柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 季語。 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

【いくたびも雪の深さを尋ねけり】俳句の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説!!

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 季語

日本の近代の俳句は、明治時代の俳人、正岡子規に始まります。 江戸時代の松尾芭蕉や与謝蕪村の俳諧、発句に親しみ、研究し、俳句の革新運動を精力的に進めた人物です。 生涯に 20万ともいわれる句を詠んだ子規の作品の中で、一番有名だともいわれる句 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。 今回はこの 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の 季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者などについて徹底解説していきます。 「(前略)やがて柿はむけた。 余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。 柿も旨い、場所もいい。 余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。 彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。 余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。 あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。 」 (意味:女中がむいてくれる柿を食べていると、さらに続けて女中は柿を向き続けている。 奈良で食べる奈良の柿の格別な味に感慨を覚えていると、ボーンという鐘の音が聞こえてきた。 女中にどこの鐘かと尋ねると、東大寺の初夜の鐘(午後八時ころ鳴らす鐘)であるという。 ) 柿を食べていたら、意外にも鐘の音が聞こえてきたという体験は、宿で過ごしていた夜の出来事だったのです。 子規は、 このときの感動や驚きを法隆寺の茶店という舞台設定をこしらえて句を作ったのです。 二句切れ• 倒置法• 体言止め になります。 二句切れ 句の中で、「かな」「や」「けり」などの切れ字がつくところ、もしくは意味上、リズム上大きく切れるところ(普通の文であれば句点「。 」がつく箇所)を句切れと呼びます。 この句は 「柿食えば鐘が鳴るなり」で一度分が終止し、「。 」がつきます。 二句目にあたるところで切れるため、 「二句切れ」句となります。 倒置法 倒置法は、言葉の順序を普通の並びとは逆にする表現技法で、 意味を強める働きがあります。 この句は、普通の日本語の順序でいえば、「柿食えば法隆寺では鐘が鳴るなり」となるでしょう。 そこを「鐘が鳴るなり」をあえて先に持ってくることで、 折よく鐘の音をきたものだという面白みを表しています。 この句は「法隆寺」という体言で終わっています。 古都、奈良を代表する寺であり、 奈良らしさを強調しています。 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の鑑賞文 まことに奈良らしい風情の中に、 秋の訪れを実感していることを表す句です。 古都奈良の茶店で、地元名産の柿を食べていたところ、タイミングよく法隆寺の鐘の音が響いてきました。 柿を食べていたことと鐘がなったことには何の因果関係もないけれども、折よく鐘が響いてきて愉快に感じたのでしょうか。 茶店でのんびり柿を食べて休憩をするくらいですから、天気は秋晴れと想像することができます。 青い空に、鮮やかなオレンジ色の柿。 色彩感も豊かな句です。 奈良の御所柿は甘く、ジューシーで、そこはかとなく粘りも感じられる極上品です。 それを味わっているところに鐘の音が響いてくるわけですから、 五感がフルに働いていることになります。 ユーモアも感じさせる明るい句ですが、正岡子規が旅をすることができたのはこの時が最後となりました。 「柿食えば」の句を詠んだころの正岡子規 (正岡子規 出典:Wikipedia) 「柿食えば」の句を詠んだころ、正岡子規はどのような暮らしをしていたのでしょうか? 「柿食えば」の句からは、ほのぼのとした明るさやユーモアも感じるのですが、この時の子規はなかなかに深刻な状況にありました。 この句が詠まれた明治 28年( 1895年)、当時の 子規は28歳です。 明治25年 1892年)に日本新聞社に入社。 俳句の革新運動に本格的に取り組み始め、俳句に関する本を書いたり、新聞「日本」に俳句の欄を設けたり、精力的に活動し、明治 28年 1895年 には日清戦争従軍記者として、中国に渡っていました。 俳人として、ジャーナリストとして、活動の幅を広げていたところでした。 ところが、そんな子規に 病が襲ってきたのです。 中国からの帰国の途上、子規は大量の喀血をして帰国後すぐに入院。 一時は重体に陥りました。 喀血 血を吐く というのは結核の症状で、これは治癒率の低い、恐ろしい感染症です。 5月に帰国したものの、兵庫県の病院で入院して過ごし、住まいのある東京にはなかなか帰ることができませんでした。 8月末に子規は、故郷松山に療養のため向かいます。 この時、松山で子規を迎え入れたのは、かの有名な文豪、 夏目漱石でした。 (夏目漱石 出典:Wikipedia) 夏目漱石は、正岡子規とは帝国大学の同窓生でした。 子規と漱石は深い友情で結ばれており、「漱石」という雅号も、もとは子規がつかっていたもののひとつであったと言われています。 松山で、子規と漱石は多くの句を作って過ごしました。 このころの夏目漱石の句には・・・ 「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」 (意味:建長寺の鐘をついた。 境内ではぎんなんが散っていることだ。 ) という句があります。 秋の木の実と寺の鐘と言う取り合わせ、句の調子がよく似ています。 子規の「柿食えば」の句は「海南新聞」 11月 8日号に発表されたのですが、それをさかのぼること約 2カ月。 9月 6日号に漱石の「鐘つけば」の句が発表されているのです。 「柿食えば」の句は、漱石の「鐘つけば」に触発されて詠まれたともいいます。 松山の漱石のもとで 2カ月近くを過ごした子規は、ようやく東京に向けて出発しました。 その途上で広島、大阪、奈良に立ち寄っているのです。 奈良で、「柿食えば」の句を詠んだのは 10月 26日。 実際は雨だったようですが、前夜に柿を食べながら聞いた東大寺の鐘の音に抱いた感興を法隆寺の近くの茶店という舞台設定に変えて、子規は「柿食えば」の句を詠んだのです。 このころ、子規は腰痛も抱えていました。 子規は、リウマチだろうと考えていたようですが、これは結核菌が脊椎に入り込んで病変を起こす、脊椎カリエスの症状の始まりでした。 病は確実に子規の体を蝕み、苦しめていたのでした。 このような子規の病状から、 子規は実際に法隆寺まで出向いてはいないのではないか、東大寺の初夜の鐘を法隆寺の鐘によみかえただけでなく、法隆寺を訪れたことさえもフィクションだったのではないかともいわれています。 そうだとしても、 これだけ人の口に膾炙し、愛されている句はそうあるものではありません。 正岡子規と柿の関係は切っても切り離せない 子規は 随筆「くだもの」の中で、このようにも述べています。

次の

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 季語

日本の近代の俳句は、明治時代の俳人、正岡子規に始まります。 江戸時代の松尾芭蕉や与謝蕪村の俳諧、発句に親しみ、研究し、俳句の革新運動を精力的に進めた人物です。 生涯に 20万ともいわれる句を詠んだ子規の作品の中で、一番有名だともいわれる句 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。 今回はこの 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の 季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者などについて徹底解説していきます。 「(前略)やがて柿はむけた。 余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。 柿も旨い、場所もいい。 余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。 彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。 余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。 あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。 」 (意味:女中がむいてくれる柿を食べていると、さらに続けて女中は柿を向き続けている。 奈良で食べる奈良の柿の格別な味に感慨を覚えていると、ボーンという鐘の音が聞こえてきた。 女中にどこの鐘かと尋ねると、東大寺の初夜の鐘(午後八時ころ鳴らす鐘)であるという。 ) 柿を食べていたら、意外にも鐘の音が聞こえてきたという体験は、宿で過ごしていた夜の出来事だったのです。 子規は、 このときの感動や驚きを法隆寺の茶店という舞台設定をこしらえて句を作ったのです。 二句切れ• 倒置法• 体言止め になります。 二句切れ 句の中で、「かな」「や」「けり」などの切れ字がつくところ、もしくは意味上、リズム上大きく切れるところ(普通の文であれば句点「。 」がつく箇所)を句切れと呼びます。 この句は 「柿食えば鐘が鳴るなり」で一度分が終止し、「。 」がつきます。 二句目にあたるところで切れるため、 「二句切れ」句となります。 倒置法 倒置法は、言葉の順序を普通の並びとは逆にする表現技法で、 意味を強める働きがあります。 この句は、普通の日本語の順序でいえば、「柿食えば法隆寺では鐘が鳴るなり」となるでしょう。 そこを「鐘が鳴るなり」をあえて先に持ってくることで、 折よく鐘の音をきたものだという面白みを表しています。 この句は「法隆寺」という体言で終わっています。 古都、奈良を代表する寺であり、 奈良らしさを強調しています。 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の鑑賞文 まことに奈良らしい風情の中に、 秋の訪れを実感していることを表す句です。 古都奈良の茶店で、地元名産の柿を食べていたところ、タイミングよく法隆寺の鐘の音が響いてきました。 柿を食べていたことと鐘がなったことには何の因果関係もないけれども、折よく鐘が響いてきて愉快に感じたのでしょうか。 茶店でのんびり柿を食べて休憩をするくらいですから、天気は秋晴れと想像することができます。 青い空に、鮮やかなオレンジ色の柿。 色彩感も豊かな句です。 奈良の御所柿は甘く、ジューシーで、そこはかとなく粘りも感じられる極上品です。 それを味わっているところに鐘の音が響いてくるわけですから、 五感がフルに働いていることになります。 ユーモアも感じさせる明るい句ですが、正岡子規が旅をすることができたのはこの時が最後となりました。 「柿食えば」の句を詠んだころの正岡子規 (正岡子規 出典:Wikipedia) 「柿食えば」の句を詠んだころ、正岡子規はどのような暮らしをしていたのでしょうか? 「柿食えば」の句からは、ほのぼのとした明るさやユーモアも感じるのですが、この時の子規はなかなかに深刻な状況にありました。 この句が詠まれた明治 28年( 1895年)、当時の 子規は28歳です。 明治25年 1892年)に日本新聞社に入社。 俳句の革新運動に本格的に取り組み始め、俳句に関する本を書いたり、新聞「日本」に俳句の欄を設けたり、精力的に活動し、明治 28年 1895年 には日清戦争従軍記者として、中国に渡っていました。 俳人として、ジャーナリストとして、活動の幅を広げていたところでした。 ところが、そんな子規に 病が襲ってきたのです。 中国からの帰国の途上、子規は大量の喀血をして帰国後すぐに入院。 一時は重体に陥りました。 喀血 血を吐く というのは結核の症状で、これは治癒率の低い、恐ろしい感染症です。 5月に帰国したものの、兵庫県の病院で入院して過ごし、住まいのある東京にはなかなか帰ることができませんでした。 8月末に子規は、故郷松山に療養のため向かいます。 この時、松山で子規を迎え入れたのは、かの有名な文豪、 夏目漱石でした。 (夏目漱石 出典:Wikipedia) 夏目漱石は、正岡子規とは帝国大学の同窓生でした。 子規と漱石は深い友情で結ばれており、「漱石」という雅号も、もとは子規がつかっていたもののひとつであったと言われています。 松山で、子規と漱石は多くの句を作って過ごしました。 このころの夏目漱石の句には・・・ 「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」 (意味:建長寺の鐘をついた。 境内ではぎんなんが散っていることだ。 ) という句があります。 秋の木の実と寺の鐘と言う取り合わせ、句の調子がよく似ています。 子規の「柿食えば」の句は「海南新聞」 11月 8日号に発表されたのですが、それをさかのぼること約 2カ月。 9月 6日号に漱石の「鐘つけば」の句が発表されているのです。 「柿食えば」の句は、漱石の「鐘つけば」に触発されて詠まれたともいいます。 松山の漱石のもとで 2カ月近くを過ごした子規は、ようやく東京に向けて出発しました。 その途上で広島、大阪、奈良に立ち寄っているのです。 奈良で、「柿食えば」の句を詠んだのは 10月 26日。 実際は雨だったようですが、前夜に柿を食べながら聞いた東大寺の鐘の音に抱いた感興を法隆寺の近くの茶店という舞台設定に変えて、子規は「柿食えば」の句を詠んだのです。 このころ、子規は腰痛も抱えていました。 子規は、リウマチだろうと考えていたようですが、これは結核菌が脊椎に入り込んで病変を起こす、脊椎カリエスの症状の始まりでした。 病は確実に子規の体を蝕み、苦しめていたのでした。 このような子規の病状から、 子規は実際に法隆寺まで出向いてはいないのではないか、東大寺の初夜の鐘を法隆寺の鐘によみかえただけでなく、法隆寺を訪れたことさえもフィクションだったのではないかともいわれています。 そうだとしても、 これだけ人の口に膾炙し、愛されている句はそうあるものではありません。 正岡子規と柿の関係は切っても切り離せない 子規は 随筆「くだもの」の中で、このようにも述べています。

次の

柿の葉ずし総本家 平宗(法隆寺店)

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 季語

日本の近代の俳句は、明治時代の俳人、正岡子規に始まります。 江戸時代の松尾芭蕉や与謝蕪村の俳諧、発句に親しみ、研究し、俳句の革新運動を精力的に進めた人物です。 生涯に 20万ともいわれる句を詠んだ子規の作品の中で、一番有名だともいわれる句 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。 今回はこの 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の 季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者などについて徹底解説していきます。 「(前略)やがて柿はむけた。 余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。 柿も旨い、場所もいい。 余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。 彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。 余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。 あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。 」 (意味:女中がむいてくれる柿を食べていると、さらに続けて女中は柿を向き続けている。 奈良で食べる奈良の柿の格別な味に感慨を覚えていると、ボーンという鐘の音が聞こえてきた。 女中にどこの鐘かと尋ねると、東大寺の初夜の鐘(午後八時ころ鳴らす鐘)であるという。 ) 柿を食べていたら、意外にも鐘の音が聞こえてきたという体験は、宿で過ごしていた夜の出来事だったのです。 子規は、 このときの感動や驚きを法隆寺の茶店という舞台設定をこしらえて句を作ったのです。 二句切れ• 倒置法• 体言止め になります。 二句切れ 句の中で、「かな」「や」「けり」などの切れ字がつくところ、もしくは意味上、リズム上大きく切れるところ(普通の文であれば句点「。 」がつく箇所)を句切れと呼びます。 この句は 「柿食えば鐘が鳴るなり」で一度分が終止し、「。 」がつきます。 二句目にあたるところで切れるため、 「二句切れ」句となります。 倒置法 倒置法は、言葉の順序を普通の並びとは逆にする表現技法で、 意味を強める働きがあります。 この句は、普通の日本語の順序でいえば、「柿食えば法隆寺では鐘が鳴るなり」となるでしょう。 そこを「鐘が鳴るなり」をあえて先に持ってくることで、 折よく鐘の音をきたものだという面白みを表しています。 この句は「法隆寺」という体言で終わっています。 古都、奈良を代表する寺であり、 奈良らしさを強調しています。 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の鑑賞文 まことに奈良らしい風情の中に、 秋の訪れを実感していることを表す句です。 古都奈良の茶店で、地元名産の柿を食べていたところ、タイミングよく法隆寺の鐘の音が響いてきました。 柿を食べていたことと鐘がなったことには何の因果関係もないけれども、折よく鐘が響いてきて愉快に感じたのでしょうか。 茶店でのんびり柿を食べて休憩をするくらいですから、天気は秋晴れと想像することができます。 青い空に、鮮やかなオレンジ色の柿。 色彩感も豊かな句です。 奈良の御所柿は甘く、ジューシーで、そこはかとなく粘りも感じられる極上品です。 それを味わっているところに鐘の音が響いてくるわけですから、 五感がフルに働いていることになります。 ユーモアも感じさせる明るい句ですが、正岡子規が旅をすることができたのはこの時が最後となりました。 「柿食えば」の句を詠んだころの正岡子規 (正岡子規 出典:Wikipedia) 「柿食えば」の句を詠んだころ、正岡子規はどのような暮らしをしていたのでしょうか? 「柿食えば」の句からは、ほのぼのとした明るさやユーモアも感じるのですが、この時の子規はなかなかに深刻な状況にありました。 この句が詠まれた明治 28年( 1895年)、当時の 子規は28歳です。 明治25年 1892年)に日本新聞社に入社。 俳句の革新運動に本格的に取り組み始め、俳句に関する本を書いたり、新聞「日本」に俳句の欄を設けたり、精力的に活動し、明治 28年 1895年 には日清戦争従軍記者として、中国に渡っていました。 俳人として、ジャーナリストとして、活動の幅を広げていたところでした。 ところが、そんな子規に 病が襲ってきたのです。 中国からの帰国の途上、子規は大量の喀血をして帰国後すぐに入院。 一時は重体に陥りました。 喀血 血を吐く というのは結核の症状で、これは治癒率の低い、恐ろしい感染症です。 5月に帰国したものの、兵庫県の病院で入院して過ごし、住まいのある東京にはなかなか帰ることができませんでした。 8月末に子規は、故郷松山に療養のため向かいます。 この時、松山で子規を迎え入れたのは、かの有名な文豪、 夏目漱石でした。 (夏目漱石 出典:Wikipedia) 夏目漱石は、正岡子規とは帝国大学の同窓生でした。 子規と漱石は深い友情で結ばれており、「漱石」という雅号も、もとは子規がつかっていたもののひとつであったと言われています。 松山で、子規と漱石は多くの句を作って過ごしました。 このころの夏目漱石の句には・・・ 「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」 (意味:建長寺の鐘をついた。 境内ではぎんなんが散っていることだ。 ) という句があります。 秋の木の実と寺の鐘と言う取り合わせ、句の調子がよく似ています。 子規の「柿食えば」の句は「海南新聞」 11月 8日号に発表されたのですが、それをさかのぼること約 2カ月。 9月 6日号に漱石の「鐘つけば」の句が発表されているのです。 「柿食えば」の句は、漱石の「鐘つけば」に触発されて詠まれたともいいます。 松山の漱石のもとで 2カ月近くを過ごした子規は、ようやく東京に向けて出発しました。 その途上で広島、大阪、奈良に立ち寄っているのです。 奈良で、「柿食えば」の句を詠んだのは 10月 26日。 実際は雨だったようですが、前夜に柿を食べながら聞いた東大寺の鐘の音に抱いた感興を法隆寺の近くの茶店という舞台設定に変えて、子規は「柿食えば」の句を詠んだのです。 このころ、子規は腰痛も抱えていました。 子規は、リウマチだろうと考えていたようですが、これは結核菌が脊椎に入り込んで病変を起こす、脊椎カリエスの症状の始まりでした。 病は確実に子規の体を蝕み、苦しめていたのでした。 このような子規の病状から、 子規は実際に法隆寺まで出向いてはいないのではないか、東大寺の初夜の鐘を法隆寺の鐘によみかえただけでなく、法隆寺を訪れたことさえもフィクションだったのではないかともいわれています。 そうだとしても、 これだけ人の口に膾炙し、愛されている句はそうあるものではありません。 正岡子規と柿の関係は切っても切り離せない 子規は 随筆「くだもの」の中で、このようにも述べています。

次の