鹿児島県屋久島の南方を航行中の いせ 基本情報 建造所 横浜工場 運用者 艦種 級名 建造費 975億円 母港 所属 第2護衛隊 艦歴 発注 起工 進水 就役 要目 13,950 19,000トン 197m 最大幅 33. 0m 深さ 22. 0m 7. の2番艦。 艦名はのに由来し、()に次いで二代目、海上自衛隊の護衛艦としては初代である。 艦歴 [ ] 「いせ」は、に基づく平成18年度計画13,500トン型ヘリコプター搭載護衛艦2320号艦として、横浜工場でに起工され、に同工場で挙行された命名・進水式において、により「いせ」と命名され、進水。 艦番号は当初DDH-146、建造番号2406号が与えられていたが、その後、艦番号がDDH-182、建造番号も2320号に変更された。 より第1回海上公試を開始する。 3月16日に就役し、第4護衛隊に編入された。 定係港は。 就役後は同基地を拠点として就役訓練が実施された。 艦名板は大宮司:の揮毫によるもので、木材はに使用されていたが使用された。 、を襲ったによる被害の救援のため、フィリピン国際緊急援助隊が編成され、輸送艦「」、補給艦「」と共に派遣された(「サンカイ(現地語で友達)作戦」)。 に呉を出港、にに到着 、救援物資輸送や医療、防疫活動を実施し、に帰国した。 、国際観艦式に参加し、その後までパダン周辺海空域で実施されるインドネシア海軍主催多国間共同訓練「コモド2016」に参加 、17日から19日までは、パダンから西部に至る海空域において米豪海軍とともに日米豪共同海外巡航訓練を実施した。 にはの港に寄港し、29日までと通信訓練を実施。 からまで、からに至る海空域でADMMプラス海洋安全保障実動訓練に参加する。 、2番艦「」就役による編成替えにより、第2護衛隊に編入され、定係港がに転籍。 同年~には日本列島南方海域で、「」やからなるとの共同訓練を実施(僚艦「」「」と約一週間ごとに交代)。 同年、において護衛艦「」及び「」とともに「ロナルド・レーガン」、「」、「」他、艦艇数隻と日米共同訓練を実施した。 から23日までの間、北部から周辺に至る海空域において米海軍空母「」他艦艇数隻と日米共同巡航訓練を実施した。 同年からまでの間、及び同島周辺海空域において実施される日米印共同訓練(マラバール2018)に参加する。 参加部隊は「いせ」の他、護衛艦「」、「」、搭載航空機5機、「」、哨戒機2機。 「いせ」は引き続きからまで実施される環太平洋合同演習(RIMPAC 2018)に参加した。 同年、5年ぶりに唐津港に入港した。 歓迎式には地元の区長などの関係者らが参加した。 2018年12月1日に鹿児島県屋久島の南方を航行中の護衛艦「いせ」は11月30日にイージス艦「こんごう」から転落、行方不明になっていた40代の男性1等海曹を発見し救助した。 同1曹は1日午前4時ごろ、屋久島の南方約50キロの海上をクーラーボックスのような漂流物にしがみついて漂っていたところを護衛艦「いせ」の乗組員に発見された。 命に別条はない。 6月3日から8月21日にかけてショールウォーターベイ演習場及び同周辺海域において実施される米軍との実動訓練(タリスマン・セイバー19)に司令の指揮により参加する。 海自からは他に輸送艦「」、からは及びが参加し、日米共同による着上陸及び陸上戦闘、共同巡航訓練等を実施する。 歴代艦長 [ ] 歴代艦長(特記ない限り) 代 氏名 在任期間 出身校・期 前職 後職 備考 艤装員長 - 星山良一 2009. 21 - 2011. 15 26期 司令部 いせ艦長 艦長 1 星山良一 2011. 16 - 2012. 31 防大26期 いせ艤装員長 呉海上訓練指導隊司令 2 梅崎時彦 2012. 1 - 2014. 20 防大29期 監察官 大湊海上訓練指導隊司令 3 藤原秀幸 2014. 21 - 2015. 2 防大33期 艦長 防衛部 第3幕僚室長 兼 第5幕僚室長 4 髙田昌樹 2015. 3 - 2018. 29 防大29期 司令 佐世保基地業務隊付 5 大森浩昭 2018. 30 - 2019. 12 防大35期 教育課研究室主任研究官 司令部勤務 6 飯ケ谷孝広 2019. 13 - 副長 ギャラリー [ ]• 2009年8月31日 「」• 2011年6月24日 海上自衛新聞「「いせ」に艦名板 伊勢神宮大宮司の揮毫で」• 米原子力空母と海自護衛艦訓練『』朝刊2017年9月23日• 2018年9月28日閲覧。 nikkansports. com. 2020年5月9日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - の1番艦。 後にに改装。 外部リンク [ ]• - (朝日新聞社提供、2013年5月24日公開).
次のページ番号1002560 更新日 令和2年6月13日 これまで3,000人が参加しています いくつになっても自分らしく生き生きとした生活を送るためには、健康を維持することが大切です。 伊勢市では、みなさんの健康づくりを応援するため、平成28年度より 「いせ健幸ポイント」を実施しています。 「いせ健幸ポイント」とは? お持ちのスマートフォンで指定のアプリを起動させて歩くことで、ポイントが貯まり好きな商品などと交換できる、健康と幸福を手に入れるプログラムです。 参加いただいた方は、最大2年間継続して取り組むことができます。 パソコンやスマートフォンなどで取り組み状況を確認したり、無理なく簡単に取り組めるため、自分のペースで継続することができます。 ポイントを貯めて、交換しよう! ポイントを貯める方法は全部で3つあります。 2年間で最大10,950円相当のポイントが貯まります。 獲得したポイントは 1ポイント0. 5円で換算され、「伊勢マイル」チャージ券やクオカードに交換したり、まちづくり協議会へ寄付することができます。 参加方法 お持ちのスマートフォンに市が指定するアプリをダウンロードし、歩数を記録、別途無料で配布するカードで体組成を測定します。 4期生募集開始! 応募は締め切りました! (注)応募方法は下記に記載の通り、パソコンまたはスマートフォンでの応募のみとなります。 電話やファクス等での応募はできません。 応募期間 令和2年5月18日(月曜)~ 令和2年6月12日(金曜)(必着) 定員 1,000名(応募者多数の場合は抽選) 対象 30歳以上の伊勢市民(令和2年度に30歳に到達する人も含む) 参加費 無料 参加条件• 過去参加者(1~3期生)でない(中途退会者も含む)• 30歳以上の伊勢市民(令和2年度に30歳に到達する人も含む)• 参加規約の同意 (ア)利用者基本情報や歩数管理サービスなどの利用登録 (イ)定期的なデータ送信を自身で行う (ウ)記録された歩数や体組成情報の分析への協力 (エ)アンケートへの協力• スマートフォンアプリの利用設定、操作を自身で行うこと。 応募方法 応募期間中に掲載される応募ページ(下記)から必要事項を入力、送信する。 応募の前にお持ちのスマートフォンがアプリの適合機種であるか、また実際に試用(無料)し、バッテリーの消費量や歩数のカウントなど、ご自分の生活に合ったものであるか十分に検討のうえ、応募されることをお勧めします。 アプリのダウンロードおよび利用設定など、スマートフォンの操作については、市役所では支援できませんので、ご自身で対応できる方のみご応募ください。 応募後の流れ 応募者多数の場合は応募期間終了後、抽選のうえ、参加者を決定します。 入力内容に不備があった場合のみ、応募後1週間以内にメールにて連絡させていただきます。 6月末頃に決定通知を郵送します。 参加決定の方には、• 参加者ID・パスワードはメールにて連絡します。 参加手引き、マニュアル等は郵送します。 準備が整ったら、7月から取り組み開始です! 歩いて元気!いせ健幸ポイント4期生募集(動画で紹介)•
次の生涯 [ ] 父とのヨーロッパ駐在 [ ] 1923年(12年)8月14日木下病院にとドイツ人エディータの一人娘として生まれ、1833番地()の借家に住んだ。 前年秋に両親がに参詣していたことから、いせと命名された。 幼少時から動物を好み 、将来は獣医を志望した。 1926年(大正15年)春、父の赴任に従い渡米し 、郊外チェルチェースに居住した。 在米大使次男二郎と親しくし、しばしば2人で地元紙の社交欄に取り上げられた。 1929年(4年)父が転勤を命じられ、一時に帰郷した後 、郊外に住み 、地元の公立小学校に通学しながら家庭教師にの授業を受けた。 1932年(昭和7年)2月参加のために転居し 、家庭教師ゲルバにドイツ語・算数・英会話を学んだ。 モロゾフ邸 1933年(昭和8年)1月帰国し 、広尾町15番地に住んだ。 ワシントン時代にはも話せていたが、この頃には完全に忘れており 、帰国子女を対象とした唯一の学校で英語で授業を受けたが、日本語が上達しないため、1935年(昭和10年)春頃退学し、清水鶴子を家庭教師として日本語・日本史を学んだ。 地下の東京スケート倶楽部に通い、・等とフィギュアスケートを習った。 1937年(昭和12年)父が在大使に任命され、12月24日ベルリンに移り 、 ()通りの大使公邸に居住した。 日本人学校に通って少人数授業を受ける傍ら、公園でスケートを習い 、後にタップダンスを習った。 1938年(昭和13年)10月29日父の在大使転任によりに移り 、 ()の ()に入居した。 17歳で外交団名簿に名前を載せて社交界にデビューすると、語学に堪能な年頃の女性として注目の的となった。 ・等で外交関係が緊迫する中 、特にドイツ大使館とは父から交渉上の言伝を頼まれるなどして親しく交流し 、大使 ()には離婚後別居中の一人娘の代わりとして寵愛され 、外交官フォン・ヘルベルトと夫人プッシー、フォン・ワルター等とも交流した。 1939年(昭和14年)ドイツ外相が調印のため来訪した際、ドイツ婦人誌『ディ・ダーメ』のグラビア取材を受けた。 文彦との結婚 [ ] 同年11月に帰国し 、19番地の借家に住みながら 、家庭教師に習字・花道を学んだ。 外交的な緊張が深まる中、の参事官、の一等書記官、ドイツの参事官・書記官、の書記官等と交流し、憲兵隊に外国人との交流を咎められたこともあった。 1941年(昭和16年)10月父の就任により記者対応等に奔走し 、三年町の官邸に入居した。 開戦後、松平次郎の母の誘いで赤十字に労働奉仕し、戦傷兵用の包帯巻きに従事した。 1942年(昭和17年)9月外相辞任により 麻布のフランス銀行家旧邸に移った。 父の秘書官の周旋でその部下と婚約し、1943年(昭和18年)11月15日結婚式を挙げたが、親族の一人が一人娘として家督放棄を承認せず、文彦が入婿となって結婚した。 空襲の危険が高まると、の別荘に拠点を移し、1945年(昭和20年)1月10日軽井沢病院で双子の男児を出産した。 父がとしてに収監されると、文通により日常生活を報告し合った。 1949年(昭和24年)7月8日で遺稿『時代の一面』第一部を受け取った。 同年父の獄死後、麻布の自邸はアメリカ人実業家に賃貸して近くに別の家を構え 、でアルバイトとして週2回ドイツ語会話を教えて家計を支えた。 夫との各国駐在 [ ] 1954年(昭和29年)4月夫が勤務を命じられ 、郊外に移ったが 、間もなく会議のためジュネーブに転居した。 1956年(昭和31年)加盟によりに出張し 、のホテルに住み、『』創業者夫人 ()等と交流した。 帰国後、父の東京裁判での弁護士の誘いで動物愛護協会理事を務め、会員・寄付金募集のためチャリティ音楽・映画会の開催を手伝った。 1960年(昭和35年)秋、夫の総領事赴任に従いに渡った。 1961年(昭和36年)・皇太子夫妻がインドに来訪し、 ()等を案内した。 『雷光の国』を通してに興味を持ち、パーティで ()首相と知り合うと、1962年(昭和37年)5月その招きで日本人女性として初めて入国し、で 、 ()国王夫妻と知り合った。 1963年(昭和38年)12月31日、夫のニューヨーク総領事任命により、郊外の総領事公邸に入居した。 1年後、イーストサイド ()角のペントハウスに移り 、ジェーン・グラント、、 ()、、 ()、 ()等の文化人と交流した。 とも知り合い、ドレスのデザインを一任した。 1970年(昭和45年)秋、夫の大使就任により、最中のに赴任した。 イギリス大使夫人の誘いで週に1度孤児院を訪れ、里親組織フォスター・ペアレンツに参加したほか 、アメリカ大使 ()等と交流した。 1972年(昭和47年)8月内命を受けて帰国した。 1974年(昭和49年)2月夫がに就任し、帰国する各国大使のためで送別昼食会を開き、新任大使のため行われる臨席の宮中午餐にも同席した。 同年6月ケサン皇后の招待で国王の戴冠式に列席したほか 、夫の・・・・・等への出張に同行した。 1976年(昭和51年)2月夫の就任によりワシントンD. を再訪した。 当初は ()の旧公邸に住み 、後にネプラスカ通りの新公邸に移り、ボランティア活動のため夫と舞踏会・カクテルパーティーを主催し、各州への講演旅行に同行した。 晩年 [ ] 1980年(昭和55年)3月任期終了により帰国し 、麻布の自邸を新築して住み 、欧米・・・インドを旅行した。 1985年(昭和60年)4月夫が死去すると、1987年(昭和62年)9月ケサン皇太后の招きで茂彦とブータンを再訪し 、 ()を見下ろす山腹に分骨した。 1989年(元年)2月23日、のため来日したワンチュク国王との自宅で再会した。 日米婦人会・アジア婦人会等で活動し、鹿児島県の元外相東郷茂徳記念館の設立にも関わった。 1997年(9年)7月31日午前4時15分、癌性により内の病院で死去し 、一種イ3号の両親の墓の隣に葬られた。 1999年(平成11年)2人の息子によりブータンの夫の墓の近くに分骨された。 演じた女優 [ ]• - 1994年(平成6年)8月15日ドラマ特別企画「命なりけり 悲劇の外相・東郷茂徳」 家族 [ ]• , p. , p. , p. , p. , p. 108. , p. 114. , p. , p. 117. , p. 123. , pp. 53-55. , p. , pp. 142-143. , p. 107. , pp. 143-145. , p. 165. , p. , p. , p. 179. , p. , pp. 208-210. 203. , pp. 205-206. , p. 100. , p. , p. 227. , pp. 230-231. , p. 241. , p. 243-244. , p. 259. , p. 316. , p. 122. , p. 309. , pp. 317-320. , p. 322. , pp. 458,463-466. , p. 485. , p. 143. 145. , p. 149. , p. 151. , p. 152. , p. 154. , p. 156. , p. 159. , p. 161. , pp. 165-167. , p. 173. , p. 174. , pp. 175-176. , p. 177. , p. 183. , p. 192. , p. 190. , p. 194. , pp. 194-195. , p. 197. , p. 196. , p. 199. , pp. 203-206. , p. 208. , p. 210. , p. 211. , p. 212. , p. , p. 189. 古崎康成. 2018年12月29日閲覧。 175. , p. 176. , p. 178. 参考文献 [ ]• 東郷いせ『色無花火 東郷茂徳の娘が語る「昭和」の記憶』、1991年7月。 東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』、1993年11月。 インタビュー/稲木紫織「日本の貴婦人 1 東郷いせ」『』第9巻第9号、、1992年9月。 Studienwerk Deutsches Leben in Ostasien eV STuDeO. 2018年12月25日閲覧。 2018年2月13日. ヒトラーと握手した少女 稲田悦子物語. note. 2016年5月4日閲覧。 1941年10月19日• 朝日新聞. 1989年2月28日. 1997年8月4日• Kuensel Corporation. 2016年3月26日. 外部リンク [ ]• - で日本研究所リチャード・ビアズリに案内を受ける文彦といせ.
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