生活環境の著しい変化によって感染症の様相も大きく変わっています。 近年では、新型インフルエンザの大流行など日常生活における感染対策が重要視されるようになりました。 加えて、国を超えた人口の移動による新興感染症の流行や国内における再興感染症の再流行と感染症の脅威にさらされています。 さらに海外からの新規抗菌薬耐性菌の流入や各種耐性菌による病院および医療関連施設感染が深刻な問題となっています。 これら病原微生物による感染症の診断、耐性菌の解析と疫学および感染対策について研究を行っています。 それらの研究成果は、医療現場における感染対策から国民にとって質の高い安全な医療へ貢献することを目標としています。 入学を検討している学生さんへ 【学部受験の方へ】 【2017年度刊行論文】• Public health and healthcare-associated risk of electric, warm water bidet toilets. Journal of Hospital Infection 97 3 :296 -300 , 2017. Staphylococcus aureus surface contamination of mobile phones and presence of genetically identical strains on the hands of nursing personnel. American Journal of Infection Control 45 :929 -931 , 2017. 口腔由来Neisseria sp. の各種抗菌薬に対する薬剤感受性に関する検討. 日本性感染症学雑誌 28 1 :73 -78 , 2017. 中国基幹病院における院内高頻度接触部位および医療従事者の手指より分離された薬剤感受性の異なるP. aeruginosa およびA. baumannii に関する検討. 日本化学療法学会雑誌 65 6 :817 -820 , 2017. 短期間に異なる7名の患者より検出されたmeropenem耐性Escherichia coliの検討. 感染症学雑誌 91 2 :132 -136 , 2017. 過去の刊行論文は、下記からご参照ください。 【著書】• 細菌培養検査-有意義な検体の採取法と留意点. 小児臨床検査のポイント2017 504-507. 東京医学社, 東京, 2017. デンタルダイヤモンド社. 2014. 看護師を目指す学生の大学における微生物学の教育:モダンメディア通巻700号記念特集, 第60巻3号85-89, 2014. はじめよう 看護の感染と防御: ヴァン メディカル. 2014. 読めば わかる! 耐性菌のお話:ヴァン メディカル. 2012• 透析液のバイ菌がよくわかる本: 8. 同定困難な菌名同定. 東京医学社, 103-117, 2008. ヘルス・システム研究所, 2007. ベッドサイドで役立つ微生物検査ガイド: 第4章 1 検体の保存法, 第12章 2 病院の規模などでみた主要検体からの分離菌ベスト10とその感受性. 文光堂, 2006, 178-183, 442-445. 【2017年度の主な学会発表】• Evaluation of the BD Phoenix ID yeast for Species Identification of Clinical Yeast-Like Organisms. ASM microbe2017, New Orleans, 米国, 2017. 入院時患者における糞便からの抗菌薬耐性菌の検出状況について. 第66回 日本感染症学会東日本地方会学術集会, 東京, 2017• 関東地方において分離されたNeisseria gonorrhoeaeに対する抗菌薬感受性の推移について. 日本性感染症学会第30回学術大会, 札幌, 2017 その他の学会発表は、下記からご参照ください。
次の議員 選挙区 在任期間 - 小林 一三(こばやし いちぞう、〈6年〉 - 〈32年〉)は、の。 をはじめとする(現・)の創業者。 を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め相乗効果を上げる 私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げた。 これらの事業は後に、・としてを形成する。 その過程で麓の高級住宅地の開発、等の高等教育機関の誘致や温泉、遊園地、野球場など娯楽施設の整備を行い、日本最初の構想を実現した。 小林は私鉄経営での成功によりなど同じ関西の財界に携わった関西財界の雄と言われた。 また以外にも、の経営に参画して日本の財界でも重鎮となり、後に政界に進出する処となった。 政界では、のを務めての商工次官・と対立。 (昭和16年)から、で、初代総裁を歴任したが、戦後、となった。 趣味の茶人、美術蒐集家としても大を成した。 は 逸翁、別号に 靄渓学人、 靄渓山人。 旧邸雅俗山荘に茶室が遺り、美術品はに所蔵されている。 阪鶴鉄道で監査役を務めていた頃 阪急電鉄の前身であるをはじめ、交通、住宅地経営の業、の小売業、・・の興行業など、阪急東宝グループを成す数多くの事業を興したことで知られる。 小林は「乗客は電車が創造する」との言葉を遺しており、沿線の地域開発によりが増加し、その住民の需要を満たすことに商機を見出していた。 彼が起こした事業は多岐に及ぶがいずれもこの動線を捉えたものであり、これは日本の経営モデルの祖として後に他が倣うところとなった。 また小林は事業に取り組むに当たっては実に細かい点にまで顧客志向の注意と配慮を行っており、商品開発に独特の才覚があったことが著作や評伝から窺われる。 小林は阪急東宝グループの各事業での成功により財界で重きをなすに至り、グループ以外にもの経営に参画、日本軽金属の初代社長などを務め、国政で商工大臣、を務めるなど、財界の重鎮としても活躍した。 明治時代には、ら山梨県出身の実業家が郷土意識に基づく緩やかな資本提携により経済界や政に影響力を持ちと呼ばれているが、小林は関西を中心に活動した地方財閥と見なされているため、甲州財閥とは区別される。 実業界屈指の美術蒐集家、また茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、彼の雅号をとって「逸翁(いつおう)コレクション」と呼ばれている。 これらを集めた「」が、彼の旧邸・雅俗山荘があったにあり、美術館は以前は雅俗山荘の建物が使用されていた。 雅俗山荘は小林一三記念館として一般公開されている。 近代の創始者とも言われると親交が深く、彼が開いた料亭の初期の頃からの客であった。 上客でもあったため、当時の料亭内では小林を「神様」と呼んでいた。 来歴・人物 [ ] 小林一三像(宝塚大劇場) 山梨県河原部村(を経て、現在の)の商家に生まれた。 生まれてすぐ母が死去、父とも生き別れたため、おじ夫婦に引き取られた。 から(南)の加賀美平八郎が経営する・成器舎 を経て後に上京し、1888年(明治21年)2月にが塾長の に入る。 その日から塾の構内にある、塾監・の家に寄宿。 在学中にはにおいて小説「練絲痕(れんしこん)」を連載している。 そして、明治25年(1892年)正科(現在の)卒業後の1892年(明治25年)には (の前身)に勤務。 34歳まで勤め、東京本店調査課主任にまで昇進した。 終結後、の大物であるや、かつての上司で北浜銀行(の前身のひとつ)を設立したに誘われ、大阪で岩下が設立を計画するの支配人になるために1907年(明治40年)、大阪へ赴任。 しかし、に見舞われ証券会社設立の話は立ち消えてしまい、妻子を抱えて早速失業することになった。 その頃に小林は箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業の同社には有望性があるとして、岩下を説得し北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功。 1907年(明治40年)6月に「 」と社名を改めて同年10月に設立されると、小林は同社の専務となった。 もともと阪急電鉄の前身となる箕面有馬電気軌道は、によって国有化された(現在のJR)の関係者が福知山線に並行する電気鉄道路線を敷設し、大阪の梅田から箕面・宝塚・有馬方面へ頻発運転を行うことを目的として設立されようとしていたが、恐慌に見舞われて全株式の半分も引き受け手がないといった苦境に追い込まれていた。 しかし社長は不在であったため、小林が経営の実権を握ることになった。 そして1910年(明治43年)に開業しているが、有馬までの開業ではなく、現在の・に相当する区間にとどまっている。 これに先立って線路通過予定地の沿線土地を買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、1910年(明治43年)に分譲を開始した。 小林には、この時すでに「大衆向け」住宅の発想があったのか、サラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかったによる分譲販売を行い成功を収めた。 同年11月には箕面に、翌年には宝塚に大浴場「宝塚新温泉」(の対岸であったことからの命名)、そして1914年(3年)4月には、当時人気を得ていたの少年音楽隊を模して宝塚唱歌隊、後の 宝塚歌劇団を創り上げ、沿線を阪急グループの聖地といわせるほどに発展させていく。 沿線開発は、そのまま乗客の増加につながり、続いて神戸方面への路線開業に動き出すのを機に、会社名を と改め(「阪急」の略称はこれ以後誕生)、などを建設し、大阪・神戸間の輸送客の増加とスピードアップを図った。 これらの経営が現在の阪急を創り上げる支えとなった。 1927年(昭和2年)に小林は社長に就任した。 また1920年(大正9年)には、日本ではじめての・を設ける計画をすすめる。 路線の起点となるにビルを建設し、1階に東京からを誘致し開店、2階に阪急直営食堂を入れた。 次いで「阪急マーケット」と称した日用品販売店を2・3階に入れ、1929年(昭和4年)3月にはついに「 」という直営百貨店を、新ターミナルビルの竣工に合わせて開店させた。 が直営で百貨店を経営するなどといった事例は日本国外にもなく、その前途に疑問を持つ者も少なくなかったが、小林は「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」、「便利な場所なら、暖簾がなくとも乗客は集まるはず」などと言って事業を推し進め、のさなか多くの客を集めることに成功する。 さらに、客のことを考えた事業姿勢があったといわれ、阪急百貨店における「」の逸話などが、現在にも伝わっている。 なお、阪急百貨店は1947年に分離独立し直営ではなくなったが、以後も文化的なつながりを保ち、ブランドとも言える「阪急」のイメージを確立し続けている。 この百貨店事業の成功は、1929年(昭和4年)にの建設・開業といったホテル事業など派生事業の拡充、1932年(昭和7年)の 、1937年(昭和12年)の東宝映画の設立(1943年に両者は合併し、現在の「 」となった)といった興業・娯楽事業、1938年(昭和13年)の(東京・)の開設とさらなる弾みを付ける契機となり、阪急東宝グループの規模は年々拡大の一途を辿った。 ここであまり知られていないが、小林はの始祖である を実質的に経営していた。 (大正7年)にらが創設し、 を開発した事でも名高い田園都市株式会社の経営を小林は、名前を出さず、報酬も受け取らず、日曜日のみ、という約束で引き受け、、方面の宅地開発と鉄道事業を進めたという。 つまり、田園都市株式会社から鉄道部門を分離した、及びその姉妹会社であるは、に経営を引き継いだ後、小林の手法を用い沿線に、娯楽施設やデパートを作ったのである。 その一方で、日本で3番目の球団である(1929年解散)のように、先進が過ぎて失敗した事業もある。 しかし小林の野球への情熱は深く、1934年(昭和9年)に大日本東京野球倶楽部(現・)が、翌1935年(昭和10年)にが、1936年(昭和11年)にが結成されるなど企業による球団設立が相次ぐと、小林は同じ年に「大阪阪急野球協会」を設立した。 これが阪急職業野球団、のちの阪急ブレーブスである。 小林が遺した娯楽事業は数多くあるが、小林は「私が死んでもタカラヅカとブレーブスだけは売るな」と言い残したと言われている。 これらの施策は多くの私鉄に影響を与え、その中でも目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)の総帥五島慶太、駿豆鉄道(現・)・多摩湖鉄道(現・)・のは、小林の影響を強く受けている。 以上のように、電鉄経営においては非常に卓越した視点と手腕を持っていた小林だったが、唯一に関してだけは生涯無理解であった。 大阪市における交通事業として地下鉄事業を推し進めたに対し、「地震大国日本に地下鉄など作ったら關さんの名に傷がつく」 「大阪市の電鉄事業は必ず、破産状態に陥り」 と大見得まで切り、かなり頑強な反対論を展開していた。 結果的には8路線が完成し、大阪市内の移動手段としてなくてはならない交通機関となっている。 自社線であるの三宮延伸に対しても、地下での乗り入れで妥結を図ったに対して、頑なに高架での乗り入れを主張し続けた。 自社線で地下工事を開始したのは、小林が鬼籍に入った1957年より後の京都線延伸時からである。 1934年(昭和9年)阪急社長を辞任後、同社グループの会長に就任し(1936年辞任)、さらに に招かれて副社長・社長を歴任。 電力戦で設備が余剰気味になり放漫経営に陥っていた東京電燈の経営を立て直し、財団法人(現在の公益法人、)、昭和肥料(現在の)の設立にも関わった。 また一時期、が東宝の社外取締役になったのと引き替えにの社外取締役に就任していた。 小林はに接近し、1940年(昭和15年)7月22日にで商工大臣となった。 近衛は当初を商工大臣に考えていたが、岸は財界の人間を大臣として自らはにとどまることを希望したため小林が大臣となった。 同年8月28日には日蘭会商の日本主席代表として出席。 しかし統制経済もしくは論者のの代表格である岸と資本主義的財界人である小林は強く対立し、小林は岸をアカであると批判した。 での革新官僚ら数人が者として逮捕されると岸は辞職せざるをえなくなる。 しかし岸は軍部と結託し、小林が軍事機密を漏洩したとして反撃、小林も辞職、雑誌に『大臣落第記』を寄稿した。 大阪府池田市の自邸「雅俗山荘」 終戦後はでを務めたが、第2次近衛内閣で商工大臣だったことでとなった。 追放解除は、1950年(昭和25年)10月に行われた第一次解除では申請が認められず 、1951年(昭和26年)にずれ込んだ。 その後は東宝の社長になるが、1957年(昭和32年)1月25日、大阪府池田市の自邸にて急性心臓性喘息で死去した。 84歳没。 晩年はも務めた。 晩年、心臓が悪いため、小林を笑わせることは厳禁とされた。 笑った途端、心筋梗塞を起こす恐れがあるためであった。 私鉄主導による沿線開発を提言した小林であったが、当時から経営の自主性の不在など問題点が指摘されていた(国鉄)に関しても、すでにこの段階で「民営にすれば開発事業も可能で、資金調達も自由に行え、創意と責任のもと積極的な経営ができる」と民営化すべきとの発言を行うなど、生涯、論客としても知られた。 「われ関せず」 [ ] この節にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2013年2月) 親友で同じ慶應出身者であり、とも関係がある「電力の鬼」と呼ばれたによると、小林の性格は「腹が決まってからのことには、何事も動じない」というものだった。 また、自分に直接関知しないことには無関心であったとも言われている。 、福澤諭吉が作ったが経営危機に陥った際、慶應卒業生の有力者が挙って時事新報を救うために出資や負債の引き受けなどを行った。 元社長のや松永もその一人であり、松永は小林に時事新報救済のための協力を要請したところ、小林は「慶應と縁があっても私と縁のない時事新報にわざわざ金を出すのか?」とばかりに拒絶。 松永こそ苦笑で済ませたものの、他の慶應OBから批判が殺到した。 小林は時事新報の先行きがどう転んでも好転しないことを見通していたと言われ、先行きのない企業に投資は出来ないと言うことで拒絶したのだったが、そうと理解する慶應OBは少なかった。 事実、時事新報は(昭和11年)にと合同した。 栄典 [ ]• (昭和15年) -• - 『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰。 宝塚少女歌劇の担当作品 [ ] より [ ]• 『紅葉狩』(1914年)• 『兎の春』『雛祭』『御田植』『日本武尊』(1915年)• 『』『』『夕陽ヶ丘』『ダマスクスの三人娘』(1916年)• 『案山子』『桃色鸚鵡』『大江山』『リザール博士』『夜の巷』(1917年)• 『厩戸王子』『』『』『江の島物語』『青葉の笛』『出征軍』(1918年)• 『戀に破れたるサムライ』(1937年) 家族・一族 [ ]• 長男・• 1901年(明治34年)生、出身。 東宝を務めた。 1957年(昭和32年)10月死去。 ・・ら近代文学の書物収集が趣味で、コレクションがの「小林家文庫」に収蔵されている。 妻はの六女。 次男・• 卒業と同時に松岡家に養子入りし、義理の父が創業者で役員発起人のとなる。 後に東宝代表取締役社長を務めた。 1974年(昭和49年)8月死去。 辰郎の子が現在の東宝会長・で、その息子で一三のにあたるのが、元プロプレイヤーので、その娘()が、105期生の。 三男・• 京阪神急行電鉄(1973年までの阪急電鉄の社名)社長を務めたが、在職のまま1969年(昭和44年)2月に死去した。 阪急電鉄元会長・社長・名誉顧問、名誉校長を務めた(2010年5月死去)は、辰郎の長女で米三の養子となった小林喜美の夫で、戦前からの幹部の家系であった三村家から小林家に婿入りした。 また、公平の長男が元・宝塚歌劇団理事長のである。 長女・とめ• 1903年生、出身。 夫は社長(のち会長)で創業者の。 次女・春子• 1911年生。 創業者の長男・吉太郎に嫁ぐが、吉太郎は33歳で亡くなる。 息子に3代目サントリー社長・がいる。 小林の異母弟には山梨県選出ので「カミソリ」と謳われた、興行界のドンとして関八州の顔役達を膝下に置いた(日本ボクシングコミッションの初代コミッショナー。 社長)がいる。 宗英の後に後楽園スタヂアム社長、ボクシングコミッショナーを務めたは一三と田邊兄弟のにあたる。 なお、宗英と一三は同じ一三の死後11年目となる1968年に兄弟揃って入りをしている。 田邊兄弟、真鍋八千代は社主のと関係が深かったとされ、戦前から戦後にかけて噂も多い。 姪はのいとこ(叔父の長男)の樋口正美に嫁いだ。 著作 [ ]• 『歌劇十曲』 1917• 『日本歌劇概論』寳塚叢書 宝塚少女歌劇団出版部 1923• 『奈良のはたごや 随筆感想集』岡倉書房 1933• 『私の行き方』斗南書院 1935• 新版『私の行き方』創業者を読む:大和出版 1992。 2000。 2006• 『産業は国営にすべきか』今日の問題社 組合せパンフレツト 1936• 『次に来るもの』斗南書院 1936/阪急コミュニケーションズ 1999• 『私の見たソビエット・ロシヤ』東寳書店 1936• 『戰時國債發行解決案 五十億圓? 百億圓? 』ダイヤモンド社 1937• 『努力すれば偉くなれる 欧米の教育と日本の教育! 』今日の問題社 1937• 『日本はどうなる? 北支事変』ニユウ・トピック社 1937• 『北支経済は如何に建設すべきか 附・戦時国債は五十億か、百億か』今日の問題社 1937• 『戦後はどうなるか』青年書房 1938• 『事変はどう片づくか』 1939• 『電力問題はどうしたらばうまくゆくか』電気日日新聞社 1940• 『蘭印を斯く見たり』斗南書院 1941• 『芝居ざんげ』三田文学出版部 1942• 『曾根崎艶話』芙蓉書房 1948/展望社 2016• 『逸翁らく書』梅田書房 1949• 『新茶道』 1952/解説 ・シリーズ茶の湯 1986• 『私の人生観』要書房 1952• 『逸翁自叙伝』 1953• 新版『逸翁自叙伝』経済人叢書:図書出版社 1990 人間の記録:日本図書センター 1997/阪急コミュニケーションズ 2000。 『逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想』 2016• 『小林一三対談十二題』実業之日本社 1953• 『私の見たアメリカ・ヨーロッパ』要書房 1953• 『私の事業観』要書房 1954• 『宝塚漫筆』実業之日本社 1955。 1980• 『小林一三翁の追想』小林一三翁追想録編纂委員会 1961• 『小林一三全集』全7巻、、1961-62• 『逸翁鶏鳴集 日記抄・拾遺』 1963• 『大乗茶道記』逸翁美術館編 浪速社 1976• 『小林一三日記』阪急電鉄 1991• 『おもひつ記』阪急コミュニケーションズ 2008。 戦後の演劇記 関連書籍 [ ]• 『小林一三伝』東洋書館 日本財界人物伝全集 1954• 『小林一三翁に教えられるもの』梅田書房 1957• 同『夢のたわごと』梅田書房 1966• 『小林一三翁の追想』小林一三翁追想録編纂委員会 1961• 『財界の鉱脈 小林一三と大屋晋三』南北社 1964• 同『日本で最もユニークな経営者小林一三伝』日本経済新聞社 1983• 『偉才小林一三の商法 その大衆志向のレジャー経営手法』評言社 1972• 『原点の商法 トヨタ・松下も実践している小林流経営哲学』ごま書房 ゴマブックス 1978• 『小林一三と松下幸之助 強運の"事業家"その経営哲学』評言社 1979• 『アイデア商法の天才小林一三に学ぶ』実業之日本社 1981• 同『小林一三・独創の経営 常識を打ち破った男の全研究』PHP研究所 1983• 同『いまの人は商売を知らない 「阪急」の創始者小林一三の発想』経済界 1988• 『回想小林一三 素顔の人間像』山猫書房 1981• 『鬼才縦横 小林一三の生涯』PHP研究所 1983、PHP文庫 1986、日経ビジネス人文庫 2012• 『わが小林一三 清く正しく美しく』河出書房新社 1983、河出文庫 1991• 『小林一三の昭和演劇史』演劇出版社 1987• 『天才実業家小林一三・価千金の言葉』ロングセラーズ 1988、同新書 2017• 『宝塚戦略 小林一三の生活文化論』 1991、 2018• 『小林一三夢なき経済に明日はない 阪急・東宝グループ創始者』Wave出版 1995• 同『DREAMER 阪急・宝塚を創り、日本に夢の花を咲かせた男』WAVE出版 2014• 逸翁美術館編 岡田彰子監修『茶の湯文化と小林一三』逸翁美術館 2009• 『小林一三 時代の十歩先が見えた男』PHP研究所 2014• 『小林一三の知的冒険 宝塚歌劇を生み出した男』本阿弥書店 2015• 同『小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか』ミネルヴァ書房 2017• 同『宝塚歌劇から東宝へ 小林一三のアミューズメントセンター構想』ぺりかん社 2019• 『小林一三 都市型第三次産業の先駆的創造者』PHP研究所 2017• 『小林一三 日本が生んだ偉大なる経営イノベーター』 2018• 『別冊宝島 宝塚を作った男 小林一三の一生』宝島社、2016 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• ただし決して関係がなかったとは言えず、小林と根津はを通じて親密な関係にあった。 小林が設立したナニワ工機(現・)で製造されたが、根津が社長を務めていたへ数多く納入されていたことからも、両者の間には深い関係があったことが窺える。 加賀美平八郎は南八代村の素封家で、山梨県のを主導した人物のひとり。 成器舎は加賀美は居村において経営した私塾で、一三の同期にはやなど山梨県の政財界で活躍した人物が多い。 この理由として難工事と説明されているが、地形については難工事に該当する区間が特に存在しないため、の住民から反対があり断念したとの説が有力である。 これら小林の手法に加え、五島慶太は、大学も沿線に誘致し東横線沿線の価値をより高めた。 同時期に日本初のプロ野球機構となる「」が創立。 しかし、ブレーブスは1988年(昭和63年)、孫娘の夫である小林公平が「使命を終えた」として、オリエント・リース(現・)に売却した。 小林没後の1987年(昭和62年)ににより国鉄の鉄道事業は・・・・・・の7社に再編された。 出典 [ ]• 『官報』第5799号、昭和21年5月17日。 gooニュース. 2019年12月15日. 2020年2月26日閲覧。 日本一のブランド力を誇る「田園調布」-• 『中野武営と商業会議所』1017頁• 大阪府池田市にある小林一三記念館パネル展示(2011年9月閲覧)• 『日本の私鉄 東京急行電鉄』 2011年1月30日 [ ]• 「~ 100年の計で大阪の都市基盤を築く ~「關 一」編」『SUBWAY 第210号』一般社団法人 日本地下鉄協会,2016年8月• 「地下鐵道の時代は既に去れり」『雅俗山荘漫筆. 第3』小林一三、1933年1月• 「一万余名を追放解除」『日本経済新聞』昭和25年10月14日1面• 半身棺桶 山田風太郎. 徳間文庫. 1998年2月• 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 大宮西ロータリークラブ週報、2016年12月23日 出典・参考文献 [ ] この節で示されている出典について、該当する記述が 具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、。 ご存知の方はをお願いします。 ( 2017年8月)• 『神を放った男 映画製作者田中友幸とその時代』、1993年。 演じた俳優 [ ]• - 『第二部』(2015年9月5日 - 9月12日) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 小林一三 - 放送の放送開始90周年記念ドラマシリーズ「経世済民の男」。 制作の第2部で小林一三を取り上げた(第1部は高橋是清、第3部は松永安左エ門)。 小林役はが担当。 外部リンク [ ]• 先代: 阪神急行電鉄社長 1927年 - 1934年 次代: 先代: 東京電燈社長 1933年 - 1940年 次代:.
次の生活環境の著しい変化によって感染症の様相も大きく変わっています。 近年では、新型インフルエンザの大流行など日常生活における感染対策が重要視されるようになりました。 加えて、国を超えた人口の移動による新興感染症の流行や国内における再興感染症の再流行と感染症の脅威にさらされています。 さらに海外からの新規抗菌薬耐性菌の流入や各種耐性菌による病院および医療関連施設感染が深刻な問題となっています。 これら病原微生物による感染症の診断、耐性菌の解析と疫学および感染対策について研究を行っています。 それらの研究成果は、医療現場における感染対策から国民にとって質の高い安全な医療へ貢献することを目標としています。 入学を検討している学生さんへ 【学部受験の方へ】 【2017年度刊行論文】• Public health and healthcare-associated risk of electric, warm water bidet toilets. Journal of Hospital Infection 97 3 :296 -300 , 2017. Staphylococcus aureus surface contamination of mobile phones and presence of genetically identical strains on the hands of nursing personnel. American Journal of Infection Control 45 :929 -931 , 2017. 口腔由来Neisseria sp. の各種抗菌薬に対する薬剤感受性に関する検討. 日本性感染症学雑誌 28 1 :73 -78 , 2017. 中国基幹病院における院内高頻度接触部位および医療従事者の手指より分離された薬剤感受性の異なるP. aeruginosa およびA. baumannii に関する検討. 日本化学療法学会雑誌 65 6 :817 -820 , 2017. 短期間に異なる7名の患者より検出されたmeropenem耐性Escherichia coliの検討. 感染症学雑誌 91 2 :132 -136 , 2017. 過去の刊行論文は、下記からご参照ください。 【著書】• 細菌培養検査-有意義な検体の採取法と留意点. 小児臨床検査のポイント2017 504-507. 東京医学社, 東京, 2017. デンタルダイヤモンド社. 2014. 看護師を目指す学生の大学における微生物学の教育:モダンメディア通巻700号記念特集, 第60巻3号85-89, 2014. はじめよう 看護の感染と防御: ヴァン メディカル. 2014. 読めば わかる! 耐性菌のお話:ヴァン メディカル. 2012• 透析液のバイ菌がよくわかる本: 8. 同定困難な菌名同定. 東京医学社, 103-117, 2008. ヘルス・システム研究所, 2007. ベッドサイドで役立つ微生物検査ガイド: 第4章 1 検体の保存法, 第12章 2 病院の規模などでみた主要検体からの分離菌ベスト10とその感受性. 文光堂, 2006, 178-183, 442-445. 【2017年度の主な学会発表】• Evaluation of the BD Phoenix ID yeast for Species Identification of Clinical Yeast-Like Organisms. ASM microbe2017, New Orleans, 米国, 2017. 入院時患者における糞便からの抗菌薬耐性菌の検出状況について. 第66回 日本感染症学会東日本地方会学術集会, 東京, 2017• 関東地方において分離されたNeisseria gonorrhoeaeに対する抗菌薬感受性の推移について. 日本性感染症学会第30回学術大会, 札幌, 2017 その他の学会発表は、下記からご参照ください。
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