2011年7月27日撮影 渾名 ホワイティ 生誕 1920-11-23 (99歳) 江西面徳興里 所属組織 軍歴 1940 - 1945(満州国軍) 1946 - 1960(韓国陸軍) 最終階級 陸軍(満州国軍) 陸軍(韓国陸軍) 除隊後 外交官 白善燁 各種表記 : 백선엽 : 白善燁 発音: ペクソニョプ 読み: はくぜんよう : Paik Sun-yup 白 善燁(読み;はく・ぜんよう、読み;ペク・ソニョプ、 백선엽、 - )は、の、、、。 弟は軍人、教育者の。 は愚村(ウチョン、 우촌)。 日韓併合解消後の韓国で同陸軍の創設に参加して、では常に第一線で戦った。 共同作戦を行うアメリカ軍からは「 ホワイティ(Whity)」の愛称で呼ばれた。 韓国陸軍初の大将に任じられ、退役後は各国で外交官を務めた。 人物 [ ] 、日本統治下の朝鮮半島、江西郡、平壌近郊の江西面徳興里で父・白潤相、母・方考烈の間に生まれる。 姉に白福燁、弟に白仁燁がいた。 近在では比較的裕福な中規模地主の家系であった。 6歳の時に父が死亡すると一家は困窮したたために母と子供3人で平壌に移り住んだ。 母と姉が働くことで家計は安定し、白善燁と白仁燁は進学することが出来た。 小学校を卒業後、道立の商業学校と、の教師を養成する難関のの両方を受験して合格したが、学費無料のほか衣食住の支援も受けられるの方に入学した。 1939年に平壌師範学校を卒業。 師範学校は在学中の生活を保証される代わりに卒業後の2年間を教師として勤務する義務があったが、母方の祖父が軍人だったこともあり、に渡りのに進学、勤務義務は免除された。 軍官学校の区隊長であった傳連和とは後に朝鮮戦争で交戦することになる。 に満州国軍官学校の優秀生徒として卒業(9期)。 前年までは優秀な学生を選抜して日本のに留学させ上級幹部としての教育を受ける制度があったが、白が卒業した年に制度が中止されたので、陸士には留学していない。 陸軍少尉に任官した白はの満州国軍歩兵第二八団に勤務し、続いての新兵訓練部隊に配属、小隊長。 2月、に転勤。 の、上流部一帯で、中国共産党が主導する中国人、満州人、朝鮮人により構成された抗日ゲリラ の討伐に従事した。 1944年春、の(紅軍)掃討作戦に参加、特殊工作とくに情報収集で偉功を立て 、旅団長賞詞を受ける。 1944年秋、平壌に帰郷し盧仁淑と結婚。 、満州国軍として終戦を迎えた。 終戦後は夫婦で平壌に戻ったが教師の職はなく、日本の明治大学に留学したのち学徒出陣して日本陸軍航空兵少尉で終戦を迎えた弟と共に、親戚のツテで民族派指導者のの平安道人民政治委員会で働き始めた。 弟の白仁燁が警護担当、白善燁は事務所の受付だったという。 事務所には様々な人間が出入りしており、戦友や知人と再会したり、のちに敵対することとなるや彼の取り巻きと話をしたこともあった。 金日成らのパルチザン派がソ連の後押しで権力を掌握し始めると、赤衛隊が曺晩植の警備隊を解散させた。 警備隊の隊長だった白仁燁は赤衛隊に目を付けられ、共産主義体制下で身の危険を感じていた と共に南下した。 白善燁みずからも中国地域において共産パルチザンの討伐任務に就いていた経歴があることから、友人の金燦圭(のちにに改名) 、崔楠根 らと共に1945年12月24日に平壌を離れ、12月27日にを越えた。 家族は落ち着いてから呼び寄せる予定で、平壌に残った妻と母は1946年春に合流した。 再び軍人へ [ ] ソウルに到着した3人には職がなく、先に南下して韓国軍の前身であるに入隊していた丁一権や実弟の白仁燁らの勧めもあり、1946年2月26日付けにて 履修扱いで南朝鮮国防警備隊に入隊し、中尉に任官される。 釜山にて第5連隊の創設に従事、連隊長となり中佐。 第5連隊に着任すると、白はすぐに警察と双方の分担と権限について取り決めた。 これには取り決めだけではなく、警察との関係を良好にする目的があった。 1946年4月、喧嘩口論の末にある兵士が同僚を射殺する事件が起き、調べてみると殺意があったのではなく、小銃が暴発したのだという。 ここで白は内々で済ますことなく、中尉を裁判長、中尉と中尉を検察官に命じて、警備隊として最初の軍法会議を開いた。 1947年3月、記念日に右派と左派がそれぞれ市内でデモをしたが、街頭での衝突が原因で死傷者が出る騒ぎにまで発展した。 警察の要請を受けた第5連隊は忽ちこれを鎮圧した。 これによって官民の称賛を博し、アメリカ軍の信頼も厚くなり、間もなくしてのアメリカ軍施設の警備を任された。 1947年10月、作戦主任の呉徳俊大尉に機動演習を計画させた。 当時は警備隊の性格が曖昧であり部隊の士気を何を目標として維持するか問題であった。 そのため戦闘訓練を体験させ、軍隊や軍人とはこうであるということを各人に自覚させる狙いがあった。 演習は各1個大隊を釜山と鎮海付近で対進させ、昌原付近でぶつけるという遭遇戦の指導であった。 この時、釜山に駐屯していたアメリカ軍第6師団のオーランド・ワード少将の協力を得て装甲車隊を参加させてもらった。 演習大隊長は大尉と崔慶萬大尉であり、演習は11月5日から8日にかけて実施された。 参観していたワード少将、大佐、立法議員崔東旿、および各連隊長は賛辞を惜しまなかったという。 1947年12月、新規に編成される第3旅団(初代旅団長、)司令部の参謀長となり旅団編成に従事。 1948年4月、統衛部(国防部の前身)情報局長。 1948年10月19日ににされた軍部隊の反乱、が起こると、軍内のを除去する粛軍運動に従事。 軍内からは約1,000人の逮捕者が発生し、南朝鮮労働党で第2連隊長だった中佐などが銃殺された。 この捜査で、のちに韓国大統領となった少佐が高位の軍内党細胞であったことが判明したが、捜査に協力したことなどから、朴に請われた白が助命の上申を行い、朴は刑を免れ除隊処分で釈放された。 軍には文官として戻り、朝鮮戦争開戦で復命した。 幕僚勤務ののち、1949年7月30日に光州の第5師団長。 智異山、湖南地方でゲリラ討伐に従事。 1950年4月22日、 師団長になり、緊張の増していたの東西90キロメートルの正面、開城地域の警備を担当した。 朝鮮戦争 [ ] 北朝鮮軍の攻勢 [ ] 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発したが、このとき白は開戦の10日前から3ヶ月の予定で歩兵学校高級課程へ入校中で一時的に部隊を離れており、開戦の報を受けると師団に復帰した。 韓国第1師団はにおいてソウル西翼の臨津江で4日間の防御戦闘を行った。 しかし、まで戦闘を継続したことで後退路にあたるのされ、陸軍本部との連絡も途絶した中で困難な後退を指揮することになった。 漢江を渡河し、に集結した時の第1師団の兵力は半減しており、しかも水原での誤射を受け、さらに損害を重ねた。 1950年7月4日、水原から東北8km付近の豊徳川里(プントクチョンリ)で北朝鮮第2師団の先鋒を待ち伏せで撃退。 その後、陸軍本部の命令でを経由し、鉄道で鳥致院(チョチウォン)まで後退、を経てに北上した。 第1師団は7月8日から10日まで陰城で北朝鮮第15師団を阻止、~米院(ミウォン)道沿いに22日まで遅滞行動を執った。 しかし化寧場(ファヨンジャン)に北朝鮮第15師団が出現すると、直ちに転進を命じられ24日まで北朝鮮軍の進攻を防いだ。 1950年7月25日に韓国第2軍団隷下となると、で再編成を行い6,000名規模の兵力になり、白は大佐から准将に昇進した。 1950年7月26日、第6師団の増援のため、頴江(ヨンガン)に前進し、北朝鮮第1師団、第13師団と激しい攻防戦を繰り広げた。 この戦闘で韓国第1師団は2人の大隊長を失った。 その後、第8軍の命令で8月2日夜から8月3日にかけて付近の洛東江沿岸に移動し、釜山橋頭堡の守備についた。 連日連夜の激闘は誠にご苦労で感謝の言葉もない。 よく今まで頑張ってくれた。 だがここで我々が負ければ、我々は祖国を失うことになるのだ。 我々が多富洞を失えば大邱が持てず、大邱を失えば釜山の失陥は目に見えている。 そうなればもう我が民族の行くべき所はない。 だから今、祖国の存亡が多富洞の成否に掛かっているのだ。 我々にはもう退がる所はないのだ。 だから死んでもここを守らなければならないのだ。 しかも、はるばる地球の裏側から我々を助けに来てくれた米軍が、我々を信じて谷底で戦っているではないか。 信頼してくれている友軍を裏切ることが韓国人にできようか。 いまから私が先頭に立って突撃し陣地を奪回する。 貴官らは私の後ろに続け。 もし私が退がるようなことがあれば、誰でも私を撃て。 さあ行こう! 最終弾とともに突入するのだ — 白善燁、1950年8月21日' 第1師団の戦意を疑っていたアメリカ第27連隊連隊長はこの姿に感激し、以後のアメリカ軍と韓国軍の間の信頼度が増した。 1950年9月15日、が成功し国連軍の反攻が開始されると、アメリカ第1軍団隷下に入った韓国第1師団は北進に参加、9月18日に北朝鮮軍の間隙を突き、戦線を突破して北朝鮮軍の背後に進出し、退路を遮断した。 10月19日には平壌への一番乗りを果たした。 中共軍の攻勢 [ ] 平壌占領後、引き続き北進を命じられた韓国第1師団は10月25日、での攻撃を受け、この戦闘で獲た捕虜を尋問した。 捕虜の供述から白は中共軍の大部隊が介入したと判断し、アメリカ軍に中共軍の介入を警告した。 しかしアメリカ軍の指揮官はこれを信じず、結果的に第8騎兵連隊第3大隊が大損害を受けることになった。 その後、中共軍の第1次攻勢で中共 に包囲された韓国第1師団は雲山を中心に円陣を組んで防御した( )。 11月、雲山を放棄してに後退した。 1950年12月初旬、中共軍の第2次攻勢による国連軍の撤退戦では後衛としてをつとめた。 1950年12月中旬、国連軍は38度線まで後退し、韓国第1師団は再びの防御に就くが12月末に開始された中共軍の正月攻勢によって国連軍のソウル放棄が決定され、第1師団はに後退した。 1951年1月下旬、国連軍が再反攻を開始すると韓国第1師団も北進を再開し、2月初旬に漢江南岸に進出した。 これらの期間中にで捕えた中国軍捕虜を尋問すると、自分の所属する部隊の師団長は、満州国軍時代に戦術家として有名だった王家善であり、連隊長は軍官学校時代の区隊長だった傳連和であると聞いて驚いたという。 1951年3月中旬、韓国第1師団が共産主義陣営からソウルを奪還。 軍団長 [ ] 休戦交渉国連軍代表団。 1951年7月10日撮影。 左から三人目。 1951年7月10日から開城(ケソン)で始まった北朝鮮との休戦会談では、国連軍の要請で第1軍団長のまま韓国軍代表として参加。 この人選には韓国軍の推薦もあったが、東海岸の作戦で白をよく知っていた ()中将と少将の推奨によるものが大きかった。 1951年9月に韓国軍代表を李亨根少将と交替して第1軍団に戻った。 1951年11月、戦況が安定してくると、南部地域での共産パルチザンによる治安悪化が問題となった。 で智異山に逃れた勢力やと、スレッジハンマー作戦による北朝鮮軍崩壊の際に山岳地帯に残った残存北朝鮮軍部隊が集合して「南部軍」を形成していた。 1951年2月に治安作戦にあたっていた第11師団隷下の一部部隊がを引き起こし、一般市民に多くの犠牲者が出ていたため、討伐作戦の経験者である白善燁が任に就いた。 第1軍団より首都師団、アメリカ第10軍団より韓国第8師団を抽出して白野戦戦闘司令部が新設された。 推定で5万人の勢力になっていた共産ゲリラの討伐作戦は1951年12月1日より1952年3月14日まで行われた。 作戦終了後、に孤児院を建てた。 この白野戦戦闘司令部は首都師団と共に新設される軍団を構成する中核となり、1952年4月に白善燁が軍団長となる第2軍団を編成した。 第2軍団は首都師団(准将)、第3師団(准将)、第6師団(白仁燁准将)の3個師団とそれまで韓国軍に無かった軍団直轄の砲兵部隊から成り、中部戦線の金城正面を担当した。 参謀総長 [ ] 1952年7月、韓国陸軍参謀総長兼戒厳司令官。 全軍の行政改善、補充教育訓練、治安維持を統括し、教育施設17校を再創建する。 またこの間、捕虜の扱いに起因する休戦会談の難航に伴い、国連軍と政府の間に立ち、調整に務めた。 1953年1月31日、32歳で韓国陸軍初の大将に昇進。 1953年5月、戦後の安全保障体制整備の根回しのため訪米。 ワシントンでと面会した後、ニューヨークに向かいで生徒隊長をつとめていたマイケレス准将と再会したり、に面会した。 その後、アメリカ軍の実施学校を回り、最後にで軍レベルの補習教育を2週間受講することになったが、休戦会談妥結が早まりそうだ、との報告が入り、急遽帰国した。 1953年7月中旬、中共軍の最終攻勢が開始されると軍司令官の要請で韓国第2軍団(丁一権中将)の反撃を指導した。 休戦後 [ ] 1954年3月21日、新編の韓国司令官。 1957年5月、再度、陸軍参謀総長。 1959年2月、合同参謀会議議長。 韓国軍の近代化に従事。 1960年、により李承晩が下野し内閣が発足すると、を中心とする若手将校達による清軍運動 により、新政権の国防部長官の(陸士49期) が退役を求め、5月31日に第一軍司令官(陸士55期) と共に退役した。 退役後 [ ] 軍を退役後は、外交官として・・中近東各国・大使を歴任。 帰国後は大統領政権で長官に就任し、の建設、また1970年のの解決に尽力した。 過積載の貨客船が沈没し300名近い犠牲者を出したの責任を負って交通部長官を退くと 、国策会社の忠州肥料株式会社、次いで韓国総合化学工業株式会社社長となり1980年3月に退任するまで建築事業に従事した。 1986年、顧問となる。 政権時代に民間の後援会長として建設に参加。 1995年、30周年にあたる本年、日本国勲一等を受章した。 2010年、()を受賞。 2013年、名誉司令官に任命。 同年12月14日、実弟の死去。 2015年11月、国防大学創設60周年記念式で最初の名誉軍事学博士学位を受ける。 韓国国内での評価 [ ] 政権時代にすすめられた(親日派)弾劾運動では、によって発表されたに日本の韓国植民地統治に協力したとしてリストアップされた。 2009年、政権ではその功績を讃えて韓国軍史上初の「名誉」に推戴されることが内定した。 年譜 [ ]• 1920年 江西郡徳興里(現・)に生まれる。 1939年 卒業。 1940年 満州国入学。 1941年12月 卒業(9期生)。 以後、満州国軍歩兵第28団(連隊)勤務。 1943年2月 延吉県(現在の)に転任、任中尉。 、の上流部一帯で討伐に従事。 1944年 間島特設隊は北支那特別警備隊の指揮下に入り、東南の冀東地区にて討伐に従事。 1945年春 延吉に転属。 国境警備任務に就く。 1945年8月15日 終戦。 満州国軍での最終階級は中尉。 1945年9月 平壌へ帰郷。 民族派指導者のが組織した平安南道人民政治委員会で働き始める。 1945年12月下旬 金燦圭(のちの金白一)、崔楠根らと共に脱北。 1946年2月26日 入隊。 任中尉。 1946年3月 釜山に赴任し、第5連隊A中隊長、大尉に昇進。 1946年9月 第5連隊第1大隊長、少佐に昇進。 1947年1月1日 第5連隊長。 中佐に昇進。 1947年12月1日 第3旅団司令部参謀長。 1948年4月 統衛部情報局長兼国防警備隊総司令部情報処長。 1948年8月15日 大韓民国成立。 9月5日、が発足。 1948年11月 大佐に昇進。 1949年7月30日 第5師団長。 1950年4月23日 第1師団長。 1950年6月25日 朝鮮戦争勃発。 1950年7月25日 准将に昇進。 1951年4月6日 韓国第1軍団長。 1951年4月15日 少将に昇進。 1951年7月10日 休戦会談韓国軍代表を兼任。 1951年11月16日 白野戦戦闘司令官。 1952年1月12日 中将に昇進。 1952年4月5日 韓国第2軍団長。 1952年7月23日 韓国軍参謀総長兼戒厳司令官。 1953年1月31日 大将に昇進。 1953年5月 陸軍大学校総長兼務。 1954年2月24日 第1野戦軍司令官。 1957年5月18日 再度、陸軍参謀総長。 1959年2月23日 合同参謀会議議長。 1960年5月31日 陸軍を退役。 1960年7月15日 駐中華民国大使。 1961年7月4日 駐フランス大使。 兼、西欧・中近東・アラビア等17カ国大使。 1965年7月12日 駐カナダ大使。 1969年10月21日 交通部長官。 1971年1月25日 交通部長官を退官。 1971年6月 忠州肥料株式会社社長、次いで韓国綜合化学工業株式会社社長。 1980年3月 韓国綜合化学工業株式会社社長を退職。 1986年 国土統一院顧問。 1989年12月15日 初代星友会会長。 勲記 [ ]• 大韓民国• 太極武功勲章 - 1951年10月31日• 金星太極武功勲章 - 1953年4月5日• 乙支武功勲章• 忠武武功勲章• 金塔産業勲章• アメリカ合衆国各級勲章 7個• - 1950年11月13日• - 1951年2月7日• レジオン・オブ・メリット - 1953年4月29日• レジオン・オブ・メリット - 1955年2月8日• フィリピン国勲章 1個• 中華民国勲章 2個• 雲麾勲章 - 1960年1月25日• 大綬景星勲章 - 1961年7月3日• フランス国勲章 2個• タイ国勲章 1個• ベルギー国勲章 1個 著書 [ ]• 「韓国戦争一千日 白善燁回想録」ジャパン・ミリタリー・レビュー 昭和63年()• 「対ゲリラ戦 アメリカはなぜ負けたか」 平成5年()• 「若き将軍の朝鮮戦争 白善燁回顧録」 草思社 平成12年()/文庫 平成25年(2013年)• 「指揮官の条件 朝鮮戦争を戦い抜いた軍人は語る」 草思社 平成14年()• 「朝鮮半島対話の限界 危機克服への戦略構想」 草思社 平成15年()• 군과 나 (1988年-1989年連載)• 길고 긴 여름날 1950년 6월 25일 지구촌 1999年• 老兵이 걸어온 길 국방일보(2008年5月6日-2009年5月28日連載)• 조국이 없으면 나도 없다 The Army 2010年• 노병은 죽지 않는다 다만 사라질 뿐이다 책밭 2012年• 백선엽의 6. 25전쟁 징비록 프리미엄 조선(2013年11月8日-2015年11月26日連載)• 백선엽의 6. 25전쟁 징비록 책밭• アメリカ• 祖父 白楽舜( 백낙순):江西郡の役人、中規模の地主• 祖父 方興周( 방흥주):参領(少佐)、平壌鎮営の兵站指揮官• 父 白潤相( 백윤상):1896年生まれ、白楽舜の三男、卒業• 母 方孝烈( 방효열)• 姉 白福燁( 백복엽)• 弟 ( 백인엽):明治大学経済学部在学中に。 韓国陸軍中将• 従兄弟 白東燁( 백동엽):農林部林産課長、朝鮮戦争中に拉北され消息不明• 妻 盧仁淑( 노인숙)• 長女 白南姫( 백남희) 脚注と出典 [ ] 脚注 [ ] []• , 上巻 p. 456. では間島特設隊への配属を1942年秋としている• 大森林地帯でもある白頭山周辺は治安が悪く、馬賊同然のゲリラが補給闘争と称する掠奪や誘拐を行っていたが、1943年初頭には沈静化していた。 (, pp. 74-75)• 満州国軍出身、のちに韓国陸軍参謀総長、大韓民国国会議長。 満州軍出身、のちに韓国陸軍大佐、第1軍団長。 朝鮮戦争にて航空機事故死。 満州軍出身、のちに韓国陸軍中佐。 にてスパイとして銃殺。 1945年12月5日にアメリカ軍との連絡調整のため開校• 隷下に第11連隊、第12連隊、第13連隊• 隷下に第115師団、第116師団、第117師団• 隷下に第3師団、第9師団• 第3軍団に編合されていた第3師団は韓国第1軍団に、第9師団はアメリカ第10軍団に編入された。 若い将軍達のため、その下の士官達の昇進が遅れた事に反発した。 日本陸軍出身(少佐)、朝鮮戦争開戦時の首都警備司令官。 陸軍参謀総長時に李承晩批判を行い辞任。 日本陸軍出身(大尉)、朝鮮戦争開戦時の第7師団長。 4・19学生革命で自ら退任したとも。 京郷新聞で連載されていた内容をまとめて単行本として出版したもの。 中央日報で連載されていた内容をまとめて単行本として出版したもの。 プレミアム朝鮮( 프리미엄 조선)で連載されていた内容をまとめて単行本として出版したもの。 出典 [ ] []• 115. , 上巻 p. , p. , p. 71 ff. , 上巻 p. 456. , p. , p. , p. 101. 150. 152. , 上巻 p. 153. 154. 457. , p. 130. , p. 161. , p. , p. 199. , p. 205. , p. , p. , p. 212. , p. 32 ff. , 下巻 p. 267. , 下巻 p. 258. 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- 1959年2月22日 次代: 先代: - 大韓民国陸軍第1軍司令官 初代:1954年 - 1957年 次代: 先代: 大韓民国軍合同参謀会議議長 第4代:1959年 - 1960年 次代:.
次の()大統領はこのほど、6・25戦争()について、「の侵略に打ち勝ち、のーを守った」と述べた。 多くのメディアが発言を大きく報じた。 1面トップで扱った新聞もあった。 当たり前のことを言っただけなのだが、文大統領の発言でなければ、これほど大きくは報じなかったはずだ。 文大統領が3年前にヒマラヤで書いた文章がある。 6・25戦争に米軍の一員として参戦した韓国系米国人キム・ヨンオク大佐を伝説的英雄として称える内容だ。 しかし、引っ掛かる部分がある。 勇敢な米軍大佐の話をしていて、突然卑怯(ひきょう)な国軍指揮官と比べるくだりだ。 「キム大佐が命にかかわるほどの重症を負いながら、素晴らしい戦功を立てたその時期、韓国軍の一部の幹部指揮官は戦闘で連戦連敗し、前線を崩壊させたのに勲章を受け取った。 指揮を部下に押し付け、前線を無断で離脱した指揮官もいた。 それによって、国連軍から屈辱の軍団解体措置を受け、作戦権が米軍に移管される口実を与えた」 国軍指揮官に関する言及はここまでだ。 「一部」について語るが、「多数」の指揮官については沈黙した。 勇敢な米軍と卑怯な韓国軍。 その構図を明確にしなければ、戦時作戦統制権といった安全保障・戦略問題を民族感情の問題に仕立てることができないからだろう。 文大統領は同じ文章で、韓国軍のことを「まだ作戦権を米軍に委ね、米軍に依存しなければならない弱い軍隊」と書いた。 それならば、現在の文政権下の国軍も弱くて卑怯な存在なのか。 作戦権の移管を受け、米軍から独立すれば、強くなり、勇敢になれるというのか。 一歩踏み込んだ特定勢力による「米軍撤退」の主張とも一脈通じる。 彼らは断片的な事件で全体を規定する。 無能な国軍のせいで作戦権が失われたという主張がそうだ。 作戦権が6・25戦争勃発直後、統合的作戦遂行のために戦略的に国連軍に委任されたことは学者ならば誰でも知っている。 文政権が言う卑怯な敗北とは江原道での「県里の戦い」を指す。 当時作戦権の回収は戦闘現場で例外的に認められていた権限にすぎなかった。 戦闘は屈辱的だったが、その結果、米軍の集中訓練が実施され、国軍は戦争後半に前線の3分の2を担う強い軍へと成長した。 断片的な事件を総合すると、国軍の歴史的な地位は異なってくる。 国軍の卑怯さを指摘する勢力の主張は事実の前に崩壊する。 真実は69年前に国軍の先鋒として戦った老兵が蓄積してきたからだ。 ペク・ソンヨプ氏は6・25戦争当時、韓国を守った戦争の英雄だ。 ペク氏の功績は以降の理念的混乱の中で出した著書によるところも大きい。 1989年に出版した「軍とわたし」だ。 それを読むと朝鮮時代の文臣、柳成竜(リュ・ソンリョン)の「懲ヒ録」(ヒは比の下に心)を思い出した。 うそと誇張を取り除き、栄光と恥辱を同時に記述した現場と体験の記録だ。 懲ヒ録がなかったならば、(イ・スンシン)をはじめとする朝鮮の英雄の歴史的存在感は消え去っていたことだろう。 明軍を支持し、を無視した宣祖(ソンジョ)の不釣り合いな世界観は「勇敢な米軍と卑怯な韓国軍」という構図に似ている。 6・25戦争で米第8軍司令官を務めたリッジウェー氏とヴァン・フリート氏は「軍とわたし」の序文に「この本のおかげで韓国軍が本分を果たさず、無能だったという残忍で誤った判断を正す証拠が見つかった」と書いた。 文大統領がこの本を読んでいれば、ヒマラヤであんな文章は書けなかっただろう。 どんな事大主義的も柳成竜を超えられなかったように、国軍の歴史を歪曲(わいきょく)するいかなる試みもペク・ソンヨプ氏を超えられなかった。 最近特定勢力がペク・ソンヨプ氏をたたいているのは、国軍の過去を「」に仕立てることに失敗した勢力による狂ったような毒気と言える。 神父の咸世雄(ハム・セウン)氏はペク氏のことを「謝罪しない悪質な」だと攻撃した。 野党代表がペク氏を訪ね、国家安全保障に懸念を表明した直後のことだった。 筆者が咸氏の名前を初めて聞いたのは35年前、咸氏が自分の運転する車で7歳の子どもをひいた死亡事故を起こした時のことだ。 自責の念に駆られた咸氏が神父としてやっていけるか真剣に心配していた信者の姿を覚えている。 純真な時代だった。 その後、咸氏は猛烈に他人の過ちを追及するようになる。 80代になった今でも100歳を超える人に口を慎まない。 死亡事故を起こしたせいで咸氏を「殺人者」呼ばわりすることはできないように、命令を受けて転戦した部隊の性格を根拠に「悪質な」などと攻撃してはいけない。 ところが、咸氏はそういう常識的なものさしを自分と取り巻きにだけ適用する。 ペク氏を攻撃する人の多くの精神状態と身の処し方も咸氏と似ている。 鮮于鉦(ソンウ・ジョン)副局長兼社会部長 hitonoumi.
次の大韓民国在郷軍人会(郷軍)は27日、6・25戦争の英雄であるペク・ソンヨプ予備役大将の死後の国立墓地への埋葬を巡る議論が続いていることについて「韓国軍設立の元老たちを親日派として非難するのは、大韓民国国軍を否定すること」との立場を表明した。 郷軍はこの日声明を発表し、その中で「ペク将軍は韓国軍設立メンバーで、6・25戦争当時最悪の戦闘として知られる洛東江防御戦『多富洞の戦い』を勝利に導いた主役でもあり、仁川上陸作戦成功後は平壌奪還作戦を成功させた国の内外でも認められる戦争英雄だ」とした上で上記の考えを示した。 郷軍は「日帝の強圧的な体制下において、やむなく日本軍に入隊したという理由だけで『親日派』『反民族主義者』とレッテルを貼るのは行き過ぎた評価であり、事実の歪曲(わいきょく)だ」「解放後、韓国軍設立に参加し、金日成(キム・イルソン)の違法な南侵から始まった6・25戦争では命をささげ、国を守り抜き共産化を防いだ戦争英雄の名誉を踏みにじる反民族的行為だ」と主張した。 その一方で「一部の政治家による歴史歪曲と護国英雄たちの名誉を傷つける反歴史的行為が続く場合、1000万人郷軍は先頭に立って積極的に反対運動を推進するだろう」との考えも示した。 これに先立ち13日、国家報勲処の職員らがペク・ソンヨプ予備役大将を訪ね「国立墓地が改装されれば、ペク将軍が顕忠院に埋葬された後に再び移葬することにならないか心配している」という趣旨の発言を行ったことが分かり問題になっている。 報勲処は「ペク将軍は現行法上、国立墓地の埋葬対象だが、ソウル顕忠院は埋葬地の整備が全て終わったため、大田顕忠院に埋葬されるかもしれない」とした上で「『移されるかもしれない』という発言は担当職員が行ったのではなく、最近になって一部の団体が推進している国立墓地法改正を巡る現状をペク将軍と共有したものだ」と説明した。 北朝鮮の人権に関連して韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領へ公開書簡を送った非営利団体(NGO)に対し、北朝鮮のハッカー組織がフィッシングメールを送っていたことが分かった。 文大統領を攻撃する書簡を送った国際人権団体に北朝鮮が報復ハッキングを加えたものと推定されている。 北朝鮮人権団体は今月18日にハッキングメールを受け取り、黒幕は北朝鮮のハッカー組織「キムスキー(kimsuky)」とみられる。 セキュリティー専門会社「イスト・セキュリティー」のムン・ジョンヒョン理事が20日、本紙の電話取材に応じて明らかにした。 ムン理事は「ハッキングによる電子メールアカウントの奪取を試みたものと分析される」と語った。 韓国内外67の人権団体は今月16日、文大統領に、北朝鮮の人権改善を求める書簡を送った。 ところがその二日後、公開書簡に参加した代表団体である北朝鮮反人道犯罪撤廃国際連帯(ICNK)のクォン・ウンギョン事務局長名義で作られたハッキングメールが、書簡発送参加団体の代表宛に発送されたという。 ハッカーが送ったフィッシングメールの添付ファイルをクリックすると、外国の北朝鮮人権団体を装ったサイトにつながり、ログインしなければならないという名目で、ユーザーの電子メールアカウントとパスワードを要求してくる。 ここに電子メールアカウントとパスワードを入力すると、関連情報がハッカーに渡るという仕組みだ。 ムン・ジョンヒョン理事は「フィッシングメールの送り主のIPアドレスは、これまでキムスキーが使ってきた仮想私設ネットワーク(VPN)のIP帯域とぴったり一致する部分がある」として、「従来キムスキー・グループが使ってきた電子メールアカウントとの類似性はかなり高い」と語った。 今回ハッキングを敢行したキムスキー・グループは、北朝鮮の国家保衛省所属といわれている。 「日本のコンサルティング業界初の外国人CEO(最高経営責任者)」「日本のコンサルティング業界4年連続年俸王」 デロイトコンサルティングジャパンCEOを務めた宋修永(ソン・スヨン)韓国デロイトコンサルティング代表に付けられる修飾語だ。 彼はやはり自身を「日本の100大企業の心臓部を隅々まで覗いて見た唯一の韓国人」と紹介した。 宋代表は「韓国企業家がともすると国政監査の対象となり政治家らの怒号を聞き縄で縛られ調査される姿を見てグローバルバイヤーが韓国を避け日本に行っているという事実を知っているか」と尋ねた。 その上で「韓国企業が厳しくなるほどその恩恵を受ける日本企業は競合相手の没落を楽しんでいる」とした。 企業が1日でも早く競争力を固めなくては韓国は過去の日本と同じ危機を経験することになるというのが彼の警告だ。 20年ぶりに故国に戻り1日から韓国デロイトコンサルティングの指揮を取る宋代表とソウル・汝矣島(ヨイド)の国際金融センター(IFC)にあるデロイトコンサルティング本社で会った。 「世界の景気が下降傾向に進んでいるのは明らかです。 米国と中国の貿易戦争は『時限爆弾』になりかねません。 しかし各国政府が金利調整などで事前管理をうまくやっており急激に悪化することはないとみています。 「韓国はいまさまよっています。 成長率のような主要景気指標は良くないのが確実です。 分配や雇用指標をめぐっては与党と野党が良いだの良くないだのと争っています。 政府と政界では企業を支援するとしながらも起業できる環境を作らないでいます。 その狭間で韓国の多くの企業はまごついています。 「日本で20年間過ごしながら政権が替わったからと特定企業がターゲットになり行政調査や検察捜査を受けるのを見たことがありません。 企業問題を政治争点化するのを見ることは難しいです。 日本では政治家が企業家を尊重します。 アベノミクスが本格的に稼動してから日本は企業規制を大幅に緩和しました。 昨年12月18日の放送分で、金於俊氏は「たまに保守陣営のユーチューブ動画を見ているんです。 コメディーだと思って」と発言した。 正しい未来党の河泰慶(ハ・テギョン)国会議員がスタジオ出演し、「韓国社会であまりに二極化が進み、互いに交流がない」との分析したことに対する反応だった。 野党自由韓国党の代表選について、河議員が「(劣勢とされた)洪準杓(ホン・ジュンピョ)を支援してくれませんか」と尋ねると、金於俊氏は「自由韓国党が道を誤るようにか」と言って、再び大笑いした。 自由韓国党の洪準杓元代表、別名「太極旗部隊」と呼ばれる保守支持者は、この番組の司会者と出演者にいじられるのは恒例だ。 「金於俊のニュース工場」は普通の時事番組では見られないような刺激的、扇動的な発言で人気を集めた。 韓国リサーチによると、ニュース工場は昨年10月に首都圏のリスナーを対象に実施した調査で、聴取率11. 6%を記録し、地上波ラジオ局の番組でトップに立った。 2位のSBS「2時脱出カルトゥーショー」(9. 2%)に2ポイント以上の差を付けた。 今年1月の調査でも0. 1ポイント差でカルトゥーショーとトップを争った。 時事番組がラジオの聴取率争いで上位に入ること自体が異例だ。
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