オスマン 一世。 帝国の礎を築いた盟友たち【創始者オスマン一世(4)】|オスマン帝国英傑列伝|小笠原弘幸

【RoK】オスマン1世の育成方法とおすすめの天賦【Rise of Kingdoms】

オスマン 一世

スレイマン 不明 早逝 アフメドあるいはオルハン 1552年死亡。 メフメド 1547-1553年。 ムスタファの死後に処刑。 シャー 1547-1577年。 ムスタファ(Mostafa)はイスラム教の預言者ムハンマドの別名。 イスラム圏ではよくある名前です。 「選ばれた者」「優先された者」という意味です。 いつの時代の人? 彼が生きた時代は9代セリム1世や10代スレイマン1世が領土を拡大して、オスマン帝国が最も栄えていたころです。 日本では戦国時代。 斎藤道三(1494-1556)や武田信玄(1521-1573)とほぼ同時代です。 ムスタファのおいたち 1515年。 オスマン帝国の都市・マニサで生まれました。 父はスレイマン。 当時のスレイマンはマニサで知事をしていました。 母はスレイマンの愛妾マヒデブラン。 スレイマンにとっては次男。 マヒデブランにとっては最初の男子になります。 1520年。 祖父の皇帝セリム1世が死去。 父のスレイマンが即位しました。 父や母とともにマニサからコンスタンティノープル(現在のイスタンブル)のトプカプ宮殿に移り住みました。 1522年にスレイマンの長男マフムードが10歳で病死したため、ムスタファが有力な後継者として育てられました。 母マヒデブランはスレイマンの寵愛を受けた愛妾でした。 スレイマンはトプカプ宮殿に新しく来た側女ヒュレムを寵愛します。 スレイマンとヒュレムとの間には4人の男の子が生まれました。 メフメド(Mehmed)、セリム(Selim)、バヤジッド(Bayezid)、ジハンギル(Cihangir)です。 とくにメフメド、セリム、バヤジッドは王位継承者のライバルになりました。 ジハンギルは若くて病弱だったのでライバルにはならなかったようです。 ヒュレムはスレイマンのお気に入りでした。 しかし宰相のイブラハムもムスタファを支持していました。 イブラヒムはムスタファを訓練して一人前の戦士に育てました。 王位を次ぐ者ににふさわしい教育を行いました。 1529年。 トルコ北部の町・カラマンの知事になりました。 オスマン帝国の皇子は経験を積むために知事になることがよくありました。 マニサの知事・事実上の皇太子に 1533年。 ムスタファはマニサの知事になりました。 マニサは首都コンスタンティノープルに近く有力な皇子が知事になることが多かったようです。 マニサに来たムスタファを見て町の人々は将来の皇帝がやってきたと歓迎しました。 各国の大使もムスタファを優れた皇子だと本国に伝えました。 しかしスレイマン1世がメフメドが後継者としてふさわしいのではないかと考え始めます。 皇帝妃になったヒュレムの影響があったのでしょう。 1533~34年の間にヒュレムがスレイマン1世と法的に結婚。 皇后になりました。 スレイマンには何人もの愛妾はいましたが正式な妻としての皇后はいませんでした。 ヒュレムが皇后になってしまったのです。 1536年。 大宰相のイブラハムが処刑されました。 ムスタファは有力な支援者を失ってしまいます。 マニサからアマスヤに異動 1541年。 ムスタファはアマスヤの知事になりました。 かわりにマニサの知事になったのはメフメドでした。 バヤジッドはキュタヒヤの知事になりました。 キュタヒヤとマニサはコンスタンティノープルからほぼ同じ距離にあります。 1543年。 メフメドが病死します。 王位継承者のライバルはいなくなったかのように思われました。 しかしヒュレムは息子を皇帝にしようとします。 1544年。 マニサの知事になったのはセリムでした。 1549年。 ムスタファはコンヤの知事になりました。 父スレイマン1世の命令で殺害される ペルシャとの戦争中にリュステム・パシャがムスタファに対してスレイマンの軍に合流するよう言いました。 スレイマン1世がムスタファを殺そうとしているという噂を聞いたマヒデブランは、ムスタファにスレイマン1世のもとには行かないように伝えましたが、ムスタファはスレイマン1世のもとへ行きます。 一方で、リュステム・パシャはムスタファが謀反を企んでいるとスレイマン1世に報告します。 リュステム・パシャはヒュレムの娘婿。 ヒュレムのおかげで出世したのでヒュレムの息子を王位につけようとしていました。 既に高齢のスレイマン1世は軍を率いて合流しようとやってきたムスタファを見て驚異になるに違いないと考えてしまいました。 ムスタファの処刑を命令します。 ムスタファは呼び出されてスレイマンのいるテントに向かいます。 しかしそこにはスレイマン1世はいませんでした。 そこにいたのは兵士たちで、一斉にムスタファに襲いかかってきました。 ムスタファも必死に反撃して戦いましたが、最後は弓矢で殺害されてしまいます。 享年38。 ムスタファには息子メフメドがいましたが、メフメドも処刑されました。 ムスタファの死の影響 ムスタファが死亡した数週間後に末弟のジハンギルが死亡しました。 ジハンギルはもともと病弱でしたがムスタファとは仲がよかったのです。 ジハンギルは自分の兄弟を殺そうとする母には反感をもっていたといいます。 ジハンギルの直接の死因は分かっていませんが、ムスタファの死が影響しているといわれます。 イエニチェリ(常設歩兵軍団)の兵たちはムスタファを慕っていました。 ムスタファの死を聞いた兵たちは反乱を起こします。 スレイマン1世を「狂った年寄り」と批判。 スレイマン1世を惑わせたとの処刑を主張しました。 しかし指導者を失ったイエニチェリは混乱して反乱は鎮圧されてしまいます。 それでもスレイマン1世は兵たちを鎮めるためリュステム・パシャを解任しました。 ムスタファは悲劇の王子として有名でヨーロッパでは様々な文学の題材になっています。

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「壮麗王」の時代のもうひとつの「物語」 オスマン帝国史上、一般にその名を知られるスルタンといえば、1453年にビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服した 「征服王」メフメト2世と、16世紀にウィーンを包囲しハプスブルク家と対峙した 「壮麗王」スレイマン1世であろう。 両者ともヨーロッパとの激烈な戦いを制した勇猛な支配者ながら、スレイマン1世 在位1520-1566 が今なお、優美な通り名で呼ばれるのはなぜか。 それは彼が治世中、寵妃ヒュッレム、ロクソランとも呼ばれた美女に翻弄された横顔が広く伝えられていたからではないだろうか。 アングルの絵画「トルコ風呂」に代表されるように、壮麗王の時代は後のヨーロッパの芸術家たちの想像力をかき立てる「オリエンタリズム」の源泉となり、艶麗な女人たちが暮らすオスマン後宮(ハレム)の様子は絵画や音楽の題材として盛んに描かれた。 は、このようにともすればヨーロッパ人の偏見のもとに伝えられがちであった壮麗王時代のもう一つの顔を、トルコのアングル(視角)からとらえなおし、活写した歴史ドラマともいえる。 アカデミックな時代考証も一部取り入れつつ、初めてトプカプ宮殿での撮影を敢行する等して、人びとの空想の中にあったオスマン帝国のハレムと女性たちをリアリティある歴史上の人物として蘇らせることに成功している。 「壮麗王」と呼ばれたスレイマン1世 ヒュッレムの魅力 ドラマは、スレイマン1世の即位と少女時代の ヒュッレムが奴隷として黒海北岸の港町カッファから船でイスタンブルに送られる場面から幕を開ける。 ヒュッレムの出自については諸説あるが、彼女が「ロシア女」と宮廷内外で呼ばれていた事実から、16世紀前半においてポーランド王の管轄下にあったルテニア(現ウクライナ)の出身と考えられている。 後宮入りした当時、15歳に満たぬ少女であったとされるが、彼女の美声と機知に富む会話は周囲の者を明るくさせる不思議な魅力を備えており、源氏名として「陽気」を意味するヒュッレムと名付けられた。 彼女はのちに後宮の女性ながらスレイマン1世の公妃として5人の皇子と1人の皇女の母となりハレムをとり仕切る一方、その豊かな知性でときには内政、外交問題についてスルタンに助言をしたという。 ヒュッレムが当時の国際情勢に鑑み、友好のためポーランド国王へ送った2通の書簡は有名である。 ドラマはヒュッレムの出世物語を軸に展開していくが、彼女の視点と幅広い活動を通じて、視聴者が壮麗王の時代を追体験できるのも、大きな魅力であろう。 後宮の女性からハレムの頂点に上り詰めたヒュッレム ハレム制度の成立 スレイマン1世の即位時、イスタンブルの宮廷では、スレイマン1世の生母である ハフサ・ハトゥンが、「母后」(ヴァーリデ・スルタン)として崇敬の対象となるとともに後宮の女性たちを統括する役を担っていた。 先王の妃が「母后」として宮廷内にとどまるのが慣例となるのはこの時代からと言われる。 これは帝国の主権が原則、男系の世襲によって維持される以上、後宮組織そのものが国政を支える不可欠な制度として重要な意味を持ち始めたからであろう。 事実、16世紀中葉以降、ハレムは母后を筆頭格に女性のみが参加する独自の階層化社会を築いていく。 オスマン帝国時代のハレム 捕虜や奴隷市場を介して後宮入りをした娘たちは、「新参者(アジェミー)」として、宮廷内の学校でトルコ語の習得、宮仕えをするうえで必要な技能、教養を厳しく教育された。 ここで晴れて「合格」した者だけがスルタンへの奉仕が許された。 彼女たちの中には、スルタンの覚えめでたく「お気に入り(ギョズデ)」となり、寵愛を受ける「幸運なる者(イクバル)」として「スルタンのお部屋付き(ハス・オダルク)」となって、特別な地位を得る女性もいた。 ヒュッレムがスレイマンの寵愛を得て、このハレムの階梯を登り始めた頃、母后に次ぐ地位にはバシュ・カドゥンと呼ばれた実質的な「第一夫人」が存在した。 スルタンとの間に皇子ムスタファを儲けた マヒデヴラン妃である。 マヒデヴランはスレイマンが皇子時代、マニサの県知事を務めていた頃からの愛妃であった。 ヒュッレムは1521年にメフメトを出産、さらに4人の皇子を儲けた。 オスマン宮廷では、これまで寵姫といえども皇子を儲けるのは原則一人までと暗黙ながら決められていたから、この度重なる出産はマヒデヴラン妃との間に緊張と対立を生んでしまう。 その結果、ヒュッレムには皇子の母として新たにハセキという称号が付与され、後宮では今後、皇子を産んだ女性は等しくこの称号で呼ばれるようになり、母后に次いで絶大な権威を帯びる地位となった。 このように、スレイマン1世期のハレムは次代のスルタンを輩出する機関としての役目が明確化する一方、そこに住まう女たちは次代の母后を目指して権力闘争に身を投じていくようになった。 ドラマでは皇帝の寵愛を巡るマヒデヴランとヒュッレムの対立にも注目 「女人の統治」時代の始まりとその実像 ヒュッレムが活躍した16世紀後半から17世紀中ばにかけては、 「女人の統治」と呼ばれ、ハレムの女性たちが宮廷内外の諸勢力と結託し、国政に干渉した特異な時代として知られる。 16世紀末期のシェイヒュルイスラム(「イスラームの長老」)のスンヌッラーフ・エフェンディは、この後宮の女人たちの政治への介入は帝国の主権を脅かし、ひいては帝国の衰退を招くと痛烈に批判した。 しかしながら、このような同時代人の内部批判は、その背景をよく考える必要がある。 オスマン帝国史上、スレイマン1世治世の後半は、中央集権的支配体制がほぼ確立し、それを支える高度に組織化された官僚制に、スルタン自身が取り込まれていく、いわばオスマン支配の変革期を迎えていたとされる。 ヒュッレムが暗に関わったとされる後宮内外の権力闘争、例えば、マヒデヴラン妃の放擲(ほうてき)、その皇子ムスタファの処刑、スルタンの腹心イブラヒム・パシャの暗殺なども、スルタンの求心力や主導性が失われつつある事情を象徴する事件であったともいえるだろう。 ヒュッレムが活躍した時代は「女人の統治」と呼ばれた 「女人の統治」時代のハレムでは、皇子たちはかつてのように帝王学を身につける目的で県知事として地方へ派遣されることはなかった。 幼少期から成人を迎えても母とともに「鳥かご(カフェス)」の後宮で暮らし、次代のスルタン候補として大切に育てられた。 したがって、皇子たちの一部には脆弱な身体のうえ、精神に異常をきたす者も現れた。 17世紀のスルタン、イブラヒム(在位1640-1648)は、即位時から暗殺の恐怖に怯え、神経衰弱の余り精神を病んでいたという。 政治に無関心で奇行を繰り返したため、廃位させられてしまったほどである。 しかしながら、近年のオスマン史研究では「女人の統治」を単に帝国衰微の元凶として捉えるのではなく、支配の変革期に出現した歴史的意義を考察しようとする動向もある。 例えば、母后はスリッパ料と呼ばれた多額の給与を領地や金品のかたちで与えられていたが、その潤沢な資金を衣服などの個人の奢侈品に消費するばかりでなく、むしろその多くを寄進し、モスク、公衆浴場などの建設にあてていた。 ヒュッレムや皇女ミフリマーは、建築家スィナンに命じて、首都に宗教的建造物を数多く作らせたことでも知られる。 「女人の統治」がどのように描かれるかも関心の的となるであろう。 松尾有里子 東京大学東洋文化研究所特任研究員。 専門はオスマン帝国史。 ドラマ『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』の日本語字幕における歴史考察を担当。 次なる野望は息子を玉座に就かせることだった。 だが、そんなヒュッレムの前に皇帝妃マヒデブランと大宰相イブラヒムが立ちはだかる。 一方、皇帝スレイマンは帝国の常勝軍を率いて欧州へ進撃。 キリスト教世界に果たし状を突きつける。 今日の友は明日の敵。 愛と裏切り、試される忠誠心と過酷な運命。 壮麗王スレイマンの治世を壮大なスケールで描く待望のシーズン3を日本初放送。

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オスマン 一世

第9代(在位1512~1520年)。 「冷酷者」といわれる。 イランを統一したシーア派のの勢力がアナトリアに及んできて脅威となると、領内のシーア派に対する大弾圧を行い、さらに自ら大軍を率いて東征し、、タブリーズ西北のでのを破り、その勢力をイラン高原に押し戻した。 マムルーク朝を滅ぼす ついでシリアとエジプトを領有し、アッバース朝カリフの後継者を擁して聖地メッカとメディナの管理権を持っていたとの対決姿勢を強めた。 1516年に遠征軍を起こし、 マルジュ=ダービクの戦いで、鉄砲・大砲を有効に使い、従来型の騎兵戦術をとるマムルーク軍を破って、ダマスクスに入った。 さらに同年に入り、カイロ東北方のリダニヤの戦いで勝利し、カイロに突入、にマムルーク朝を滅ぼした。 この勝利によってオスマン帝国は、シリア・エジプトの交易ルートを抑え、東西交易のすべてのルートを抑えることとなった。 マムルーク朝滅亡の時、カイロに滞在したセリム1世のもとに、ヒジャーズの実力者でムハンマドの直系子孫とされていた シャリーフから聖地との町の鍵が届けられ、セリム1世はこの二聖都の保護者となった。 参考 カリフの地位継承という説 なおこの時、マムルーク朝に亡命していたかつてのアッバース朝のカリフの継承者からその地位を譲られ、オスマン帝国のスルタンがの地位を兼ねることになったのが、の根拠とされていた。 しかし、現在の研究によって、このような歴史事実は無かったとされるようになっており、18世紀にオスマン帝国の君主の地位が動揺した時期に、権威を教化するために創作されたにすぎないとされるようになっている。

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