5月21日は24節気の小満で、万物が成長して大地に満ちていく時季です。 先日、偶然にテレサ・テンが唄った「何日君再来(いつの日君帰る)」を耳にしました。 資料を調べてみたところ、この名曲は1930年から40年代の名歌手・周璇、李香蘭に歌われ、大ヒットした曲でした。 しかし、当時の政治の渦に巻き込まれ、国民政府も日本の植民地政府も、さらにその後に成立した新中国政府も、ずっとこの歌を禁じていました。 何故、この恋の唄は様々な政治勢力に禁じられてしまったのでしょうか?今回の中国メロディーはこの歌の裏に潜む物語と名歌手たちが歌ったそれぞれのバージョンをお楽しみください。 「いつの日君帰る」の誕生 美しい花は常に咲いているわけではなく 美しい風景は常に見ることができるわけではない 憂うより笑顔になりたいけれども 涙が零れる 今宵 お別れした後 あなたは次はいつ来てくれるのかしら これを飲んでしまったら これも召し上がって 人生で酔える時は何度もないわ 今を楽しんでちょうだい さあさあさあ 飲み終わったら話せばいいから 今宵 お別れした後 次はいつ来てくれるのかしら この曲は1936年7月、上海国立音楽専科学校の卒業茶話会で、卒業生の劉雪庵が即興でタンゴ舞曲を創作したものに由来します。 その後、映画「三星伴月」の監督・方沛霖はこの曲をすぐに気に入り、映画の脚本家・黄嘉漠に作詞させて、わずか17歳の周璇がこの挿入歌を歌いました。 「金の声」が広めた「いつの日君帰る」 周璇はこの当時の人気歌手で、彼女の歌声は「金嗓子(まるで黄金のような美しさ)」と呼ばれ、この「いつの日君帰る」は彼女が歌うことで大ヒットしました。 1938年の映画の上映に伴い、この歌は上海、南京、北京などの大都会、更に小さい町でも広く歌われるようになりました。 当時、日本の侵略軍が上海を占領し、数えきれない人たちが無残な目に会いました。 当局の国民政府は重慶に撤退し、多くの人々は憂うつとためらいを感じていました。 誰もが恋人や親友と離れて、孤独と苦しみを感じ、いつ家に帰れるのか、いつ恋人と再び会えるかもわかりません。 「いつの日君帰る」こそがその時代の人々の心の声を吐き出していたのです。 当時、上海のほぼすべてのカフェや百貨店、ダンスホール、ラジオでこの曲が流れていたそうです。 李香蘭で変わる運命 1940年代、愛国の歌として中国全土で広く歌われた「いつの日君帰る」は当時の人気歌手・李香蘭にカバーされた後は、その運命が大きく変わりました。 李香蘭の本名は山口淑子。 日本人の両親を持ちますが、幼い頃から父親の中国人の義理の兄に引き取られて暮らしていたため、中国語が堪能です。 14歳の時、彼女は美貌と音楽の才能で満州映画協会に選ばれ、侵略を美化するため、中国人スターのように仕立てあげられました。 李香蘭は当時の歌姫・周璇のファンで、彼女はそれぞれ中国語と日本語で「いつの日君帰る」をカバーし、日本でも高い人気を博しました。 しかし、日本の在中国審査機関は「いつの日君帰る」が抗日的な思想を持った歌で、中国の国民党政府を代弁するものであったため、「いつの日君帰る」が「国民政府の軍隊がいつ上海に帰る」、「中国の統治がいつ回復するのか」と呼びかけると解釈され、この歌は当時の日本で禁止されました。 一方、国民党政府には「いつの日君帰る」は中国人の日本へ徹底抗戦意識を和らげようとする亡国の歌であると見る人もいました。 共産党側は「いつの日君帰る」は上海の堕落した生活のリアルな描写であり、歌の中の女性は恋人がお酒を飲むことを勧め、抗日運動の参加を阻もうという意味に捉えていました。 そこで、多くの人々に親しまれたこの歌は様々な政治勢力に翻弄され、禁止曲になってしまいました。 「スパイ歌手」テレサ・テン 1978年の改革開放以降、香港、台湾、欧米のポップス音楽が中国大陸に押し寄せるようになりました。 テレサ・テンがリリースした新しいバージョンの「いつの日君帰る」はこの30年代の流行歌に活力を注ぎ、多くの人々の心を虜にしました。 しかし、戦争はとっくに終わっていたものの、硝煙の匂いはまだ台湾海峡両岸では消えていませんでした。 1960年、70年代の台湾芸能界では出国の許可を獲得しようとする芸能人は情報機関に参加しなければならなかったため、当時、わずか15歳のテレサ・テンも台湾国民党の諜報員となりました。 そんなテレサ・テンの「いつの日君帰る」は中国大陸で爆発的にヒットしましたが、「猥褻な歌で、半封建、半植民地の奇形的な産物」と批判されてもいました。 一方、その時の台湾には共産党思想の浸透を常に警戒する考えが溢れ、テレサ・テンの「いつの日君帰る」の中の「君」は共産党と解釈され、彼女は共産党が台湾に来ることを祈っていると疑いをかけられてしまいました。 半世紀にわたってこの歌は、再び政治闘争の渦に巻き込まれることになります。 再び輝く「いつの日君帰る」 1980年代末、中国大陸で周璇ブームが起こり、1995年のテレサ・テンの逝去によって引き起こされた追悼記念ブームなどの影響を受け、「いつの日君帰る」はようやく海峡両岸で解禁され、長年にわたり多くの人々に親しまれてきたこの恋の唄はようやく表舞台に戻ることになりました。 この歌は誕生以来、ずっと不遇な運命に翻弄されながらも、各時代の歌手は命の歌を歌い続けました。 そして今、美しいメロディーが再び流れるこの時代、歌を紡いできた周璇、李香蘭、テレサ・テンの歌手たちの心は安らぎに満ちていることでしょう。 番組の中でお送りした曲 1曲目 周璇「何日君再来(いつの日君帰る)」 2曲目 李香蘭「何日君再来(いつの日君帰る)」 3曲目 テレサ・テン「何日君再来(いつの日君帰る)」.
次の5月21日は24節気の小満で、万物が成長して大地に満ちていく時季です。 先日、偶然にテレサ・テンが唄った「何日君再来(いつの日君帰る)」を耳にしました。 資料を調べてみたところ、この名曲は1930年から40年代の名歌手・周璇、李香蘭に歌われ、大ヒットした曲でした。 しかし、当時の政治の渦に巻き込まれ、国民政府も日本の植民地政府も、さらにその後に成立した新中国政府も、ずっとこの歌を禁じていました。 何故、この恋の唄は様々な政治勢力に禁じられてしまったのでしょうか?今回の中国メロディーはこの歌の裏に潜む物語と名歌手たちが歌ったそれぞれのバージョンをお楽しみください。 「いつの日君帰る」の誕生 美しい花は常に咲いているわけではなく 美しい風景は常に見ることができるわけではない 憂うより笑顔になりたいけれども 涙が零れる 今宵 お別れした後 あなたは次はいつ来てくれるのかしら これを飲んでしまったら これも召し上がって 人生で酔える時は何度もないわ 今を楽しんでちょうだい さあさあさあ 飲み終わったら話せばいいから 今宵 お別れした後 次はいつ来てくれるのかしら この曲は1936年7月、上海国立音楽専科学校の卒業茶話会で、卒業生の劉雪庵が即興でタンゴ舞曲を創作したものに由来します。 その後、映画「三星伴月」の監督・方沛霖はこの曲をすぐに気に入り、映画の脚本家・黄嘉漠に作詞させて、わずか17歳の周璇がこの挿入歌を歌いました。 「金の声」が広めた「いつの日君帰る」 周璇はこの当時の人気歌手で、彼女の歌声は「金嗓子(まるで黄金のような美しさ)」と呼ばれ、この「いつの日君帰る」は彼女が歌うことで大ヒットしました。 1938年の映画の上映に伴い、この歌は上海、南京、北京などの大都会、更に小さい町でも広く歌われるようになりました。 当時、日本の侵略軍が上海を占領し、数えきれない人たちが無残な目に会いました。 当局の国民政府は重慶に撤退し、多くの人々は憂うつとためらいを感じていました。 誰もが恋人や親友と離れて、孤独と苦しみを感じ、いつ家に帰れるのか、いつ恋人と再び会えるかもわかりません。 「いつの日君帰る」こそがその時代の人々の心の声を吐き出していたのです。 当時、上海のほぼすべてのカフェや百貨店、ダンスホール、ラジオでこの曲が流れていたそうです。 李香蘭で変わる運命 1940年代、愛国の歌として中国全土で広く歌われた「いつの日君帰る」は当時の人気歌手・李香蘭にカバーされた後は、その運命が大きく変わりました。 李香蘭の本名は山口淑子。 日本人の両親を持ちますが、幼い頃から父親の中国人の義理の兄に引き取られて暮らしていたため、中国語が堪能です。 14歳の時、彼女は美貌と音楽の才能で満州映画協会に選ばれ、侵略を美化するため、中国人スターのように仕立てあげられました。 李香蘭は当時の歌姫・周璇のファンで、彼女はそれぞれ中国語と日本語で「いつの日君帰る」をカバーし、日本でも高い人気を博しました。 しかし、日本の在中国審査機関は「いつの日君帰る」が抗日的な思想を持った歌で、中国の国民党政府を代弁するものであったため、「いつの日君帰る」が「国民政府の軍隊がいつ上海に帰る」、「中国の統治がいつ回復するのか」と呼びかけると解釈され、この歌は当時の日本で禁止されました。 一方、国民党政府には「いつの日君帰る」は中国人の日本へ徹底抗戦意識を和らげようとする亡国の歌であると見る人もいました。 共産党側は「いつの日君帰る」は上海の堕落した生活のリアルな描写であり、歌の中の女性は恋人がお酒を飲むことを勧め、抗日運動の参加を阻もうという意味に捉えていました。 そこで、多くの人々に親しまれたこの歌は様々な政治勢力に翻弄され、禁止曲になってしまいました。 「スパイ歌手」テレサ・テン 1978年の改革開放以降、香港、台湾、欧米のポップス音楽が中国大陸に押し寄せるようになりました。 テレサ・テンがリリースした新しいバージョンの「いつの日君帰る」はこの30年代の流行歌に活力を注ぎ、多くの人々の心を虜にしました。 しかし、戦争はとっくに終わっていたものの、硝煙の匂いはまだ台湾海峡両岸では消えていませんでした。 1960年、70年代の台湾芸能界では出国の許可を獲得しようとする芸能人は情報機関に参加しなければならなかったため、当時、わずか15歳のテレサ・テンも台湾国民党の諜報員となりました。 そんなテレサ・テンの「いつの日君帰る」は中国大陸で爆発的にヒットしましたが、「猥褻な歌で、半封建、半植民地の奇形的な産物」と批判されてもいました。 一方、その時の台湾には共産党思想の浸透を常に警戒する考えが溢れ、テレサ・テンの「いつの日君帰る」の中の「君」は共産党と解釈され、彼女は共産党が台湾に来ることを祈っていると疑いをかけられてしまいました。 半世紀にわたってこの歌は、再び政治闘争の渦に巻き込まれることになります。 再び輝く「いつの日君帰る」 1980年代末、中国大陸で周璇ブームが起こり、1995年のテレサ・テンの逝去によって引き起こされた追悼記念ブームなどの影響を受け、「いつの日君帰る」はようやく海峡両岸で解禁され、長年にわたり多くの人々に親しまれてきたこの恋の唄はようやく表舞台に戻ることになりました。 この歌は誕生以来、ずっと不遇な運命に翻弄されながらも、各時代の歌手は命の歌を歌い続けました。 そして今、美しいメロディーが再び流れるこの時代、歌を紡いできた周璇、李香蘭、テレサ・テンの歌手たちの心は安らぎに満ちていることでしょう。 番組の中でお送りした曲 1曲目 周璇「何日君再来(いつの日君帰る)」 2曲目 李香蘭「何日君再来(いつの日君帰る)」 3曲目 テレサ・テン「何日君再来(いつの日君帰る)」.
次の日本や台湾、香港をはじめとする東アジアで絶大な人気を誇っていることから、「アジアの歌姫」と呼ばれている。 台湾を代表する歌手の一人。 日本ではどちらかというと演歌歌手のイメージが強いが、実際はかなり幅広いジャンルの歌を歌っており、台湾や香港などで出されたアルバムには、演歌やムード歌謡に加えて台湾民謡や英語のポップス、日本語ポップスのカバー曲なども多数含まれている。 日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越す。 1973年に香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔との出会いがきっかけで日本での活動を開始、ユニバーサルミュージックと契約し、アイドル歌謡曲路線の『今夜かしら明日かしら』でデビューしたが、売れ行きが思わしくなかったため不発。 演歌路線に変えたところ、日本でのデビュー2作目となる『空港』が大ヒット、第16回日本レコード大賞新人賞を獲得する。 1984年から1986年にかけ、日本有線大賞及び全日本有線放送大賞の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞した。 1985年12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらしたNHKホールコンサートが開催される。 この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして高い評価を得ている。 1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。 台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず防腐加工などを施され土葬された。 テレサ・テンの作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えるという。
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