昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。 現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。 いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。 できれば末永くお付き合いいただきたい。 苦労人・菅原勝矢の成長 表紙は巨人・王貞治 今回は『1967年7月17日号』。 定価は60円。 多摩川の明暗、として巨人の2人の若手投手が取り上げられていた。 1人は、1964年夏、東京農大を1年途中で中退した菅原勝矢。 秋田出身で11人兄弟、少しでも早く稼ぎたかった。 球はとにかく速いが、ノーコン。 それでも少しずつ成長していたが、65年9月に肝臓障害で2カ月の入院生活を送った。 しかし彼は暗ではなく、明だ。 66年8月に初の一軍、21日にはプロ初勝利を完封で飾った。 この年は3試合で1勝1敗に終わったが、翌67年春、腰痛の堀内恒夫の代わりにベロビーチ組に選ばれ、開幕こそ二軍スタートだったが、5月15日には一軍初登板で完封勝利を飾った。 そこから7月3日までに11日試合に登板し、5勝。 防御率はリーグ4位の2. 23と大ブレーク。 「多摩川でくさらずにやってきたからです」 菅原はかみ締めるように語った。 一方、暗は前年入団で新人王を獲得した堀内恒夫。 腰痛で出遅れながらも開幕一軍はつかんだが、結果が出ず、すぐ二軍落ち、6月に復帰も左わき腹痛もあって、再び二軍落ちとなった。 事件は6月21日に起こった。 堀内は久々の実戦として紅白戦のマウンドに登板。 しかし、若手打者に滅多打ちを食らうと、気持ちが切れてしまったのか、明らかに投げやりのピッチングになってきた。 怒ったのが北川芳男コーチ。 マウンドに駆け寄ると、 「おい、堀内。 やる気がないなら投げなくていい。 グラブを俺によこせ、代わりに投げてやる」と怒鳴りつけた。 グラブをもぎ取られた堀内は、ふてくされたように無表情のまますたすたとマウンドを降りた。 町田行彦コーチがベンチで座り込んだ堀内に「もう一度、投げさせてくれと北川コーチに頼みなさい。 さあ、早く」と、いわば助け舟を出したが、堀内は「いいんです」と動かず。 少し驚くのだが、北川コーチは本当に堀内のグラブを使って投げ始めた。 しかし、当然のように若手打者たちに滅多打ちを食らう。 今度は南村侑広コーチが来て、 「一体、ここをどこだと思っているのだ。 早くもう一度投げんかい。 お前みたいなやつは見たことないぜ」 と堀内を怒鳴りつけた。 最初は弁解していた堀内だが、途中から顔面蒼白になり、目には涙が浮かんでいた。 その夜、堀内は中尾二軍監督の部屋に訪れ、謝罪。 翌日も紅白戦にも投げ、今度はひたむきなピッチングを見せたが、信頼回復はまだ時間がかかりそうだ。 では、また月曜に。 <次回に続く> 写真=BBM.
次の東京都世田谷区の多摩川は12日午後10時ごろ、東急二子玉川駅近くで氾濫(はんらん)し、付近の道路は深さ40センチほど冠水した。 近くに住む男性(45)によると、午後4時ごろに急激に水位が上昇。 その後じわじわ水位が上がって住宅街に広がり、近くのマンションに流れ込んだという。 このマンションは停電していた。 近くに住む男性会社員(60)は「長く住んでいるが、こんなことは初めて」と話した。 長野県東御(とうみ)市の県道では12日午後7時ごろ、車が落ちた、と119番通報があった。 市によると、現場は千曲川に架かる橋のたもととみられ、川の増水で道路下の地盤がえぐられ、崩落した可能性があるという。 落ちたのは3台で計6人が乗っていた。 消防などが出動し、2台の3人を救助したが、残り1台が流され、3人が行方不明という。 仙台市若林区の広瀬川では12日午後8時20分ごろ、「助けて」という声が聞こえた、と近くの住民から110番通報があった。 警察と消防が駆けつけたところ、男性1人が岸から約10メートル離れた川の中に立っていた。 10人以上で救助活動をしたが、午後9時10分ごろに男性の姿が見えなくなったという。 宮城県警は、男性が流されたとみて行方を捜している。 静岡市駿河区西島では、駿河湾から北に300メートルほどの住宅街で道路が冠水した。 黒田隆彦さん(52)宅付近では、12日午前8時ごろに腰のあたりまで水位が上がったという。 近くの田んぼから、わらが流れ出て排水路が詰まるため、近所の人と取り除いた。 「もうなすすべがない。 電気やガスのライフラインが止まらなければ良いが」 伊豆半島の付け根にある静岡県沼津市では12日午後3時ごろ、狩野(かの)川の濁流の水かさが増し、橋桁に達しそうになっていた。 近くの70代男性は「こんなに水位が上がっているのを見るのは初めてだ」と驚いた様子で語った。 1200人を超える犠牲者が出た1958年の「狩野川台風」では、狩野川が氾濫。 その後、洪水対策の「切り札」として完成したのが「狩野川放水路」だ。 川の中流から直接、駿河湾に放流する。 国土交通省沼津河川国道事務所がこの日早朝に放水路を開放したものの、雨脚が強く下流の水位は上昇し続けた。 静岡県などによると、下田市と御前崎市で屋根の修理中に転落するなどして男性2人がけがをした。 御殿場市では同日昼、用水路で作業をしていたとみられる40代の男性2人が川に流された。 1人は木にしがみついて救出されたが、1人は行方不明になっている。 三重県伊勢市では12日朝、川の水があふれて住宅約20戸が浸水した。 「雨がかなり激しく、午前10時前からあれよあれよという間に水かさが増してきた」。 家の中に、ひざ下あたりの高さまで水が来たと女性(78)は言う。 午後5時半過ぎに家の水は引いたが、道路は冠水したままだ。 「これからの片付けが大変です」 土砂災害や崖崩れも起きた。 群馬県富岡市内匠(たくみ)では12日午後4時40分ごろ、土砂崩れがあったと119番通報があった。 上信越道の富岡インターチェンジ近くで、川沿いに集落がある地域。 県や消防によると、土砂崩れで5棟ほどが倒壊した。 6人を救助し、富岡市内の病院に4人を搬送したが、60代男性の死亡が確認され、10~30代の女性3人が軽傷。 ほかにも不明者がいる可能性があるとして捜索を続けている。 土砂崩れが起きてすぐ、現場近くの134世帯260人に避難指示が出るなど、風雨が強まっていた。 近くに住む70代男性は「巻き込まれた人が心配だ」。 サイレンの音は聞こえたが、風雨が強くて外に出られず、現場の様子はわからないままだという。 また神奈川県箱根町では、複数の場所で崖崩れが発生。 被害について消防が確認を進めている。 気象庁によると、箱根町の12日午後8時40分までの12時間雨量は、全国で最も多い680・5ミリに達した。 総務省消防庁が12日午後6時時点でまとめた発表では、台風19号の接近に伴って、千葉県や埼玉県、神奈川県などで少なくとも計33人が重軽傷を負った。 各自治体が出した避難指示は、午後5時時点で関東や東海地方を中心に約100万人が対象となり、5万人以上が避難した。 このほか、9月の台風15号で深刻な被害を受けた千葉県では、約4万7千人が避難した。 家屋の被害も広がる。 消防庁が確認できているだけで、半壊が17棟、一部損壊が11棟に上った。 各自治体が情報収集中で、床上・床下浸水など被害はほかにも広がっているとみられる。 停電も各地で広がった。 東京電力パワーグリッドによると13日午前0時現在、1都8県で計約43万戸が停電。 神奈川県では約13万9千戸、千葉県は約13万6千戸に上った。 風雨の影響で電線に樹木が倒れている可能性があるという。 首都圏ではJRや私鉄が12日午前から順次、運転を取りやめ、午後には地下鉄の一部を除いて大半がストップした。 12日朝の段階で、国内空港を同日に発着する予定だった1736便が欠航。 スーパーやデパートも相次いで休業し、3連休初日の都心部は閑散としていた。
次の昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。 現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。 いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。 できれば末永くお付き合いいただきたい。 苦労人・菅原勝矢の成長 表紙は巨人・王貞治 今回は『1967年7月17日号』。 定価は60円。 多摩川の明暗、として巨人の2人の若手投手が取り上げられていた。 1人は、1964年夏、東京農大を1年途中で中退した菅原勝矢。 秋田出身で11人兄弟、少しでも早く稼ぎたかった。 球はとにかく速いが、ノーコン。 それでも少しずつ成長していたが、65年9月に肝臓障害で2カ月の入院生活を送った。 しかし彼は暗ではなく、明だ。 66年8月に初の一軍、21日にはプロ初勝利を完封で飾った。 この年は3試合で1勝1敗に終わったが、翌67年春、腰痛の堀内恒夫の代わりにベロビーチ組に選ばれ、開幕こそ二軍スタートだったが、5月15日には一軍初登板で完封勝利を飾った。 そこから7月3日までに11日試合に登板し、5勝。 防御率はリーグ4位の2. 23と大ブレーク。 「多摩川でくさらずにやってきたからです」 菅原はかみ締めるように語った。 一方、暗は前年入団で新人王を獲得した堀内恒夫。 腰痛で出遅れながらも開幕一軍はつかんだが、結果が出ず、すぐ二軍落ち、6月に復帰も左わき腹痛もあって、再び二軍落ちとなった。 事件は6月21日に起こった。 堀内は久々の実戦として紅白戦のマウンドに登板。 しかし、若手打者に滅多打ちを食らうと、気持ちが切れてしまったのか、明らかに投げやりのピッチングになってきた。 怒ったのが北川芳男コーチ。 マウンドに駆け寄ると、 「おい、堀内。 やる気がないなら投げなくていい。 グラブを俺によこせ、代わりに投げてやる」と怒鳴りつけた。 グラブをもぎ取られた堀内は、ふてくされたように無表情のまますたすたとマウンドを降りた。 町田行彦コーチがベンチで座り込んだ堀内に「もう一度、投げさせてくれと北川コーチに頼みなさい。 さあ、早く」と、いわば助け舟を出したが、堀内は「いいんです」と動かず。 少し驚くのだが、北川コーチは本当に堀内のグラブを使って投げ始めた。 しかし、当然のように若手打者たちに滅多打ちを食らう。 今度は南村侑広コーチが来て、 「一体、ここをどこだと思っているのだ。 早くもう一度投げんかい。 お前みたいなやつは見たことないぜ」 と堀内を怒鳴りつけた。 最初は弁解していた堀内だが、途中から顔面蒼白になり、目には涙が浮かんでいた。 その夜、堀内は中尾二軍監督の部屋に訪れ、謝罪。 翌日も紅白戦にも投げ、今度はひたむきなピッチングを見せたが、信頼回復はまだ時間がかかりそうだ。 では、また月曜に。 <次回に続く> 写真=BBM.
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