ギャグアニメも含めて、これほどまでに虚構を強く押し出したアニメ作品は稀である。 けれど「アニメとは虚構である」というあたりまえのことをことさら強調する必要などあるのだろうか。 実は、この一見あたりまえに思えることが、簡単に自明であるといえないほど現在の日本のアニメは成熟している。 たとえば小説や映画を鑑賞する際に(まともな作品ならば)「これは虚構である」などといちいち意識しないように、アニメもまた、その本質である虚構性を視聴者に意識させないレベルにまで洗練されていったのである。 たしかにそれはアニメ製作者の技術と努力の素晴らしい成果であり、また、アニメ独自の特殊な文法(表現方法)も自然に受け入れられるほど日常的にアニメが普及した結果でもあって、そのこと自体は大いに肯定されるべきだろう。 だが、(アニメに限ったことではないが)虚構の文化が洗練されるには副作用も伴う。 ならば、そのことをアニメを通して語るためには、まずアニメ自体が閉ざされた世界であるという、この根本的問題から解決されなければならない。 虚構の構造 『少女革命ウテナ』の虚構は複雑な入れ子状の多重階層で構成される。 少々強引ではあるが、それを単純に三つの階層に分類してみた。 第1階層の虚構〜虚構宣言〜 最も浅い階層は、物語の外部から示されるメタ的な虚構であり、虚構であることを自ら宣言する虚構である。 だが、いくら隠したところでアニメの虚構性という本質は変わらない。 ならば、その隠された本質である虚構性そのものを暴露することで、アニメ世界の閉塞性は破壊されるはずである。 ・ これと似た手法で真っ先に思い浮かぶのは『新世紀エヴァンゲリオン』最終話の「アフレコ台本をそのまま映す」といった過激な表現だろう。 しかし『ウテナ』の場合は、最初から、そしてその後も念を押すように何度となくその手法は繰り返される。 というより、むしろ白日の下に晒された虚構性を土台として『少女革命ウテナ』という物語は構築されていくのである。 第2階層の虚構〜物語世界〜 『少女革命ウテナ』にとっての虚構とは、必ずしも否定の対象ではない。 つまり最初に虚構(矛盾)を前提とすれば、後どんな不条理でも引き出すことが可能になるのである。 第3階層の虚構〜物語世界内の虚構〜 最後の第3階層の虚構とは、『少女革命ウテナ』という物語世界の中で虚構とされる虚構である。 だが、これらは、はたしてこの物語中で虚構であることができるのだろうか? というのもこれまでの説明のとおり、前提として虚構が宣言された物語空間はいわば「なんでもあり」の状態で、永遠だろうが空に浮かぶ城だろうが、ありえないことなどひとつもないはずだからである。 ・ 虚構が虚構としてその姿を現すのは、現実との対比においてのみである。 ・ 「〜今君に、現実を見せてやろう。 」鳳暁生はそういって、ウテナに理事長室とプラネタリウムのカラクリを示す。 つまり、虚構の物語世界内に虚構を創ることとは、虚構の中に現実を創ることなのである。 矢印の示す先 『少女革命ウテナ』における虚構の構造については以上である。 ・ この作品の感想としてよく聞かれるのが、 「鳳学園というバーチャル世界からの脱出は、つまり、アニメやゲームなどのバーチャル世界に入り浸っているオタクたちへの、現実に戻れ、というメッセージだ」 といったような意見だろう。 もっともらしく聞こえるが、まったくの見当はずれな解釈である。 なぜなら、そのようなメッセージ「大人になれ。 虚構に惑わされるな。 現実を見ろ」とは、まさにこの作品中の鳳暁生の主張そのものだからだ。 鳳暁生とその世界、鳳学園が最終的に超克される物語が、そんなメッセージを訴えているはずがないのだ。 鳳暁生とはディオスという虚構に対しての、現実という意味を持った役どころであり、またすでに述べたとおり、暁生が君臨する鳳学園の巨大プラネタリウムとは、物語中の虚構を示す根拠となる現実である。 当然鳳暁生も鳳学園も現実そのものではありえないが、このすべてが虚構だらけの作品で、意図的に配置された数少ない現実の象徴なのである。 ・ さて、ここでまた『新世紀エヴァンゲリオン』と『少女革命ウテナ』の比較に戻る。 前述の「アニメは虚構である」という事実を物語が終わる寸前で暴力的に暴露した『エヴァ』の場合、確かにそれは「いつまでも虚構に引き篭もるな、現実を見ろ」というメッセージだっただろう。 だが『ウテナ』にとって「アニメは虚構である」ことは物語を語る上での出発点、つまり前提なのである。 だからすでに前提として述べていることを、わざわざ結論として主張したりしないのだ。 ・ 『エヴァ』の庵野監督と『ウテナ』の幾原監督では、現実に対する認識が決定的に異なっているように思われる。
次の…… 最高~~!! 最近、 のフォロワーさんに勧められ、 「」を観はじめました。 いやはや…… たいへん、たいへん面白い作品ですねこれは … 観進めていく中、とうとう第 5 話であまりの面白さで 胸がいっぱいになったので、まだ話は序盤も序盤ですが 記事に感想を書きまとめていきます。 語りたいのは第 4 話・第 5 話のメインキャラクター、 薫幹についてです。 薫幹、最高~~! のテーマ まだほんの数話しか見てないのにいきなりテーマの話するの?バカなの?って感じですけど、まあ聞いてください。 私はを第 3 話まで観た段階で、この作品はきっと「女が男をやっつけるお話」なのだなぁ、と大ざっぱに捉えておりました。 (大ざっぱすぎる) あくまで現時点での私個人の印象なので、全編観た方からは見当違いだぞって思う部分が多いかもしれないですけど温かい目で見てください。 許してください。 姫宮アンシーを狙う " 男 " が現れ、その " 男 " の哀れな支配欲を描き、 主人公の天上がそいつを打ち倒す … いけ好かない野郎をぶっ飛ばす。 そんな感じの流れでいくのかなぁと。 各話で「女にやっつけられる男」が登場し、 そいつがバッサリ打ち倒されるのを見て、愉快痛快な気分になれる作品なのだろうなぁと、 ざっくり思いました。 第 1 話、第 2 話においては緑のロン毛・西園寺莢一の扱われ方が印象的でしたね。 彼は姫宮アンシーに対する振る舞いから、その強烈な男根思想を見せつけ、 視聴者たちの不快感を煽りに煽り、最期はに討たれ惨めに敗北する。 非常に痛快なキャラクターでした。 人畜無害な美少年・薫幹 さて、そうしたという作品のなか、第 4話にて登場したのが薫幹です。 第 4 話のお話の構成は少しばかり変化球で、第 4 話の冒頭で少し先の未来の様子を描いておりました。 その未来とは、幹薫が、たちの前に敵として立ちはだかる光景です。 いずれ薫幹は、の 「女が男をやっつけるお話」というテーマにおける " 男 " になる、それが決定されているということですね。 しかし、第 4 話を最後まで観たところ、一つ引っかかる点が。 この幹薫という少年、まったく悪いやつには見えないということです。 それどころかメチャメチャ良いやつ。 姫宮アンシーを支配することに反対すらしており、 姫宮に対して向けている感情は純粋な思慕。 誰に対しても心優しい、芸術を尊ぶ非の打ちどころのない美少年。 そりゃあ好印象です、普通に良いやつだと思いました。 されど、第 4 話冒頭にて示されている通り、彼は近いうちに天上に敵対する " 男 " になる。 しかし男根太郎の西園寺莢一と比べて、薫幹には ムカつく感じが一切ない。 西園寺莢一と違い、 このままでは倒してもスカッとしないのでは … ?という疑問が湧きます。 さあ、第 5 話にてどうやって彼を " 男 " に仕立て上げるのか … その仕立て上げ方にいかなる説得力を持たせるのか … 固唾を飲んで第 5 話の視聴に臨みました。 露出する薫幹の男根 ブラボー!第 5 話、ブラボー!完璧です! 薫幹が " 男 " になる流れが、という作品にとっての敵役になる流れが、完璧でしたね、第 5 話。 何が完璧なのか語る前に、一旦ここで薫幹の感情をおさらいしましょう。 まず彼は、姫宮アンシーを恋慕っております。 第 4 話 からその様子が顕著になりました。 彼は過去に妹と共にピアノを楽しんでおり、その妹のピアノの音色が特別好きだった。 紆余曲折あり妹はピアノを弾かなくなってしまい、薫幹は妹の音を表現することだけを目的に、 ピアノを弾き続けておりました。 そこで薫幹が姫宮のピアノを聴いたところ、 どうやら姫宮のピアノの音色は妹のそれに、 薫幹が追い求めていた音色と同じだそうで。 これが、彼が姫宮アンシーを恋い慕う理由だと。 なるほど、よく理解できます。 ある種、妹と姫宮アンシーを重ねているとも言える、ぶっちゃけシスコンを拗らせてる感じですね。 さて、そうした感情を持つ薫幹。 という作品は、彼が持つその感情に基づいて、 彼が " 男 " となる筋道を素晴らしく描きました。 第 5 話のなか、薫幹は、妹と生徒会長の桐生冬芽が性行為をしている様子を、間接的に目撃します。 このシーン邪悪すぎる。 (褒めてる)この時点でもう、薫幹の感情を考えると笑い転げてしまいそうです。 (笑うな) そして生徒会長の桐生冬芽は、「本当に大切なものは、自分の手に入れて守らなきゃ、人に取られちまうぜ、ミッキー」という言葉を薫幹に投げかけます。 先ほど述べた通り、薫幹はある部分において、妹への感情と姫宮アンシーへの感情とを重ねています。 妹が他の男に食われる様子を目の当たりにし、姫宮アンシーが天上に支配されている現状を顧みて、彼がどう思ったか、想像するに容易いです。 大切なものは自分の手で守らねば。 妹のピアノの音色を守らねば。 姫宮アンシーを守らねば。 支配されるより先に支配せねば。 この時の目が、 西園寺莢一のそれと同じなんだよな… 姫宮の心に触れることを放棄し、自分本位の欲望を押し付ける。 ここまで来ると、人畜無害で純朴な美少年だった薫幹はもういません。 薫幹は、にとっての " 男 " になったのです。 ところで幹薫の精神世界、ピンク色の天蓋付きべッドの中から桐生冬芽が雄の本能を囁きかけてくる光景、あまりにも隠喩が強すぎる…最高… 早く第 6 話が観たい 第 5 話のこの展開の秀逸さ … どうでしょう!? 第 4 話で薫幹を好印象のキャラクターとして描いておきながら、 第 5 話にて支配思想に飲まれ、と対立させる過程の作り方! 妹と、ピアノと、桐生冬芽と。 すべての配役を使いこなし、 薫幹の姫宮アンシーへの純粋な思慕が、哀れな支配欲へと変貌する流れの描き方… 5 億点!! 第 4 話で「どうしてこんな良い奴が男根太郎になってしまうんだ … ?」と思わせといて、 第 5 話で「いやぁ~そりゃなるわ!男根太郎になるわ!」と深く納得させるこの手腕!いや~~最高!(大興奮) そんな気持ちが高まりすぎてもう、記事にまとめずにはいられなかった次第です。 他にも色々語りたいことがたくさんあるのですが、続きが観たいのでとりあえずここまでで … 第 5 話ラストシーンの、薫幹の妹の「実はピアノなんて弾けなかった」辺りの爆弾発言も絡めたことを書きたかったのですが、ひとまず切り上げます。 本当にまだ第 5 話までしか見てないので今後の回を観たら自分の解釈が全然違ってることに気付くのかもしれませんが、とにかく今のこの感動を大事にしたい。 かけがえのない今を大切にしたい。 終わり elegantgonzares14.
次の黒薔薇編の矢印は実験的なモノってゆうのは私も聞いたことがあります。 つまり、テラスにいる枝織と樹里の会話のイメージ。 元通り学園生活にもどろうとして、 関係の修復を樹里に申し出た枝織が小鳥です。 しかし、それを阻むもの(ガラス戸)が樹里の気持ちと、 枝織がいなかったあいだに流れた時間です。 黒薔薇会篇のテーマは「時間」ですよね。 過去が現在に投げかける闇。 どの挿話でも、過去に果たせなかった思い、 あるいは願望が現在に暗い影を落としている。 そこに黒薔薇会が罠を張っている。 (告白昇降室が過去に戻ってゆくイメージなのは、 果たせなかった過去を取り戻そうとするイメージ、 まさしく奇跡を信じさせるための仕掛けなのだと思います) だから、小鳥に仮託されているのは、 枝織が抱いていた過去のわだかまり、 もしくは樹里への憧れや反目なのではないでしょうか。 それが決闘で負けた瞬間に解き放たれた、 そんな印象を受けます。 ただ、枝織はもともと表裏のはげしい、 自己中心的な女性ですから、 解き放たれたといっても、また身勝手に振る舞うだけなのです。 そのことを告げるアンシーのセリフが怖いですね。。。 御影草時について、考察してみます。 御影草時(みかげ・そうじ)は ウテナのダークサイドを象徴する存在。 「世界の果て」に取り込まれてしまったあとのウテナの姿(鏡像)。 映画『スター・ウォーズ』における ルーク・スカイウォーカーとダース・ベイダーの関係。 (皇帝はもちろん鳳暁雄。 ) 「そうじ」という名前にウテナとの「相似」を感じ取る人たちが多いが、 むしろ「御影」という苗字に注目すべきだと私は思う。 それは墓石に用いられる玉石(ぎょくせき)、「御影石」から取られている。 すなわち根室教授はすでに故人であることが登場から語られている。 「草」の宛て字も「草葉の影」の言葉からの連想だろう。 つまり根室記念館は実験のために失われた命の墓標であり、 「御影」を名乗る根室教授は彼らの墓守なのである。 根室がその名前を名乗るのは、 おそらく彼の夢や青春が失われていることに自覚的であるから。 よく指摘されることは、 御影草時の薄ピンク色の髪の色が、 ウテナの髪の褪色した色味で、 ウテナとの共通性を出した設定であるということ。。 また、馬宮と草時の関係性がアンシーとウテナに符合している点。 黒薔薇会篇が「時間(過去)」と「死」のイメージをともなっているのは、 ひとつは黒薔薇に葬儀のイメージがあること、 また、すでに焼失している根室記念館の事件が背後に隠されていること、 がある。 決闘場に並べられたテーブルの上の供花、 あるいは殺害現場に描かれる被害者の人型など、 ことごとく「死」に縁取られている。 黒薔薇会に催眠暗示されたデュエリストは葬儀に参列するものたちのようでもある。 それは過去という「死」んだ時間を生きようとしているからであり、 結局は現在と未来を生きようとする意志を象徴するウテナに敗れる。 黒薔薇会篇は「永遠」が「死」と似ていることを示そうとしているのではないか。 デュエリストが敗れるたびに消却される棺桶も意味深である。 (想像であるが、デュエリストを操っている黒薔薇の指輪には、 かつて根室記念館で焼死した<世界の果て>の同志たちの念が籠もっている。 つまり、あの指輪のなかに思いだけで生きている「過去」がある。 だから、「過去」が敗れたときに、念の主体である亡霊が焼却されるのだろう) のちにウテナが学園世界から消されるように、 黒薔薇会敗北の直後に、根室記念館と草時、馬宮の存在が消される。 そのことにすでに物語の行く末を予兆させている気がする。 先日テレビラスト6話の上映イベントがあったという事で、私も当日参加者の気持ちで観ました。 今は作品全般好きですけど、リアルタイム放映時は「お兄様ぁ、林檎取ってぇ、七実手が届かないよ…」という際どい誘い文句に射抜かれて七実ファンでした。 で、いま見返してもやっぱり疑問なのが生徒会メンバーのバーベキューじゅうじゅうシーンです。 樹璃が溺れた男の子の話をするところ。 生徒会メンバーは、冬芽・西園寺・樹璃・幹・七実の5人。 しかしバーベキューは4串。 林檎をウサギに切った演出をあれだけ熱く語る監督が、人数を間違えるとは思えません。 直前に西園寺が指輪を外そうとするのを冬芽が「また勝負は終わっていない」的な事を言って止めてましたが、七実は「わたくしはもう棄てちゃったわ。 もう、忘れた方がいいのよ。 」とデュエリストである事を辞めているようです。 このあたりはついメタフィクション 劇中劇 に夢中で語れないので、どなたかこのバーベキューの謎を解釈してください。 劇場版について、ひらめいた事を少々。 ラスト、『外の世界』へ行ったウテナとアンシー。 その時二人はなぜ裸なのか? 目のやり場に困るだろっ!(笑)とか初めて劇場版を見た時に思ったのですが、あの場合は裸でなければいけないのです。 たとえば二人が制服姿だったら『鳳学園の生徒』になってしまうし、デュエリストと花嫁スタイルだったら『デュエリストと薔薇の花嫁』になってしまう。 新しい世界に行ったということは、何の肩書きも持たない只の人になったという事。 どこのカテゴリーにも属さない存在。 藁人形の胸にウテナとアンシーの名札が付いていましたが、それは二人が自分達の名前さえも前の世界(鳳学園)に置いていった事を意味しているように思えます。 抜け殻だけを残して去っていったウテナとアンシー。 もしかしたらオペレーターを務めた大量の影絵少女たちは、かつて彼女達と同じように、鳳学園から脱出していった生徒たちかもしれません。 そして、また新たな挑戦者が車に乗って出発したら全力でサポートするのでしょうね。
次の