伊勢 湾 台風 死者。 伊勢湾台風とは 被害状況や原因は?何故ここまで被害が拡大したのか

伊勢湾台風

伊勢 湾 台風 死者

私事ですが、実家の両親が子供の頃に伊勢湾台風を経験しているので台風シーズンになると「あの時の台風は本当に大変だった・・・」と体験談をよく聞かされていました。 伊勢湾台風を実際に経験しているからこそ、その後の人生で台風に対する備えや考え方も随分違ってきているのだと思います。 子供時代に「夜通しひざまで水に浸かりながら家族全員で家の戸や窓を押さえていた」経験は壮絶なものだったと思われます。 一夜が明けて変わり果てた景色を見た時のことは一生忘れられないと話していました。 ここでは、自然災害の中では 戦後最大規模の被害が出たと言われている伊勢湾台風について詳しく見ていきたいと 思います。 「災害は忘れた頃にやってくる」という言葉を忘れずに、防災対策は日ごろから万全にしておきましょう。 スポンサーリンク 伊勢湾台風とは 出典: 台風による死者、行方不明者の数は過去最大規模である伊勢湾台風。 ここではその伊勢湾台風について振り返ってみたいと思います。 昭和34年9月21日にマリアナ諸島の東海上で発生した台風第15号は、中心気圧が1日に91hPa下がるなど猛烈に発達し、非常に広い暴風域を伴いました。 最盛期を過ぎた後もあまり衰えることなくそのまま北上し、台風発生から5日目の26日夕方6時頃に和歌山県潮岬の西あたりに上陸しました。 上陸後6時間余りで本州を縦断、富山市の東から日本海に進み、北陸、東北地方の日本海沿いを北上し、東北地方北部を通って太平洋側に出て10月2日にようやく消滅しました。 この台風は勢力が非常に強く暴風域も広かったため、広い範囲で長時間強風が吹き荒れました。 スポンサーリンク 伊勢湾台風の被害の概要 出典: 高潮が堤防を決壊し、全国で 5098人(死者4697人・行方不明者401人)もの犠牲者が出ました。 負傷者は全国で 38921人と言われています。 家屋の倒壊や浸水も何万棟にも及びました。 戦後に発生した自然災害の中で、最大の被害規模です。 強風による吹き寄せと低気圧による吸い上げ効果によって起こった高潮は、名古屋港において、観測史上最高となる5.31m(名古屋港基準面)の潮位を記録しました。 ちょうど満潮の時刻と台風の影響の時間が重なったこともあり、海は大しけでした。 そしてうねりを伴った高潮が暴風と共に堤防をはるかに越えて住宅地に一気に押し寄せたのです。 もともと遠浅の海だった場所を江戸時代に干拓した土地であった点も災いしました。 人々は逃げる間もなく家屋ごと一気に水に流されてしまったのです。 流木なども流れ着き、家屋に突き刺さったりしました。 このように台風が上陸したのは和歌山県ですが、三重県や愛知県などの伊勢湾沿岸での被害が特に大きかったので「 伊勢湾台風」と名付けられました。 岐阜県や愛知県などの海抜0メートル地帯では、台風が去ってからもなかなか水が引かず、半年近くも浸水し続けた地区もあったということです。 水が引くまでの間は移動のためにボートを使っていたそうです。 避難所なども機能していなかったので、当時の被災者たちは本当に過酷な生活を余儀なくされていたことが推測されます。 そして当時は汲み取り式の便所が一般的だったため、汚水も浸水の影響で流れ出し、辺り一帯の衛生環境は著しく悪くなりました。 感染症も多く発生したと記録されています。 スポンサーリンク 伊勢湾台風被害拡大の原因は? 出典: 伊勢湾台風は事前に進路予想もされ、上陸することもほぼ確実と言われていました。 十分備える時間もあったにも関わらず、なぜこれほどの被害者が出てしまったのでしょうか? 台風自体の勢力が強かったことはもちろんですが、これほどにまで被害が拡大したのにはいくつかの原因があったのです。 当時は 行政も台風に対する考え方がまだまだ甘かったのが最大の原因です。 避難場所の選定や、食料や水などの備蓄もほとんどなく、住民に避難を呼びかける体制もありませんでした。 停電したことで情報源であるラジオやテレビなどが使えなくなってしまった点も挙げられます。 住民は暴風雨がだんだん強くなっていく中、どうしたらいいのかも分からないまま不安な時間を過ごしていたであろうと思われます。 日ごろから防災に対する人々の意識も低く、「大丈夫だろう」と思い込み高台に避難をしようという意識もありませんでした。 自分が干拓地や海抜0メートル地帯に住んでいるという自覚もない人が多かったとも言われています。 浸水が予測される地域が示されている「ハザードマップ」も当時作成されてはいたものの、そのことを知っているのはごくわずかの人々だけに限られていました。 住民にまで周知はまだされていなかったようです。 これらのことが被害を拡大した原因と言われています。 特に名古屋市周辺では急速な工業発展に伴う地下水のくみ上げで地盤沈下が激しく、高潮に対して非常に脆弱な土地が広がっていました。 そのような土地に次々と工場やビルや住宅などを建築していったことで被害が拡大したのです。 スポンサーリンク 伊勢湾台風の被害金額は? 出典: 伊勢湾台風の被害額は阪神・淡路大震災の数倍、関東大震災に匹敵し、あの東日本大震災との比較対象に達するものとなりました。 総被害額は5000億円以上とも言われています。 ものすごい金額です。 伊勢湾台風の被害は、伊勢湾岸だけに留まらずほぼ全国に及んでいます。 山間部では土石流や鉄砲水によって多くの家屋が流されました。 川沿いでは河川が氾濫したことによって多くの家屋が浸水または流されるなどの被害が出ました。 伊勢湾岸は高潮の被害が顕著でした。 田畑や家畜の多くも浸水の影響を受けました。 収穫間際のお米も台無しになってしまったのです。 三重県や愛知県は産業が盛んで関連の工場も多く操業していたため、産業での被害も莫大なものになりました。 戦後の日本を引っ張ってきた産業に被害が出たことで影響は日本全体に広がったのです。 復旧のための工事費用も莫大な金額がかかりました。 伊勢湾台風の高潮の高さを基に全国の堤防の高さも見直されました。 河川の堤防もより丈夫に作られました。 しかし、人々の努力によって驚異的なスピードで復旧作業が進められました。 スポンサーリンク 伊勢湾台風の被害からの復旧 出典: 復旧工事にあたっては、木曽川河口付近・海岸部での高潮堤防の高さを原則7.5mとするなど、伊勢湾台風の潮位、波高を踏まえて、高さや構造が決められました。 まず堤防を完成させてからポンプで浸水地域の海水を吸い出す方法がとられました。 伊勢湾台風を機に、行政は土地計画をより慎重に進めるようになりました。 脆弱な土地からの移転や土地をかさ上げして高台に住宅地の整備を進めたのです。 また伊勢湾台風以前はまだまだダムの整備が進んでいませんでした。 その結果豪雨で河川に雨水が集中し各地で氾濫が発生しました。 復旧作業と同時にダムも建設されることになりました。 ダムに貯水することで下流の急激な河川の増水を防ぐことができるからです。 伊勢湾台風では、表土の薄い山腹で人工林を中心に崩壊が発生しました。 人工林は、適切に間伐されないと林内が暗くなってしまい、地表に植物が繁茂せず、表土が流出するため雨風によって崩壊しやすくなるのです。 少しでも災害に強い山をつくるためには、間伐等の森林管理を行うことも重要なのです。 林業の分野でも、災害についての研究が進められました。 伊勢湾台風の被害からたくさんの教訓を得て、自然災害に強い街づくりが各地で進められていきました。 避難を呼びかけるための防災無線やサイレンなどもその後どんどん整備されていくことになります。 スポンサーリンク まとめ 出典: 戦後最大の被害が出た伊勢湾台風。 それまで災害に対する行政の防災意識も低く、人々の備えも不十分なものでした。 伊勢湾台風を機に防災に対する考え方が変わってきました。 全国の堤防の高さも見直され、避難の誘導方法や備蓄の必要性など防災対策が急激に進められました。 皮肉なことにこのような大きな災害が人々の防災意識を高めるきっかけとなったのです。 「 防災対策基本法」も伊勢湾台風を機に制定されました。 「うちは大丈夫」と思わずに、皆一人一人がしっかりと備えをすることが大切です。 記事の内容が「参考になった!」と言う方は、SNSアイコンに「いいね」登録をしていただけると励みになります。 最後まで読んでいただきありがとうございました。 スポンサーリンク•

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猛威を振るった伊勢湾台風!何故死者が多く出たのか?

伊勢 湾 台風 死者

5度・経度15. 沿岸の・での被害が特に甚大であったことからこの名称が付けられた。 死者・行方不明者の数は5,000人を超え、以降の日本における台風の災害史上最悪の惨事となった。 概要 [ ] 人的被害は、の、、沿岸の、、寄りのを中心に犠牲者5,098人(死者4,697人、行方不明者401人)・負傷者3万8,921人(「」平成20年度版) にのぼる。 犠牲者を3,000人以上出した台風として、、とあわせて 昭和のに挙げられ、その中でも最悪の被害をもたらした。 その犠牲者の数は、第二次世界大戦後のでは、の()、の()に次ぐ規模で、台風災害としては最多である。 また、ほぼ全国に及んだ経済的被害は莫大なものとなり、比被害額はの数倍、に匹敵し、との比較対象に達するものであった。 特に名古屋市港区・飛島村・弥富市が一番被害が大きかった人的・経済的被害の規模の大きさから、明治維新以後で最大級ののひとつである。 災害対策について定めたは、この伊勢湾台風を教訓として成立したものである。 また、に気象庁が運用を開始したも、台風については伊勢湾台風クラスを基準としている。 発生から消滅までの経過 [ ] 伊勢湾台風の進路図 伊勢湾台風の位置・中心気圧の推移 日時(JST) 中心位置 中心気圧(mb) 9月20日9時 11. 0N、160. 0E 1,008 20日15時 10. 0N、157. 3E 1,005 20日21時 10. 0N、154. 7E 1,008 21日3時 11. 0N、152. 2E 1,006 21日9時 12. 0N、150. 0E 21日15時 13. 6N、150. 0E 21日21時 14. 8N、150. 0E 1,002 22日3時 15. 5N、149. 4E 1,000 22日9時 16. 5N、148. 5E 996 22日15時 16. 9N、146. 5E 970 22日21時 17. 1N、145. 9E 960 23日3時 17. 3N、145. 0E 940 23日9時 18. 1N、143. 7E 905 23日15時 19. 0N、142. 9E 895 23日21時 19. 7N、141. 7E 24日3時 20. 2N、141. 0E 24日9時 20. 7N、140. 0E 900 24日15時 21. 5N、139. 2E 910 24日21時 22. 2N、138. 3E 25日3時 23. 0N、137. 2E 25日9時 24. 1N、136. 2E 900 25日15時 24. 8N、135. 8E 905 25日21時 26. 5N、134. 8E 910 26日3時 28. 0N、134. 5E 26日9時 29. 7N、134. 5E 920 26日15時 32. 0N、134. 9E 26日21時 35. 0N、136. 1E 940 27日3時 38. 9N、138. 9E 965 27日9時 40. 5N、140. 3E 984 27日15時 42. 3N、145. 6E 982 27日21時 43. 0N、150. 0E 28日3時 43. 0N、154. 0E 990 28日9時 42. 5N、158. 4E 992 28日15時 41. 9N、162. 0E 28日21時 41. 0N、166. 0E 29日3時 38. 5N、172. 3E 990 29日9時 36. 0N、175. 5E 994 29日15時 36. 0N、178. 5E 29日21時 35. 9N、184. 0E 996 1959年(昭和34年)9月20日に付近で中心気圧1,008(当時の単位「ミリバール」。 に同じ)の弱い(当時の用語)が発生、西に進み、21日にはの東を北上しながら次第に発達し、21日21時には、の東海上で1,002mbの台風15号となり、再び西寄りに進路を変えて急激に発達した。 9月22日9時には996mbであったものが同日15時には970mb、翌23日9時には905mbとなり、22日9時からの僅か24時間で91mbも気圧が低下した。 15号の発達はさらに続き、23日15時にはのにより894mbが観測された。 すなわち、発生からわずか2日も経たないうちに、中心気圧が100mb以上も下がったことになる。 台風は26日18時過ぎ、929 mbの勢力を持って潮岬の西15キロ付近に上陸した。 の統計開始以降、日本に上陸した台風の中では、のに次いで2番目低い中心気圧で上陸したことになる。 26日朝までの進行速度は毎時30キロ以下であったが次第に加速して、上陸後は60 - 70キロでを縦断し、を経て27日0時過ぎにに抜けたころには 90キロにも達している。 27日9時前後に沖に進んだ中心は次第に消滅し、の日本海上に新たな中心が生じて東北東進する「」を起こした。 台風は同日21時にの東でに変わり、東にまで達して10月2日に消滅した。 岸のによる大災害から、9月30日、により 伊勢湾台風と命名された。 アメリカ海軍のレポートによれば、中心付近の最大風速は165(約84. 気象庁命名台風 気象庁命名 名称 国際名 年 昭和29年台風第15号 Marie 昭和33年台風第22号 Ida 昭和34年台風第14号 Sarah 昭和34年台風第15号 Vera 昭和36年台風第18号 Nancy 昭和41年台風第18号 Cora 昭和43年台風第16号 Della 昭和52年台風第9号 Babe 令和元年台風第15号 Faxai 令和元年台風第19号 Hagibis 上陸時(直前)の中心気圧が低い台風 順位 名称 国際名 中心気圧() 上陸日時 上陸地点 1 (昭和36年台風第18号) Nancy 925 (36年) 9時 西方 2 (昭和34年台風第15号) Vera 929 (昭和34年) 18時 西方 3 Yancy 930 (5年) 16時 南部 4 (昭和26年台風第15号) Ruth 935 (昭和26年) 19時 付近 5 Mireille 940 (平成3年) 16時 南 Trix (昭和46年) 23時 Shirley (昭和40年) 8時 付近 Jean (昭和40年) 4時 付近 Wilda (昭和39年) 17時 佐多岬 (昭和30年台風第22号) Louise (昭和30年) 22時 Grace (昭和29年) 2時 西部 (参考) 911. 6 (昭和9年) 室戸岬西方 (昭和20年台風第16号) Ida 916. 3 (昭和20年) 付近 観測値 [ ]• 最低気圧• 929. 2mb:26日18時13分• 939. 4mb:26日19時40分• 944. 4mb:26日20時37分• 946. 3mb:26日20時33分• 949. 2mb:26日21時25分• 最大風速 - ( )は最大瞬間風速• 25mb高い誤差であることがわかり、には過去のデータの修正が行われたため、当初、929. 5mbとされた伊勢湾台風の記録は現行の通り改められたほか、室戸台風の最低気圧911. 9mbも911. 6mbに変更されるなど、古い資料を利用するにあたっては注意が必要である。 特徴と気象官署の対応 [ ] 特徴 [ ] 急速に猛烈な台風に発達し、勢力が衰えないまま日本本土を直撃 アメリカ軍の飛行機観測により、台風の中心気圧が正確に実測されていた(昭和25年)から(昭和62年)までの資料によれば、年平均1. 3個弱の台風が900mb以下に発達するが、いずれも海水温の高い付近で、日本からは遠く離れた場所であり、日本付近に北上したときには950mb程度に衰弱している場合がほとんどである。 しかし伊勢湾台風の場合は、北上してを越えてもなお、920mbの猛烈な勢力のままであった。 伊勢湾台風は発生後2日足らずで猛烈な台風に成長し、最低気圧観測の3日後に上陸したときにも929. 2mbという、日本本土では史上3番目に低い気圧を観測するほどの勢力を保ち、紀伊半島や中部地方の急峻な山岳地帯を通過しても衰弱の度合いが小さく、暴風や高潮の被害を大きくする原因となった。 非常に規模が大きい超大型の台風 伊勢湾台風以前の記録的な猛台風であった(昭和9年)のと比較すると、上陸時の気圧は室戸台風が911. 典型的な形の経路を取り、進路予想がほぼ正確 この年の台風第14号()も同様であったが、伊勢湾台風もほとんど蛇行せず、進路を急変することもなく、予報通りの経路をたどって上陸した。 当時の台風の進路予報は予報円ではなく扇形を用いていたが、発生から上陸して本州東方海上に抜けるまでの経路はすべて扇形の範囲内に収まっており、予報がうまく当たったことを示している。 なお、(平成21年)に名古屋地方気象台が作成したパンフレット『第二の伊勢湾台風に備えて』によれば、現在の予報技術を当時生かすことができれば、進路や暴風域、さらに高潮の数値もほぼ予測できていたとしている。 気象台・気象庁の対応 [ ] 台風第15号は早くから超大型の台風として日本本土をうかがっていたため、気象官署の対応も早期に実施された。 は9月25日に海上強風警報を発令、同日に行われた予報検討会では以下の事項を決定した。 による大雨が予想されるため、25日17時までに大雨注意報を発令する。 台風情報第1号は、・の聴取率・視聴率がもっとも高い(25日)19時のニュースに間に合うよう発表する。 翌26日は土曜日で、官公庁などが午後から休みになるため(当時、週休2日制はなかった。 いわゆる)警報発令は午前中に行うこと。 同じく、名古屋市内の関係機関・報道機関には26日午前中の早い時間に説明会を開催する。 においても、25日午後に・(いずれも当時の名称)・・報道関係などに対する説明会を持った。 こうした経緯に沿って、では26日11時15分に、でも11時30分に暴風雨・波浪・高潮の各が発令され、厳戒態勢に入ったが、それでも、気象観測始まって以来の大災害が引き起こされた。 災害状況 [ ] 都道府県別死者数 多い順 順位 都道府県 死者・行方不明者数 1 3,378人 2 1,273人 3 113人 4 104人 5 34人 6 29人 7 27人 8 22人 9 17人 10 16人 16人 12 15人 13 10人 14 9人 15 8人 16 7人 17 6人 6人 19 5人 5人 21 4人 4人 4人 24 2人 2人 2人 2人 28 1人 1人 1人 1人 1人 合計 5,098人 全国被害状況集計において、犠牲者5,098人(死者4,697人、行方不明者401人)、うちで3,351人(うち1,909人)、1,211人 と、岸の2県に集中した。 負傷者は3万8,921人。 全壊家屋3万6,135棟、半壊家屋11万3,052棟、流失家屋4,704棟、床上浸水15万7,858棟、船舶被害1万3,759隻。 被災者数は全国で約153万人に及んだ。 うち、三重県は約32万人、愛知県は約79万人と、県全人口の約2割が被災した。 における伊勢湾台風の被害 南寄りの暴風で、海水が・・の最奥部に吹き寄せられ、南部から愛知県までの広い範囲で高潮による浸水が発生し、名古屋市付近では、1か月以上も水が引かなかった地域があった。 名古屋市南部(南区、)および隣接する南部(、、弥富町(現・)、(同市)など)、北部((現・名古屋市)、(現・)など)はに遠浅の海を干拓してできた新田で、海面下2 - 3メートルの土地もあったため、高潮により、いったん海岸堤防が破壊するとひとたまりもなく水没した。 これら低地の復旧のためには、まず堤防を完全に作り直したうえでポンプにより海水を排水しなければならなかったため、水没地域が完全になくなったのは被災から半年経った翌年3月下旬であった。 その間、多くの世帯のの汚水があふれ出たままとなり、また、孤立した人々の排泄物も停滞するなど、が著しく悪化した。 同年10月6日には早くも次のが東海地方などを通過し、で豪雨により田畑が水没するなどの被害が出た。 水が引いたあとのには津波が発生し、台風が通過した東北地方太平洋側と三重県南部を中心に再び被災した。 台風の速度が非常に速く、雨の継続時間が比較的短かったにもかかわらず、入之波(しおのは)で19時における時間雨量が118ミリ、9月26日の一日雨量が650ミリという猛烈な豪雨となり(紀の川流域におけるこの年の年間降水量は3,655. 8ミリで、平年の2倍以上であった)、やなど大台ヶ原を水源とする河川では洪水被害が大きくなり、橋梁の流失4,160か所、堤防決壊5,760か所などがあったのをはじめ、山間部ではやによる住家や耕地の流失・埋没の被害が大きかった。 岐阜県養老郡養老町ではの堤防が決壊し、ほとんどが水に浸かった。 台風の際には、比較的顕著ではない発雷も豪雨に伴って発生した。 暴風による被害も大きかった。 このため、建物の全半壊、送電線の切断、電柱・鉄塔の倒壊、風倒木が多く、塩風害も多発した。 は、この台風により、選手控え室を除くすべての建物を損壊したため、閉鎖を余儀なくされた。 なお、同競艇場の主催者であったは、現在に至るまでにおいて一部日程のレースを主催している。 死者・行方不明者が多い台風(1951年以降) 順位 名称 国際名 年 死者・行方不明者数 1 (昭和34年台風第15号) Vera 5,098 2 (昭和29年台風第15号) Marie 1,761 3 (昭和33年台風第22号) Ida 1,269 4 (昭和26年台風第15号) Ruth 943 5 Tess 478 6 Helen 318 Ida 8 Georgia 235 9 Carmen 209 10 (昭和36年台風第18号) Nancy 202 負傷者が多い台風(1951年以降) 順位 名称 国際名 年 負傷者数 1 (昭和34年台風第15号) Vera 38,921 2 (昭和29年台風第15号) Nancy 4,972 3 (昭和26年台風第15号) Ruth 2,644 4 Tess 2,559 5 (昭和29年台風第15号) Marie 1,601 6 Georgia 1,528 7 Mireille 1,499 8 Songda 1,364 9 (昭和33年台風第22号) Ida 1,138 10 Bart 1,077 住家被害が大きい台風(1951年以降) 順位 名称 国際名 年 住家被害 1 (昭和34年台風第15号) Vera 833,965 2 (昭和36年台風第18号) Nancy 499,444 3 (昭和26年台風第15号) Ruth 221,118 4 (昭和29年台風第15号) Marie 207,542 5 Mireille 170,447 6 Jebi 97,910 7 Tess 86,398 8 (昭和30年台風第22号) Louise 85,554 9 (令和元年台風第15号) Faxai 76,874 10 Georgia 76,199 浸水被害が大きい台風(1951年以降) 順位 名称 国際名 年 浸水被害 1 (昭和33年台風第22号) Ida 521,715 2 Tess 495,875 3 Fran 442,317 4 (昭和36年台風第18号) Nancy 384,120 5 Vera 363,611 6 Trix 251,820 7 June 181,380 8 Gilda 148,934 9 Georgia 148,607 10 Helen 146,547 被害拡大の原因 [ ] 伊勢湾台風は進路予想もかなり正確であり、早い時期から上陸が確実視され、充分な災害対策を講じる余裕があったにも関わらず、空前規模の大被害が発生した。 特に顕著であったのはの被害であった。 台風の勢力が衰えず、熊野灘から・・伊勢湾では台風が西側を北上して非常に強い南寄りの暴風が持続する状況となり、各地の気象官署で過去の記録を更新、最低気圧の記録も同様であった。 この強い風による吹き寄せと低気圧による吸い上げの効果により高潮が起こり、満潮時を外れていたにもかかわらず、名古屋港では海水位が平均海面上3. 89メートル(うち気象潮は3. 45メートルで、それまでの最高であった室戸台風の3. 1メートルを上回った)、工事基準面からの高さは5. 31メートルに及ぶ、観測史上最高水位を記録した。 名古屋地方気象台では、高潮警報は出したものの潮位は2メートル程度と予想していた。 この記録破りの高潮に対し、伊勢湾奥の海岸堤防の高さは3. 38メートルしかなく、また名古屋市周辺では急速な工業発展に伴うのくみ上げでが激しく、高潮に対して非常に脆弱な土地が広がり、そこに無計画に市街化が進んでいたことも被害を拡大した。 名古屋市南部を含む伊勢湾岸に多い干拓地の被害も激甚で、では堤防のほとんどが破壊され、住宅地と耕地は全滅、318人の在住者のうち、133名が犠牲となった。 名古屋市南区の浜田南公園に建つ殉難慰霊之碑。 伊勢湾台風による冠水が引いたのち、この場所に遺骸と靴が多く残されたことから、通称の「靴塚」で知られている。 この碑の建つ宝小学校(当時)の学区では台風により307人が死亡した。 伊勢湾台風の高潮が記録的であったのは、台風の勢力が強大で猛烈な吸い上げ効果があったことと、伊勢湾が奥行き深く遠浅でその影響を受けやすかったことによる。 また、地形が高潮や津波が河川遡上しやすい構造となっているため、河川堤防も決壊した。 台風襲来時が満潮(さらに大潮)と重なったためであるという話があるが、当日は少なくとも大潮ではなく、上陸時間ともずれがある。 風向きと、高潮が押し寄せる方角が同じであったことから、暴風によって、陸地に押し寄せる高潮を加速させた。 台風による大雨も高潮による陸地部分の浸水の深さを増すことになった。 名古屋港は、外洋への出口が狭いことと、(増水した水が港へ流れ込む)河川・河口部が多いことから降水単独による潮位上昇も起きやすい傾向にある。 破壊された堤防 このような高潮でもっとも多くの人命が失われたのは飛島村・名古屋市南西部の西区や港区であるが、これには名古屋港の貯木場(現在の付近にあった)から流出した20万トンに及ぶラワン材などによるところが大きい。 直径1メートル、長さ10メートル、重量7 - 8トンにもなる木材の大群が高潮に乗って住宅地を破壊したものである。 高波と風の勢いでこの巨大な木材が縦に転がったという目撃談もある。 南区ではおよそ1,500人の犠牲者の大部分がこうした流木によると推定されている。 さらに流木によって倒壊した家屋が流されて他の家屋に衝突するケースもあった。 また当時、行政側の効果的な避難誘導や防災体制が不十分だったため、住民の台風災害に対する認識が希薄だった。 行政による避難勧告も実施されなかった地域も珍しくなく、自分たちが近くに高台もなく海抜高度の低い危険地帯に住んでいることを知らないまま被災・死亡した住民も多かった。 台風の接近により停電となったことも、当時重要な情報源だったが使えなくなり(を電源とする携帯式のは開発されてまもなく、しかも高価だったため普及していなかった)、結果として避難の機会を失う一因となった。 加えて、伊勢湾台風襲来の約1ヶ月前にも、山梨県や長野県、静岡県などではの影響で大きな被害が出ており、被災地では復興がままならない状況の中、さらに勢力の強い台風15号の直撃を受けたため、被害がさらに拡大する結果に至ってしまった。 その一方で、でのからの復興に伴い沿岸部からの集団移転が行われた愛知県一帯では被害が軽減され、三重県(現・四日市市)や愛知県の碧南干拓地(現・川口町)では日没前には住民の避難を完了したことにより、1人の犠牲者も出さなかった。 被災した住民の避難を始める陸上自衛隊と米軍のヘリの様子 また、をはじめとする全国各地の防潮堤・堤防の建設や改修も伊勢湾台風を基準とし、伊勢湾沿岸では特に地元三重選出の当時の建設政務次官主導のもとで国や県が協力して防潮堤や堤防を完成させた。 高潮の被害にあった愛知県の鍋田干拓地の堤防は、伊勢湾台風級の高潮が来ても決壊しないように、高いだけでなく幅も広くとって強固に造られ、オランダ式堤防と呼ばれた(ただし、地元では前述の田村に感謝を込めて「田村の堤防」とも呼ばれている )。 これに加え、対策が強化された。 従来進められていた治水計画を大幅に上回る洪水を記録した河川が多く、や各は河川改修を根本的に見直さざるを得なかった。 このため、揖斐川や紀の川、櫛田川、などの水系で治水計画が改められ、伊勢湾台風時の洪水に耐えうる治水計画・が計画された。 これは流域だけがのによって浸水被害を最小限に食い止めたことなども影響している。 伊勢湾台風を機に計画・建設されたとして、・(揖斐川)、(紀の川)などがある。 応急として、18戸、181戸、35戸、49戸、412戸、428戸、1187戸、699戸、7879戸、2509戸、52戸、54戸、515戸、89戸、6戸、7戸、72戸の合計14192戸が供与された。 マスメディアへの影響 [ ] 伊勢湾台風は、及び(現・・)など、愛知・岐阜・三重3県の民放再編や、災害時における一般市民とラジオのあり方について影響を与えた。 被災地を取材するCBC(中部日本放送)のテレビニュース班 台風襲来当時、日本で最初に開局した民放局であるCBCはテレビ放送を開始して3年未満、ラジオ放送を開始して10年に満たず、CBCと同じ系列の東海テレビは開局して1年も経っていなかった。 のテレビ放送もやっと5年を経過した状況であった。 (昭和34年)、との「世紀のご成婚」があったことで、テレビジョン放送の全国ネットワークがようやく作られ始めたものの、白黒テレビ はまだ高嶺の花(当時、14インチで約6万円程度。 現在の価値で換算すると約60万円相当)だった。 当時主流のラジオは()放送しか存在せず、NHK名古屋は現在同様3県をエリアとしていた。 民放はCBCラジオが名古屋に本社を置いて3県をエリアとしていたものの中継局は今と比べて少なく、それ以外には岐阜県域のと三重県域のが存在する程度であった。 しかも、NHK・民放の両方とも常時24時間放送を行っておらず、報道取材態勢についても現在ほど充実したものではなかった。 伊勢湾台風の教訓から、を電源として使用可能な、当時最新の技術を用いた小型の携帯の普及が進む要因となり、これによりラジオ放送が受信可能な状況が大幅に増え、いつでもどこでも迅速な情報入手が可能となったことで、台風やの際に活用されている。 (昭和26年) - 中部日本放送(CBCラジオ)が、日本初の民放局として開局。 朝6時半に本放送開始(は同日正午にラジオ本放送開始)• (昭和28年) - ラジオ三重(後の近畿東海放送)開局• (昭和29年) - NHK名古屋放送局、本放送開始• (昭和30年)• - (旧)岐阜放送(後のラジオ東海)開局• - 東京通信工業(現・)、日本初の発売• (昭和31年)12月1日 - CBCテレビ本放送開始• (昭和33年) - 近畿東海放送とラジオ東海の合弁により東海テレビ放送開局• (昭和34年) - 東海ラジオ放送名古屋局の予備免許下りる。 その夜、伊勢湾台風上陸• 1959年(昭和34年) - 近畿東海放送とラジオ東海が合併し、設立• (昭和35年) - 旧近畿東海放送と旧ラジオ東海がこの日を最後に閉局し、翌日に東海ラジオ放送開局• (昭和37年) - 岐阜日日新聞(現・)の子会社として、ラジオ岐阜(現・、ぎふチャン)開局 逸話 [ ]• ではので焼失したと金の(しゃちほこ、)が伊勢湾台風が襲来する直前に再建されたが、名古屋の高潮災害は金の鯱のせいではないかという話が台風後に名古屋市民の間でささやかれた。 もともと鯱は水を呼ぶ力があるとされ、それゆえ火除けのために城の屋根につけられるようになったが、伊勢湾台風の水害も金の鯱が呼んだというわけである。 なお、伊勢湾台風の被害により、名古屋の秋の風物詩であった「」は中止されたが、名古屋城のの完成式だけは、簡略的に行われた。 台風襲来によって名古屋市内の工場群も浸水による被害を受けたが、その中で名古屋工場だけは比較的早く水が引き、9月29日には操業を再開した。 で自社の事業所が浸水による被害を受けたことから、名古屋工場建設に際して嵩上げ工事を行ったことが奏功したが、それが他方で周辺部での濁流の勢いを強める結果ともなり、世論の批判を受けることとなった。 台風襲来時のは、歴史的経緯から同じの路線であるおよびと線路の規格()が異なっており、三重県内のでの乗り換えを要していた。 このため、かねてから名古屋線の準備工事を進めていたところに台風が襲来した。 当時の近鉄社長・は、当初翌(昭和35年)2月に予定していた改軌工事を復旧工事と同時に実施することを決断。 工事は同年に完成し、これにより名古屋 - 大阪間および名古屋 - 伊勢間の直通運転が可能となり、利便性が一気に向上した。 は海上に仮線を敷設することで復旧され、海水が排水されるまでは列車が海面すれすれの仮線上を走行していた。 なお最後に復旧したのは路線では(現・)の同年、それ以外の路線ではの(昭和36年)であった。 との間の陸上交通網(・・近鉄)が遮断されたため、志摩観光汽船株式会社(現・株式会社)が - - 間で海上で代行運航を実施した。 その年の秋季大会、第8回に出場予定だった三重県、愛知県、岐阜県の各県代表選手たちは台風の被害が大きいことを理由に大会を棄権した。 この台風により、の一部が地表に現れることとなった。 アメリカ合衆国の女優、は夫のスティーブ・パーカーとともにアメリカ合衆国国内で当時の2万ドルを集め、朝日新聞厚生文化事業団に寄託。 このお金で同事業団が東海3県で被災に遭った47校(愛知県内30、三重県内15、岐阜県内2)にピアノを贈呈した。 逃げる前に汚物が流れないようににゴザを被せて避難する人もいた。 この台風で半田市にあった競艇場であったでは大半の施設が破壊され、復旧がほぼ不可能になったことで、この日より休止し、1964年3月末で正式に閉場して廃止された。 伊勢湾台風を題材とした作品 [ ]• 『傾ける海』(、)• 『』(、・製作の連続ドラマ。 伊勢湾台風によって家族が行方不明となったという設定)• 『』(公開の)• 『川のある街:伊勢湾台風物語』(の小説。 から同年まで朝刊にて連載)• 『』(2009年、制作の。 伊勢湾台風で生き別れた家族を描いた)• 『それぞれの伊勢湾台風』(公開の映画)• 『人間交差点』3巻『流された記憶』(原作・矢島正雄、作画・弘兼憲史による青年漫画)• 『あさドラ!』2018年〜(原作・による青年漫画)• 『伊勢湾台風STORY「空が落ちてきた日。 」』2019年〜2020年(脚本・作曲・演出によるミュージカル) 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2009年10月)• 「気象」1986年10月号• 「台風経路図30年集」1973年 財団法人日本気象協会• 「'56〜'65年天気図10年集成」1973年版 財団法人日本気象協会• 「台風に備える」1972年• 「四季の天気予報と気象災害」1968年 予報技術研究会• 「河川便覧 平成十六年版」2004年 監修・国土開発調査会編• 鳥羽市観光協会50周年記念誌編纂委員会 編『鳥羽の観光50年』鳥羽市観光協会、昭和55年9月15日、289pp. その他多数 [ ] 関連項目 [ ]• - 伊勢湾台風資料室が常設されている• -伊勢湾台風の資料展示や体験コーナーなどがある。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 伊勢湾台風の犠牲者数(死者・行方不明者合計数)については、消防白書の「5,098人」以外にも、「5,041人」「5,101人」と、計3種の数字が発表されている。 これらのうち、室戸台風は戦前に発生した台風である。 死者1233人、行方不明48人、負傷者5688人。 当時の満潮時間は9月27日0時45分で、伊勢湾台風が名古屋市に最接近したのは26日21時30分頃であったから、3時間以上のずれがあり、また、当時の月齢は24. 0で、これは小潮に近いものである。 潮汐と月齢は『中部日本新聞』(現『』)9月26日朝刊及び夕刊による。 一方、児童本の「伊勢湾台風物語」においては満潮時刻は26日21時35分と記載されている。 日本において放送が開始されたのはである。 出典 [ ]• p11 2004年10月19日. 2006年9月28日時点のよりアーカイブ。 2017年10月22日閲覧。 www. bousai. 2020年4月12日閲覧。 伊勢湾台風50年事業実行委員会公式サイト. 愛知県庁 2009年7月8日. 2009年7月8日時点のよりアーカイブ。 2017年10月22日閲覧。 気象庁 2015年9月12日. 2015年9月12日閲覧。 agora. nii. 2020年4月22日閲覧。 agora. nii. 2020年4月7日閲覧。 『』 PDF 名古屋地方気象台(原著2009年5月15日)。 2009年10月4日閲覧。 内閣府. 2020年5月8日閲覧。 『伊勢湾台風災害誌』(三重県、昭和36年)西川洋「現代三重県の展開」 橋本紀昭・駒田利治・勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋『三重県の歴史』山川出版社 2000年 293頁• 『日本の干拓地』(原著2006年2月10日)。 2020年4月13日閲覧。 「」『広報ぼうさい』第48号、、2008年11月、 2009年10月4日閲覧。 『』 PDF 内閣府〈災害教訓の継承に関する専門調査会報告書〉(原著2008年3月)。 2009年10月4日閲覧。 「政治家の正体」 講談社• 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会「1959年伊勢湾台風報告書」平成20年3月146ページ• 『』1962年10月号(通巻16号)p65 白井昭 電車海を走る 伊勢湾台風を偲ぶ• 高杉造酒太郎編 『伊勢湾台風災害調査報告』 日本建築学会、• 鳥羽市観光協会50周年記念誌編纂委員会 編(1980):258ページ• 田中喜久雄. 歴史の情報蔵. 三重県環境生活部文化振興課県史編さん班. 2016年4月18日時点の [ ]よりアーカイブ。 2016年4月18日閲覧。 諏訪兼位・宮川邦彦・水谷総助・林田守生・大岩義治(1997)"紀伊半島中部,中央構造線の大露頭:月出露頭(三重県飯南郡飯高町月出ワサビ谷)"地質学雑誌(). 103 11 :XXXV-XXXVI. 、朝日新聞2016年10月6日付、よりアーカイブ。 カレントアウェアネス・ポータル 図書館に関する情報ポータル. 国立国会図書館 2019年6月7日. 2019年10月9日閲覧。 外部リンク [ ]• - - 名古屋市が作成した記録映像•

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伊勢湾台風 昭和34年(1959年) 9月26日~9月27日

伊勢 湾 台風 死者

猛烈な勢いで発達し、今日にも伊勢湾台風並みの規模に ちょっとこれはかなりヤバイ感じです。 日本に向かって右旋回しそうな台風19号。 ことし日本に上陸、接近した台風では飛び抜けて最大、最強といわれています。 中心気圧はなんと8日夜には猛烈な規模、 900hPa、 最大瞬間風速は85メートルまで発達すると予測されているから、関東で電柱をなぎ倒した先日の15号より、遥かに大きいスケールです。 伊勢湾台風並みの気圧、風速か ちなみに死者行方不明5000人を超えた 伊勢湾台風(1959年9月26日に潮岬に上陸)は、 中心気圧895hPa、最大瞬間風速85mだったから、ほぼ同じ規模。 幼少体験として伊勢湾台風を知っているものとしては、規模を聞いただけで恐怖感を感じます。 家の補強、水、非常食、スマホの充電など準備は怠りなく 昔は10月の台風など、まず上陸はあり得なかった。 台風の進路も台湾から北上、沖縄い、九州上陸、中四国を舐めるように東進するのが、台風のオーソドックスな進路だった。 やはり地球温暖化による海面温度の上昇が、台風の発生、進路にも影響しているようだ。 先日の千葉のような大停電も心配だ。 家の心配な部分は板を打ち付けたり、窓ガラスは内側からガムテープで補強したり、昔はオヤジが普通にやっていたことをやろう。 オール電化は停電になったらどうしようもない。 乾電池やロウソクも準備。 スマホの予備電池は充満を。 ガスコンロのボンベ、水もたくさん用意しておく必要があるだろう。 そして2台の クルマのガソリンは満タンに。 先日の千葉県の被害は、他山の石とすることがたくさんあります。 また予測コースを見るとまた関東直撃の可能性も。 千葉の停電復旧は仮復旧が多いと思われます。 更なる被害が拡大しないよう祈るばかりです。 もりもと なおき.

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