ずば抜けた才能だったがために、継承者がいなかった」。 一貫斎の望遠鏡を復元した「国友一貫斎科学技術研究会」の広瀬一実会長は、悔しそうに語る。 一貫斎はオランダからの輸入品を参考に日本初の空気銃を作り、独自に改良して連発銃も開発。 油を自動的に補充する灯明「ねずみ短檠(たんけい)」や鋼製弩弓(どきゅう)(クロスボウ)、懐中筆(現代の筆ペン)などを次々と考案した。 「製作には至っていないが、飛行機の図面も引いた。 江戸の発明家として著名な平賀源内より功績は大きい」と太田浩司・長浜市学芸専門監は力説する。 受け入れるだけの科学的、産業的な素地が日本でまだ育っていなかったのだろうか。 埋もれていた彼の業績を顕彰しようと昨年秋、地元で再評価委員会が結成された。 長浜商工会議所副会頭の堀川隆幸・長浜キヤノン社長が委員長となり、藤井勇治市長らも参加。 広瀬さんもメンバーの一人だ。 これまでに演劇などのイベントを2回催し、3月には講演会を開く。 専門家らと連携し、関連資料の調査研究にも取り組む方針だ。 「伊能忠敬のように、その功績が広く知られるようになってほしい」。 広瀬さんらの思いは強い。 文 大阪・文化担当 竹内義治 写真 大岡敦.
次の国友一貫斎 年表 こちらでは、年表を通じて国友一貫斎の生涯を紹介しています。 安政7年 (1778) 10月3日 坂田郡国友村(長浜市国友町)で生まれる。 寛政6年 (1794) 家督を相続する。 9代目藤兵衛。 17歳。 文化8年 (1811) 彦根藩御用掛となる。 彦根藩の注文により、200目玉大筒を造る。 彦根事件が起きる(国友鉄砲鍛冶年寄との対立)。 34歳。 文化10年 (1813) 結婚。 国友鉄砲鍛冶年寄が、彦根事件を幕府に訴える。 36歳。 文化13年 (1816) 5月 彦根事件で江戸に呼び出される。 39歳。 文政元年 (1818) 10月5日 11月1日 江戸の山田大円宅で将軍家に伝わるオランダ風砲の実物を見る。 風砲(気砲)製作に着手する。 『大小御鉄砲張立製作』を著わし、松平定信に献じる。 41歳。 文政2年 (1819) 3月9日 最初の気砲(風砲)を完成し、丹後峰山藩主京極高備(たかまさ)に献じる。 42歳。 文政3年 (1820) 江戸の成瀬正寿(まさなが)宅で、オランダ製の反射望遠鏡を見る。 43歳。 文政4年 (1821) 江戸より国友へ帰村。 44歳。 文政7年 (1824) 神鏡を考案し、国友日吉神社などに奉納する。 47歳。 文政9年 (1826) 鋼製弩弓(こうせいどきゅう)が完成する。 49歳。 文政11年 (1828) 懐中筆・玉燈を考案する。 51歳。 天保3年 (1832) 6月20日 反射望遠鏡の製作に着手する。 55歳。 天保4年 (1833) 10月11日 反射望遠鏡が完成する。 この日から天体観測を始める(国友一貫斎文書・図面)。 56歳。 天保5年 (1834) 2月18日 月面を描く(国友一貫斎文書・図面)。 天保5年 (1834) 2月19日 月面を描く(国友一貫斎文書・図面)。 天保5年 (1834) 3月9日 月面を描く(国友一貫斎文書・図面)。 天保5年 (1834) 3月13日 月面を描く(国友一貫斎文書・図面)。 天保6年 (1835) 正月6日~ 天保7年 (1836) 2月8日 1年2ヶ月に及ぶ、太陽黒点連続観測(総観測回数212回、158日)を行なう(国友一貫斎文書・図面)。 天保7年 (1836) 4月26日 大白星(金星)・木星・土星を描く(国友一貫斎文書・図面)。 59歳。 天保7年 (1836) 8月9日 月面を描く(国友一貫斎文書・図面)。 天保7年 (1836) 8月15日 五つ(午後4時)過ぎの太陽を描く(国友一貫斎文書・図面)。 天保11年 (1840) 12月3日 自宅で死去する。 63歳。
次のずば抜けた才能だったがために、継承者がいなかった」。 一貫斎の望遠鏡を復元した「国友一貫斎科学技術研究会」の広瀬一実会長は、悔しそうに語る。 一貫斎はオランダからの輸入品を参考に日本初の空気銃を作り、独自に改良して連発銃も開発。 油を自動的に補充する灯明「ねずみ短檠(たんけい)」や鋼製弩弓(どきゅう)(クロスボウ)、懐中筆(現代の筆ペン)などを次々と考案した。 「製作には至っていないが、飛行機の図面も引いた。 江戸の発明家として著名な平賀源内より功績は大きい」と太田浩司・長浜市学芸専門監は力説する。 受け入れるだけの科学的、産業的な素地が日本でまだ育っていなかったのだろうか。 埋もれていた彼の業績を顕彰しようと昨年秋、地元で再評価委員会が結成された。 長浜商工会議所副会頭の堀川隆幸・長浜キヤノン社長が委員長となり、藤井勇治市長らも参加。 広瀬さんもメンバーの一人だ。 これまでに演劇などのイベントを2回催し、3月には講演会を開く。 専門家らと連携し、関連資料の調査研究にも取り組む方針だ。 「伊能忠敬のように、その功績が広く知られるようになってほしい」。 広瀬さんらの思いは強い。 文 大阪・文化担当 竹内義治 写真 大岡敦.
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