イギリスとアメリカの思惑 ドイツの勢いに押されたイギリス。 もはや、状況を打開するにはアメリカを参戦させるしかありません。 しかし、アメリカのルーズベルト大統領は 「戦争しない」ことを公約に掲げて当選していました。 そのため、ドイツの同盟国である日本が、アメリカと戦争するように画策します。 一方、アメリカのルーズベルト大統領。 イギリスを助けたいと考えていました。 また、アジア進出のためには日本が邪魔だとも考えていました。 しかし、「戦争しない」ことを公約に掲げて大統領になったため、自ら戦争を起こすことはできません。 そこで、日本に圧力をかけます。 これを耐えに耐えた日本ですが、さらにABCD包囲陣が敷かれます。 America(アメリカ)・ Britain(イギリス)・ China(シナ)・ Dutch(オランダ)による囲い込みで、日本にはいっさい 石油が入ってこなくなりました。 このままでは、戦車も戦闘機も戦艦もエネルギー切れで動かなくなります。 それはそのまま、 全面降伏と欧米による植民地支配を意味していました。 残された石油は約半年分。 これが尽きれば日本は戦うことなく支配されてしまいます。 そのため、なんとかアメリカと交渉してABCD包囲陣を解いてもらおうとしますが、無理難題を記した ハル・ノートが突き付けられます。 これは実質、アメリカの宣戦布告でした。 () 「石油さえ確保できれば開戦は避けられるのに・・・」 こうした日本海軍の思いは見事に打ち砕かれ、日本は太平洋戦争へ突入します。 日本vsアメリカ 戦争がはじまると日本はイギリスやオランダ、フランスに圧勝。 アジアにいた欧米の軍隊を次々と倒していきます。 同時に、アジアで一つの大きな「経済圏」を作ろうと考えた日本は、 アジア諸国の独立を支援します。 ヨーロッパ相手に敵なしだった日本。 もはや、日本とまともに戦えるのはアメリカだけでした。 そして、1942年。 ミッドウェー海戦。 日本はこの戦いで惨敗。 戦力を大きく失い、一気に敗戦へと進んでいきます。 劣勢が続く日本。 もはや資源もない。 しかし、アジア各国を植民地支配し搾取している欧米に屈すれば、日本も植民地支配されることは確実。 こうして、未来の日本を思う青年たちが神風特攻隊となり、命と引き換えに戦果をあげます。 アメリカ兵は、戦闘機が突っ込んでくる様子に恐怖しました。 日本には資源も人材もなくなり、敗戦が目前に迫ります。 そんななか、アメリカ・イギリスはこれまでの戦争の原則を大きく変えます。 それが、 東京大空襲と 原子力爆弾の使用です。 当時、民間人を狙う攻撃は常識としてあり得ませんでした。 ハーグ条約でも民家を狙う爆撃を禁止していますし、ヒトラーですら市街地の攻撃を禁止していました。 しかし、アメリカはまるで殺虫剤をまくかのように日本の都市に爆撃を開始。 民間人を無差別に殺していきます。 そして、極めつけは原子力爆弾。 戦争をはやく終わらせるためという言い分で使用された原子力爆弾ですが、それならば2発も落とす必要はありません。 実際のところは、アメリカ人に大きな恐怖を与えた有色人種への 報復と 人体実験、共産主義国ソ連への 威嚇でした。
次の風が吹くと、ホコリが舞い上がり、人の目に入る。 すると、盲人が増えて、三味線がたくさん売れる(盲人は三味線で生計を立てるので)。 三味線は猫の皮を材料にするので、猫がたくさん捕獲される。 猫はネズミの天敵なので、ネズミの数が増えて、桶をたくさんかじる。 結果、桶屋が儲かる ・・・ というわけだ。 話としては面白いが、真に受ける人はいないだろう。 仮に「桶屋が儲かった」としても、原因は他にいくらでもあるから。 たとえば、銭湯ブームが起こったとか、公共事業が増えて洗濯物が増えたとか、景気が良くなったり、人口が増えても、桶の需要は増えるだろう。 しかし、「風が吹いた」が原因になるとは思えない。 たとえ、そのとき、風が吹いていたとしても。 このように、ある結果が出て(桶屋が儲かった)、その原因が複数想定されたとき(風が吹いた、銭湯ブーム ・・・)、それぞれの原因が「本当の原因」である確率を求めるのが「ベイズ理論(ベイズ確率)」である。 そして今、このベイズ理論が熱い。 ビル・ゲイツが「21世紀のマイクロソフト社の戦略はベイズ・テクノロジー」と宣言し、グーグルがベイズ・テクノロジーを取り入れて大成功し、ハード屋のインテルまでがベイズ型アプリケーションのツールを開発中という。 猫もしゃくしもベイズ理論というわけだ(なんか偉そう)。 これは、おちおちしていられない、零細企業のメンツにかけても頑張らなくては ・・・ というわけで、「IFの歴史」を創造する「」にベイズ理論を採用することにした。 歴史を創造するエンジンの確率論的推論に使うのである。 ところが、問題が2つ。 まず、ベイズ理論は、そのままでは使えない。 さらに、「IFの歴史」を真面目に計算すると、スパコンなみの計算力が必要になる。 現状では、最高スペックのパソコン、プレステ4でも能力不足。 小数計算がゼンゼン追いつかないのだ。 そこで、専用マシンが必要になるのだが、貧乏な零細企業は「自作パソコン」で組むしかない。 とはいえ、高価で電力バカ食いの浮動小数点演算ユニット(少数計算専用ハード)が何枚(何十枚?)も必要になる。 仮に、実装できたとしても、電源ユニットの容量はハンパではない。 そうなると、価格も全然ハンパではない。 「IFの歴史」を見るために、ん百万円(ん千万円?)払う人いる? いません ・・・ ということで、ケチな商売はあきらめて、定年退職後、または会社をクビになったら、趣味でやるしかないかなぁ~ おっと、話はそこではない。 桶屋が儲かったら、原因は「風が吹いた」? いや違う。 太平洋戦争はなぜ起こったか? ベイズ理論風に言うなら ・・・ まず、「太平洋戦争」という結果があって、想定される原因をリストアップし、それぞれが太平洋戦争の本当の原因である確率を求める。 その中で、確率が高い原因が「尤(もっと)もらしい」原因というわけだ。 つまり、事象の原因を、ピンポイントで特定するのではなく、確率で表すというのがミソ。 その分、科学的といえるだろう。 日米が戦った太平洋戦争は後者である。 地球の双極で起こったこの2つの戦線に、何か関係があるかというと、これが大ありなのだ。 もし、第二次世界大戦がなければ、太平洋戦争が起こる確率は半減していただろう。 1939年9月1日、イギリス首相チェンバレンの不用意な約束が引き金となり、第二次世界大戦が始まった。 その後、国民に愛想をつかされたチェンバレンは失脚し、戦争屋チャーチルが首相に就任した。 ところが、チャーチルの勇ましい演説とは裏腹に、フランスはドイツ軍に2週間で占領され、大陸に駐屯していたイギリス軍は命からがら、イギリス本土に逃げ帰った。 その結果 ・・・ イギリス軍の参謀たちは、単独ではドイツに勝てないと悟り、首相のチャーチルに泣きついた。 「アメリカが参戦しない限り、わが国に勝ち目はありません」 そこで、今度はチャーチルがアメリカ合衆国大統領ルーズベルトに泣きついた。 アメリカが参戦してくれないと、われわれはおしまいだと。 ところが、アメリカは「モンロー主義」を標榜していた。 モンロー主義とは、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが唱えた外交方針である。 内容は、 「アメリカ合衆国はヨーロッパの紛争に対して中立を守る」 しかも、1935年には「中立法」が制定され、参戦はおろか、戦争中の国に武器はもちろん、軍需物資を輸出することもできないのだ。 さらに、史上初の「大西洋単独無着陸飛行」で世界の英雄となったも、ドイツとの戦争に強く反対していた。 というのも、リンドバーグはドイツを訪問したとき、下にも置かない「おもてなし」をうけ、ヒトラーの指導力とドイツの目覚ましい復興に好感をもったのである。 そして、何より、アメリカ国民が戦争を望んでいなかった。 それはそうだろう。 遠く離れたヨーロッパの、しかも、他人の戦争に、なぜ、アメリカ人が血を流さなければならないのか? というわけで、この時点で、「アメリカの参戦」はありえなかった。 もちろん、アメリカが参戦しなければ、イギリスは「おしまい」である。 というのも ・・・ まず、1943年9月の連合軍のイタリア侵攻と、1944年6月のノルマンディー上陸作戦が歴史から消える。 いずれの戦いも、アメリカ軍なしでは成立しないからである。 その場合、ソ連が連合国側を離脱する可能性がある。 この「独ソ戦」は、史上最大の陸上戦で、ソ連側の戦死者は2000万人ともいわれる(民間人が多い)。 一方の、ドイツ側の戦死者は数百万人(ほとんどが軍人)。 想像を絶する犠牲者の数である(太平洋戦争の日本の犠牲者は200万人)。 そのため、ソ連のスターリンはアメリカとイギリスに強い不信感をもっていた。 ソ連がこれだけ犠牲を払っているのに、アメリカとイギリスは何もしてくれない。 ソ連とドイツが共倒れになるのを待って、漁夫の利を狙っているのではないか? うまいこと言って、我々を利用しているだけではないか! そんな疑心暗鬼にかられたスターリンは、アメリカのルーズベルトとイギリスのチャーチルに、第2戦線を構築するよう、再三迫った。 第1戦線が「ドイツ Vs ソ連」で、第2戦線が「ドイツ Vs アメリカ・イギリス」である。 実史のノルマンディー上陸作戦は第2戦線にあたる。 では、アメリカが参戦せず、ノルマンディー上陸作戦が幻となったら、歴史はどう変わったのか? 第2戦線は画に描いた餅となり、業を煮やしたスターリンはドイツと休戦するだろう。 ソ連単独では、大敗はないが、大勝もない。 つまり、不毛の消耗戦が延々と続く。 そんなことは、スターリンもヒトラーも望まないだろう。 実史では、独ソの休戦交渉は、中立国スウェーデンを介して、ひかえめに行われたが、この場合、ガチになる。 もし、独ソ休戦が実現すれば、ドイツは占領したヨーロッパ全土の生産力をフル稼働し、軍備を極大化させるだろう。 その後、ドイツ軍はイギリス本土に侵攻する。 実史で中止された「あしか作戦」である。 その場合、イギリスのシナリオは2つ。 チャーチルが徹底抗戦を訴えて、王室と政府をカナダに移し、掛け声だけの抵抗を続けるか、チャーチルが失脚して、イギリスがドイツと講和するかである。 いずれにせよ、ヨーロッパの戦争は終わる。 もちろん、勝者はヒトラーだ。 ただし、独ソ戦は必ずぶり返す。 そのときはソ連も準備万端なので、壮絶な消耗戦になるだろう。 ところが ・・・ 実史では、ありえない「アメリカの参戦」が現実になった。 あれだけ参戦を妨げる条件がそろっていたのに、なぜ? アメリカ合衆国大統領がフランクリン・ルーズベルトだったから、その一点に尽きる。 さらに、副大統領のジョン・ナンス・ガーナーは頑迷な孤立主義者で、他人の戦争に関わるべきではないと強く主張していた。 では、一体何が起こったのか? ルーズベルトが歴史をひっくり返す、「一石三鳥(二鳥ではなく)」の手を思いついたのである。 具体的には ・・・ 日本に先に銃を抜かせ、日米戦争を引き起こす。 日本とドイツは軍事同盟を結んでいるので、これで、ドイツとの戦争も視野に入る。 結果、イギリスを助けることができるわけだ。 さらに、日米戦争が実現すれば、大嫌いな日本も叩ける。 じつは、ルーズベルトは中国びいきだった。 ルーズベルトのフルネームは「フランクリン・デラノ・ルーズベルト」、真ん中の「デラノ」は母方の姓である。 デラノ家は、中国のアヘン貿易で財をなした家系だった。 中国(アヘン)なくして、今のデラノ家はない。 だから、ル-ズヴェルトは中国に好意をもっていたのである。 ところが、その中国が日本と戦争をしている(日中戦争)。 だから、日米開戦にこぎつければ、イギリスの敵ドイツと、中国の敵日本、両方やっつけることができる。 つまり、一石二鳥。 では、あと一つは? じつは、アメリカのモンロー主義は「ヨーロッパに中立」であって、「アジアに中立」とはいっていない。 この頃、アメリカは「環太平洋圏」を構想していた。 太平洋を囲む南北アメリカ、中国、日本、東南アジアの地域で、アメリカが主導権を握ろうとしていたのだ。 ところが、この構想は日本がアジアを主導する「大東亜共栄圏」と競合する。 アメリカは中国侵出で、ヨーロッパ列強に後れを取ったが、あきらめたわけではなかった。 中国の権益を虎視眈々と狙っていたのである。 その中国を日本が攻撃している ・・・ ムカツク話だ。 さらに、アメリカは日露戦争の勝利で日本が獲得する南満州鉄道の権益まで狙っていた。 1905年8月、アメリカの鉄道王E・H・ハリマンが来日し、南満州鉄道を日米で共同管理しようと申し出たのだ。 ところが、この時点で、日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」はまだ締結されていない。 気の早い話である。 ところが、ポーツマス条約をまとめて帰国した小村寿太郎外相は、これを聞いて仰天した。 そして、「日米共同管理」に猛反対したのである。 南満州鉄道は、日露戦争で何万人という日本人の命、さらに多額の戦費の引き替えに得たものである。 それをアメリカと分け合うとは、一体何を考えているのだ!と。 結局、小村の主張が通り、南満州鉄道の権益は日本が独占することになった。 当然、アメリカは面白くない。 実際、この時期を境に、アメリカは日本に敵対していく。 そして、その敵意は、1920年代に入って一気に表面化する。 まず、日本とイギリスの日英同盟を破綻させた。 日英同盟は、1902年に調印され、その後、1905年、1911年と継続更新された。 ところが、1923年8月、イギリス側が同盟更新を断ってきたのである。 これは、アメリカの強い要望によるものだった。 さらに、翌年の1924年7月、アメリカで「排日移民法(ジョンソン=リード法)」が施行された。 アジアからの移民が全面的に禁止されたのである。 日本人ではなく「アジア人」だから、ただの被害妄想でしょ? ノー! 当時、アジアからの移民の大半は日本人だった。 仮想敵国日本を狙い撃ちにしたのである。 ということで ・・・ 日本に先に銃を抜かせ、日米戦争を始めれば、 1.イギリスを助けることができる。 2.中国を助けることができる。 3.環太平洋圏を実現できる。 一石三鳥! ところが ・・・ ルーズベルトが戦争をしたい理由はまだあった。 自分の失政を隠蔽(いんぺい)するためである。 彼が第31代アメリカ大統領に就任したのが、1929年3月。 その7ヶ月後に、ニューヨーク・ウォール街の株式大暴落が起こっている。 この大暴落は、世界中に飛び火し、資本主義の崩壊さえささやかれるほどだった。 歴史上有名な世界大恐慌である。 定説によれば ・・・ フーヴァーは無為無策で、大不況を悪化させるばかりだった。 結果、1932年の大統領選で、歴史的大差でルーズベルトに敗北。 その後、ルーズベルトは、ニューディール政策(公共事業にカネをバラまく)を実施し、アメリカは大不況から脱した。 さらに、第二次世界大戦に参戦し、悪の枢軸ドイツと日本を打ち破った。 その功績で、アメリカ政治史上、唯一人、四選されたのである。 つまり、ルーズベルトは歴史に残る偉大な大統領、一方のフーヴァーはマヌケというわけだ。 ところが ・・・ いずれも事実ではない。 まず、ニューディール政策は失敗だった。 数字を見れば明らかだが、失業率が激減するのは1942年、日米開戦の1年後である。 つまり、1929年に始まる世界大恐慌は、戦争以外に解決方法がなかったのである(特に資源の豊かな国は有利)。 だから、ルーズベルトが偉大というわけでも、フーヴァーが無能というわけでもない(フーヴァーの無策は本当だが)。 一方、ルーズベルトは無能ではなかった。 この大不況がニューディール政策ではどうにもならないことに気づいたのである。 そこで思いついたのが、先の一石三鳥だった。 際限のない消費で、巨大な需要を生み出し、景気をV字回復させる ・・・ つまり、戦争経済。 とはいえ、6000万人の人命と引き替えにしたのだから、禁断の手か、悪魔の手か、どちらにせよ、ロクなものではない。 じつは、フーヴァーはこれに気づいていた。 ルーズベルトは運が良かっただけ、むしろ、あいつは悪党だ、それなのに、なぜ、オレだけが無能よばわりされるのだ? そんなこんなで、フーヴァーはルーズベルトが大嫌いだった。 事実、フーヴァーは、戦後来日したとき、進駐軍最高司令官マッカーサーにこう言っている。 「日米戦争は、ドイツと戦争するための口実だった。 実際、ルーズベルトのやり方は悪魔のそれだった。 主権国家なら到底呑めない条件を突きつけ(ハルノート)、日本に先に銃を抜かせる。 それが真珠湾攻撃だったのだ。 このとき、ルーズベルトは日本を卑怯者よばわりしたが、一体、どっちが卑怯者なのだ? こうして、アメリカは東アジアという「バックドア」から、第二次世界大戦に参戦することができた。 というわけで ・・・ 石油の輸出禁止、満州国建国、軍部の独走、何が起ころうが、「ルーズベルト大統領」が存在しない限り、アメリカの参戦はない。 もちろん、太平洋戦争も起こらない。 つまり、太平洋戦争の引き金を引いたのは、日本ではなく、アメリカ大統領ルーズベルトだったのである。 ここで、歴史のIF ・・・ 1933年2月15日、大統領に当選したばかりのルーズベルトは、シカゴ市長のアントン・サーマクとマイアミに遊説にでかけた。 そこで、ルーズベルトが演説していると、ジュゼッパ・ザンガラというイタリア移民が、ルーズベルトに向けて拳銃を乱射した。 ところが、不思議なことに、ルーズベルトには一発も当たらなかった。 代わりに、サーマクが銃弾をうけ、死亡したのである。 もし、ザンガラの乱射がほんのわずかにずれて、ルーズベルトに命中していたら ・・・ 世界の歴史は一変していただろう。 つまり、太平洋戦争も、第二次世界大戦も、真実が隠蔽(いんぺい)されている。 もっとも、「隠蔽」という表現は正しくないかもしれない。 頭隠して尻隠さず、すべて丸見えだから。 ではなぜ、日本とドイツだけが悪者にされるのか? 戦争に負けたから。 簡単な証明をしよう。 戦争が終わった後、日本とドイツは「戦争犯罪」で裁かれた。 日本は極東軍事裁判で、ドイツはニュルンベルク裁判で。 ところが、捕虜の虐待、民間人の虐殺などの戦争犯罪は、日本・ドイツのみならず、連合国もやっている。 その最たるものが、 1.1945年2月13日~15日のドイツの古都ドレスデンへの無差別爆撃(死者15万人) 2.1945年3月10日の東京大空襲(死者10万人) 3.1945年8月6日の広島原爆投下(最終的に20万人が死亡) 4.1945年8月9日の長崎原爆投下(最終的に15万人が死亡) いずれも、人口が密集する都市爆撃で、狙いは民間人の大量虐殺にある。 これが、民間人虐殺でないなら、一体、何が民間人虐殺なのだ? ところが、連合国側はこの件で一切裁かれていない。 それどころが、起訴さえされていないのだ。 つまり、今、世界を支配しているルールは、 「第二次世界大戦の勝者が正義、敗者が悪」 なのである。 とはいえ、今さら、アメリカや連合国を非難したところで、問題解決にはならない。 もちろん、お隣の国のように「1000年の恨み」を吹聴すれば、次の戦争を招くだけ。 愚かなことだ。 すべて終わったこと、これから平和な世界を築いていけばいいのだ。 しかし ・・・ 今の日本は、あまりに自虐的過ぎる。 太平洋戦争で日本は戦争を起こしました、だから、何を言われても、何をされても、文句は言えません ・・・ 過去を詮索(せんさく)すれば、非のない国など一つもないのに。 太平洋戦争は、日本の歴史始まって以来の「総力戦」だった。 200万人が犠牲になり、東京を初め、主要都市は焼け野原になった。 日本はそこから再出発したのである。 そして、今では、GDP世界第三位、ハイテク分野では世界トップクラス、さらに、ノーベル賞受賞者も18人で世界8位。 これほどの国なのに、なぜ、あれだけ卑屈になるのか分からない。 だから ・・・ 隣国が何を言おうが、どう思うがかまわないが、せめて、当事者の日本人だけは真実を知り、誇りを取りもどして欲しいのである。 軍部の暴走? そうではなく、「国民の暴走」。 たとえば、日本が満州事変を起こし、満州国を建国し、国際連盟を脱退し、国際的孤立を選んだとき、国民は政府と軍部を非難したか? ノー! 国民は「ちょうちん行列」で祝ったのである。 さらに、国際連盟の総会で、外相の松岡洋右が、 「日本政府は日中紛争で、国連に協力したのに、もう限界だ」 と大演説をブチあげると、帰国後、国民的英雄となった。 こんな大衆に迎合し、戦意を煽ったのがメディアだった。 有識者で、これに異を唱えたのは、東洋経済新報の石橋湛山(たんざん)ぐらいだった。 当時、松岡洋右が演説でブチ挙げた、 「満蒙(満州と蒙古)は我が国の生命線である」 が国民の流行語になったが、石橋湛山はこれに真っ向反対したのである。 「我が国の満蒙の特殊権益を無理押ししても、結局は、中国民衆のナショナリズムにつぶされる」 これは、単なる道義論ではなく、冷徹な国益論であることに注意が必要だ。 だからこそ、一聴に値するのである。 それゆえ、太平洋戦争の(間接)原因を、政府と軍部だけに押しつけるのはフェアではない。 むしろ、政府は、国民とメディア、つまり民意を無視できなかったのである。 一方、このような民意には背景があった。 の波が日本にも押しよせ、未曾有の大不況に陥ったのである。 食糧難で欠食児童が増え、農村では娘の身売りが横行し、餓死者まで出ていた。 特に、農村部は悲惨だった。 農作物の価格が暴落する一方、工業製品の価格が高止まりしたからである。 ところが、政府は失策つづきで、国民の不満はつのるばかりだった。 そんなとき、日本を揺るがすテロ事件が起こる。 井上日召なる僧侶が結成した「血盟団」が要人暗殺を決行したのである。 2月9日に民政党・幹事長の井上準之助が、3月5日に三井・理事長の団琢磨が射殺された。 日本は絶望感と閉塞感で、窒息寸前だったのである。 そこで、期待されたのが、「満州の権益」だった。 日露戦争後のポーツマス条約で正式な手続きを踏んで獲得した利権である。 大陸に進出すれば、現状を打破できるかもしれない。 それに、日本は建国以来1500年間、戦争に一度も負けたことがないのだ。 そんな気運が、松岡洋右の「満蒙は我が国の生命線」と共鳴し、政府と軍部の膨張主義に同調したのである。 結局、それが、ルーズベルトの日米開戦に利用されたのだが。 しかし ・・・ これは、平和な今だから言えること。 あの時代のことは、あの時代に身を置かないとわからない。 それに、結果だけ見て、どうこう言っても始まらない。 結果は人間の尺度であって、真実ではないから。 真実は、プロセスにこそ宿るのである。 原子爆弾まで落とされて。 それでも、日本は徹底抗戦しようとした。 もし、天皇の英断がなかったなら、日本はを拒否し、に突入していただろう。 そして、一億玉砕、日本国民が全滅するまで戦うのである。 そのときは、軍民あげてのゲリラ戦が展開されただろう。 日本はドイツと違って平野が少なく、地形が複雑である。 しかも、海という障壁もある。 その分、ドイツより降伏は遅れただろう。 戦争は泥沼化し、ベトナム戦争のように20年続いたかもしれない ・・・ 戦争が20年!? 村上龍の「」を彷彿させる ・・・ この小説は歴史改変SFなのだが、設定が恐ろしくリアルで、歴史シミュレーションと言ったほうがいいだろう。 ただし、村上龍の筆力が冴えて、小説としても読み応えがある。 そして、肝心のストーリーだが ・・・ 広島、長崎、小倉、新潟、舞鶴に「5個」の原子爆弾が落とされ、それでも、日本は降伏しない。 アメリカ軍が日本に上陸し、日本本土決戦に突入し、ゲリラ戦が今も続く ・・・ でも、本当にそんなことが起こりえただろうか? 可能性は十分あった。 少なくとも、日本本土決戦に突入した可能性は高い ・・・ 原爆が投下されようが、ソ連が参戦しようが。 それを示唆する証拠もある。 太平洋戦争が始まる前の1938年3月、防諜研究所が創設された。 後のスパイ養成学校「陸軍中野学校」の前身である。 もちろん、スパイの任務は敵の動向を探る諜報活動にある。 ところが、戦争末期になると、陸軍中野学校では、日本本土決戦を想定したゲリラ戦の教育が中心になったという。 こうしてみると、あの時代、冷静に、平和を愛し、国民の幸せを願っていたのは、天皇だけではないだろうか? そんな気がしてならない。 もちろん、これも今になって言えることだが。
次のマレー作戦時、クアラルンプールに侵攻する日本軍 Photo: 当時、日本兵と英印兵が交戦を繰り広げたこのビーチには数百体の死体が打ち上げられたという。 翌日にコタバル市内を掌握した日本軍(銀輪部隊と呼ばれる自転車に乗った兵士たち)は驚異的なスピードで南進し、4ヵ月後の1942年2月15日には、英国の東南アジア戦略における最東端の拠点、シンガポールを陥落させた。 英国という大国を降伏させ、日本中がその勝利に沸き立った。 日本人が知らない「虐殺」 2017年の3月のことだ。 講演のためにシンガポールを訪れた私は、話を終えた後、数人のシンガポール人から、「ある問い」を受けた。 講演では私が2014年から取り組んでいたを紹介した。 太平洋戦争下で米軍の無差別爆撃によって障害を負ったり、孤児になった日本の子供たちが、いまに至るまで日本政府からなんの支援を受けることもなく苦しんでいる。 その被害者たちの歴史を伝えるプロジェクトであった。 飛行機よりコタバル市内を撮影 コタバル上陸 午前9時、コタバル空港に降り立った。 空港からタクシーで宿の住所を伝える。 30分ほどでコタバル市内に着くが、ネットでの評判通り、あるはずの宿はどこにも見つからない。 看板もなければ、道ゆく人に聞いても誰も知らない。 小腹が空いていたので、遅めの朝食を食べようとレストランに入ると、まさにその2階が宿であった。 レストランの厨房を抜け、2階に上がると窓のない扇風機付きの部屋を案内された。 一泊30リンギッド(約900円)。 他の宿泊地ではドミトリーを予約していたので、この旅、唯一のシングルルームである。 全体的に薄暗い部屋のベッドの脇の壁には、材料が足りなかったのか、どこかに通ずる穴なのか、一辺が約50センチほどの三角形の穴が空いていて、その奥には暗闇が広がっている。 不気味なそのスペースに嫌な感情を覚えながらも、徹夜続きで日本をたった私の頭痛はとうに限界に達し、なかなか閉まらないドアの鍵を閉め、眠りに落ちた。 1941年12月8日に日本軍が上陸した海岸のひとつ「KUALA PAK AMAT」へ続く道 翌朝、レストランへ降りるとフロアを仕切っているノールが柔らかい笑顔で迎えてくれた。 幼少の頃から父親と海外旅行に出かけたという彼女は、流暢な英語を話す。 朝食を終えると、彼女に英語の話せる若いタクシードライバーを知らないかと聞いた。 数秒間の沈黙の後、彼女はちょっと待っていてとお店を後にした。 しばらくして戻ってきた彼女は若い青年を連れてきた。 彼は、今日は時間がないけれど、僕の友人を紹介するよ、とFacebookのメッセージでファミという男性を繋いでくれた。 私の電話番号を伝えるとじきにWhatAPPで私宛に連絡が入った。 あと数分でレストランに着くよ、と。 5分後、ホンダのJAZZ(日本ではフィットと呼ばれる)に乗ったファミが現れた。 自身を敬虔なイスラム教徒(クランタン州の90%はイスラム教徒)だと語るファミは大学を卒業したばかりで、現在は在コタバルの日本メーカーの採用面接を受けている途中だという。 家族は「Asari」という名前の雑貨屋さんを営む。 車中で、Asariは日本人が大好きな貝の名前だよと教えながら、面接の際に使える日本語について話をした。 和やかな雰囲気のなか、私たちは日本軍が70年以上前に上陸した海岸を目指した。 戦場跡を訪れてはみたものの… 日本軍が上陸したという2つの海岸のうち、まず私は「KUALA PAK AMAT」という場所を訪れた。 背の低い一軒家の住宅街を抜けるとコンクリートの舗装が終わり、草原の間をかき分けるように狭い道を進んでいく。 ほどなくすると道の脇に戦争被害者を追悼したモニュメントが見えた。 そこから5分ほどいくと視界が開け、砂浜と青い海が見渡せた。 KUALA PAK AMATで凧揚げをする少年 真っ青な空には大きな凧がいくつも上がっている。 平日だが、ヒンドゥー教の新年のお祝いを迎えるこの週は祝日らしく、日中から子供たちが走りまわっている。 70年前に若者が殺しあった場所は、いたって穏やかな表情しか見せない。 何か戦争の痕跡を見つけるために、南に3kmほど行ったサバク海岸へと向かった。 トーチカ(鉄筋コンクリートの防御陣地)がその場所から見えると聞いていたからだ。 サバク海岸に着くと、同じように子供たちが凧をあげるのどかな風景が広がっている。 海を見渡すが、トーチカの跡は見えない。 村人の話すところによれば、5年ほど前から、浸食によって海岸線が後退しているとのこと。 トーチカもすでに海のなかに沈んでいるということだった。 日本軍政下に生まれた男.
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