うち で 踊 ろう。 秋保の歴史|秋保・里センター

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(日本民踊)曲名順|曲目一覧|公益社団法人 日本フォークダンス連盟

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概要・歴史 [ ] 出典:「琉球王朝文化の華「琉球舞踊」」国立劇場おきなわ、文化庁広報誌「ぶんかる」 、「琉球舞踊のすがた」文化庁月報・平成23年12月号 No. 519 前史 [ ] 古来、琉球舞踊は各地の祭祀にみられる舞や、琉球最古の古謡集()の中に舞の所作を示す言葉、コネリ 手をこねる 、ナヨリ 体のなよやかな動き 等、神女らが古俗の神事・祭事の中でオモロ 古謡 を歌いながら舞われる祭祀舞踊であったとみられる。 それらの祭祀舞踊が、長い歴史の中で時代に応じ、や、神能、といった日本芸能のほか、など周辺地域の舞踊の影響を受けつつ発展し、や離宮にあたる識名御殿 識名園 、御茶屋御殿などで披露される宮廷芸能となったと考えられている。 冊封使歓待、中世までの歩み [ ] 1370年頃より、の各王国が中国(当時の、後に)が関係を結び、1429年の琉球統一後のでも朝貢貿易関係が続いた。 当初は戦乱の時代であったが、尚巴志王による統一により文化的余裕が生ずると、王国の歴代王統により盛んに中国大陸や東南アジアの文化、文物を取り入れるようになった。 もこの頃に流入した。 中国との関係では、琉球の国王の代替わりごとに、の使者・使(さっぽうし)が派遣されるようになり、半年近く琉球に滞在する使節のため歓待の宴が催されるようになった。 中秋の宴,重陽の宴,拝辞の宴など、内に舞台を設置して芸能の舞を冊封使に披露したのが琉球舞踊の原型と考えられている。 近世における舞踊の確立 [ ] 近世に入り、やの大改革以降、のを中心としたの政治や文化からを中心とした教えに基づき内政の大転換が行われ、文化面でも積極的な振興策により琉球文化が隆盛した。 王府は、(おどりぶぎょう)と呼ばれる奉行を設け、躍奉行が踊り手、演奏者などを任命した。 その際の踊り手、演奏者は全て首里士族の子弟を中心に任命された。 その際、踊られていたのが、中国からの冊封使をもてなすための芸能、御冠船踊り、今日で言う「 古典舞踊」である。 この頃(16 - 17世紀頃)までには古典舞踊としての様式が確立していたと見られている。 日本との関係でも、の 1609年 後の1634年から、の1850年まで間に18回行われたの使節には、琉球舞踊を踊るための踊童子が含まれており、の御前や薩摩江戸藩邸などでも披露された。 2011年2月、()にて160年ぶりに「よみがえる琉球芸能 江戸上り」が催され大盛況となった。 近代 [ ] 、いわゆるによってが設置されると、それまでだった舞踊家たちは禄を失った。 彼らは王府のあったからの街に移って芝居小屋を建て、民衆を相手に芝居興行を営むようになる。 その中で、庶民の民謡や生活などを題材にした踊りが作られるようになり、人気を博して多くの名作が生まれた。 これが「 雑踊り」である。 最初は布で仕切ってタダ見を防ぐ程度の粗末な造りの小屋が多かった。 1891年に本格的な劇場が誕生した。 古典芸能である御冠船踊ばかりでは飽きられたため、アップテンポな琉球を取り入れるなど、所作や衣装など、市井の人々の好みに合わせて次第に多様化していった。 とくに、この時代には庶民の女性が主人公となる「アングヮーモーイ(娘さん踊り)」が作られ人気となった。 現代 [ ] の混乱期は、下で、郷土芸能が民衆の心の支えとなって注目されるようになった。 特に、社主催の 芸能選賞伝統芸能部門や、社主催の 琉球古典芸能コンクール、地元新聞社主催のコンクールが開催されるようになってからは、両コンクールを通して、多くの者が琉球古典芸能(琉舞と古典音楽を合わせた呼称)を志すようになった。 こうした流れの中で生まれた新しい踊りが、「創作舞踊」と呼ばれる。 創作舞踊は、各舞踊家がそれぞれの創作活動の中で生み出したものであり、時期が新しいということを除けば、古典舞踊調であったり、雑踊り調であったり、その構成は様々である。 近年は、主催の創作舞踊大賞など、琉球舞踊における創作活動は古典舞踊の継承とおなじく今も盛んである、 9月には、伝統芸能としての「琉球舞踊」が国のに指定され、保持者として計39人(舞踊家14人、13人、7人、2人、2人、1人)が総合認定された。 2014年11月1日に行われた、の主催公演「琉球舞踊 古典女七踊」が2014年度(第69回)の舞踊部門・関東参加公演の部で大賞を受賞した。 琉球芸能の大賞受賞は初めてであり、戦後の琉球舞踊界を牽引してきた国の「琉球舞踊」保持者7人により、琉球舞踊の中でも真踊りとされ、特に重視される七つの古典女踊が舞われた。 主な演目 [ ] 主な演目は次の通り。 古典舞踊 [ ] 古典舞踊は、更に 老人踊り、 女踊り、 若衆踊り、 二才踊り、 打組踊りに分けられる 老人踊り [ ] 老人踊りは、宴の冒頭で踊られる祝儀舞踊で、子孫繁栄と長寿をその主題とする。 「かぎやで風(かじゃでぃふう)」を始め、県内各地の村踊りとして残る「長者の大主(ちょうじゃのうふしゅ)」がこれに分類される。 老人踊りはよく演目のはじめに演じられ、伴奏にのって踊る。 女踊り [ ] 女踊りは、古典舞踊を代表する踊りである。 女踊りの装束は、朱色またはの胴衣 どぅじん 、下半身には裙 かかん を纏い、腰に巻いた紫長巾に紅型衣装の打ち掛けを挟む「前壺折り めーちぶり」の着付けとなる。 結髪は垂髪 かむろう。 紫長巾を頭に巻き、椿や牡丹をあしらった花飾りや熨斗、婆娑羅 バサラ などの髪飾りをつける。 主に愛や恋を主題としたものが多い。 舞踊構成は、舞台下手から出る「出羽(んじふぁ)」、主題を成す「中踊り(なかうどぅい)」、舞台下手へ帰る「入羽(いりふぁ)」の三部構成を基本としている。 女踊りの中でも、が創作したと言われる踊りを、「古典女七踊り」または「真踊り」と呼ぶ。 主な演目は、「綛掛 かしかき 」「作田(つぃくてん)」「柳(やなじ)」「天川(あまかー)」「本貫花(むとぅぬちばな)」「諸屯(しゅどぅん)」「伊野波節(ぬふぁぶし)」「芋引(うーびち)」「本嘉手久(むとぅかでぃく)」「稲まづん(いにまじん)」「瓦屋(からやー)」「女特牛節(いなぐくてぃぶし)」「四つ竹(ゆちだき)」がある。 若衆踊り [ ] 若衆踊りは、若衆(元服前の少年)による舞で、国家安泰や長寿などを予祝し寿ぐ意味合いが強い踊りである。 若衆は、男でも女でもない無性とし、衣装は、引羽織をまとい、朱色のを履き、髪は中性の真結い まーゆい を結い菊花や金色の椿の花などの飾りをする。 演目は、「特牛節(くてぃぶし)」「若衆麾(わかしゅぜい)」「四季口説(しきくどぅち)」「若衆揚口説(わかしゅあぎくどぅち)」などがある。 琉球王朝時代には、多くの演目があったが、今日まで知られる物は少なくなった。 二才踊り [ ] 二才踊りは、二才(元服した青年)の栄えや、五穀豊穣を寿ぐ内容が主。 古典舞踊の中で二才踊りが特異なのは、冊封使の前ではなく、のの侵入後、在藩奉行の前、あるいはで披露されたという。 衣装は黒色のに白黒のに白足袋を履き、髪は成人男性のカタカシラにカンサシ、ウシザシの2本の簪で留める侍風のいでたち。 踊りの手にも、やなど武道の手が取り入れられ、力強い踊りとなっている。 演目は、「上り口説(ぬぶいくどぅち)」「下り口説(くだいくどぅち)」「前の浜(めーのはま)」「麾(ぜい)」「湊くり節(んなとぅくいぶし)」「揚作田(あぎつぃくてん)」「江佐節(えさぶし)」のほか、から派生した「高平良萬歳(たかでーらまんざい)」「波平大主道行口説(ふぁんじゃうふぬしみちゆきくどぅち)」「久志の按司道行口説(くしぬわかあじみちゆきくどぅち)」がある。 打組踊り [ ] 打組踊りは、打組踊りとは、男女あるいは美女と醜女、という風に対照的な関係にある者たちの心の持ちようを主題とした踊りで、「醜童(しゅんだう)」に代表される。 醜童は古典 舞踊の中で継承されている唯一の仮面踊りでもある。 雑踊り [ ] 雑踊りは、庶民の生活や思いを主題とした踊りで、躍動感溢れる軽快な踊りが特徴的。 衣装は、素足または白足袋に、やなど日常の着物で踊られ、琉球の風俗習慣が映し出されている。 演目は、「花風(はなふう)」「浜千鳥 ちじゃやー、はまちどぅい)」「むんじゅる」「谷茶前(たんちゃめー)」「鳩間節(はとぅまぶし)」「取納奉行(しゅぬぶじょー)」「汀間当(てぃーまーとぅ)」「加那よー(かなよー)」「加那よー天川(かなよーあまかわ)」「貫花(ぬちばな)」「金細工(かんぜーくー)」「戻り駕籠(もどりかご)」「仲里節(なかざとぶし)」「川平節(かびらぶし)」「越来よー(ぐぃーくよー)」「馬山川(ばじゃんがー)」「黒島口説(くるしまくどぅち)」がある。 「花風(はなふう)」「むんじゅる」などは準古典踊りとも呼ばれる。 創作舞踊 [ ] 創作舞踊は、狭義に戦後隆盛した琉球舞踊の創作活動の中で生み出された比較的新しい琉球舞踊である。 主なものは下記の通り(流会派名などで一部省略あり)。 「日傘踊り(ひがさおどり)」 振付/玉城流玉扇会・玉城盛義• 「糸満乙女(いとまんおとめ)」 振付/眞境名本流・真鏡名由康• 「わたんじゃー舟」 振付/眞境名本流・真鏡名由康• 「パーランクー」 振付/真踊流・真境名佳子• 「葉かんだ(ふぁーかんだ)」 振付/島袋本流・島袋光裕• 「す玉貫花(すだまぬちだま)」 振付/玉城流扇寿会・谷田嘉子、金城美枝子• 「水鏡」 振付/重踊流・志田房子• 「綾(あや)」 振付/太圭流・佐藤太圭子• 「仲島の浦(なかしまのうら)」 振付/柳清会・比嘉清子• 「清ら百合」 振付/玉城流いずみ会・玉城静枝 主な流派 [ ] 琉球舞踊界では、戦後の隆盛を経て数多くの流派が設立された。 主な流派は下記の通り。 琉球舞踊、組踊、沖縄芝居の大家、玉城盛重 1868~1945 を祖、玉城盛義(1887~1971)を師とする流派。 玉城流玉扇会をはじめとし、玉城流を冠する「会」が20余り存在する琉舞最大派閥。 玉城流には国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)に玉扇会・玉城秀子、翔節会・玉城節子、扇寿会・谷田嘉子、金城美枝子、いずみ会・又吉静枝ら• 玉城盛重を祖、親泊興照(1887~1986)を師とする流派。 親泊流・親泊本流などに分かれる。 玉城盛重を祖、宮城能造(1906~1989)を師とする流派。 現在は、宮城流・宮城本流・宮城元流などに分かれている。 宮城本流鳳乃会家元・宮城能鳳は2006年国の重要無形文化財「組踊立方」保持者(各個認定)、2009年国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)• 読谷山親雲上朝英(生没年不詳)を祖、金城良章(1908~1993)を師とする流派。 仁風会から改称。 新垣松含(1880~1939)を祖、比嘉澄子(1922~2005)を師とする。 嵩原安詩(1872~1945)・屋嘉良勝(1879~1941)を祖、比嘉清子(1915~1993)を師とする流派。 柳清会から改称。 真南風流が派生。 屋嘉良勝(1879~1941)を祖、山田貞子(1926~1995)を師とする流派。 川平親雲上朝美(1852~1921)を祖、阿波連本啓(1903~2001)を師とする流派。 啓扇本流が派生。 渡嘉敷守良(1880~1952)を師とする流派。 真境名由康 1888~1982 を祖、由康の娘、ハワイ在住の真境名由苗を師とする流派と同じく由康の娘、由乃を師とする宗家眞境名本流眞薫会がある。 戦前、玉城盛重に師事し、女性舞踊家の第一人者として、戦前戦後にわたり、琉球舞踊の発展と普及に尽力した真境名佳子 1919~2005 を祖とする流派。 同人は、「諸屯」や「伊野波節」など古典女踊りを得意とした。 現在、真踊流には国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)の宮城幸子氏がいる。 国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)志田房子により創流。 沖縄県内のみならず東京、神奈川にて琉球舞踊を普及。 が学生時代から志田氏に琉球舞踊を師事されていた。 舞踊家、俳優、書家でもある島袋光裕 1893~1987 を祖とし、島袋本流紫の会と島袋流千尋会がある。 二代目紫の会宗家には、国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)島袋光晴。 島袋光裕の下からは多数の舞踊家が誕生している。 国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)佐藤太圭子により創流。 真境名佳子を師事した国の重要無形文化財「琉球舞踊」保持者 総合認定 大城政子により創流。 ほかに、冠船流など。 脚注 [ ] [].

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琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ : かぎやで風節について

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炭坑節は、最初は今のような盆踊りで使われる曲ではなく、労働歌の一つでした。 それが時代と共に変化し、盆踊りなどに使用されるようになりました。 炭坑節は様々な種類があります。 お祭りでは曲に合わせて太鼓をたたくのですが、炭坑節のリズムは変わっていて、最初表拍だったのに、そのまま叩いていると裏拍になって踊りづらくなるという部分がある、少し変わった曲でもあります。 (切り替わりがない炭坑節もあります。 ) 炭坑節の発祥の地『福岡県田川市』 炭坑節は福岡県の民謡で、福岡県田川市が発祥と言われています。 これは炭鉱の町が由来で、ホルモンの栄養価や値段などの面から、炭鉱で働く人に最適な料理だったとの説があります。 歌詞の意味 炭坑で歌われていた歌ということで炭鉱をイメージした歌詞が登場します。 しかし、元々が春歌だった説もあり、情愛を意味する部分なども多く登場します。 月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ) 三池炭坑の 上に出た あまり煙突が 高いので さぞやお月さん けむたかろ(サノヨイヨイ) あなたがその気で 云うのなら(ヨイヨイ) 思い切ります 別れます もとの娘の 十八に 返してくれたら 別れます(サノヨイヨイ) 一山 二山 三山 越え(ヨイヨイ) 奥に咲いたる 八重つばき なんぼ色よく 咲いたとて サマちゃんが通わにゃ 仇の花(サノヨイヨイ) 晴れて添う日が 来るまでは(ヨイヨイ) 心一つ 身は二つ 離れ離れの 切なさに 夢でサマちゃんと 語りたい(サノヨイヨイ) より 改めて歌詞をみると、確かに一番以外はあんまり炭鉱のことでてきてないんです。 しかし、歌詞は地域や年代などによって異なります。 「ダイヤモンドが欲しいなら(ヨイヨイ)」というフレーズが入っているものが入っている炭坑節もあります。 全国に広まるうちに色々変化して行ったのでしょうか?不思議です。 また、三池炭鉱の部分は「うちのお山の上に出た」という歌詞のものもあります。 こちらは全国へ展開する上で伝わりやすくする為に変わったのでしょうか。 『炭坑節』には色々な種類がある 元々は労働歌として歌われていた炭坑節。 労働の種類や場所によって色々な唄があったそうです。 ゴットン節• 石刀唄• 南蛮唄• 選炭唄• 座敷唄 現在一般的に広まっているものは座敷唄が戦前にレコード化されたものでだそうです。 各地方の年配の方は座敷唄ではない炭坑節も歌えるらしいです。 まとめ:シンプルながらも奥の深さのある名曲『炭鉱節』 炭坑節、シンプルなメロディの中に歴史がたくさん詰まった奥深い曲です。 こうやって改めて調べてみると、やっぱり新発見が色々ありますね。 こういった部分に触れ、歴史を感じながら演奏したり踊ったりというのも非常に楽しいものですね!! 今年の夏は盆踊りで炭鉱節を踊ってみてはいかがでしょうか!! 引用・参考文献など•

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