古墳 発掘。 高松塚古墳の「21」の呪い 発掘関係者が次々に犠牲になったのは被葬者の祟りなのか?

発掘調査でわかったこと/高槻市ホームページ

古墳 発掘

は、日本最大の古墳にしての代表例。 は 百舌鳥耳原中陵 ( もずのみみはらのなかのみささぎ )と呼び、の(別名:仁徳天皇陵)と 治定 ( じじょう )している。 画像は を基に作成。 古墳(こふん)とは 、原義・第1義としては「古い」「古人の墓」を意味する。 少なくとも中期以来の()であるが 、第2義・的語義・以降の語義としては「(封土)をしたの」「」を意味する。 そしてまた、最狭義には、の古代に属する一(という)に築造された特定の形態の墳丘墓を指す用語である。 高塚(たかつか)ともいう。 において位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。 「古墳」という日本語は、古代 から にかけては「古人の墓」全般を指す語であったが 、墳丘をもつ墓が知られていたより古い時代()にも存在することが考古学の発展によって判明して以来 、「出現以降の、墳丘をもつ古い墓」を指す語に変わり 、弥生時代に続く古墳築造の隆盛期を「 」と呼ぶようになった。 なお、 本項はこれ以降、特筆しない限りは日本の古墳について解説する。 現代日本語「古墳」に相当する現代は が通例であるが、"ancient burial mound" など ( 意:、墳丘墓、ほか)に説明を付け加える形でのかなり曖昧な言い回し も多く、特に日本に限定する場合は "in Japan" を付け加える などする。 概要 [ ] 考古学者・は「造成や経営を積極的に進めたたちが、自らが開発した地域を見渡せる場所に古墳を造営していった」と説明している。 古墳は、規模や化粧方法の違いによって類別されるほか、その平面形状、さらに埋葬の中心施設である主体部のやによって細かくされている。 墳丘の築造にあたっては、盛り土部分を堅固にするため砂質土や粘性土を交互につき固める工法で築成されるものも多いこと、こうした工法はやに大規模な建物の基礎を固める工法として広く使用されていることが、修繕時の調査などで判明している。 北海道式古墳としてがある。 7世紀から10世紀に北部やで造られた墳墓で、「蝦夷塚」とも呼ばれる。 発生 [ ] 古墳は、規模・形状、およびその他の要素において、の墓制にとって変わったものでなく、非常に変化した墓制としてあらわれた。 それは、特定少数の埋葬法であり、同時代の集団構成員の墓と大きく隔たっている。 さらに、地域的にも不均等に出現する。 古墳の発生は、墓制の単なる変化や葬送観念の変化にとどまらず、社会・政治の全般に関わる問題として現れた。 古墳発生の問題は、戦前から議論されていた。 その中で、この問題を日本古代国家の形成途上におけるの課題として位置づけたのはであった。 具体的には、伝世鏡論 と同笵鏡 論を展開した。 この両論に疑問を表明したのは、、、伝世鏡論に疑問や同笵鏡の分有関係の解釈について斎藤忠、系統的・理論的に批判した内藤晃、鏡の賜与だけをもって大和政権と地方首長との政治関係の成立を考察するのは困難とするなどがいた。 所在地・数 [ ] ここでは、日本における周知の古墳の数について解説する。 周知の古墳は「」の代表的な一つであり、未調査・未認定のものが加わったり破壊されて消滅することによって数が変動する。 周知の古墳の数(別) - (平成13年度)末付け、発表。 第1位 (16,577基)、第2位 (13,112基)、第3位 (13,094基)、第4位 (11,311基)、第5位 (11,310基)。 全国総計 161,560基。 周知の古墳の数(都道府県別) - 度(平成29年度)末付け、文化庁、2018年(平成30年)5月21日発表。 第1位 兵庫県(17,647基)、第2位 鳥取県(12,546基)、第3位 京都府(11,556基)、第4位 (11,038基)、第5位 千葉県(10,494基)。 都道府県別で最も数が多いのは兵庫県であり、この順位が変動する可能性は目下のところ低い。 しかし2位以下は大きな変動を見せている。 形状 [ ] も含めて往時の姿を復元された(4世紀末-5世紀初頭。 五色山に所在)は、日本で最初に復元整備が行われた古墳である。 日本の古墳には、基本的な形の・を始め、、、()・(・)・・()・()などの種類がある。 また、・・()・などの山が2つある古墳もある。 主要な古墳は、山が2つあるタイプの古墳であることが多い。 その他、墳丘を石で構築した、石室に線刻、絵画などを施した、石室の壁に絵画を細越した壁画古墳(・)、埋葬施設の一種であるなどがある。 が葬られる埋葬施設には、様々な形状が見られる。 古墳は、「不樹( きうゑず)」すなわち木を植えず、大規模に封じて()造成された。 完成後は手を加えがたいあるいは足すら踏み入れがたいのような区域になり、何らかの思想を背景にあえてそうしたのか、単に放置するしかなかったがゆえかは分からないが、盛られたを苗床にして自然のが施設全体を覆ってゆくに任せる状態になるのがほとんどで、長い時間が経過することにより、あたかも自然のようになる。 つまり、往時の古墳は自然豊かな環境の中に忽然と現れた草1本生えない巨大な的人工構造物であったが、時が流れて、今ではほとんどの古墳が植生豊かな自然の領域に変容している。 周辺が民家やビルの建ち並ぶになった古墳も多く、往時とは正反対に、人工構造物の区域に囲まれた緑地になっている。 なお、やのように造成当時の状態に復元されたものもある。 埋葬施設 [ ] 古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。 高塚山1号墳の石室/元は兵庫県多聞町に分布する高塚山古墳群に属していた古墳の石室で、西神中央公園(神戸市糀台6丁目所在)に移されたもの。 基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間は無い。 ・・・などがある。 このうち、は、墓坑の底に棺を設置した後、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものである。 前期から中期に盛行する。 は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされる。 古墳時代前期中頃から中期にかけて盛行した。 は、板状の石材で遺骸のまわりを箱状に囲いこむもので、以来の埋葬法である。 木棺直葬は、墓坑内に顕著な施設を造らずに木棺を置いただけのもので、以来の埋葬法である。 横穴系のものは、地上面もしくは墳丘築造途上の面に構築され、その上に墳丘が造られる。 ・などがある。 横穴式石室は、通路である部と埋葬用の空間である部をもつ。 石室を上から見たとき、羨道が玄室の中央につけられているものを「両袖式」、羨道が玄室の左右のどちらかに寄せて付けられているものを「片袖式」と呼ぶ。 玄室内に安置される棺は石棺・木棺・乾漆棺など様々である。 玄室への埋葬終了後に羨道は閉塞石(積み石)や扉石でふさがれるが、それを空ければ追葬が可能であった。 古墳時代後期以降に盛行する。 横口式石槨は、本来石室内に置かれていた石棺が単体で埋葬施設となったもので、古墳時代終末期に多く見られる。 棺 [ ] 古墳時代には死者を棺に入れて埋葬した。 棺の材料によって、 、、、などがある。 木棺のうち、刳り抜き式のものは、巨木を縦に2つに割って、それぞれの内部を刳り抜き、蓋と身とが作られたものと考えられ、「」と呼び習わされている。 ただ、巨木を2つに割るとはいうものの、竹を2つに割るように簡単にはいかないので、用語として適切かどうかを指摘する者もいる。 次に、「組合式」といわれる木棺は、蓋、底、左右の側板、計四枚の長方形の板と、前後の方形の小口板、時には別に仕切り板が付くこともあるが、2枚とを組み合わせて作った。 木棺は、土に埋め土を被せていた。 日本の古墳の体積と築造に要した労働力 [ ] 必要労働力の推定 [ ] 古墳には大小様々あり、その体積を計算すると、前方後円墳に限定しても約210万立方メートルの大仙陵古墳(2018年4月13日から墳丘が一回り大きくなったため、現在労働力の見直しを検討中)といった巨大なものから、約400立方メートルの小型のものまで差が大きい。 古墳の体積から必要労働力を推定した研究 はいくつかあるが、その中でも仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳についてが算出したもの が精緻である。 大林組による算定にあたり、いくつかの前提・推定が与えられている。 計画の前提条件• 建設時期は現在(1985年)とし、仁徳天皇陵と全く同規模の墳墓を古代工法により再現する。 建設の範囲は墳丘・2重濠までとし、3重目の濠や陪塚は含まない。 工事は現代人が古代工法で行い、古代工法は古墳時代当時の土木工事に従う。 建設場所は現在の陵の敷地とし、地表は雑草・灌木に覆われた洪積台地とする。 客土材は陵の西側の土取り場より採取する。 葺石は石津川から採取する。 工事関係者の労働条件・労働賃金などは現在の社会に従う。 施工条件• 建設用工具は鉄製または木製のスキ、モッコ、コロを使用する。 労働者はピーク時で1日2000人とし、牛馬は使用しない。 作業時間は、1日8時間、ひと月25日間とする。 建設事務所は陵の敷地内、労務宿舎を客土採取場の中に置く。 その他前提条件• 作業員数をピーク時で日当たり2000人と設定。 伐開除根面積は36. 86万平方メートル。 墳丘土量140. 5866万立方メートル、外濠掘削・盛土13. 9万立方メートル、内濠掘削・盛土59. 9万立方メートル、客土掘削・盛土74. 2万立方メートル。 葺石536. 5万個(1. 4万トン)。 埴輪1. 5万個。 葺石運搬のための水路を掘削。 埴輪の製造は工事見積もりに含まない。 見積もりした工程別の施工期間• 伐開除根・地山均し:3. 3ヶ月。 測量・地割・丁張りほか:2. 3ヶ月。 外濠掘削・盛土:11. 4ヶ月。 内濠掘削・盛土:46. 1ヶ月。 客土掘削・盛土:103ヶ月。 葺石運搬用水路掘削:5. 2ヶ月。 葺石採取・設置:142ヶ月。 埴輪設置:48ヶ月。 石室工事:6ヶ月。 運搬路撤去:6. 1ヶ月。 後片付け:3. 2ヶ月。 総工期:15年8ヶ月(並行工程があるため上記合計より短い)。 見積もりした工程別の作業員数• 土掘削:67万人。 土運搬:446万人。 盛土:24. 3万人。 伐開除根、測量、排水工事その他:43. 4万人。 葺石採取と選別:8万人。 葺石運搬:9万人。 葺石設置:2. 5万人。 埴輪工程:埴輪製造の作業員については不確定要素が多く除外。 施工管理:作業員10人に1人の世話役を配する労務編成を単位とし、ピラミッド型の階層構造になっていたと想定。 総作業員数:680. 7万人。 総工費:796億円(1985年当時の貨幣価値) 設計値としての古墳の体積 [ ] 上記の労働力推定の研究にとって、体積の把握が大前提となっている。 263年と言えば日本では古墳時代の最初期に相当する。 は現代の補足。 今有冥谷、上廣二丈、袤七丈、下廣八尺、袤四丈、深六丈五尺。 問、積幾何。 荅曰、五萬二千尺。 載土往來二百步、載輸之間一里、程行五十八里。 六人共車。 車載三十四尺七寸。 問、人到積尺及用徒各幾何。 荅曰、人到二百一尺五十分尺之十三、用徒二百五十八人一萬六十三分人之三千七百四十六。 術曰、以一車積尺乘程行步數爲實。 置今往來步數、加載輸之間一里、以車六人乘之爲法。 除之、所得卽一人所到尺。 以所到約積尺、卽用徒人數。 今、冥谷有り、上広二丈、袤七丈、下広八尺、袤四丈、深六丈五尺。 問う、積は幾何ぞ。 答えに曰う、五万二千尺。 土を載して往来すること二百歩、載輸の間一里、程行五十八里。 六人、車を共にす。 車に載すること三十四尺七寸。 問う、人の到す積尺及び用徒、各々幾何ぞ。 答えに曰う、人の到すこと二百一尺五十分尺の十三、用徒二百五十八人一万六十三分人の三千七百四十六。 術に曰う、一車の積尺を以て程行歩数に乗じて実と為す。 今の往来歩数を置き、載輸の間一里を加え、車六人を以て之に乗じて法と為す。 之を除すれば、得る所は即ち一人の到す所の尺なり。 到す所を以て積尺を約せば、即ち用徒の人数なり。 角括弧[ ]内は補足文。 丸括弧( )内は解説文。 今、冥谷がある。 問う、体積は如何ほどであるか。 答えにいう、52000立方尺。 [荷車に]土を積載して往復すること200歩、積み卸し分は1里、規程の仕事量は歩行距離58里である。 6人で1台の荷車を共に使う。 [1台の荷車の]積載量は34. 7立方尺。 問う、1人が運び出す体積及び必要な人夫の延べ人数は、それぞれ如何ほどであるか。 術にいう、荷車の積載量を規程の仕事量の歩数に掛けて、実とする。 今の往来の歩数を置き、積み卸し作業分1里を加え、車6人をこれに掛けて、法とする。 実を法で割ると、得られた値は、すなわち1人の運び出す体積である。 その体積で冥谷の容積を割ると、すなわち必要人夫数になる。 この内容から、古代中国では墳墓を築く際、その土木工事の施工計画に体積を用い、労働力の計算を実際に行っていたことを窺い知れる。 日本でも古墳築造時において、設計値としての土量あるいは体積が、古墳の計画的築造を決定・把握する上で非常に重要な数値であったとする考え方がある。 古墳時代の終焉 [ ] 薄葬と厚葬 [ ] には、に関して「厚葬」と「薄葬」という2つの対立する考え方があった。 両者には葬儀が手厚いか簡略かの違いがあり。 その考え方の違いの根底には異なったが存在していた。 墳丘を造っているかどうかで、厚葬( こうそう)か薄葬( はくそう)かの違いを区別することができる。 つまり、死後、墓とした土地を永久にできるかどうかで区別する。 日本のは、厚葬から薄葬へと形式が移行したことで終わりを遂げ、が到来した。 薄葬令 [ ] [大化二年]三月癸亥朔(... ) 甲申、詔日、朕聞、西土之君、戒其民日、古之葬者、因高爲墓。 不封不樹。 棺槨足以朽骨、衣衿足以朽宍而己。 故吾營此丘墟、不食之地 欲使屠代之後、不知其所。 無藏金銀銅鐵。 一以瓦器、合古塗車・蒭靈之義。 棺漆際會三過。 飯含無以珠玉。 無施珠襦玉柙。 諸愚俗所爲也。 叉日、夫葬者藏也。 欲人之不得見也。 廼者、我民貧絶、專由營墓。 爰陳其制、尊卑使別。 夫王以上之墓者、其内長九尺、濶五尺。 其外域、方九尋、高五尋。 役一千人、七日使訖。 其葬時帷帳等、用白布。 有轜車。 上臣之墓者、其内長濶及高、皆准於上。 其外域、方七尋、高三尋。 役五百人、五日使訖。 其葬時帷帳等、用白布。 擔而行之。 (蓋此以肩擔輿而送之乎)。 下臣之墓者、其内長濶及高、皆准於上。 其外域、方五尋、高二尋半。 役二百五十人、三日使訖。 其葬時帷帳等、用白布、亦准於上。 大仁・小仁之墓者、其内長九尺、高濶各四尺。 不封使平。 役一百人、一日使訖。 大禮以下、小智以上之墓者、皆准大仁。 役五十人、一日使訖。 凡王以下、小智以上之墓者、宜用小石。 其帷帳等、宜用白布。 庶民亡時、牧埋於地。 其帷帳等、可用麁布。 一日莫停。 凡王以下、及至庶民、不得營殯。 凡自畿内、及諸國等、宜定一所、而使収埋、不得汚穢散埋慮々。 凡人死亡之時、若經自殉、或絞人殉、及強殉亡人之馬、或爲亡人。 藏賓於墓、或爲亡人、断髪刺股而誅。 如此奮俗。 一皆悉斷。 或本云、無藏金銀錦綾五綵。 又曰、凡自諸臣及至于民、不得用金銀。 縦有違詔、犯所禁者、必罪其族。 引用元は明らかに『』の巻1「武帝紀」と巻2「文帝紀」であり、よって、ここでの「西土の君」とは(魏の武帝)と(魏の文帝)のことと分かる。 内容を見るに、従来の墓の規模に比して遙かに縮小しており、簡素化している。 つまり、厚葬の時代は過去となり、世は薄葬の時代へと移行していた。 これらの知見から判断して、現代の研究者は大化2年に敷かれた係る葬制を「薄葬制」と呼ぶようになった。 この詔が発せられた社会的背景としてとの関わりを指摘する 研究者 [ ]もいる。 未盗掘古墳の重要性は、との位置関係(どの遺物が、どの遺構のどの場所に、どのような形で副葬されていたか)を当時のまま伝えてくれるところにあり、その情報が記録されていなければ価値を大きく損ねてしまう。 また、複数の埋葬施設を有する古墳では、そのいくつかが未盗掘状態で残されていることがあり、そのような場合は「準未盗掘古墳」などと呼ばれる。 古墳が盗掘されることなく残されたパターンは、次の二つがある。 一つはそこが古墳であると認知されていなかったというパターンで、にとして利用された滋賀県などが当てはまる。 また、最近の調査では、未盗掘またはほぼ未盗掘であることが判明した場合、あえて発掘せずに埋め戻すこともあり、2010年(平成22年)に調査された兵庫県などはその一例である。 宮内庁管理下陵墓 [ ] ・・がされているとの埋葬されているを合わせたと、陵墓の参考地は、以降現在では(以前はその前身機関)が管理下に置いている。 および後身の現・宮内庁は管理下になる陵墓について、学術調査を含む一切の立ち入りを厳しく制限しており、や等の学術団体の調査要求であっても基本的に拒否の方針を執ってきた。 許可がほとんど下りることなく、下りたとしても極めて限定された範囲に抑えられているため、係る分野の研究は重要な部分の知見を欠いたままでの発展を余儀なくされてきた。 なお、陵墓の埋葬者の比定はの・などの手による文献研究を踏襲し、時代にが決定したもので、その後の考古学研究の進展により、緻密な編年作業が進展し、考古学者の比定と齟齬が生じているものも見られるようになった。 宮内庁が管理する陵墓は、を中心に、北はから南はまでの1都2府30県に亘って分布している。 箇所数としては、同域のものを一つと捉えることから、460箇所を数える(2020年時)。 宮内庁が管理する陵墓を墳丘長の長いほうから順に挙げれば、以下のとおり。 内容は、左から順に、1. 宮内庁管理下の墳墓のランキング 、2. ( )内に宮内庁管理外の古墳も含めた全国ランキング 、3. 宮内庁治定の埋葬者名に準じた名称の一つ、4. ( )丸括弧内に的名称、5. 墳丘の全長。 第1位(第1位) 陵() 525m• 第2位(第2位) 陵() 425m• 第3位(第3位) 陵() 360m• 第4位(第6位) 畝傍陵墓参考地() 310m• 第5位(第8位) 陵() 300m• 第6位(第11位) 大市墓() 280m• 第7位(第12位) 陵() 275m 宮内庁は等の祭祀を現在も行っており「陵墓の静安と尊厳の保持」等の理由で 補修時の限定的な見学を除いて陵墓の学術調査を規制していた。 しかし、2005年(平成17年)に日本考古学協会などの15の学会が調査を認めるよう要請したことを受け 、2007年(平成19年)1月に陵墓管理の内規を改め、墳丘部への立ち入りや写真撮影を認めるようになった。 最初に許可が下りて調査されたのは、2008年(平成20年)2月に実施された陵() であった。 その後、3基を経て、2011年(平成23年)2月18日には陵()に天皇陵で初めての許可が下され 、に調査された。 2013年(平成25年)2月20日午前実施の大市墓() 、同日午後実施の衾田陵() など、この日までに9つの陵墓で立ち入り調査が行われている。 2015年(平成27年)2月20日には陵()の調査が 、同年12月4日には陵()の調査が行われた。 2018年(平成30年)10月15日には( cf. )に登録されて間もない陵()に許可が下され 、11月22日に宮内庁とが共同で発掘調査を実施したが、これは(前身機関も含めて)宮内庁が外部機関と共同で行う初めての発掘調査となった。 研究者は陵墓の文化財としての側面を認めるものとして歓迎しており、発掘を含めさらに調査を拡大するように求めている。 研究者 [ ]• (1768年 - 1813年)• 江戸時代後期の。 山陵(天皇陵)を踏査して『』を著した。 「」という用語を初めて使った。 (1842年 - 1922年)• 明治政府がより大阪造幣寮(現・)に招聘した兼技師で、( 西暦換算:)から(明治21年)にかけての16年に亘る滞日中に、本務の余暇をみてはこつこつと古墳研究を進めていった。 当時の日本人のほとんどは彼の研究の内容と意義を知らなかったが、のちに「日本考古学の父」と讃えられることとなる。 ゴーランドは帰国して9年後のに " The dolmens and burial mounds in Japan( :日本のドルメンと古墳)"を、次いで翌に " The Dolmens of Japan and their Builders( 和題:日本のドルメンとその築造者)" を発表した。 日本の古墳のなかでもとりわけゴーランドを惹きつけたのは、巨石を使って構築されたであった。 彼が調査した横穴式石室は460基で、そのうち実測図を作成してデータを計測したのは130基であった。 調査地域はからの15府県に亘っている。 課題 [ ] 環境の影響という面でも、が劣化した例に顕著なように、外部から持ち込まれたもの( かび、など)が汚染を招くという事態が多くなっている。 観光化に伴うこうした例はと密着しているために根絶を求めるのは難しく、古墳やの保護のためにできるだけを最小限に留めるのが今後の課題となっている。 古墳の破壊も後を絶たない。 古墳時代にすでに古墳が破壊されていたことが発掘などにより明らかになっているが、これらは政治的意図と思われる。 しかし年月が経過すると、土地使用に供するために古墳を破壊するようになった。 古くは、建設のために(平城天皇陵)の一部などが破壊された。 のための破壊は歴史を通じて見られた。 中世には高台や水濠を備えていたことからへの改修に最適地形とされ、特にやによって多くが破壊された。 には、なかでもには、造成を事由に数多くの古墳が破壊されてきた。 大戦後に破壊された最大の古墳は全長168メートルを誇っていた(大阪府に所在した)で、1949年(昭和24年)の宅地造成工事で全てを削り取られて消滅した。 しかしその後、破壊の危機に瀕した同じく堺市のの保存運動などをきっかけに、古墳は保存すべき文化財であるとの認識が広まり、大規模な破壊は無くなっていった。 とは言え、2005年(平成17年)にはが破壊されるなど、小規模な古墳の破壊は後を絶たない。 また、工事の最中に発見された小さな古墳が、公にされないまま、文化に対するの低い者によって破壊されている可能性は常にある。 古墳の名前 [ ] 日本にある近現代のの名称は、その遺跡の古来の所在地名に倣って、その地の( おおあざ)や( こあざ)を付けることを原則にしている。 しかしそれが、例えば「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」などといった地名は、日本各地にいくらでもある。 また、なかには同じ内や同じ内に複数存在する場合まであり 、そういったものはが進行に連れてますます増化傾向にある。 長崎県にある「」や「」のように、元の土地所有者のを固有名詞的構成要素とする珍しい古墳名もある。 後世の城砦化 [ ] で描画した のの形態の一つである「」は、のがとを備えていることから、この地形を利用して構築されている。 同じように、古墳も堀と高台を備えているため、この地形を利用して後の世に城砦が築かれることもあった。 城砦に利用された古墳の一覧 [ ] 都道府県の記載順は に準じる。 この一覧はです。 して下さる。 関東地方• - 埼玉に所在。 の際にが陣を構えた。 - 埼玉県に所在。。 中部地方• - 市場に所在。 岩崎城。 - 愛知県に存在した。 の際に陣営の砦として利用され、田中砦と呼ばれた。 - 愛知県青塚新町に所在。 小牧・長久手の戦いの際に豊臣秀吉陣営の砦として利用され、青塚砦と呼ばれた。 近畿地方• - 東上坂町に所在。 織田信長・徳川家康が陣として利用し龍ヶ鼻砦と呼んだ。 - 滋賀県新巻町・上羽田町・川守に所在。 室町時代に雪野山城が建てられた。 - 郡家新町に所在。 年間(1716-1736年間)にまとめられた『摂津志』に「今城陵在郡家村永禄中城営」とあり、城として利用されていた記述がある。 - 大阪府津堂に所在。 河内小山城。 - 大阪府藤井寺市藤井寺に所在。 - 大阪府に所在。 が建てられ、戦国大名・の本拠地として利用された。 - 大阪府西大塚・羽曳野市南恵我之荘に所在。 丹下城。 - 大阪府松原市一津屋町に所在。 戦国時代に一津屋城となった。 - 大阪府池尻町に所在。 の際にが砦として使用した。 - 大阪府大仙町に所在。 国見城。 - 大阪府堺市黒山に所在。 - に所在。 柳本城。 - 奈良県狐井・良福寺に所在。 中世から近世にかけて城砦として利用された。 狐井塁と呼ばれていた。 中国地方• - 新庄下に所在。 で砦として二次利用された。 確認中• - に存在した。 歴史に名があるが、もととなった古墳とともに現存しない。 また高屋城との混同も見れれる。 - 大阪府に存在した。 古墳だと言われているが古墳とも中世の城郭跡とも明確な結論がつけにくい構造となっている。 - 大阪府百舌鳥西之町に存在した。 の比定地説が有力。 - 大阪府堺市北区百舌鳥梅町に存在した。 の比定地説が有力。 - 大阪府堺市深井中町に存在した。 歴史に名があるが、もととなった古墳とともに現存しない。 高木大塚城 - に存在した。 を攻める際に織田信忠が陣を構えた。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ] 粵左相府、曩志内催、木幡 古墳、草創新寺。 当時の(漢語)との関係・由来についての資料は未確認。 その問題とは別に、現代中国語では「 古墳( : 古坟)」といい、現代日本語の「古墳」とはあるいは部分同義語の関係で、「古墳」や「古代の墓」を意味する。 ancient tomb mounds in Japan など。 小林の伝世鏡論の筋道は、大体において以下のようなものである。 中期やの中国鏡が永く伝世されたものであることを最初に指摘したの見解を継承した小林は、鏡の永年伝世行為は単なる秘蔵ではなく、鏡(宝器)の伝世こそは首長が宗教的信望を獲得し、その権威を保証されるという目的に使用されたと推測した。 また、それは古墳が出現する前の時代の状況を表していると推定した。 そしてこのように大事な鏡(宝器)を古墳に埋納するようになったのは、もはや鏡のもつ神威によって首長の権威が保証される必要がなくなったからであり、古墳の発生は新しい権威の象徴・表徴であると捉えた。 同じ原形または同一の鋳型から鋳造された鏡。 によって棺材料に使われたの実年代が確定すれば、被葬者の没年に近い年代を求めることができる。 現在、コウヤマキの暦年標準パターンは西暦22年から741年まで完成している。 このセクションでは、許可を下ろす側が主体ということで、「仁徳天皇陵(大仙陵古墳)」などといった、考古学的視点とは異なる皇族視点の記載方法を執った。 例えば、かつての・現在のの地理的にも近い牧野と禁野にあると。 例えば、かつての・現在のの地理的には遠いと木の岡にあると。 ほかにも、枚挙にいとまがない。 もっとも、倉賀野町の前身であるも、中大類村と柴崎村も、江戸時代にはの、領内の集落で、その意味では最初からこの地域に重複して存在していた。 出典 [ ]• 2020年2月18日閲覧。 コトバンク. 2020年2月18日閲覧。 コトバンク. 2020年2月18日閲覧。 コトバンク. 2020年2月18日閲覧。 コトバンク. 2020年2月18日閲覧。 コトバンク. 2020年2月18日閲覧。 コトバンク. 2020年2月18日閲覧。 『旺文社日本史事典』3訂版. コトバンク. 2020年2月18日閲覧。 日国友の会. 2020年2月18日閲覧。 日中対訳辞書. 株式会社. 2020年2月18日閲覧。 on the WEB. 2020年2月18日閲覧。 Weblio辞書. 株式会社. 2020年2月18日閲覧。 英辞郎 on the WEB. アルク. 2020年2月18日閲覧。 [ ]• 公式ウェブサイト. 兵庫県教育委員会. 2020年2月17日閲覧。 『』2018年5月21日夕刊1総合. コトバンク. 2020年2月18日閲覧。 古墳にコーフン協会 2016年3月3日. 2020年2月17日閲覧。 [ ]• [ ]• [ ]• [ ]• [ ]• [ ]• [ ]、ほか多数。 [ ]• [ ]• 日本書紀について. 2020年2月20日閲覧。 , p. , p. 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Nichols and Sons. Gowland, William 1898 英語. The dolmens of Japan and their builders. London: Transactions and proceedings of the Japan Society,. Kenyon, John R. 2005 英語. Medieval Fortifications. ; :. 宮内庁書陵部, 編纂. 「」『書陵部紀要』第5号、、1955年3月。 「応神、仁徳、履中三天皇陵の規模と造営」• 福島大学史学会, 編纂. 「福大史学 31号」『福大史学』第31号、福島大学史学会、1981年2月。 鈴木啓「史跡亀ヶ森古墳の土量と労働量」• 「大阪文化誌」編輯部, 編纂. 「」『大阪文化誌』通巻16号、大阪文化財センター、1983年7月。 石川昇「大阪府の前方後円墳地名表」• 「」『考古学研究』第31巻第1号、、1984年6月。 石川昇「大和の前方後円墳と体積」• 「」、京都考古刊行会、1985年7月1日。 石川昇「丹波・山背の前方後円墳と堆積」• 「」『季刊大林』第20号、、1985年。 大林組プロジェクトチーム「現代技術と古代技術の比較による仁徳天皇陵の建設」• 「」『石川考古学研究会々誌』第31号、石川考古学研究会、1988年。 藤井明夫「平面プラン・体積にみる雨の宮1・2号墳」• 「」『日本考古学』第10巻第15号、2003年、 :。 「今城塚古墳の調査成果」 pp. 139-148。 2010年6月3日. 公式ウェブサイト. 2020年2月18日閲覧。 関連文献 [ ]• 『』・・熊野正也 編、、1989年9月19日。 『』大塚初重・小林三郎 編、東京堂出版、2002年9月24日。 関連項目 [ ] に関連の辞書項目があります。

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高松塚古墳の「21」の呪い 発掘関係者が次々に犠牲になったのは被葬者の祟りなのか?

古墳 発掘

栃木県大田原市にある前方後方墳。 なか 川のに位置し、上侍塚古墳との2基がある。 上侍塚はに長く横たわり、前方部を南に向け、のは約112m、一部にの跡が存在する。 下侍塚はこの北方約700mにあり、上侍塚よりやや小さく、全長約84mで堀の跡が残存する。 この古墳は那須地方でもっとも規模が大きく、墳丘もを保っており、におけるを知るうえで重要である。 江戸時代の1692年(元禄5)に発掘調査が行われていることから学術的にも貴重とされ、1951年(昭和26)に国の史跡に指定。 両古墳とも大きな時期の差はなく、5世紀初頭ごろのと考えられている。 JR東北新幹線ほか那須塩原駅から市営バス「侍塚駐車場」下車、徒歩すぐ。 出典 国指定史跡ガイドについて の解説 栃木県大田原 おおたわら 市湯津上 ゆづかみ に所在する2基の前方後方墳。 車塚ともいう。 南流する那珂 なか 川の右岸段丘上に南面して立地し、北が下侍塚、約700メートル南の古墳が上侍塚。 那須国造 くにのみやつこ 碑の納堂に伴い1692年(元禄5)徳川光圀 みつくに が土地の識者大金重貞 おおがねしげさだ に命じて発掘している。 その記録が「湯津神村車塚御修理」として残されている。 出土品は調査後埋め戻されている。 記録は文章と遺物のスケッチに混乱がみられるが、これらを整理すると上侍塚からは鏡・甲 よろい ・石釧 いしくしろ ・管玉 くだたま ・鉄鏃 てつぞく 、下侍塚からは鏡・刀・土師器 はじき などの出土を知ることができる。 墳丘は上侍塚のほうが大きく全長114メートル、後方部幅60メートル、同高12メートル、前方部幅52メートル、同高7メートル。 下侍塚は全長84メートル、後方部幅48メートル、同高9. 4メートル、前方部幅36メートル、同高5メートル、周湟 しゅうこう がある。 築造時期については双方とも5世紀前半代にあてられよう。 1951年(昭和26)国史跡に指定。 墳丘にはアカマツが植えられ優美な古墳である。 [大金宣亮].

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大山古墳 共同発掘がヤバ過ぎる......

古墳 発掘

wikipedia. 直径約18メートルにおよぶ巨大な円墳は、現在日本で発掘されている古墳のなかでもっとも古いものとして有名です。 古墳内部に描かれた「婦人群像」の壁画は、赤、黄、緑の色を見事に浮き彫りにしており、歴史的価値のある遺産として国宝にも指定されています。 教科書にも掲載されていますので、この壁画を目にしたことがあるはずです。 2009年には本来の形状に復元され、今では一般に公開されています。 そんな高松塚古墳ですが、発掘調査後に関係者が次々と死に見舞われたという話はあまり知られていません。 「ツタンカーメンの呪い」を彷彿とさせるような出来事は、「高松塚古墳の呪い」や「高松塚古墳の祟り」として世間で噂となり、週刊誌に掲載されていたのです。 bell. htm)より画像引用 1970年10月ごろ、村人が生姜を貯蔵するための穴を掘ったところ、その奥から古い切石が見つかりました。 農業の振興と観光をかねた舗道を村内に通す説明会で、観光課の職員が、地元の住民から切石の話を耳にします。 この切石の話を聞いた観光課長のMさんは発掘に人一倍情熱を注いでいました。 発掘計画が順調に進んだのはMさんの功績がとても大きく、Mさんは発掘費用を捻出するため、文化庁や財務局に必死でかけあっていたのです。 1972年3月から本格的な発掘調査が開始され、その月の 21日に石室が発見されました。 厚さ数ミリの漆喰を塗った東壁・西壁・北壁には、極彩色で男子・女子の群像と四神像日月の像が、そして天井石にも星座が描かれており、日本中を驚かせました。 この時・・・ 発掘とともに何かが解き放たれたのでしょうか。 次々と死が関係者に訪れはじめるのです。 最初の犠牲者となったのは、高松塚古墳の発掘事業を推進してきたMさんでした。 古墳の発見後から、Mさんは奇妙な感覚に見舞われるようになります。 家族の話によると、Mさんは毎晩のようにうなされていたのだとか。 発見から2ヶ月後の 5月21日、Mさんは突然胸に痛みを覚えて倒れ、そのまま亡くなってしまいました。 死因は持病だった肺癌なのですが、 あまりのタイミングに村人たちは「古墳の呪いではないか」とささやきはじめます。 同年 8月21日。 この日の朝、高松塚古墳の近くに住んでいたKさんが、全身がだるいと急に苦しみだし、2日後に死亡しました。 その最期は尋常ではなく、全身に紫のアザができ、全身の力が抜けて立っていられなくなり、お腹の中に物がつまったような苦しみ方をして亡くなっていったそうです。 かけつけた医師も手の施しようがなかったといいます。 発掘の手伝いもしていたKさんは、古墳沿いに畑を持っていました。 畑拡張のために鍬で地面を掘り返したところ、 誤って古墳の一部を削ってしまったことへの「呪い」だったのではないかいう話もあります。 そして1年後の1973年 8月21日。 古墳発掘の資金集めに尽力していた自治会長のSさんが、村の寄り合いからの帰宅途中、車にはねられ死亡しました。 Sさんをはねてしまったドライバーは、前をしっかりと見て運転していたにも関わらず、自治会長の姿が見えなかったと証言しています。 また、 車とぶつかった衝撃はそんなに強くなかったにも関わらず、なぜかSさんは即死状態でした。 この3つの事件には、 すべて21日ということが関連しています。 高松塚古墳が発掘された 3月21日と同じ日なのです。 4つめの事件は更に奇怪なものでした。 古墳発掘の際に最初に鍬を入れたNさんが、物置小屋にて農薬を飲んで自殺しました。 Nさんも最初の犠牲者Mさんと同じく、悪い夢にうなされることを家族に話していたそうです。 しかしこれといった自殺の兆候はなく、その日も家族と一緒にTVを見て楽しんでいました。 それなのに、数分後に物置で自殺するという唐突な行動に出ます。 しかもNさんがどこから農薬を入手したのか、経路や形跡は警察の調べでもわかりませんでした。 さらに1974年1月4日。 高松塚古墳の色彩壁画を修復するために、壁画の模写を続けていた画家のWさんが、交通事故で亡くなりました。 ちょうど壁画に描かれていた3人の貴婦人を模写している時でした。 Wさんは日こそ違うものの 、自治会長のSさんが事故に遭った時間帯とほぼ同じだったといわれています。 5人目の犠牲者を最後に、「呪い」は止まっています。 このたび重なる不幸は、単なる偶然が連続して起こったものなのでしょうか。 それとも高松塚を暴いた「祟り」とでもいうのでしょうか。 頭蓋骨が見つかっていない高松塚古墳の被葬者 古代中国には墓誌銘を墓に埋納する風習があり、そこから被葬者が誰であったか特定できます。 しかし古代の日本においてはそうした風習がなく、誰のお墓なのか、多くの古墳でわからないままになっています。 古墳の場所、立地条件、古墳の大きさや規格、副葬品、築造年代・・・ 考古学上の考察と人骨の鑑定などから被葬者像を絞り込み、古文献から候補者を割り出すという手法をとるかないのが現状です。 高松塚古墳も同様に、誰が極彩色の壁画に囲まれて埋葬されたのか、被葬者については議論がなされています。 高松塚古墳で謎なのは、「誰が埋葬されたか」だけではありません。 高松塚古墳の被葬者は、頭蓋骨だけが小破片すら全く発見されていないのです。 石槨内にあった人骨は一体分。 甲状軟骨や舌骨などの小型の骨が中心で、鑑定結果より 「30歳から70歳までの男子で、あえて言えば筋肉たくましい初老の大男であり、一本だけ残っていた歯の摩耗状態からすれば、4,50歳代の可能性が強い」 と考えられています。 頭蓋骨だけは見つからなかったことに関しては、 昭和47年の中間報告書でも「甚だ不思議」と述べられており、今なお解決されていません。 頚椎の骨が残っていることから「斬首」されたとは考えられず、古墳時代の人骨であっても頭蓋骨は残っているのが普通です。 そうなると斬首以外の方法で頭部を除いて埋葬したか、あるいは 盗掘者が頭蓋骨を持ち去ったことになります。 事実、高松塚古墳には何者かが盗掘に入った痕跡が残されています。 bell. htm)より画像引用 上の画像は高松塚古墳の石室の展開図ですが、図の左側に 「盗掘孔」があります。 しかし 「盗掘」と考えてもさらなる謎が残るのです。 高松塚古墳には頭蓋骨のない被葬者の骨と副葬品の他に、 刀身のない鞘が添えられており、 壁画に描かれた 日月像と玄武の顔が削り取られていたのです。 wikipedia. 高松塚古墳に侵入した「盗掘者」は、 金品や価値のありそうな 副葬品には目もくれず、日月像と玄武と壁画を削り、頭蓋骨と鞘のない刀だけを持ち去っていったことになるのです。 これらの謎は何を示すものなのでしょうか。 高松塚古墳は怨霊を封じ込めたものだった? 梅原猛氏は著書『黄泉の王』の中で、 高松塚古墳は「 怨霊を封じ込めた塚」という説を展開しています。 頭蓋骨がない被葬者の骨 鞘だけが残された大刀 削り取られていた日月像と玄武 これらは 呪いの封印だというのです。 盗掘者が暗い石室内で頭蓋骨を探し出し、鞘を残して刀身だけを持ち去る。 この不自然さに梅原氏は疑問を持ち、埋葬当初からこの3つが欠落していたと考えました。 余程の怨念を持つ死者をこの古墳に「 封印」したからではないか。 つまり、高松塚古墳の被葬者は埋葬時にはすでに白骨化しており、 その怨霊の復活を阻止するため、遺体から頭蓋骨を抜き取り、刀身のない鞘を添えて埋葬したのだと梅原氏は推測しているのです。 そもそもは持統天皇の息子・草壁皇子のためのお墓だったそうですが急遽変更。 「しき」という名前がイメージとして浮んでくるらしいです。 高松塚古墳の被葬者を示すメッセージなのでしょうか・・・ ちなみに、高松塚古墳の正式な住所は 「奈良県明日香村上平田 4444番地」 となっています。 「4」は「死」をイメージさせる縁起の悪い数字ですね。 ホテルや駐車場などでは「4」を避けて番号を割り振ることが今なおあります。 そんな縁起の悪い地番をなぜ高松塚古墳につけたのか、心理や意図はわかりませんが、 一説によると、国有地ならクレームが来ないだろうと、縁起の悪い「死に番」を付け、そのまま放置していたとも。 他にもこんな話を見つけました。 高松塚古墳が発見された場所は、古来地元では「古宮」と呼ばれる忌地だったそうで、 橘家紋を持つ9軒の家が代々祀っていたそうです。 「呪い」「怨霊」「呪詛」「死に番」「忌地」・・・ 高松塚古墳には何が眠っていたのでしょうか。 おわりに 5人の犠牲者を出した「高松塚古墳の呪い」。 当時の週刊誌が報じていたらしいというところまではわかったのですが、どの雑誌なのか、ソースを辿るところまではできませんでした。 「高松塚古墳の呪い」の真偽はわからないまでも 歴史の専門家や霊能者の方も口を揃えて「怨霊」「呪詛」と語っていることに、強い興味と恐怖を覚えます。 情報収集のためにいろいろサイトを見て周っていたところ、 「高松塚古墳の呪いのことを書いたその夜、悪夢にうなされた」 という最初の犠牲者Mさん、農薬を飲んだNさんを連想させるライターの書き込みを目にしました。 今夜、何も起こらないといいのですが。 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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