この記事の所要時間: 約 10分 0秒 先程、ペシャワール会の現地代表である 中村哲(なかむら てつ)医師が、銃弾を受けて亡くなったというニュースが入ってきました。 ものすごくショックです。 私は今から15年ほど前に、中村哲医師の講演を聞きに行ったことがあります。 それからしばらくは、ペシャワール会の会報が我が家にも届いていました。 30年間もパキスタンやアフガニスタンの人々のために、危険と背中合わせの中で働いて来られた中村哲医師。 お話をされる中村哲医師は本当に優しい方で、現地の人達への愛に溢れていました。 今回は、そんな中村哲医師の経歴と功績そしてご家族と名言についてご紹介します。 中村哲医師の経歴について まず中村哲医師の経歴についてご紹介します。 中村哲医師は1946年9月15日、福岡県福岡市に生まれました。 今年、73歳でした。 中村哲医師は子供の頃から昆虫が大好きで、珍しい虫を発見すると追いかけていたそうです。 大人になってからも昆虫採集と登山を趣味とされていました。 中村哲医師は小さい時から父親に「親を捨ててもいいから、世の中の役に立つ人間になれ。 」と言われて育ちました。 その父親の教育が、あの中村哲医師を作ったのでしょうね。 中村哲医師は西南学院中学校、福岡県立福岡高等学校、九州大学医学部を卒業後、福岡の病院に勤務され、副院長までされました。 中村哲医師は、若い頃から国内の医療過疎地域の人々のために働くという使命感を持っておられましたが、登山隊の医師としてパキスタンとアフガニスタンにまたがる山に行かれた時、現地の人々の厳しい現実を目の当たりにし、ショックを受けられます。 そして、 1984年、パキスタンのペシャワールに赴任し、20年以上にわたってハンセン病治療を中心とする医療活動に携わることになられたのです。 しかし、パキスタンの国内情勢は大変厳しくなり、活動を続けることが困難になりました。 それでその後、中村哲医師は アフガニスタンで活動を続けられます。 2000年、アフガニスタンで大干ばつが発生しました。 そのためアフガニスタンでは感染症が蔓延し、多くの乳幼児が犠牲となりました。 中村哲医師は「十分な食べ物と清潔な飲料水があれば防げたのに。 」と、医療活動だけではなく、井戸を掘る事業を始めました。 2003年からは農村復興のために大規模な用水路の建設も開始されました。 このことで多くの雇用も生み出すことができました。 しかしそんな中、アフガニスタンでは、2001年のアメリカ同時多発テロ以来の爆撃やタリバンなどの反政府武装勢力による襲撃等が多発し、大変危険な国となります。 そして2008年に日本人スタッフ、伊藤和也さんが殺害されるという事件が起きました。 その後、 中村哲医師は25人いた日本人スタッフを帰国させて、事務職員と2人でアフガニスタンに残られました。 中村哲医師はクリスチャンですが、アフガニスタンの人々の信仰や慣習を尊重し、現地に溶け込んで活動しておられる様子が、そのお話から伝わってきました。 中村哲医師の功績は? 次に中村哲医師の功績についてお伝えします。 中村哲医師は、パキスタンやアフガニスタンで多くの人々を診療し、その命を救って来られました。 しかし、中村哲医師はお医者さんでありながら、その活動は病院内にとどまらず、ゴツゴツした岩地を掘って井戸を作られたのです。 中村哲医師の著書 「医者 井戸を掘る」には、日本の青年達と共に現地の人々を指揮して千の井戸を掘り、人々の命を守リ抜いた記録が収めてあります。 私はこの本を読み、「こんな人がいるんだ!」と、とても感動しました。 講演会があったのは、ちょうどその後でした。 アフガニスタンでは干ばつのために土地が砂漠化していき、多くの人が命を落としました。 中村哲医師は「清潔な水と食べ物さえあればほとんど人が死なずにすんだのに」と白衣を捨てて井戸掘りを始められるのです。 そして2003年からは 「100の診療所より1本の用水路」と、福岡県の山田堰をモデルにした用水路の建設に着手されます。 それは途方もない計画と思われましたが、中村哲医師は仲間や現地の人々と共に、大きな石を一つひとつ運びながら、人々の命を守る用水路の建設を進められました。 これらの功績で、2003年に、アジアのノーベル賞と言われる マグサイサイ賞を受賞されました。 翌2004年には、皇居において天皇陛下にアフガニスタンの現況を報告されました。 同年、 第14回イーハトーブ賞を受賞されます。 2008年、アフガニスタン東部で完成した用水路は全長25. 5kmあります。 そして 中村哲医師は75万本の木を植え、3500ヘクタールの土地を耕作地として復活させ、約15万人が暮らしていけるようにされました。 この事業で 200万人もの雇用を生み出すことができ、さらに難民も戻ってきました。 すごいことです! 中村哲医師は実現不可能に思えることを、人々を救うために、あきらめずとにかくコツコツと実践されたのです。 2018年、アフガニスタン政府は中村哲医師を「最大の英雄」と讃え、 アフガニスタン国家勲章を贈りました。 その時、アフガニスタンのガニ大統領は「あなたの仕事がアフガン復興の鍵だ。 」と中村哲医師に何度も話されたのだそうです。 ガニ大統領は今回の訃報を受けて、次のようなコメントを発表されました。 中村医師はアフガニスタンの偉大な友人であり、その生涯をアフガニスタンの国民の生活を変えるためにささげてくださいました。 彼の献身と不断の努力により、灌漑システムが改善され、東アフガニスタンの伝統的農業が変わりました。 asahi. html? 中村哲医師には 妻の尚子さん(66歳)と5人の子供さんがおられます。 妻の尚子さんは、中村哲医師がパキスタンに赴任する前に勤務されていた福岡県の労災病院で看護師をされていた方です。 パキスタンに赴任される時には既に結婚されていて、子供さんもおられました。 最初、中村哲医師は家族を連れてパキスタンのペシャワールに赴任され、子供さん達は現地のインターナショナルスクールに通っていたそうです。 その後、妻の尚子さんと子供さん達は帰国し、福岡で暮らされました。 長男は健さん、長女は秋子さん(39歳)、三女は幸さん(27歳)です。 次男は10歳ぐらいの時に難病で亡くなったのだそうです。 中村哲医師は帰国された時は、長男の健さん家族と2世帯住宅で暮らしておられ、お孫さん達と遊んだりされていました。 長男の健さんは中村哲医師の告別式で親族代表の挨拶をされました。 健さんはまず最初に、共に命を落とされた運転手や警備の方達とその遺族への謝罪とお悔やみを述べられました。 そして後半、このように語られました。 私自身が父から学んだことは、家族はもちろん人の思いを大切にすること、物事において本当に必要なことを見極めること、そして必要なことは一生懸命行うということです。 nishinippon. 火野葦平さんの長編小説「花と竜」の主人公、玉井金五郎は中村哲医師の祖父がモデルになっています。 妻の尚子さんは、今回の悲報を受け、「今日みたいな日が来ないことだけを祈っていた。 」と語られました。 本当に今まで、毎日毎日、そう祈って来られたのでしょうね。 年末年始には、もしかしたら帰国されることになっていたかも知れませんね。 中村哲医師は日頃「自分は好き勝手なことをしているから家族には迷惑をかけたくない。 」と話しておられたそうです。 また、ある取材で「日本に残してきた家族に、罪滅ぼしをしたいと思うこともある。 」と語っておられます。 妻の尚子さんによると、中村哲医師はいつもさらっと帰ってきて、またさらっと出かけられたということで、先月11月29日に「行って来ます。 」と発たれたばかりだったそうです。 突然の訃報、ご家族にとっては信じられないことでしょう。 中村哲医師の名言 最後に中村哲医師が残された名言をお伝えしたいと思います。 憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓う 2008年にペシャワール会のスタッフ、伊藤和也さんが殺害された時の言葉です。 誰もそこへ行かぬから、我々がゆく。 誰もしないから、我々がする 著書 「辺境で診る辺境から見る」の中の言葉です。 自分に災いが降りかかるのを恐れ、知らぬ顔をすることが多い者にとって、心にズキッと差し込んでくる言葉です。 鍬も握っていない外国人が農業支援を行うことはできません これも「辺境で診る辺境から見る」の中の言葉です。 自分は鍬を握らず、汚れもせず、お金だけを出して農業支援を行ったという国に向けての言葉ですね。 「戦争協力が国際的貢献」とは言語道断である こちらも「辺境で診る辺境から見る」に書いてある言葉です。 中村哲医師は講演の中でも 「武器を鍬に持ちかえよう。 」と言われていました。 「国際的貢献」という名のもとで、どれだけの罪のない人々が命を落としたことか・・・。 医者であれば、一番必要とされるところで喜ばれるのが本望というものでしょう。 なんべん考えても、ほかに選びようがなかった。 (日本の医療現場で働くという)別の道を選べば、死ぬときに悔いが残るだろうと考えた。 中村哲医師は日本におられれば、たくさんの名声や豊かなくらしを手に入れることができた方だったでしょう。 でも、ご自分の良心に逆らうことができない真に誠実な方だったのですね。 口先だけじゃなくて行動に示せ。 俺は行動しか信じない。 長男の健さんが告別式の挨拶で語られた言葉です。 父親の中村哲医師から、いつもそう言われていたと。 私も、この中村哲医師の言葉を心に覚えておきたいと思います。 まとめ 今回はパキスタンやアフガニスタンの人々のために生涯を捧げられた中村哲医師の経歴と功績、ご家族そして名言についてご紹介しました。 こちらの本は、中村哲医師の活動の集大成とも言える一冊です。 本当に、このタイトルのように、中村哲医師には天が共に在って、その奇跡が成されていったのだと思います。 心から、中村哲医師の働きに感謝し、ご冥福をお祈りいたします。
次の料理風景(1954年) 中村 哲(なかむら あきら、 - )は、の、。 父方の叔母に(婦人運動家、・の妻)がいる。 来歴・人物 [ ] 出身。 、(現)を経て、に卒業( 門下生)。 の・を経て、戦後の引きで法政大学教授に。 法学部長・常務理事を歴任し、に法政大学総長となった。 総長就任時はが激しく、学内で殺人事件が発生するなど危機的な状況にあったが、警官隊の学内導入をほのめかしたと対立しながらもを繰り返し、終に警官隊を導入することなく事態を乗り切った。 にに請われてに出馬、この選挙から導入された名簿第一位に登載されて当選、1期6年を務めた。 戦時中は「日本の国家はいかなる理想目標に向って進むべきであるのか。 その内在的な理念が明らかにされなくてはならない。 それは日本の国体がつねに宣明し来った一君万民の統治を実現することであって、ののいうように『君云いて臣承り上行えば下靡く』政治を実現すべきであって、これこそ日本の国体の根本理念にもとづく政治力の結集である」(昭和十六年九月『日本評論』誌掲載「政治力の条件」)という文章や、「八紘一宇の東亜政治の理想をその内在的な理念とする戦争論が樹立されねばならない」(昭和十七年二月『改造』誌掲載「民族戦争と強力政治」)という文章を書いていたにも関わらず、戦後の論客となった中村に対し、『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には次の副題が付けられている。 中村哲(法政大学法学部教授)八紘一宇の絶叫から平和憲法へ — 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』、昭和32年 著書 [ ]• 植民地統治法の基本問題 日本評論社, 1943• 新憲法ノート 共和出版社, 1947• 知識階級の政治的立場 小石川書房, 1948• 国法学の史的研究 日本評論社, 1949• 戦後文化 印刷局, 1949 青年双書• 憲法入門 弘文堂, 1952 アテネ文庫• 国会 要書房, 1952 要選書• 日本国憲法の構造. 第1-2分冊 御茶の水書房, 1954-55• 不安と反抗 法政大学出版局, 1954 がくえん新書• 現代の郷愁 東方社, 1956 東方新書• 政治と憲法の話 偕成社, 1957• 政治への不信 実業之日本社, 1957• 憲法案内 日本評論新社, 1957• 政治史 東洋経済新報社, 1963 日本現代史大系• の思想 法政大学出版局, 1967、講談社学術文庫(上下), 1977• わが学芸の先人たち 法政大学出版局, 1978• 宇宙神話と君主権力の起源 法政大学出版局, 2001 共編著 [ ]• よみがえる暗黒 警察国家への危機 共編 第一評論社, 1958• 第3代 1934• 第4代 1934-1943• 第5代 1943-1946• 第6-7代 1946-1950• 事務取扱 1950• 第8代 1950-1959• 第9代 1959-1962• 代行 1965-1966• 代行 1966-1967• 第11代 1967-1968• 代行 1968• 第12代 1968-1983• 第14代 1988-1995• 代行 1995• 第15代 1995-1996• 第16代 1996-2005• 第17代 2005-2008• 第18代 2008-2014• 第19代 2014-.
次の概要 [ ] 出身のを専門とするである。 の現地代表やピース・ジャパン・メディカル・サービスの総院長として、やで医療活動に従事してきた。 アフガニスタンでは高く評価されており、同国から国家勲章や議会下院表彰などが授与されており、さらに同国のが贈られている。 からもなどが授与されている。 また、母校であるでは、にて特別主幹教授に就任した。 、アフガニスタンのにて、に銃撃され死去した。 死去に伴い、や内閣総理大臣感謝状などが授与された。 経歴 [ ] 出生から大学卒業まで [ ] 御笠町(現在の堅粕)生まれ。 2年後、母の実家(玉井家)がある同県(現在の)に移り 、6歳から大学卒業まで古賀町(現在の)で暮らした。 古賀市立古賀西小学校 、 、 を経て、1973年にを卒業した。 医師免許取得後 [ ] 、の勲章伝達式にて。 (左)と 国内病院勤務ののち、、(JOCS)から 派遣されて北西辺境州の州都に赴任。 以来、20年以上にわたってを中心とする医療活動に従事する。 とが趣味で、1978年には7000m峰登山隊に帯同医師として参加した。 パキスタン・地域で長く活動してきたが、パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が困難になったとして、以後はアフガニスタンに現地拠点を移して活動を続ける意思を示している。 2003年にを受賞した。 2004年にはに招かれ、当時であった、の、・(当時)へアフガニスタンの現況報告を行った。 同年、第14回イーハトーブ賞受賞。 2008年にはで、参考人としてアフガニスタン情勢を語っている。 また、「」にも、天皇・皇后が関心を持つ分野に縁のある代表者の一人として紹介され出席している。 2010年、水があれば多くの病気と帰還難民問題を解決できるとして、のをモデルにして建設していた 、 ()から ()砂漠まで総延長25kmを超える用水路が完成し、約10万人の農民が暮らしていける基盤を作る。 2013年、第24回大賞、第61回を受賞した。 2016年、現地の住民が自分で用水路を作れるように、学校を準備中。 住民の要望により(イスラム教の礼拝堂)や(イスラム教の教育施設)を建設。 2018年、アフガニスタンの国家勲章を受章した。 2019年10月7日、アフガニスタンでの長年の活動が認められ、同国のを授与された。 銃撃事件・没後 [ ] 2019年12月4日、アフガニスタンの東部の州都において、車で移動中に何者かに銃撃を受け、右胸に一発被弾した。 負傷後、現地の病院に搬送された際には意識があったが、さらなる治療の為ににあるのへ搬送される途中で死亡した。 なお、中村と共に車に同乗していた5名(運転手や警備員など)もこの銃撃により死亡した。 中村が襲撃されたこの事件に対しては報道官が声明を発表し、組織の関与を否定。 一方でのは「テロ事件である」とする声明を発した。 12月7日、カブールの空港で追悼式典が行われたのち、遺体は空路で日本に搬送された。 追悼式典では大統領のアシュラフ・ガニー自らが棺を担いだ。 告別式は12月11日に福岡市中央区の斎場で営まれた。 親交のあった夫妻や夫妻などからも弔意が寄せられ、駐日アフガニスタン大使、九州大学長らが弔辞を読んだ。 中村と同様にアフガニスタンへの医療支援を目的とするNPO法人を率いていた医師は、の取材に応じて、生前の中村について「互いの活動を励まし合い、相談し合う関係」であったと述べ、「寡黙で男らしく、優しい九州男児を絵に描いたような人だった」と中村の人柄を述懐して冥福を祈った。 はの規定に基づきで捜査を進めており、の結果、死因はによるとみられると発表した。 同年12月23日、政府は中村へのの追贈と内閣総理大臣感謝状の授与を決定。 27日に行われた授与式で授与式で内閣総理大臣・安倍晋三は遺族と面会し、「(中村さんは)アフガニスタン国民や難民のための医療活動、かんがい事業などで輝かしい業績を上げ、国際人道支援に多大な貢献をした」と生前の功績を称えた。 授与式の後に遺族は取材に応じ、「本当は無念で残念だが、みなさまの支援で継続してアフガニスタンで緑の大地が広がっていくことを願っている」「ぺシャワール会はこれからも継続していく。 父も何より願っていることで、家族もそれが願いです」と語った。 授与式には駐日アフガニスタン大使のや、の村上優会長らも立ち会った。 追悼の声 [ ] モヘブ・ラフマン・スピンガーからに贈られた弔花 中村の死去を受けて、政界からは以下のような発言がなされた。 ・:「中村先生は、医師として医療分野において、また、灌漑事業等において、アフガンで大変な貢献をしてこられました。 なかなか危険で厳しい地域にあって、本当に、本当に命懸けで様々な業績を挙げられ、アフガンの人々からも大変な感謝を受けていたというふうに、我々も知っておりますが。 しかし、今回このような形で、お亡くなりになられたことは本当にショックですし、心から御冥福をお祈りしたいと思います。 ・:「中村医師を含む方々が犠牲となったことは痛恨の極みだ。 今回の卑劣なテロは許されるものではなく、わが国は断固として非難し、今後とも日本人の安全確保のために全力を尽くしていくとともに、アフガニスタンの平和と発展のために引き続き貢献していきたい」• ・:「中村さんの大きな功績を改めて振り返り、敬意を表し、ご冥福をお祈り申し上げたい。 国際社会では厳しい現実が存在し、日本人が命をかけて頑張っている。 今後、中東への自衛隊派遣の問題など、国際社会との関わりを政治の立場から真剣に考えていかないといけない」• ・:「誠に無念で、ご家族の心中を思うと大変胸が痛む。 何の罪もない尊い生命を奪う卑劣で残忍なテロを断じて許すことはできない。 政府は、真相究明を徹底的に行い、このようなテロが二度と起きないよう、最善の努力を尽くすべきだ」• 外交・安全保障調査会長・:「国会で参考人として証言し、でも貴重な意見をいただいた。 『何をしてはいけないか。 殺してはいけない、戦争に関わってはいけない』という直接いただいたことばを思い起こし、世界の平和と日本国民の安全のためにどのような行動をとるべきか、常に考えなければならない。 われわれがきちんと役割を果たすことをお誓いし、心からご冥福をお祈りしたい」• ・:「私も中村さんに会って話を聞いたことがあるが、アフガニスタンの貧しい人たちを助けるために支援してきた方で、銃撃で命を奪われたことは許しがたい。 アフガニスタンの復興と安定を作り出すため、中村さんの志はこれからも消えることなく、多くの人が共有し、努力していくべきだ」• ・:「憲法9条に基づく国際貢献とは何かということを身をもって体現された方だ。 自衛隊の海外派遣の動きがあった際には、『非軍事の国際貢献が危険にさらされる』として、必ず反対していたのが大変心に残っている。 中村さんを失ったことは、世界にとって損失だ。 心から哀悼の意を表したい」 人物 [ ]• 西南学院中学校在学中に香住ヶ丘バプテスト教会(福岡市、当時は香椎伝道所)でF・M・ホートン宣教師よりを受けた。 当時の香住ヶ丘教会はまだバプテスマが行われたことがなく、教会にとって中村は最初期の生え抜き教会員だったという。 自身はである。 同時に現地の人々の信仰や価値観の在り方を尊重して活動を続けていた。 福岡高等学校時代の同期にがいる。 また内科医で九州大学第23代学長・は大学で同級だった。 アフガニスタンでの活動について、「向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。 体で感じた想いですよ。 武器など絶対に使用しないで、平和を具現化する。 それが具体的な形として存在しているのが日本という国の平和憲法、9条ですよ。 それを、現地の人たちも分かってくれているんです。 だから、政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さない。 むしろ、守ってくれているんです。 9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。 それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。 」と語り、の堅持を主張した。 またに対しても「アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。 敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。 単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。 憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」とも語っている。 家族・親族 [ ]• 小説家のは母方の伯父である(妹が中村の母)。 父方の親族は、のでほぼ全滅している。 父の中村勉は、生まれ。 として働いていたところ、その英才をに認められてとしてに入学し、を経て、再び若松に戻り、火野葦平と交流を深めていた。 同時に運動にも力を入れ、指導的立場にいた。 しかし、での反戦・労働運動などを理由にに違反で逮捕され、懲役2年、猶予5年の判決を受けた。 玉井組の下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のなどを生業にしていた。 外祖父で若松において港湾荷役業を営んでいたが映画『』のモデルとなった。 記者で同社北九州本社代表を務め、現在はプロサッカーチーム:代表取締役社長の職に在る玉井行人は従兄弟に当たる。 長女の秋子がやはりペシャワール会事務局で、2020年1月から活動している。 受賞歴 [ ]• 1988年(昭和63年)外務大臣賞(外務省)• 1992年(平成 04年)毎日国際交流賞()• 1993年(平成 05年)西日本文化賞()• 1996年(平成 08年)厚生大臣賞()• 1996年(平成 08年)読売医療功労賞()• 1998年(平成10年)朝日社会福祉賞()• 2000年(平成12年)アジア太平洋賞特別賞(毎日新聞・アジア調査会)• 2001年(平成13年)第7回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞(『医者井戸を掘る』)• 2002年(平成14年)日本ジャーナリスト会議賞(日本ジャーナリスト会議)• 2002年(平成14年)若月賞(長野県 )• 2003年(平成15年)大同生命地域研究特別賞(大同生命保険株式会社)• 2003年(平成15年)「平和と国際理解部門」• 2004年(平成16年)アカデミア賞 国際部門(全国日本学士会)• 2004年(平成16年)イーハトーブ賞()• 2008年(平成20年)第3回モンベル・チャレンジ・アワード受賞(モンベルクラブ・ファンド)• 2009年(平成21年)農業農村工学会賞(旧農業土木学会)• 2010年(平成22年)アフガニスタン国会下院 表彰• 2013年(平成25年)大賞• 2013年(平成25年)第61回• 2016年(平成28年)秋の叙勲・受章• 2017年(平成29年)第8回KYOTO地球環境の殿堂入り• 2018年(平成30年)アフガニスタン国家勲章• 2018年(平成30年)土木学会賞技術賞• 2019年(令和元年)アフガニスタン名誉市民権、(没後追贈) 、内閣総理大臣感謝状• 2020年(令和 02年)福岡県県民栄誉賞• 2020年(令和 02年)大牟田市市民栄誉賞• 2020年(令和 02年)福岡市名誉市民• 2020年(令和 02年)古賀市名誉市民 著書 [ ]• 『ペシャワールにて 癩そしてアフガン難民』石風社 1989年• 『ペシャワールからの報告 現地医療現場で考える』河合ブックレット 1990年• 『アフガニスタンの診療所から』筑摩書房 ちくまプリマーブックス 1993年 のち文庫 2012年に一旦絶版、2019年急逝に伴い緊急復刊• 『ダラエ・ヌールへの道 アフガン難民とともに』石風社 1993年• 『医は国境を越えて』石風社 1999年• 『医者よ、信念はいらないまず命を救え! アフガニスタンで「井戸を掘る」医者中村哲』羊土社 2003年• 『辺境で診る辺境から見る』石風社 2003年• 『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』聞き手 岩波書店 2010年 出演 [ ]• 「武器ではなく命の水を」(2016年9月10日、) 中村哲を題材とした作品 [ ]• 「アフガニスタンで起こったこと 〜不屈の医師 中村哲物語〜」前、後編 『』2003年24号、25号 関連項目 [ ]• : で同様の海外支援活動を行っている医師。 医学部の後輩に当たる。 : で拉致・殺害された職員。 : 活動に共感した発見者が名づけた小惑星。 2020年6月3日発表。 脚注 [ ] []• 日本語. 時事ドットコム. 2019年12月13日閲覧。 Ghazi, Zabihullah; Mashal, Mujib; Abed, Fahim 2019年12月4日. The New York Times. 2019年12月7日閲覧。 2019年12月12日. 2019年12月17日閲覧。 九州大学• 九州大学• 日本経済新聞. 日本経済新聞社. 2019-10-10. 2019年12月4日閲覧。 2019年12月5日. 2019年12月7日閲覧。 2019年12月4日. 2019年12月7日閲覧。 NHK NEWS WEB. 2019年12月5日. 2019年12月7日閲覧。 2019年12月5日. 2019年12月7日閲覧。 産経ニュース. 2019年12月6日. 2019年12月7日閲覧。 2019年12月5日. 2019年12月7日閲覧。 2019年12月25日 「」• 日本経済新聞社・日経BP社. NIKKEI STYLE. 2019年5月30日閲覧。 西日本新聞• アサヒ・コム. 朝日新聞社. 2019-12-04. 2019年12月4日閲覧。 NHKNEWSWEB. 2019年12月4日時点のよりアーカイブ。 2019年12月4日閲覧。 産経ニュース. 産業経済新聞社. 2019-12-04. 2019年12月4日閲覧。 Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. 2019-12-04. 2019年12月4日閲覧。 デジタル毎日. 毎日新聞社. 2019-12-04. 2019年12月4日閲覧。 テレ朝NEWS. テレビ朝日. 2019-12-05. 2019年12月5日時点のよりアーカイブ。 2019年12月5日閲覧。 AFPBB 2019年12月8日. 2020年4月10日閲覧。 毎日新聞 2019年12月11日. 2020年4月10日閲覧。 西日本新聞2019年12月11日• 朝日新聞2019年12月11日• NHKNEWSWEB. 2019年12月23日. 2019年12月23日時点のよりアーカイブ。 2019年12月23日閲覧。 毎日新聞 2019年12月27日. 2019年12月27日閲覧。 朝日新聞デジタル 2019年12月27日. 2019年12月27日閲覧。 西日本新聞ニュース 2019年12月27日. 2019年12月27日閲覧。 INC, SANKEI DIGITAL 2019年12月27日. 産経ニュース. 2019年12月27日閲覧。 首相官邸. 2019年12月4日. 2019年12月16日閲覧。 NHKNEWSWEB. 2019年12月5日. 2019年12月16日時点のよりアーカイブ。 2019年12月5日閲覧。 2019年12月6日. 2019年12月23日閲覧。 クリスチャンプレス. 2019年12月11日閲覧。 NHK NEWS WEB. 2019年12月6日. 2019年12月7日閲覧。 堺弘毅『隠された光:わが郷土の民主平和の先達たち』福岡県本部、2009年4月。 2019年12月5日閲覧。 『官報』165号、令和2年1月8日• ペシャワール会 外部リンク [ ]• 中村哲が現地代表となり、パキスタンとアフガニスタンで医療、水源確保(灌漑用井戸掘削・水路建設)、農業支援の活動を行っている。 西日本新聞社•
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