あらたまっ けん ゆう 幼少 期。 最遊記の登場人物一覧

新田真剣佑の弟はゴードン!明誠学院高校でもイケメンと有名だった?

あらたまっ けん ゆう 幼少 期

氏名:新田 真剣佑(あらた まっけんゆう) 本名:前田 真剣佑(まえだ まっけんゆう) 生年月日:1996年11月16日 出身地:ロサンゼルス 身長:176cm 血液型:B型 趣味:映画鑑賞 特技:英語、水泳、乗馬、殺陣(たて)、空手、レスリング、ピアノ、フルート、アルトサックス、体操 2012年~ アメリカで俳優の仕事スタート 2014年~ 日本でも活動スタート 真剣佑から 「新田真剣佑」に 改名、大手芸能プロダクションのトップコートに移籍しています。 『真剣佑』って芸名かと思いきや、 本名なんですね! ビックリ! そして、この特技の多さは凄すぎ! スポーツも音楽も得意で、英語もできるって、 パーフェクトじゃないですか! これだけなんでもできたら、どんな役でもこなせちゃいそうですね。 新田真剣佑の代表作は? 映画「ちはやふる上の句」「ちはやふる下の句」は、共に 大ヒットでした。 これは、新田真剣佑さんが日本に来て間もない頃の、 思い出深い作品です。 ドラマ「仰げば尊し」(2016)では、不良グループのサブリーダー役で サックスの腕前も披露したかと思えば、舞台「花より男子The Musical」では、茶道家元の子息のプレイボーイ・西門総二郎を演じています。 映画 「ジョジョの奇妙な冒険」も、彼の 代表作ですね。 「荒木飛呂彦」の大ヒットコミックを実写化したこの映画は、主演の 「山崎賢人」さん、そして 「新田真剣佑」さんや 「神木隆之介」さん、 「小松那奈」さん、 「山田孝之」さんなど若手の実力派俳優が勢揃い! これは、間違いなく楽しめそうですね。 2018年にはハリウッド映画や「ちはやふる結び」も公開予定。 さらに、岸谷五朗さん作・演出の舞台「地球ゴージャスプロデュース公演vol. 15」にも出演決定と、いろんな場で大活躍。 スポンサーリンク 新田真剣佑の父と母は?本人に子供がいると噂は本当? 父親は、俳優の 『千葉真一』さん。 千葉真一さんといえば、かつて「野際陽子」さんと結婚・離婚していますが、「野際陽子」さんとの間に生まれた子供ではないようです。 千葉真一さんが再婚した 『玉美』さんが、真剣佑さんの 母親です。 元芸妓さんで、千葉真一さんの28歳年下とのこと。 2015年に離婚しているので、千葉真一さんは恋多き男性のよう…。 「真実の剣をもって人の右に出てほしい」 という想いを込めて、真剣佑と名付けたとか。 最初、この名前、なんて読むんだろ…と思った人は多いのではないでしょうか? 私は、てっきり、「しんけんゆう」かと思ってました…。 今回改名したのは、父親の千葉真一さんから独立したかったからという 噂もありますが、真相はどうなんでしょうか? 特技の多さからもわかるように、きっと幼少期からいろんな習い事をしていたのでしょう。 そして、千葉真一さんは息子の真剣佑さんとの共演をしたがっているそう。 そして、 新田真剣佑さん自身にも、 子供がいるそう(驚)。 なんでも、アメリカに住んでいたとき、14歳のとき年上女性との間にできた子供だとか。 って、まだ当時、真剣佑さん、 中学生ですよね!! 日本だと、ちょっとしたというかかなりの騒ぎになりそうです。 ただ、真剣佑さんは認知しておらず、その女性は真剣佑の子供も育てているそう。 新田真剣佑のプライベートは? 映画「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章」で共演した 「山崎賢人」さん、 「神木隆之介」さんと、 仲良し。 一緒にいて気を遣わず楽しいそう。 山崎賢人さんの家に一週間くらい泊まりにいくこともあるとか。 ロケ先のバルセロナでも3人一緒に過ごし、誕生日もバルセロナで2人にお祝いしてもらったほど。 これだけ イケメンだったら 彼女の噂も色々と聞こえてきそうですが、そういった情報がないんですよね~。 バラエティー番組に出演するときも、 自分からたくさん話すキャラではなく、天然のキャラでちょっと 不思議ちゃん系。 口数もあまり多くないので、プライベートも 謎に包まれているのです。 でも、バラエティーにも慣れてくると、彼もより自分を出せるようになるのかも? 日々どんな生活を送っているのか興味津々な人は、きっと多いはず。 ということで…。 小出しでいいので(笑)色々と話してくれるとファン一同嬉しいです~! 最後にまとめ いかがでしたか? 新田真剣佑さんについて簡単にまとめると.

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夜尿症で悩んでいます。20代女性です。幼少期のおねしょはほと...

あらたまっ けん ゆう 幼少 期

私は、元来、少年小説を書くのが好きである。 大人 ( おとな )の世界にあるような、 きゅうくつな 概念 ( がいねん )にとらわれないでいいからだ。 少年小説を書いている間は、自分もまったく、 童心 ( どうしん )のむかしに返る、少年の気もちになりきッてしまう。 ああ少年の日。 一生のうちの、 尊 ( とうと )い季節だ。 この小説は、わたくしが少年へ書いた長編の最初のもので、また、いちばん長いものである。 諸君の楽しい季節のために、この書が諸君の 退屈 ( たいくつ )な雨の日や、 淋 ( さび )しい夜の友になりうればと思い、自分も好きなまま、つい、こんなに長く書いてしまったものである。 いまの日本は、大人の世界でも、子どもの天地でも、心に楽しむものが少ない。 だが、少年の日の夢は、 痩 ( や )せさせてはいけない。 少年の日の自然な空想は、いわば少年の 花園 ( はなぞの )だ。 昔にも、今にも、将来へも、つばさをひろげて、遊びまわるべきである。 この書は、過去の 伝奇 ( でんき )と歴史とを、わたくしの夢のまま書いたものだが、過去にも、今と比較して、考えていいところは 多分 ( たぶん )にある。 悪いところは反省し、よいところは知るべきだと思う。 その意味で、 鞍馬 ( くらま )の 竹童 ( ちくどう )も、泣き虫の 蛾次郎 ( がじろう )も、諸君の友だち仲間へ入れておいてくれ給え。 時代はちがうが、よく見てみたまえ、諸君の友だち仲間の 腕白 ( わんぱく )にも、竹童もいれば、蛾次郎もいるだろう。 大人 ( おとな )についても、同じことがいえる。 以前 ( いぜん )、これが「少年倶楽部」に連載されていた当時の愛読者は、 成人 ( せいじん )して、今日では政治家になったり、実業家になったり、文化人になったりして、みな社会の一線に立っている。 諸君のお父さんや兄さんのうちにも、その頃の愛読者がたくさんおられることと思う。 もし諸君がこの 書 ( しょ )を手にしたら、諸君の 父兄 ( ふけい )やおじさんたちにも、見せて上げてもらいたい。 そして、著者の 言伝 ( ことづ )てを、おつたえして欲しい。 わたくしは健在です、と。 そして、いまの少年も、また天馬侠を読むようになりました、と。 朱 ( しゅ )の 椅子 ( いす )によって、しずかな 藤波 ( ふじなみ )へ、目をふさいでいた 快川和尚 ( かいせんおしょう )は、ふと、風のたえまに流れてくる、 法螺 ( ほら )の 遠音 ( とおね )や 陣鉦 ( じんがね )のひびきに、ふっさりした 銀 ( ぎん )の 眉毛 ( まゆげ )をかすかにあげた。 その時、 長廊下 ( ながろうか )をどたどたと、かけまろんできたひとりの 弟子 ( でし )は、まっさおな 面 ( おもて )をぺたりと、そこへ 伏 ( ふ )せて、 「おッ。 お 師 ( し )さま! た、 大変 ( たいへん )なことになりました。 あアおそろしい、…… 一大事 ( いちだいじ )でござります」 と 舌 ( した )をわななかせて 告 ( つ )げた。 「しずかにおしなさい」 と、 快川 ( かいせん )は、たしなめた。 織田 ( おだ )どのの 軍勢 ( ぐんぜい )が、いよいよ 此寺 ( ここ )へ押しよせてきたのであろう」 「そ、そうです! いそいで 鐘楼 ( しょうろう )へかけのぼって見ましたら、森も野も 畠 ( はたけ )も、 軍兵 ( ぐんぴょう )の 旗指物 ( はたさしもの )でうまっていました。 あア、もうあのとおり、軍馬の 蹄 ( ひづめ )まで聞えてまいります……」 いいもおわらぬうちだった。 うら山の 断崖 ( だんがい )から 藤 ( ふじ )だなの根もとへ、どどどどと、土けむりをあげて落ちてきた者がある。 ふたりはハッとして顔をむけると、ふんぷんとゆれ散った 藤 ( ふじ )の花をあびて 鎧櫃 ( よろいびつ )をせおった血まみれな 武士 ( ぶし )が、 気息 ( きそく )もえんえんとして、 庭 ( にわ )さきに 倒 ( たお )れているのだ。 「や、 巨摩左文次 ( こまさもんじ )どのじゃ。 これ、はやく 背 ( せ )のものをおろして、水をあげい、水を」 「はッ」と 弟子僧 ( でしそう )ははだしでとびおりた。 鎧櫃をとって泉水の水をふくませた。 武士は、気がついて 快川 ( かいせん )のすがたをあおぐと、 「お! 国師 ( こくし )さま」と、大地へ 両手 ( りょうて )をついた。 「巨摩どの、さいごの 便 ( たよ )りをお待ちしていましたぞ。 ご一門はどうなされた」 「はい……」左文次はハラハラと 涙 ( なみだ )をこぼして、 「ざんねんながら、 新府 ( しんぷ )のお 館 ( やかた )はまたたくまに 落城 ( らくじょう )です。 火の手をうしろに、主君の 勝頼公 ( かつよりこう )をはじめ、 御台 ( みだい )さま、 太郎君 ( たろうぎみ )さま、一門のこり少なの人数をひきいて、 天目山 ( てんもくざん )のふもとまで落ちていきましたが、目にあまる 織田 ( おだ ) 徳川 ( とくがわ )の両軍におしつつまれ、みな、はなばなしく 討死 ( うちじに )あそばすやら、さ、 刺 ( さ )しちがえてご 最期 ( さいご )あるやら……」 と 左文次 ( さもんじ )のこえは涙にかすれる。 「おお、 殿 ( との )もご夫人もな……」 「まだおん年も十六の太郎 信勝 ( のぶかつ )さままで、一きわすぐれた目ざましいお 討死 ( うちじに )でござりました」 「時とはいいながら、 信玄公 ( しんげんこう )のみ 代 ( よ )まで、 敵 ( てき )に一歩も 領土 ( りょうど )をふませなかったこの 甲斐 ( かい )の国もほろびたか……」 と 快川 ( かいせん )は、しばらく 暗然 ( あんぜん )としていたが、 「して、勝頼公の最期のおことばは?」 「これに持ちました 武田家 ( たけだけ )の 宝物 ( ほうもつ )、 御旗 ( みはた ) 楯無 ( たてなし ) (旗と鎧)の二 品 ( しな )を、さきごろからこのお寺のうちへおかくまいくだされてある、 伊那丸 ( いなまる )さまへわたせよとのおおせにござりました」 そこへまた、二、三人の 弟子僧 ( でしそう )が、色を失ってかけてきた。 「お 師 ( し )さま! 信長公 ( のぶながこう )の家臣が三人ほど、ただいま、ご本堂から 土足 ( どそく )でこれへかけあがってまいりますぞ」 「や、敵が?」 と 巨摩左文次 ( こまさもんじ )は、すぐ、 陣刀 ( じんとう )の 柄 ( つか )をにぎった。 快川 ( かいせん )は落ちつきはらって、それを手でせいしながら、 「あいや、そこもとは、しばらくそこへ……」 と 床下 ( ゆかした )をゆびさした。 急なので、左文次も、 宝物 ( ほうもつ )をかかえたまま、 縁 ( えん )の下へ身をひそめた。 と、すぐに 廊下 ( ろうか )をふみ鳴らしてきた三人の 武者 ( むしゃ )がある。 いずれも、あざやかな 陣羽織 ( じんばおり )を着、 大刀 ( だいとう )の 反 ( そ )りうたせていた。 眼 ( まなこ )をいからせながら、きッとこなたにむかって、 「 国師 ( こくし )ッ!」 と、するどく 呼 ( よ )びかけた。 天正 ( てんしょう )十年の春も早くから、 木曾口 ( きそぐち )、 信濃口 ( しなのぐち )、 駿河口 ( するがぐち )の八ぽうから、 甲斐 ( かい )の 盆地 ( ぼんち )へさかおとしに攻めこんだ 織田 ( おだ ) 徳川 ( とくがわ )の 連合軍 ( れんごうぐん )は、 野火 ( のび )のようないきおいで、 武田勝頼 ( たけだかつより )父子、 典厩信豊 ( てんきゅうのぶとよ )、その他の一族を、 新府城 ( しんぷじょう )から 天目山 ( てんもくざん )へ追いつめて、ひとりのこさず 討 ( う )ちとってしまえと、きびしい 軍令 ( ぐんれい )のもとに、 残党 ( ざんとう )を 狩 ( か )りたてていた。 その結果、 信玄 ( しんげん )が 建立 ( こんりゅう )した 恵林寺 ( えりんじ )のなかに、 武田 ( たけだ )の客分、 佐々木承禎 ( ささきじょうてい )、 三井寺 ( みいでら )の上福院、 大和淡路守 ( やまとあわじのかみ )の三人がかくれていることをつきとめたので、使者をたてて、 落人 ( おちゅうど )どもをわたせと、いくたびも 談判 ( だんぱん )にきた。 しかし、長老の 快川国師 ( かいせんこくし )は、 故信玄 ( こしんげん )の 恩 ( おん )にかんじて、 断乎 ( だんこ )として、 織田 ( おだ )の要求をつっぱねたうえに、ひそかに三人を 逃 ( の )がしてしまった。 織田 ( おだ )の 間者 ( かんじゃ )は、夜となく昼となく、 恵林寺 ( えりんじ )の内外をうかがっていた。 快川 ( かいせん )は、それと知っていながら、ゆったりと、 朱 ( しゅ )の 椅子 ( いす )から立ちもせずに、三人の武将をながめた。 「また、 織田 ( おだ )どのからのお使者ですかな」 と、しずかにいった。 「知れたことだ」となかのひとりが一歩すすんで、 「 国師 ( こくし )ッ、この 寺内 ( じない )に 信玄 ( しんげん )の孫、伊那丸をかくまっているというたしかな 訴人 ( そにん )があった。 縄 ( なわ )をうってさしだせばよし、さもなくば、寺もろとも、 焼 ( や )きつくして、みな殺しにせよ、という 厳命 ( げんめい )であるぞ。 胆 ( きも )をすえて 返辞 ( へんじ )をせい」 「返辞はない。 ふところにはいった 窮鳥 ( きゅうちょう )をむごい 猟師 ( りょうし )の手にわたすわけにはゆかぬ」 と快川のこえはすんでいた。 「よしッ」 「おぼえておれ」と三人の武将は荒々しくひッ返した。 そのうしろ 姿 ( すがた )を見おくると、 快川 ( かいせん )ははじめて、 椅子 ( いす )をはなれ、 「 左文次 ( さもんじ )どの、おでなさい」 と 合図 ( あいず )をしたうえ、さらに 奥 ( おく )へむかって、声をつづけた。 「 忍剣 ( にんけん )! 忍剣!」 呼ぶよりはやく、おうと、そこへあらわれた骨たくましいひとりの 若僧 ( わかそう )がある。 若僧は、 白綸子 ( しろりんず )にむらさきの 袴 ( はかま )をつけた十四、五 歳 ( さい )の 伊那丸 ( いなまる )を、そこへつれてきて、ひざまずいた。 「この寺へもいよいよ最後の時がきた。 お 傅役 ( もりやく )のそちは一命にかえても、若君を安らかな地へ、お落としもうしあげねばならぬ」 「はッ」 と、 忍剣 ( にんけん )は 奥 ( おく )へとってかえして、鉄の 禅杖 ( ぜんじょう )をこわきにかかえてきた。 背には 左文次 ( さもんじ )がもたらした 武田家 ( たけだけ )の 宝物 ( ほうもつ )、 御旗 ( みはた ) 楯無 ( たてなし )の 櫃 ( ひつ )をせおって、うら庭づたいに、 扇山 ( せんざん )へとよじのぼっていった。 ワーッという 鬨 ( とき )の声は、もう山門ちかくまで聞えてきた。 寺内は、 本堂 ( ほんどう )といわず、 廻廊 ( かいろう )といわずうろたえさわぐ人々の声でたちまち 修羅 ( しゅら )となった。 白羽 ( しらは ) 黒羽 ( くろは )の矢は、 疾風 ( はやて )のように、バラバラと、庭さきや本堂の 障子襖 ( しょうじぶすま )へおちてきた。 「さわぐな、うろたえるな! 大衆 ( だいしゅ )は山門におのぼりめされ。 わしについて、 楼門 ( ろうもん )の上へのぼるがよい」 と 快川 ( かいせん )は、 伊那丸 ( いなまる )の落ちたのを見とどけてから、やおら、 払子 ( ほっす )を 衣 ( ころも )の 袖 ( そで )にいだきながら、 恵林寺 ( えりんじ )の 楼門 ( ろうもん )へしずかにのぼっていった。 寄手 ( よせて )の軍兵は、山門の下へどッとよせてきて、 「一 山 ( ざん )の者どもは、みな山門へのぼったぞ、下から焼きころして、のちの者の、見せしめとしてくれよう」 と、うずたかく 枯 ( か )れ草をつんで、ぱッと火をはなった。 みるまに、 渦 ( うず )まく煙は楼門をつつみ、 紅蓮 ( ぐれん )の 炎 ( ほのお )は、百千の 火龍 ( かりゅう )となって、メラメラともえあがった。 楼上 ( ろうじょう )の大衆は、たがいにだきあって、熱苦のさけびをあげて 伏 ( ふ )しまろんだ。 「おお! 伊那丸 ( いなまる )さま。 あれをごらんなされませ。 すさまじい火の手があがりましたぞ」 源次郎岳 ( げんじろうだけ )の山道までおちのびてきた 忍剣 ( にんけん )は、はるかな火の海をふりむいて、 涙 ( なみだ )をうかべた。 「 国師 ( こくし )さまも、あの 焔 ( ほのお )の底で、ご 最期 ( さいご )になったのであろうか、忍剣よ、わしは悲しい……」 伊那丸 ( いなまる )は、遠くへ向かって 掌 ( て )を合わせた。 空をやく焔は、かれのひとみに、 生涯 ( しょうがい )わすれぬものとなるまでやきついた。 すると、不意だった。 いきなり、耳をつんざく 呼子 ( よびこ )の 音 ( ね )が、するどく、頭の上で鳴ったと思うと、かなたの岩かげ、こなたの谷間から、 槍 ( やり )や 陣刀 ( じんとう )をきらめかせて、おどり立ってくる、数十人の 伏勢 ( ふせぜい )があった。 それは 徳川方 ( とくがわがた )の手のもので、 酒井 ( さかい )の 黒具足組 ( くろぐそくぐみ )とみえた。 忍剣は、すばやく伊那丸を岩かげにかくして、じぶんは、 鉄杖 ( てつじょう )をこわきにしごいて、敵を待った。 「それッ、武田の 落人 ( おちゅうど )にそういない。 討 ( う )てッ」 と呼子をふいた黒具足の 部将 ( ぶしょう )は、ひらりと、岩上からとびおりて 号令 ( ごうれい )した。 下からは、 槍 ( やり )をならべた一隊がせまり、そのなかなる、まッ先のひとりは、流星のごとく忍剣の 脾腹 ( ひばら )をねらって、 槍 ( やり )をくりだした。 「おうッ」と力をふりしぼって、忍剣の手からのびた四 尺 ( しゃく ) 余寸 ( よすん )の鉄杖が、パシリーッと、槍の千 段 ( だん )を二つにおって、天空へまきあげた。 「 払 ( はら )え!」と呼子をふいた部将が、またどなった。 バラバラとみだれる 穂 ( ほ )すすきの 槍 ( やり )ぶすまも、 忍剣 ( にんけん )が、自由自在にふりまわす鉄杖にあたるが最後だった。 藁 ( わら )か 棒切 ( ぼうき )れのように飛ばされて、見るまに、七人十人と、 朱 ( あけ )をちらして 岩角 ( いわかど )からすべり落ちる。 ワーッという声のなだれ、かかれ、かかれと、ののしる 叫 ( さけ )び。 すさまじい山つなみは、よせつかえしつ、満山を血しぶきに 染 ( そ )める。 一 介 ( かい )の 若僧 ( わかそう )にすぎない忍剣のこの手なみに、さすがの 黒具足組 ( くろぐそくぐみ )も 胆 ( きも )をひやした。 忍剣はもと、 今川義元 ( いまがわよしもと )の 幕下 ( ばっか )で、海道一のもののふといわれた、 加賀見能登守 ( かがみのとのかみ )その人の 遺子 ( わすれがたみ )であるのだ。 かれの天性の怪力は、父能登守のそれ以上で、幼少から、 快川和尚 ( かいせんおしょう )に 胆力 ( たんりょく )をつちかわれ、さらに 天稟 ( てんぴん )の武勇と血と涙とを、若い五体にみなぎらせている 熱血児 ( ねっけつじ )である。 あの眼のたかい快川和尚が、一 山 ( ざん )のなかからえりすぐって、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )と 御旗 ( みはた ) 楯無 ( たてなし )の 宝物 ( ほうもつ )を 托 ( たく )したのは、よほどの人物と見ぬいたればこそであろう。 新羅三郎 ( しんらさぶろう )以来二十六 世 ( せい )をへて、四 隣 ( りん )に 武威 ( ぶい )をかがやかした 武田 ( たけだ )の 領土 ( りょうど )は、いまや、 織田 ( おだ )と 徳川 ( とくがわ )の軍馬に 蹂躪 ( じゅうりん )されて、 焦土 ( しょうど )となってしまった。 しかも、その武田の血をうけたものは、世の中にこの 伊那丸 ( いなまる )ひとりきりとなったのだ。 焦土のあとに、たった 一粒 ( ひとつぶ )のこった 胚子 ( たね )である。 この一粒の胚子に、ふたたび 甲斐源氏 ( かいげんじ )の花が咲くか咲かないか、忍剣の責任は大きい。 また、伊那丸の宿命もよういではない。 世は戦国である。 残虐 ( ざんぎゃく )をものともしない天下の弓取りたちは、この一粒の胚子をすら、 芽 ( め )をださせまいとして前途に、あらゆる毒手をふるってくるにちがいない。 すでに、その第一の危難は眼前にふってわいた。 忍剣 ( にんけん )は 鉄杖 ( てつじょう )を 縦横 ( じゅうおう )むじんにふりまわして、やっと 黒具足組 ( くろぐそくぐみ )をおいちらしたが、ふと気がつくと、 伊那丸 ( いなまる )をのこしてきた場所から大分はなれてきたので、いそいでもとのところへかけあがってくると、 南無三 ( なむさん )、 呼子 ( よびこ )をふいた部将が 抜刀 ( ばっとう )をさげて、あっちこっちの 岩穴 ( いわあな )をのぞきまわっている。 「おのれッ」と、かれは身をとばして、一 撃 ( げき )を加えたが敵もひらりと身をかわして、 「 坊主 ( ぼうず )ッ、 徳川家 ( とくがわけ )にくだって伊那丸をわたしてしまえ、さすればよいように取りなしてやる」 と、 甘言 ( かんげん )の 餌 ( え )をにおわせながら、 陣刀 ( じんとう )をふりかぶった。 「けがらわしい」 忍剣は、鉄杖をしごいた。 らんらんとかがやく 眸 ( ひとみ )は、相手の精気をすって、一歩、でるが早いか、敵の 脳骨 ( のうこつ )はみじんと見えた。 そのすきに、忍剣のうしろに身ぢかくせまって、 片膝 ( かたひざ )おりに、 種子島 ( たねがしま )の 銃口 ( じゅうこう )をねらいつけた者がある。 かれがふりこんだ鉄杖は、相手の陣刀をはらい落としていた。 二どめに、ズーンとそれが 横薙 ( よこな )ぎにのびたとおもうと、わッと、 部将 ( ぶしょう )は血へどをはいてぶったおれた。 刹那 ( せつな )だ。 はて? と 眸 ( ひとみ )をさだめてみると、その 脾腹 ( ひばら )へうしろ抱きに 脇差 ( わきざし )をつきたてていたのは、いつのまに飛びよっていたか 武田伊那丸 ( たけだいなまる )であった。 「お、若さま!」 忍剣は、あまりなかれの 大胆 ( だいたん )と 手練 ( しゅれん )に目をみはった。 「忍剣、そちのうしろから、 鉄砲 ( てっぽう )をむけた 卑怯者 ( ひきょうもの )があったによって、わしが、このとおりにしたぞ」 伊那丸は、 笑顔 ( えがお )でいった。 木 ( こ )の 実 ( み )をたべたり、小鳥を 捕 ( と )って 飢 ( う )えをしのいだ。 百日あまりも、 釈迦 ( しゃか )ヶ 岳 ( たけ )の山中にかくれていた 忍剣 ( にんけん )と 伊那丸 ( いなまる )は、もう 甲州 ( こうしゅう )攻めの軍勢も引きあげたころであろうと 駿河路 ( するがじ )へ立っていった。 峠々 ( とうげとうげ )には、 徳川家 ( とくがわけ )のきびしい 関所 ( せきしょ )があって、ふたりの 詮議 ( せんぎ )は、 厳密 ( げんみつ )をきわめている。 そればかりか、 織田 ( おだ )の 領地 ( りょうち )のほうでは、 伊那丸 ( いなまる )をからめてきた者には、五百 貫 ( かん )の 恩賞 ( おんしょう )をあたえるという 高札 ( こうさつ )がいたるところに立っているといううわさである。 さすがの 忍剣 ( にんけん )も、はたととほうにくれてしまった。 きのうまでは、 甲山 ( こうざん )の軍神といわれた、 信玄 ( しんげん )の孫伊那丸も、いまは 雨露 ( うろ )によごれた 小袖 ( こそで )の着がえもなかった。 足は 茨 ( いばら )にさかれて、みじめに血がにじんでいた。 それでも、伊那丸は悲しい顔はしなかった。 幼少からうけた 快川和尚 ( かいせんおしょう )の 訓育 ( くんいく )と、祖父 信玄 ( しんげん )の血は、この少年のどこかに流れつたわっていた。 「若さま、このうえはいたしかたがありませぬ。 相模 ( さがみ )の 叔父 ( おじ )さまのところへまいって、時節のくるまでおすがりいたすことにしましょう」 かれは、伊那丸のいじらしい 姿 ( すがた )をみると、はらわたをかきむしられる気がする。 で、ついに最後の考えをいいだした。 「 小田原城 ( おだわらじょう )の 北条氏政 ( ほうじょううじまさ )どのは、若さまにとっては、 叔父君 ( おじぎみ )にあたるかたです。 北条 ( ほうじょう )どのへ身をよせれば、 織田家 ( おだけ )も 徳川家 ( とくがわけ )も手はだせませぬ」 が、 富士 ( ふじ )の 裾野 ( すその )を 迂回 ( うかい )して、 相模 ( さがみ )ざかいへくると、無情な 北条家 ( ほうじょうけ )ではおなじように、 関所 ( せきしょ )をもうけて、 武田 ( たけだ )の 落武者 ( おちむしゃ )がきたら片ッぱしから追いかえせよ、と厳命してあった。 叔父 ( おじ )であろうが、 肉親 ( にくしん )であろうが、 亡国 ( ぼうこく )の血すじのものとなれば、よせつけないのが戦国のならいだ。 忍剣もうらみをのんでふたたびどこかの山奥へもどるより 術 ( すべ )がなかった。 今はまったく 袋 ( ふくろ )のねずみとなって、西へも東へもでる道はない。 ゆうべは、 裾野 ( すその )の青すすきを ふすまとして 寝 ( ね )、けさはまだ 霧 ( きり )の深いころから、どこへというあてもなく、とぼとぼと歩きだした。 やがてその日もまた夕暮れになってひとつの大きな 湖水 ( こすい )のほとりへでた。 このへんは、富士の五 湖 ( こ )といわれて、湖水の多いところだった。 みると 汀 ( なぎさ )にちかく、 白旗 ( しらはた )の宮と 額 ( がく )をあげた小さな 祠 ( ほこら )があった。 「白旗の宮? ……」と 忍剣 ( にんけん )は見あげて、 「オオ、 甲斐 ( かい )も 源氏 ( げんじ )、白旗といえば、これは 縁 ( えん )のある 祠 ( ほこら )です。 若さましばらく、ここでやすんでまいりましょうに……」 と、縁へ腰をおろした。 「いや、わしは身軽でつかれはしない。 おまえこそ、その 鎧櫃 ( よろいびつ )をしょっているので、ながい道には、くたびれがますであろう」 「なんの、これしきの物は、忍剣の骨にこたえはいたしませぬ。 ただ、大せつなご 宝物 ( ほうもつ )ですから、まんいちのことがあってはならぬと、その気づかいだけです」 「そうじゃ。 それは 物騒千万 ( ぶっそうせんばん )です」 「いや、あずけるというても、 御堂 ( みどう )のなかへおくのではない。 この湖水のそこへ 沈 ( しず )めておくのだ。 ちょうどここにある宮の 石櫃 ( いしびつ )、これへ入れかえて、沈めておけば安心なものではないか」 「は、なるほど」と、 忍剣 ( にんけん )も、 伊那丸 ( いなまる )の 機智 ( きち )にかんじた。 ふたりはすぐ 祠 ( ほこら )にあった石櫃へ、宝物をいれかえ一 滴 ( てき )の水もしみこまぬようにして、岸にあった丸木のくりぬき舟にそれをのせて、忍剣がひとりで、 棹 ( さお )をあやつりながら湖の中央へと舟をすすめていった。 伊那丸は 陸 ( おか )にのこって、 岸 ( きし )から小舟を見おくっていた。 あかい 夕陽 ( ゆうひ )は、きらきらと水面を 射 ( い )かえして、舟はだんだんと湖心へむかって小さくなった。 どこから 射出 ( いだ )したのか、一本の 白羽 ( しらは )の矢が湖心の忍剣をねらって、ヒュッと飛んでいったのであった。 さッと湖心には水けむりがあがった。 その一しゅん、舟も忍剣も石櫃も、たちまち湖水の波にそのすがたを没してしまった。 「ややッ」 おどろきのあまり、われを 忘 ( わす )れて、 伊那丸 ( いなまる )が水ぎわまでかけだしたときである。 「 小童 ( こわっぱ )、うごくと 命 ( いのち )がないぞ」 ずるずると、引きもどされた伊那丸は、声もたて 得 ( え )なかった。 だが、とっさに、 片膝 ( かたひざ )をおとして、腰の 小太刀 ( こだち )をぬき打ちに、相手の 腕根 ( うでね )を 斬 ( き )りあげた。 「や、こいつが」と、不意をくった男は手をはなして飛びのいた。 「だれだッ。 あなたに立った大男はひとりではなかった。 そろいもそろった荒くれ男ばかりが十四、五人、 蔓巻 ( つるまき )の 大刀 ( だいとう )に、 革 ( かわ )の 胴服 ( どうふく )を着たのもあれば、 小具足 ( こぐそく )や、むかばきなどをはいた者もあった。 いうまでもなく、 乱世 ( らんせい )の 裏 ( うら )におどる 野武士 ( のぶし )の 群団 ( ぐんだん )である。 「見ろ、おい」と、ひとりが伊那丸をきッとみて、 「 綸子 ( りんず )の 小袖 ( こそで )に 菱 ( ひし )の 紋 ( もん )だ。 武田伊那丸 ( たけだいなまる )というやつに 相違 ( そうい )ないぜ」と、いった。 「うむ、ふんじばって 織田家 ( おだけ )へわたせば、 莫大 ( ばくだい )な 恩賞 ( おんしょう )がある、うまいやつがひッかかった」 「やいッ、伊那丸。 われわれは富士の 人穴 ( ひとあな )を 砦 ( とりで )としている 山大名 ( やまだいみょう )の一手だ。 てめえの道づれは、あのとおり、湖水のまンなかで 水葬式 ( みずそうしき )にしてくれたから、もう逃げようとて、逃げるみちはない、すなおにおれたちについてこい」 「や、では 忍剣 ( にんけん )に矢を 射 ( い )たのも、そちたちか」 「忍剣かなにか知らねえが、いまごろは、 山椒 ( さんしょう )の魚の 餌食 ( えじき )になっているだろう」 「この 土蜘蛛 ( つちぐも )……」 伊那丸は、くやしげに 唇 ( くちびる )をかんで、にぎりしめていた 小太刀 ( こだち )の先をふるわせた。 「さッ、こなけりゃふんじばるぞ」 と、 野武士 ( のぶし )たちは、かれを少年とあなどって、不用意にすすみでたところを、伊那丸は、おどりあがって、 「おのれッ」 といいざま、 真眉間 ( まみけん )をわりつけた。 野武士 ( のぶし )どもは、それッと、 大刀 ( だいとう )をぬきつれて、前後からおッとりかこむ。 武技 ( ぶぎ )にかけては、 躑躅 ( つつじ )ヶ崎の 館 ( やかた )にいたころから、多くの達人やつわものたちに手をとられて、ふしぎな 天才児 ( てんさいじ )とまで、おどろかれた 伊那丸 ( いなまる )である。 からだは小さいが、 太刀 ( たち )は短いが、たちまちひとりふたりを 斬 ( き )ってふせた早わざは飛鳥のようだった。 「この 童 ( わっぱ )め、 味 ( あじ )をやるぞ、ゆだんするな」 と、 野武士 ( のぶし )たちは白刃の 鉄壁 ( てっぺき )をつくってせまる。 その剣光のあいだに、小太刀ひとつを身のまもりとして、 斬 ( き )りむすび、飛びかわしする伊那丸のすがたは、あたかも 嵐 ( あらし )のなかにもまれる 蝶 ( ちょう )か千鳥のようであった。 しかし時のたつほど疲れはでてくる。 息 ( いき )はきれる。 「そうだ、こんな名もない 土賊 ( どぞく )どもと、 斬 ( き )りむすぶのはあやまりだ。 じぶんは 武田家 ( たけだけ )の一粒としてのこった大せつな身だ。 「のがすなッ」 と野武士たちも風をついて追いまくってくる。 伊那丸は 芦 ( あし )の 洲 ( す )からかけあがって、松並木へはしった。 ピュッピュッという矢のうなりが、かれの耳をかすって飛んだ。 夕闇 ( ゆうやみ )がせまってきたので、足もともほの暗くなったが松並木へでた伊那丸は、けんめいに二町ばかりかけだした。 と、これはどうであろう、前面の道は 八重十文字 ( やえじゅうもんじ )に、 藤 ( ふじ )づるの 縄 ( なわ )がはってあって、かれのちいさな身でもくぐりぬけるすきもない。 「しまった」と 伊那丸 ( いなまる )はすぐ横の小道へそれていったが、そこにも 茨 ( いばら )のふさぎができていたので、さらに道をまがると 藤 ( ふじ )づるの 縄 ( なわ )がある。 折れてもまがっても抜けられる道はないのだ。 身に 翼 ( つばさ )でもないかぎりは、この 罠 ( わな )からのがれることはできない。 「そうだ、野武士らの手から、 織田家 ( おだけ )へ売られて名をはずかしめるよりは、いさぎよく 自害 ( じがい )しよう」 と、かれは覚悟をきめたとみえて、うすぐらい林のなかにすわりこんで、 脇差 ( わきざし )を右手にぬいた。 切っさきを 袂 ( たもと )にくるんで、あわや身につきたてようとしたときである。 ブーンと、飛んできた 分銅 ( ふんどう )が、カラッと刀の 鍔 ( つば )へまきついた。 や? とおどろくうちに、刀は手からうばわれて、スルスルと 梢 ( こずえ )の空へまきあげられていく。 「ふしぎな」と立ちあがったとたん、伊那丸は、ドンとあおむけにたおれた。 そしてそのからだはいつのまにか 罠 ( わな )なわのなかにつつみこまれて、小鳥のようにもがいていた。 すると、いままで鳴りをしずめていた野武士が、八ぽうからすがたをあらわして、たちまち伊那丸をまりのごとくにしばりあげて、そこから 富士 ( ふじ )の 裾野 ( すその )へさして追いたてていった。 幾里 ( いくり )も幾里ものあいだ、ただいちめんに青すすきの波である。 その一すじの道を、まッくろな一 群 ( ぐん )の人間が、いそぎに、いそいでいく。 それは 伊那丸 ( いなまる )をまン中にかためてかえる、さっきの 野武士 ( のぶし )だった。 「や、どこかで 笛 ( ふえ )の 音 ( ね )がするぜ……」 そういったものがあるので、一同ぴったと足なみをとめて耳をすました。 なるほど、 寥々 ( りょうりょう )と、そよぐ風のとぎれに、笛の 冴 ( さ )えた音がながれてきた。 「ああ、わかった。 咲耶子 ( さくやこ )さまが、また遊びにでているにちがいない」 「そうかしら? だがあの 音 ( ね )いろは、男のようじゃないか。 どんなやつが 忍 ( しの )んでいるともかぎらないからゆだんをするなよ」 とたがいにいましめあって、ふたたび道をいそぎだすと、あなたの草むらから、 月毛 ( つきげ )の 野馬 ( のうま )にのったさげ 髪 ( がみ )の美少女が、ゆらりと 気高 ( けだか )いすがたをあらわした。 一同はそれをみると、 「おう、やっぱり咲耶子さまでございましたか」 と荒くれ 武士 ( ぶし )ににげなく、花のような美少女のまえには、腰をおって、ていねいにあたまをさげる。 「じゃ、おまえたちにも、わたしが吹いていた笛の音が聞えたかえ?」 と 駒 ( こま )をとめた咲耶子は、美しいほほえみをなげて見おろしたが、ふと、伊那丸のすがたを目にとめて、三日月なりの 眉 ( まゆ )をちらりとひそめながら、 「まあ、そのおさない人を、ぎょうさんそうにからめてどうするつもりです。 伝内 ( でんない )や 兵太 ( ひょうた )もいながら、なぜそんなことをするんです」 と、とがめた。 名をさされたふたりの 野武士 ( のぶし )は、 一足 ( ひとあし )でて、 咲耶子 ( さくやこ )の 駒 ( こま )に近よった。 「まだ、ごぞんじありませぬか。 これこそ、お 頭 ( かしら )が、まえまえからねらっていた 武田家 ( たけだけ )の 小伜 ( こせがれ )、 伊那丸 ( いなまる )です」 「おだまりなさい。 とりこにしても身分のある敵なら、 礼儀 ( れいぎ )をつくすのが武門のならいです。 おまえたちは、名もない 雑人 ( ぞうにん )のくせにして、 呼 ( よ )びすてにしたり、 縄目 ( なわめ )にかけるというのはなんという情けしらず、けっして、ご 無礼 ( ぶれい )してはなりませぬぞ」 「へえ」と、一同はその声にちぢみあがった。 「わたしは道になれているから、あのかたを、この馬にお乗せもうすがよい」 と、咲耶子は、ひらりとおりて伊那丸の 縄 ( なわ )をといた。 まもなくけわしいのぼりにかかって、ややしばらくいくと、一の 洞門 ( どうもん )があった。 つづいて二の洞門をくぐると 天然 ( てんねん )の 洞窟 ( どうくつ )にすばらしい 巨材 ( きょざい )をしくみ、 綺羅 ( きら )をつくした 山大名 ( やまだいみょう )の 殿堂 ( でんどう )があった。 この時代の野武士の勢力はあなどりがたいものだった。 徳川 ( とくがわ ) 北条 ( ほうじょう )などという名だたる弓とりでさえも、その勢力 範囲 ( はんい )へ手をつけることができないばかりか、戦時でも、野武士の 区域 ( くいき )といえば、まわり道をしたくらい。 またそれを敵とした日には、とうてい天下の 覇 ( は )をあらそう大事業などは、はかどりっこないのである。 ここの 富士浅間 ( ふじせんげん )の 山大名 ( やまだいみょう )はなにものかというに、 鎌倉 ( かまくら )時代からこの 裾野 ( すその )一円に ばっこしている 郷士 ( ごうし )のすえで 根来小角 ( ねごろしょうかく )というものである。 つれこまれた 伊那丸 ( いなまる )は、やがて、 首領 ( しゅりょう )の小角の前へでた。 獣蝋 ( じゅうろう )の 燭 ( しょく )が、まばゆいばかりかがやいている大広間は、あたかも、 部将 ( ぶしょう )の城内へのぞんだような心地がする。 根来小角は、 野武士 ( のぶし )とはいえ、さすがにりっぱな男だった。 多くの配下を左右にしたがえて、上段にかまえていたが、そこへきた姿をみると座をすべって、みずから上座にすえ、ぴったり両手をついて臣下にひとしい礼をしたのには、伊那丸もややいがいなようすであった。 「お目どおりいたすものは、根来小角ともうすものです。 今日 ( こんにち )は 雑人 ( ぞうにん )どもが、 礼 ( れい )をわきまえぬ 無作法 ( ぶさほう )をいたしましたとやら、ひらにごかんべんをねがいまする」 はて? 残虐 ( ざんぎゃく )と利慾よりなにも知らぬ 野盗 ( やとう )の 頭 ( かしら )が、なんのつもりで、こうていちょうにするのかと、伊那丸は心ひそかにゆだんをしない。 「また、 武田 ( たけだ )の若君ともあるおんかたが、 拙者 ( せっしゃ )の 館 ( やかた )へおいでくださったのは天のおひきあわせ。 なにとぞ幾年でもご 滞留 ( たいりゅう )をねがいまする。 ところでこのたびは、 織田 ( おだ ) 徳川 ( とくがわ )両将軍のために、ご一門のご 最期 ( さいご )、小角ふかくおさっし申しあげます」 なにをいっても、伊那丸は 黙然 ( もくねん )と、 威 ( い )をみださずにすわっていた。 ただこころの奥底まで見とおすような、つぶらな 瞳 ( ひとみ )だけがはたらいていた。 「つきましては、小角は微力ですが、三万の野武士と、 裾野 ( すその )から 駿遠甲相 ( すんえんこうそう )四ヵ国の 山猟師 ( やまりょうし )は、わたくしの指ひとつで、いつでも目のまえに勢ぞろいさせてごらんにいれます。 そのうえ若君が、 御大将 ( おんたいしょう )とおなりあそばして、 富士 ( ふじ )ヶ 根 ( ね )おろしに 武田菱 ( たけだびし )の旗あげをなされたら、たちまち諸国からこぞってお味方に 馳 ( は )せさんじてくることは火をみるよりあきらかです」 「おまちなさい」と 伊那丸 ( いなまる )ははじめて口をひらいた。 「ではそちはわしに名のりをあげさせて、軍勢をもよおそうという望みか」 「おさっしのとおりでござります。 拙者 ( せっしゃ )には武力はありますが名はありませぬ。 それゆえ、 今日 ( こんにち )まで 髀肉 ( ひにく )の 歎 ( たん )をもっておりましたが、若君のみ 旗 ( はた )さえおかしくださるならば、 織田 ( おだ )や 徳川 ( とくがわ )は 鎧袖 ( がいしゅう )の一 触 ( しょく )です。 たちまち 蹴散 ( けち )らしてごむねんをはらします所存」 「だまれ 小角 ( しょうかく )。 わしは年こそおさないが、 信玄 ( しんげん )の血をうけた武神の孫じゃ。 そちのような、 野盗人 ( のぬすびと )の 上 ( かみ )にはたたぬ。 下郎 ( げろう )の力をかりて旗上げはせぬ」 「なんじゃ!」と小角のこえはガラリとかわった。 じぶんの野心を見ぬかれた腹立ちと、 落人 ( おちゅうど )の一少年にピシリとはねつけられた不快さに、満面に 朱 ( しゅ )をそそいだ。 「こりゃ伊那丸、よく申したな。 もう 汝 ( なんじ )の名をかせとはたのまぬわ、その代りその体を売ってやる! 織田家 ( おだけ )へわたして 莫大 ( ばくだい )な 恩賞 ( おんしょう )にしたほうが早手まわしだ。 兵太 ( ひょうた )ッ、この 餓鬼 ( がき )、ふんじばって 風穴 ( かざあな )へほうりこんでしまえ」 「へいッ」四、五人たって、たちまち伊那丸をしばりあげた。 かれはもう 観念 ( かんねん )の目をふさいでいた。 「歩けッ」 と 兵太 ( ひょうた )は 縄尻 ( なわじり )をとって、まッくらな 間道 ( かんどう )を引っ立てていった。 そして地獄の口のような岩穴のなかへポーンとほうりこむと、 鉄柵 ( てつさく )の 錠 ( じょう )をガッキリおろしてたちさった。 うしろ手にしばられているので、よろよろところげこんだ 伊那丸 ( いなまる )は、しばらく顔もあげずに倒れていた。 ザザーッと山砂をつつんだ 旋風 ( せんぷう )が、たえず 暗澹 ( あんたん )と吹きめぐっている 風穴 ( かざあな )のなかでは、一しゅんのまも目を 開 ( あ )いていられないのだ。 そればかりか、夜の 更 ( ふ )けるほど風のつめたさがまして 八寒地獄 ( はっかんじごく )のそこへ落ちたごとく 総身 ( そうみ )がちぢみあがってくる。 「あア 忍剣 ( にんけん )はどうした……忍剣はもうあの湖水の 藻 ( も )くずとなってしまったのか」 いまとなって、しみじみと思いだされてくるのであった。 「忍剣、忍剣。 おまえさえいれば、こんな 野武士 ( のぶし )のはずかしめを受けるのではないのに……」 唇 ( くちびる )をかんで、転々と身もだえしていると、なにか、とん、とん、とん……とからだの下の地面がなってくる心地がしたので、 「はてな? ……」と身をおこすと、そのはずみに、目のまえの、二 尺 ( しゃく )四方ばかりな一枚石が、ポンとはねあがって、だれやら、 覆面 ( ふくめん )をした者の頭が、ぬッとその下からあらわれた。 山大名 ( やまだいみょう )の 根来小角 ( ねごろしょうかく )の 殿堂 ( でんどう )は、七つの 洞窟 ( どうくつ )からできている。 その七つの 洞穴 ( ほらあな )から洞穴は、 縦 ( たて )に横に、上に下に、自由自在の 間道 ( かんどう )がついているが、それは小角ひとりがもっている 鍵 ( かぎ )でなければ 開 ( あ )かないようになっていた。 また、そとには、まえにもいったとおり、二つの 洞門 ( どうもん )があって、配下の 野武士 ( のぶし )が五人ずつ 交代 ( こうたい )で、 篝火 ( かがりび )をたきながら夜どおし見はりをしている 厳重 ( げんじゅう )さである。 今宵 ( こよい )もこの洞門のまえには、赤い 焔 ( ほのお )と人影がみえて、夜ふけのたいくつしのぎに、何か 高声 ( たかごえ )で話していると、そのさいちゅうに、ひとりがワッとおどろいて飛びのいた。 「なんだッ」 と一同が総立ちになったとき、洞門のなかからばらばらととびだしてきたのは七、八ひきの 猿 ( さる )であった。 「なんだ 猿 ( さる )じゃないか、 臆病者 ( おくびょうもの )め」 「どうして 檻 ( おり )からでてきたのだろう。 咲耶子 ( さくやこ )さまのかわいがっている 飼猿 ( かいざる )だ。 それ、つかまえろッ」 と八ぽうへちってゆく 猿 ( さる )を追いかけていったあと、 留守 ( るす )になった二の 洞門 ( どうもん )の入口から 脱兎 ( だっと )のごとくとびだした 影 ( かげ )! ひとりは 黒装束 ( くろしょうぞく )の 覆面 ( ふくめん )、そのかげにそっていたのは、 伊那丸 ( いなまる )にそういなかった。 「何者だッ」 と一の洞門では、早くもその足音をさとって、ひとりが大手をひろげてどなると、 鉄球 ( てっきゅう )のように飛んでいった伊那丸が、どんと 当身 ( あてみ )の一 拳 ( けん )をついた。 「うぬ!」と風をきって鳴った 山刀 ( やまがたな )のひかり。 よろりと 泳 ( およ )いだ影は、伊那丸のちいさな影から、あざやかに投げられて、 断崖 ( だんがい )の 闇 ( やみ )へのまれた。 「 曲者 ( くせもの )だ! みんな、でろ」 覆面の黒装束へも 襲 ( おそ )いかかった。 姿 ( すがた )はほっそりとしているのに、 手練 ( しゅれん )はあざやかだった。 よりつく者を投げすてて、すばやく逃げだすのを、横あいからまた飛びついていったひとりがむんずと組みついて、その覆面の顔をまぢかく見て、 「ああ、あなたは」と、 愕然 ( がくぜん )とさけんだ。 顔を見られたと知った覆面は、おどろく男を突ッぱなした。 よろりと身をそるところへ、黒装束の腰からさッとほとばしった氷の 刃 ( やいば )! 男の肩からけさがけに 斬 ( き )りさげた。 「伊那丸さま」 黒装束 ( くろしょうぞく )は、手まねきするやいなや、岩 つばめのようなはやさで、たちまち、そこからかけおりていってしまった。 下界 ( げかい )をにらみつけるような大きな月が、人ひとり、鳥一羽の影さえない、 裾野 ( すその )のそらの一 角 ( かく )に、夜の 静寂 ( しじま )をまもっている。 その 渺 ( びょう )としてひろい平野の一本杉に、一ぴきの 白駒 ( しろこま )がつながれていた。 馬は、さびしさも知らずに、月光をあびながら、のんきに青すすきを食べているのだ。 いっさんにかけてきた 黒装束 ( くろしょうぞく )は、 白馬 ( しろうま )のそばへくるとぴッたり足をとめて、 「 伊那丸 ( いなまる )さま、もうここまでくれば大じょうぶです」 と、あとからつづいてきた影へ手をあげた。 「ありがとうござりました」 伊那丸は、ほッとして 夢心地 ( ゆめごこち )をさましたとき、ふしぎな黒装束の 義人 ( ぎじん )のすがたを、はじめて落ちついてながめたのであるが、その人は月の光をしょっているので、顔はよくわからなかった。 「もう大じょうぶです。 これからこの 野馬 ( のうま )にのって、明方までに 富士川 ( ふじがわ )の下までお送りしてあげますから、あれから 駿府 ( すんぷ )へでて、いずこへなり、身をおかくしなさいまし、ここに 関所札 ( せきしょふだ )もありますから……」 と、 黒装束 ( くろしょうぞく )のさしだした 手形 ( てがた )をみて、 伊那丸 ( いなまる )はいよいよふしぎにたえられない。 「そして、そなたはいったいたれびとでござりますぞ」 「だれであろうと、そんなことはいいではありませんか。 さ、早く、これへ」 と 白駒 ( しろこま )の 手綱 ( たづな )をひきだしたとき、はじめて月に照らされた 覆面 ( ふくめん )のまなざしを見た伊那丸は、思わずおおきなこえで、 「や! そなたはさっきの 女子 ( おなご )、 咲耶子 ( さくやこ )というのではないか」 「おわかりになりましたか……」 涼 ( すず )しい 眸 ( ひとみ )にちらと 笑 ( え )みを見せて、それへ両手をつきながら、 「おゆるしくださいませ、父の 無礼 ( ぶれい )は、どうぞわたしにかえてごかんべんあそばしませ……」と、わびた。 「では、そなたは 小角 ( しょうかく )の娘でしたか」 「そうです、父のしかたはまちがっております。 そのおわびに 鍵 ( かぎ )をそッと持ちだしておたすけもうしたのです。 伊那丸さま、あなたのおうわさは私も前から聞いておりました、どうぞお身を大切にして、かがやかしい 生涯 ( しょうがい )をおつくりくださいまし」 「忘れませぬ……」 伊那丸は、神のような美少女の至情にうたれて、思わずホロリとあつい涙を 袖 ( そで )のうちにかくした。 と、咲耶子はいきなり立ちあがった。 「なんです?」 と、 伊那丸 ( いなまる )もその 眸 ( ひとみ )のむいたほうをみると、 藍 ( あい )いろの月の空へ、ひとすじの細い火が、ツツツツーと走りあがってやがて 消 ( き )えた。 「あの火は、この 裾野 ( すその )一帯の、森や河原にいる 野伏 ( のぶせり )の 力者 ( りきしゃ )に、あいずをする知らせです。 父は、あなたの逃げたのをもう知ったとみえます。 さ、早く、この馬に。 ……抜けみちは私がよく知っていますから、早くさえあれば、しんぱいはありませぬ」 とせき立てて、伊那丸の乗ったあとから、じぶんもひらりと前にのって、手ぎわよく、 手綱 ( たづな )をくりだした。 その時、すでにうしろのほうからは、 百足 ( むかで )のようにつらなった 松明 ( たいまつ )が、 山峡 ( やまあい )の 闇 ( やみ )から月をいぶして、こなたにむかってくるのが見えだした。 「おお、もう近い!」 咲耶子 ( さくやこ )は、ピシリッと馬に 一鞭 ( ひとむち )あてた。 夕陽 ( ゆうひ )のうすれかけた 湖 ( みずうみ )の波をザッザときって、 陸 ( おか )へさして泳いでくるものがあった。 どっかりと、 岸辺 ( きしべ )へからだを落とすと、忍剣はすぐ 衣 ( ころも )をさいて、ひだりの 肘 ( ひじ )の 矢傷 ( やきず )をギリギリ巻きしめた。 そして身をはねかえすが 否 ( いな )や、 白旗 ( しらはた )の宮へかけつけてきてみると、 伊那丸 ( いなまる )のすがたはみえないで、ただじぶんの 鉄杖 ( てつじょう )だけが立てかけてのこっていた。 それらしい人の影もあたりに見えてはこない。 「さては」と忍剣は、心をくらくした。 湖水のなかほどへでたとき、ふいに矢を 乱射 ( らんしゃ )したやつのしわざにちがいない。 小さな くりぬき舟であったため、矢をかわしたはずみに、くつがえってしまったので、 石櫃 ( いしびつ )はかんぜんに湖心のそこへ沈めたけれど、伊那丸の身を何者かにうばわれては、あの 宝物 ( ほうもつ )も、 永劫 ( えいごう )にこの湖から世にだす時節もなくなるわけだ。 「ともあれ、こうしてはおられない、命にかけても、おゆくえをさがさねばならぬ」 鉄杖をひッかかえた忍剣は、八ぽうへ 血眼 ( ちまなこ )をくばりながら、湖水の岸、あなたこなたの森、くまなくたずね歩いたはてに、どこへ抜けるかわからないで、とある松並木をとおってくると、いた! 二、三町ばかり先を、白い影がとぼとぼとゆく。 「オーイ」 と手をあげながらかけだしていくと、半町ほどのところで、フイとその影を見うしなってしまった。 「はてな、ここは一すじ道だのに……」 小首をひねって見まわしていると、なんのこと、いつかまた、三町も先にその影が歩いている。 「こりゃおかしい。 伊那丸 ( いなまる )さまではないようだが、あやしいやつだ。 一つつかまえてただしてくれよう」 と 宙 ( ちゅう )をとんで追いかけていくうちに、また先の者が見えなくなる。 足をとめるとまた見える。 さすがの 忍剣 ( にんけん )も少しくたびれて、どっかりと、道の木の根に腰かけて汗をふいた。 「どうもみょうなやつだ。 人間の足ではないような早さだ。 それとも、あまり伊那丸さまのすがたを 血眼 ( ちまなこ )になってさがしているので、気のせいかな」 忍剣がひとりでつぶやいていると、その鼻ッ先へ、スーッと、うすむらさき色の煙がながれてきた。 「おや……」ヒョイとふりあおいでみると、すぐじぶんのうしろに、まっ白な衣服をつけた男がたばこをくゆらしながら、忍剣の顔をみてニタリと笑った。 「こいつだ」 と見て、忍剣もグッとにらみつけた。 男は 背 ( せ )に 笈 ( おい )をせおっている 六部 ( ろくぶ )である。 ばけものではないにちがいない。 にらまれても落ちついたもの、スパリスパリと、二、三ぷくすって、ポンと、立木の横で、きせるをはたくと、あいさつもせずに、またすたすたとでかけるようすだ。 「まて、 六部 ( ろくぶ )まて」 あわてて立ちあがったが、もうかれの姿は、あたりにも先にも見えない。 忍剣 ( にんけん )はあきれた。 世のなかには、奇怪なやつがいればいるものと、ぼうぜんとしてしまった。 疑心暗鬼 ( ぎしんあんき )とでもいおうか、場合がばあいなので、忍剣には、どうも今の六部の 挙動 ( きょどう )があやしく思えてならない。 なんとなく 伊那丸 ( いなまる )の身を 闇 ( やみ )につつんだのも、きゃつの仕事ではないかと思うと、いま目のさきにいたのを 逃 ( に )がしたのがざんねんになってきた。 「あやしい六部だ。 よし、どんな早足をもっていようがこの忍剣のこんきで、ひッとらえずにはおかぬぞ」 とかれはまたも、いっさんにかけだした。 並木 ( なみき )がとぎれたところからは、一望千里の 裾野 ( すその )が見わたされる。 忍剣 ( にんけん )は、この方角とにらんだ道を、一 念 ( ねん )こめて、さがしていくと、やがて、ゆくてにあたって、一 宇 ( う )の六角堂が目についた。 「おお、あれはいつの年か、このへんで 戦 ( たたか )いのあったとき焼けのこった 文殊閣 ( もんじゅかく )にちがいない。 もしかすると、 六部 ( ろくぶ )の 巣 ( す )も、あれかもしれぬぞ……」 と 勇 ( いさ )みたって近づいていくと、はたして、くずれかけた文殊閣の石段のうえに、 白衣 ( びゃくえ )の六部が、月でもながめているのか、 ゆうちょうな顔をして腰かけている。 「こりゃ六部、あれほど 呼 ( よ )んだのになぜ待たないのだ」 忍剣はこんどこそ逃がさぬぞという気がまえで、その前につッ立った。 「なにかご用でござるか」 と、かれはそらうそぶいていった。 「おおさ、問うところがあればこそ呼んだのだ。 年ごろ十四、五に渡らせられる若君を見失ったのだ。 知っていたら教えてくれ」 「知らない、ほかで聞け」 六部の答えは、まるで忍剣を 愚弄 ( ぐろう )している。 「だまれッ、この 裾野 ( すその )の夜ふけに、問いたずねる人間がいるか。 そういう 汝 ( なんじ )の口ぶりがあやしい、正直にもうさぬと、これだぞッ」 ぬッと、 鉄杖 ( てつじょう )を鼻さきへ突きつけると、六部はかるくその先をつかんで、腰の下へしいてしまった。 「これッ、なんとするのだ」 忍剣 ( にんけん )は、 渾力 ( こんりき )をしぼって、それを引きぬこうとこころみたが、ぬけるどころか、 大山 ( たいざん )にのしかかられたごとく一寸のゆるぎもしない。 しかも、 六部 ( ろくぶ )はへいきな顔で、 両膝 ( りょうひざ )にほおづえをついて笑っている。 「むッ……」 と忍剣は、 総身 ( そうみ )の力をふりしぼった。 力にかけては、怪童といわれ、 恵林寺 ( えりんじ )のおおきな庭石をかるがるとさして山門の階段をのぼったじぶんである。 なにをッ、なにをッと、引けどねじれど、 鉄杖 ( てつじょう )のほうが、まがりそうで、六部のからだはいぜんとしている。 すると、ふいに、六部が腰をうかした。 「無念ッ」とかえす力で横ざまにはらい上げた鉄杖を、ふたたびくぐりぬけた六部は、 杖 ( つえ )にしこんである 無反 ( むぞ )りの 冷刀 ( れいとう )をぬく手も見せず、ピカリと片手にひらめかせて、 「 若僧 ( わかそう )、雲水」と 錆 ( さび )をふくんだ声でよんだ。 「なにッ」と持ちなおした鉄杖を、まッこうにふりかぶった忍剣は、 怒気 ( どき )にもえた目をみひらいて、ジリジリと相手のすきをねらいつめる。 たがいの息と息は、その一しゅん、水のようにひそやかであった。 しかも、 総身 ( そうみ )の毛穴からもえたつ熱気は、 焔 ( ほのお )となって、いまにも、そうほうの切先から火の 輪 ( わ )をえがきそうに見える……。 突 ( とつ )として、風を切っておどった 銀蛇 ( ぎんだ )は、忍剣の 真眉間 ( まみけん )へとんだ。 「おうッ」と、さけびかえした忍剣は、それを 鉄杖 ( てつじょう )ではらったが、 空 ( くう )をうッてのめッたとたん、背をのぞんで、六部はまたさッと斬りおろしてきた。 そのはやさ、かわす 間 ( ま )もあらばこそ、忍剣も、ぽんとうしろへとびのくより 策 ( さく )がなかった。 そして、 踏 ( ふ )みとどまるが早いか、ふたたび鉄杖を横がまえに持つと、 「待て」と六部の声がかかった。 「 怯 ( ひる )んだかッ」たたき返すように忍剣がいった。 「いやおくれはとらぬ。 しかしきさまの鉄杖はめずらしい。 いったいどこの何者だか聞かしてくれ」 「あてなしの旅をつづける雲水の忍剣というものだ。 ところで、なんじこそただの六部ではあるまい」 「あやしいことはさらにない。 ありふれた 木遁 ( もくとん )の 隠形 ( おんぎょう )でちょっときさまをからかってみたのだ」 「ふらちなやつだ。 さてはきさまは、どこかの 大名 ( だいみょう )の手先になって、諸国をうかがう、 間諜 ( いぬ )だな」 「ばかをいえ。 しのびに 長 ( た )けているからといって、 諜者 ( ちょうじゃ )とはかぎるまい。 このとおり 六部 ( ろくぶ )を世わたりにする 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )という者だ。 こう名のったところできくが、さっききさまのたずねた若君とは何者だ」 「その口にいつわりがないようすだから聞かしてやる。 じつは、さる高貴なおん方のお 供 ( とも )をしている」 「そうか。 では 武田 ( たけだ )の 御曹子 ( おんぞうし )だな……」 「や、どうして、 汝 ( なんじ )はそれを知っているのだ?」 「 恵林寺 ( えりんじ )の 焔 ( ほのお )のなかからのがれたときいて、とおくは、 飛騨 ( ひだ ) 信濃 ( しなの )の山中から、この 富士 ( ふじ )の 裾野 ( すその )一 帯 ( たい )まで、足にかけてさがしぬいていたのだ。 きさまの口うらで、もうおいでになるところは 拙者 ( せっしゃ )の目にうつってきた。 このさきは、 伊那丸 ( いなまる )さまはおよばずながら、この六部がお 附添 ( つきそ )いするから、きさまは、安心してどこへでも落ちていったがよかろう」 忍剣 ( にんけん )はおどろいた。 まったくこの六部のいうこと、なすことは、いちいち ふにおちない。 のみならず、じぶんをしりぞけて、伊那丸をさがしだそうとする野心もあるらしい。 「たわけたことをもうせ。 伊那丸さまはこの忍剣が命にかけて、お 護 ( まも )りいたしているのだわ」 「そのお 傅役 ( もりやく )が、さらわれたのも知らずにいるとは 笑止千万 ( しょうしせんばん )じゃないか。 御曹子 ( おんぞうし )はまえから 拙者 ( せっしゃ )がさがしていたおん方だ、もうきさまに用はない」 「いわせておけば 無礼 ( ぶれい )なことばを」 「それほどもうすなら、きさまはきさまでかってにさがせ。 どれ、 拙者 ( せっしゃ )は、これから明け方までに、おゆくえをつきとめて、思うところへお 供 ( とも )をしよう」 「この 痴 ( し )れものが」 と、 忍剣 ( にんけん )は真から腹立たしくなって、ふたたび 鉄杖 ( てつじょう )をにぎりしめたとき、はるか 裾野 ( すその )のあなたに、ただならぬ光を見つけた。 六部 ( ろくぶ )の 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )も見つけた。 ふたりはじッとひとみをすえて、しばらく 黙然 ( もくねん )と立ちすくんでしまった。 それは 蛇形 ( だぎょう )の 陣 ( じん )のごとく、うねうねと、 裾野 ( すその )のあなたこなたからぬいめぐってくる一 道 ( どう )の 火影 ( ほかげ )である。 多くの 松明 ( たいまつ )が 右往左往 ( うおうざおう )するさまにそういない。 「あれだ!」いうがはやいか龍太郎は、一 足 ( そく )とびに、石段から姿をおどらした。 「うぬ。 汝 ( なんじ )の手に若君をとられてたまるか」 忍剣 ( にんけん )も、 韋駄天 ( いだてん )ばしり、この 一足 ( ひとあし )が、必死のあらそいとはなった。 たちまち、そらの月影が、黒雲のうちにさえぎられると、 裾野 ( すその )もいちめんの 如法闇夜 ( にょほうあんや )、ただ、ザワザワと鳴るすすきの風に、つめたい雨気さえふくんできた。 「おお、雲は切れめなくいちめんになってきた。 咲耶どの、もう 駒 ( こま )をはやめてはあぶない、わしはここでおりますから、あなたは 岩殿 ( いわどの )へお帰りなさい」 「いいえ、まだ 富士川 ( ふじがわ )べりまでは、あいだがあります」 「いや、そなたが帰ってから、 小角 ( しょうかく )にとがめられるであろうと思うと、わしは胸がいたくなります。 さ、わしをここでおろしてください」 「 伊那丸 ( いなまる )さま、こんなはてしも見えぬ裾野のなかで、馬をお捨てあそばして、どうなりますものか」 いい 争 ( あらそ )っているすきに、十 間 ( けん )とは離れない 窪地 ( くぼち )の下から、ぱッと目を射てきた 松明 ( たいまつ )のあかり。 「いたッ」 「逃がすな」と、八ぽうからの声である。 「あッ、大へん」 と咲耶子はピシリッと 駒 ( こま )をうった。 ザザーッと道もえらまずに数十 間 ( けん )、一気にかけさせたのもつかの 間 ( ま )であった。 たのむ馬が、 窪地 ( くぼち )に落ちて 脚 ( あし )を折ったはずみに、ふたりはいきおいよく、草むらのなかへ投げ落とされた。 「それッ、落ちた。 そこだッ」 むらがりよってきた 松明 ( たいまつ )の赤い 焔 ( ほのお )、 山刀 ( やまがたな )の光、 槍 ( やり )の 穂 ( ほ )さき。 ふたりのすがたは、たちまちそのかこみのなかに照らしだされた。 「もう、これまで」 と 小太刀 ( こだち )をぬいた 伊那丸 ( いなまる )は、その 荒武者 ( あらむしゃ )のまッただなかへ、運にまかせて、斬りこんだ。 咲耶子 ( さくやこ )も、 覆面 ( ふくめん )なのを幸いに一刀をもって、伊那丸の身をまもろうとしたが、さえぎる槍や大刀に 畳 ( たた )みかけられ、はなればなれに斬りむすぶ。 「めんどうくさい。 武田 ( たけだ )の 童 ( わっぱ )も、手引きしたやつも、片ッぱしから首にしてしまえ」 大勢のなかから、こうどなった者は、咲耶子と知ってか知らぬのか、 山大名 ( やまだいみょう )の 根来小角 ( ねごろしょうかく )であった。 時に、そのすさまじいつるぎの 渦 ( うず )へ、 突 ( とつ )として、横合いからことばもかけずに、 無反 ( むぞ )りの大刀をおがみに持って、飛びこんできた人影がある。 六部 ( ろくぶ )の 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )であった。 一 閃 ( せん )かならず一人を斬り、一気かならず一 夫 ( ぷ )を割る、 手練 ( しゅれん )の腕は、 超人的 ( ちょうじんてき )なものだった。 それとみて、 愕然 ( がくぜん )とした根来小角は、みずから大刀をとって、 奮 ( ふる )いたった。 と同時に、 一足 ( ひとあし )おくれて、かけつけた 忍剣 ( にんけん )の 鉄杖 ( てつじょう )も、風を呼んでうなりはじめた。 空はいよいよ暗かった。 降るのはこまかい血の雨である。 たばしる 剣 ( つるぎ )の 稲妻 ( いなずま )にまきこまれた、 可憐 ( かれん )な 咲耶子 ( さくやこ )の身はどうなるであろう。 しかし、 加賀見忍剣 ( かがみにんけん )の身のまわりだけは、 常闇 ( とこやみ )だった。 かれは、とんでもない 奈落 ( ならく )のそこに落ちて、 土龍 ( もぐら )のようにもがいていた。 「 伊那丸 ( いなまる )さまはどうしたであろう。 アア、こうしちゃいられない、グズグズしている場合じゃない……」 忍剣は、どんな 危地 ( きち )に立っても、けっしてうろたえるような男ではない。 ただ、伊那丸の身をあんじてあせるのだった。 地の理にくらいため、乱闘のさいちゅうに、足を 踏 ( ふ )みすべらしたのが、かえすがえすもかれの失敗であった。 ところが、そこは 裾野 ( すその )におおい 断層 ( だんそう )のさけ目であって、両面とも、切ってそいだかのごとき岩と岩とにはさまれている 数丈 ( すうじょう )の地底なので、さすがの 忍剣 ( にんけん )も、 精根 ( せいこん )をつからして空の明るみをにらんでいた。 「む! 根気だ。 こんなことにくじけてなるものか」 とふたたび 袖 ( そで )をまくりなおした。 かれは 鉄杖 ( てつじょう )を背なかへくくりつけて、 護身 ( ごしん )の短剣をぬいた。 そして、岩の面へむかって、 一段 ( いちだん )一段、じぶんの足がかりを、掘りはじめたのである。 すると、なにかやわらかなものが、忍剣の 頬 ( ほお )をなでてははなれ、なでてははなれするので、かれはうるさそうにそれを手でつかんだ時、はじめて赤い 絹 ( きぬ )の 細帯 ( ほそおび )であったことを知った。 「おや? ……」 と、あおむいて見ると、ちゅうとから 藤 ( ふじ )づるかなにかで結びたしてある 一筋 ( ひとすじ )が、たしかに、上からじぶんを目がけてさがっている。 「ありがたい!」 と力いっぱい引いてこころみたが、切れそうもないので、それをたよりに、するするとよじのぼっていった。 ぽんと、大地へとびあがったときのうれしさ。 忍剣はこおどりして見まわすと、そこに、思いがけない美少女が 笑 ( え )みをふくんで立っている。 少女の足もとには、 謎 ( なぞ )のような 黒装束 ( くろしょうぞく )の 上下 ( うえした )がぬぎ捨てられてあった。 「や、あなたは……」 と 忍剣 ( にんけん )はいぶかしそうに目をみはった。 その問いにおうじて、少女は、 「わたくしはこの 裾野 ( すその )の 山大名 ( やまだいみょう )、 根来小角 ( ねごろしょうかく )の娘で、 咲耶子 ( さくやこ )というものでございます」 と、はっきりしたこわ 音 ( ね )でこたえた。 「そのあなたが、どうしてわたしをたすけてくださったのじゃ」 「ご 僧 ( そう )は、 伊那丸 ( いなまる )さまのお 供 ( とも )のかたでございましょうが」 「そうです。 若君のお身はどうなったか、それのみがしんぱいです。 ごぞんじなら、教えていただきたい」 「伊那丸さまは、ご 僧 ( そう )と一しょに斬りこんできた 六部 ( ろくぶ )のひとが、おそろしい 早技 ( はやわざ )でどこともなく連れていってしまいました。 あの六部が、善人か悪人か、わたくしにもわからないのです。 それをあなたにお知らせするために夜の明けるのを待っていたのです」 「えッ、ではやっぱりあの六部にしてやられたか。 して六部めは、どっちへいったか、方角だけでも、ごぞんじありませんか」 「わたくしはそのまえに、 富士川 ( ふじがわ )をくだって、東海道から京へでる 関所札 ( せきしょふだ )をあげておきましたが、その道へ向かったかどうかわかりませぬ」 「しまった……?」 と、忍剣は 吐息 ( といき )をもらした。 と、咲耶子は、にわかに色をかえてせきだした。 「あれ、父の手下どもが、わたくしをたずねてむこうからくるようです。 すこしも早くここをお立ちのきあそばしませ。 わたくしは山へ帰りますが、かげながら、 伊那丸 ( いなまる )さまのお行く末をいのっております」 「ではお別れといたそう。 拙僧 ( せっそう )とて、 安閑 ( あんかん )としておられる身ではありません」 ふたたび 鉄杖 ( てつじょう )を手にした 忍剣 ( にんけん )は、別れをつげて、 恨 ( うら )みおおき 裾野 ( すその )をあとに、いずこともなく草がくれに立ち去った。 浜松 ( はままつ )の城下は、海道一の名将、 徳川家康 ( とくがわいえやす )のいる都会である。 その浜松は、ここ七日のあいだは、 男山八幡 ( おとこやまはちまん )の祭なので、夜ごと町は、おびただしいにぎわいであった。 「どうですな、 鎧屋 ( よろいや )さん、まだ売れませんか」 その 八幡 ( はちまん )の 玉垣 ( たまがき )の前へならんでいた夜店の 燈籠売 ( とうろうう )りがとなりの者へはなしかけた。 「売れませんよ。 今日で六日もだしていますがだめです」 と答えたのは、十八、九の若者で、たった一組の 鎧 ( よろい )をあき箱の上にかざり、じぶんのそばには、一本の 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )を立てかけて、ぼんやりとそこに腰かけている。 「おまえさんの 燈籠 ( とうろう )のほうは、女子供が相手だから、さだめし毎日たくさんの売上げがありましたろう」 「どうしてどうして、あの 鬼玄蕃 ( おにげんば )というご城内の 悪侍 ( わるざむらい )のために、今年はからきし、 商 ( あきな )いがありませんでした」 「ゆうべもわたしがかえったあとで、だれかが、あいつらに斬られたということですが、ほんとでしょうかね」 「そんなことは珍しいことじゃありませんよ。 店をメチャメチャにふみつぶされたり、 片輪 ( かたわ )にされたかわいそうな人が、何人あるか知れやしません。 まったく弱いものは生きていられない世の中ですね」 といってる口のそばから、ワーッという声が向こうからあがって、いままで 歓楽 ( かんらく )の世界そのままであったにぎやかな町の 灯 ( あか )りが、バタバタ消えてきた。 燈籠売 ( とうろうう )りははねあがってあおくなった。 「大へん大へん、 鎧屋 ( よろいや )さん、はやく逃げたがいいぜ、鬼玄蕃がきやがったにちがいない」 にわか雨でもきたように、あたりの商人たちも、ともどもあわてさわいだが、かの若者だけは、腰も立てずに 悠長 ( ゆうちょう )な顔をしていた。 案のじょう、そこへ 旋風 ( つむじかぜ )のようにあばれまわってきた四、五人の 侍 ( さむらい )がある。 なかでも一きわすぐれた強そうな 星川玄蕃 ( ほしかわげんば )は、つかつかと鎧屋のそばへよってきた。 泥酔 ( でいすい )したほかの侍たちも、こいつはいいなぶりものだという顔をして、そこを取りまく。 「やい、町人。 この 槍 ( やり )はいくらだ」 と 玄蕃 ( げんば )はいきなり若者のそばにあった 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )をつかんだ。 「それは売り物じゃありません」 にべもなく、ひッたくって槍をおきかえたかれは、あいかわらず、 無神経 ( むしんけい )にすましこんでいた。 「けしからんやつだ、売り物でないものを、なぜ店へさらしておく。 こいつ、客をつる 山師 ( やまし )だな」 「槍はわしの持物です。 どこへいくんだッて、この槍を手からはなさぬ 性分 ( しょうぶん )なんだからしかたがない」 「ではこの 鎧 ( よろい )が売りものなのか。 黒皮胴 ( くろかわどう )、 萌黄縅 ( もえぎおどし )、なかなかりっぱなものだが、いったいいくらで売るのだ」 「それも売りたい 品 ( しな )ではないが、お 母 ( ふくろ )が病気なので、 薬代 ( くすりだい )にこまるからやむなく手ばなすんです。 酔 ( よ )ッぱらったみなさまがさわいでいると、せっかくのお客も逃げてしまいます。 早くあっちへいってください」 「 無愛想 ( ぶあいそう )なやつだ。 買うからねだんを聞いているのだ」 「 金子 ( きんす )五十枚、びた一 文 ( もん )もまかりません。 はい」 「たかい、銅銭五十枚にいたせ、買ってくれる」 「いけません、まっぴらです」 「ふらちなやつだ。 だれがこんなボロ鎧に、金五十枚をだすやつがあるか、バカめッ」 玄蕃 ( げんば )が 土足 ( どそく )をあげて 蹴 ( け )ったので、 鎧 ( よろい )はガラガラとくずれて土まみれになった。 こんならんぼうは、 泰平 ( たいへい )の世には、めったに見られないが、あけくれ血や 白刃 ( しらは )になれた戦国武士の悪い者のうちには、町人百姓を 蛆虫 ( うじむし )とも思わないで、ややともすると、 傲慢 ( ごうまん )な武力をもってかれらへのぞんでゆくものが多かった。 「 山師 ( やまし )めッ」 ほかの 武士 ( ぶし )どもも、口を合わせてののしった上に 鎧 ( よろい )を 踏 ( ふ )みちらして、どッと笑いながら立ちさろうとした時、若者の 眉 ( まゆ )がピリッとあがった。 「待てッ」 「なにッ」とふりかえりざま、刀の 柄 ( つか )へ手をかけた五人の、おそろしい眼つき。 すわと、 弥次馬 ( やじうま )は、 潮 ( うしお )のごとくたちさわいだ。 玉垣 ( たまがき )を照らしている 春日燈籠 ( かすがどうろう )の 灯影 ( ほかげ )によく見ると、それこそ、 裾野 ( すその )の 危地 ( きち )を斬りやぶって、 行方 ( ゆくえ )をくらました 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )と、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )のふたりであった。 六部の龍太郎は、はたして、なんの目的で伊那丸をうばいとってきたかわからないが、ここに立ったふたりのようすから 察 ( さっ )すると、いつか伊那丸もかれを 了解 ( りょうかい )しているし、龍太郎も主君のごとく 敬 ( うやま )っているようだ。 しかしそれにしても武田の 残党 ( ざんとう )を根だやしにするつもりである敵の本城地に、かく明からさまに姿をあらわしているのは、なんという 大胆 ( だいたん )な行動であろう。 「気は 狂 ( ちが )っていない! 町人のなかにも男はいる、天にかわって、 汝 ( なんじ )らをこらしてやるのだ」 「なまいきなことをほざく 下郎 ( げろう )だ、汝らがこのご城下で 安穏 ( あんのん )にくらしていられるのは、みなわれわれが敵国と戦っている 賜物 ( たまもの )だぞ。 罰 ( ばち )あたりめ」 「町人どもへよい見せしめ、そのほそ首をぶッ飛ばしてくれよう」 「うごくなッ」 鬼玄蕃 ( おにげんば )をはじめ、一同の刀が、若者の手もとへ、ものすさまじく斬りこんだ。 とたんに、 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )は、一本の火柱のごとく、さッと五本の乱刀を 天宙 ( てんちゅう )からたたきつけた。 わッと、あいての手もとが乱れたすきに、若者はまた一声「えいッ」とわめいて、ひとりのむなさきを 田楽刺 ( でんがくざ )しにつきぬくがはやいか、すばやく 穂先 ( ほさき )をくり引いて、ふたたびつぎの相手をねらっている。 その 早技 ( はやわざ )も、 非凡 ( ひぼん )であったが、よりおどろくべきものは、かれのこい 眉毛 ( まゆげ )のかげから、らんらんたる底光をはなってくる二つの 眸 ( ひとみ )である。 それは、 槍 ( やり )の穂先よりするどい光をもっている。 「やりおったな、 小僧 ( こぞう )ッ。 もうゆるさん」 玄蕃 ( げんば )は怒りにもえ、 金剛力士 ( こんごうりきし )のごとく、 太刀 ( たち )をふりかぶって、槍の真正面に立った。 かれのがんじょうな五体は、さすが戦場のちまたで 鍛 ( きた )えあげたほどだけあって、 小柄 ( こがら )な若者を見おろして、ただ一 撃 ( げき )といういきおいをしめした。 それさえあるのに、あと三人の 武士 ( ぶし )も、めいめいきっさきをむけて、ふくろづめに、一寸二寸と、若者の 命 ( いのち )に、くいよってゆくのだ。 ああ、あぶない。 いざといわば、一気におどりこんで、 木隠 ( こがくれ )一 流 ( りゅう )の 冴 ( さ )えを見せんとするらしい。 ヤッという 裂声 ( れっせい )があたりの空気をつんざいた。 鬼玄蕃 ( おにげんば ) 星川 ( ほしかわ )が斬りこんだのだ。 「えいッ、 木 ( こ )ッ 葉 ( ぱ )どもめ!」 若者は、二、三ど、 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )をふりまわしたが、トンと石突きをついたはずみに、五尺の体をヒラリおどらすが早いか、 社 ( やしろ )の玉垣を、飛鳥のごとく飛びこえたまま、あなたの 闇 ( やみ )へ消えてしまった。 バラバラと武士もどこかへかけだした。 あとは血なまぐさい風に、消えのこった 灯 ( ともしび )がまたたいているばかり。 「アア、気もちのよい男」 と 伊那丸 ( いなまる )は、思わずつぶやいた。 「 拙者 ( せっしゃ )も、めずらしい 槍 ( やり )の 玄妙 ( げんみょう )をみました」 龍太郎 ( りゅうたろう )は 助太刀 ( すけだち )にでようとおもうまに、みごとに勝負をつけてしまった若者の 早技 ( はやわざ )に、 舌 ( した )をまいて 感嘆 ( かんたん )していた。 そして、ふたりはいつかそこを歩みだして、浜松城に近い 濠端 ( ほりばた )を、しずかに歩いていたのである。 すると、大手門の橋から、たちまち空をこがすばかりの 焔 ( ほのお )の一列が 疾走 ( しっそう )してきた。 龍太郎は見るより舌うちして、伊那丸とともに、濠端の 柳 ( やなぎ )のかげに身をひそませていると、まもなく、 松明 ( たいまつ )を持った 黒具足 ( くろぐそく )の武士が十四、五人、目の前をはしり抜けたが、さいごのひとりが、 「待て、あやしいやつがいた」とさけびだした。 「なに? いたか」 バラバラと引きかえしてきた人数は、いやおうなく、ふたりのまわりをとり巻いてしまった。 「ちがった、こいつらではない」 と一目見た一同は、ふり捨ててふたたびゆきすぎかけたが、そのとき、 「ややッ、 伊那丸 ( いなまる )、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )ッ」と、だれかいった者がある。 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )をもった 曲者 ( くせもの )が、城内の 武士 ( ぶし )をふたりまで突きころしたという知らせに、さては、敵国の 間者 ( かんじゃ )ではないかと、すぐ 討手 ( うって )にむかってきたのは、酒井 黒具足組 ( くろぐそくぐみ )の人々であった。 運わるく、そのなかに、伊那丸の 容貌 ( かおかたち )を見おぼえていた者があった。 かれらは、おもわぬ 大獲物 ( おおえもの )に、 武者 ( むしゃ )ぶるいを 禁 ( きん )じえない。 「ちがいない。 まさしくこの者は、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )だ」 「お 城 ( しろ )ちかくをうろついているとは、不敵なやつ。 伊那丸は、ちりほども 臆 ( おく )したさまは見せなかった。 以心伝心 ( いしんでんしん )、ふたりの目と目は、瞬間にすべてを語りあってしまう。 「ここにおわすおん 方 ( かた )は、おさっしのとおり、伊那丸君であります。 天下の武将のなかでも 徳川 ( とくがわ )どのは 仁君 ( じんくん )とうけたまわり、おん情けの 袖 ( そで )にすがって、若君のご一身を安全にいたしたいお願いのためまいりました」 「とにかく、きびしいお尋ね人じゃ、おあるきなさい」 「したが、 落人 ( おちゅうど )のお身の上でこそあれ、無礼のあるときは、この龍太郎が承知いたさぬ、そう 思 ( おぼ )しめして、ご案内なさい」 龍太郎は、 戒刀 ( かいとう )の 杖 ( つえ )に、伊那丸の身をまもり、すすきをあざむく 白刃 ( はくじん )のむれは、 長蛇 ( ちょうだ )の列のあいだに、ふたりをはさんで、しずしずと、 鬼 ( おに )の口にもひとしい、 浜松城 ( はままつじょう )の大手門のなかへのまれていった。 本丸 ( ほんまる )とは、城主のすまうところである。 築山 ( つきやま )の松、 滝 ( たき )をたたえた 泉 ( いずみ )、 鶺鴒 ( せきれい )があそんでいる飛石など、 戦 ( いくさ )のない日は、平和の光がみちあふれている。 そこは浜松城のみどりにつつまれていた。 伊那丸 ( いなまる )と 龍太郎 ( りゅうたろう )は、あくる日になって、三の丸、二の丸をとおって、 家康 ( いえやす )のいるここへ呼びだされた。 「 勝頼 ( かつより )の次男、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )の 主従 ( しゅじゅう )とは、おん身たちか」 高座 ( こうざ )の 御簾 ( みす )をあげて、こういった家康は、ときに、四十の坂をこえたばかりの男ざかり、 智謀 ( ちぼう )にとんだ名将の ふうはおのずからそなわっている。 「そうです。 じぶんが武田伊那丸です」 龍太郎は、かたわらに両手をついたが、伊那丸ははっきりこたえて、 端然 ( たんぜん )と、家康の顔をじいとみつめた。 「おう…… 天目山 ( てんもくざん )であいはてた、父の勝頼、また兄の太郎 信勝 ( のぶかつ )に、さても 生写 ( いきうつ )しである……。 あの 戦 ( いくさ )のあとで 検分 ( けんぶん )した 生首 ( なまくび )に 瓜 ( うり )二つじゃ」 「うむ……」 伊那丸 ( いなまる )の肩は、あやしく波をうった。 かれをにらんだ二つの 眸 ( ひとみ )からは、こらえきれない熱涙が、ハラハラとはふり落ちてとまらない。 眼 ( まなこ )もらんらんともえるのだった。 「若君、若君……」 と、 龍太郎 ( りゅうたろう )はそッと 膝 ( ひざ )をついて目くばせをしたが、伊那丸は、さらに心情をつつまなかった。 「おお……」と家康はうなずいて、そしてやさしそうに、 「父の 領地 ( りょうち )は 焦土 ( しょうど )となり、身は 天涯 ( てんがい )の 孤児 ( こじ )となった伊那丸、さだめし 口惜 ( くや )しかろう、もっともである。 いずれ、家康もとくと考えおくであろうから、しばらくは、まず落ちついて、体をやすめているがよかろう」 家康はなにか 一言 ( ひとこと )、 近侍 ( きんじ )にいいつけて、その席を立ってしまった。 ふたりはやがて、酒井の家臣、 坂部十郎太 ( さかべじゅうろうた )のうしろにしたがって、二の丸の 塗籠造 ( ぬりごめづく )りの一室へあんないされた。 伊那丸は、ふたりきりになると、ワッと 袂 ( たもと )をかんで、泣いてしまった。 「龍太郎、わしは 口惜 ( くや )しい……くやしかった」 「ごもっともです、おさっしもうしまする」 とかれもしばらく、 伊那丸 ( いなまる )の手をとって、あおむいていたが、きッと、あらたまっていった。 「さすがにいまだご 若年 ( じゃくねん )、ごむりではありますが、だいじなときです。 お心をしかとあそばさねば、この 大望 ( たいもう )をはたすことはできません」 「そうであった、伊那丸は 女々 ( めめ )しいやつのう……」 と 快川和尚 ( かいせんおしょう )が、 幼心 ( おさなごころ )へうちこんでおいた教えの力が、そのとき、かれの胸に 生々 ( いきいき )とよみがえった。 にっこりと笑って、涙をふいた。 「わたくしの考えでは、 家康 ( いえやす )めは、あのするどい目で、若さまのようすから心のそこまで読みぬいてしまったとぞんじます。 なかなか、この 龍太郎 ( りゅうたろう )が考えた 策 ( て )にのるような 愚将 ( ぐしょう )ではありませぬから、 必然 ( ひつぜん )、お身の上もあやういものと見なければなりません」 「わしもそう思った。 それゆえに、よしや、いちじの 計略 ( はかりごと )にせよ、家康などに頭をさげるのがいやであった。 龍太郎、そちの教えどおりにしなかった、わしのわがままはゆるしてくれよ」 果然 ( かぜん )、ふたりはまえから、家康の身に近よる 秘策 ( ひさく )をいだいて、わざと、この城内へとらわれてきたのらしい。 しかし、すでにそれを、家康が見破ってしまったからには、 鮫 ( さめ )をうたんがため鮫の腹中にはいって、出られなくなったと、おなじ結果におちたものだ。 このうえは、家康がどうでるか、敵のでようによってこの 窮地 ( きゅうち )から 活路 ( かつろ )をひらくか、あるいは、浜松城の鬼となるか、武運の分れめを、一 挙 ( きょ )にきめるよりほかはない。 日がくれると、 膳所 ( ぜんしょ )の 侍 ( さむらい )が、おびただしい料理や美酒をはこんできて、うやうやしくふたりにすすめた。 「わが君の 志 ( こころざし )でござります。 おくつろぎあって、じゅうぶんに、おすごしくださるようにとのおことばです」 「 過分 ( かぶん )です。 よしなに、お伝えください」 「それと、城内の 掟 ( おきて )でござるが、ご所持のもの、ご 佩刀 ( はいとう )などは、おあずかりもうせとのことでござりますが」 「いや、それはことわります」と 龍太郎 ( りゅうたろう )はきっぱり、 「若君のお刀は伝家の宝刀、ひとの手にふれさせていい 品 ( しな )ではありませぬ。 また、 拙者 ( せっしゃ )の 杖 ( つえ )は 護仏 ( ごぶつ )の 法杖 ( ほうじょう )、 笈 ( おい )のなかは 三尊 ( さんぞん )の 弥陀 ( みだ )です。 ご 不審 ( ふしん )ならば、おあらためなさるがよいが、お渡しもうすことは、 誓 ( ちか )ってあいなりません」 「では……」 と、その 威厳 ( いげん )におどろいた家臣たちは、おずおずと笈のなかをあらためたが、そのなかには、龍太郎の言明したとおり、三体のほとけの 像 ( ぞう )があるばかりだった。 そして、 杖 ( つえ )のあやしい点には気づかずに、そこそこに、そこからさがってしまった。 「若君、けっして手をおふれなさるな、この分では、これもあやしい」 と、 膳部 ( ぜんぶ )の 吸物椀 ( すいものわん )をとって、なかの 汁 ( しる )を、部屋の白壁にパッとかけてみると、 墨 ( すみ )のように、まっ黒に変化して染まった。 「毒だ! この魚にも、この飯にも、おそろしい毒薬がまぜてある。 伊那丸 ( いなまる )さま、 家康 ( いえやす )の心はこれではっきりわかりました。 うわべはどこまでも 柔和 ( にゅうわ )にみせて、わたしたちを 毒害 ( どくがい )しようという 肚 ( はら )でした」 「ではここも?」 と伊那丸は立ちあがって、 塗籠 ( ぬりごめ )の出口の戸をおしてみると、はたして 開 ( あ )かない。 力いっぱい、おせど引けど開かなくなっている。 そして、夜のふけるのを待って、 足帯 ( あしおび )、 脇差 ( わきざし )など、しっかりと 身支度 ( みじたく )しはじめた。 やがて龍太郎は、 笈 ( おい )のなかから取りのけておいた一体の 仏像 ( ぶつぞう )を、 部屋 ( へや )のすみへおいた。 そして 燭台 ( しょくだい )の 灯 ( ともしび )をその上へ横倒しにのせかける。 部屋の中は、いちじ、やや暗くなったが、仏像の木に油がしみて、ふたたびプスプスと、まえにもまして、明るい 焔 ( ほのお )を立ててきた。 龍太郎は、伊那丸の体をひしと抱きしめて、反対のすみによった。 そして、できるだけ身をちぢめながら、じッとその火をみつめていた。 プス……プス…… 焔 ( ほのお )は赤くなり、むらさき色になりしてゆくうちに、パッと部屋のなかが真暗になったせつな、チリチリッと、こまかい火の 粉 ( こ )が、仏像からうつくしくほとばしりはじめた。 「若君、耳を耳を」と、いいながら龍太郎も、かたく眼をつぶった。 ガラガラと、すさまじい 震動 ( しんどう )は、 本丸 ( ほんまる )、三の丸までもゆるがした。 すわ 変事 ( へんじ )と、 旗本 ( はたもと )や、役人たちは、 得物 ( えもの )をとってきてみると、 外廓 ( そとぐるわ )の白壁がおちたところから、いきおいよくふきだしている怪火! すでに、 矢倉 ( やぐら )へまでもえうつろうとしているありさまだ。 無反 ( むぞ )りの 戒刀 ( かいとう )をふりかぶった 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )、つづいて、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )のすがた。 「 曲者 ( くせもの )ッ」 と下では、 騒然 ( そうぜん )と 渦 ( うず )をまいた。 小太刀 ( こだち )をとっては、 伊那丸 ( いなまる )はふしぎな天才児である。 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )も戒刀の名人、しかも 隠形 ( おんぎょう )の術からえた身のかるさも、そなえている。 けれど、伊那丸も龍太郎も、けっして、 匹夫 ( ひっぷ )の 勇 ( ゆう )にはやる者ではない。 どんな場合にも、うろたえないだけの修養はある。 しかし、ひとたび人間が、信念に身をかためてむかう時は、 刀刃 ( とうじん )も折れ、どんな 悪鬼 ( あっき )も 羅刹 ( らせつ )も、かならず 退 ( しりぞ )けうるという教えもある。 ふたりがふりかぶった太刀は、まさに信念の一刀だ。 とびおりた五尺の 体 ( からだ )もまた、信念の 鎖帷子 ( くさりかたびら )をきこんでいるのだった。 「わッ」 とさけんだ下の武士たちは、ふいにふたりが、頭上へ飛びおりてきたいきおいにひるんで、思わず、サッとそこを開いてしまった。 どんと、ふたりのからだが下へつくやいな、いちじに、乱刀の波がどッと斬りつけていったが、 「 退 ( すさ )れッ」 と、龍太郎の手からふりだされた 戒刀 ( かいとう )の 切 ( き )ッ 先 ( さき )に、乱れたつ足もと。 それを目がけて 伊那丸 ( いなまる )の小太刀も、 飛箭 ( ひせん )のごとく突き進んだ。 たちまち火花、たちまち 剣 ( つるぎ )の音、斬りおられた 槍 ( やり )は 宙 ( ちゅう )にとび、太刀さきに当ったものは、無残なうめきをあげて、たおれた。 「 退 ( ひ )けッ! だめだ」 と城の 塀 ( へい )にせばめられて、人数の多い城兵は、かえって自由を 欠 ( か )いた。 武士たちは、ふたたび、見ぎたなく逃げ出した。 龍太郎 ( りゅうたろう )と伊那丸は、血刀をふって、追いちらしたうえ、 昼間 ( ひるま )のうちに、見ておいた本丸をめがけて、かけこんでいった。 めざすは本丸! あいてはひとり! と、ほかの 雑兵 ( ぞうひょう )には目もくれないで、まっしぐらに、武者走り ( 城壁 ( じょうへき )の 細道 ( ほそみち ))をかけぬけた。 矢倉 ( やぐら )へむかった消火隊と、武器をとって 討手 ( うって )にむかった者が、あらかたである。 「火はどうじゃ、手はまわったか」 寝所をでた家康は、そう問いながら、本丸の 四阿 ( あずまや )へ足をむけていた。 すると、 闇 ( やみ )のなかから、ばたばたとそこへかけよってきた黒い人影がある。 「や!」 と侍たちが、立ちふさがって、きッと見ると、物の具で身をかためたひとりの 武士 ( ぶし )が、大地へ両手をついた。 「お 上 ( かみ )、 武田 ( たけだ )の 主従 ( しゅじゅう )が、火薬をしかけたうえに 狼藉 ( ろうぜき )におよびました。 ご身辺にまんいちがあっては、一大事です。 はやくお 奥 ( おく )へお引きかえしをねがいまする」 「おう、 坂部十郎太 ( さかべじゅうろうた )か。 たかが 稚児 ( ちご )どうような 伊那丸 ( いなまる )と 六部 ( ろくぶ )の一人や二人が、 檻 ( おり )をやぶったとて、なにをさほどにうろたえることがある。 「無礼ものッ!」 とさけびながら、よろりと、しりえに、身をながした家康の 袖 ( そで )を、さッと、白い 切 ( き )ッ 先 ( さき )がかすってきた。 「何者だ!」 とその 太刀影 ( たちかげ )を見て、ガバと、はねおきるより早く、斬りまぜていった 十郎太 ( じゅうろうた )の陣刀。 「お 上 ( かみ )、お上」 と 近侍 ( きんじ )のものは、そのすきに、 家康 ( いえやす )を 屏風 ( びょうぶ )がこいにして、本丸の奥へと引きかえしていった。 ここぞと、十郎太がふりかぶった太刀に、あわれむごい血煙が、立つかと見えたせつな、魔鳥のごとく飛びかかってきた 龍太郎 ( りゅうたろう )が、やッと、横ざまに 戒刀 ( かいとう )をもって、 薙 ( な )ぎつけた。 「むッ……」と十郎太は、 苦鳴 ( くめい )をあげて、たおれた。 もう、すこしも、ご 猶予 ( ゆうよ )は危険です。 さ、この城から逃げださねばなりませぬ」 「でも……龍太郎、ここまできて、家康を討ちもらしたのはざんねんだ。 わしは無念だ」 「ごもっともです。 しかし、 伊那丸 ( いなまる )さまの大望は、ひろい天下にあるのではござりませぬか。 家康 ( いえやす )ひとりは小さな敵です。 さ、早く」 とせき立てたかれは、むりにかれの手をとって、 築山 ( つきやま )から、城の 土塀 ( どべい )によじのぼり、 狭間 ( はざま )や、わずかな足がかりを力に、二 丈 ( じょう )あまりの 石垣 ( いしがき )を、すべり落ちた。 途中に犬走りという中段がある。 ふたりはそこまでおりて、ぴったりと石垣に腹をつけながら、しばらくあたりをうかがっていた。 上では、城内の武士が声をからして、八ぽうへ 手配 ( てくば )りをさけびつつ、 縄梯子 ( なわばしご )を、石垣のそとへかけおろしてきた。 「どうしたものだろう?」 さすがの 龍太郎 ( りゅうたろう )も、ここまできて、はたと 当惑 ( とうわく )した。 もう 濠 ( ほり )までわずかに五、六尺だが、そのさきは、満々とたたえた 外濠 ( そとぼり )、橋なくして、渡ることはとてもできない。 ふつう、兵法で十五 間 ( けん )以上と定められてある 濠 ( ほり )が、どっちへまわっても、陸と城との 境 ( さかい )をへだてている。 するといきなり上からヒューッと一団の火が尾をひいて、ふたりのそばに落ちてきた。 闇夜の敵影をさぐる投げ 松明 ( たいまつ )である。 「しまった」と 龍太郎 ( りゅうたろう )は 伊那丸 ( いなまる )の身をかばいながら、石垣にそった犬走りを先へさきへとにげのびた。 しかし、どこまでいっても 陸 ( おか )へでるはずはない。 ただむなしく、城のまわりをまわっているのだ。 そのうちには、敵の 手配 ( てはい )はいよいよきびしく固まるであろう。 矢と、鉄砲と、投げ 松明 ( たいまつ )は、どこまでも、ふたりの影をおいかけてくる。 そのうちに龍太郎は、「あッ」と立ちすくんでしまった。 ゆくての道はとぎれている。 見れば目のまえはまっくらな 深淵 ( しんえん )で、ごうーッという水音が、 闇 ( やみ )のそこに 渦 ( うず )まいているようす。 ここぞ、城内の水をきって落としてくる水門であったのだ。 矢弾 ( やだま )は、ともすると、 鬢 ( びん )の毛をかすってくる。 前はうずまく 深淵 ( しんえん )、ふたりは、進退きわまった。 と、そのまえへ、ぬッと下から突きだしてきた 槍 ( やり )の 穂 ( ほ )? 「何者?」 と思わず引っつかむと、これは、冷たい雫にぬれた 棹 ( さお )のさきだった。 龍太郎がつかんだ力に引かれて、まっ黒な水門から 筏 ( いかだ )のような影がゆらゆらと流れよってきた。 その上にたって、 棹 ( さお )を 手 ( た )ぐってくるふしぎな男はたれ? 敵か味方か、ふたりは目をみはって、 闇 ( やみ )をすかした。 「お乗りなさい、はやく、はやく」 筏 ( いかだ )のうえの男は、早口にいった。 いまはなにを 問 ( と )うすきもない。 ふたりは、ヒラリと飛びうつった。 ザーッとはねあがった水玉をあびて、男は、力まかせに 石垣 ( いしがき )をつく。 そして、すでに 濠 ( ほり )のなかほどまできたとき、 「その方はそも何者だ。 われわれをだれとおもって助けてくれたのか」 龍太郎 ( りゅうたろう )が、ふしんな顔をしてきくと、それまで、黙々として、棹をあやつっていた男は、はじめて口を開いてこういった。 「 武田伊那丸 ( たけだいなまる )さまと知ってのうえです。 わたくしは、この城の 掃除番 ( そうじばん )、 森子之吉 ( もりねのきち )という者ですが、根から 徳川家 ( とくがわけ )の家来ではないのです」 「おう、そういえば、どこやらに、 甲州 ( こうしゅう )なまりらしいところもあるようだ」 「何代もまえから、 甲府 ( こうふ )のご城下にすんでおりました。 父は 森右兵衛 ( もりうへえ )といって、お 館 ( やかた )の 足軽 ( あしがる )でした。 ところが、運わるく、 長篠 ( ながしの )の合戦のおりに、父の 右兵衛 ( うへえ )がとらわれたので、わたくしも、心ならず徳川家に 降 ( くだ )っていましたが、ささいなあやまちから、父は 斬罪 ( ざんざい )になってしまったのです。 わたくしにとっては、 怨 ( うら )みこそあれ、もう奉公する気のない浜松城をすてて、一日もはやく、 故郷 ( こきょう )の甲府にかえりたいと思っているまに、 武田家 ( たけだけ )は、 織田 ( おだ ) 徳川 ( とくがわ )のためにほろぼされ、いるも敵地、かえるも敵地という はめになってしまいました。 ところへ、ゆうべ、 伊那丸 ( いなまる )さまがつかまってきたという城内のうわさです。 びっくりして、お家の不運をなげいていました。 けれど、 今宵 ( こよい )のさわぎには、てっきりお逃げあそばすであろうと、水門のかげへ 筏 ( いかだ )をしのばして、お待ちもうしていたのです」 「ああ、天の助けだ。 子之吉 ( ねのきち )ともうす者、心からお礼をいいます」 と、伊那丸は、この至誠な若者を、いやしい 足軽 ( あしがる )の子とさげすんではみられなかった。 いくどか、頭をさげて 礼 ( れい )をくり返した。 そのまに、 筏 ( いかだ )は どんと岸についた。 「さ、おあがりなさいませ」と子之吉は、 葦 ( あし )の根をしっかり持って、筏を食いよせながらいった。 「かたじけない」と、ふたりが岸へ飛びあがると、 「あ、お待ちください」とあわててとめた。 「 子之吉 ( ねのきち )、いつかはまたきっとめぐりあうであろう」 「いえ、それより、どっちへお逃げなさるにしても、この 濠端 ( ほりばた )を、右にいってはいけません。 お 城固 ( しろがた )めの 旗本屋敷 ( はたもとやしき )が多いなかへはいったら 袋 ( ふくろ )のねずみです。 どこまでもここから、左へ左へとすすんで、 入野 ( いりぬ )の 関 ( せき )をこえさえすれば、 浜名湖 ( はまなこ )の岸へでられます」 「や、ではこの先にも 関所 ( せきしょ )があるか」 「おあんじなさいますな、ここに 蓑 ( みの )と、わたくしの 鑑札 ( かんさつ )があります。 お姿をつつんで、これをお持ちになれば大じょうぶです」 子之吉 ( ねのきち )は、下からそれを渡すと、岸をついて、ふたたび、 筏 ( いかだ )を 濠 ( ほり )のなかほどへすすめていったが、にわかに、 どぶんとそこから水けむりが立った。 「ややッ」と、岸のふたりはおどろいて手をあげたが、もうなんともすることもできなかった。 子之吉は、筏をはなすと同時に、 脇差 ( わきざし )をぬいて、みごとにわが 喉笛 ( のどぶえ )をかッ切ったまま、 濠 ( ほり )のなかへ身を沈めてしまったのである。 後日に、 徳川家 ( とくがわけ )の手にたおれるよりは、故主の若君のまえで、報恩の一死をいさぎよくささげたほうが、 森子之吉 ( もりねのきち )の 本望 ( ほんもう )であったのだ。 伊那丸 ( いなまる )と 龍太郎 ( りゅうたろう )が 外濠 ( そとぼり )をわたって、 脱出 ( だっしゅつ )したのを、やがて知った浜松城の武士たちは、にわかに、 追手 ( おって )を組織して、 入野 ( いりぬ )の 関 ( せき )へはしった。 ところが、すでに 二刻 ( ふたとき )もまえに、 蓑 ( みの )をきた両名のものが、この 関 ( せき )へかかったが、 足軽鑑札 ( あしがるかんさつ )を持っているので、夜中ではあったが、通したということなので、 討手 ( うって )のものは、地だんだをふんだ。 そして、 長駆 ( ちょうく )して、さらに次の 浜名湖 ( はまなこ )の渡し場へさしていそいだ。 いっぽう、 伊那丸 ( いなまる )、 龍太郎 ( りゅうたろう )のふたりは、しゅびよく、浜名湖のきしべまで落ちのびてきたが、一 難 ( なん )さってまた一難、ここまできながら、一 艘 ( そう )の船も見あたらないのでむなしくあっちこっちと、さまよっていた。 月はないが、空いちめんに 磨 ( と )ぎだされ、かがやかしい星の光と、ゆるやかに波を 縒 ( よ )る水明りに、湖は、夜明けのようにほの明るかった。 すると、ギイ、ギイ……とどこからか、この 静寂 ( しじま )をやぶる 櫓 ( ろ )の音がしてきた。 「お、ありゃなんの船であろう?」 と伊那丸が指したほうを見ると、いましも、 弁天島 ( べんてんじま )の岩かげをはなれた一艘の小船に、五、六人の武士が乗りこんで、こなたの岸へ 舵 ( かじ )をむけてくる。 「いずれ 徳川家 ( とくがわけ )の 武士 ( ぶし )にちがいない。 伊那丸さま、しばらくここへ」 と龍太郎はさしまねいて、ともにくさむらのなかへ身をしずめていると、まもなく船は岸について、 黒装束 ( くろしょうぞく )の者がバラバラと 陸 ( おか )へとびあがり、口々になにかざわめき立ってゆく。 「せっかく仕返しにまいったのに、かんじんなやつがいなかったのはざんねんしごくであった」 「いつかまた、きゃつのすがたを見かけしだいに、ぶッた斬ってやるさ。 それに、すまいもつきとめてある」 「あの 小僧 ( こぞう )も、あとで家へかえって見たら、さだめしびっくりして泣きわめくにちがいない。 それだけでも、まアまア、いちじの 溜飲 ( りゅういん )がさがったというものだ」 ものかげに、人ありとも知らずにこう話しながら、浜松のほうへつれ立ってゆくのをやり過ごした 龍太郎 ( りゅうたろう )と 伊那丸 ( いなまる )は、そこを、すばやく飛びだして、かれらが乗りすてた船へとびうつるが早いか、力のかぎり 櫓 ( ろ )をこいだ。 「龍太郎、いったいいまのは、何者であろう」 舳 ( みよし )に腰かけていた伊那丸が、ふといいだした。 「さて、この夜中に、 黒装束 ( くろしょうぞく )で 横行 ( おうこう )するやからは、いずれ、 盗賊 ( とうぞく )のたぐいであったかもしれませぬ」 「いや、わしはあのなかに、ききおぼえのある声をきいた。 盗賊の群れではないと思う」 「はて……?」龍太郎は小首をかしげている。 「そうじゃ、ゆうべ、 八幡前 ( はちまんまえ )で、 鎧売 ( よろいう )りに斬りちらされた悪侍、あのときの者が二、三人はたしか今の群れにまじっていた」 「おお、そうおっしゃれば、いかにも 似通 ( にかよ )うていたやつもおりましたな」 と、龍太郎はいつもながら、伊那丸のかしこさに 舌 ( した )をまいた。 そのまに、船は 弁天島 ( べんてんじま )へこぎついた。 「浜松から遠くもない、こんな小島に 長居 ( ながい )は危険です。 わたくしの考えでは、夜のあけぬまえに、 渥美 ( あつみ )の海へこぎだして、 伊良湖崎 ( いらこざき )から 志摩 ( しま )の国へわたるが一ばんご無事かとぞんじますが」 「どんな荒海、どんな 嶮岨 ( けんそ )をこえてもいい。 ただ一ときもはやく、かねがねそちが話したおん方にお目にかかり、また 忍剣 ( にんけん )をたずね、その他の勇士を 狩 ( か )りあつめて、この乱れた世を 泰平 ( たいへい )にしずめるほか、 伊那丸 ( いなまる )の望みはない」 「そのお心は、 龍太郎 ( りゅうたろう )もおさっしいたしております。 では、わたくしは弁天堂の 禰宜 ( ねぎ )か、どこぞの 漁師 ( りょうし )をおこして 食 ( た )べ物の用意をいたしてまいりまするから、しばらく船のなかでお待ちくださいまし」 と龍太郎は、ひとりで島へあがっていった。 そしてあなたこなたを 物色 ( ぶっしょく )してくると、白砂をしいた、まばらな松のなかにチラチラ 灯 ( あか )りのもれている一軒の家が目についた。 「漁師の家と見える、ひとつ、 訪 ( おとず )れてみよう」 と龍太郎は、ツカツカと軒下へきて、開けっぱなしになっている雨戸の口からなかをのぞいてみると、うすぐらい 灯 ( ともしび )のそばに、ひとりの男が、 朱 ( あけ )にそまった 老婆 ( ろうば )の 死骸 ( しがい )を抱きしめたまま、よよと、男泣きに泣いているのであった。 龍太郎 ( りゅうたろう )が、そこを立ちさろうとすると、なかの男は、 跫音 ( あしおと )を耳にとめたか、にわかに、はねおきて、 壁 ( かべ )に立てかけてあった 得物 ( えもの )をとるやいなや、ばらッと、雨戸のそとへかけおりた。 「待てッ、待て、待てッ!」 あまりその声のするどさに、龍太郎も、ギョッとしてふりかえった。 見ればそれは 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )であった。 「こりゃ、なんだって、 拙者 ( せっしゃ )の不意をつくか」 「えい、 吐 ( ぬ )かすな、おれのお 母 ( ふくろ )をころしたのは、おまえだろう。 天にも地にも、たったひとりのお 母 ( ふくろ )さまのかたきだ。 どうするかおぼえていろ!」 「勘ちがいするな、さようなおぼえはないぞ」 「だまれ、だまれッ、めったに人のこないこの島に、なんの用があって、うろついていた。 今しがた、 宿 ( しゅく )から帰ってみれば、お 母 ( ふくろ )さまはズタ斬り、家のなかは乱暴 狼藉 ( ろうぜき )、あやしいやつは、 汝 ( なんじ )よりほかにないわッ」 目に、いっぱい 溜 ( た )め 涙 ( なみだ )をひからせている。 憤怒 ( ふんぬ )のまなじりをつりあげて、 いッかなきかないのだ。 「うろたえ 言 ( ごと )をもうすな、だれが、恨みもないきさまの老母などを、殺すものか」 「いや、なんといおうが、おれの目にかかったからにはのがすものか」 「うぬ! 血まよって、 後悔 ( こうかい )いたすなよ」 「なにを、この 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )でただひと突き、おふくろさまへの 手向 ( たむ )けにしてくれる。 覚悟 ( かくご )をしろ」 「えい! 聞きわけのないやつだ」 と、 龍太郎 ( りゅうたろう )もむッとして、 槍 ( やり )のケラ首が折れるばかりにひッたくると、 小文治 ( こぶんじ )も、 金剛力 ( こんごうりき )をしぼって、ひきもどそうとした。 いつか、 裾野 ( すその )の 文殊閣 ( もんじゅかく )でおちあった 加賀見忍剣 ( かがみにんけん )も、この 戒刀 ( かいとう )のはげしさには 膏汗 ( あぶらあせ )をしぼられたものだった。 ましてや、 若年 ( じゃくねん )な 巽小文治 ( たつみこぶんじ )は、必然、まッ二つか、 袈裟 ( けさ )がけか? どっちにしても、助かりうべき命ではない。 龍太郎は、とっさに、 眸 ( ひとみ )を抜かれたような気持がした。 すぐ 踏 ( ふ )みとまって、 太刀 ( たち )を持ちなおすと、すでにかまえなおした小文治は槍を中段ににぎって、龍太郎の 鳩尾 ( みぞおち )へピタリと 穂先 ( ほさき )をむけてきた。 かつて一ども、いまのようにあざやかに、敵にかわされたためしのない龍太郎は、このかまえを見るにおよんで、いよいよ 要心 ( ようじん )に要心をくわえながら、 下段 ( げだん )の 戒刀 ( かいとう )をきわめてしぜんに、頭のうえへ持っていった。 玄妙 ( げんみょう )きわまる槍と、 精妙無比 ( せいみょうむひ )な太刀はここにたがいの呼吸をはかり、たがいに、 兎 ( う )の 毛 ( け )のすきをねらい合って一瞬一瞬、にじりよった。 天 ( てんぴょう )一陣! ものすごい殺気が、みるまにふたりのあいだにみなぎってきた。 ああ 龍虎 ( りゅうこ )たおれるものはいずれであろうか。 船べりに 頬杖 ( ほおづえ )ついて、龍太郎を待っていた 伊那丸 ( いなまる )は、 宵 ( よい )からのつかれにさそわれて、いつか、銀河の空の下でうっとりと眠りの国へさまよっていた。 内浦鼻 ( うちうらばな )のあたりから、かなり大きな黒船のかげが 瑠璃 ( るり )の 湖 ( みずうみ )をすべって、いっさんにこっちへむかってくるのが見えだした。 だんだんと近づいてきたその船を見ると 徳川家 ( とくがわけ )の用船でもなく、また 漁船 ( ぎょせん )のようでもない。 舳 ( みよし )のぐあいや、 帆柱 ( ほばしら )のさまなどは、この近海に見なれない 長崎型 ( ながさきがた )の怪船であった。 ふかしぎな船は、いつか 弁天島 ( べんてんじま )のうらで 船脚 ( ふなあし )をとめた。 そして、親船をはなれた一 艘 ( そう )の 軽舸 ( はしけ )が、矢よりも早くあやつられて 伊那丸 ( いなまる )の夢をうつつに乗せている小船のそばまで近づいてきた。 ポーンと 鈎縄 ( かぎなわ )を投げられたのを伊那丸はまったく夢にも知らずにいる。 だがその口も、たちまち 綿 ( わた )のようなものをつめられてしまったので、声も立てられない。 ただ身をもがいて、 伏 ( ふ )しまろんだ。 水なれた怪船の男どもは、毒魚のごとく、 胴 ( どう )の 間 ( ま )や軽舸の上におどり立って、なにかてんでに口ぜわしくさけびあっている。 龍太郎 ( りゅうたろう )はどうした? この伊那丸の身にふってわいた大変事を、まだ気づかずにいるのかしら? それとも、 巽小文治 ( たつみこぶんじ )の 稀代 ( きたい )な 槍先 ( やりさき )にかかってあえなく討たれてしまったのか……? 西北へまわった風を 帆 ( ほ )にうけて、あやしの船は、すでにすでに、入江を切って、白い波をかみながら、 外海 ( そとうみ )へでてゆくではないか。 うわべは 歌詠 ( うたよ )みの法師か、きらくな雲水と見せかけてこころはゆだんもすきもなく、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )のあとをたずねて、きょうは東、あすは南と、 血眼 ( ちまなこ )の旅をつづけている 加賀見忍剣 ( かがみにんけん )。 裾野 ( すその )の 闇 ( やみ )に乗じられて、 まんまと、 六部 ( ろくぶ )の 龍太郎 ( りゅうたろう )のために、大せつな主君を、うばいさられた、かれの 無念 ( むねん )さは思いやられる。 おりから、天下は 大動乱 ( だいどうらん )、 鄙 ( ひな )も都も、その 渦 ( うず )にまきこまれていた。 この年六月二日に、 右大臣織田信長 ( うだいじんおだのぶなが )は、 反逆者 ( はんぎゃくしゃ ) 光秀 ( みつひで )のために、本能寺であえなき 最期 ( さいご )をとげた。 盟主 ( めいしゅ )をうしなった天下の群雄は、ひとしくうろたえまよった。 なかにひとり、山崎の 弔 ( とむら )い合戦に、武名をあげたものは 秀吉 ( ひでよし )であったが、北国の 柴田 ( しばた )、その 他 ( た )、 北条 ( ほうじょう ) 徳川 ( とくがわ )なども、おのおのこの機をねらって、おのれこそ天下をとらんものと、野心の 関 ( せき )をかため、 虎狼 ( ころう )の 鏃 ( やじり )をといで、人の心も、世のさまも、にわかに 険 ( けわ )しくなってきた。 そうした世間であっただけに、忍剣の旅は、なみたいていなものではない。 「伊那丸さまはどこにおわすか。 せめて……アア 夢 ( ゆめ )にでもいいから、いどころを知りたい……」 足をやすめるたびに 嘆息 ( たんそく )した。 その一念で、ふと忍剣のあたまに、あることがひらめいた。 「そうだ! クロはまだ生きているはずだ」 かれはその日から、急に道をかえて、思い出おおき、 甲斐 ( かい )の国へむかって、いっさんにとってかえした。 忍剣 ( にんけん )が気のついたクロとは、そもなにものかわからないが、かれのすがたは、まもなく、変りはてた 恵林寺 ( えりんじ )の 焼 ( や )け 跡 ( あと )へあらわれた。 忍剣は 数珠 ( じゅず )をだして、しばらくそこに 合掌 ( がっしょう )していた。 すると、番小屋のなかから、とびだしてきた 侍 ( さむらい )がふたり、うむをいわさず、かれの両腕をねじあげた。 「こらッ、そのほうはここで、なにをいたしておった」 「はい、 国師 ( こくし )さまはじめ、あえなくお 亡 ( な )くなりはてた、一 山 ( ざん )の 霊 ( れい )をとむろうていたのでござります」 「ならぬ。 甲斐 ( かい )一 帯 ( たい )も、いまでは 徳川家 ( とくがわけ )のご領分だぞ。 それをあずかる者は、ご家臣の 大須賀康隆 ( おおすかやすたか )さまじゃ。 みだりにここらをうろついていることはならぬ、とッととたちされ、かえれ!」 「どうぞしばらく。 ……ほかに用もあるのですから」 「あやしいことをもうすやつ。 この焼けあとに何用がある?」 「じつは当寺の裏山、 扇山 ( せんざん )の奥に、わたしの 幼 ( おさな )なじみがおります。 久しぶりで、その友だちに会いたいとおもいまして、はるばる 尋 ( たず )ねてまいったのです」 「ばかをいえ、さような者はここらにいない」 「たしかに生きているはずです。 それは、友だちともうしても、ただの人ではありません。 クロともうす 大鷲 ( おおわし )、それをひと目見たいのでございます」 「だまれ。 あの黒鷲は、当山を攻めおとした時の 生捕 ( いけど )りもの、大せつに 餌 ( え )をやって、ちかく浜松城へ 献上 ( けんじょう )いたすことになっているのだ、 汝 ( なんじ )らの見せ物ではない。 帰れというに帰りおらぬか」 ひとりが 腕 ( うで )、ひとりが 襟 ( えり )がみをつかんで、ずるずるとひきもどしかけると、 忍剣 ( にんけん )の 眉 ( まゆ )がピリッとあがった。 「これほど、ことをわけてもうすのに、なおじゃまだてするとゆるさんぞ!」 「なにを」 ひとりが 腰縄 ( こしなわ )をさぐるすきに、ふいに、忍剣の片足が どんと彼の 脾腹 ( ひばら )をけとばした。 アッと、うしろへたおれて、 悶絶 ( もんぜつ )したのを見た、べつな 侍 ( さむらい )は、 「おのれッ」と太刀の 柄 ( つか )へ手をかけて、抜きかけた。 あいては、 かッと血へどをはいてたおれた。 それに見むきもせず、鉄杖をこわきにかかえた忍剣はいっさんに、うら山の 奥 ( おく )へおくへとよじのぼってゆく。 らんらんと光る二つの眼は、みがきぬいた 琥珀 ( こはく )のようだ。 その底にすむ 金色 ( こんじき )の 瞳 ( ひとみ )、かしらの 逆羽 ( さかばね )、見るからに 猛々 ( たけだけ )しい真黒な 大鷲 ( おおわし )が、足の 鎖 ( くさり )を、ガチャリガチャリ鳴らしながら、 扇山 ( せんざん )の 石柱 ( いしばしら )の上にたって、ものすごい 絶叫 ( ぜっきょう )をあげていた。 そのくろい 翼 ( つばさ )を、左右にひろげるときは、一 丈 ( じょう )あまりの 巨身 ( きょしん )となり、銀の 爪 ( つめ )をさか立てて、まっ赤な口をあくときは、空とぶ小鳥もすくみ落ちるほどな 威 ( い )がある。 「おおいた! クロよ、無事でいたか」 おそれげもなく、そばへかけよってきた 忍剣 ( にんけん )の手になでられると、 鷲 ( わし )は、かれの肩に 嘴 ( くちばし )をすりつけて、あたかも、なつかしい 旧友 ( きゅうゆう )にでも会ったかのような表情をして、 柔和 ( にゅうわ )であった。 「おなじ 鳥類 ( ちょうるい )のなかでも、おまえは 霊鷲 ( れいしゅう )である。 さすがにわしの顔を見おぼえているようす……それならきっとこの使命をはたしてくれるであろう」 忍剣は、かねてしたためておいた一 片 ( ぺん )の 文字 ( もんじ )を、 油紙 ( あぶらがみ )にくるんでこよりとなし、クロの片足へ、いくえにもギリギリむすびつけた。 この 鷲 ( わし )にもいろいろな運命があった。 天文 ( てんもん )十五年のころ、 武田信玄 ( たけだしんげん )の軍勢が、 上杉憲政 ( うえすぎのりまさ )を攻めて 上野乱入 ( こうずけらんにゅう )にかかったとき、 碓氷峠 ( うすいとうげ )の陣中でとらえたのがこの 鷲 ( わし )であった。 碓氷の合戦は 甲軍 ( こうぐん )の大勝となって、敵将の 憲政 ( のりまさ )の首まであげたので、 以来 ( いらい )、 信玄 ( しんげん )はその 鷲 ( わし )を 館 ( やかた )にもちかえり、愛育していた。 信玄 ( しんげん )の死んだあとは、 勝頼 ( かつより )の手から、 供養 ( くよう )のためと 恵林寺 ( えりんじ )に 寄進 ( きしん )してあったのである。 ところがある時、 檻 ( おり )をやぶって、民家の五歳になる子を、 宙天 ( ちゅうてん )へくわえあげたことなどがあったので、扇山の中腹に石柱をたて、太い 鎖 ( くさり )で、その足をいましめてしまった。 幼少から、恵林寺にきていた 伊那丸 ( いなまる )は、いつか 忍剣 ( にんけん )とともに、この 鷲 ( わし )に 餌 ( え )をやったり、クロよクロよと、 愛撫 ( あいぶ )するようになっていた。 獰猛 ( どうもう )な 鷲 ( わし )も、伊那丸や忍剣の手には、 猫 ( ねこ )のようであった。 そして、恵林寺が 大紅蓮 ( だいぐれん )につつまれ、一 山 ( ざん )のこらず 最期 ( さいご )をとげたなかで、 鷲 ( わし )だけは、この山奥につながれていたために、おそろしい 焔 ( ほのお )からまぬがれたのだ。 「クロ、いまこそわしが、おまえの 鎖 ( くさり )をきってやるぞ、そしてその 翼 ( つばさ )で、大空を自由にかけまわれ、ただ、おまえをながいあいだかわいがってくだすった、伊那丸さまのお姿を地上に見たらおりてゆけよ」 そういいながら、鎖に手をかけたが、 鷲 ( わし )の足にはめられた 鉄 ( くろがね )の 環 ( かん )も、またふとい鎖も 断 ( き )れればこそ。 そのとき、ふもとのほうから、ワーッという、ただならぬ 鬨 ( とき )の 声 ( こえ )がおこった。 鎖 ( くさり )はまだきれていないが、 忍剣 ( にんけん )はその声に、 小手 ( こて )をかざして見た。 はやくも、木立のかげから、バラバラと先頭の武士がかけつけてきた。 いうまでもなく、 大須賀康隆 ( おおすかやすたか )の部下である。 扇山へあやしの者がいりこんだと聞いて、 捕手 ( とりて )をひきいてきたものだった。 「 売僧 ( まいす )、その 霊鳥 ( れいちょう )をなんとする」 「いらざること。 この 鷲 ( わし )こそ、 勝頼公 ( かつよりこう )のみ 代 ( よ )から当山に 寄進 ( きしん )されてあるものだ! どうしようとこなたのかってだ」 「うぬ! さては 武田 ( たけだ )の 残党 ( ざんとう )とはきまった」 「おどろいたかッ」と、いきなりブーンとふりとばした 鉄杖 ( てつじょう )にあたって、二、三人ははねとばされた。 「それ! とりにがすな」 ふもとのほうから、 追々 ( おいおい )とかけあつまってきた人数を 合 ( がっ )して、かれこれ三、四十人、 槍 ( やり )や 太刀 ( たち )を押ッとって、忍剣の 虚 ( きょ )をつき、すきをねらって斬ってかかる。 「飛び道具をもった者は、 梢 ( こずえ )のうえからぶッぱなせ」 足場がせまいので、捕手の 頭 ( かしら )がこうさけぶと、弓、 鉄砲 ( てっぽう )をひッかかえた十二、三人のものは、 猿 ( ましら )のごとく、ちかくの 杉 ( すぎ )や 欅 ( けやき )の梢にのぼって、手早く矢をつがえ、 火縄 ( ひなわ )をふいてねらいつける。 下では 忍剣 ( にんけん )、近よる者を、かたッぱしからたたきふせて、怪力のかぎりをふるったが、空からくる飛び道具をふせぐべき 術 ( すべ )もあろうはずはない。 はやくも飛んできた一の矢! また、二の矢。 夜叉 ( やしゃ )のごとく荒れまわった忍剣は、 突 ( とつ )として、いっぽうの 捕手 ( とりて )をかけくずし、そのわずかなすきに、ふたたび 鷲 ( わし )の 鎖 ( くさり )をねらって、一念力、 戛然 ( かつぜん )とうった。 きれた! ギャーッという 絶鳴 ( ぜつめい )をあげた 鷲 ( わし )は、猛然と 翼 ( つばさ )を一はたきさせて、地上をはなれたかと見るまに、一陣の山嵐をおこした翼のあおりをくって、 大樹 ( たいじゅ )の 梢 ( こずえ )の上からバラバラとふりおとされた弓組、鉄砲組。 「ア、ア、ア!」とばかり、 捕手 ( とりて )の 軍卒 ( ぐんそつ )がおどろきさわぐうちに、一ど、 雲井 ( くもい )へたかく舞いあがった 魔鳥 ( まちょう )は、ふたたびすさまじい 天 ( てんぴょう )をまいて 翔 ( か )けおりるや、するどい 爪 ( つめ )をさかだてて、 旋廻 ( せんかい )する。 ふるえ立った捕手どもは、木の根、 岩角 ( いわかど )にかじりついて、ただアレヨアレヨと 胆 ( きも )を消しているうちに、いつか忍剣のすがたを見うしない、同時に、偉大なる 黒鷲 ( くろわし )のかげも、天空はるかに飛びさってしまった。 腕が 互角 ( ごかく )なのか、いずれに 隙 ( すき )もないためか、そうほううごかず、 彫 ( ほ )りつけたごとくにらみあっているうちに、魔か、雲か、月をかすめて 疾風 ( はやて )とともに、天空から、そこへ 翔 ( か )けおりてきたすさまじいものがある。 バタバタという 羽 ( は )ばたきに、ふたりは、はッと耳をうたれた。 弁天島の砂をまきあげて、ぱッと、地をすってかなたへ飛びさった時、不意をおそわれたふたりは、思わず眼をおさえて、左右にとびわかれた。 それは、もうはるかに飛びさった、 鷲 ( わし )の 巨 ( おお )きなのにおどろいたのではない。 「もしや?」とおもえば、一 刻 ( こく )の 猶予 ( ゆうよ )もしてはおられない。 やにわに、 小文治 ( こぶんじ )という眼さきの敵をすてて、なぎさのほうへかけだした。 「 卑怯 ( ひきょう )もの!」 追いすがった 小文治 ( こぶんじ )が、さッと、くりこんでいった 槍 ( やり )の 穂先 ( ほさき )、ヒラリ、すばやくかわして、 千段 ( せんだん )をつかみとめた 龍太郎 ( りゅうたろう )は、はッたとふりかえって、 「 卑怯 ( ひきょう )ではない。 わが身ならぬ、大せつなるおかたの一大事なのだ、勝負はあとで決してやるから、しばらく待て」 「いいのがれはよせ。 その手は食わぬ」 「だれがうそを。 アレ見よ、こうしているまにも、あやしい船が遠のいてゆく、まんいちのことあっては、わが身に代えられぬおんかた、そのお身のうえが気づかわしい、しばらく待て、しばらく待て」 「オオあの船こそ、めったに正体を見せぬ 八幡船 ( ばはんせん )だ。 して、小船にのこしたというのはだれだ。 そのしだいによっては、待ってもくれよう」 「いまはなにをつつもう、 武田家 ( たけだけ )の 御曹子 ( おんぞうし )、 伊那丸 ( いなまる )さまにわたらせられる」 しばらく、じッと相手をみつめていた 小文治 ( こぶんじ )は、にわかに、槍を投げすててひざまずいてしまった。 「さては 伊那丸君 ( いなまるぎみ )のお 傅人 ( もりびと )でしたか。 今宵 ( こよい )、町へわたったとき、さわがしいおうわさは聞いていましたが、よもやあなたがたとは知らず、さきほどからのしつれい、いくえにもごかんべんをねがいまする」 「いや、ことさえわかればいいわけはない、 拙者 ( せっしゃ )はこうしてはおられぬ場合だ。 「チェッ、ざんねん。 あの 八幡船 ( ばはんせん )のしわざにそういない。 ところへ、案じてかけてきたのは、 小文治 ( こぶんじ )だった。 「若君のお身は?」 「しまッたことになった。 船はないか、船は」 「あの八幡船のあとを追うなら、とてもむだです」 「たとえ遠州灘のもくずとなってもよい! 追えるところまでゆく 覚悟 ( かくご )だ。 小文治 ( こぶんじ )は、それを見ると、不用意なじぶんの行動が後悔されてきた。 母をうしなった悲しさに、いちずに龍太郎を 下手人 ( げしゅにん )とあやまったがため、このことが起ったのだ。 さすれば、とうぜん、じぶんにも 罪 ( つみ )はある。 かれは、いくたびかそれをわびた。 そして、あらためて 素性 ( すじょう )を名のり、永年よき 主 ( しゅ )をさがしていたおりであるゆえ、ぜひとも、力をあわせて 伊那丸 ( いなまる )さまを取りかえし、ともども天下につくしたいと、 真心 ( まごころ )こめて龍太郎にたのんだ。 龍太郎も、よい味方を得たとよろこんだ。 しかし、さてこれから 八幡船 ( ばはんせん )の 根城 ( ねじろ )をさがそうとなると、それはほとんど雲にかくれた 時鳥 ( ほととぎす )をもとめるようなものだった。 「こうなってはしかたがない」 龍太郎はやがてこまぬいていた腕から顔をあげた。 「お 叱 ( しか )りをうけるかもしれぬが、一たび先生のところへ立ち帰って、この後の方針をきめるとしよう。 それよりほかに思案はない」 「して、その先生とおっしゃるおかたは」 「京の西、 鞍馬 ( くらま )の 奥 ( おく )にすんではいるが、ある時は、都にもいで、またある時は北国の山、南海のはてにまで姿を見せるという、 稀代 ( きたい )なご老体で、 拙者 ( せっしゃ )の 刀術 ( とうじゅつ )、 隠形 ( おんぎょう )の法なども、みなその老人からさずけられたものです」 鞍馬 ( くらま )ときくさえ、すぐ、 天狗 ( てんぐ )というような怪奇が 聯想 ( れんそう )されるところへ、この話をきいた 小文治 ( こぶんじ )は、もっと深くその老人が知りたくなった。 ただみずから、 果心居士 ( かしんこじ )と 異号 ( いごう )をつけております。 じつはこのたびのことも、まったくその先生のおさしずで、 織田 ( おだ ) 徳川 ( とくがわ )が 甲府攻 ( こうふぜ )めをもよおすと同時に、 拙者 ( せっしゃ )は、 六部 ( ろくぶ )に身を変じて、 伊那丸 ( いなまる )さまをお救いにむかったのです。 それがこの 不首尾 ( ふしゅび )となっては、先生にあわせる顔もないしだいだが、天下のこと 居 ( い )ながらにして知る先生、またきっと好いおさしずがあろうと思う」 「では、どうかわたしもともに、お 供 ( とも )をねがいまする」 「 異存 ( いぞん )はないが、さきをいそぐ、おしたくを早く」 小文治は、家に取ってかえすと、しばらくあって、 粗服 ( そふく )ながら、たしなみのある 旅支度 ( たびじたく )に、大小を差し、例の 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )をかついで、ふたたびでてきた。 「お待たせいたしました。 小船は、わたしの家のうしろへ着けておきましたから……」 という言葉に、龍太郎がそのほうへすすんで行くと、小船の上には、ひとつの 棺 ( かん )がのせてある。 武士 ( ぶし )にかえった 門出 ( かどで )に、 小文治 ( こぶんじ )は、母の 亡骸 ( なきがら )をしずかな 湖 ( うみ )の底へ 水葬 ( すいそう )にするつもりと見える。 と、あやしい 羽音 ( はおと )が、またも空に鳴った。 はッとしてふたりが船からふりあおぐと、大きな 輪 ( わ )をえがいていた 怪鳥 ( けちょう )のかげが、 潮 ( しお )けむる 遠州灘 ( えんしゅうなだ )のあなたへ、一しゅんのまに、かけりさった。 みんな空をむいて、同じように、 眉毛 ( まゆげ )の上へ片手をかざしている。 「さて、ふしぎなやつじゃのう」 「 仙人 ( せんにん )でしょうか」 「いや、 天狗 ( てんぐ )にちがいない」 「だって、この 真昼 ( まひる )なかに」 「おや、よく見ると本を読んでいますよ」 「いよいよ 魔物 ( まもの )ときまった」 この人々は、そも、なにを見ているのだろう。 なるほどふしぎ、人だかりのするのもむりではない。 太陽のまぶしさにさえぎられて、しかとは見えないが、 鶴 ( つる )のごとき老人が、 五重塔 ( ごじゅうのとう )のてッぺんにたしかにいるようだ。 しかも目のいい者のことばでは、あの高い、 登 ( のぼ )りようもない上でのんきに書物を見ているという。 「なに、 魔物 ( まもの )だと? どけどけ、どいてみろ」 「や、 今為朝 ( いまためとも )がきた」 群集はすぐまわりをひらいた。 今為朝 ( いまためとも )といわれたのはどんな人物かと見ると、 丈 ( たけ )たかく、色浅ぐろい二十四、五 歳 ( さい )の 武士 ( ぶし )である。 黒い 紋服 ( もんぷく )の 片肌 ( かたはだ )をぬぎ、手には、 日輪巻 ( にちりんまき )の 強弓 ( ごうきゅう )と、一本の矢をさかしまに 握 ( にぎ )っていた。 「む、いかにも見えるな……」 と、五重塔のいただきをながめた武士は、ガッキリ、その矢をつがえはじめた。 「や、あれを 射 ( い )ておしまいなさいますか」 あたりの者は 興 ( きょう )にそそられて、どよみ立った。 「この 霊地 ( れいち )へきて、奇怪なまねをするにっくいやつ、ことによったら、 南蛮寺 ( なんばんじ )にいるキリシタンのともがらかもしれぬ。 いずれにせよ、ぶッぱなして 諸人 ( しょにん )への見せしめとしてくれる」 弓の持ちかた、 矢番 ( やつがい )も、なにさまおぼえのあるらしい態度だ。 それもそのはず、この武士こそ、 坂本 ( さかもと )の町に 弓術 ( きゅうじゅつ )の道場をひらいて、都にまで名のきこえている 代々木流 ( よよぎりゅう )の 遠矢 ( とおや )の 達人 ( たつじん )、 山県蔦之助 ( やまがたつたのすけ )という者であるが、町の人は名をよばずに、 今為朝 ( いまためとも )とあだなしていた。 「あの矢先に立ってはたまるまい……」 人々がかたずをのんでみつめるまに、 矢筈 ( やはず )を 弦 ( つる )にかけた蔦之助は、 陽 ( ひ )にきらめく 鏃 ( やじり )を、 虚空 ( こくう )にむけて、ギリギリと満月にしぼりだした。 塔 ( とう )のいただきにいる者のすがたは、 下界 ( げかい )のさわぎを、どこふく風かというようすで、すましこんでいるらしい。 「 日吉 ( ひよし )の森へいってごらんなさい。 今為朝が、 五重塔 ( ごじゅうのとう )の上にでた老人の 魔物 ( まもの )を 射 ( い )にゆきましたぜ」 坂本の町の 葭簀 ( よしず )茶屋でも、こんなうわさがぱッとたった。 床几 ( しょうぎ )にかけて、茶をすすっていた 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )は、それを聞くと、道づれの 小文治 ( こぶんじ )をかえりみながら、にわかにツイと立ちあがった。 「ひょっとすると、その老人こそ、先生かもしれない。 このへんでお目にかかることができればなによりだ、とにかく、いそいでまいってみよう」 「え?」 小文治 ( こぶんじ )はふしんな顔をしたが、もう 龍太郎 ( りゅうたろう )がいっさんにかけだしたので、あわててあとからつづいてゆくと、うわさにたがわぬ人 群 ( む )れだ。 両足をふんまえて、 狙 ( ねら )いさだめた 蔦之助 ( つたのすけ )は、いまや、プツンとばかり手もとを切ってはなした。 と見れば、風をきってとんでいった白羽の矢は、まさしく 五重塔 ( ごじゅうのとう )の、あやしき老人を 射抜 ( いぬ )いたとおもったのに、ぱッと、そこから飛びたったのは、一羽の 白鷺 ( しらさぎ )、ヒラヒラと、青空にまいあがったが、やがて、 日吉 ( ひよし )の森へ 影 ( かげ )をかくした。 「なアんだ」と多くのものは、口をあいたまま、ぼうぜんとして、まえの老人がまぼろしか、いまの白鷺がまぼろしかと、おのれの目をうたぐって、 睫毛 ( まつげ )をこすっているばかりだ。 そこへ、 一足 ( ひとあし )おくれてきた龍太郎と小文治はもう人の散ってゆくのに失望して、そのまま、 叡山 ( えいざん )の道をグングン登っていった。 ふたりはこれから、 比叡山 ( ひえいざん )をこえ、 八瀬 ( やせ )から 鞍馬 ( くらま )をさして、 峰 ( みね )づたいにいそぐのらしい。 いうまでもなく 果心居士 ( かしんこじ )のすまいをたずねるためだ。 音にきく 源平 ( げんぺい )時代のむかし、 天狗 ( てんぐ )の 棲家 ( すみか )といわれたほどの鞍馬の山路は、まったく話にきいた以上のけわしさ。 おまけにふたりがそこへさしかかってきた時は、ちょうど、とっぷり日も暮れてしまった。 ふもとでもらった、 蛍火 ( ほたるび )ほどの 火縄 ( ひなわ )をゆいつのたよりにふって、うわばみの歯のような、岩壁をつたい、 百足腹 ( むかでばら )、鬼すべりなどという 嶮路 ( けんろ )をよじ登ってくる。 おりから 初秋 ( はつあき )とはいえ、山の寒さはまたかくべつ、それにいちめん 朦朧 ( もうろう )として、ふかい 霧 ( きり )が山をつつんでいるので、いつか火縄もしめって、消えてしまった。 「 小文治 ( こぶんじ )どの、お気をつけなされよ、よろしいか」 「大じょうぶ、ごしんぱいはいりません」 とはいったが、小文治も、海ならどんな荒浪にも恐れぬが、山にはなれないので、れいの 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )を 杖 ( つえ )にして足をひきずりひきずりついていった。 千段曲 ( せんだんまが )りという坂道をやっとおりると、白い霧がムクムクわきあがっている底に、ゴオーッというすごい水音がする。 渓流 ( けいりゅう )である。 「橋がないから、その 槍 ( やり )をおかしなさい。 こうして、おたがいに槍の両端を握りあってゆけば、流されることはありません」 龍太郎 ( りゅうたろう )は山なれているので、先にかるがると、岩石へとびうつった。 すると、小文治のうしろにあたる 断崖 ( だんがい )から、ドドドドッとまっ黒なものが、むらがっておりてきた。 「や?」と小文治は身がまえて見ると、およそ五、六十ぴきの 山猿 ( やまざる )の大群である。 そのなかに、十 歳 ( さい )ぐらいな少年がただひとり、 鹿 ( しか )の背にのって笑っている。 「おお、そこへきたのは、 竹童 ( ちくどう )ではないか」 岩の上から龍太郎が声をかけると、鹿の背からおりた少年も、なれなれしくいった。 「 龍太郎 ( りゅうたろう )さま、ただいまお帰りでございましたか」 「む、して先生はおいでであろうな」 「このあいだから、お客さまがご 滞留 ( たいりゅう )なので、このごろは、ずっと 荘園 ( そうえん )においでなさいます」 「そうか。 じつは 拙者 ( せっしゃ )の道づれも、足をいためたごようすだ。 おまえの 鹿 ( しか )をかしてあげてくれないか」 「アアこのおかたですか、おやすいことです」 竹童 ( ちくどう )は 口笛 ( くちぶえ )を鳴らしながら、鹿をおきずてにして、 岩燕 ( いわつばめ )のごとく、 渓流 ( けいりゅう )をとびこえてゆくと、 猿 ( さる )の大群も、口笛について、ワラワラとふかい霧の中へかげを消してしまった。 鹿の背をかりて、しばらくたどってくると、 小文治 ( こぶんじ )は 馥郁 ( ふくいく )たる 香 ( かお )りに、 仙境 ( せんきょう )へでもきたような心地がした。 「やっと 僧正谷 ( そうじょうがたに )へまいりましたぞ」 と龍太郎が指さすところを見ると、そこは 山芝 ( やましば )の平地で、 甘 ( あま )いにおいをただよわせている 果樹園 ( かじゅえん )には、なにかの 実 ( み )が 熟 ( う )れ、大きな 芭蕉 ( ばしょう )のかげには、竹を柱にしたゆかしい一軒の家が見えて、ほんのりと、 灯 ( あか )りがもれている。 門からのぞくと、 庵室 ( あんしつ )のなかには、 白髪童顔 ( はくはつどうがん )の 翁 ( おきな )が、果物で酒を 酌 ( く )みながら、 総髪 ( そうはつ )にゆったりっぱな 武士 ( ぶし )とむかいあって、なにかしきりに笑い 興 ( きょう )じている。 「 龍太郎 ( りゅうたろう )、ただいま帰りました」 とかれが両手をついたうしろに、 小文治 ( こぶんじ )もひかえた。 龍太郎の顔を見ると、 ふいと、かたわらの 藜 ( あかざ )の 杖 ( つえ )をにぎりとって、立ちあがるが早いか、 「ばかもの」ピシリと龍太郎の肩をうった。 果心居士 ( かしんこじ )は、なにも聞かないうちに、すべてのことを知っていた。 八幡船 ( ばはんせん )に 伊那丸 ( いなまる )をうばわれたことも、 巽小文治 ( たつみこぶんじ )の身の上も。 かれは、 仙人 ( せんにん )か、 幻術師 ( げんじゅつし )か、キリシタンの魔法を使う者か? はじめて会った小文治は、いつまでも、奇怪な 謎 ( なぞ )をとくことに苦しんだ。 しかし、だんだんと 膝 ( ひざ )をまじえて話しているうちに、ようやくそれがわかってきた、かれは 仙人 ( せんにん )でもなければ、けっして 幻術使 ( げんじゅつつかい )でもない。 ただおそろしい修養の力である。 みな、 自得 ( じとく )の 研鑽 ( けんさん )から 通力 ( つうりき )した 人間技 ( にんげんわざ )であることが 納得 ( なっとく )できた。 浮体 ( ふたい )の法、 飛足 ( ひそく )の 呼吸 ( いき )、 遠知 ( えんち )の 術 ( じゅつ )、 木遁 ( もくとん )その他の 隠形 ( おんぎょう )など、みなかれが何十年となく、深山にくらしていたたまもので、それはだれでも 劫 ( こう )をつめば、できないふしぎや魔力ではない。 ところで、 果心居士 ( かしんこじ )がなにゆえに、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )を 龍太郎 ( りゅうたろう )にもとめさせたか、それはのちの説明にゆずって、さしあたり、はてなき海へうばわれたおんかたを、どうしてさがしだすかの相談になった。 そのなかから、机の上へカラカラと開けたのは 亀 ( かめ )の 甲羅 ( こうら )でつくった、いくつもいくつもの 駒 ( こま )であった。 かれの精神がすみきらないで、遠知の術のできないときは、この 亀卜 ( きぼく )という 占 ( うらな )いをたてて見るのが常であった。 「む……」ひとりで占いをこころみて、ひとりうなずいた果心居士は、やがて、客人のほうへむいて、 「 民部 ( みんぶ )どの、こんどはあなたがいったがよろしい」といった。 龍太郎はびっくりして、それへ進んだ。 「しばらく、先生のおおせながら、 余人 ( よじん )にその 儀 ( ぎ )をおいいつけになられては、手まえのたつ 瀬 ( せ )も、 面目 ( めんぼく )もござりませぬ。 どうか、まえの不覚をそそぐため、 拙者 ( せっしゃ )におおせつけねがいとうぞんじます」 「いや龍太郎、おまえには、さらに第二段の、大せつなる役目がある。 まずこれをとくと見たがよい」 と、 革 ( かわ )の箱から取りだして、それへひろげたのは、いちめんの 山絵図 ( やまえず )であった。 「これは?」と 龍太郎 ( りゅうたろう )は 腑 ( ふ )におちない顔である。 「ここにおられる、 小幡民部 ( こばたみんぶ )どのが、苦心してうつされたもの。 すなわち、自然の山を 城廓 ( じょうかく )として、七陣の兵法をしいてあるものじゃ」 「あ! ではそこにおいでになるのは、 甲州流 ( こうしゅうりゅう )の軍学家、 小幡景憲 ( こばたかげのり )どののご子息ですか」 「いかにも、すでにまえから、ご浪人なされていたが、 武田 ( たけだ )のお家のほろびたのを、よそに見るにしのびず、 伊那丸 ( いなまる )さまをたずねだしてふたたび 旗 ( はた )あげなさろうという 大願望 ( だいがんもう )じゃ、おなじ 志 ( こころざし )のものどもがめぐりおうたのも天のおひきあわせ、したが、伊那丸さまのありかが知れても、よるべき 天嶮 ( てんけん )がなくてはならぬ。 そこで、まずひそかに、二、三の者がさきにまいって地理の 準備 ( じゅんび )、またおおくの勇士をも 狩 ( か )りもよおしておき、おんかたの知れしだいに、いつなりと、旗あげのできるようにいたしておくのじゃ」 「は、承知いたしました。 して、この 図面 ( ずめん )にあります場所は?」 という龍太郎の問いに応じてこんどは、小幡民部が 膝 ( ひざ )をすすめた。 「 武田家 ( たけだけ )に 縁 ( えん )のふかき、 甲 ( こう )、 信 ( しん )、 駿 ( すん )の三ヵ国にまたがっている 小太郎山 ( こたろうざん )です。 また……」 と、 軍扇 ( ぐんせん )の 要 ( かなめ )をもって、民部は 掌 ( たなごころ )を指すように、ここは何山、ここは何の陣法と、こまかに、 噛 ( か )みくだいて説明した。 肝胆 ( かんたん )あい照らした、龍太郎、 小文治 ( こぶんじ )、民部の三人は、夜のふけるをわすれて、旗上げの密議をこらした。 果心居士 ( かしんこじ )は、それ以上は 一言 ( ひとこと )も口をさし入れない。 かれの 任務 ( にんむ )は、ただここまでの、気運だけを作るにあるもののようであった。 翌日は早天に、みな打ちそろって 僧正谷 ( そうじょうがたに )を 出立 ( しゅったつ )した。 龍太郎と小文治は、例のすがたのまま、旗あげの 小太郎山 ( こたろうざん )へ。 また、 小幡民部 ( こばたみんぶ )ひとりは、 深編笠 ( ふかあみがさ )をいただき、片手に 鉄扇 ( てっせん )、 野袴 ( のばかま )といういでたちで、京都から大阪 もよりへと 伊那丸 ( いなまる )のゆくえをたずねもとめていく。 その方角は、果心居士の 亀卜 ( きぼく )がしめしたところであるが、この 占 ( うらな )いがあたるか 否 ( いな )か。 またあるいは音にひびいた軍学者小幡が、はたしてどんな 奇策 ( きさく )を胸に 秘 ( ひ )めているか、それは 余人 ( よじん )がうかがうことも、はかり知ることもできない。 板子 ( いたご )一枚下は 地獄 ( じごく )。 空も見えなければ、海の色も見えない。 ただときおりドドーン、ドドドドドーン! と 胴 ( どう )の 間 ( ま )にぶつかってはくだける 怒濤 ( どとう )が、百千の 鼓 ( つづみ )を一時にならすか、 雷 ( いかずち )のとどろきかとも思えて、人の 魂 ( たましい )をおびやかす。 その船ぞこに、生ける 屍 ( しかばね )のように、うつぶしているのは、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )のいたましい姿だった。 八幡船 ( ばはんせん )が 遠州灘 ( えんしゅうなだ )へかかった時から、伊那丸の 意識 ( いしき )はなかった。 この 海賊船 ( かいぞくせん )が、どこへ向かっていくかも、おのれにどんな危害が 迫 ( せま )りつつあるのかも、かれはすべてを知らずにいる。 「や、すっかりまいっていやがる」 さしもはげしかった、船の動揺もやんだと思うと、やがて、入口をポンとはねて、飛びおりてきた手下どもが伊那丸のからだを上へにないあげ、すぐ 船暈 ( ふなよい ) ざましの手当にとりかかった。 「やい、その 童 ( わっぱ )の 脇差 ( わきざし )を持ってきて見せろ」 と 舳 ( みよし )からだみごえをかけたのは、この船の 張本 ( ちょうほん )で、 龍巻 ( たつまき )の 九郎右衛門 ( くろうえもん )という大男だった。 赤銅 ( しゃくどう )づくりの 太刀 ( たち )にもたれ、 南蛮織 ( なんばんおり )のきらびやかなものを着ていた。 「はて……?」と龍巻は、いま手下から受けとった脇差の 目貫 ( めぬき )と、伊那丸の 小袖 ( こそで )の 紋 ( もん )とを見くらべて、ふしんな顔をしていたが、にわかにつっ立って、 「えらい者が手に入った。 その 小童 ( こわっぱ )は、どうやら 武田家 ( たけだけ )の 御曹子 ( おんぞうし )らしい。 五十や百の金で、人買いの手にわたす 代物 ( しろもの )じゃねえから、めったな手荒をせず、島へあげて、かいほうしろ」 そういって、三人の腹心の手下をよび、なにかしめしあわせたうえ、その脇差を、そッともとのとおり、 伊那丸 ( いなまる )の腰へもどしておいた。 まもなく、 軽舸 ( はしけ )の用意ができると、病人どうような伊那丸を、それへうつして、まえの三人もともに乗りこみ、すぐ 鼻先 ( はなさき )の小島へむかってこぎだした。 「やい! 親船がかえってくるまで、大せつな玉を、よく見はっていなくっちゃいけねえぞ」 龍巻 ( たつまき )は二、三ど、両手で口をかこって、遠声をおくった。 そしてこんどは、足もとから鳥が立つように、あたりの手下をせきたてた。 「それッ、 帆綱 ( ほづな )をひけ! 大金 ( おおがね )もうけだ」 「お 頭領 ( かしら )、また船をだして、こんどはどこです」 「 泉州 ( せんしゅう )の 堺 ( さかい )だ。 なんでもかまわねえから、張れるッたけ 帆 ( ほ )をはって、ぶっとおしにいそいでいけ」 キリキリ、キリキリ、 帆車 ( ほぐるま )はせわしく鳴りだした。 船中の手下どもは、 飛魚 ( とびうお )のごとく 敏捷 ( びんしょう )に活躍しだす。 舳 ( みよし )に腰かけている龍巻は、その 悪魔的 ( あくまてき )な 跳躍 ( ちょうやく )をみて、ニタリと、笑みをもらしていた。 この秋に、京は 紫野 ( むらさきの )の 大徳寺 ( だいとくじ )で、 故右大臣信長 ( こうだいじんのぶなが )の、さかんな 葬儀 ( そうぎ )がいとなまれたので、諸国の 大小名 ( だいしょうみょう )は、ぞくぞくと京都にのぼっていた。 なかで、 穴山梅雪入道 ( あなやまばいせつにゅうどう )は、役目をおえたのち、主人の 徳川家康 ( とくがわいえやす )にいとまをもらって、甲州 北郡 ( きたごおり )へかえるところを、廻り道して、見物がてら、泉州の 堺 ( さかい )に、半月あまりも 滞在 ( たいざい )していた。 堺は当時の 開港場 ( かいこうじょう )だったので、ものめずらしい 異国 ( いこく )の 色彩 ( しきさい )があふれていた。 唐 ( から )や、 呂宋 ( ルソン )や、 南蛮 ( なんばん )の器物、織物などを、見たりもとめたりするのも、ぜひここでなければならなかった。 「 殿 ( との )、見なれぬ者がたずねてまいりましたが、通しましょうか、いかがしたものでござります」 穴山梅雪の 仮 ( かり )の 館 ( やかた )では、もう 燭 ( しょく )をともして、 侍女 ( こしもと )たちが、 琴 ( こと )をかなでて、にぎわっているところだった。 そこへひとりの家臣が、こう取りついできた。 「何者じゃ」 梅雪入道は、もう 眉 ( まゆ )にも 霜 ( しも )のみえる老年、しかし、千軍万馬を 疾駆 ( しっく )して、 鍛 ( きた )えあげた骨 ぶしだけは、たしかにどこかちがっている。 「 肥前 ( ひぜん )の 郷士 ( ごうし )、 浪島五兵衛 ( なみしまごへえ )ともうすもので、二、三人の 従者 ( じゅうしゃ )もつれた、いやしからぬ男でござります」 「ふーむ……、してその者が、何用で 余 ( よ )にあいたいともうすのじゃ」 「その浪島ともうす郷士が、あるおりに 呂宋 ( ルソン )より 海南 ( ハイナン )にわたり、なおバタビヤ、ジャガタラなどの国々の珍品もたくさん持ちかえりましたので、殿のお目にいれ、お買いあげを得たいともうすので」 「それは珍しいものが数あろう」 梅雪入道 ( ばいせつにゅうどう )は、このごろしきりに、 堺 ( さかい )でそのような 品 ( しな )をあつめていたところ、思わず心をうごかしたらしい。 「とにかく、通してみろ。 ただし、ひとりであるぞ」 「はい」家臣は、さがっていく。 入れちがって、そこへあんないされてきたのは、衣服、大小や、かっぷくもりっぱな 侍 ( さむらい )、ただ色はあくまで黒い。 目はおだやかとはいえない光である。 「取りつぎのあった、 浪島 ( なみしま )とはそちか」 「ヘッ、お目通りをたまわりまして、ありがとうぞんじます」 「さっそく、バタビヤ、ジャガタラの珍品などを、 余 ( よ )に見せてもらいたいものであるな」 「じつは、 他家 ( たけ )へ 吹聴 ( ふいちょう )したくない、秘密な 品 ( しな )もござりますゆえ、願わくばお人 払 ( ばら )いをねがいまする」 という望みまでいれて、あとはふたりの座敷となると梅雪はさらにまたせきだした。 「買ってもらいたいのは、ジャガタラの品物じゃありません。 武田菱 ( たけだびし )の 紋 ( もん )をうった、りっぱな人間です。 どうです、ご相談にのりませんか」 「な、なんじゃッ?」 「シッ……大きな声をだすと、 殿 ( との )さまのおためにもなりませんぜ。 徳川家 ( とくがわけ )で、 血眼 ( ちまなこ )になっている 武田伊那丸 ( たけだいなまる )、それをお売りもうそうということなんで」 「む……」 入道 ( にゅうどう )はじッと 郷士 ( ごうし )の 面 ( おもて )をみつめて、しばらくその 大胆 ( だいたん )な 押 ( お )し 売 ( う )りにあきれていた。 「けっして、そちらにご不用なものではありますまい。 武田 ( たけだ )の 御曹子 ( おんぞうし )を生けどって、徳川さまへさしだせば、一万 石 ( ごく )や二万 石 ( ごく )の 恩賞 ( おんしょう )はあるにきまっています。 先祖代々から 禄 ( ろく )をはんだ、 武田家 ( たけだけ )の 亡 ( ほろ )びるのさえみすてて、徳川家へついたほどのあなただから、よろこんで買ってくださるだろうと思って、あてにしてきた売物です」 ほとんど、 強請 ( ゆすり )にもひとしい 口吻 ( こうふん )である。 だのに、 梅雪入道 ( ばいせつにゅうどう )は顔色をうしなって、この無礼者を手討ちにしようともしない。 どんな身分であろうと、弱点をつかれると弱いものだ。 穴山梅雪入道は、事実、かれのいうとおり、ついこのあいだまでは、 武田勝頼 ( たけだかつより )の無二の者とたのまれていた武将であった。 それが、 織田徳川連合軍 ( おだとくがわれんごうぐん )の乱入とともに、まッさきに徳川家にくだって、 甲府討入 ( こうふうちい )りの手引きをしたのみか、 信玄 ( しんげん )いらい、 恩顧 ( おんこ )のふかい 武田 ( たけだ )一族の 最期 ( さいご )を見すてて、じぶんだけの命と 栄華 ( えいが )をとりとめた 武士 ( ぶし )である。 この利慾のふかい武士へ、 伊那丸 ( いなまる )という 餌 ( えさ )をもって 釣 ( つ )りにきたのは、いうまでもなく、武士に 化 ( ば )けているが、 八幡船 ( ばはんせん )の 龍巻 ( たつまき )であった。 都より 開港場 ( かいこうじょう )のほうに、なにかの手がかりが多かろうと、目星をつけて、京都から 堺 ( さかい )へいりこんでいたのは、 鞍馬 ( くらま )を下山した 小幡民部 ( こばたみんぶ )である。 人手をわけて、要所を見張らせていた 網 ( あみ )は、意外な 効果 ( こうか )をはやくも 告 ( つ )げてきた。 いっぽう、その夜ふけて、梅雪のかりの 館 ( やかた )をでていった三つのかげは、なにかヒソヒソささやきながら堺の町から、くらい 波止場 ( はとば )のほうへあるいていく。 「おかしら、じゃアとにかく、話はうまくついたっていうわけですね」 「 上首尾 ( じょうしゅび )さ。 じぶんも立身の 種 ( たね )になるんだから、いやもおうもありゃあしない。 これからすぐに島へかえって、伊那丸をつれてさえくれば、からだの目方と 黄金 ( きん )の目方のとりかえッこだ」 「しッ……うしろから足音がしますぜ」 「え?」 と三人とも、 脛 ( すね )にきずもつ身なので、おもわずふりかえると、 深編笠 ( ふかあみがさ )の 侍 ( さむらい )が、ピタピタあるき寄ってきて、なれなれしくことばをかけた。 「おかしら、いつもご壮健で、けっこうでござりますな」 「なんだって? おれはそんな者じゃアない」 「エヘヘヘヘ、わたしも、こんな、侍姿にばけているから、ゆだんをなさらないのはごもっともですが、さきほど町で、チラとお見うけして、まちがいがないのです」 「なんだい、おめえはいったい?」 「こう見えても、ずいぶん 浪 ( なみ )の上でかせいだ者です」 「おれたちの船じゃなかろう、こっちは知らねえもの」 「そりゃア数ある 八幡船 ( ばはんせん )ですから」 「しッ。 でっかい声をするねえ」 「すみません。 船から船へわたりまわったことですからな、ながいお世話にはなりませんでしょうが、おかしらの船でも一どはたらいたことがあるんです」 話しながら、いつか 陸 ( おか )はずれの、小船のおいてあるところまできてしまった。 あとをついてきた侍すがたの男は、ぜひ、もう一ど船ではたらきたいからとせがんでたくみに 龍巻 ( たつまき )を信じさせ、沖にすがたを隠している、 八幡船 ( ばはんせん )の仲間のうちへ、まんまと乗りこむことになった。 その男の 正体 ( しょうたい )が、 小幡民部 ( こばたみんぶ )であることはいうまでもない。 なまじ町人すがたにばけたりなどすると、かえってさきが、ゆだんをしないと見て、 生地 ( きじ )のままの 反間苦肉 ( はんかんくにく )がみごとに当った。 民部のこころは躍っていた。 けれどもうわべはどこまでもぼんやりに見せて、たえず、船中に目をくばっていたが、どうもこの船にはそれらしい者を、かくしているようすが見えない。 で、いちじはちがったかと思ったが、 梅雪 ( ばいせつ )をおとずれたという事実は、どうしても、民部には見のがせない。 船は、その翌日、 闇夜 ( あんや )にまぎれて、 堺 ( さかい )の沖から、ふたたび南へむかって、 満々 ( まんまん )と 帆 ( ほ )をはった。 伊那丸 ( いなまる )は、日ならぬうちに気分もさわやかになった。 それと同時に、かれは、生まれてはじめて接した、 大海原 ( おおうなばら )の 壮観 ( そうかん )に目をみはった。 ここはどこの島かわからないけれど、 陸 ( りく )のかげは、一里ばかりあなたに見える。 けれど、伊那丸には、龍巻の手下が五、六人、一歩あるくにもつきまとっているので逃げることも、どうすることもできなかった。 「ああ……」 忍剣 ( にんけん )を思い、 咲耶子 ( さくやこ )をしのび、 龍太郎 ( りゅうたろう )のゆくえなどを思うたびに、波うちぎわに立っている 伊那丸 ( いなまる )のひとみに涙が光った。 「なんとかしてこの島からでたい、名もしれぬ荒くれどもの手にはずかしめられるほどなら、いッそこの海の底に……」 夜はつめたい 磯 ( いそ )の岩かげに組んだ小屋にねる。 だが、そのあいださえ、 羅刹 ( らせつ )のような手下は、 交代 ( こうたい )で 見張 ( みは )っているのだ。 「そうだ、あの親船が返ってくれば、もう 最期 ( さいご )の運命、逃げるなら、いまのうちだ」 きッと、心をけっして、頭をもたげてみると、もう夜あけに近いころとみえて、寝ずの番も 頬杖 ( ほおづえ )をついていねむっている。 「む!」はね起きるよりはやく、ばらばらと、昼みておいた小船のところへ走りだした。 ところがきてみると、船は毎夜、かれらの用心で、十 間 ( けん )も 陸 ( おか )の上へ、引きあげてあった。 「えい、これしきのもの」 伊那丸は、 金剛力 ( こんごうりき )をしぼって、波のほうへ、 綱 ( つな )をひいてみたが、 荒磯 ( あらいそ )のゴロタ石がつかえて、とてもうごきそうもない。

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最遊記の登場人物一覧

あらたまっ けん ゆう 幼少 期

私は、元来、少年小説を書くのが好きである。 大人 ( おとな )の世界にあるような、 きゅうくつな 概念 ( がいねん )にとらわれないでいいからだ。 少年小説を書いている間は、自分もまったく、 童心 ( どうしん )のむかしに返る、少年の気もちになりきッてしまう。 ああ少年の日。 一生のうちの、 尊 ( とうと )い季節だ。 この小説は、わたくしが少年へ書いた長編の最初のもので、また、いちばん長いものである。 諸君の楽しい季節のために、この書が諸君の 退屈 ( たいくつ )な雨の日や、 淋 ( さび )しい夜の友になりうればと思い、自分も好きなまま、つい、こんなに長く書いてしまったものである。 いまの日本は、大人の世界でも、子どもの天地でも、心に楽しむものが少ない。 だが、少年の日の夢は、 痩 ( や )せさせてはいけない。 少年の日の自然な空想は、いわば少年の 花園 ( はなぞの )だ。 昔にも、今にも、将来へも、つばさをひろげて、遊びまわるべきである。 この書は、過去の 伝奇 ( でんき )と歴史とを、わたくしの夢のまま書いたものだが、過去にも、今と比較して、考えていいところは 多分 ( たぶん )にある。 悪いところは反省し、よいところは知るべきだと思う。 その意味で、 鞍馬 ( くらま )の 竹童 ( ちくどう )も、泣き虫の 蛾次郎 ( がじろう )も、諸君の友だち仲間へ入れておいてくれ給え。 時代はちがうが、よく見てみたまえ、諸君の友だち仲間の 腕白 ( わんぱく )にも、竹童もいれば、蛾次郎もいるだろう。 大人 ( おとな )についても、同じことがいえる。 以前 ( いぜん )、これが「少年倶楽部」に連載されていた当時の愛読者は、 成人 ( せいじん )して、今日では政治家になったり、実業家になったり、文化人になったりして、みな社会の一線に立っている。 諸君のお父さんや兄さんのうちにも、その頃の愛読者がたくさんおられることと思う。 もし諸君がこの 書 ( しょ )を手にしたら、諸君の 父兄 ( ふけい )やおじさんたちにも、見せて上げてもらいたい。 そして、著者の 言伝 ( ことづ )てを、おつたえして欲しい。 わたくしは健在です、と。 そして、いまの少年も、また天馬侠を読むようになりました、と。 朱 ( しゅ )の 椅子 ( いす )によって、しずかな 藤波 ( ふじなみ )へ、目をふさいでいた 快川和尚 ( かいせんおしょう )は、ふと、風のたえまに流れてくる、 法螺 ( ほら )の 遠音 ( とおね )や 陣鉦 ( じんがね )のひびきに、ふっさりした 銀 ( ぎん )の 眉毛 ( まゆげ )をかすかにあげた。 その時、 長廊下 ( ながろうか )をどたどたと、かけまろんできたひとりの 弟子 ( でし )は、まっさおな 面 ( おもて )をぺたりと、そこへ 伏 ( ふ )せて、 「おッ。 お 師 ( し )さま! た、 大変 ( たいへん )なことになりました。 あアおそろしい、…… 一大事 ( いちだいじ )でござります」 と 舌 ( した )をわななかせて 告 ( つ )げた。 「しずかにおしなさい」 と、 快川 ( かいせん )は、たしなめた。 織田 ( おだ )どのの 軍勢 ( ぐんぜい )が、いよいよ 此寺 ( ここ )へ押しよせてきたのであろう」 「そ、そうです! いそいで 鐘楼 ( しょうろう )へかけのぼって見ましたら、森も野も 畠 ( はたけ )も、 軍兵 ( ぐんぴょう )の 旗指物 ( はたさしもの )でうまっていました。 あア、もうあのとおり、軍馬の 蹄 ( ひづめ )まで聞えてまいります……」 いいもおわらぬうちだった。 うら山の 断崖 ( だんがい )から 藤 ( ふじ )だなの根もとへ、どどどどと、土けむりをあげて落ちてきた者がある。 ふたりはハッとして顔をむけると、ふんぷんとゆれ散った 藤 ( ふじ )の花をあびて 鎧櫃 ( よろいびつ )をせおった血まみれな 武士 ( ぶし )が、 気息 ( きそく )もえんえんとして、 庭 ( にわ )さきに 倒 ( たお )れているのだ。 「や、 巨摩左文次 ( こまさもんじ )どのじゃ。 これ、はやく 背 ( せ )のものをおろして、水をあげい、水を」 「はッ」と 弟子僧 ( でしそう )ははだしでとびおりた。 鎧櫃をとって泉水の水をふくませた。 武士は、気がついて 快川 ( かいせん )のすがたをあおぐと、 「お! 国師 ( こくし )さま」と、大地へ 両手 ( りょうて )をついた。 「巨摩どの、さいごの 便 ( たよ )りをお待ちしていましたぞ。 ご一門はどうなされた」 「はい……」左文次はハラハラと 涙 ( なみだ )をこぼして、 「ざんねんながら、 新府 ( しんぷ )のお 館 ( やかた )はまたたくまに 落城 ( らくじょう )です。 火の手をうしろに、主君の 勝頼公 ( かつよりこう )をはじめ、 御台 ( みだい )さま、 太郎君 ( たろうぎみ )さま、一門のこり少なの人数をひきいて、 天目山 ( てんもくざん )のふもとまで落ちていきましたが、目にあまる 織田 ( おだ ) 徳川 ( とくがわ )の両軍におしつつまれ、みな、はなばなしく 討死 ( うちじに )あそばすやら、さ、 刺 ( さ )しちがえてご 最期 ( さいご )あるやら……」 と 左文次 ( さもんじ )のこえは涙にかすれる。 「おお、 殿 ( との )もご夫人もな……」 「まだおん年も十六の太郎 信勝 ( のぶかつ )さままで、一きわすぐれた目ざましいお 討死 ( うちじに )でござりました」 「時とはいいながら、 信玄公 ( しんげんこう )のみ 代 ( よ )まで、 敵 ( てき )に一歩も 領土 ( りょうど )をふませなかったこの 甲斐 ( かい )の国もほろびたか……」 と 快川 ( かいせん )は、しばらく 暗然 ( あんぜん )としていたが、 「して、勝頼公の最期のおことばは?」 「これに持ちました 武田家 ( たけだけ )の 宝物 ( ほうもつ )、 御旗 ( みはた ) 楯無 ( たてなし ) (旗と鎧)の二 品 ( しな )を、さきごろからこのお寺のうちへおかくまいくだされてある、 伊那丸 ( いなまる )さまへわたせよとのおおせにござりました」 そこへまた、二、三人の 弟子僧 ( でしそう )が、色を失ってかけてきた。 「お 師 ( し )さま! 信長公 ( のぶながこう )の家臣が三人ほど、ただいま、ご本堂から 土足 ( どそく )でこれへかけあがってまいりますぞ」 「や、敵が?」 と 巨摩左文次 ( こまさもんじ )は、すぐ、 陣刀 ( じんとう )の 柄 ( つか )をにぎった。 快川 ( かいせん )は落ちつきはらって、それを手でせいしながら、 「あいや、そこもとは、しばらくそこへ……」 と 床下 ( ゆかした )をゆびさした。 急なので、左文次も、 宝物 ( ほうもつ )をかかえたまま、 縁 ( えん )の下へ身をひそめた。 と、すぐに 廊下 ( ろうか )をふみ鳴らしてきた三人の 武者 ( むしゃ )がある。 いずれも、あざやかな 陣羽織 ( じんばおり )を着、 大刀 ( だいとう )の 反 ( そ )りうたせていた。 眼 ( まなこ )をいからせながら、きッとこなたにむかって、 「 国師 ( こくし )ッ!」 と、するどく 呼 ( よ )びかけた。 天正 ( てんしょう )十年の春も早くから、 木曾口 ( きそぐち )、 信濃口 ( しなのぐち )、 駿河口 ( するがぐち )の八ぽうから、 甲斐 ( かい )の 盆地 ( ぼんち )へさかおとしに攻めこんだ 織田 ( おだ ) 徳川 ( とくがわ )の 連合軍 ( れんごうぐん )は、 野火 ( のび )のようないきおいで、 武田勝頼 ( たけだかつより )父子、 典厩信豊 ( てんきゅうのぶとよ )、その他の一族を、 新府城 ( しんぷじょう )から 天目山 ( てんもくざん )へ追いつめて、ひとりのこさず 討 ( う )ちとってしまえと、きびしい 軍令 ( ぐんれい )のもとに、 残党 ( ざんとう )を 狩 ( か )りたてていた。 その結果、 信玄 ( しんげん )が 建立 ( こんりゅう )した 恵林寺 ( えりんじ )のなかに、 武田 ( たけだ )の客分、 佐々木承禎 ( ささきじょうてい )、 三井寺 ( みいでら )の上福院、 大和淡路守 ( やまとあわじのかみ )の三人がかくれていることをつきとめたので、使者をたてて、 落人 ( おちゅうど )どもをわたせと、いくたびも 談判 ( だんぱん )にきた。 しかし、長老の 快川国師 ( かいせんこくし )は、 故信玄 ( こしんげん )の 恩 ( おん )にかんじて、 断乎 ( だんこ )として、 織田 ( おだ )の要求をつっぱねたうえに、ひそかに三人を 逃 ( の )がしてしまった。 織田 ( おだ )の 間者 ( かんじゃ )は、夜となく昼となく、 恵林寺 ( えりんじ )の内外をうかがっていた。 快川 ( かいせん )は、それと知っていながら、ゆったりと、 朱 ( しゅ )の 椅子 ( いす )から立ちもせずに、三人の武将をながめた。 「また、 織田 ( おだ )どのからのお使者ですかな」 と、しずかにいった。 「知れたことだ」となかのひとりが一歩すすんで、 「 国師 ( こくし )ッ、この 寺内 ( じない )に 信玄 ( しんげん )の孫、伊那丸をかくまっているというたしかな 訴人 ( そにん )があった。 縄 ( なわ )をうってさしだせばよし、さもなくば、寺もろとも、 焼 ( や )きつくして、みな殺しにせよ、という 厳命 ( げんめい )であるぞ。 胆 ( きも )をすえて 返辞 ( へんじ )をせい」 「返辞はない。 ふところにはいった 窮鳥 ( きゅうちょう )をむごい 猟師 ( りょうし )の手にわたすわけにはゆかぬ」 と快川のこえはすんでいた。 「よしッ」 「おぼえておれ」と三人の武将は荒々しくひッ返した。 そのうしろ 姿 ( すがた )を見おくると、 快川 ( かいせん )ははじめて、 椅子 ( いす )をはなれ、 「 左文次 ( さもんじ )どの、おでなさい」 と 合図 ( あいず )をしたうえ、さらに 奥 ( おく )へむかって、声をつづけた。 「 忍剣 ( にんけん )! 忍剣!」 呼ぶよりはやく、おうと、そこへあらわれた骨たくましいひとりの 若僧 ( わかそう )がある。 若僧は、 白綸子 ( しろりんず )にむらさきの 袴 ( はかま )をつけた十四、五 歳 ( さい )の 伊那丸 ( いなまる )を、そこへつれてきて、ひざまずいた。 「この寺へもいよいよ最後の時がきた。 お 傅役 ( もりやく )のそちは一命にかえても、若君を安らかな地へ、お落としもうしあげねばならぬ」 「はッ」 と、 忍剣 ( にんけん )は 奥 ( おく )へとってかえして、鉄の 禅杖 ( ぜんじょう )をこわきにかかえてきた。 背には 左文次 ( さもんじ )がもたらした 武田家 ( たけだけ )の 宝物 ( ほうもつ )、 御旗 ( みはた ) 楯無 ( たてなし )の 櫃 ( ひつ )をせおって、うら庭づたいに、 扇山 ( せんざん )へとよじのぼっていった。 ワーッという 鬨 ( とき )の声は、もう山門ちかくまで聞えてきた。 寺内は、 本堂 ( ほんどう )といわず、 廻廊 ( かいろう )といわずうろたえさわぐ人々の声でたちまち 修羅 ( しゅら )となった。 白羽 ( しらは ) 黒羽 ( くろは )の矢は、 疾風 ( はやて )のように、バラバラと、庭さきや本堂の 障子襖 ( しょうじぶすま )へおちてきた。 「さわぐな、うろたえるな! 大衆 ( だいしゅ )は山門におのぼりめされ。 わしについて、 楼門 ( ろうもん )の上へのぼるがよい」 と 快川 ( かいせん )は、 伊那丸 ( いなまる )の落ちたのを見とどけてから、やおら、 払子 ( ほっす )を 衣 ( ころも )の 袖 ( そで )にいだきながら、 恵林寺 ( えりんじ )の 楼門 ( ろうもん )へしずかにのぼっていった。 寄手 ( よせて )の軍兵は、山門の下へどッとよせてきて、 「一 山 ( ざん )の者どもは、みな山門へのぼったぞ、下から焼きころして、のちの者の、見せしめとしてくれよう」 と、うずたかく 枯 ( か )れ草をつんで、ぱッと火をはなった。 みるまに、 渦 ( うず )まく煙は楼門をつつみ、 紅蓮 ( ぐれん )の 炎 ( ほのお )は、百千の 火龍 ( かりゅう )となって、メラメラともえあがった。 楼上 ( ろうじょう )の大衆は、たがいにだきあって、熱苦のさけびをあげて 伏 ( ふ )しまろんだ。 「おお! 伊那丸 ( いなまる )さま。 あれをごらんなされませ。 すさまじい火の手があがりましたぞ」 源次郎岳 ( げんじろうだけ )の山道までおちのびてきた 忍剣 ( にんけん )は、はるかな火の海をふりむいて、 涙 ( なみだ )をうかべた。 「 国師 ( こくし )さまも、あの 焔 ( ほのお )の底で、ご 最期 ( さいご )になったのであろうか、忍剣よ、わしは悲しい……」 伊那丸 ( いなまる )は、遠くへ向かって 掌 ( て )を合わせた。 空をやく焔は、かれのひとみに、 生涯 ( しょうがい )わすれぬものとなるまでやきついた。 すると、不意だった。 いきなり、耳をつんざく 呼子 ( よびこ )の 音 ( ね )が、するどく、頭の上で鳴ったと思うと、かなたの岩かげ、こなたの谷間から、 槍 ( やり )や 陣刀 ( じんとう )をきらめかせて、おどり立ってくる、数十人の 伏勢 ( ふせぜい )があった。 それは 徳川方 ( とくがわがた )の手のもので、 酒井 ( さかい )の 黒具足組 ( くろぐそくぐみ )とみえた。 忍剣は、すばやく伊那丸を岩かげにかくして、じぶんは、 鉄杖 ( てつじょう )をこわきにしごいて、敵を待った。 「それッ、武田の 落人 ( おちゅうど )にそういない。 討 ( う )てッ」 と呼子をふいた黒具足の 部将 ( ぶしょう )は、ひらりと、岩上からとびおりて 号令 ( ごうれい )した。 下からは、 槍 ( やり )をならべた一隊がせまり、そのなかなる、まッ先のひとりは、流星のごとく忍剣の 脾腹 ( ひばら )をねらって、 槍 ( やり )をくりだした。 「おうッ」と力をふりしぼって、忍剣の手からのびた四 尺 ( しゃく ) 余寸 ( よすん )の鉄杖が、パシリーッと、槍の千 段 ( だん )を二つにおって、天空へまきあげた。 「 払 ( はら )え!」と呼子をふいた部将が、またどなった。 バラバラとみだれる 穂 ( ほ )すすきの 槍 ( やり )ぶすまも、 忍剣 ( にんけん )が、自由自在にふりまわす鉄杖にあたるが最後だった。 藁 ( わら )か 棒切 ( ぼうき )れのように飛ばされて、見るまに、七人十人と、 朱 ( あけ )をちらして 岩角 ( いわかど )からすべり落ちる。 ワーッという声のなだれ、かかれ、かかれと、ののしる 叫 ( さけ )び。 すさまじい山つなみは、よせつかえしつ、満山を血しぶきに 染 ( そ )める。 一 介 ( かい )の 若僧 ( わかそう )にすぎない忍剣のこの手なみに、さすがの 黒具足組 ( くろぐそくぐみ )も 胆 ( きも )をひやした。 忍剣はもと、 今川義元 ( いまがわよしもと )の 幕下 ( ばっか )で、海道一のもののふといわれた、 加賀見能登守 ( かがみのとのかみ )その人の 遺子 ( わすれがたみ )であるのだ。 かれの天性の怪力は、父能登守のそれ以上で、幼少から、 快川和尚 ( かいせんおしょう )に 胆力 ( たんりょく )をつちかわれ、さらに 天稟 ( てんぴん )の武勇と血と涙とを、若い五体にみなぎらせている 熱血児 ( ねっけつじ )である。 あの眼のたかい快川和尚が、一 山 ( ざん )のなかからえりすぐって、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )と 御旗 ( みはた ) 楯無 ( たてなし )の 宝物 ( ほうもつ )を 托 ( たく )したのは、よほどの人物と見ぬいたればこそであろう。 新羅三郎 ( しんらさぶろう )以来二十六 世 ( せい )をへて、四 隣 ( りん )に 武威 ( ぶい )をかがやかした 武田 ( たけだ )の 領土 ( りょうど )は、いまや、 織田 ( おだ )と 徳川 ( とくがわ )の軍馬に 蹂躪 ( じゅうりん )されて、 焦土 ( しょうど )となってしまった。 しかも、その武田の血をうけたものは、世の中にこの 伊那丸 ( いなまる )ひとりきりとなったのだ。 焦土のあとに、たった 一粒 ( ひとつぶ )のこった 胚子 ( たね )である。 この一粒の胚子に、ふたたび 甲斐源氏 ( かいげんじ )の花が咲くか咲かないか、忍剣の責任は大きい。 また、伊那丸の宿命もよういではない。 世は戦国である。 残虐 ( ざんぎゃく )をものともしない天下の弓取りたちは、この一粒の胚子をすら、 芽 ( め )をださせまいとして前途に、あらゆる毒手をふるってくるにちがいない。 すでに、その第一の危難は眼前にふってわいた。 忍剣 ( にんけん )は 鉄杖 ( てつじょう )を 縦横 ( じゅうおう )むじんにふりまわして、やっと 黒具足組 ( くろぐそくぐみ )をおいちらしたが、ふと気がつくと、 伊那丸 ( いなまる )をのこしてきた場所から大分はなれてきたので、いそいでもとのところへかけあがってくると、 南無三 ( なむさん )、 呼子 ( よびこ )をふいた部将が 抜刀 ( ばっとう )をさげて、あっちこっちの 岩穴 ( いわあな )をのぞきまわっている。 「おのれッ」と、かれは身をとばして、一 撃 ( げき )を加えたが敵もひらりと身をかわして、 「 坊主 ( ぼうず )ッ、 徳川家 ( とくがわけ )にくだって伊那丸をわたしてしまえ、さすればよいように取りなしてやる」 と、 甘言 ( かんげん )の 餌 ( え )をにおわせながら、 陣刀 ( じんとう )をふりかぶった。 「けがらわしい」 忍剣は、鉄杖をしごいた。 らんらんとかがやく 眸 ( ひとみ )は、相手の精気をすって、一歩、でるが早いか、敵の 脳骨 ( のうこつ )はみじんと見えた。 そのすきに、忍剣のうしろに身ぢかくせまって、 片膝 ( かたひざ )おりに、 種子島 ( たねがしま )の 銃口 ( じゅうこう )をねらいつけた者がある。 かれがふりこんだ鉄杖は、相手の陣刀をはらい落としていた。 二どめに、ズーンとそれが 横薙 ( よこな )ぎにのびたとおもうと、わッと、 部将 ( ぶしょう )は血へどをはいてぶったおれた。 刹那 ( せつな )だ。 はて? と 眸 ( ひとみ )をさだめてみると、その 脾腹 ( ひばら )へうしろ抱きに 脇差 ( わきざし )をつきたてていたのは、いつのまに飛びよっていたか 武田伊那丸 ( たけだいなまる )であった。 「お、若さま!」 忍剣は、あまりなかれの 大胆 ( だいたん )と 手練 ( しゅれん )に目をみはった。 「忍剣、そちのうしろから、 鉄砲 ( てっぽう )をむけた 卑怯者 ( ひきょうもの )があったによって、わしが、このとおりにしたぞ」 伊那丸は、 笑顔 ( えがお )でいった。 木 ( こ )の 実 ( み )をたべたり、小鳥を 捕 ( と )って 飢 ( う )えをしのいだ。 百日あまりも、 釈迦 ( しゃか )ヶ 岳 ( たけ )の山中にかくれていた 忍剣 ( にんけん )と 伊那丸 ( いなまる )は、もう 甲州 ( こうしゅう )攻めの軍勢も引きあげたころであろうと 駿河路 ( するがじ )へ立っていった。 峠々 ( とうげとうげ )には、 徳川家 ( とくがわけ )のきびしい 関所 ( せきしょ )があって、ふたりの 詮議 ( せんぎ )は、 厳密 ( げんみつ )をきわめている。 そればかりか、 織田 ( おだ )の 領地 ( りょうち )のほうでは、 伊那丸 ( いなまる )をからめてきた者には、五百 貫 ( かん )の 恩賞 ( おんしょう )をあたえるという 高札 ( こうさつ )がいたるところに立っているといううわさである。 さすがの 忍剣 ( にんけん )も、はたととほうにくれてしまった。 きのうまでは、 甲山 ( こうざん )の軍神といわれた、 信玄 ( しんげん )の孫伊那丸も、いまは 雨露 ( うろ )によごれた 小袖 ( こそで )の着がえもなかった。 足は 茨 ( いばら )にさかれて、みじめに血がにじんでいた。 それでも、伊那丸は悲しい顔はしなかった。 幼少からうけた 快川和尚 ( かいせんおしょう )の 訓育 ( くんいく )と、祖父 信玄 ( しんげん )の血は、この少年のどこかに流れつたわっていた。 「若さま、このうえはいたしかたがありませぬ。 相模 ( さがみ )の 叔父 ( おじ )さまのところへまいって、時節のくるまでおすがりいたすことにしましょう」 かれは、伊那丸のいじらしい 姿 ( すがた )をみると、はらわたをかきむしられる気がする。 で、ついに最後の考えをいいだした。 「 小田原城 ( おだわらじょう )の 北条氏政 ( ほうじょううじまさ )どのは、若さまにとっては、 叔父君 ( おじぎみ )にあたるかたです。 北条 ( ほうじょう )どのへ身をよせれば、 織田家 ( おだけ )も 徳川家 ( とくがわけ )も手はだせませぬ」 が、 富士 ( ふじ )の 裾野 ( すその )を 迂回 ( うかい )して、 相模 ( さがみ )ざかいへくると、無情な 北条家 ( ほうじょうけ )ではおなじように、 関所 ( せきしょ )をもうけて、 武田 ( たけだ )の 落武者 ( おちむしゃ )がきたら片ッぱしから追いかえせよ、と厳命してあった。 叔父 ( おじ )であろうが、 肉親 ( にくしん )であろうが、 亡国 ( ぼうこく )の血すじのものとなれば、よせつけないのが戦国のならいだ。 忍剣もうらみをのんでふたたびどこかの山奥へもどるより 術 ( すべ )がなかった。 今はまったく 袋 ( ふくろ )のねずみとなって、西へも東へもでる道はない。 ゆうべは、 裾野 ( すその )の青すすきを ふすまとして 寝 ( ね )、けさはまだ 霧 ( きり )の深いころから、どこへというあてもなく、とぼとぼと歩きだした。 やがてその日もまた夕暮れになってひとつの大きな 湖水 ( こすい )のほとりへでた。 このへんは、富士の五 湖 ( こ )といわれて、湖水の多いところだった。 みると 汀 ( なぎさ )にちかく、 白旗 ( しらはた )の宮と 額 ( がく )をあげた小さな 祠 ( ほこら )があった。 「白旗の宮? ……」と 忍剣 ( にんけん )は見あげて、 「オオ、 甲斐 ( かい )も 源氏 ( げんじ )、白旗といえば、これは 縁 ( えん )のある 祠 ( ほこら )です。 若さましばらく、ここでやすんでまいりましょうに……」 と、縁へ腰をおろした。 「いや、わしは身軽でつかれはしない。 おまえこそ、その 鎧櫃 ( よろいびつ )をしょっているので、ながい道には、くたびれがますであろう」 「なんの、これしきの物は、忍剣の骨にこたえはいたしませぬ。 ただ、大せつなご 宝物 ( ほうもつ )ですから、まんいちのことがあってはならぬと、その気づかいだけです」 「そうじゃ。 それは 物騒千万 ( ぶっそうせんばん )です」 「いや、あずけるというても、 御堂 ( みどう )のなかへおくのではない。 この湖水のそこへ 沈 ( しず )めておくのだ。 ちょうどここにある宮の 石櫃 ( いしびつ )、これへ入れかえて、沈めておけば安心なものではないか」 「は、なるほど」と、 忍剣 ( にんけん )も、 伊那丸 ( いなまる )の 機智 ( きち )にかんじた。 ふたりはすぐ 祠 ( ほこら )にあった石櫃へ、宝物をいれかえ一 滴 ( てき )の水もしみこまぬようにして、岸にあった丸木のくりぬき舟にそれをのせて、忍剣がひとりで、 棹 ( さお )をあやつりながら湖の中央へと舟をすすめていった。 伊那丸は 陸 ( おか )にのこって、 岸 ( きし )から小舟を見おくっていた。 あかい 夕陽 ( ゆうひ )は、きらきらと水面を 射 ( い )かえして、舟はだんだんと湖心へむかって小さくなった。 どこから 射出 ( いだ )したのか、一本の 白羽 ( しらは )の矢が湖心の忍剣をねらって、ヒュッと飛んでいったのであった。 さッと湖心には水けむりがあがった。 その一しゅん、舟も忍剣も石櫃も、たちまち湖水の波にそのすがたを没してしまった。 「ややッ」 おどろきのあまり、われを 忘 ( わす )れて、 伊那丸 ( いなまる )が水ぎわまでかけだしたときである。 「 小童 ( こわっぱ )、うごくと 命 ( いのち )がないぞ」 ずるずると、引きもどされた伊那丸は、声もたて 得 ( え )なかった。 だが、とっさに、 片膝 ( かたひざ )をおとして、腰の 小太刀 ( こだち )をぬき打ちに、相手の 腕根 ( うでね )を 斬 ( き )りあげた。 「や、こいつが」と、不意をくった男は手をはなして飛びのいた。 「だれだッ。 あなたに立った大男はひとりではなかった。 そろいもそろった荒くれ男ばかりが十四、五人、 蔓巻 ( つるまき )の 大刀 ( だいとう )に、 革 ( かわ )の 胴服 ( どうふく )を着たのもあれば、 小具足 ( こぐそく )や、むかばきなどをはいた者もあった。 いうまでもなく、 乱世 ( らんせい )の 裏 ( うら )におどる 野武士 ( のぶし )の 群団 ( ぐんだん )である。 「見ろ、おい」と、ひとりが伊那丸をきッとみて、 「 綸子 ( りんず )の 小袖 ( こそで )に 菱 ( ひし )の 紋 ( もん )だ。 武田伊那丸 ( たけだいなまる )というやつに 相違 ( そうい )ないぜ」と、いった。 「うむ、ふんじばって 織田家 ( おだけ )へわたせば、 莫大 ( ばくだい )な 恩賞 ( おんしょう )がある、うまいやつがひッかかった」 「やいッ、伊那丸。 われわれは富士の 人穴 ( ひとあな )を 砦 ( とりで )としている 山大名 ( やまだいみょう )の一手だ。 てめえの道づれは、あのとおり、湖水のまンなかで 水葬式 ( みずそうしき )にしてくれたから、もう逃げようとて、逃げるみちはない、すなおにおれたちについてこい」 「や、では 忍剣 ( にんけん )に矢を 射 ( い )たのも、そちたちか」 「忍剣かなにか知らねえが、いまごろは、 山椒 ( さんしょう )の魚の 餌食 ( えじき )になっているだろう」 「この 土蜘蛛 ( つちぐも )……」 伊那丸は、くやしげに 唇 ( くちびる )をかんで、にぎりしめていた 小太刀 ( こだち )の先をふるわせた。 「さッ、こなけりゃふんじばるぞ」 と、 野武士 ( のぶし )たちは、かれを少年とあなどって、不用意にすすみでたところを、伊那丸は、おどりあがって、 「おのれッ」 といいざま、 真眉間 ( まみけん )をわりつけた。 野武士 ( のぶし )どもは、それッと、 大刀 ( だいとう )をぬきつれて、前後からおッとりかこむ。 武技 ( ぶぎ )にかけては、 躑躅 ( つつじ )ヶ崎の 館 ( やかた )にいたころから、多くの達人やつわものたちに手をとられて、ふしぎな 天才児 ( てんさいじ )とまで、おどろかれた 伊那丸 ( いなまる )である。 からだは小さいが、 太刀 ( たち )は短いが、たちまちひとりふたりを 斬 ( き )ってふせた早わざは飛鳥のようだった。 「この 童 ( わっぱ )め、 味 ( あじ )をやるぞ、ゆだんするな」 と、 野武士 ( のぶし )たちは白刃の 鉄壁 ( てっぺき )をつくってせまる。 その剣光のあいだに、小太刀ひとつを身のまもりとして、 斬 ( き )りむすび、飛びかわしする伊那丸のすがたは、あたかも 嵐 ( あらし )のなかにもまれる 蝶 ( ちょう )か千鳥のようであった。 しかし時のたつほど疲れはでてくる。 息 ( いき )はきれる。 「そうだ、こんな名もない 土賊 ( どぞく )どもと、 斬 ( き )りむすぶのはあやまりだ。 じぶんは 武田家 ( たけだけ )の一粒としてのこった大せつな身だ。 「のがすなッ」 と野武士たちも風をついて追いまくってくる。 伊那丸は 芦 ( あし )の 洲 ( す )からかけあがって、松並木へはしった。 ピュッピュッという矢のうなりが、かれの耳をかすって飛んだ。 夕闇 ( ゆうやみ )がせまってきたので、足もともほの暗くなったが松並木へでた伊那丸は、けんめいに二町ばかりかけだした。 と、これはどうであろう、前面の道は 八重十文字 ( やえじゅうもんじ )に、 藤 ( ふじ )づるの 縄 ( なわ )がはってあって、かれのちいさな身でもくぐりぬけるすきもない。 「しまった」と 伊那丸 ( いなまる )はすぐ横の小道へそれていったが、そこにも 茨 ( いばら )のふさぎができていたので、さらに道をまがると 藤 ( ふじ )づるの 縄 ( なわ )がある。 折れてもまがっても抜けられる道はないのだ。 身に 翼 ( つばさ )でもないかぎりは、この 罠 ( わな )からのがれることはできない。 「そうだ、野武士らの手から、 織田家 ( おだけ )へ売られて名をはずかしめるよりは、いさぎよく 自害 ( じがい )しよう」 と、かれは覚悟をきめたとみえて、うすぐらい林のなかにすわりこんで、 脇差 ( わきざし )を右手にぬいた。 切っさきを 袂 ( たもと )にくるんで、あわや身につきたてようとしたときである。 ブーンと、飛んできた 分銅 ( ふんどう )が、カラッと刀の 鍔 ( つば )へまきついた。 や? とおどろくうちに、刀は手からうばわれて、スルスルと 梢 ( こずえ )の空へまきあげられていく。 「ふしぎな」と立ちあがったとたん、伊那丸は、ドンとあおむけにたおれた。 そしてそのからだはいつのまにか 罠 ( わな )なわのなかにつつみこまれて、小鳥のようにもがいていた。 すると、いままで鳴りをしずめていた野武士が、八ぽうからすがたをあらわして、たちまち伊那丸をまりのごとくにしばりあげて、そこから 富士 ( ふじ )の 裾野 ( すその )へさして追いたてていった。 幾里 ( いくり )も幾里ものあいだ、ただいちめんに青すすきの波である。 その一すじの道を、まッくろな一 群 ( ぐん )の人間が、いそぎに、いそいでいく。 それは 伊那丸 ( いなまる )をまン中にかためてかえる、さっきの 野武士 ( のぶし )だった。 「や、どこかで 笛 ( ふえ )の 音 ( ね )がするぜ……」 そういったものがあるので、一同ぴったと足なみをとめて耳をすました。 なるほど、 寥々 ( りょうりょう )と、そよぐ風のとぎれに、笛の 冴 ( さ )えた音がながれてきた。 「ああ、わかった。 咲耶子 ( さくやこ )さまが、また遊びにでているにちがいない」 「そうかしら? だがあの 音 ( ね )いろは、男のようじゃないか。 どんなやつが 忍 ( しの )んでいるともかぎらないからゆだんをするなよ」 とたがいにいましめあって、ふたたび道をいそぎだすと、あなたの草むらから、 月毛 ( つきげ )の 野馬 ( のうま )にのったさげ 髪 ( がみ )の美少女が、ゆらりと 気高 ( けだか )いすがたをあらわした。 一同はそれをみると、 「おう、やっぱり咲耶子さまでございましたか」 と荒くれ 武士 ( ぶし )ににげなく、花のような美少女のまえには、腰をおって、ていねいにあたまをさげる。 「じゃ、おまえたちにも、わたしが吹いていた笛の音が聞えたかえ?」 と 駒 ( こま )をとめた咲耶子は、美しいほほえみをなげて見おろしたが、ふと、伊那丸のすがたを目にとめて、三日月なりの 眉 ( まゆ )をちらりとひそめながら、 「まあ、そのおさない人を、ぎょうさんそうにからめてどうするつもりです。 伝内 ( でんない )や 兵太 ( ひょうた )もいながら、なぜそんなことをするんです」 と、とがめた。 名をさされたふたりの 野武士 ( のぶし )は、 一足 ( ひとあし )でて、 咲耶子 ( さくやこ )の 駒 ( こま )に近よった。 「まだ、ごぞんじありませぬか。 これこそ、お 頭 ( かしら )が、まえまえからねらっていた 武田家 ( たけだけ )の 小伜 ( こせがれ )、 伊那丸 ( いなまる )です」 「おだまりなさい。 とりこにしても身分のある敵なら、 礼儀 ( れいぎ )をつくすのが武門のならいです。 おまえたちは、名もない 雑人 ( ぞうにん )のくせにして、 呼 ( よ )びすてにしたり、 縄目 ( なわめ )にかけるというのはなんという情けしらず、けっして、ご 無礼 ( ぶれい )してはなりませぬぞ」 「へえ」と、一同はその声にちぢみあがった。 「わたしは道になれているから、あのかたを、この馬にお乗せもうすがよい」 と、咲耶子は、ひらりとおりて伊那丸の 縄 ( なわ )をといた。 まもなくけわしいのぼりにかかって、ややしばらくいくと、一の 洞門 ( どうもん )があった。 つづいて二の洞門をくぐると 天然 ( てんねん )の 洞窟 ( どうくつ )にすばらしい 巨材 ( きょざい )をしくみ、 綺羅 ( きら )をつくした 山大名 ( やまだいみょう )の 殿堂 ( でんどう )があった。 この時代の野武士の勢力はあなどりがたいものだった。 徳川 ( とくがわ ) 北条 ( ほうじょう )などという名だたる弓とりでさえも、その勢力 範囲 ( はんい )へ手をつけることができないばかりか、戦時でも、野武士の 区域 ( くいき )といえば、まわり道をしたくらい。 またそれを敵とした日には、とうてい天下の 覇 ( は )をあらそう大事業などは、はかどりっこないのである。 ここの 富士浅間 ( ふじせんげん )の 山大名 ( やまだいみょう )はなにものかというに、 鎌倉 ( かまくら )時代からこの 裾野 ( すその )一円に ばっこしている 郷士 ( ごうし )のすえで 根来小角 ( ねごろしょうかく )というものである。 つれこまれた 伊那丸 ( いなまる )は、やがて、 首領 ( しゅりょう )の小角の前へでた。 獣蝋 ( じゅうろう )の 燭 ( しょく )が、まばゆいばかりかがやいている大広間は、あたかも、 部将 ( ぶしょう )の城内へのぞんだような心地がする。 根来小角は、 野武士 ( のぶし )とはいえ、さすがにりっぱな男だった。 多くの配下を左右にしたがえて、上段にかまえていたが、そこへきた姿をみると座をすべって、みずから上座にすえ、ぴったり両手をついて臣下にひとしい礼をしたのには、伊那丸もややいがいなようすであった。 「お目どおりいたすものは、根来小角ともうすものです。 今日 ( こんにち )は 雑人 ( ぞうにん )どもが、 礼 ( れい )をわきまえぬ 無作法 ( ぶさほう )をいたしましたとやら、ひらにごかんべんをねがいまする」 はて? 残虐 ( ざんぎゃく )と利慾よりなにも知らぬ 野盗 ( やとう )の 頭 ( かしら )が、なんのつもりで、こうていちょうにするのかと、伊那丸は心ひそかにゆだんをしない。 「また、 武田 ( たけだ )の若君ともあるおんかたが、 拙者 ( せっしゃ )の 館 ( やかた )へおいでくださったのは天のおひきあわせ。 なにとぞ幾年でもご 滞留 ( たいりゅう )をねがいまする。 ところでこのたびは、 織田 ( おだ ) 徳川 ( とくがわ )両将軍のために、ご一門のご 最期 ( さいご )、小角ふかくおさっし申しあげます」 なにをいっても、伊那丸は 黙然 ( もくねん )と、 威 ( い )をみださずにすわっていた。 ただこころの奥底まで見とおすような、つぶらな 瞳 ( ひとみ )だけがはたらいていた。 「つきましては、小角は微力ですが、三万の野武士と、 裾野 ( すその )から 駿遠甲相 ( すんえんこうそう )四ヵ国の 山猟師 ( やまりょうし )は、わたくしの指ひとつで、いつでも目のまえに勢ぞろいさせてごらんにいれます。 そのうえ若君が、 御大将 ( おんたいしょう )とおなりあそばして、 富士 ( ふじ )ヶ 根 ( ね )おろしに 武田菱 ( たけだびし )の旗あげをなされたら、たちまち諸国からこぞってお味方に 馳 ( は )せさんじてくることは火をみるよりあきらかです」 「おまちなさい」と 伊那丸 ( いなまる )ははじめて口をひらいた。 「ではそちはわしに名のりをあげさせて、軍勢をもよおそうという望みか」 「おさっしのとおりでござります。 拙者 ( せっしゃ )には武力はありますが名はありませぬ。 それゆえ、 今日 ( こんにち )まで 髀肉 ( ひにく )の 歎 ( たん )をもっておりましたが、若君のみ 旗 ( はた )さえおかしくださるならば、 織田 ( おだ )や 徳川 ( とくがわ )は 鎧袖 ( がいしゅう )の一 触 ( しょく )です。 たちまち 蹴散 ( けち )らしてごむねんをはらします所存」 「だまれ 小角 ( しょうかく )。 わしは年こそおさないが、 信玄 ( しんげん )の血をうけた武神の孫じゃ。 そちのような、 野盗人 ( のぬすびと )の 上 ( かみ )にはたたぬ。 下郎 ( げろう )の力をかりて旗上げはせぬ」 「なんじゃ!」と小角のこえはガラリとかわった。 じぶんの野心を見ぬかれた腹立ちと、 落人 ( おちゅうど )の一少年にピシリとはねつけられた不快さに、満面に 朱 ( しゅ )をそそいだ。 「こりゃ伊那丸、よく申したな。 もう 汝 ( なんじ )の名をかせとはたのまぬわ、その代りその体を売ってやる! 織田家 ( おだけ )へわたして 莫大 ( ばくだい )な 恩賞 ( おんしょう )にしたほうが早手まわしだ。 兵太 ( ひょうた )ッ、この 餓鬼 ( がき )、ふんじばって 風穴 ( かざあな )へほうりこんでしまえ」 「へいッ」四、五人たって、たちまち伊那丸をしばりあげた。 かれはもう 観念 ( かんねん )の目をふさいでいた。 「歩けッ」 と 兵太 ( ひょうた )は 縄尻 ( なわじり )をとって、まッくらな 間道 ( かんどう )を引っ立てていった。 そして地獄の口のような岩穴のなかへポーンとほうりこむと、 鉄柵 ( てつさく )の 錠 ( じょう )をガッキリおろしてたちさった。 うしろ手にしばられているので、よろよろところげこんだ 伊那丸 ( いなまる )は、しばらく顔もあげずに倒れていた。 ザザーッと山砂をつつんだ 旋風 ( せんぷう )が、たえず 暗澹 ( あんたん )と吹きめぐっている 風穴 ( かざあな )のなかでは、一しゅんのまも目を 開 ( あ )いていられないのだ。 そればかりか、夜の 更 ( ふ )けるほど風のつめたさがまして 八寒地獄 ( はっかんじごく )のそこへ落ちたごとく 総身 ( そうみ )がちぢみあがってくる。 「あア 忍剣 ( にんけん )はどうした……忍剣はもうあの湖水の 藻 ( も )くずとなってしまったのか」 いまとなって、しみじみと思いだされてくるのであった。 「忍剣、忍剣。 おまえさえいれば、こんな 野武士 ( のぶし )のはずかしめを受けるのではないのに……」 唇 ( くちびる )をかんで、転々と身もだえしていると、なにか、とん、とん、とん……とからだの下の地面がなってくる心地がしたので、 「はてな? ……」と身をおこすと、そのはずみに、目のまえの、二 尺 ( しゃく )四方ばかりな一枚石が、ポンとはねあがって、だれやら、 覆面 ( ふくめん )をした者の頭が、ぬッとその下からあらわれた。 山大名 ( やまだいみょう )の 根来小角 ( ねごろしょうかく )の 殿堂 ( でんどう )は、七つの 洞窟 ( どうくつ )からできている。 その七つの 洞穴 ( ほらあな )から洞穴は、 縦 ( たて )に横に、上に下に、自由自在の 間道 ( かんどう )がついているが、それは小角ひとりがもっている 鍵 ( かぎ )でなければ 開 ( あ )かないようになっていた。 また、そとには、まえにもいったとおり、二つの 洞門 ( どうもん )があって、配下の 野武士 ( のぶし )が五人ずつ 交代 ( こうたい )で、 篝火 ( かがりび )をたきながら夜どおし見はりをしている 厳重 ( げんじゅう )さである。 今宵 ( こよい )もこの洞門のまえには、赤い 焔 ( ほのお )と人影がみえて、夜ふけのたいくつしのぎに、何か 高声 ( たかごえ )で話していると、そのさいちゅうに、ひとりがワッとおどろいて飛びのいた。 「なんだッ」 と一同が総立ちになったとき、洞門のなかからばらばらととびだしてきたのは七、八ひきの 猿 ( さる )であった。 「なんだ 猿 ( さる )じゃないか、 臆病者 ( おくびょうもの )め」 「どうして 檻 ( おり )からでてきたのだろう。 咲耶子 ( さくやこ )さまのかわいがっている 飼猿 ( かいざる )だ。 それ、つかまえろッ」 と八ぽうへちってゆく 猿 ( さる )を追いかけていったあと、 留守 ( るす )になった二の 洞門 ( どうもん )の入口から 脱兎 ( だっと )のごとくとびだした 影 ( かげ )! ひとりは 黒装束 ( くろしょうぞく )の 覆面 ( ふくめん )、そのかげにそっていたのは、 伊那丸 ( いなまる )にそういなかった。 「何者だッ」 と一の洞門では、早くもその足音をさとって、ひとりが大手をひろげてどなると、 鉄球 ( てっきゅう )のように飛んでいった伊那丸が、どんと 当身 ( あてみ )の一 拳 ( けん )をついた。 「うぬ!」と風をきって鳴った 山刀 ( やまがたな )のひかり。 よろりと 泳 ( およ )いだ影は、伊那丸のちいさな影から、あざやかに投げられて、 断崖 ( だんがい )の 闇 ( やみ )へのまれた。 「 曲者 ( くせもの )だ! みんな、でろ」 覆面の黒装束へも 襲 ( おそ )いかかった。 姿 ( すがた )はほっそりとしているのに、 手練 ( しゅれん )はあざやかだった。 よりつく者を投げすてて、すばやく逃げだすのを、横あいからまた飛びついていったひとりがむんずと組みついて、その覆面の顔をまぢかく見て、 「ああ、あなたは」と、 愕然 ( がくぜん )とさけんだ。 顔を見られたと知った覆面は、おどろく男を突ッぱなした。 よろりと身をそるところへ、黒装束の腰からさッとほとばしった氷の 刃 ( やいば )! 男の肩からけさがけに 斬 ( き )りさげた。 「伊那丸さま」 黒装束 ( くろしょうぞく )は、手まねきするやいなや、岩 つばめのようなはやさで、たちまち、そこからかけおりていってしまった。 下界 ( げかい )をにらみつけるような大きな月が、人ひとり、鳥一羽の影さえない、 裾野 ( すその )のそらの一 角 ( かく )に、夜の 静寂 ( しじま )をまもっている。 その 渺 ( びょう )としてひろい平野の一本杉に、一ぴきの 白駒 ( しろこま )がつながれていた。 馬は、さびしさも知らずに、月光をあびながら、のんきに青すすきを食べているのだ。 いっさんにかけてきた 黒装束 ( くろしょうぞく )は、 白馬 ( しろうま )のそばへくるとぴッたり足をとめて、 「 伊那丸 ( いなまる )さま、もうここまでくれば大じょうぶです」 と、あとからつづいてきた影へ手をあげた。 「ありがとうござりました」 伊那丸は、ほッとして 夢心地 ( ゆめごこち )をさましたとき、ふしぎな黒装束の 義人 ( ぎじん )のすがたを、はじめて落ちついてながめたのであるが、その人は月の光をしょっているので、顔はよくわからなかった。 「もう大じょうぶです。 これからこの 野馬 ( のうま )にのって、明方までに 富士川 ( ふじがわ )の下までお送りしてあげますから、あれから 駿府 ( すんぷ )へでて、いずこへなり、身をおかくしなさいまし、ここに 関所札 ( せきしょふだ )もありますから……」 と、 黒装束 ( くろしょうぞく )のさしだした 手形 ( てがた )をみて、 伊那丸 ( いなまる )はいよいよふしぎにたえられない。 「そして、そなたはいったいたれびとでござりますぞ」 「だれであろうと、そんなことはいいではありませんか。 さ、早く、これへ」 と 白駒 ( しろこま )の 手綱 ( たづな )をひきだしたとき、はじめて月に照らされた 覆面 ( ふくめん )のまなざしを見た伊那丸は、思わずおおきなこえで、 「や! そなたはさっきの 女子 ( おなご )、 咲耶子 ( さくやこ )というのではないか」 「おわかりになりましたか……」 涼 ( すず )しい 眸 ( ひとみ )にちらと 笑 ( え )みを見せて、それへ両手をつきながら、 「おゆるしくださいませ、父の 無礼 ( ぶれい )は、どうぞわたしにかえてごかんべんあそばしませ……」と、わびた。 「では、そなたは 小角 ( しょうかく )の娘でしたか」 「そうです、父のしかたはまちがっております。 そのおわびに 鍵 ( かぎ )をそッと持ちだしておたすけもうしたのです。 伊那丸さま、あなたのおうわさは私も前から聞いておりました、どうぞお身を大切にして、かがやかしい 生涯 ( しょうがい )をおつくりくださいまし」 「忘れませぬ……」 伊那丸は、神のような美少女の至情にうたれて、思わずホロリとあつい涙を 袖 ( そで )のうちにかくした。 と、咲耶子はいきなり立ちあがった。 「なんです?」 と、 伊那丸 ( いなまる )もその 眸 ( ひとみ )のむいたほうをみると、 藍 ( あい )いろの月の空へ、ひとすじの細い火が、ツツツツーと走りあがってやがて 消 ( き )えた。 「あの火は、この 裾野 ( すその )一帯の、森や河原にいる 野伏 ( のぶせり )の 力者 ( りきしゃ )に、あいずをする知らせです。 父は、あなたの逃げたのをもう知ったとみえます。 さ、早く、この馬に。 ……抜けみちは私がよく知っていますから、早くさえあれば、しんぱいはありませぬ」 とせき立てて、伊那丸の乗ったあとから、じぶんもひらりと前にのって、手ぎわよく、 手綱 ( たづな )をくりだした。 その時、すでにうしろのほうからは、 百足 ( むかで )のようにつらなった 松明 ( たいまつ )が、 山峡 ( やまあい )の 闇 ( やみ )から月をいぶして、こなたにむかってくるのが見えだした。 「おお、もう近い!」 咲耶子 ( さくやこ )は、ピシリッと馬に 一鞭 ( ひとむち )あてた。 夕陽 ( ゆうひ )のうすれかけた 湖 ( みずうみ )の波をザッザときって、 陸 ( おか )へさして泳いでくるものがあった。 どっかりと、 岸辺 ( きしべ )へからだを落とすと、忍剣はすぐ 衣 ( ころも )をさいて、ひだりの 肘 ( ひじ )の 矢傷 ( やきず )をギリギリ巻きしめた。 そして身をはねかえすが 否 ( いな )や、 白旗 ( しらはた )の宮へかけつけてきてみると、 伊那丸 ( いなまる )のすがたはみえないで、ただじぶんの 鉄杖 ( てつじょう )だけが立てかけてのこっていた。 それらしい人の影もあたりに見えてはこない。 「さては」と忍剣は、心をくらくした。 湖水のなかほどへでたとき、ふいに矢を 乱射 ( らんしゃ )したやつのしわざにちがいない。 小さな くりぬき舟であったため、矢をかわしたはずみに、くつがえってしまったので、 石櫃 ( いしびつ )はかんぜんに湖心のそこへ沈めたけれど、伊那丸の身を何者かにうばわれては、あの 宝物 ( ほうもつ )も、 永劫 ( えいごう )にこの湖から世にだす時節もなくなるわけだ。 「ともあれ、こうしてはおられない、命にかけても、おゆくえをさがさねばならぬ」 鉄杖をひッかかえた忍剣は、八ぽうへ 血眼 ( ちまなこ )をくばりながら、湖水の岸、あなたこなたの森、くまなくたずね歩いたはてに、どこへ抜けるかわからないで、とある松並木をとおってくると、いた! 二、三町ばかり先を、白い影がとぼとぼとゆく。 「オーイ」 と手をあげながらかけだしていくと、半町ほどのところで、フイとその影を見うしなってしまった。 「はてな、ここは一すじ道だのに……」 小首をひねって見まわしていると、なんのこと、いつかまた、三町も先にその影が歩いている。 「こりゃおかしい。 伊那丸 ( いなまる )さまではないようだが、あやしいやつだ。 一つつかまえてただしてくれよう」 と 宙 ( ちゅう )をとんで追いかけていくうちに、また先の者が見えなくなる。 足をとめるとまた見える。 さすがの 忍剣 ( にんけん )も少しくたびれて、どっかりと、道の木の根に腰かけて汗をふいた。 「どうもみょうなやつだ。 人間の足ではないような早さだ。 それとも、あまり伊那丸さまのすがたを 血眼 ( ちまなこ )になってさがしているので、気のせいかな」 忍剣がひとりでつぶやいていると、その鼻ッ先へ、スーッと、うすむらさき色の煙がながれてきた。 「おや……」ヒョイとふりあおいでみると、すぐじぶんのうしろに、まっ白な衣服をつけた男がたばこをくゆらしながら、忍剣の顔をみてニタリと笑った。 「こいつだ」 と見て、忍剣もグッとにらみつけた。 男は 背 ( せ )に 笈 ( おい )をせおっている 六部 ( ろくぶ )である。 ばけものではないにちがいない。 にらまれても落ちついたもの、スパリスパリと、二、三ぷくすって、ポンと、立木の横で、きせるをはたくと、あいさつもせずに、またすたすたとでかけるようすだ。 「まて、 六部 ( ろくぶ )まて」 あわてて立ちあがったが、もうかれの姿は、あたりにも先にも見えない。 忍剣 ( にんけん )はあきれた。 世のなかには、奇怪なやつがいればいるものと、ぼうぜんとしてしまった。 疑心暗鬼 ( ぎしんあんき )とでもいおうか、場合がばあいなので、忍剣には、どうも今の六部の 挙動 ( きょどう )があやしく思えてならない。 なんとなく 伊那丸 ( いなまる )の身を 闇 ( やみ )につつんだのも、きゃつの仕事ではないかと思うと、いま目のさきにいたのを 逃 ( に )がしたのがざんねんになってきた。 「あやしい六部だ。 よし、どんな早足をもっていようがこの忍剣のこんきで、ひッとらえずにはおかぬぞ」 とかれはまたも、いっさんにかけだした。 並木 ( なみき )がとぎれたところからは、一望千里の 裾野 ( すその )が見わたされる。 忍剣 ( にんけん )は、この方角とにらんだ道を、一 念 ( ねん )こめて、さがしていくと、やがて、ゆくてにあたって、一 宇 ( う )の六角堂が目についた。 「おお、あれはいつの年か、このへんで 戦 ( たたか )いのあったとき焼けのこった 文殊閣 ( もんじゅかく )にちがいない。 もしかすると、 六部 ( ろくぶ )の 巣 ( す )も、あれかもしれぬぞ……」 と 勇 ( いさ )みたって近づいていくと、はたして、くずれかけた文殊閣の石段のうえに、 白衣 ( びゃくえ )の六部が、月でもながめているのか、 ゆうちょうな顔をして腰かけている。 「こりゃ六部、あれほど 呼 ( よ )んだのになぜ待たないのだ」 忍剣はこんどこそ逃がさぬぞという気がまえで、その前につッ立った。 「なにかご用でござるか」 と、かれはそらうそぶいていった。 「おおさ、問うところがあればこそ呼んだのだ。 年ごろ十四、五に渡らせられる若君を見失ったのだ。 知っていたら教えてくれ」 「知らない、ほかで聞け」 六部の答えは、まるで忍剣を 愚弄 ( ぐろう )している。 「だまれッ、この 裾野 ( すその )の夜ふけに、問いたずねる人間がいるか。 そういう 汝 ( なんじ )の口ぶりがあやしい、正直にもうさぬと、これだぞッ」 ぬッと、 鉄杖 ( てつじょう )を鼻さきへ突きつけると、六部はかるくその先をつかんで、腰の下へしいてしまった。 「これッ、なんとするのだ」 忍剣 ( にんけん )は、 渾力 ( こんりき )をしぼって、それを引きぬこうとこころみたが、ぬけるどころか、 大山 ( たいざん )にのしかかられたごとく一寸のゆるぎもしない。 しかも、 六部 ( ろくぶ )はへいきな顔で、 両膝 ( りょうひざ )にほおづえをついて笑っている。 「むッ……」 と忍剣は、 総身 ( そうみ )の力をふりしぼった。 力にかけては、怪童といわれ、 恵林寺 ( えりんじ )のおおきな庭石をかるがるとさして山門の階段をのぼったじぶんである。 なにをッ、なにをッと、引けどねじれど、 鉄杖 ( てつじょう )のほうが、まがりそうで、六部のからだはいぜんとしている。 すると、ふいに、六部が腰をうかした。 「無念ッ」とかえす力で横ざまにはらい上げた鉄杖を、ふたたびくぐりぬけた六部は、 杖 ( つえ )にしこんである 無反 ( むぞ )りの 冷刀 ( れいとう )をぬく手も見せず、ピカリと片手にひらめかせて、 「 若僧 ( わかそう )、雲水」と 錆 ( さび )をふくんだ声でよんだ。 「なにッ」と持ちなおした鉄杖を、まッこうにふりかぶった忍剣は、 怒気 ( どき )にもえた目をみひらいて、ジリジリと相手のすきをねらいつめる。 たがいの息と息は、その一しゅん、水のようにひそやかであった。 しかも、 総身 ( そうみ )の毛穴からもえたつ熱気は、 焔 ( ほのお )となって、いまにも、そうほうの切先から火の 輪 ( わ )をえがきそうに見える……。 突 ( とつ )として、風を切っておどった 銀蛇 ( ぎんだ )は、忍剣の 真眉間 ( まみけん )へとんだ。 「おうッ」と、さけびかえした忍剣は、それを 鉄杖 ( てつじょう )ではらったが、 空 ( くう )をうッてのめッたとたん、背をのぞんで、六部はまたさッと斬りおろしてきた。 そのはやさ、かわす 間 ( ま )もあらばこそ、忍剣も、ぽんとうしろへとびのくより 策 ( さく )がなかった。 そして、 踏 ( ふ )みとどまるが早いか、ふたたび鉄杖を横がまえに持つと、 「待て」と六部の声がかかった。 「 怯 ( ひる )んだかッ」たたき返すように忍剣がいった。 「いやおくれはとらぬ。 しかしきさまの鉄杖はめずらしい。 いったいどこの何者だか聞かしてくれ」 「あてなしの旅をつづける雲水の忍剣というものだ。 ところで、なんじこそただの六部ではあるまい」 「あやしいことはさらにない。 ありふれた 木遁 ( もくとん )の 隠形 ( おんぎょう )でちょっときさまをからかってみたのだ」 「ふらちなやつだ。 さてはきさまは、どこかの 大名 ( だいみょう )の手先になって、諸国をうかがう、 間諜 ( いぬ )だな」 「ばかをいえ。 しのびに 長 ( た )けているからといって、 諜者 ( ちょうじゃ )とはかぎるまい。 このとおり 六部 ( ろくぶ )を世わたりにする 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )という者だ。 こう名のったところできくが、さっききさまのたずねた若君とは何者だ」 「その口にいつわりがないようすだから聞かしてやる。 じつは、さる高貴なおん方のお 供 ( とも )をしている」 「そうか。 では 武田 ( たけだ )の 御曹子 ( おんぞうし )だな……」 「や、どうして、 汝 ( なんじ )はそれを知っているのだ?」 「 恵林寺 ( えりんじ )の 焔 ( ほのお )のなかからのがれたときいて、とおくは、 飛騨 ( ひだ ) 信濃 ( しなの )の山中から、この 富士 ( ふじ )の 裾野 ( すその )一 帯 ( たい )まで、足にかけてさがしぬいていたのだ。 きさまの口うらで、もうおいでになるところは 拙者 ( せっしゃ )の目にうつってきた。 このさきは、 伊那丸 ( いなまる )さまはおよばずながら、この六部がお 附添 ( つきそ )いするから、きさまは、安心してどこへでも落ちていったがよかろう」 忍剣 ( にんけん )はおどろいた。 まったくこの六部のいうこと、なすことは、いちいち ふにおちない。 のみならず、じぶんをしりぞけて、伊那丸をさがしだそうとする野心もあるらしい。 「たわけたことをもうせ。 伊那丸さまはこの忍剣が命にかけて、お 護 ( まも )りいたしているのだわ」 「そのお 傅役 ( もりやく )が、さらわれたのも知らずにいるとは 笑止千万 ( しょうしせんばん )じゃないか。 御曹子 ( おんぞうし )はまえから 拙者 ( せっしゃ )がさがしていたおん方だ、もうきさまに用はない」 「いわせておけば 無礼 ( ぶれい )なことばを」 「それほどもうすなら、きさまはきさまでかってにさがせ。 どれ、 拙者 ( せっしゃ )は、これから明け方までに、おゆくえをつきとめて、思うところへお 供 ( とも )をしよう」 「この 痴 ( し )れものが」 と、 忍剣 ( にんけん )は真から腹立たしくなって、ふたたび 鉄杖 ( てつじょう )をにぎりしめたとき、はるか 裾野 ( すその )のあなたに、ただならぬ光を見つけた。 六部 ( ろくぶ )の 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )も見つけた。 ふたりはじッとひとみをすえて、しばらく 黙然 ( もくねん )と立ちすくんでしまった。 それは 蛇形 ( だぎょう )の 陣 ( じん )のごとく、うねうねと、 裾野 ( すその )のあなたこなたからぬいめぐってくる一 道 ( どう )の 火影 ( ほかげ )である。 多くの 松明 ( たいまつ )が 右往左往 ( うおうざおう )するさまにそういない。 「あれだ!」いうがはやいか龍太郎は、一 足 ( そく )とびに、石段から姿をおどらした。 「うぬ。 汝 ( なんじ )の手に若君をとられてたまるか」 忍剣 ( にんけん )も、 韋駄天 ( いだてん )ばしり、この 一足 ( ひとあし )が、必死のあらそいとはなった。 たちまち、そらの月影が、黒雲のうちにさえぎられると、 裾野 ( すその )もいちめんの 如法闇夜 ( にょほうあんや )、ただ、ザワザワと鳴るすすきの風に、つめたい雨気さえふくんできた。 「おお、雲は切れめなくいちめんになってきた。 咲耶どの、もう 駒 ( こま )をはやめてはあぶない、わしはここでおりますから、あなたは 岩殿 ( いわどの )へお帰りなさい」 「いいえ、まだ 富士川 ( ふじがわ )べりまでは、あいだがあります」 「いや、そなたが帰ってから、 小角 ( しょうかく )にとがめられるであろうと思うと、わしは胸がいたくなります。 さ、わしをここでおろしてください」 「 伊那丸 ( いなまる )さま、こんなはてしも見えぬ裾野のなかで、馬をお捨てあそばして、どうなりますものか」 いい 争 ( あらそ )っているすきに、十 間 ( けん )とは離れない 窪地 ( くぼち )の下から、ぱッと目を射てきた 松明 ( たいまつ )のあかり。 「いたッ」 「逃がすな」と、八ぽうからの声である。 「あッ、大へん」 と咲耶子はピシリッと 駒 ( こま )をうった。 ザザーッと道もえらまずに数十 間 ( けん )、一気にかけさせたのもつかの 間 ( ま )であった。 たのむ馬が、 窪地 ( くぼち )に落ちて 脚 ( あし )を折ったはずみに、ふたりはいきおいよく、草むらのなかへ投げ落とされた。 「それッ、落ちた。 そこだッ」 むらがりよってきた 松明 ( たいまつ )の赤い 焔 ( ほのお )、 山刀 ( やまがたな )の光、 槍 ( やり )の 穂 ( ほ )さき。 ふたりのすがたは、たちまちそのかこみのなかに照らしだされた。 「もう、これまで」 と 小太刀 ( こだち )をぬいた 伊那丸 ( いなまる )は、その 荒武者 ( あらむしゃ )のまッただなかへ、運にまかせて、斬りこんだ。 咲耶子 ( さくやこ )も、 覆面 ( ふくめん )なのを幸いに一刀をもって、伊那丸の身をまもろうとしたが、さえぎる槍や大刀に 畳 ( たた )みかけられ、はなればなれに斬りむすぶ。 「めんどうくさい。 武田 ( たけだ )の 童 ( わっぱ )も、手引きしたやつも、片ッぱしから首にしてしまえ」 大勢のなかから、こうどなった者は、咲耶子と知ってか知らぬのか、 山大名 ( やまだいみょう )の 根来小角 ( ねごろしょうかく )であった。 時に、そのすさまじいつるぎの 渦 ( うず )へ、 突 ( とつ )として、横合いからことばもかけずに、 無反 ( むぞ )りの大刀をおがみに持って、飛びこんできた人影がある。 六部 ( ろくぶ )の 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )であった。 一 閃 ( せん )かならず一人を斬り、一気かならず一 夫 ( ぷ )を割る、 手練 ( しゅれん )の腕は、 超人的 ( ちょうじんてき )なものだった。 それとみて、 愕然 ( がくぜん )とした根来小角は、みずから大刀をとって、 奮 ( ふる )いたった。 と同時に、 一足 ( ひとあし )おくれて、かけつけた 忍剣 ( にんけん )の 鉄杖 ( てつじょう )も、風を呼んでうなりはじめた。 空はいよいよ暗かった。 降るのはこまかい血の雨である。 たばしる 剣 ( つるぎ )の 稲妻 ( いなずま )にまきこまれた、 可憐 ( かれん )な 咲耶子 ( さくやこ )の身はどうなるであろう。 しかし、 加賀見忍剣 ( かがみにんけん )の身のまわりだけは、 常闇 ( とこやみ )だった。 かれは、とんでもない 奈落 ( ならく )のそこに落ちて、 土龍 ( もぐら )のようにもがいていた。 「 伊那丸 ( いなまる )さまはどうしたであろう。 アア、こうしちゃいられない、グズグズしている場合じゃない……」 忍剣は、どんな 危地 ( きち )に立っても、けっしてうろたえるような男ではない。 ただ、伊那丸の身をあんじてあせるのだった。 地の理にくらいため、乱闘のさいちゅうに、足を 踏 ( ふ )みすべらしたのが、かえすがえすもかれの失敗であった。 ところが、そこは 裾野 ( すその )におおい 断層 ( だんそう )のさけ目であって、両面とも、切ってそいだかのごとき岩と岩とにはさまれている 数丈 ( すうじょう )の地底なので、さすがの 忍剣 ( にんけん )も、 精根 ( せいこん )をつからして空の明るみをにらんでいた。 「む! 根気だ。 こんなことにくじけてなるものか」 とふたたび 袖 ( そで )をまくりなおした。 かれは 鉄杖 ( てつじょう )を背なかへくくりつけて、 護身 ( ごしん )の短剣をぬいた。 そして、岩の面へむかって、 一段 ( いちだん )一段、じぶんの足がかりを、掘りはじめたのである。 すると、なにかやわらかなものが、忍剣の 頬 ( ほお )をなでてははなれ、なでてははなれするので、かれはうるさそうにそれを手でつかんだ時、はじめて赤い 絹 ( きぬ )の 細帯 ( ほそおび )であったことを知った。 「おや? ……」 と、あおむいて見ると、ちゅうとから 藤 ( ふじ )づるかなにかで結びたしてある 一筋 ( ひとすじ )が、たしかに、上からじぶんを目がけてさがっている。 「ありがたい!」 と力いっぱい引いてこころみたが、切れそうもないので、それをたよりに、するするとよじのぼっていった。 ぽんと、大地へとびあがったときのうれしさ。 忍剣はこおどりして見まわすと、そこに、思いがけない美少女が 笑 ( え )みをふくんで立っている。 少女の足もとには、 謎 ( なぞ )のような 黒装束 ( くろしょうぞく )の 上下 ( うえした )がぬぎ捨てられてあった。 「や、あなたは……」 と 忍剣 ( にんけん )はいぶかしそうに目をみはった。 その問いにおうじて、少女は、 「わたくしはこの 裾野 ( すその )の 山大名 ( やまだいみょう )、 根来小角 ( ねごろしょうかく )の娘で、 咲耶子 ( さくやこ )というものでございます」 と、はっきりしたこわ 音 ( ね )でこたえた。 「そのあなたが、どうしてわたしをたすけてくださったのじゃ」 「ご 僧 ( そう )は、 伊那丸 ( いなまる )さまのお 供 ( とも )のかたでございましょうが」 「そうです。 若君のお身はどうなったか、それのみがしんぱいです。 ごぞんじなら、教えていただきたい」 「伊那丸さまは、ご 僧 ( そう )と一しょに斬りこんできた 六部 ( ろくぶ )のひとが、おそろしい 早技 ( はやわざ )でどこともなく連れていってしまいました。 あの六部が、善人か悪人か、わたくしにもわからないのです。 それをあなたにお知らせするために夜の明けるのを待っていたのです」 「えッ、ではやっぱりあの六部にしてやられたか。 して六部めは、どっちへいったか、方角だけでも、ごぞんじありませんか」 「わたくしはそのまえに、 富士川 ( ふじがわ )をくだって、東海道から京へでる 関所札 ( せきしょふだ )をあげておきましたが、その道へ向かったかどうかわかりませぬ」 「しまった……?」 と、忍剣は 吐息 ( といき )をもらした。 と、咲耶子は、にわかに色をかえてせきだした。 「あれ、父の手下どもが、わたくしをたずねてむこうからくるようです。 すこしも早くここをお立ちのきあそばしませ。 わたくしは山へ帰りますが、かげながら、 伊那丸 ( いなまる )さまのお行く末をいのっております」 「ではお別れといたそう。 拙僧 ( せっそう )とて、 安閑 ( あんかん )としておられる身ではありません」 ふたたび 鉄杖 ( てつじょう )を手にした 忍剣 ( にんけん )は、別れをつげて、 恨 ( うら )みおおき 裾野 ( すその )をあとに、いずこともなく草がくれに立ち去った。 浜松 ( はままつ )の城下は、海道一の名将、 徳川家康 ( とくがわいえやす )のいる都会である。 その浜松は、ここ七日のあいだは、 男山八幡 ( おとこやまはちまん )の祭なので、夜ごと町は、おびただしいにぎわいであった。 「どうですな、 鎧屋 ( よろいや )さん、まだ売れませんか」 その 八幡 ( はちまん )の 玉垣 ( たまがき )の前へならんでいた夜店の 燈籠売 ( とうろうう )りがとなりの者へはなしかけた。 「売れませんよ。 今日で六日もだしていますがだめです」 と答えたのは、十八、九の若者で、たった一組の 鎧 ( よろい )をあき箱の上にかざり、じぶんのそばには、一本の 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )を立てかけて、ぼんやりとそこに腰かけている。 「おまえさんの 燈籠 ( とうろう )のほうは、女子供が相手だから、さだめし毎日たくさんの売上げがありましたろう」 「どうしてどうして、あの 鬼玄蕃 ( おにげんば )というご城内の 悪侍 ( わるざむらい )のために、今年はからきし、 商 ( あきな )いがありませんでした」 「ゆうべもわたしがかえったあとで、だれかが、あいつらに斬られたということですが、ほんとでしょうかね」 「そんなことは珍しいことじゃありませんよ。 店をメチャメチャにふみつぶされたり、 片輪 ( かたわ )にされたかわいそうな人が、何人あるか知れやしません。 まったく弱いものは生きていられない世の中ですね」 といってる口のそばから、ワーッという声が向こうからあがって、いままで 歓楽 ( かんらく )の世界そのままであったにぎやかな町の 灯 ( あか )りが、バタバタ消えてきた。 燈籠売 ( とうろうう )りははねあがってあおくなった。 「大へん大へん、 鎧屋 ( よろいや )さん、はやく逃げたがいいぜ、鬼玄蕃がきやがったにちがいない」 にわか雨でもきたように、あたりの商人たちも、ともどもあわてさわいだが、かの若者だけは、腰も立てずに 悠長 ( ゆうちょう )な顔をしていた。 案のじょう、そこへ 旋風 ( つむじかぜ )のようにあばれまわってきた四、五人の 侍 ( さむらい )がある。 なかでも一きわすぐれた強そうな 星川玄蕃 ( ほしかわげんば )は、つかつかと鎧屋のそばへよってきた。 泥酔 ( でいすい )したほかの侍たちも、こいつはいいなぶりものだという顔をして、そこを取りまく。 「やい、町人。 この 槍 ( やり )はいくらだ」 と 玄蕃 ( げんば )はいきなり若者のそばにあった 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )をつかんだ。 「それは売り物じゃありません」 にべもなく、ひッたくって槍をおきかえたかれは、あいかわらず、 無神経 ( むしんけい )にすましこんでいた。 「けしからんやつだ、売り物でないものを、なぜ店へさらしておく。 こいつ、客をつる 山師 ( やまし )だな」 「槍はわしの持物です。 どこへいくんだッて、この槍を手からはなさぬ 性分 ( しょうぶん )なんだからしかたがない」 「ではこの 鎧 ( よろい )が売りものなのか。 黒皮胴 ( くろかわどう )、 萌黄縅 ( もえぎおどし )、なかなかりっぱなものだが、いったいいくらで売るのだ」 「それも売りたい 品 ( しな )ではないが、お 母 ( ふくろ )が病気なので、 薬代 ( くすりだい )にこまるからやむなく手ばなすんです。 酔 ( よ )ッぱらったみなさまがさわいでいると、せっかくのお客も逃げてしまいます。 早くあっちへいってください」 「 無愛想 ( ぶあいそう )なやつだ。 買うからねだんを聞いているのだ」 「 金子 ( きんす )五十枚、びた一 文 ( もん )もまかりません。 はい」 「たかい、銅銭五十枚にいたせ、買ってくれる」 「いけません、まっぴらです」 「ふらちなやつだ。 だれがこんなボロ鎧に、金五十枚をだすやつがあるか、バカめッ」 玄蕃 ( げんば )が 土足 ( どそく )をあげて 蹴 ( け )ったので、 鎧 ( よろい )はガラガラとくずれて土まみれになった。 こんならんぼうは、 泰平 ( たいへい )の世には、めったに見られないが、あけくれ血や 白刃 ( しらは )になれた戦国武士の悪い者のうちには、町人百姓を 蛆虫 ( うじむし )とも思わないで、ややともすると、 傲慢 ( ごうまん )な武力をもってかれらへのぞんでゆくものが多かった。 「 山師 ( やまし )めッ」 ほかの 武士 ( ぶし )どもも、口を合わせてののしった上に 鎧 ( よろい )を 踏 ( ふ )みちらして、どッと笑いながら立ちさろうとした時、若者の 眉 ( まゆ )がピリッとあがった。 「待てッ」 「なにッ」とふりかえりざま、刀の 柄 ( つか )へ手をかけた五人の、おそろしい眼つき。 すわと、 弥次馬 ( やじうま )は、 潮 ( うしお )のごとくたちさわいだ。 玉垣 ( たまがき )を照らしている 春日燈籠 ( かすがどうろう )の 灯影 ( ほかげ )によく見ると、それこそ、 裾野 ( すその )の 危地 ( きち )を斬りやぶって、 行方 ( ゆくえ )をくらました 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )と、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )のふたりであった。 六部の龍太郎は、はたして、なんの目的で伊那丸をうばいとってきたかわからないが、ここに立ったふたりのようすから 察 ( さっ )すると、いつか伊那丸もかれを 了解 ( りょうかい )しているし、龍太郎も主君のごとく 敬 ( うやま )っているようだ。 しかしそれにしても武田の 残党 ( ざんとう )を根だやしにするつもりである敵の本城地に、かく明からさまに姿をあらわしているのは、なんという 大胆 ( だいたん )な行動であろう。 「気は 狂 ( ちが )っていない! 町人のなかにも男はいる、天にかわって、 汝 ( なんじ )らをこらしてやるのだ」 「なまいきなことをほざく 下郎 ( げろう )だ、汝らがこのご城下で 安穏 ( あんのん )にくらしていられるのは、みなわれわれが敵国と戦っている 賜物 ( たまもの )だぞ。 罰 ( ばち )あたりめ」 「町人どもへよい見せしめ、そのほそ首をぶッ飛ばしてくれよう」 「うごくなッ」 鬼玄蕃 ( おにげんば )をはじめ、一同の刀が、若者の手もとへ、ものすさまじく斬りこんだ。 とたんに、 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )は、一本の火柱のごとく、さッと五本の乱刀を 天宙 ( てんちゅう )からたたきつけた。 わッと、あいての手もとが乱れたすきに、若者はまた一声「えいッ」とわめいて、ひとりのむなさきを 田楽刺 ( でんがくざ )しにつきぬくがはやいか、すばやく 穂先 ( ほさき )をくり引いて、ふたたびつぎの相手をねらっている。 その 早技 ( はやわざ )も、 非凡 ( ひぼん )であったが、よりおどろくべきものは、かれのこい 眉毛 ( まゆげ )のかげから、らんらんたる底光をはなってくる二つの 眸 ( ひとみ )である。 それは、 槍 ( やり )の穂先よりするどい光をもっている。 「やりおったな、 小僧 ( こぞう )ッ。 もうゆるさん」 玄蕃 ( げんば )は怒りにもえ、 金剛力士 ( こんごうりきし )のごとく、 太刀 ( たち )をふりかぶって、槍の真正面に立った。 かれのがんじょうな五体は、さすが戦場のちまたで 鍛 ( きた )えあげたほどだけあって、 小柄 ( こがら )な若者を見おろして、ただ一 撃 ( げき )といういきおいをしめした。 それさえあるのに、あと三人の 武士 ( ぶし )も、めいめいきっさきをむけて、ふくろづめに、一寸二寸と、若者の 命 ( いのち )に、くいよってゆくのだ。 ああ、あぶない。 いざといわば、一気におどりこんで、 木隠 ( こがくれ )一 流 ( りゅう )の 冴 ( さ )えを見せんとするらしい。 ヤッという 裂声 ( れっせい )があたりの空気をつんざいた。 鬼玄蕃 ( おにげんば ) 星川 ( ほしかわ )が斬りこんだのだ。 「えいッ、 木 ( こ )ッ 葉 ( ぱ )どもめ!」 若者は、二、三ど、 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )をふりまわしたが、トンと石突きをついたはずみに、五尺の体をヒラリおどらすが早いか、 社 ( やしろ )の玉垣を、飛鳥のごとく飛びこえたまま、あなたの 闇 ( やみ )へ消えてしまった。 バラバラと武士もどこかへかけだした。 あとは血なまぐさい風に、消えのこった 灯 ( ともしび )がまたたいているばかり。 「アア、気もちのよい男」 と 伊那丸 ( いなまる )は、思わずつぶやいた。 「 拙者 ( せっしゃ )も、めずらしい 槍 ( やり )の 玄妙 ( げんみょう )をみました」 龍太郎 ( りゅうたろう )は 助太刀 ( すけだち )にでようとおもうまに、みごとに勝負をつけてしまった若者の 早技 ( はやわざ )に、 舌 ( した )をまいて 感嘆 ( かんたん )していた。 そして、ふたりはいつかそこを歩みだして、浜松城に近い 濠端 ( ほりばた )を、しずかに歩いていたのである。 すると、大手門の橋から、たちまち空をこがすばかりの 焔 ( ほのお )の一列が 疾走 ( しっそう )してきた。 龍太郎は見るより舌うちして、伊那丸とともに、濠端の 柳 ( やなぎ )のかげに身をひそませていると、まもなく、 松明 ( たいまつ )を持った 黒具足 ( くろぐそく )の武士が十四、五人、目の前をはしり抜けたが、さいごのひとりが、 「待て、あやしいやつがいた」とさけびだした。 「なに? いたか」 バラバラと引きかえしてきた人数は、いやおうなく、ふたりのまわりをとり巻いてしまった。 「ちがった、こいつらではない」 と一目見た一同は、ふり捨ててふたたびゆきすぎかけたが、そのとき、 「ややッ、 伊那丸 ( いなまる )、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )ッ」と、だれかいった者がある。 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )をもった 曲者 ( くせもの )が、城内の 武士 ( ぶし )をふたりまで突きころしたという知らせに、さては、敵国の 間者 ( かんじゃ )ではないかと、すぐ 討手 ( うって )にむかってきたのは、酒井 黒具足組 ( くろぐそくぐみ )の人々であった。 運わるく、そのなかに、伊那丸の 容貌 ( かおかたち )を見おぼえていた者があった。 かれらは、おもわぬ 大獲物 ( おおえもの )に、 武者 ( むしゃ )ぶるいを 禁 ( きん )じえない。 「ちがいない。 まさしくこの者は、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )だ」 「お 城 ( しろ )ちかくをうろついているとは、不敵なやつ。 伊那丸は、ちりほども 臆 ( おく )したさまは見せなかった。 以心伝心 ( いしんでんしん )、ふたりの目と目は、瞬間にすべてを語りあってしまう。 「ここにおわすおん 方 ( かた )は、おさっしのとおり、伊那丸君であります。 天下の武将のなかでも 徳川 ( とくがわ )どのは 仁君 ( じんくん )とうけたまわり、おん情けの 袖 ( そで )にすがって、若君のご一身を安全にいたしたいお願いのためまいりました」 「とにかく、きびしいお尋ね人じゃ、おあるきなさい」 「したが、 落人 ( おちゅうど )のお身の上でこそあれ、無礼のあるときは、この龍太郎が承知いたさぬ、そう 思 ( おぼ )しめして、ご案内なさい」 龍太郎は、 戒刀 ( かいとう )の 杖 ( つえ )に、伊那丸の身をまもり、すすきをあざむく 白刃 ( はくじん )のむれは、 長蛇 ( ちょうだ )の列のあいだに、ふたりをはさんで、しずしずと、 鬼 ( おに )の口にもひとしい、 浜松城 ( はままつじょう )の大手門のなかへのまれていった。 本丸 ( ほんまる )とは、城主のすまうところである。 築山 ( つきやま )の松、 滝 ( たき )をたたえた 泉 ( いずみ )、 鶺鴒 ( せきれい )があそんでいる飛石など、 戦 ( いくさ )のない日は、平和の光がみちあふれている。 そこは浜松城のみどりにつつまれていた。 伊那丸 ( いなまる )と 龍太郎 ( りゅうたろう )は、あくる日になって、三の丸、二の丸をとおって、 家康 ( いえやす )のいるここへ呼びだされた。 「 勝頼 ( かつより )の次男、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )の 主従 ( しゅじゅう )とは、おん身たちか」 高座 ( こうざ )の 御簾 ( みす )をあげて、こういった家康は、ときに、四十の坂をこえたばかりの男ざかり、 智謀 ( ちぼう )にとんだ名将の ふうはおのずからそなわっている。 「そうです。 じぶんが武田伊那丸です」 龍太郎は、かたわらに両手をついたが、伊那丸ははっきりこたえて、 端然 ( たんぜん )と、家康の顔をじいとみつめた。 「おう…… 天目山 ( てんもくざん )であいはてた、父の勝頼、また兄の太郎 信勝 ( のぶかつ )に、さても 生写 ( いきうつ )しである……。 あの 戦 ( いくさ )のあとで 検分 ( けんぶん )した 生首 ( なまくび )に 瓜 ( うり )二つじゃ」 「うむ……」 伊那丸 ( いなまる )の肩は、あやしく波をうった。 かれをにらんだ二つの 眸 ( ひとみ )からは、こらえきれない熱涙が、ハラハラとはふり落ちてとまらない。 眼 ( まなこ )もらんらんともえるのだった。 「若君、若君……」 と、 龍太郎 ( りゅうたろう )はそッと 膝 ( ひざ )をついて目くばせをしたが、伊那丸は、さらに心情をつつまなかった。 「おお……」と家康はうなずいて、そしてやさしそうに、 「父の 領地 ( りょうち )は 焦土 ( しょうど )となり、身は 天涯 ( てんがい )の 孤児 ( こじ )となった伊那丸、さだめし 口惜 ( くや )しかろう、もっともである。 いずれ、家康もとくと考えおくであろうから、しばらくは、まず落ちついて、体をやすめているがよかろう」 家康はなにか 一言 ( ひとこと )、 近侍 ( きんじ )にいいつけて、その席を立ってしまった。 ふたりはやがて、酒井の家臣、 坂部十郎太 ( さかべじゅうろうた )のうしろにしたがって、二の丸の 塗籠造 ( ぬりごめづく )りの一室へあんないされた。 伊那丸は、ふたりきりになると、ワッと 袂 ( たもと )をかんで、泣いてしまった。 「龍太郎、わしは 口惜 ( くや )しい……くやしかった」 「ごもっともです、おさっしもうしまする」 とかれもしばらく、 伊那丸 ( いなまる )の手をとって、あおむいていたが、きッと、あらたまっていった。 「さすがにいまだご 若年 ( じゃくねん )、ごむりではありますが、だいじなときです。 お心をしかとあそばさねば、この 大望 ( たいもう )をはたすことはできません」 「そうであった、伊那丸は 女々 ( めめ )しいやつのう……」 と 快川和尚 ( かいせんおしょう )が、 幼心 ( おさなごころ )へうちこんでおいた教えの力が、そのとき、かれの胸に 生々 ( いきいき )とよみがえった。 にっこりと笑って、涙をふいた。 「わたくしの考えでは、 家康 ( いえやす )めは、あのするどい目で、若さまのようすから心のそこまで読みぬいてしまったとぞんじます。 なかなか、この 龍太郎 ( りゅうたろう )が考えた 策 ( て )にのるような 愚将 ( ぐしょう )ではありませぬから、 必然 ( ひつぜん )、お身の上もあやういものと見なければなりません」 「わしもそう思った。 それゆえに、よしや、いちじの 計略 ( はかりごと )にせよ、家康などに頭をさげるのがいやであった。 龍太郎、そちの教えどおりにしなかった、わしのわがままはゆるしてくれよ」 果然 ( かぜん )、ふたりはまえから、家康の身に近よる 秘策 ( ひさく )をいだいて、わざと、この城内へとらわれてきたのらしい。 しかし、すでにそれを、家康が見破ってしまったからには、 鮫 ( さめ )をうたんがため鮫の腹中にはいって、出られなくなったと、おなじ結果におちたものだ。 このうえは、家康がどうでるか、敵のでようによってこの 窮地 ( きゅうち )から 活路 ( かつろ )をひらくか、あるいは、浜松城の鬼となるか、武運の分れめを、一 挙 ( きょ )にきめるよりほかはない。 日がくれると、 膳所 ( ぜんしょ )の 侍 ( さむらい )が、おびただしい料理や美酒をはこんできて、うやうやしくふたりにすすめた。 「わが君の 志 ( こころざし )でござります。 おくつろぎあって、じゅうぶんに、おすごしくださるようにとのおことばです」 「 過分 ( かぶん )です。 よしなに、お伝えください」 「それと、城内の 掟 ( おきて )でござるが、ご所持のもの、ご 佩刀 ( はいとう )などは、おあずかりもうせとのことでござりますが」 「いや、それはことわります」と 龍太郎 ( りゅうたろう )はきっぱり、 「若君のお刀は伝家の宝刀、ひとの手にふれさせていい 品 ( しな )ではありませぬ。 また、 拙者 ( せっしゃ )の 杖 ( つえ )は 護仏 ( ごぶつ )の 法杖 ( ほうじょう )、 笈 ( おい )のなかは 三尊 ( さんぞん )の 弥陀 ( みだ )です。 ご 不審 ( ふしん )ならば、おあらためなさるがよいが、お渡しもうすことは、 誓 ( ちか )ってあいなりません」 「では……」 と、その 威厳 ( いげん )におどろいた家臣たちは、おずおずと笈のなかをあらためたが、そのなかには、龍太郎の言明したとおり、三体のほとけの 像 ( ぞう )があるばかりだった。 そして、 杖 ( つえ )のあやしい点には気づかずに、そこそこに、そこからさがってしまった。 「若君、けっして手をおふれなさるな、この分では、これもあやしい」 と、 膳部 ( ぜんぶ )の 吸物椀 ( すいものわん )をとって、なかの 汁 ( しる )を、部屋の白壁にパッとかけてみると、 墨 ( すみ )のように、まっ黒に変化して染まった。 「毒だ! この魚にも、この飯にも、おそろしい毒薬がまぜてある。 伊那丸 ( いなまる )さま、 家康 ( いえやす )の心はこれではっきりわかりました。 うわべはどこまでも 柔和 ( にゅうわ )にみせて、わたしたちを 毒害 ( どくがい )しようという 肚 ( はら )でした」 「ではここも?」 と伊那丸は立ちあがって、 塗籠 ( ぬりごめ )の出口の戸をおしてみると、はたして 開 ( あ )かない。 力いっぱい、おせど引けど開かなくなっている。 そして、夜のふけるのを待って、 足帯 ( あしおび )、 脇差 ( わきざし )など、しっかりと 身支度 ( みじたく )しはじめた。 やがて龍太郎は、 笈 ( おい )のなかから取りのけておいた一体の 仏像 ( ぶつぞう )を、 部屋 ( へや )のすみへおいた。 そして 燭台 ( しょくだい )の 灯 ( ともしび )をその上へ横倒しにのせかける。 部屋の中は、いちじ、やや暗くなったが、仏像の木に油がしみて、ふたたびプスプスと、まえにもまして、明るい 焔 ( ほのお )を立ててきた。 龍太郎は、伊那丸の体をひしと抱きしめて、反対のすみによった。 そして、できるだけ身をちぢめながら、じッとその火をみつめていた。 プス……プス…… 焔 ( ほのお )は赤くなり、むらさき色になりしてゆくうちに、パッと部屋のなかが真暗になったせつな、チリチリッと、こまかい火の 粉 ( こ )が、仏像からうつくしくほとばしりはじめた。 「若君、耳を耳を」と、いいながら龍太郎も、かたく眼をつぶった。 ガラガラと、すさまじい 震動 ( しんどう )は、 本丸 ( ほんまる )、三の丸までもゆるがした。 すわ 変事 ( へんじ )と、 旗本 ( はたもと )や、役人たちは、 得物 ( えもの )をとってきてみると、 外廓 ( そとぐるわ )の白壁がおちたところから、いきおいよくふきだしている怪火! すでに、 矢倉 ( やぐら )へまでもえうつろうとしているありさまだ。 無反 ( むぞ )りの 戒刀 ( かいとう )をふりかぶった 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )、つづいて、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )のすがた。 「 曲者 ( くせもの )ッ」 と下では、 騒然 ( そうぜん )と 渦 ( うず )をまいた。 小太刀 ( こだち )をとっては、 伊那丸 ( いなまる )はふしぎな天才児である。 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )も戒刀の名人、しかも 隠形 ( おんぎょう )の術からえた身のかるさも、そなえている。 けれど、伊那丸も龍太郎も、けっして、 匹夫 ( ひっぷ )の 勇 ( ゆう )にはやる者ではない。 どんな場合にも、うろたえないだけの修養はある。 しかし、ひとたび人間が、信念に身をかためてむかう時は、 刀刃 ( とうじん )も折れ、どんな 悪鬼 ( あっき )も 羅刹 ( らせつ )も、かならず 退 ( しりぞ )けうるという教えもある。 ふたりがふりかぶった太刀は、まさに信念の一刀だ。 とびおりた五尺の 体 ( からだ )もまた、信念の 鎖帷子 ( くさりかたびら )をきこんでいるのだった。 「わッ」 とさけんだ下の武士たちは、ふいにふたりが、頭上へ飛びおりてきたいきおいにひるんで、思わず、サッとそこを開いてしまった。 どんと、ふたりのからだが下へつくやいな、いちじに、乱刀の波がどッと斬りつけていったが、 「 退 ( すさ )れッ」 と、龍太郎の手からふりだされた 戒刀 ( かいとう )の 切 ( き )ッ 先 ( さき )に、乱れたつ足もと。 それを目がけて 伊那丸 ( いなまる )の小太刀も、 飛箭 ( ひせん )のごとく突き進んだ。 たちまち火花、たちまち 剣 ( つるぎ )の音、斬りおられた 槍 ( やり )は 宙 ( ちゅう )にとび、太刀さきに当ったものは、無残なうめきをあげて、たおれた。 「 退 ( ひ )けッ! だめだ」 と城の 塀 ( へい )にせばめられて、人数の多い城兵は、かえって自由を 欠 ( か )いた。 武士たちは、ふたたび、見ぎたなく逃げ出した。 龍太郎 ( りゅうたろう )と伊那丸は、血刀をふって、追いちらしたうえ、 昼間 ( ひるま )のうちに、見ておいた本丸をめがけて、かけこんでいった。 めざすは本丸! あいてはひとり! と、ほかの 雑兵 ( ぞうひょう )には目もくれないで、まっしぐらに、武者走り ( 城壁 ( じょうへき )の 細道 ( ほそみち ))をかけぬけた。 矢倉 ( やぐら )へむかった消火隊と、武器をとって 討手 ( うって )にむかった者が、あらかたである。 「火はどうじゃ、手はまわったか」 寝所をでた家康は、そう問いながら、本丸の 四阿 ( あずまや )へ足をむけていた。 すると、 闇 ( やみ )のなかから、ばたばたとそこへかけよってきた黒い人影がある。 「や!」 と侍たちが、立ちふさがって、きッと見ると、物の具で身をかためたひとりの 武士 ( ぶし )が、大地へ両手をついた。 「お 上 ( かみ )、 武田 ( たけだ )の 主従 ( しゅじゅう )が、火薬をしかけたうえに 狼藉 ( ろうぜき )におよびました。 ご身辺にまんいちがあっては、一大事です。 はやくお 奥 ( おく )へお引きかえしをねがいまする」 「おう、 坂部十郎太 ( さかべじゅうろうた )か。 たかが 稚児 ( ちご )どうような 伊那丸 ( いなまる )と 六部 ( ろくぶ )の一人や二人が、 檻 ( おり )をやぶったとて、なにをさほどにうろたえることがある。 「無礼ものッ!」 とさけびながら、よろりと、しりえに、身をながした家康の 袖 ( そで )を、さッと、白い 切 ( き )ッ 先 ( さき )がかすってきた。 「何者だ!」 とその 太刀影 ( たちかげ )を見て、ガバと、はねおきるより早く、斬りまぜていった 十郎太 ( じゅうろうた )の陣刀。 「お 上 ( かみ )、お上」 と 近侍 ( きんじ )のものは、そのすきに、 家康 ( いえやす )を 屏風 ( びょうぶ )がこいにして、本丸の奥へと引きかえしていった。 ここぞと、十郎太がふりかぶった太刀に、あわれむごい血煙が、立つかと見えたせつな、魔鳥のごとく飛びかかってきた 龍太郎 ( りゅうたろう )が、やッと、横ざまに 戒刀 ( かいとう )をもって、 薙 ( な )ぎつけた。 「むッ……」と十郎太は、 苦鳴 ( くめい )をあげて、たおれた。 もう、すこしも、ご 猶予 ( ゆうよ )は危険です。 さ、この城から逃げださねばなりませぬ」 「でも……龍太郎、ここまできて、家康を討ちもらしたのはざんねんだ。 わしは無念だ」 「ごもっともです。 しかし、 伊那丸 ( いなまる )さまの大望は、ひろい天下にあるのではござりませぬか。 家康 ( いえやす )ひとりは小さな敵です。 さ、早く」 とせき立てたかれは、むりにかれの手をとって、 築山 ( つきやま )から、城の 土塀 ( どべい )によじのぼり、 狭間 ( はざま )や、わずかな足がかりを力に、二 丈 ( じょう )あまりの 石垣 ( いしがき )を、すべり落ちた。 途中に犬走りという中段がある。 ふたりはそこまでおりて、ぴったりと石垣に腹をつけながら、しばらくあたりをうかがっていた。 上では、城内の武士が声をからして、八ぽうへ 手配 ( てくば )りをさけびつつ、 縄梯子 ( なわばしご )を、石垣のそとへかけおろしてきた。 「どうしたものだろう?」 さすがの 龍太郎 ( りゅうたろう )も、ここまできて、はたと 当惑 ( とうわく )した。 もう 濠 ( ほり )までわずかに五、六尺だが、そのさきは、満々とたたえた 外濠 ( そとぼり )、橋なくして、渡ることはとてもできない。 ふつう、兵法で十五 間 ( けん )以上と定められてある 濠 ( ほり )が、どっちへまわっても、陸と城との 境 ( さかい )をへだてている。 するといきなり上からヒューッと一団の火が尾をひいて、ふたりのそばに落ちてきた。 闇夜の敵影をさぐる投げ 松明 ( たいまつ )である。 「しまった」と 龍太郎 ( りゅうたろう )は 伊那丸 ( いなまる )の身をかばいながら、石垣にそった犬走りを先へさきへとにげのびた。 しかし、どこまでいっても 陸 ( おか )へでるはずはない。 ただむなしく、城のまわりをまわっているのだ。 そのうちには、敵の 手配 ( てはい )はいよいよきびしく固まるであろう。 矢と、鉄砲と、投げ 松明 ( たいまつ )は、どこまでも、ふたりの影をおいかけてくる。 そのうちに龍太郎は、「あッ」と立ちすくんでしまった。 ゆくての道はとぎれている。 見れば目のまえはまっくらな 深淵 ( しんえん )で、ごうーッという水音が、 闇 ( やみ )のそこに 渦 ( うず )まいているようす。 ここぞ、城内の水をきって落としてくる水門であったのだ。 矢弾 ( やだま )は、ともすると、 鬢 ( びん )の毛をかすってくる。 前はうずまく 深淵 ( しんえん )、ふたりは、進退きわまった。 と、そのまえへ、ぬッと下から突きだしてきた 槍 ( やり )の 穂 ( ほ )? 「何者?」 と思わず引っつかむと、これは、冷たい雫にぬれた 棹 ( さお )のさきだった。 龍太郎がつかんだ力に引かれて、まっ黒な水門から 筏 ( いかだ )のような影がゆらゆらと流れよってきた。 その上にたって、 棹 ( さお )を 手 ( た )ぐってくるふしぎな男はたれ? 敵か味方か、ふたりは目をみはって、 闇 ( やみ )をすかした。 「お乗りなさい、はやく、はやく」 筏 ( いかだ )のうえの男は、早口にいった。 いまはなにを 問 ( と )うすきもない。 ふたりは、ヒラリと飛びうつった。 ザーッとはねあがった水玉をあびて、男は、力まかせに 石垣 ( いしがき )をつく。 そして、すでに 濠 ( ほり )のなかほどまできたとき、 「その方はそも何者だ。 われわれをだれとおもって助けてくれたのか」 龍太郎 ( りゅうたろう )が、ふしんな顔をしてきくと、それまで、黙々として、棹をあやつっていた男は、はじめて口を開いてこういった。 「 武田伊那丸 ( たけだいなまる )さまと知ってのうえです。 わたくしは、この城の 掃除番 ( そうじばん )、 森子之吉 ( もりねのきち )という者ですが、根から 徳川家 ( とくがわけ )の家来ではないのです」 「おう、そういえば、どこやらに、 甲州 ( こうしゅう )なまりらしいところもあるようだ」 「何代もまえから、 甲府 ( こうふ )のご城下にすんでおりました。 父は 森右兵衛 ( もりうへえ )といって、お 館 ( やかた )の 足軽 ( あしがる )でした。 ところが、運わるく、 長篠 ( ながしの )の合戦のおりに、父の 右兵衛 ( うへえ )がとらわれたので、わたくしも、心ならず徳川家に 降 ( くだ )っていましたが、ささいなあやまちから、父は 斬罪 ( ざんざい )になってしまったのです。 わたくしにとっては、 怨 ( うら )みこそあれ、もう奉公する気のない浜松城をすてて、一日もはやく、 故郷 ( こきょう )の甲府にかえりたいと思っているまに、 武田家 ( たけだけ )は、 織田 ( おだ ) 徳川 ( とくがわ )のためにほろぼされ、いるも敵地、かえるも敵地という はめになってしまいました。 ところへ、ゆうべ、 伊那丸 ( いなまる )さまがつかまってきたという城内のうわさです。 びっくりして、お家の不運をなげいていました。 けれど、 今宵 ( こよい )のさわぎには、てっきりお逃げあそばすであろうと、水門のかげへ 筏 ( いかだ )をしのばして、お待ちもうしていたのです」 「ああ、天の助けだ。 子之吉 ( ねのきち )ともうす者、心からお礼をいいます」 と、伊那丸は、この至誠な若者を、いやしい 足軽 ( あしがる )の子とさげすんではみられなかった。 いくどか、頭をさげて 礼 ( れい )をくり返した。 そのまに、 筏 ( いかだ )は どんと岸についた。 「さ、おあがりなさいませ」と子之吉は、 葦 ( あし )の根をしっかり持って、筏を食いよせながらいった。 「かたじけない」と、ふたりが岸へ飛びあがると、 「あ、お待ちください」とあわててとめた。 「 子之吉 ( ねのきち )、いつかはまたきっとめぐりあうであろう」 「いえ、それより、どっちへお逃げなさるにしても、この 濠端 ( ほりばた )を、右にいってはいけません。 お 城固 ( しろがた )めの 旗本屋敷 ( はたもとやしき )が多いなかへはいったら 袋 ( ふくろ )のねずみです。 どこまでもここから、左へ左へとすすんで、 入野 ( いりぬ )の 関 ( せき )をこえさえすれば、 浜名湖 ( はまなこ )の岸へでられます」 「や、ではこの先にも 関所 ( せきしょ )があるか」 「おあんじなさいますな、ここに 蓑 ( みの )と、わたくしの 鑑札 ( かんさつ )があります。 お姿をつつんで、これをお持ちになれば大じょうぶです」 子之吉 ( ねのきち )は、下からそれを渡すと、岸をついて、ふたたび、 筏 ( いかだ )を 濠 ( ほり )のなかほどへすすめていったが、にわかに、 どぶんとそこから水けむりが立った。 「ややッ」と、岸のふたりはおどろいて手をあげたが、もうなんともすることもできなかった。 子之吉は、筏をはなすと同時に、 脇差 ( わきざし )をぬいて、みごとにわが 喉笛 ( のどぶえ )をかッ切ったまま、 濠 ( ほり )のなかへ身を沈めてしまったのである。 後日に、 徳川家 ( とくがわけ )の手にたおれるよりは、故主の若君のまえで、報恩の一死をいさぎよくささげたほうが、 森子之吉 ( もりねのきち )の 本望 ( ほんもう )であったのだ。 伊那丸 ( いなまる )と 龍太郎 ( りゅうたろう )が 外濠 ( そとぼり )をわたって、 脱出 ( だっしゅつ )したのを、やがて知った浜松城の武士たちは、にわかに、 追手 ( おって )を組織して、 入野 ( いりぬ )の 関 ( せき )へはしった。 ところが、すでに 二刻 ( ふたとき )もまえに、 蓑 ( みの )をきた両名のものが、この 関 ( せき )へかかったが、 足軽鑑札 ( あしがるかんさつ )を持っているので、夜中ではあったが、通したということなので、 討手 ( うって )のものは、地だんだをふんだ。 そして、 長駆 ( ちょうく )して、さらに次の 浜名湖 ( はまなこ )の渡し場へさしていそいだ。 いっぽう、 伊那丸 ( いなまる )、 龍太郎 ( りゅうたろう )のふたりは、しゅびよく、浜名湖のきしべまで落ちのびてきたが、一 難 ( なん )さってまた一難、ここまできながら、一 艘 ( そう )の船も見あたらないのでむなしくあっちこっちと、さまよっていた。 月はないが、空いちめんに 磨 ( と )ぎだされ、かがやかしい星の光と、ゆるやかに波を 縒 ( よ )る水明りに、湖は、夜明けのようにほの明るかった。 すると、ギイ、ギイ……とどこからか、この 静寂 ( しじま )をやぶる 櫓 ( ろ )の音がしてきた。 「お、ありゃなんの船であろう?」 と伊那丸が指したほうを見ると、いましも、 弁天島 ( べんてんじま )の岩かげをはなれた一艘の小船に、五、六人の武士が乗りこんで、こなたの岸へ 舵 ( かじ )をむけてくる。 「いずれ 徳川家 ( とくがわけ )の 武士 ( ぶし )にちがいない。 伊那丸さま、しばらくここへ」 と龍太郎はさしまねいて、ともにくさむらのなかへ身をしずめていると、まもなく船は岸について、 黒装束 ( くろしょうぞく )の者がバラバラと 陸 ( おか )へとびあがり、口々になにかざわめき立ってゆく。 「せっかく仕返しにまいったのに、かんじんなやつがいなかったのはざんねんしごくであった」 「いつかまた、きゃつのすがたを見かけしだいに、ぶッた斬ってやるさ。 それに、すまいもつきとめてある」 「あの 小僧 ( こぞう )も、あとで家へかえって見たら、さだめしびっくりして泣きわめくにちがいない。 それだけでも、まアまア、いちじの 溜飲 ( りゅういん )がさがったというものだ」 ものかげに、人ありとも知らずにこう話しながら、浜松のほうへつれ立ってゆくのをやり過ごした 龍太郎 ( りゅうたろう )と 伊那丸 ( いなまる )は、そこを、すばやく飛びだして、かれらが乗りすてた船へとびうつるが早いか、力のかぎり 櫓 ( ろ )をこいだ。 「龍太郎、いったいいまのは、何者であろう」 舳 ( みよし )に腰かけていた伊那丸が、ふといいだした。 「さて、この夜中に、 黒装束 ( くろしょうぞく )で 横行 ( おうこう )するやからは、いずれ、 盗賊 ( とうぞく )のたぐいであったかもしれませぬ」 「いや、わしはあのなかに、ききおぼえのある声をきいた。 盗賊の群れではないと思う」 「はて……?」龍太郎は小首をかしげている。 「そうじゃ、ゆうべ、 八幡前 ( はちまんまえ )で、 鎧売 ( よろいう )りに斬りちらされた悪侍、あのときの者が二、三人はたしか今の群れにまじっていた」 「おお、そうおっしゃれば、いかにも 似通 ( にかよ )うていたやつもおりましたな」 と、龍太郎はいつもながら、伊那丸のかしこさに 舌 ( した )をまいた。 そのまに、船は 弁天島 ( べんてんじま )へこぎついた。 「浜松から遠くもない、こんな小島に 長居 ( ながい )は危険です。 わたくしの考えでは、夜のあけぬまえに、 渥美 ( あつみ )の海へこぎだして、 伊良湖崎 ( いらこざき )から 志摩 ( しま )の国へわたるが一ばんご無事かとぞんじますが」 「どんな荒海、どんな 嶮岨 ( けんそ )をこえてもいい。 ただ一ときもはやく、かねがねそちが話したおん方にお目にかかり、また 忍剣 ( にんけん )をたずね、その他の勇士を 狩 ( か )りあつめて、この乱れた世を 泰平 ( たいへい )にしずめるほか、 伊那丸 ( いなまる )の望みはない」 「そのお心は、 龍太郎 ( りゅうたろう )もおさっしいたしております。 では、わたくしは弁天堂の 禰宜 ( ねぎ )か、どこぞの 漁師 ( りょうし )をおこして 食 ( た )べ物の用意をいたしてまいりまするから、しばらく船のなかでお待ちくださいまし」 と龍太郎は、ひとりで島へあがっていった。 そしてあなたこなたを 物色 ( ぶっしょく )してくると、白砂をしいた、まばらな松のなかにチラチラ 灯 ( あか )りのもれている一軒の家が目についた。 「漁師の家と見える、ひとつ、 訪 ( おとず )れてみよう」 と龍太郎は、ツカツカと軒下へきて、開けっぱなしになっている雨戸の口からなかをのぞいてみると、うすぐらい 灯 ( ともしび )のそばに、ひとりの男が、 朱 ( あけ )にそまった 老婆 ( ろうば )の 死骸 ( しがい )を抱きしめたまま、よよと、男泣きに泣いているのであった。 龍太郎 ( りゅうたろう )が、そこを立ちさろうとすると、なかの男は、 跫音 ( あしおと )を耳にとめたか、にわかに、はねおきて、 壁 ( かべ )に立てかけてあった 得物 ( えもの )をとるやいなや、ばらッと、雨戸のそとへかけおりた。 「待てッ、待て、待てッ!」 あまりその声のするどさに、龍太郎も、ギョッとしてふりかえった。 見ればそれは 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )であった。 「こりゃ、なんだって、 拙者 ( せっしゃ )の不意をつくか」 「えい、 吐 ( ぬ )かすな、おれのお 母 ( ふくろ )をころしたのは、おまえだろう。 天にも地にも、たったひとりのお 母 ( ふくろ )さまのかたきだ。 どうするかおぼえていろ!」 「勘ちがいするな、さようなおぼえはないぞ」 「だまれ、だまれッ、めったに人のこないこの島に、なんの用があって、うろついていた。 今しがた、 宿 ( しゅく )から帰ってみれば、お 母 ( ふくろ )さまはズタ斬り、家のなかは乱暴 狼藉 ( ろうぜき )、あやしいやつは、 汝 ( なんじ )よりほかにないわッ」 目に、いっぱい 溜 ( た )め 涙 ( なみだ )をひからせている。 憤怒 ( ふんぬ )のまなじりをつりあげて、 いッかなきかないのだ。 「うろたえ 言 ( ごと )をもうすな、だれが、恨みもないきさまの老母などを、殺すものか」 「いや、なんといおうが、おれの目にかかったからにはのがすものか」 「うぬ! 血まよって、 後悔 ( こうかい )いたすなよ」 「なにを、この 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )でただひと突き、おふくろさまへの 手向 ( たむ )けにしてくれる。 覚悟 ( かくご )をしろ」 「えい! 聞きわけのないやつだ」 と、 龍太郎 ( りゅうたろう )もむッとして、 槍 ( やり )のケラ首が折れるばかりにひッたくると、 小文治 ( こぶんじ )も、 金剛力 ( こんごうりき )をしぼって、ひきもどそうとした。 いつか、 裾野 ( すその )の 文殊閣 ( もんじゅかく )でおちあった 加賀見忍剣 ( かがみにんけん )も、この 戒刀 ( かいとう )のはげしさには 膏汗 ( あぶらあせ )をしぼられたものだった。 ましてや、 若年 ( じゃくねん )な 巽小文治 ( たつみこぶんじ )は、必然、まッ二つか、 袈裟 ( けさ )がけか? どっちにしても、助かりうべき命ではない。 龍太郎は、とっさに、 眸 ( ひとみ )を抜かれたような気持がした。 すぐ 踏 ( ふ )みとまって、 太刀 ( たち )を持ちなおすと、すでにかまえなおした小文治は槍を中段ににぎって、龍太郎の 鳩尾 ( みぞおち )へピタリと 穂先 ( ほさき )をむけてきた。 かつて一ども、いまのようにあざやかに、敵にかわされたためしのない龍太郎は、このかまえを見るにおよんで、いよいよ 要心 ( ようじん )に要心をくわえながら、 下段 ( げだん )の 戒刀 ( かいとう )をきわめてしぜんに、頭のうえへ持っていった。 玄妙 ( げんみょう )きわまる槍と、 精妙無比 ( せいみょうむひ )な太刀はここにたがいの呼吸をはかり、たがいに、 兎 ( う )の 毛 ( け )のすきをねらい合って一瞬一瞬、にじりよった。 天 ( てんぴょう )一陣! ものすごい殺気が、みるまにふたりのあいだにみなぎってきた。 ああ 龍虎 ( りゅうこ )たおれるものはいずれであろうか。 船べりに 頬杖 ( ほおづえ )ついて、龍太郎を待っていた 伊那丸 ( いなまる )は、 宵 ( よい )からのつかれにさそわれて、いつか、銀河の空の下でうっとりと眠りの国へさまよっていた。 内浦鼻 ( うちうらばな )のあたりから、かなり大きな黒船のかげが 瑠璃 ( るり )の 湖 ( みずうみ )をすべって、いっさんにこっちへむかってくるのが見えだした。 だんだんと近づいてきたその船を見ると 徳川家 ( とくがわけ )の用船でもなく、また 漁船 ( ぎょせん )のようでもない。 舳 ( みよし )のぐあいや、 帆柱 ( ほばしら )のさまなどは、この近海に見なれない 長崎型 ( ながさきがた )の怪船であった。 ふかしぎな船は、いつか 弁天島 ( べんてんじま )のうらで 船脚 ( ふなあし )をとめた。 そして、親船をはなれた一 艘 ( そう )の 軽舸 ( はしけ )が、矢よりも早くあやつられて 伊那丸 ( いなまる )の夢をうつつに乗せている小船のそばまで近づいてきた。 ポーンと 鈎縄 ( かぎなわ )を投げられたのを伊那丸はまったく夢にも知らずにいる。 だがその口も、たちまち 綿 ( わた )のようなものをつめられてしまったので、声も立てられない。 ただ身をもがいて、 伏 ( ふ )しまろんだ。 水なれた怪船の男どもは、毒魚のごとく、 胴 ( どう )の 間 ( ま )や軽舸の上におどり立って、なにかてんでに口ぜわしくさけびあっている。 龍太郎 ( りゅうたろう )はどうした? この伊那丸の身にふってわいた大変事を、まだ気づかずにいるのかしら? それとも、 巽小文治 ( たつみこぶんじ )の 稀代 ( きたい )な 槍先 ( やりさき )にかかってあえなく討たれてしまったのか……? 西北へまわった風を 帆 ( ほ )にうけて、あやしの船は、すでにすでに、入江を切って、白い波をかみながら、 外海 ( そとうみ )へでてゆくではないか。 うわべは 歌詠 ( うたよ )みの法師か、きらくな雲水と見せかけてこころはゆだんもすきもなく、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )のあとをたずねて、きょうは東、あすは南と、 血眼 ( ちまなこ )の旅をつづけている 加賀見忍剣 ( かがみにんけん )。 裾野 ( すその )の 闇 ( やみ )に乗じられて、 まんまと、 六部 ( ろくぶ )の 龍太郎 ( りゅうたろう )のために、大せつな主君を、うばいさられた、かれの 無念 ( むねん )さは思いやられる。 おりから、天下は 大動乱 ( だいどうらん )、 鄙 ( ひな )も都も、その 渦 ( うず )にまきこまれていた。 この年六月二日に、 右大臣織田信長 ( うだいじんおだのぶなが )は、 反逆者 ( はんぎゃくしゃ ) 光秀 ( みつひで )のために、本能寺であえなき 最期 ( さいご )をとげた。 盟主 ( めいしゅ )をうしなった天下の群雄は、ひとしくうろたえまよった。 なかにひとり、山崎の 弔 ( とむら )い合戦に、武名をあげたものは 秀吉 ( ひでよし )であったが、北国の 柴田 ( しばた )、その 他 ( た )、 北条 ( ほうじょう ) 徳川 ( とくがわ )なども、おのおのこの機をねらって、おのれこそ天下をとらんものと、野心の 関 ( せき )をかため、 虎狼 ( ころう )の 鏃 ( やじり )をといで、人の心も、世のさまも、にわかに 険 ( けわ )しくなってきた。 そうした世間であっただけに、忍剣の旅は、なみたいていなものではない。 「伊那丸さまはどこにおわすか。 せめて……アア 夢 ( ゆめ )にでもいいから、いどころを知りたい……」 足をやすめるたびに 嘆息 ( たんそく )した。 その一念で、ふと忍剣のあたまに、あることがひらめいた。 「そうだ! クロはまだ生きているはずだ」 かれはその日から、急に道をかえて、思い出おおき、 甲斐 ( かい )の国へむかって、いっさんにとってかえした。 忍剣 ( にんけん )が気のついたクロとは、そもなにものかわからないが、かれのすがたは、まもなく、変りはてた 恵林寺 ( えりんじ )の 焼 ( や )け 跡 ( あと )へあらわれた。 忍剣は 数珠 ( じゅず )をだして、しばらくそこに 合掌 ( がっしょう )していた。 すると、番小屋のなかから、とびだしてきた 侍 ( さむらい )がふたり、うむをいわさず、かれの両腕をねじあげた。 「こらッ、そのほうはここで、なにをいたしておった」 「はい、 国師 ( こくし )さまはじめ、あえなくお 亡 ( な )くなりはてた、一 山 ( ざん )の 霊 ( れい )をとむろうていたのでござります」 「ならぬ。 甲斐 ( かい )一 帯 ( たい )も、いまでは 徳川家 ( とくがわけ )のご領分だぞ。 それをあずかる者は、ご家臣の 大須賀康隆 ( おおすかやすたか )さまじゃ。 みだりにここらをうろついていることはならぬ、とッととたちされ、かえれ!」 「どうぞしばらく。 ……ほかに用もあるのですから」 「あやしいことをもうすやつ。 この焼けあとに何用がある?」 「じつは当寺の裏山、 扇山 ( せんざん )の奥に、わたしの 幼 ( おさな )なじみがおります。 久しぶりで、その友だちに会いたいとおもいまして、はるばる 尋 ( たず )ねてまいったのです」 「ばかをいえ、さような者はここらにいない」 「たしかに生きているはずです。 それは、友だちともうしても、ただの人ではありません。 クロともうす 大鷲 ( おおわし )、それをひと目見たいのでございます」 「だまれ。 あの黒鷲は、当山を攻めおとした時の 生捕 ( いけど )りもの、大せつに 餌 ( え )をやって、ちかく浜松城へ 献上 ( けんじょう )いたすことになっているのだ、 汝 ( なんじ )らの見せ物ではない。 帰れというに帰りおらぬか」 ひとりが 腕 ( うで )、ひとりが 襟 ( えり )がみをつかんで、ずるずるとひきもどしかけると、 忍剣 ( にんけん )の 眉 ( まゆ )がピリッとあがった。 「これほど、ことをわけてもうすのに、なおじゃまだてするとゆるさんぞ!」 「なにを」 ひとりが 腰縄 ( こしなわ )をさぐるすきに、ふいに、忍剣の片足が どんと彼の 脾腹 ( ひばら )をけとばした。 アッと、うしろへたおれて、 悶絶 ( もんぜつ )したのを見た、べつな 侍 ( さむらい )は、 「おのれッ」と太刀の 柄 ( つか )へ手をかけて、抜きかけた。 あいては、 かッと血へどをはいてたおれた。 それに見むきもせず、鉄杖をこわきにかかえた忍剣はいっさんに、うら山の 奥 ( おく )へおくへとよじのぼってゆく。 らんらんと光る二つの眼は、みがきぬいた 琥珀 ( こはく )のようだ。 その底にすむ 金色 ( こんじき )の 瞳 ( ひとみ )、かしらの 逆羽 ( さかばね )、見るからに 猛々 ( たけだけ )しい真黒な 大鷲 ( おおわし )が、足の 鎖 ( くさり )を、ガチャリガチャリ鳴らしながら、 扇山 ( せんざん )の 石柱 ( いしばしら )の上にたって、ものすごい 絶叫 ( ぜっきょう )をあげていた。 そのくろい 翼 ( つばさ )を、左右にひろげるときは、一 丈 ( じょう )あまりの 巨身 ( きょしん )となり、銀の 爪 ( つめ )をさか立てて、まっ赤な口をあくときは、空とぶ小鳥もすくみ落ちるほどな 威 ( い )がある。 「おおいた! クロよ、無事でいたか」 おそれげもなく、そばへかけよってきた 忍剣 ( にんけん )の手になでられると、 鷲 ( わし )は、かれの肩に 嘴 ( くちばし )をすりつけて、あたかも、なつかしい 旧友 ( きゅうゆう )にでも会ったかのような表情をして、 柔和 ( にゅうわ )であった。 「おなじ 鳥類 ( ちょうるい )のなかでも、おまえは 霊鷲 ( れいしゅう )である。 さすがにわしの顔を見おぼえているようす……それならきっとこの使命をはたしてくれるであろう」 忍剣は、かねてしたためておいた一 片 ( ぺん )の 文字 ( もんじ )を、 油紙 ( あぶらがみ )にくるんでこよりとなし、クロの片足へ、いくえにもギリギリむすびつけた。 この 鷲 ( わし )にもいろいろな運命があった。 天文 ( てんもん )十五年のころ、 武田信玄 ( たけだしんげん )の軍勢が、 上杉憲政 ( うえすぎのりまさ )を攻めて 上野乱入 ( こうずけらんにゅう )にかかったとき、 碓氷峠 ( うすいとうげ )の陣中でとらえたのがこの 鷲 ( わし )であった。 碓氷の合戦は 甲軍 ( こうぐん )の大勝となって、敵将の 憲政 ( のりまさ )の首まであげたので、 以来 ( いらい )、 信玄 ( しんげん )はその 鷲 ( わし )を 館 ( やかた )にもちかえり、愛育していた。 信玄 ( しんげん )の死んだあとは、 勝頼 ( かつより )の手から、 供養 ( くよう )のためと 恵林寺 ( えりんじ )に 寄進 ( きしん )してあったのである。 ところがある時、 檻 ( おり )をやぶって、民家の五歳になる子を、 宙天 ( ちゅうてん )へくわえあげたことなどがあったので、扇山の中腹に石柱をたて、太い 鎖 ( くさり )で、その足をいましめてしまった。 幼少から、恵林寺にきていた 伊那丸 ( いなまる )は、いつか 忍剣 ( にんけん )とともに、この 鷲 ( わし )に 餌 ( え )をやったり、クロよクロよと、 愛撫 ( あいぶ )するようになっていた。 獰猛 ( どうもう )な 鷲 ( わし )も、伊那丸や忍剣の手には、 猫 ( ねこ )のようであった。 そして、恵林寺が 大紅蓮 ( だいぐれん )につつまれ、一 山 ( ざん )のこらず 最期 ( さいご )をとげたなかで、 鷲 ( わし )だけは、この山奥につながれていたために、おそろしい 焔 ( ほのお )からまぬがれたのだ。 「クロ、いまこそわしが、おまえの 鎖 ( くさり )をきってやるぞ、そしてその 翼 ( つばさ )で、大空を自由にかけまわれ、ただ、おまえをながいあいだかわいがってくだすった、伊那丸さまのお姿を地上に見たらおりてゆけよ」 そういいながら、鎖に手をかけたが、 鷲 ( わし )の足にはめられた 鉄 ( くろがね )の 環 ( かん )も、またふとい鎖も 断 ( き )れればこそ。 そのとき、ふもとのほうから、ワーッという、ただならぬ 鬨 ( とき )の 声 ( こえ )がおこった。 鎖 ( くさり )はまだきれていないが、 忍剣 ( にんけん )はその声に、 小手 ( こて )をかざして見た。 はやくも、木立のかげから、バラバラと先頭の武士がかけつけてきた。 いうまでもなく、 大須賀康隆 ( おおすかやすたか )の部下である。 扇山へあやしの者がいりこんだと聞いて、 捕手 ( とりて )をひきいてきたものだった。 「 売僧 ( まいす )、その 霊鳥 ( れいちょう )をなんとする」 「いらざること。 この 鷲 ( わし )こそ、 勝頼公 ( かつよりこう )のみ 代 ( よ )から当山に 寄進 ( きしん )されてあるものだ! どうしようとこなたのかってだ」 「うぬ! さては 武田 ( たけだ )の 残党 ( ざんとう )とはきまった」 「おどろいたかッ」と、いきなりブーンとふりとばした 鉄杖 ( てつじょう )にあたって、二、三人ははねとばされた。 「それ! とりにがすな」 ふもとのほうから、 追々 ( おいおい )とかけあつまってきた人数を 合 ( がっ )して、かれこれ三、四十人、 槍 ( やり )や 太刀 ( たち )を押ッとって、忍剣の 虚 ( きょ )をつき、すきをねらって斬ってかかる。 「飛び道具をもった者は、 梢 ( こずえ )のうえからぶッぱなせ」 足場がせまいので、捕手の 頭 ( かしら )がこうさけぶと、弓、 鉄砲 ( てっぽう )をひッかかえた十二、三人のものは、 猿 ( ましら )のごとく、ちかくの 杉 ( すぎ )や 欅 ( けやき )の梢にのぼって、手早く矢をつがえ、 火縄 ( ひなわ )をふいてねらいつける。 下では 忍剣 ( にんけん )、近よる者を、かたッぱしからたたきふせて、怪力のかぎりをふるったが、空からくる飛び道具をふせぐべき 術 ( すべ )もあろうはずはない。 はやくも飛んできた一の矢! また、二の矢。 夜叉 ( やしゃ )のごとく荒れまわった忍剣は、 突 ( とつ )として、いっぽうの 捕手 ( とりて )をかけくずし、そのわずかなすきに、ふたたび 鷲 ( わし )の 鎖 ( くさり )をねらって、一念力、 戛然 ( かつぜん )とうった。 きれた! ギャーッという 絶鳴 ( ぜつめい )をあげた 鷲 ( わし )は、猛然と 翼 ( つばさ )を一はたきさせて、地上をはなれたかと見るまに、一陣の山嵐をおこした翼のあおりをくって、 大樹 ( たいじゅ )の 梢 ( こずえ )の上からバラバラとふりおとされた弓組、鉄砲組。 「ア、ア、ア!」とばかり、 捕手 ( とりて )の 軍卒 ( ぐんそつ )がおどろきさわぐうちに、一ど、 雲井 ( くもい )へたかく舞いあがった 魔鳥 ( まちょう )は、ふたたびすさまじい 天 ( てんぴょう )をまいて 翔 ( か )けおりるや、するどい 爪 ( つめ )をさかだてて、 旋廻 ( せんかい )する。 ふるえ立った捕手どもは、木の根、 岩角 ( いわかど )にかじりついて、ただアレヨアレヨと 胆 ( きも )を消しているうちに、いつか忍剣のすがたを見うしない、同時に、偉大なる 黒鷲 ( くろわし )のかげも、天空はるかに飛びさってしまった。 腕が 互角 ( ごかく )なのか、いずれに 隙 ( すき )もないためか、そうほううごかず、 彫 ( ほ )りつけたごとくにらみあっているうちに、魔か、雲か、月をかすめて 疾風 ( はやて )とともに、天空から、そこへ 翔 ( か )けおりてきたすさまじいものがある。 バタバタという 羽 ( は )ばたきに、ふたりは、はッと耳をうたれた。 弁天島の砂をまきあげて、ぱッと、地をすってかなたへ飛びさった時、不意をおそわれたふたりは、思わず眼をおさえて、左右にとびわかれた。 それは、もうはるかに飛びさった、 鷲 ( わし )の 巨 ( おお )きなのにおどろいたのではない。 「もしや?」とおもえば、一 刻 ( こく )の 猶予 ( ゆうよ )もしてはおられない。 やにわに、 小文治 ( こぶんじ )という眼さきの敵をすてて、なぎさのほうへかけだした。 「 卑怯 ( ひきょう )もの!」 追いすがった 小文治 ( こぶんじ )が、さッと、くりこんでいった 槍 ( やり )の 穂先 ( ほさき )、ヒラリ、すばやくかわして、 千段 ( せんだん )をつかみとめた 龍太郎 ( りゅうたろう )は、はッたとふりかえって、 「 卑怯 ( ひきょう )ではない。 わが身ならぬ、大せつなるおかたの一大事なのだ、勝負はあとで決してやるから、しばらく待て」 「いいのがれはよせ。 その手は食わぬ」 「だれがうそを。 アレ見よ、こうしているまにも、あやしい船が遠のいてゆく、まんいちのことあっては、わが身に代えられぬおんかた、そのお身のうえが気づかわしい、しばらく待て、しばらく待て」 「オオあの船こそ、めったに正体を見せぬ 八幡船 ( ばはんせん )だ。 して、小船にのこしたというのはだれだ。 そのしだいによっては、待ってもくれよう」 「いまはなにをつつもう、 武田家 ( たけだけ )の 御曹子 ( おんぞうし )、 伊那丸 ( いなまる )さまにわたらせられる」 しばらく、じッと相手をみつめていた 小文治 ( こぶんじ )は、にわかに、槍を投げすててひざまずいてしまった。 「さては 伊那丸君 ( いなまるぎみ )のお 傅人 ( もりびと )でしたか。 今宵 ( こよい )、町へわたったとき、さわがしいおうわさは聞いていましたが、よもやあなたがたとは知らず、さきほどからのしつれい、いくえにもごかんべんをねがいまする」 「いや、ことさえわかればいいわけはない、 拙者 ( せっしゃ )はこうしてはおられぬ場合だ。 「チェッ、ざんねん。 あの 八幡船 ( ばはんせん )のしわざにそういない。 ところへ、案じてかけてきたのは、 小文治 ( こぶんじ )だった。 「若君のお身は?」 「しまッたことになった。 船はないか、船は」 「あの八幡船のあとを追うなら、とてもむだです」 「たとえ遠州灘のもくずとなってもよい! 追えるところまでゆく 覚悟 ( かくご )だ。 小文治 ( こぶんじ )は、それを見ると、不用意なじぶんの行動が後悔されてきた。 母をうしなった悲しさに、いちずに龍太郎を 下手人 ( げしゅにん )とあやまったがため、このことが起ったのだ。 さすれば、とうぜん、じぶんにも 罪 ( つみ )はある。 かれは、いくたびかそれをわびた。 そして、あらためて 素性 ( すじょう )を名のり、永年よき 主 ( しゅ )をさがしていたおりであるゆえ、ぜひとも、力をあわせて 伊那丸 ( いなまる )さまを取りかえし、ともども天下につくしたいと、 真心 ( まごころ )こめて龍太郎にたのんだ。 龍太郎も、よい味方を得たとよろこんだ。 しかし、さてこれから 八幡船 ( ばはんせん )の 根城 ( ねじろ )をさがそうとなると、それはほとんど雲にかくれた 時鳥 ( ほととぎす )をもとめるようなものだった。 「こうなってはしかたがない」 龍太郎はやがてこまぬいていた腕から顔をあげた。 「お 叱 ( しか )りをうけるかもしれぬが、一たび先生のところへ立ち帰って、この後の方針をきめるとしよう。 それよりほかに思案はない」 「して、その先生とおっしゃるおかたは」 「京の西、 鞍馬 ( くらま )の 奥 ( おく )にすんではいるが、ある時は、都にもいで、またある時は北国の山、南海のはてにまで姿を見せるという、 稀代 ( きたい )なご老体で、 拙者 ( せっしゃ )の 刀術 ( とうじゅつ )、 隠形 ( おんぎょう )の法なども、みなその老人からさずけられたものです」 鞍馬 ( くらま )ときくさえ、すぐ、 天狗 ( てんぐ )というような怪奇が 聯想 ( れんそう )されるところへ、この話をきいた 小文治 ( こぶんじ )は、もっと深くその老人が知りたくなった。 ただみずから、 果心居士 ( かしんこじ )と 異号 ( いごう )をつけております。 じつはこのたびのことも、まったくその先生のおさしずで、 織田 ( おだ ) 徳川 ( とくがわ )が 甲府攻 ( こうふぜ )めをもよおすと同時に、 拙者 ( せっしゃ )は、 六部 ( ろくぶ )に身を変じて、 伊那丸 ( いなまる )さまをお救いにむかったのです。 それがこの 不首尾 ( ふしゅび )となっては、先生にあわせる顔もないしだいだが、天下のこと 居 ( い )ながらにして知る先生、またきっと好いおさしずがあろうと思う」 「では、どうかわたしもともに、お 供 ( とも )をねがいまする」 「 異存 ( いぞん )はないが、さきをいそぐ、おしたくを早く」 小文治は、家に取ってかえすと、しばらくあって、 粗服 ( そふく )ながら、たしなみのある 旅支度 ( たびじたく )に、大小を差し、例の 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )をかついで、ふたたびでてきた。 「お待たせいたしました。 小船は、わたしの家のうしろへ着けておきましたから……」 という言葉に、龍太郎がそのほうへすすんで行くと、小船の上には、ひとつの 棺 ( かん )がのせてある。 武士 ( ぶし )にかえった 門出 ( かどで )に、 小文治 ( こぶんじ )は、母の 亡骸 ( なきがら )をしずかな 湖 ( うみ )の底へ 水葬 ( すいそう )にするつもりと見える。 と、あやしい 羽音 ( はおと )が、またも空に鳴った。 はッとしてふたりが船からふりあおぐと、大きな 輪 ( わ )をえがいていた 怪鳥 ( けちょう )のかげが、 潮 ( しお )けむる 遠州灘 ( えんしゅうなだ )のあなたへ、一しゅんのまに、かけりさった。 みんな空をむいて、同じように、 眉毛 ( まゆげ )の上へ片手をかざしている。 「さて、ふしぎなやつじゃのう」 「 仙人 ( せんにん )でしょうか」 「いや、 天狗 ( てんぐ )にちがいない」 「だって、この 真昼 ( まひる )なかに」 「おや、よく見ると本を読んでいますよ」 「いよいよ 魔物 ( まもの )ときまった」 この人々は、そも、なにを見ているのだろう。 なるほどふしぎ、人だかりのするのもむりではない。 太陽のまぶしさにさえぎられて、しかとは見えないが、 鶴 ( つる )のごとき老人が、 五重塔 ( ごじゅうのとう )のてッぺんにたしかにいるようだ。 しかも目のいい者のことばでは、あの高い、 登 ( のぼ )りようもない上でのんきに書物を見ているという。 「なに、 魔物 ( まもの )だと? どけどけ、どいてみろ」 「や、 今為朝 ( いまためとも )がきた」 群集はすぐまわりをひらいた。 今為朝 ( いまためとも )といわれたのはどんな人物かと見ると、 丈 ( たけ )たかく、色浅ぐろい二十四、五 歳 ( さい )の 武士 ( ぶし )である。 黒い 紋服 ( もんぷく )の 片肌 ( かたはだ )をぬぎ、手には、 日輪巻 ( にちりんまき )の 強弓 ( ごうきゅう )と、一本の矢をさかしまに 握 ( にぎ )っていた。 「む、いかにも見えるな……」 と、五重塔のいただきをながめた武士は、ガッキリ、その矢をつがえはじめた。 「や、あれを 射 ( い )ておしまいなさいますか」 あたりの者は 興 ( きょう )にそそられて、どよみ立った。 「この 霊地 ( れいち )へきて、奇怪なまねをするにっくいやつ、ことによったら、 南蛮寺 ( なんばんじ )にいるキリシタンのともがらかもしれぬ。 いずれにせよ、ぶッぱなして 諸人 ( しょにん )への見せしめとしてくれる」 弓の持ちかた、 矢番 ( やつがい )も、なにさまおぼえのあるらしい態度だ。 それもそのはず、この武士こそ、 坂本 ( さかもと )の町に 弓術 ( きゅうじゅつ )の道場をひらいて、都にまで名のきこえている 代々木流 ( よよぎりゅう )の 遠矢 ( とおや )の 達人 ( たつじん )、 山県蔦之助 ( やまがたつたのすけ )という者であるが、町の人は名をよばずに、 今為朝 ( いまためとも )とあだなしていた。 「あの矢先に立ってはたまるまい……」 人々がかたずをのんでみつめるまに、 矢筈 ( やはず )を 弦 ( つる )にかけた蔦之助は、 陽 ( ひ )にきらめく 鏃 ( やじり )を、 虚空 ( こくう )にむけて、ギリギリと満月にしぼりだした。 塔 ( とう )のいただきにいる者のすがたは、 下界 ( げかい )のさわぎを、どこふく風かというようすで、すましこんでいるらしい。 「 日吉 ( ひよし )の森へいってごらんなさい。 今為朝が、 五重塔 ( ごじゅうのとう )の上にでた老人の 魔物 ( まもの )を 射 ( い )にゆきましたぜ」 坂本の町の 葭簀 ( よしず )茶屋でも、こんなうわさがぱッとたった。 床几 ( しょうぎ )にかけて、茶をすすっていた 木隠龍太郎 ( こがくれりゅうたろう )は、それを聞くと、道づれの 小文治 ( こぶんじ )をかえりみながら、にわかにツイと立ちあがった。 「ひょっとすると、その老人こそ、先生かもしれない。 このへんでお目にかかることができればなによりだ、とにかく、いそいでまいってみよう」 「え?」 小文治 ( こぶんじ )はふしんな顔をしたが、もう 龍太郎 ( りゅうたろう )がいっさんにかけだしたので、あわててあとからつづいてゆくと、うわさにたがわぬ人 群 ( む )れだ。 両足をふんまえて、 狙 ( ねら )いさだめた 蔦之助 ( つたのすけ )は、いまや、プツンとばかり手もとを切ってはなした。 と見れば、風をきってとんでいった白羽の矢は、まさしく 五重塔 ( ごじゅうのとう )の、あやしき老人を 射抜 ( いぬ )いたとおもったのに、ぱッと、そこから飛びたったのは、一羽の 白鷺 ( しらさぎ )、ヒラヒラと、青空にまいあがったが、やがて、 日吉 ( ひよし )の森へ 影 ( かげ )をかくした。 「なアんだ」と多くのものは、口をあいたまま、ぼうぜんとして、まえの老人がまぼろしか、いまの白鷺がまぼろしかと、おのれの目をうたぐって、 睫毛 ( まつげ )をこすっているばかりだ。 そこへ、 一足 ( ひとあし )おくれてきた龍太郎と小文治はもう人の散ってゆくのに失望して、そのまま、 叡山 ( えいざん )の道をグングン登っていった。 ふたりはこれから、 比叡山 ( ひえいざん )をこえ、 八瀬 ( やせ )から 鞍馬 ( くらま )をさして、 峰 ( みね )づたいにいそぐのらしい。 いうまでもなく 果心居士 ( かしんこじ )のすまいをたずねるためだ。 音にきく 源平 ( げんぺい )時代のむかし、 天狗 ( てんぐ )の 棲家 ( すみか )といわれたほどの鞍馬の山路は、まったく話にきいた以上のけわしさ。 おまけにふたりがそこへさしかかってきた時は、ちょうど、とっぷり日も暮れてしまった。 ふもとでもらった、 蛍火 ( ほたるび )ほどの 火縄 ( ひなわ )をゆいつのたよりにふって、うわばみの歯のような、岩壁をつたい、 百足腹 ( むかでばら )、鬼すべりなどという 嶮路 ( けんろ )をよじ登ってくる。 おりから 初秋 ( はつあき )とはいえ、山の寒さはまたかくべつ、それにいちめん 朦朧 ( もうろう )として、ふかい 霧 ( きり )が山をつつんでいるので、いつか火縄もしめって、消えてしまった。 「 小文治 ( こぶんじ )どの、お気をつけなされよ、よろしいか」 「大じょうぶ、ごしんぱいはいりません」 とはいったが、小文治も、海ならどんな荒浪にも恐れぬが、山にはなれないので、れいの 朱柄 ( あかえ )の 槍 ( やり )を 杖 ( つえ )にして足をひきずりひきずりついていった。 千段曲 ( せんだんまが )りという坂道をやっとおりると、白い霧がムクムクわきあがっている底に、ゴオーッというすごい水音がする。 渓流 ( けいりゅう )である。 「橋がないから、その 槍 ( やり )をおかしなさい。 こうして、おたがいに槍の両端を握りあってゆけば、流されることはありません」 龍太郎 ( りゅうたろう )は山なれているので、先にかるがると、岩石へとびうつった。 すると、小文治のうしろにあたる 断崖 ( だんがい )から、ドドドドッとまっ黒なものが、むらがっておりてきた。 「や?」と小文治は身がまえて見ると、およそ五、六十ぴきの 山猿 ( やまざる )の大群である。 そのなかに、十 歳 ( さい )ぐらいな少年がただひとり、 鹿 ( しか )の背にのって笑っている。 「おお、そこへきたのは、 竹童 ( ちくどう )ではないか」 岩の上から龍太郎が声をかけると、鹿の背からおりた少年も、なれなれしくいった。 「 龍太郎 ( りゅうたろう )さま、ただいまお帰りでございましたか」 「む、して先生はおいでであろうな」 「このあいだから、お客さまがご 滞留 ( たいりゅう )なので、このごろは、ずっと 荘園 ( そうえん )においでなさいます」 「そうか。 じつは 拙者 ( せっしゃ )の道づれも、足をいためたごようすだ。 おまえの 鹿 ( しか )をかしてあげてくれないか」 「アアこのおかたですか、おやすいことです」 竹童 ( ちくどう )は 口笛 ( くちぶえ )を鳴らしながら、鹿をおきずてにして、 岩燕 ( いわつばめ )のごとく、 渓流 ( けいりゅう )をとびこえてゆくと、 猿 ( さる )の大群も、口笛について、ワラワラとふかい霧の中へかげを消してしまった。 鹿の背をかりて、しばらくたどってくると、 小文治 ( こぶんじ )は 馥郁 ( ふくいく )たる 香 ( かお )りに、 仙境 ( せんきょう )へでもきたような心地がした。 「やっと 僧正谷 ( そうじょうがたに )へまいりましたぞ」 と龍太郎が指さすところを見ると、そこは 山芝 ( やましば )の平地で、 甘 ( あま )いにおいをただよわせている 果樹園 ( かじゅえん )には、なにかの 実 ( み )が 熟 ( う )れ、大きな 芭蕉 ( ばしょう )のかげには、竹を柱にしたゆかしい一軒の家が見えて、ほんのりと、 灯 ( あか )りがもれている。 門からのぞくと、 庵室 ( あんしつ )のなかには、 白髪童顔 ( はくはつどうがん )の 翁 ( おきな )が、果物で酒を 酌 ( く )みながら、 総髪 ( そうはつ )にゆったりっぱな 武士 ( ぶし )とむかいあって、なにかしきりに笑い 興 ( きょう )じている。 「 龍太郎 ( りゅうたろう )、ただいま帰りました」 とかれが両手をついたうしろに、 小文治 ( こぶんじ )もひかえた。 龍太郎の顔を見ると、 ふいと、かたわらの 藜 ( あかざ )の 杖 ( つえ )をにぎりとって、立ちあがるが早いか、 「ばかもの」ピシリと龍太郎の肩をうった。 果心居士 ( かしんこじ )は、なにも聞かないうちに、すべてのことを知っていた。 八幡船 ( ばはんせん )に 伊那丸 ( いなまる )をうばわれたことも、 巽小文治 ( たつみこぶんじ )の身の上も。 かれは、 仙人 ( せんにん )か、 幻術師 ( げんじゅつし )か、キリシタンの魔法を使う者か? はじめて会った小文治は、いつまでも、奇怪な 謎 ( なぞ )をとくことに苦しんだ。 しかし、だんだんと 膝 ( ひざ )をまじえて話しているうちに、ようやくそれがわかってきた、かれは 仙人 ( せんにん )でもなければ、けっして 幻術使 ( げんじゅつつかい )でもない。 ただおそろしい修養の力である。 みな、 自得 ( じとく )の 研鑽 ( けんさん )から 通力 ( つうりき )した 人間技 ( にんげんわざ )であることが 納得 ( なっとく )できた。 浮体 ( ふたい )の法、 飛足 ( ひそく )の 呼吸 ( いき )、 遠知 ( えんち )の 術 ( じゅつ )、 木遁 ( もくとん )その他の 隠形 ( おんぎょう )など、みなかれが何十年となく、深山にくらしていたたまもので、それはだれでも 劫 ( こう )をつめば、できないふしぎや魔力ではない。 ところで、 果心居士 ( かしんこじ )がなにゆえに、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )を 龍太郎 ( りゅうたろう )にもとめさせたか、それはのちの説明にゆずって、さしあたり、はてなき海へうばわれたおんかたを、どうしてさがしだすかの相談になった。 そのなかから、机の上へカラカラと開けたのは 亀 ( かめ )の 甲羅 ( こうら )でつくった、いくつもいくつもの 駒 ( こま )であった。 かれの精神がすみきらないで、遠知の術のできないときは、この 亀卜 ( きぼく )という 占 ( うらな )いをたてて見るのが常であった。 「む……」ひとりで占いをこころみて、ひとりうなずいた果心居士は、やがて、客人のほうへむいて、 「 民部 ( みんぶ )どの、こんどはあなたがいったがよろしい」といった。 龍太郎はびっくりして、それへ進んだ。 「しばらく、先生のおおせながら、 余人 ( よじん )にその 儀 ( ぎ )をおいいつけになられては、手まえのたつ 瀬 ( せ )も、 面目 ( めんぼく )もござりませぬ。 どうか、まえの不覚をそそぐため、 拙者 ( せっしゃ )におおせつけねがいとうぞんじます」 「いや龍太郎、おまえには、さらに第二段の、大せつなる役目がある。 まずこれをとくと見たがよい」 と、 革 ( かわ )の箱から取りだして、それへひろげたのは、いちめんの 山絵図 ( やまえず )であった。 「これは?」と 龍太郎 ( りゅうたろう )は 腑 ( ふ )におちない顔である。 「ここにおられる、 小幡民部 ( こばたみんぶ )どのが、苦心してうつされたもの。 すなわち、自然の山を 城廓 ( じょうかく )として、七陣の兵法をしいてあるものじゃ」 「あ! ではそこにおいでになるのは、 甲州流 ( こうしゅうりゅう )の軍学家、 小幡景憲 ( こばたかげのり )どののご子息ですか」 「いかにも、すでにまえから、ご浪人なされていたが、 武田 ( たけだ )のお家のほろびたのを、よそに見るにしのびず、 伊那丸 ( いなまる )さまをたずねだしてふたたび 旗 ( はた )あげなさろうという 大願望 ( だいがんもう )じゃ、おなじ 志 ( こころざし )のものどもがめぐりおうたのも天のおひきあわせ、したが、伊那丸さまのありかが知れても、よるべき 天嶮 ( てんけん )がなくてはならぬ。 そこで、まずひそかに、二、三の者がさきにまいって地理の 準備 ( じゅんび )、またおおくの勇士をも 狩 ( か )りもよおしておき、おんかたの知れしだいに、いつなりと、旗あげのできるようにいたしておくのじゃ」 「は、承知いたしました。 して、この 図面 ( ずめん )にあります場所は?」 という龍太郎の問いに応じてこんどは、小幡民部が 膝 ( ひざ )をすすめた。 「 武田家 ( たけだけ )に 縁 ( えん )のふかき、 甲 ( こう )、 信 ( しん )、 駿 ( すん )の三ヵ国にまたがっている 小太郎山 ( こたろうざん )です。 また……」 と、 軍扇 ( ぐんせん )の 要 ( かなめ )をもって、民部は 掌 ( たなごころ )を指すように、ここは何山、ここは何の陣法と、こまかに、 噛 ( か )みくだいて説明した。 肝胆 ( かんたん )あい照らした、龍太郎、 小文治 ( こぶんじ )、民部の三人は、夜のふけるをわすれて、旗上げの密議をこらした。 果心居士 ( かしんこじ )は、それ以上は 一言 ( ひとこと )も口をさし入れない。 かれの 任務 ( にんむ )は、ただここまでの、気運だけを作るにあるもののようであった。 翌日は早天に、みな打ちそろって 僧正谷 ( そうじょうがたに )を 出立 ( しゅったつ )した。 龍太郎と小文治は、例のすがたのまま、旗あげの 小太郎山 ( こたろうざん )へ。 また、 小幡民部 ( こばたみんぶ )ひとりは、 深編笠 ( ふかあみがさ )をいただき、片手に 鉄扇 ( てっせん )、 野袴 ( のばかま )といういでたちで、京都から大阪 もよりへと 伊那丸 ( いなまる )のゆくえをたずねもとめていく。 その方角は、果心居士の 亀卜 ( きぼく )がしめしたところであるが、この 占 ( うらな )いがあたるか 否 ( いな )か。 またあるいは音にひびいた軍学者小幡が、はたしてどんな 奇策 ( きさく )を胸に 秘 ( ひ )めているか、それは 余人 ( よじん )がうかがうことも、はかり知ることもできない。 板子 ( いたご )一枚下は 地獄 ( じごく )。 空も見えなければ、海の色も見えない。 ただときおりドドーン、ドドドドドーン! と 胴 ( どう )の 間 ( ま )にぶつかってはくだける 怒濤 ( どとう )が、百千の 鼓 ( つづみ )を一時にならすか、 雷 ( いかずち )のとどろきかとも思えて、人の 魂 ( たましい )をおびやかす。 その船ぞこに、生ける 屍 ( しかばね )のように、うつぶしているのは、 武田伊那丸 ( たけだいなまる )のいたましい姿だった。 八幡船 ( ばはんせん )が 遠州灘 ( えんしゅうなだ )へかかった時から、伊那丸の 意識 ( いしき )はなかった。 この 海賊船 ( かいぞくせん )が、どこへ向かっていくかも、おのれにどんな危害が 迫 ( せま )りつつあるのかも、かれはすべてを知らずにいる。 「や、すっかりまいっていやがる」 さしもはげしかった、船の動揺もやんだと思うと、やがて、入口をポンとはねて、飛びおりてきた手下どもが伊那丸のからだを上へにないあげ、すぐ 船暈 ( ふなよい ) ざましの手当にとりかかった。 「やい、その 童 ( わっぱ )の 脇差 ( わきざし )を持ってきて見せろ」 と 舳 ( みよし )からだみごえをかけたのは、この船の 張本 ( ちょうほん )で、 龍巻 ( たつまき )の 九郎右衛門 ( くろうえもん )という大男だった。 赤銅 ( しゃくどう )づくりの 太刀 ( たち )にもたれ、 南蛮織 ( なんばんおり )のきらびやかなものを着ていた。 「はて……?」と龍巻は、いま手下から受けとった脇差の 目貫 ( めぬき )と、伊那丸の 小袖 ( こそで )の 紋 ( もん )とを見くらべて、ふしんな顔をしていたが、にわかにつっ立って、 「えらい者が手に入った。 その 小童 ( こわっぱ )は、どうやら 武田家 ( たけだけ )の 御曹子 ( おんぞうし )らしい。 五十や百の金で、人買いの手にわたす 代物 ( しろもの )じゃねえから、めったな手荒をせず、島へあげて、かいほうしろ」 そういって、三人の腹心の手下をよび、なにかしめしあわせたうえ、その脇差を、そッともとのとおり、 伊那丸 ( いなまる )の腰へもどしておいた。 まもなく、 軽舸 ( はしけ )の用意ができると、病人どうような伊那丸を、それへうつして、まえの三人もともに乗りこみ、すぐ 鼻先 ( はなさき )の小島へむかってこぎだした。 「やい! 親船がかえってくるまで、大せつな玉を、よく見はっていなくっちゃいけねえぞ」 龍巻 ( たつまき )は二、三ど、両手で口をかこって、遠声をおくった。 そしてこんどは、足もとから鳥が立つように、あたりの手下をせきたてた。 「それッ、 帆綱 ( ほづな )をひけ! 大金 ( おおがね )もうけだ」 「お 頭領 ( かしら )、また船をだして、こんどはどこです」 「 泉州 ( せんしゅう )の 堺 ( さかい )だ。 なんでもかまわねえから、張れるッたけ 帆 ( ほ )をはって、ぶっとおしにいそいでいけ」 キリキリ、キリキリ、 帆車 ( ほぐるま )はせわしく鳴りだした。 船中の手下どもは、 飛魚 ( とびうお )のごとく 敏捷 ( びんしょう )に活躍しだす。 舳 ( みよし )に腰かけている龍巻は、その 悪魔的 ( あくまてき )な 跳躍 ( ちょうやく )をみて、ニタリと、笑みをもらしていた。 この秋に、京は 紫野 ( むらさきの )の 大徳寺 ( だいとくじ )で、 故右大臣信長 ( こうだいじんのぶなが )の、さかんな 葬儀 ( そうぎ )がいとなまれたので、諸国の 大小名 ( だいしょうみょう )は、ぞくぞくと京都にのぼっていた。 なかで、 穴山梅雪入道 ( あなやまばいせつにゅうどう )は、役目をおえたのち、主人の 徳川家康 ( とくがわいえやす )にいとまをもらって、甲州 北郡 ( きたごおり )へかえるところを、廻り道して、見物がてら、泉州の 堺 ( さかい )に、半月あまりも 滞在 ( たいざい )していた。 堺は当時の 開港場 ( かいこうじょう )だったので、ものめずらしい 異国 ( いこく )の 色彩 ( しきさい )があふれていた。 唐 ( から )や、 呂宋 ( ルソン )や、 南蛮 ( なんばん )の器物、織物などを、見たりもとめたりするのも、ぜひここでなければならなかった。 「 殿 ( との )、見なれぬ者がたずねてまいりましたが、通しましょうか、いかがしたものでござります」 穴山梅雪の 仮 ( かり )の 館 ( やかた )では、もう 燭 ( しょく )をともして、 侍女 ( こしもと )たちが、 琴 ( こと )をかなでて、にぎわっているところだった。 そこへひとりの家臣が、こう取りついできた。 「何者じゃ」 梅雪入道は、もう 眉 ( まゆ )にも 霜 ( しも )のみえる老年、しかし、千軍万馬を 疾駆 ( しっく )して、 鍛 ( きた )えあげた骨 ぶしだけは、たしかにどこかちがっている。 「 肥前 ( ひぜん )の 郷士 ( ごうし )、 浪島五兵衛 ( なみしまごへえ )ともうすもので、二、三人の 従者 ( じゅうしゃ )もつれた、いやしからぬ男でござります」 「ふーむ……、してその者が、何用で 余 ( よ )にあいたいともうすのじゃ」 「その浪島ともうす郷士が、あるおりに 呂宋 ( ルソン )より 海南 ( ハイナン )にわたり、なおバタビヤ、ジャガタラなどの国々の珍品もたくさん持ちかえりましたので、殿のお目にいれ、お買いあげを得たいともうすので」 「それは珍しいものが数あろう」 梅雪入道 ( ばいせつにゅうどう )は、このごろしきりに、 堺 ( さかい )でそのような 品 ( しな )をあつめていたところ、思わず心をうごかしたらしい。 「とにかく、通してみろ。 ただし、ひとりであるぞ」 「はい」家臣は、さがっていく。 入れちがって、そこへあんないされてきたのは、衣服、大小や、かっぷくもりっぱな 侍 ( さむらい )、ただ色はあくまで黒い。 目はおだやかとはいえない光である。 「取りつぎのあった、 浪島 ( なみしま )とはそちか」 「ヘッ、お目通りをたまわりまして、ありがとうぞんじます」 「さっそく、バタビヤ、ジャガタラの珍品などを、 余 ( よ )に見せてもらいたいものであるな」 「じつは、 他家 ( たけ )へ 吹聴 ( ふいちょう )したくない、秘密な 品 ( しな )もござりますゆえ、願わくばお人 払 ( ばら )いをねがいまする」 という望みまでいれて、あとはふたりの座敷となると梅雪はさらにまたせきだした。 「買ってもらいたいのは、ジャガタラの品物じゃありません。 武田菱 ( たけだびし )の 紋 ( もん )をうった、りっぱな人間です。 どうです、ご相談にのりませんか」 「な、なんじゃッ?」 「シッ……大きな声をだすと、 殿 ( との )さまのおためにもなりませんぜ。 徳川家 ( とくがわけ )で、 血眼 ( ちまなこ )になっている 武田伊那丸 ( たけだいなまる )、それをお売りもうそうということなんで」 「む……」 入道 ( にゅうどう )はじッと 郷士 ( ごうし )の 面 ( おもて )をみつめて、しばらくその 大胆 ( だいたん )な 押 ( お )し 売 ( う )りにあきれていた。 「けっして、そちらにご不用なものではありますまい。 武田 ( たけだ )の 御曹子 ( おんぞうし )を生けどって、徳川さまへさしだせば、一万 石 ( ごく )や二万 石 ( ごく )の 恩賞 ( おんしょう )はあるにきまっています。 先祖代々から 禄 ( ろく )をはんだ、 武田家 ( たけだけ )の 亡 ( ほろ )びるのさえみすてて、徳川家へついたほどのあなただから、よろこんで買ってくださるだろうと思って、あてにしてきた売物です」 ほとんど、 強請 ( ゆすり )にもひとしい 口吻 ( こうふん )である。 だのに、 梅雪入道 ( ばいせつにゅうどう )は顔色をうしなって、この無礼者を手討ちにしようともしない。 どんな身分であろうと、弱点をつかれると弱いものだ。 穴山梅雪入道は、事実、かれのいうとおり、ついこのあいだまでは、 武田勝頼 ( たけだかつより )の無二の者とたのまれていた武将であった。 それが、 織田徳川連合軍 ( おだとくがわれんごうぐん )の乱入とともに、まッさきに徳川家にくだって、 甲府討入 ( こうふうちい )りの手引きをしたのみか、 信玄 ( しんげん )いらい、 恩顧 ( おんこ )のふかい 武田 ( たけだ )一族の 最期 ( さいご )を見すてて、じぶんだけの命と 栄華 ( えいが )をとりとめた 武士 ( ぶし )である。 この利慾のふかい武士へ、 伊那丸 ( いなまる )という 餌 ( えさ )をもって 釣 ( つ )りにきたのは、いうまでもなく、武士に 化 ( ば )けているが、 八幡船 ( ばはんせん )の 龍巻 ( たつまき )であった。 都より 開港場 ( かいこうじょう )のほうに、なにかの手がかりが多かろうと、目星をつけて、京都から 堺 ( さかい )へいりこんでいたのは、 鞍馬 ( くらま )を下山した 小幡民部 ( こばたみんぶ )である。 人手をわけて、要所を見張らせていた 網 ( あみ )は、意外な 効果 ( こうか )をはやくも 告 ( つ )げてきた。 いっぽう、その夜ふけて、梅雪のかりの 館 ( やかた )をでていった三つのかげは、なにかヒソヒソささやきながら堺の町から、くらい 波止場 ( はとば )のほうへあるいていく。 「おかしら、じゃアとにかく、話はうまくついたっていうわけですね」 「 上首尾 ( じょうしゅび )さ。 じぶんも立身の 種 ( たね )になるんだから、いやもおうもありゃあしない。 これからすぐに島へかえって、伊那丸をつれてさえくれば、からだの目方と 黄金 ( きん )の目方のとりかえッこだ」 「しッ……うしろから足音がしますぜ」 「え?」 と三人とも、 脛 ( すね )にきずもつ身なので、おもわずふりかえると、 深編笠 ( ふかあみがさ )の 侍 ( さむらい )が、ピタピタあるき寄ってきて、なれなれしくことばをかけた。 「おかしら、いつもご壮健で、けっこうでござりますな」 「なんだって? おれはそんな者じゃアない」 「エヘヘヘヘ、わたしも、こんな、侍姿にばけているから、ゆだんをなさらないのはごもっともですが、さきほど町で、チラとお見うけして、まちがいがないのです」 「なんだい、おめえはいったい?」 「こう見えても、ずいぶん 浪 ( なみ )の上でかせいだ者です」 「おれたちの船じゃなかろう、こっちは知らねえもの」 「そりゃア数ある 八幡船 ( ばはんせん )ですから」 「しッ。 でっかい声をするねえ」 「すみません。 船から船へわたりまわったことですからな、ながいお世話にはなりませんでしょうが、おかしらの船でも一どはたらいたことがあるんです」 話しながら、いつか 陸 ( おか )はずれの、小船のおいてあるところまできてしまった。 あとをついてきた侍すがたの男は、ぜひ、もう一ど船ではたらきたいからとせがんでたくみに 龍巻 ( たつまき )を信じさせ、沖にすがたを隠している、 八幡船 ( ばはんせん )の仲間のうちへ、まんまと乗りこむことになった。 その男の 正体 ( しょうたい )が、 小幡民部 ( こばたみんぶ )であることはいうまでもない。 なまじ町人すがたにばけたりなどすると、かえってさきが、ゆだんをしないと見て、 生地 ( きじ )のままの 反間苦肉 ( はんかんくにく )がみごとに当った。 民部のこころは躍っていた。 けれどもうわべはどこまでもぼんやりに見せて、たえず、船中に目をくばっていたが、どうもこの船にはそれらしい者を、かくしているようすが見えない。 で、いちじはちがったかと思ったが、 梅雪 ( ばいせつ )をおとずれたという事実は、どうしても、民部には見のがせない。 船は、その翌日、 闇夜 ( あんや )にまぎれて、 堺 ( さかい )の沖から、ふたたび南へむかって、 満々 ( まんまん )と 帆 ( ほ )をはった。 伊那丸 ( いなまる )は、日ならぬうちに気分もさわやかになった。 それと同時に、かれは、生まれてはじめて接した、 大海原 ( おおうなばら )の 壮観 ( そうかん )に目をみはった。 ここはどこの島かわからないけれど、 陸 ( りく )のかげは、一里ばかりあなたに見える。 けれど、伊那丸には、龍巻の手下が五、六人、一歩あるくにもつきまとっているので逃げることも、どうすることもできなかった。 「ああ……」 忍剣 ( にんけん )を思い、 咲耶子 ( さくやこ )をしのび、 龍太郎 ( りゅうたろう )のゆくえなどを思うたびに、波うちぎわに立っている 伊那丸 ( いなまる )のひとみに涙が光った。 「なんとかしてこの島からでたい、名もしれぬ荒くれどもの手にはずかしめられるほどなら、いッそこの海の底に……」 夜はつめたい 磯 ( いそ )の岩かげに組んだ小屋にねる。 だが、そのあいださえ、 羅刹 ( らせつ )のような手下は、 交代 ( こうたい )で 見張 ( みは )っているのだ。 「そうだ、あの親船が返ってくれば、もう 最期 ( さいご )の運命、逃げるなら、いまのうちだ」 きッと、心をけっして、頭をもたげてみると、もう夜あけに近いころとみえて、寝ずの番も 頬杖 ( ほおづえ )をついていねむっている。 「む!」はね起きるよりはやく、ばらばらと、昼みておいた小船のところへ走りだした。 ところがきてみると、船は毎夜、かれらの用心で、十 間 ( けん )も 陸 ( おか )の上へ、引きあげてあった。 「えい、これしきのもの」 伊那丸は、 金剛力 ( こんごうりき )をしぼって、波のほうへ、 綱 ( つな )をひいてみたが、 荒磯 ( あらいそ )のゴロタ石がつかえて、とてもうごきそうもない。

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