このホームページの内容 荒川放水路旧四ツ水橋付近(墨田区八広地区)に追悼碑を建立しようという活動の歴史は、それほど古くありません。 この地域での震災時の韓国・朝鮮人虐殺の事実が、長い間地域に埋もれたままになっていたからです。 1980年代になってようやく「証言の聞き書 き」「文献資料収集」を本格的に行い、具体的 な歴史的事実が明らかになってきました。 そ の活動経過を年表にしました。 この地域は震災後の火災の隣接地域であ り、同時に大勢の避難民が一気に押し寄せた 地域でもあります( 9月1日夜には荒川放水 路あたりに 15万人もの人々が避難していま した)。 隅田川と荒川放水路にはさまれてい るため避難ルートが限られており、とりわけ崩壊を免れた橋には人々が集中しました。 旧 四ツ木橋もそのひとつです。 そこで事件-自警団・軍隊による韓国・ 朝鮮人虐殺-は起きたのです。 この地域が 韓国・朝鮮人の多住地域のひとつであったこ とも関係していました(荒川放水路工事にも 多くの韓国・朝鮮人が従事していました)。 体験者・目撃者証言では、自警団による虐殺、そして軍隊の槻関銃による虐殺が生々しく語られています。 でも仮名にせざるをえな い証言者が多い状況が今日なおあることも 事実です。 墨田区の編纂した『関東大震災体験記録集』にもいくつかの証言が掲載されて います。 その一部も紹介します。 関連新聞資料で「亀戸事件(軍による警察 署での日本人労働運動家・自警団員虐殺)」 の遺骨引き取りにともない、荒川放水路旧四 ツ木橋下手の百名以上の朝鮮人遺骨の存在 が確認できました。 今日、この地域で虐殺 の記録をたどることができるひとつの重要 な資料群です。 逆にいえば、亀戸事件がなかったならば、虐殺された韓国・朝鮮人の遺骨 の存在が新聞紙上に載ることはなかったで しょう。 こうした証言・資料の数々を受けて会の活 動は続いてきました。 会の活動に参加する各 人の思いは様々です。 でも目的はひとつ- 虐殺のあったこの地に追悼碑を建立し、歴史 を風化させないこと-です。
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