映画のストーリー 結末の記載を含むものもあります。 1813年。 合衆国陸軍のジャクスン将軍は、南部の開拓民を襲うインディアン・クリーク族鎮圧のため西部男デイビー・クロケット(フェス・パーカー)に協力を求めた。 快男児デイビーは以来親友ラッセル(バディー・エブセン)とともにジャクスンの許に身を投じ、転戦数カ月デイビーは遂に神出鬼没のクリーク族の首長・赤い杖をフロリダの奥地に見つけた。 デイビーは無益な血を流さぬため赤い杖に一騎打ちを申し込み、これを押えつけた。 そして彼は戦いは互いの不幸であると赤い杖を説得、休戦に同意すればインディアンの権益を守るために働こうと語った。 赤い杖も潔く承知、ここに戦いは終わり政府とインディアンの間に平和協定が結ばれた。 デイビーは妻子の待つ故郷テネシーに帰ったが翌年、新しい土地に移住するべく再びラッセルと旅に出た。 その途中デイビーは、とある村でインディアンをいじめる乱暴者を倒し、村の治安官に推されたことから、ここに永住の決意を固めた。 ところが家族を呼ぼうとした矢先、彼は妻の死を知らされた。 しかし彼は悲しみを乗越え友人たちの勧めで州議会議員に立候補した。 見事当選したデイビーは、着なれた鹿皮服もそのまま州都ナシュヴィルに現れた。 その日、デイビーは、かつてジャクスン将軍の参謀であったノートンの訪問を受けジャクスン将軍の大統領選挙出馬応援と、デイビーの国会議員出馬を懇請された。 デイビーの正義と友愛は民衆に歓迎され、やがてジャクスンは大統領に、デイビーは国会議員に当選した。 その頃、南部ではインディアン保護政策に反対する分子が策動していたが、これと気脈を通ずるノートンは、デイビーが煙たく、彼を親善使節として各州に派遣したその留守にインディアン権益制限法案を通そうと企てた。 これを知ったデイビーは国会にかけつけ堂々と正義の所信を述べ、法案を流させてしまった。 しかしデイビーは政治が自分に合わぬことを悟り再び旅に出ることにした。 そして1836年。 デイビーはメキシコ軍のテキサス侵入に当り、圧政から立ち上がろうとするテキサス開拓民の間に身を投じアラモの戦いでは壮烈な奮戦ぶりを示した。
次の50年史はどこまで書いてたのか判然としなくなってきました。 たしか1962年10月のうたの紹介をしていたと思いますので『デビークロケットの歌』をみてみることにしましょう。 曲自体は有名で検索すると、いろんなバージョンを聴くこともできたりします。 ただ、みんなのうたバージョンについては放送出版協会編の楽譜集にも水星社編の楽譜集にも収録されていない幻の作品になっていました。 今回発掘された音源を聴く機会がありましたので、そちらを紹介していきましょう。 goahead. htm。 三つのときに熊退治したかどうかは定かではないですが、後に大統領になるアンドリュー・ジャクソンの下でインディアンの討伐に参加したり、テネシー州から下院議員に選出されたりしたのは実話のようですね。 みんなのうたバージョンでは、25番の歌詞が5番に圧縮されています。 西部の風景や家族のことを歌ったくだりは省略されていますが、熊退治、鉄をも曲げる怪力、大酋長と一騎打ち、議員選出のくだりは簡潔ながら要所は押さえたつくりになっています。 多勢に無勢に立ち向かった、西部劇らしい戦いとして映画にもよく取り入れられています。 この戦いに参加したデビー・クロケットはついに捕らえられて処刑されてしまいました。 アメリカ人にとって西部の大自然やそこで展開されたフロンティアスピリットは魂の故郷といっても過言ではないでしょう。 デビー・クロケットはその一つの象徴として親しまれています。 日本人にとってはアメリカ西部とか特に魂の故郷というわけではないのでしょうけど、義理人情に厚い浪花節なところは親しみやすいポイントでしょうね。 弘田三枝子さんのこぶしをきかせた歌い声はちょっと演歌っぽくもあります。 「ところが奇跡か大レース」とか「走れー走れーコウタロー」のあたりは特によく似てますね。 『コウタロー』の方があとなので参考にして作ったのかもしれませんが、個人的には『コウタロー』に似た曲として、一層なじみ深い作品です。 『デビークロケットの歌』 作詞:保富康午 作曲:バーンズ うた:弘田三枝子 編曲:広瀬健次郎 動画:久里洋二 初回放送:1962年10月 3年前、You-tubeにアップされていた弘田三枝子版は、現在は抹消されているようです。 ただ、当方は発掘されたオリジナル・ヴァージョンを聞いていないため、何とも判断できませんが、記録では62年の放送では弘田三枝子が単独で歌っていた(かすかな記憶でもそうです)のに対し、you-tube版では児童合唱団がバックについていたので、恐らく別録音か? とも考えています。 なお、コロムビア版LPの第2集(廃盤、未入手)のカタログに演奏者が<弘田三枝子・西六郷少年合唱団>と明記されて収録されていたので、あるいはこれと同一音源だった可能性もあります。 こちらもオリジナルでなかったとしても、貴重な音源には違いないので、現在視聴できないのは残念なのですが、いずれにしても、NHKの再放送をぜひ望みたいところです。 投稿: KPO 2016年6月 3日 金 01時07分.
次の解説 西部開拓の英雄デイビー・クロケットの一代記。 トム・ブラックバーンの脚本から「荒原の女」のノーマン・フォスターが監督、チャールズ・P・ボイルが撮影、ジョージ・ブランスが音楽を夫々担当した。 出演は、この作品で一躍人気者となったTV出身のフェス・パーカー、「夜の人々 1954 」のバディー・エブセン、他にハンス・コンリード、ヘレン・スタンリーなど。 ビル・ウォルシュ製作になるウォルト・ディズニー・プロ最初の西部劇。 1955年製作/93分/アメリカ 原題:Davy Crockett 配給:大映洋画部 ストーリー 1813年。 合衆国陸軍のジャクスン将軍は、南部の開拓民を襲うインディアン・クリーク族鎮圧のため西部男デイビー・クロケット(フェス・パーカー)に協力を求めた。 快男児デイビーは以来親友ラッセル(バディー・エブセン)とともにジャクスンの許に身を投じ、転戦数カ月デイビーは遂に神出鬼没のクリーク族の首長・赤い杖をフロリダの奥地に見つけた。 デイビーは無益な血を流さぬため赤い杖に一騎打ちを申し込み、これを押えつけた。 そして彼は戦いは互いの不幸であると赤い杖を説得、休戦に同意すればインディアンの権益を守るために働こうと語った。 赤い杖も潔く承知、ここに戦いは終わり政府とインディアンの間に平和協定が結ばれた。 デイビーは妻子の待つ故郷テネシーに帰ったが翌年、新しい土地に移住するべく再びラッセルと旅に出た。 その途中デイビーは、とある村でインディアンをいじめる乱暴者を倒し、村の治安官に推されたことから、ここに永住の決意を固めた。 ところが家族を呼ぼうとした矢先、彼は妻の死を知らされた。 しかし彼は悲しみを乗越え友人たちの勧めで州議会議員に立候補した。 見事当選したデイビーは、着なれた鹿皮服もそのまま州都ナシュヴィルに現れた。 その日、デイビーは、かつてジャクスン将軍の参謀であったノートンの訪問を受けジャクスン将軍の大統領選挙出馬応援と、デイビーの国会議員出馬を懇請された。 デイビーの正義と友愛は民衆に歓迎され、やがてジャクスンは大統領に、デイビーは国会議員に当選した。 その頃、南部ではインディアン保護政策に反対する分子が策動していたが、これと気脈を通ずるノートンは、デイビーが煙たく、彼を親善使節として各州に派遣したその留守にインディアン権益制限法案を通そうと企てた。 これを知ったデイビーは国会にかけつけ堂々と正義の所信を述べ、法案を流させてしまった。 しかしデイビーは政治が自分に合わぬことを悟り再び旅に出ることにした。 そして1836年。 デイビーはメキシコ軍のテキサス侵入に当り、圧政から立ち上がろうとするテキサス開拓民の間に身を投じアラモの戦いでは壮烈な奮戦ぶりを示した。
次の