・「グスタヴズ」は、Gustav II Adolf と考えられる。 参考資料2『西洋人物レファレンス事典 政治・外交・軍事篇』p. 418によれば、「スウェーデン王(在位1611~32)。 カルル9世の子。 」で、グスタフ2世、グスタフ・アドルフなどと呼ばれる。 ・「ツレン・ユージエン」は、Turenne と Eugen の2人を指すと考えられる。 同資料p. 1010によれば、Turenne は「フランスの軍人。 大コンデ(ルイ2世)と並び称せられるルイ13~14世時代の勇将。 」で、テュレンヌ、チュレンヌなどと呼ばれる。 同じくp. 322によれば、Eugen は17・18世紀の「オーストリアの将軍,政治家」で、オイゲン、オイゲーンなどと呼ばれる。 上記参考資料2『西洋人物レファレンス事典 政治・外交・軍事篇』のそれぞれにページには、当該人物についての記事が掲載されている事典名(略称)が列記されている。 回答プロセス Answering process グスタヴズ、ツレン・ユージエンでは参考資料1『西洋人物レファレンス事典 政治・外交・軍事篇 カタカナ表記索引』等に該当なし。 出典を確認。 元の文は以下のとおり 「ナポレオンの言った言葉に、アレキサンダー、ハンニバル、シーザー、グスタヴズ、ツレン・ユージエン、フレデリック等の、八十八の戦闘の歴史を繰返し繰返し読め~」 「世界 名将」をGoogle検索したところ、Wikipedia「軍事指揮官の一覧」( 2014. 02最終確認)がヒット。 グスタヴズは、グスタフ2世アドルフ、ツレン・ユージェンはテュレンヌとプリンツ・オイゲンの2人のことではないかと推測。 改めて、ナポレオン アレキサンダー ハンニバル シーザー グスタフ2世アドルフ」で検索したところ、ブログ記事「世界最高の名将は誰?世界史における軍事リーダー調査他」( 2014. 02最終確認)に以下の記述を見つけた。 「(ナポレオンが)歴史上の偉大な軍事指導者として特に賞賛したのは7人のみ。 古代マケドニアの英雄アレクサンドロス大王 古代カルタゴの名将ハンニバル 古代ローマの英雄カエサル 17世紀のスウェーデンの英雄王グスタフ・アドルフ 17世紀のフランスの名将テュレンヌ元帥 18世紀オーストリア帝国最大の武人サヴォワ公オイゲン 18世紀のプロシアの大王フリードリヒ2世でした。 」 ただし、出典の記載は見当たらず。 ナポレオンに関する資料を探したが、上記に関する記述は見当たらず。 『ナポレオン自伝』アンドレ・マルロー編(朝日新聞社 2004)のp. 130にカエサル、ハンニバル、アレクサンドロス、チュレンヌ、フリードリヒ大王に言及した部分を見つけたのみ。 7人のアルファベット綴りを参考資料1『西洋人物レファレンス事典 政治・外交・軍事篇 カタカナ表記索引』等にて確認。 「hannibal Alexander caesar Gustav Adolf napoleon Turenne Eugen」といったキーワードでGoogleBooks検索。 ・GoogleBooks『Hannibal』Theodore Ayrault Dodge( p. 6 2014. 07最終確認) ・GoogleBooks『Die Dialektik Von Angriff und Verteidigung』Johann Schmid( p. 46 2014. 07最終確認) 上記において、ナポレオンの言葉として、「Alexander, Hannibal, Caesar, Gustav Adolf, Turenne, Prinz Eugen, Friedrich II」が挙げられていることを確認。 事前調査事項 Preliminary research.
次の伯爵はすべての戦場で皇帝アレクサンドル1世に随行し、ライプツィヒでの諸国民の戦いに参加した功績で聖アレクサンドル・ネフスキー勲章を授かった。 その後の1814年4月、フォンテーヌブロー宮殿のそばでシュヴァロフを見たナポレオンは、ロシアの将軍が胸に下げているメダルは何か尋ねた。 ボナパルトはこれが「1812年の戦争の喜ばしい結末」を記念したメダルであることを聞いて黙り込み、シュヴァロフを軽蔑して数日間一言も話さなかった。 しかし、元皇帝は間もなくこのロシア人に対する評価を180度変えることになる。 死の淵 初めナポレオンの隊列は「皇帝陛下万歳!」という歓喜で迎えられた。 しかし、南へ進むにつれ、歓喜は沈黙に、ついにはむき出しの敵意に替わっていった。 プロヴァンスでは、群衆はボナパルトに罵声を浴びせていた。 ナポレオンは何食わぬ顔をして平静を保っていた。 ナポレオン・ボナパルト Paul Delaroche 本当の危機が待っていたのはアヴィニョンより南のオルゴンという町だった。 隊列が通る道沿いに、ナポレオンを模したかかしを吊るした絞首台が設置されていた。 民衆が扉の閉まった馬車に殺到し、退位した皇帝を殺すため、彼を引きずり出そうとした。 この騒ぎには、「コルシカ島の怪物」を目的地に到着させないよう目論む王政主義者も関わっている可能性があった。 群衆はわずかな数しかいなかった護衛と特使を押し倒し、目的の達成まであと一歩に迫った。 だが、そこでシュヴァロフ伯爵が立ちはだかった。 彼のみが圧力に屈さず、拳と叫び声で人々を散らしたのだ。 一瞬の隙を見た彼は、元皇帝の乗る馬車の御者に合図を送り、オルゴンから全速力で脱出させた。 ボナパルトを取り逃がした群衆はシュヴァロフを八つ裂きにしかねなかった。 だが、目の前にいるのがロシアの将軍だと気付くと、人々は怒りを収め、「我らが解放者、万歳!」と歓声を上げた。 間もなくナポレオンの隊列に追いついたシュヴァロフは、外套を交換して席を替えることを提案した。 曰く、こうすれば、暗殺者が現れてもボナパルトではなく自分が殺されるだろうということだった。 エルバ島の君主が驚いてその理由を問うと、ロシアの将校は「我が皇帝アレクサンドルは貴殿を流刑地まで生きたまま無事に送り届けるよう命じられた。 我が皇帝からの指示を遂行することは名誉ある義務であると考える」と答えた。 感謝の印 策略は奏功し、数日後にはボナパルトは無事無傷で英国のフリゲート船アンドーンティド号に乗り込み、地中海の島へと向かった。 出航前、命を救った礼として、元皇帝は伯爵に自身の剣を贈った。 ナポレオンは、エジプト遠征の功績として第一執政時代に授かったそのダマスカス鋼の豪華絢爛な剣を、15年近く肌身離さず持っていた。 これをロシアの伯爵に渡したのは、元皇帝の心からの感謝の印であった。
次のContents• ナポレオン・ボナパルトとは ナポレオンのプロフィール ナポレオン・ボナパルトの肖像画• 職業: 将軍のちフランス皇帝• 出身地: フランス コルシカ島のアジャクシオ• 誕生日:1769年8月15日• 逝去日:1821年5月5日 享年51歳• 逝去地:イギリス セントヘレナ島• よく知られていること: 優れた軍事指揮官、ヨーロッパの大部分を征服• 特技: 3時間しか寝ずとも、激務に耐えられる• 好きなもの: お風呂 数時間入っていたといわれている• ひとこと: 民衆からみたら 自由をくれた解放者、 他国から見たら 恐ろしい侵略者 幼少期から大人になるまで ナポレオン 幼少期の肖像画 は、1769年8月15日にコルシカ島 海が綺麗な街 で生まれました。 かなり裕福な家庭に育ち、ナポレオンは良い学校で、高等な教育を受けることができました。 そんな彼は父の意向もうけ、 パリの 士官学校で、 軍の将校になるように訓練をうけるようになります。 1785年に父が死ぬと、 は家族の問題を処理するのを手伝うためにコルシカ島に戻りました。 コルシカ島 アジャクシオ城の灯台 コルシカに滞在中、 ナポレオンは パスカル・パオリという地元の革命家と関わりを持ちます。 しばらくの間、彼はパオリがフランスのコルシカ占領と戦うのを助けました。 しかし、後に彼は立場を変え、フランスへ戻ります。 スポンサーリンク ナポレオンが国民的な英雄になるまで フランス革命が勃発、パリへ戻ったナポレオン ナポレオン 青年期の肖像画 がコルシカに戻っている間、パリではフランス革命が勃発しました。 民衆はフランス王に反乱を起こして、王族や多くの貴族が殺されました。 当時のフランス王ルイ16世と、王妃が処刑された、 あの有名な革命ですね。 そんなご時世にフランスへ戻ったナポレオンは、彼はジャコバン派と呼ばれる革命家グループと同盟をむすびました。 トューロンの戦いで、優れた軍事指導をみせる 画:トゥーロンでの戦い ナポレオンが優秀な司令塔として台頭したのは、1793年フランスの港町トューロンでの戦争。 イギリス軍により占領されていた港湾を取り戻すためにたたかった、 世に言う『 』ですね。 フランス海軍の強さを維持するためにも、 この港だけは絶対に取り戻さなければならない要所でありました。 この戦いでナポレオンは砲兵司令官の地位につき、 イギリスを打ち破る戦略を考え出して見事に成功させたのです。 この時の軍事指導力はフランス指導部にも認められ、24歳の若さで准将に昇進しました。 類稀なる、軍事的カリスマ性 ナポレオン・ボナパルトの肖像 画近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用した 1796年、はイタリアにて、フランス軍の指揮権を与えられます。 しかし彼がイタリアに到着したとき、軍隊はうまく組織されておらず、むしろオーストリア軍に追い詰められているほどでした。 しかしナポレオンは、 野心家で聡明な将軍でありました。 彼は軍隊を戦場のあちこちに素早く移動させるために優れた組織を使用するなど、 奇抜な作戦を用いて勝利をおさめました。 はカリスマ的な軍事指導者として、フランス民衆にも知られるようになっていきました。 スポンサーリンク カリスマ的指導者、独裁の道へ 第一統領として、新しい政府を発足 第一統領 ナポレオン・ボナパルト エジプトでの軍事遠征を指揮した後、ナポレオンは1799年にパリに戻りました。 フランスの政治情勢は変化しており、ディレクトリ 総裁政府 と呼ばれた現存の政府もの力も弱くなっていました。 そこで ナポレオンは、弟リュシアンを含む同盟陣とともに、 統領政府と呼ばれる新しい政府をつくりました。 当初、政府の長には3人の領事がいましたが、 ナポレオンは自らを初代領事 第一統領 と称しました。 第一統領としての彼の権力は、本質的に『 フランスの独裁者』 を意味しました。 ちなみに こちらの肖像画が、弟のリュシアン・ボナパルトです。 彼は内務大臣に就任しましたが、 兄とすぐに仲違いして辞めさせられてしまいました。 ナポレオン法典をつくった ナポレオンは『 事実上フランスの独裁者』 となり、多くの政府改革を行いました。 改革のひとつは、 あの有名な『 ナポレオン法典』 の施行です。 この法の下では、 官職は出生や宗教ではなく彼らの資格と能力に基づいて任命されることになっていました。 これはフランス政府の大きな変化でした。 これ以前は王が好意と引き換えに貴族に高い地位を与えていたので、重要な地位に無能な人がついてしまうことも多かったのです。 また ブルジョワや、農民が期待していた「所有権の不可侵」を法的に確定させたのもポイントです。 ナポレオン・ボナパルトの肖像画 ナポレオンはまた新しい道路を建設したり事業を奨励したりして、 フランス経済の改善に貢献しました。 彼はカトリック教会を公式の宗教として再建しましたが、 同時にカトリックではない人々に信仰の自由を認めました。 非宗教的な学校を設立、誰でも教育を受けることができるようにしたのです。 そしてついに 1804年11月に開催された国民投票にて、ほぼ全一致でナポレオンは『フランス皇帝』に選出されました。 戴冠式で、彼は異例にも教皇が彼の頭に王冠を置くことを許可せず、自分自身で戴冠をおこないました。 彼の前に跪くのは、 ナポレオンが死ぬまで愛したといわれるジョセフィーヌです。 ナポレオンが皇后に王冠をかぶせるのは、ただの演出。 二人の奥にみえる教皇は、自分の役割を無下にしたナポレオンに怒っているようにもみえる ヨーロッパの支配と、フランス領土の拡大 風刺画 地球というケーキを食べる英仏 当初、 ナポレオンはヨーロッパの平和を維持していましたが、 すぐにフランスはイギリス、 オーストリア、 ロシアと戦争になります。 トラファルガーの海戦でイギリスとの海戦に負けた後、ナポレオンの矛先はオーストリアへ。 1805年のオーステルリッツの戦いでは、オーストリアとロシアの軍隊をしっかりと打ち負かし、 ナポレオンは数年間でフランスの領土を拡大。 1811年のフランス領土は最盛期で、スペインからロシアの国境までヨーロッパの多くを支配していました。 (イギリスを除く) トラファルガーの海戦 トラファルガーの海戦の図 トラファルガーの海戦は、1805年10月にスペインのトラファルガー岬の沖で行なわれた海戦。 ナポレオン戦争における最大の海戦で、 イギリスはこの海戦の勝利により、 ナポレオン1世の英国本土侵英の野望を打ち砕いたとされている。 スポンサーリンク ナポレオン、栄華からの陥落 ロシア遠征での、大敗北 ナポレオンのロシアからの撤退、アドルフ・ノーセンによる絵画 1812年ナポレオンは、ロシアにて屈辱的な大敗を経験します。 ロシア侵攻を決意したナポレオンは60万もの大軍を率いてロシアに向かいましたが、 多くの兵士が極寒に耐えられず途中で餓死….. そして道中におかえるロシア軍との激戦の後、なんとか首都モスクワについたものに町はもぬけの殻。 モスクワの火事を見つめるナポレオン 火事で市内の物資も燃やされ 焦土作戦 、補給品を得ることもできなかったナポレオン軍。 ロシア軍の追撃をうけ、 命からがらフランスへ帰りましたが、 軍隊の多くが厳しい寒さのもと命を失ったのでした。 各国がいっきに、ナポレオンへ反撃を開始 この大敗を見た各国は、一斉にナポレオンに反旗をひるがえしました。 初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて第六次対仏大同盟を結成。 こ の同盟には、元フランス陸軍将軍でありナポレオンの意向によってスウェーデン王太子についていた ベルナドットがいるスウェーデンも7月に参加しました。 つまり裏切り… 1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化。 フランスの北東には オーストリア・ プロイセ ン軍25万、 北西にはベルナドットの ス ウェーデン軍16万、 南方ではウェリントン公率いるイギリス軍10万の大軍。 これだけの軍がフランス国境を固め、大包囲網を作って攻め込んできたのです。 スポンサーリンク ナポレオン退位に追い込まれる フォンテンブローで退位した後のナポレオン いままで散々ヨーロッパに攻め込んできた、その結果各国がまとまった攻めてきたわけです。 世にいう、『 ライプツィヒの戦い 諸国民の戦い 』というやつですね。 ナポレオンはわずか7万の手勢しかなく、 絶望的な戦いを強いられます。 このままではフランスが危うい。 3月31日にはフランス帝国の首都 パリが陥落。 ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指そうと試みましたがそうもいかず….. ナポレオンは退位に追い込まれ、1814年にエルバ島に追放されました。 ナポレオンの百日天下とは何だったのか セントヘレナのナポレオン 1815年ナポレオンはエルバ島を脱出、パリに戻って復位を成し遂げました。 ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みますが、連合国にはことごとく背をむけられてしまい結局戦争へ。 初戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し、 ナポレオンの復位( 百日天下) は幕を閉じることとなります (実際は95日間….. ナポレオンは再び退位に追い込まれ、 アメリカへの亡命も考えましたが港の封鎖により断念、 最終的にイギリスの軍艦に投降しました。 彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、 ナポレオンは南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉されました。 スポンサーリンク まとめ セントヘレナでのナポレオン さて、ナポレオンは結局何をしたのか。 軍にはいった彼は、 カリスマ的指導者として脚光を浴び、• 奇抜な作戦を他国との戦争で決行、フランスを勝利に導く• 政権を立ち上げ自らを『 第一統領』 とし、 自由への革命をおこなう• 民衆の大きな支持を経て、投票で『フランス皇帝』に選出される• しかしロシア遠征にて大敗、軍の殆どを失い• 他国がいまだと攻め込んできて 、 フランスはピンチに ….. 退位に追い込まれる そ して島流しにあった先で彼は、病気によりその生涯を閉じることになったのでした。 他国からみれば侵略者、フランスの民衆からみれば解放者。 力でいっきに他国へ侵略したけれど、弱ったところで皆が力をあわせて反撃にやってきた、なんともわかりやすい結果でありました。 ちなみに民衆へ自由をみとめた 『ナポレオン法典』は数々の修正を受けながらも、いま尚フランスで効力をもっています。 国民的英雄ナポレオン、あとがきにかえて サンベルナール越えのナポレオン ナポレオンは、情報操作においても優れていたことで有名です。 ナポレオンは言論統制をおこなったり、 ダヴィットを専属の公式画家として採用し、 作品を有効な宣伝の手段として利用 しました。 ナポレオンの肖像画がやたらと良い男に描かれているのも、名言が多く残っているのもこのためだと言われています。 不可能とは小心者の幻影であり、卑怯者の逃避所である• フランス人諸君、ピラミッドの頂点から4000年の時間が諸君を見つめていると思いたまえ 旧来の身分にとらわれず、実力主義で人材を登用したナポレオン。 ちなみに 愛妻ジョセフィーヌとの物語についてはこちら にまとめております。 最後は退位せざるをえず、転落とも思えた晩年でしたが、 彼が英雄として語り注がれるのは、何事にも目を背けず、転んでも島流しにあっても、運命に立ち向かい続け、玉砕した人物だったからかもしれません。 この記事を読んだ人へおすすめの記事• この記事をかくために参考とさせていただいた文献• ducksters. php• wikipedia. 最新世界史図説 タペストリー 帝国書院 スポンサーリンク.
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