母親は本人が載った雑誌をみんな買っていた。 2007年からで開催されている音楽イベント『』では"校長"となっており、「忌野清志郎校長室」が一般公開されている。 開校当初(第1回)から現在もなお"出張中"という設定で、校訓は「愛し合ってるかい? 自転車愛好家で、仕事先が都内であれば自転車で通っていた。 「音楽以外で収入を得るのは負け」という考えを持っていた。 主な参加バンド・ユニット等 [ ]• (1968年 - 1991年)• シングル『』• DANGER (1984年-1985年、1994年、2003年、2004年) のどくとる梅津バンドとの共演作2枚目の時に使用したユニット名。 共演作1枚目のアルバム『DANGER』から名付けられた。 の日本放送版にも出演する一方で、「」に楽曲提供をするという両極端の活動を行った。 1994年、20周年記念イベントで一夜限りの再結成。 2003年・2004年に梅津のイベントで突然復活した。 清志郎(ボーカル)、梅津和時(アルトサックス)、(テナーサックス)、(ベース)、菊池隆(ドラム)• ローリング・ミストーンズ・レビュー (1985年) 清志郎のプロデュースイベント「真夜中の雰囲気一発」(新宿シアターアップル)の際に結成した企画バンド。 と、の「」を混ぜたもの。 泉谷と組んだ初のユニット。 清志郎・(ボーカル・ギター)、(ギター)、早川岳晴(ベース)、菊池隆(ドラム)• ツアーの一部はライブアルバム・ライブビデオに収録された。 清志郎(ボーカル)、ジョニー・ターンブル(ギター)、マーク・ベッドフォード(ベース)、チャーリー・チャールズ(ドラム)、ミッキー・ギャラガー(キーボード)、デヴィット・ペイン(サックス)、ジェフ・ミラー(トランペット)• (1988年 - 1995年) 誰もが正体を分かりきっている覆面バンド。 最初の活動以降、清志郎曰く「結局何も変わらなかった」「怒りでなにかを歌ってもむなしいだけ」と失望して 活動を休止していたらしいが、1994年に再結成。 一部の楽曲はのちに清志郎の持ち歌になった。 清志郎によく似たZERRY(ボーカル、ギター)、によく似たTOPPI(ギター)、によく似たBOBBY(ベース)、によく似たPAH(ドラム)• SMI (1990年) 所属レコード会社のイベント「ロックが生まれた日」(1990年4月28日・30日)のために結成したユニット。 ユニット名はEMIのもじりで、メンバーのイニシャルを並べたもの。 実際のイベント時には小林和生(ベース)、ケニー・モズレー(パーカッション)がサポートに回った。 パープル・ヘイズ音頭は元々このユニットの曲。 清志郎(ボーカル、ギター)、坂本冬美(ボーカル)、三宅伸治(ギター)• (1990年 - 1991年) 前述のSMIを受けて結成したユニット。 当時日本で起こっていたワールドミュージックブームの一端を担った。 2007年、坂本のシングルに清志郎・細野が楽曲提供を行い、その楽曲のテレビライブの際にはバックも務めた(実質的な再結成)。 清志郎(ボーカル、ギター他)、(ベース他)、(ボーカル)• トーサンズ (1991年) 「」の企画盤「パパのカラオケ」レコーディング時のユニット。 清志郎(ボーカル)、(パーカッション)• ハバロフスク&マフィア (1991年) 福岡・での「ACOUSTIC REVOLUTION」(1991年8月25日)の際にらと結成したユニット。 清志郎・井上陽水(ボーカル・ギター)、(ギター、ウクレレ)、(ベース)、(ドラム)、(パーカッション)、(パーカッション)• 初期はトーサンズからの洒落でニーサンズとも表記されていた。 初期のライブ時には(キーボード)が参加。 清志郎 (ボーカル)、(ギター)、(ベース)、(ドラム)• Screaming Revue (1994年 - 1996年) デビュー25周年用に結成した、コーラス・ストリングスを含む不定形の大所帯バンド。 ボブ・ディランの「」がアイデアのもととなっている。 1994年6月25日の初ライブ(渋谷公会堂)時のメンバー 清志郎(ボーカル)、三宅伸治(ギター)、川上剛(ベース)、杉山章二丸(ドラム)、(ピアノ)、(パーカッション) スクリーミングシンガーズ:マチコ、ミキ、 スクリーミングストリングカルテット:太田恵資(バイオリン)、原えつこ(バイオリン)、福森隆(ビオラ)、早川岳晴(チェロ)• 忌野清志郎 Little Screaming Revue (1996年 - 1999年) Screaming Revueの縮小版バンド。 初期のライブでは厚見玲衣(キーボード)がサポートで参加。 清志郎(ボーカル)、三宅伸治(ギター)、(ベース)、(ドラム)• ぴんく (2000年 - 2001年) 「」の企画から生まれた覆面バンド。 清志郎が「ざくろ」名義で作詞・作曲したシングル『』を福岡のレコード・ショップ「カメレオン・レコード」のみで限定販売した。 関連ユニットの中で唯一、清志郎がメインではない。 長瀬智也(ボーカル、ギター)、松岡昌宏(ベース、コーラス)、清志郎(ギター、コーラス)、(ドラム)• ラフィータフィー (2000年 - 2001年) アルバム『ラフィータフィー』製作時のメンバーを中心に結成したバンド。 清志郎(ボーカル)、(キーボード、ギター)(ベース)、(初代ドラム)、(二代目ドラム)、(サックス)• ミツキヨ (2002年) とのユニット。 及川が楽曲提供を依願し、親交が始まった。 このとき清志郎が「どうせならユニット組んでやろうよ」と持ちかけ、音楽ユニット「ミツキヨ」が生まれた。 及川は清志郎並みにベイベーを得意とする。 清志郎・泉谷・スパイスマーケット (2002年) 泉谷と組んだ最後のユニット。 清志郎(ボーカル・ギター・キーボード)、(ボーカル・ギター)、(ギター)、(ボーカル・パーカッション)、(ベース)、(ドラム)、(ドラム)、(パーカッション・ドラム)• LOVE JETS (2002年-2003年) サイクリング用のヘルメットを被った謎の宇宙人バンド(覆面バンド)。 「安藤ロイド」というマネージャーを従えている。 2002年のではRCサクセションの「雨上がりの夜空に」を演奏した。 主にインディーズ・レーベル「ジェットブラ下部式会社」から作品を発表。 翌2003年にはでもデビューしている。 清志郎によく似たPURAHA(ボーカル、ギター)、によく似たPYE-RON(ベース)、によく似たPRINCIPAL(ドラム)• NEW BLUE DAY HORNSはRCサクセション時代のサポートをしていた「BLUE DAY HORNS」(梅津、片山)にちなんでいる。 忌野の死後も、ロック葬『忌野清志郎 AOYAMA ROCK'N ROLL SHOW』や2009年のなどに出演。 清志郎(ボーカル)、三宅伸治(ギター)、(ベース)、厚見玲衣(キーボード)、(初代ドラム)、(二代目ドラム)、梅津和時(アルトサックス)、(テナーサックス)、(トランペット) ディスコグラフィ [ ] 忌野清志郎のディスコグラフィ リリースリスト スタジオ・アルバム 20 ライブ・アルバム 7 コンピレーション・アルバム 6 シングル 38 映像作品 15 RCサクセションの作品はの項目を参照。 シングル [ ]• (1986年3月21日) - 忌野清志郎,• (1987年2月4日)• (1987年9月5日)• (1989年10月11日) - THE TIMERS• (1989年12月13日) - THE TIMERS• (1991年5月2日) - のCMソングとして使用された。 (1991年6月28日) -• (1991年8月9日) - トーサンズ• (1991年11月13日) - HIS• (1992年2月12日)• (1994年5月11日)• (1995年4月8日) - THE TIMERS• (1995年11月1日)• (1996年1月31日)• (1996年4月24日) 1996年4月度楽曲• (1996年11月25日) - 忌野清志郎と• (1997年6月18日) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue• (1998年9月23日) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue• (1999年7月28日)• (2001年3月10日) - ラフィータフィー• (2002年4月24日)• (2002年6月19日) - LOVE JETS• (2002年10月30日) - ミツキヨ (とのユニット)• (2003年7月2日) - LOVE JETS• (2003年7月2日) - LOVE JETS• (2004年11月10日) - with 忌野清志郎• (2004年11月26日)• (2005年2月9日) - 忌野清志郎 feat. (2005年7月27日) - 忌野清志郎 with• (2005年12月7日)• (2009年1月21日)• (2009年6月17日) アルバム [ ] スタジオ・アルバム [ ]• (1985年7月20日) - DANGER• (1987年2月25日)• (1989年11月8日) -• (1991年7月19日) -• (1992年3月25日)• (1997年3月3日) - Kiyoshiro meets de-ga-show• (1997年7月24日) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue• (1998年10月14日) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue• (1999年7月28日)• (1999年9月22日) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue• (2000年7月7日) - ラフィータフィー• (2000年11月11日) - ラフィータフィー• (2003年7月2日) - LOVE JETS• (2003年11月19日)• (2005年3月2日)• (2006年10月4日)• (2010年3月5日) ライブ・アルバム [ ]• (1995年4月26日) - THE TIMERS• (1995年4月30日) - THE TIMERS• (2008年6月18日)• (2008年12月17日) コンピレーション・アルバム [ ]• (1993年6月16日)• (1994年9月16日)• (1998年3月25日)• (2008年5月)• (2009年7月)• (2011年11月23日) 関連盤 [ ]• (1989年12月8日) - 語り・忌野清志郎、ピアノ・による「読み聞かせCD」• (1990年7月25日) - SMI - 5曲参加• (1995年1月11日)• (1998年12月9日) - 語り・忌野清志郎、ピアノ・による「読み聞かせCD」• (1998年11月26日) - featuring. 忌野清志郎 - 1曲参加(「」のカバー)• (1998年11月30日) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue - 1曲参加• (2002年2月14日) - リチャード佐川 - 3曲参加• (2002年5月18日) - LOVE JETS - 1曲参加• 『Are You Jap?! 』 (2002年5月22日) - の企画盤、1曲参加(「ジライヤ」)• (2003年7月24日) - 1曲参加(の「」のリメイク版「自転車ショー歌」)• (2003年10月29日) - 1曲参加(「乞食のパーティー」のカバー)• 『』 (2004年9月1日) - 1曲参加(「素晴らしきこの世界」のカバー)• (2004年9月23日) - 1曲参加• (2004年11月10日) - 1曲参加(「少年時代」のカバー)• (2005年8月6日) - 1曲参加(「サヨナラCOLOR feat. 忌野清志郎」)• 『Duets』 (2005年12月21日) - 1曲参加• 『』 2006年3月8日 1曲参加(「ひとつだけ with 忌野清志郎」)• 矢野顕子『』 2013年2月6日 - 矢野によるカバー・アルバム 映像作品 [ ]• HAVE MERCY! Screaming Revue (1994年9月16日)• 不死身のタイマーズ (1995年4月30日) - THE TIMERS• RESPECT! (2000年6月14日)• ドラムレス ラフィータフィー (2001年6月2日) - ビリ井バンバン• (2001年8月6日)• WANTED (2004年5月21日)• ONE MAN SHOW (2004年7月21日)• LOVE JETS 生 (2004年12月25日) - LOVE JETS• (2008年5月)• ブルーノートブルース 忌野清志郎 LIVE at Blue Note TOKYO (2008年8月)• 忌野清志郎 LIVE at SPACE SHOWER TV〜THE KING OF ROCK SHOW〜(2010年2月) 関連映像作品 [ ]• 仕事なので・・・ 1986 忌野清志郎 忌野清志郎 BICYCLE 牛肉オレンジ 1991 忌野清志郎 忌野清志郎 ジャングルジム アルバム『ジャングル野郎』 2001 忌野清志郎 三宅伸治 忌野清志郎 三宅伸治 やどもり 忌野清志郎 間寛平 忌野清志郎 月光バスボーイ 忌野清志郎 銀河 アルバム『銀河』 2008 原田郁子 忌野清志郎 バカンス 1986 忌野清志郎 忌野清志郎 バスケットシューズ アルバム『オレンジ色のすけっち』 1972 忌野清志郎 仲井戸麗市 忌野清志郎 仲井戸麗市 コーヒーサイフォン あの娘が結婚してしまう 忌野清志郎 忌野清志郎 サムライ・ロックス アルバム『Fanatic City』 2006 忌野清志郎 Dragon. 清志郎がゲストボーカルを務めている あなたと、熱帯 アルバム『』 1988 忌野清志郎 撃て! アルバム『喜・怒・愛』 1980 三浦友和 忌野清志郎 カゴの鳥 モービル アルバム『Mr. RAINBOW』 1996 忌野清志郎 忌野清志郎 三宅伸治 マイホーム アルバム『モップスと16人の仲間』 1972 肝沢幅一 肝沢幅一 三重人格 1991 忌野清志郎 三宅伸治 月光浴の調べ 忌野清志郎 三宅伸治 忌野清志郎 三宅伸治 山本キヨシ ベトコンママ、デルタ No. 1998年から2005年の間はにも出演、1999年にはフジロックの主催者スマッシュのの依頼でテーマソング「田舎へ行こう! Going Up The Country」を提供。 2002年には異なるバンド・ユニットで3日とも出演するという離れ業を演じた(3日目のLOVE JETSは覆面バンドなので名目上は2日の出演)。 KIYOSHIRO IMAWANO SOLO TOUR (1987年3月)• GO GO 2・3'S (1991年11月-12月)• 忌野清志郎 with Booker T. 2・3'S TOUR 1992 (1992年10月-1993年1月)• 1993 お年玉だよ 2・3'S (1993年1月)• SWEET 2・3'S POWER TOUR 1993 (1993年10月-1994年1月)• SPRING STAKES TOUR 1994 (1994年4月-5月)• Screaming Revue TOUR '95 (1995年11月-12月)• 忌野清志郎 TOUR 1996 Little Screaming Revue (1996年2月-4月)• 学園祭ツアー'96 (1996年10月-11月) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue• Live in Hospital 皐月病 (1997年5月) - Kiyoshiro meets de-ga-show• TOUR 1997 GROOVIN' TIME (1997年7月-10月) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue• ラブ・ジャム'98 (1998年3月) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue• ラブ・ジャム'98 Vol. 2 (1998年9月) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue• TOUR 1998 TRAVELIN' CAFE (1998年11月-12月) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue• TOUR 1999 Winter Rood (1999年10月-12月) - 忌野清志郎 Little Screaming Revue• マジカデ・ミル・スター・ツアー 2000 (2000年5月) - RUFFY TUFFY featuring 忌野清志郎• マジカデ・ミル・スター・ツアー 2000 (2000年10月-12月) - RUFFY TUFFY• TOUR '03-'04 "WANTED" (2003年11月-2004年2月)• 、 優秀アルバム賞 - Baby a go go• 、、、市 名誉市民• 、 優秀音楽賞• 、 特別功労賞 出演 [ ] 忌野個人としての出演番組を記載。 バンド時代の出演番組に関してはを参照のこと。 テレビ番組 [ ]• (1990年、TBS)• (1992年10月3日、日本テレビ) - 企画、演出の特番。 当時のバックバンド「2・3's」を率いたライブ演奏を披露。 や、、などもゲスト出演。 (1994年11月13日、NHK) - ナレーションを担当。 (1995年、NHK) - 本人を追ったドキュメンタリー番組。 (1998年12月5日、フジテレビ) - のと共演した。 (1999年、日本テレビ) - の、らと結成した企画バンド「ぴんく」に参加した際に数回ゲスト出演• スーパーライブ RESPECT! 清志郎 (2000年4月6日、NHK-BS2)• (2000年10月21日、フジテレビ) - ゲスト出演の他、司会進行も担当• (2002年12月22日、NHK)• (2004年10月29日、NHK) - カリフォルニア州ホワイトマウンテンを訪れるドキュメンタリー番組• 世界・時の旅人 君はオーティスを聴いたか 忌野清志郎が問う魂の歌 (2006年1月20日、NHK-BShi) - 歌手の足跡を訪れるドキュメンタリー番組• 忌野清志郎 35周年スペシャルライブ (2006年5月12日、)• 来日40周年記念 ビートルズ・スペシャルナイト (2006年7月2日、NHK-BS2) - と共にゲスト出演• (2006年9月25日、フジテレビ) - アルバム『』製作過程に密着したドキュメンタリー番組• 忌野清志郎 完全復活SP 〜復活への道ドキュメント〜 (2008年4月24日、フジテレビ)• (2008年12月17日、日本テレビ) - 番組内にて、が挑戦する世界一周マラソン「」開幕式の生中継にVTR出演。 メッセージと寛平自身に依頼されて製作した楽曲「走れ何処までも」を披露した。 これが生前最後の出演番組となった。 (TBS) - 数度ゲスト出演。 「忌野清志郎という生きかた」(1999年11月25日)、「30周年だぜベイベー! 忌野清志郎 撮って出し」(2000年3月3日)などたびたび特集が組まれた。 '92年には番組のエンディングテーマ曲「NEWSを知りたい」も歌っている。 最後の出演日(2008年3月28日)には、清志郎と筑紫による対談が放送されるなど、親交の深さが伺える。 (2009年5月10日、NHK総合) - 死去後に緊急追悼番組として放送された。 ライブ映像や過去のNHK出演時の映像などを放送。 (2010年12月29日、NHK総合) - ゴッホは、清志郎が油絵に興味を持ったきっかけだった。 本物のゴッホの絵に向き合う濃密な時間をドキュメント。 テレビドラマ [ ]• (1993年、TBS) - 主人公の友人役• (1994年、TBS) - 主人公の義兄の売れないミュージシャン役として出演。 自作曲を弾き語る場面がたびたびあり、「エンジェル」「パパの歌」等を披露。 また、劇中に登場する架空の食品のCMソングとして、「雨あがりの夜空に」、「競馬場で会いましょう」の替え歌を披露していた。 (1997年、フジテレビ) - 主人公の情報屋的役割を持つ引きこもりの犯罪オタク役• (2003年、TBS) - 謎の男役• (2003年、日本テレビ) - 工事現場の男役• (2003年、日本テレビ) - 謎の画家役• (2004年、NHK) - 主人公に恋するサラリーマン役• (2005年、日本テレビ) - 主人公たちが通う高校の近くの本屋店主役• (2005年3月24日、日本テレビ)• (2006年7月18日、日本テレビ) - 主人公が恋心を抱くダメ男役• 日本放送版 (2008年、NHK) - 王様役(声優) ラジオ番組 [ ]• 夜をぶっとばせ (1988年、)• 2・3'Sの (199x年) - 2・3'Sが毎回担当。 清志郎もときどき出演した。 忌野清志郎・渋谷陽一 Radio Shuffle(1994年10月-1995年9月、bayFM) 映画 [ ]• (1986年) - Dr Loo役• (1993年) - 墓を買いに来る客の役• (2001年) - 詐欺師リチャード佐川役• (2002年) - 主人公のよき理解者、サダ役• (2004年) - アパートの謎の住人の役• (2005年) - 高校の同窓会の司会役• (2005年) - 役• (2007年) - 遊郭の客役(カメオ出演)• (2008年) - 変な男役• (2011年) - ライブ「ナニワ・サリバン・ショー」を映画化。 (2015年) CM [ ]• - バックに「じどうしゃ」と書かれた垂れ幕を配し、RCのメンバーがその前に横一列にやる気なさそうに座っているものであった。 放映期間はごく短く、すぐに下記の三菱自動車のCFに取って代わられた。 ・ - ソングは「ベイビー! 逃げるんだ。 」(RCサクセション)。 初期のバージョンでは清志郎自身もCMに出演し「ミツビシってーのが作ったんだぜぃ」と決め台詞を言っている。 しかしCMは不評で、当時大流行していたが登場するものに代わった。 また、が『』のB面曲のラスト付近で「タカミザワってーのが作ったんだぜぃ」と言っている。 - RCサクセション時代メンバーと共に出演。 さらにHIS結成時にも起用されている。 ・スーパーカップ - ザ・タイマーズとしてCMソングを提供。 その後、2006年に再びCMソングに採用される。 - 「」がCMソングに使われた。 清志郎自身も出演。 ・ - 路上でギターを弾き「幸せになりたいけどがんばりたくない」と歌うシーンが印象的だった。 「軽でどうだ!」のCMが印象的だった。 ほか、缶コーヒーやビール、生命保険、携帯電話などCM出演は多数。 ナレーターとしての出演や楽曲の使用なども含めると網羅しきれないほどあると言ってよい。 著書 [ ]• 『エリーゼのために:忌野清志郎詩集』(詩集、、1983年/角川学芸出版、2009年)• 『忌野清志郎・ニューヨーク・シティ・マインド』(シンコーミュージック、1984年1月)• 『忌野旅日記』(エッセイ、 1986年/、1993年)• 『十年ゴム消し』(私小説風エッセイ、 1987年/、2000年)• 『日々の泡立ち:真説RCサクセション』(ロッキング・オン、1991年3月)• 『瀕死の双六問屋』(エッセイ集、、2000年 /、2007年/新人物往来社、2012年2月)• 『竹中直人』(忌野責任編集、、2001年)• 『ブーアの森』(作の絵本、清志郎は絵を担当、TOKYO FM 出版、2002年)• 『君が僕を知ってる』(の写真とのコラボ詩集、、2003年)• 『おとうさんの絵』(作の絵本、清志郎は絵を担当、、2003年)• 『Bad Cat』(・作の絵本、忌野は翻訳を担当、、2003年)• 『サイクリング・ブルース』(自転車指南書、、2006年)• 『ロックで独立する方法』(太田出版、2009年8月)• 『忌野清志郎の世界』(忌野清志郎画、ベイビィズ企画・監修、ぴあ、2009年9月)• 愛しあってるかい( 1981年)• 十年ゴム消し(忌野清志郎による私小説風エッセイ、 1987年・ 2000年)• 忌野旅日記( 1987年・ 1993年)• GOTTA! 忌野清志郎(忌野清志郎伝、 1988年)• 遊びじゃないんだっ(RCサクセション20周年記念、 1990年)• 日々の泡立ち 真説RCサクセション(インタビュー集、 1991年)• 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遺言」( 1992年)• 生卵(忌野清志郎デビュー25周年記念 1995年)• 瀕死の双六問屋(忌野によるエッセイ集、 2000年)• ロック画報・2002年10月号「特集 RCサクセションに捧ぐ」( 2002年)• ブーアの森( 2002年)• 清志郎(写真家による、屋根裏時代からの忌野清志郎の22年間の集大成的写真集 2003年)• 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して( 2006年)• サイクリング・ブルース( 2006年)• 地球音楽ライブラリー 忌野清志郎( 2006年)• ロックで独立する方法( 2009年)• 忌野清志郎の世界( 2009年) 展示会 [ ]• 「個展 忌野清志郎の世界」 - 2009年8月22日(土)から9月13日(日)までラフォーレミュージアム原宿(ラフォーレ原宿6階)で開催された。 脚注 [ ] []• PDF. のBooker T. 「In The Midnight Hour」「Soul Man」を歌い、これが清志郎の最後のステージになった。 所属レコード会社の発表• 長谷川博一編『Mr. OUTSIDE わたしがロックをえがく時』(大栄出版、1991年)清志郎ロングインタビュー内のP42-44• どんとが以前に組んでいたローザ・ルクセンブルグは「京都の」の異名を持つほどで、エレファントカシマシもデビュー直前はRCサクセションのカバーをやらせれば右に出るものはいないと言われていた。 1999年10月25日「西日本新聞」• 桑田佳祐『ブルー・ノート・スケール』P186、ロッキン・オン、1987年• zakzak• 原由子『あじわい夕日新聞〜夢をアリガトウ〜』18頁、朝日新聞出版、2013年• 泉谷しげる自伝『わが奔走』(1988年、株式会社ロッキングオン)• a-files. jp 2013年10月14日. 2019年11月2日閲覧。 1992年1月18日「朝日新聞」• シブヤ経済新聞 2009年6月17日閲覧• 朝日新聞 身上相談 1969年11月4日• 朝日新聞 天声人語 2019年5月2日 1面• 長谷川博一編『Mr. OUTSIDE わたしがロックをえがく時』(大栄出版、1991年)清志郎ロングインタビュー内のP37-38• のエンリケがプロデュースしたバンド• のローディー• 付録CD付。 収録曲は、「瀕死の双六問屋のテーマ」「遠いシナリオ」「フリーター・ソング」「瀕死の双六問屋 エンディング・テーマ」 外部リンク [ ]• - チャンネル• RHYMESTER - 愛を謳おう 忌野清志郎 with - 仕草 - 走れ何処までも - RUN寛平RUN - Oh!
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