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次の解説 [ ] 仮名の生まれる以前 [ ] 日本にが伝来する以前、には固有の文字がなかった。 しかしから漢字とともに伝来した「」は当然ながらに基づいた書記法であり、や構文の異なる日本語を書き記すものではなかった。 この「漢文」を日本語として理解するために生まれたのが「」である。 しかし地名や人名などの日本語のは、漢字をそのまま使ってもその音を書き記すことはできない。 そこで使われたのが漢字本来の意味を無視してその発音だけを利用し、日本語の音に当てる「」(しゃくじ)であった。 これはたとえば漢字の「阿」が持つ本来の意味を無視して「ア」という音だけを抽出し、「阿」を日本語の「ア」として読ませるという方法である。 この借字によって日本語が漢字で表記されるようになった。 この表記法を俗に「」とも呼ぶ。 このような表記法は、(かしゃ)の手法に基づき日本以外の漢字文化圏の地域でも古くから行なわれているもので、中国でも漢字を持たない異民族に由来する文物に関しては、音によって漢字を割り当てていた。 の「卑弥呼」という表記などがこれに当たる。 漢字を借字として日本語の表記に用いるのならば、方法の上からはどんな内容でも、どれほど長い文章でも日本語で綴ることは可能であった。 しかしそのようにして書かれた文章は見た目には漢字の羅列であり、はじめてそれを読む側にとっては文のどこに意味の区切りがあるのかわからず、非常に読みにくい。 したがって借字でもって日本語の文をつづることは、であるでもっぱら用いられた。 和歌なら五七五七七というように五音や七音に句が分かれており、それがたいてい文や言葉の区切りとなっているので、和歌であることを前もって知っておけばなんとか読むことができたからである。 仮名の登場 [ ] 所蔵のの公文書のなかには、本来「多」と書くところを「夕」、「牟」と書くのを「ム」と書くというように、漢字の一部を使ってその字の代わりとした表記が見られ、また現在の平仮名「つ」に似た文字が記されたりもしている。 この「つ」に似た文字は漢字の「州」を字源にしているといわれるが、このように漢字の一部などを使って文字を表すことは、のちの平仮名・片仮名の誕生に繋がるものといえる。 やがてを講読する僧侶の間で、その仏典の行間に漢字の音やを示す借字などを備忘のために書き加える例が見られるようになるが、この借字が漢字の一部や画数の少ない漢字などを使い、本来の漢字の字形とは違う形で記されるようになった。 行間という狭い場所に記すためには字形をできるだけ省く必要があり、また漢字で記される経典の本文と区別するためであった。 これが現在みられる片仮名の源流である。 この片仮名の源流といえるものは、文献上では初期以降の用例が確認されているが、片仮名はこうした誕生の経緯から、古くは漢字に従属しその意味や音を理解させるための文字として扱われていた。 また漢文訓読以外の場では、借字から現在の平仮名の源流となるものが現れている。 これは借字としての漢字をよりもさらに崩した書体でもって記したものである。 その平仮名を数字分の続け字すなわちにすることによって意味の区切りを作り出し、長い文章でも綴ることが可能となった。 これによって『』などをはじめとする仮名(平仮名)による文学作品が平安時代以降、発達するようになる。 『土佐日記』 が自筆本より臨書したものの部分。 借字が「かな」と呼ばれるようになったのは、漢字を(まな)といったのに対照してのものである。 当初は「かりな」と読み、形「かんな」を経て「かな」の形に定着した。 古くは単に「かな」といえば平仮名のことを指した。 「ひらがな」の呼称が現れたのは中世末のことであるが、これは「平易な文字」という意味だといわれる。 また片仮名の「かた」とは不完全なことを意味し、漢字に対して省略した字形ということである。 平安時代の平仮名の文章は、単語はであり、平仮名を用いるのが基本であった。 しかし「源氏」だとか朝廷の官職名など、大和言葉に置き換える事が不可能でを用いるしかない場合は、漢字のままで記されていた。 当時は漢語はあくまで漢字で記すものであり、漢語を平仮名で表記する慣習がなかった(現代も一部の例外はあるが、漢語は漢字で書くのが基本である)。 また文章の読み取りを容易とするために、大和言葉も必要に応じて漢字で表記された。 ただし和歌の場合は、慣習的に漢語や漢字の表記を避けるように詠まれ書き記されていた。 一方で文章の構文については、漢字が導入された当初は「漢文」の規則に従って読み書きされていたが、その後、漢字で記した言葉を日本語の構文に従って並べる形式が生まれた。 さらに、などを借字で語句のあいだに小さく書き添える形式(宣命書き)が行われるようになり、やがてそれら借字で記した助詞が片仮名となった。 つまり、漢語や漢字で記された文章に、片仮名が補助的に付加されることがあった。 その両者はやがて統合され、『』に見られるような、日本語の文章の中に漢語を数多く取り入れたとして発展していった。 成立当初の『今昔物語集』は、漢字で記された語句のあいだに小さく片仮名を書き添える宣命書きと同じスタイルで書かれていたが、やがて漢字と仮名を同じ大きさで記すようになった。 平仮名と片仮名の使い分けは長年に渡って統一されなかったが、後あたりから、文章の表記には原則として平仮名を用い、片仮名は外来語など特殊な場合に用いるスタイルとなった。 「」(部分) 平安時代末に描かれたとみられる。 その詞書は、現代とあまり変わらない字体の漢字と仮名で書かれている。 平仮名は漢字から作られたものであるが、なかには現在の平仮名そのままの文字のほかに、それとは違う漢字を崩して作られたさまざまながある。 現在この異体字の平仮名をと称するが、片仮名にも古くは現在とは違った字体のものがあった。 平仮名による文は変体仮名も交えて美しく書くことが求められ、それらはなどをはじめとするとして残されている。 こうした異体字をふくむ平仮名と片仮名はになると政府によって字体の整理が行われ、その結果学校教育をはじめとする一般社会において平仮名・片仮名と呼ばれるものとなった。 このふたつは現代の日本語においてもそれぞれ重要な役割を担っている。 仮名における清音と濁音 [ ] 日本語の音節にはとの別があり、現在濁音をあらわす平仮名・片仮名にはが付くのが約束となっている。 しかし仮名には、古くは濁点が付かなかった。 仮名が生れる以前の借字の段階では、清音に当てる借字のほかに濁音に当てる借字を区別して使っていた。 上で述べたように借字を使った日本語の文は見た目には漢字の羅列であり、それをなるべく間違いの無いように読み取らせるためには、借字の音の清濁についても使い分けをする必要があったことによる。 しかし平安時代以降の仮名には清濁の別が無くなった。 それは連綿によって仮名の文字列に意味の区切りを作り出し、文の読み取りを以前よりも容易にした結果、仮名の清濁を使い分ける必要がなくなったからである。 言い方をかえれば濁音を示す表記を用いなくても、不都合を感じない文を綴れるようになったということである。 『』の伝本のひとつである高野切には紀貫之の詠んだ和歌が、 高野切 『古今和歌集』巻第一春歌上の巻頭で、現在この部分だけ切り取られ掛軸となっている。 「そでひちて」の和歌は画像左側の部分であるが、それ以外にも濁点を付した所はない。 そてひちて むすひしみつの こほれるを はるかたけふの かせやとくらむ と濁点は付されていない。 もしこれに濁点を付けるのならば、 そ でひちて むす びしみ づの こほれるを はるかたけふの か ぜやとくらむ となる。 「そて」を「そで」、「かせ」を「かぜ」と読むのは、この和歌の文脈では「そで」「かぜ」としか読めないからであり、ほかの部分の仮名についても同様である。 つまり「て」という仮名で書かれていても文脈によっては「で」と読むというように、ひとつの仮名で清音と濁音を兼ねるようにしていた。 これは片仮名についても同様で、経典に漢字の読みかたを示した片仮名が書き添えられていた場合、その漢字の置かれている文脈をもって判断すれば、清濁について迷うことはなかったのである。 もちろん単語だけを取り出してしまえば、混乱が生じることになる。 が「大ふへん者」と大書した旗を背負い、それを「大武辺者」と読んだ同僚から僭越を責められた際に、「これは『大不便者』と読むのだ」と返した逸話がある。 ちなみに濁点の起りについては漢字のを示すからきており、本来仮名には必要なかったはずの濁点は、辞書の類や『古今和歌集』などの古典の本文解釈において、言葉の意味を確定させるために使われるようになった。 その使われ方や形式は様々な変遷をへて、現在用いられる形に至っている。 また類似の事例は仮名に限った話ではなく、他の文字にも見られる。 は仮名の五十音で言うところのカ行とガ行を区別しないが、の話者は文脈で判断できる。 では子音のみを用いるのが普通であり、母音は文脈で判断する。 母音の付加は新たにを学習する者への便宜、あるいは外来語にしか用いられない。 仮名を習得するための和歌 [ ] 『古今和歌集』の仮名序には、つぎのような記述がある。 「…なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。 あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて、このふたうたは、うたのちゝはゝのやうにてぞ、てならふ人の、はじめにもしける」 「なにはづのうた」というのはに渡来人のが、 なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな という歌を奉ったという古事による。 また「あさか山のことば」というのは、葛城王すなわちが東国の視察に行った折、その土地にいただった女が、 あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに という歌を作り諸兄に献上したという話である。 「てならふ」とは毛筆で文字を書く練習をする事で、いまでも「手習い」という言葉に残っているが、上にあげた和歌2首が、当時仮名(平仮名)の書き方を練習するのに最初の手本とされていたということである。 和歌は文の長さが三十一字と限られており、子供が仮名の手ほどきを受ける教材としては手ごろなものであった。 その数ある和歌の中から「なにはづ」と「あさかやま」の歌が「てならふ人の、はじめにもしける」といわれたのは、実際この2首が古い由緒を持った歌らしいこと 、また一方では同じ句や同じ仮名が繰り返し出てくることがあげられる。 「なにはづ」の歌は「さくやこのはな」という句が二度もあり、「あさかやま」も「やま」や「あさ」という仮名が二度出てくる。 同じ言葉や仮名を繰り返すほうが子供にとっては内容を覚えやすく、また同じ文字を繰り返し書き記すことにもなる。 しかし当時の仮名はただ書ければよいというものではない。 『』の「」の巻には、まだ幼女の紫の上を光源氏が引き取りたいと紫の上の祖母である尼君に申し入れると、「まだ難波津(なにはづ)をだにはかばかしうつゞけ侍らざめれば、かひなくなむ」 という返事をされるくだりがある。 まだ「なにはづ」の歌もまともに書けないような幼い娘なので、源氏の君のお相手にはならないでしょうと断られたのであるが、「はかばかしうつゞけ侍らざめれば」とは仮名を連綿としてうまく書きこなせないということである。 仮名は文字として覚えるだけではなく、その仮名をで以って綴れるようにするのが当時の仮名文字の習得であった。 これは単なる美観上のことだけではなく、上で触れたように自分の書いたものを人に読み取らせるためには、仮名の連綿は書式の上でも必要なことだったのである。 仮名の発音と表記 [ ] 以下はにも関わることなので詳細は他項に譲るが、仮名における発音と表記の関係について簡略に述べる。 [wi]の音をあらわす仮名はワ行の「ゐ」であり、そうなると「こひ」は「こゐ」と記されるようになるかと思われそうだが、文献上「こひ」(恋)を「こゐ」などと書いた例はまず見られない。 仮名文字を習得した当時の人々にとっては、恋は「こひ」という仮名で記すというのがそれまでの約束となっており、その発音が変わったからといって「こゐ」と書いたのでは、他者に恋という意味で読み取らせることが出来ないからである。 つまり音韻に関わりなくその表記は一定しており、これはほかにも「おもふ」など使用頻度の高い言葉ほどその傾向が見られる。 ただし頻度の高い言葉でも、何かのきっかけで変わってしまいそれが定着したものもある。 たとえば「ゆゑ」(故)は「ゆへ」、「なほ」(猶)は「なを」と変化し記されていた。 とにかく誰かが率先して人々に指導するということがなくても、仮名の表記のありかたすなわち仮名遣いは仮名を使う上で、不都合の無い程度に固定していたということである。 その不都合のなかったはずの仮名遣いとは別に現れたのが、藤原定家の定めた仮名遣い、いわゆるであった。 しかし定家が仮名遣いを定めた目的は、それを多くの人に広めて仮名遣いを改めようとしたなどということではない。 定家は当時すでに古典とされた『古今和歌集』をはじめとする歌集、また『源氏物語』や『』などの物語を頻繁に書写していたが、それは単に書き写すだけではなく、内容を理解し、また自分が写した本を自分の子孫も読んで理解できるようにと心がけた。 その手立てのひとつとして仮名遣いを定めたのである。 つまりそれまでは多かれ少なかれ表記の揺れがあった仮名遣いを、自分が写した本においてはこの意味ではこう書くのだと規範を定め、それ以外の意味に読まれないようにしたのであった。 たとえば当時いずれも [wo]の音となっていた「を」と「お」の仮名はアクセントの違いによって書き分けるよう定めており、これによって「置く」は「をく」、「奥」は「おく」と書いている。 その結果定家の定めた仮名遣いは、音韻の変化する以前のものとは異なるものがあったが、定家は自分が写した本の内容が人から見て読みやすい事に腐心したのであって、仮名遣いはその一助として定められたに過ぎない。 要するに定家の個人的な事情により、定家仮名遣と呼ばれるものは始まったのである(定家仮名遣の項参照)。 定家の定めた仮名遣いはその後、にによって増補された。 それが歌人定家の権威もあって、定家仮名遣と称して教養層のあいだで広く使われたが、明治になると今度は政府によってが定められ、これが広く一般社会において用いられた。 そして後は現行のが一般には用いられている。 しかし現代仮名遣いはおおむね1字1音の原則によって定められているとされるが、以下のような例が存在する。 ひとつの音に対して複数の仮名があるケース• 長音符は一般に「ー」だが漢字の音の場合は「う」を用いる(次項参照)。 ひとつの仮名が複数の音をもつケース• 以上を見れば現代仮名遣いにもその以前からあった仮名遣いと同様に、発音には拠らずに書きあらわす例が定められているのがわかる。 「続く」は「つづく」と書くが、「つずく」と書くように定められてはいない。 蝶々は「ちょうちょう」と書くが「ちょおちょお」や「ちょーちょー」は不可とされる。 現代仮名遣いとは実際には、歴史的仮名遣を実際の発音に近づけるよう改め、「続く」や「蝶々」のような例を歴史的仮名遣と比べて少なくしただけのものである。 歴史的仮名遣や定家仮名遣に基づかない現在の仮名のありようは、一見古い時代とは関わりがないように見える。 しかし仮名は日本語の音韻に変化が起こった結果、それが定家以前に見られた一般的な慣習によるものにせよ、また個人や国家が定めるにせよ、仮名遣いを発音とは違うところに求めなければならなくなった。 そういった性質は現在の仮名も、やはり受け継いでいるといえる。 他言語の表記に用いられる仮名 [ ]• に用いられた仮名 時代からの仮名使用の伝統があり、仮名表記のが生み出された。 2000年1月20日に制定された X 0213:2000「7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化拡張漢字集合」では表記用の文字が追加された。 Unicodeには3. 2から採用されている。 日本がを日本の一部として統治していた時代、仮名を用いて、、、の言語を表記する方法が考案され、使用された。 の言語の仮名文字表記については、1980年代に表記が普及するまで存続した。 備考・諸説 [ ]• 日本において朝鮮半島に先んじて独自の文字文化が形成された一因として、支配層・官僚が地方の文化、すなわちの歌=東歌に関心が高かったことが挙げられる。 漢文体では方言を記録することは難しく、そのため、盛んに仮名文字が用いられた。 橋本治は、日本は古来から大衆文化を受け入れる社会性があり、後代の江戸時代においても大衆文化が開花し、現代のサブカルチャーに至るまで受け入れられているのに対し、朝鮮半島では官僚が地方文化に興味を示さず、現代の韓国人大学生ですら、大衆雑誌に関心を示さなかった例を挙げ、社会が大衆文化を受け入れている差が、独自の文字文化形成の差にもつながったとする(同書 p. 80)。 脚注 [ ]• 漢字の伝来以前に「」という文字が日本にあったともいわれるが、現在ではほぼ否定されている。 2年()、京都の宝蔵には紀貫之自筆の『土左日記』(その表紙には「土左日記」と記されていたという)が所蔵されていたが、定家はそれを閲覧する機会を得たので、その本文を書き写し写本を作った。 画像はその巻末に、写本の本文とは別に書き写した部分である。 この臨書の最後には、「為令知手跡之躰、如形写留之。 謀詐之輩、以他手跡多称其筆。 可謂奇怪」(貫之の手跡がこういうものだと知らしめるために、その通りにここに写しておく。 いんちきなことをする連中が、他人の手跡を多く持ち出して貫之のものだと称しているからである。 奇っ怪というべき事である)と記されており、当時貫之筆と称するものが多く出まわっていたようである。 この臨書がどこまで貫之本人の書風に迫るものなのかは明らかではないが、「乎」(を)や「散」(さ)などの変体仮名は別として、おおむね現在のものに近い字体の仮名が連綿で記されているのが見て取れる。 なお「仮名」を「かな」と読むのは表付表で認められたである。 「か」は「かり」の転訛であり、漢字音ではないので、には該当しない。 1903年 P. 1935年 P. 157• 現在一般に読まれる『古今和歌集』の本文では、この和歌の第四句は「はるたつけふの」となっている。 また見ての通り、本文は変体仮名をまじえて記されている。 『古今和歌集』(『日本古典文学大系』8 岩波書店、1962年)より。 ただし「古注」と呼ばれる部分は略した。 やをはじめとする平安時代以前の各地の遺跡より「なにはづ」や「あさかやま」の歌を記したが出土している。 また五重塔の部材からも「なにはづ」の歌の墨書が見つかっているが、これらは当然ながらいずれも借字で記されている。 『紫香楽宮出土の歌木簡について』(『奈良女子大学21世紀COEプログラム 古代日本形成の特質解明の研究教育拠点』、2008年)参照。 『源氏物語 一』(『新日本古典文学大系』19 岩波書店、1993年)より。 ただし「こひ」(恋)については、以下の例外が存在する。 関白前左大臣家に人々、経年恋 (年を経る恋)といふ心をよみ侍りける 左大臣 () われが身は とがへるたかと なりにけり としはふれども こゐはわすれず (『』巻第十一・恋一) 『後拾遺和歌集』(『新日本古典文学大系』8 岩波書店、1994年)より。 「こゐ」というのは、鷹を飼うのに止まらせる止まり木のことをいう(「木居」という漢字がふつう当てられている)。 飼われている鷹が飼い主のところから逃げ出して年を経ても、その羽を休めた止まり木は忘れることができず、最後には戻ってきてしまう。 それと同じように、自分も以前共に暮らしたが別れた人を忘れられず、結局また恋しく思っている…という趣意である。 このなかで「こゐ」(木居)を「こひ」(恋)のとしているが、恋を「こゐ」とすることは当時慣習的に行われていた仮名遣いとも相違する。 しかしこの和歌は恋の部に入れられており、詞書にも「経年恋」とあることから、「こゐ」が恋であるとする引き当てが可能であった。 「こひ」という表記が圧倒的に優勢な当時の状況で、その文脈から取り出してなんの断りもなしに「こゐ」とだけ書かれたのでは、恋という意味には理解されなかったのであり、「こゐ」を恋とするのはごく特殊な例だったとみてよい。 以上のことは平仮名における事情であって、当時の片仮名の場合には平仮名と比べて仮名遣いにかなりの変則が見られる。 しかしこれは片仮名がその当初より、仏典に記された漢字の意味や読み方を備忘として記すために生れ、使われていたことによる。 たとえば「恋」という漢字の読みが「コイ」などと書かれていたとしても、「恋」という漢字の意味をあらかじめ知っていれば、その「コイ」がどういう意味なのか理解できる。 漢字の意味や読み方を示すためという目的から、その仮名遣いのありかたは平仮名と比べてゆるやかであった。 なお、同一のではあってもその環境によってさまざまなを生じるのは当然のことであるが、文字論の範疇を外れるのでここではふれない。 各行の項目(、、、、、、、、、)などを随意参照されたい。 『だめだし日本語論』 2017年 pp. 79 - 80. 参考文献 [ ]• 築島裕 『仮名』〈『日本語の世界』5〉 中央公論社、1981年• 小松英雄 『日本語の音韻』〈『日本語の世界』7〉 中央公論社、1981年• 小松英雄 『日本語書記史原論』 笠間書院、1998年 関連項目 [ ]• - - -• - - -• - - -• 外部リンク [ ]•
次の分布 [ ] (、、、および周辺の島嶼、、、、、、) 形態 [ ] 全長18 - 25センチメートル。 鼻先からの先端までの全長は16 - 25cm程度。 には光沢がなく、表面はザラザラして乾いた感じに見える。 背面の鱗は特に大きく一枚ごとに1本の強い稜線があり、その後端は尖っている。 これらの鱗が前後に重なって配列するため、背面全体を前後に走る隆条が形成される。 これら背面の鱗は通常6列に並ぶため隆条も6本あり、両外側の隆条が最も強い。 体側面の鱗は小さく明瞭な隆条もないが腹面の鱗は背面同様の大きさで弱い隆条と尖った後端をもち、横8列で首から尾の付け根までは20数枚を数える。 四肢の鱗もやや大きく稜線があり、尾の鱗も長方形で稜線をもつため全体に隆条を形成する。 背面は灰褐色 - 褐色で腹面は黄白色 - 黄褐色。 通常側面にはの直上から始まり、・を横切り尾の付け根まで達する黒褐色の色帯と目の下縁から始まり耳の下を通って後方に伸びる同色の色帯があり、これら2本の色帯の間は黄白色の帯となっている。 しかし時にはこれらの色帯が前肢の付け根あたりまでしかないものもある。 頭部下面には咽頭板と呼ばれる大きな鱗が左右4対並び、最後方のものが最も大きい。 これらは下唇の小さい鱗の腹側にあるのが側面からも見える。 目も耳もよく発達しており特に耳はニホントカゲに比べて大きく、色も黒っぽいためよく目立つ。 はよく発達してそれぞれ5本の指をもち、後肢の第4指は特に長い。 後肢の付け根にある鼠蹊孔(鼠蹊腺開口)と呼ばれる小孔は通常2対あるが、時に片側や両側が3個になっているものもある。 生態 [ ] 低地から低山地にかけての草原や藪地などに生息し、民家の庭などでみられることもある。 基本的にであるが、盛夏では炎天下を避けるため専ら木陰や草本の茂み、石や建築物の隙間、といった日照の遮蔽物下で過ごし、積極的に姿を見せる時間帯は早朝や夕刻に集中する。 地表を中心とする低い場所を徘徊する。 高さ2メートル程度までは木に登ることもある。 そのため都市近郊の住宅地がブロック塀などで細分化されるとニホントカゲは個体群が細かく分断されて絶滅しやすいのに対しニホンカナヘビはこうした障壁を乗り越えて遺伝子交流を維持することができ、生き残りやすい。 体温調節のために陽の当たるところで静止している姿もよく見られるが人影に驚くとすぐに草木の間などに身を隠し、またすぐに静止して様子をうかがうような行動をとる。 ニホントカゲが石や倒木の下に隠れるのに対し、本種は茂みに逃げ込むことが多い。 捕まりそうになると尾を自切することがあり、切れた尾が動いている間に逃げる。 冬季になると日当たりのよい斜面の地中などで、休眠する。 昆虫やクモなどを食べる。 食性はおもに動物食であり、捕食者としてや、などといった、陸生小型を捕らえて食べている。 ただ、時としてそれらの死骸や落下を摂食する等、若干ながらの性質も備える。 飼育下では餌付けされることにより人工配合飼料も食べるようになる。 尾はするが再生した尾には骨がなく、時に二又になったものが見つかることもある。 夜は茂みや葉上で眠る。 成体は春から夏にかけ交尾し、その際に雄が雌の頭部から腹部にかけてを咬むため交尾した後の雌の体にはV字型の咬み跡が残ることがある。 5 - 9月に1回に1 - 8個の卵を、年に1 - 6回に分けて産む。 産卵は草の根際などに5月から8月頃にかけ数回行われ、一回の産卵数は2 - 7個程度。 卵は白く、産卵直後は長径1. 0 cm、短径0. 6cmくらいの楕球型。 ニホントカゲのように卵の保護は行わない。 卵は発生に必要な水分を周囲の土壌などから吸水して約1. 5倍の大きさまで膨らみ約2ヶ月で全長5 - 6cmくらいの幼体が孵化し、ほぼ1年で成体となる。 幼体には色帯はなく、全身が黒褐色である。 地方にもよるが、11月頃に地中に潜り越冬する。 捕食者としては小型の哺乳類や鳥類、ヘビ類などがある。 の「」にも本種が見られるほか、特にトカゲ類を好むヘビであるは本種もよく捕食すると言われる。 また幼体のうちはなどの肉食性昆虫にも捕食されるほか、まれに成体に共食いされることも確認されている。 飼育下では冬眠中の個体がに食われたケースもあるという。 人間との関係 [ ] 分布は広く、種として絶滅のおそれは低いと考えられている 画像 [ ]• 2017. Takydromus tachydromoides. The IUCN Red List of Threatened Species 2017: e. T96266178A96266321. Downloaded on 06 June 2020. 2020年6月6日閲覧. Uetz, P. , The Reptile Database, , accessed 2 May 2020. ハリディ、K. アドラー編、、1986年、158-163頁。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 ウィキスピーシーズに に関する情報があります。 この項目は、に関連した です。 などしてくださる(/)。
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