人物 [ ] 『ドカベン』の。 右投左打。 旭七ヶ町生まれの育ち。 鞄の中にだけを詰めたでっかい(ドカッと大きいドカ弁)を入れていたことから のあだ名がついた。 高校3年夏の時点では175cm、は85kgだとされる。 高校時代の設定では生まれ(明訓高校入学)、『プロ野球編』以降の設定では生まれ。 はO型。 選手としては、• を獲得するほどのパワーとバットコントロールをもつバッティング• 遠投120メートル以上の強肩と正確なコントロールを持つ送球• 際どいコースをストライクに見せるキャッチング技術• やも認める、意外性のあるリード• 幾度と無くチームのピンチに決勝打を放つ、驚異的な勝負強さ 以上より、作品中では日本一の捕手として描かれている。 唯一とも言える欠点は超がつく鈍足であり 、ライト前ヒットの当たりがライトゴロとなったこともある(岩鬼曰く「山田の足はリトルリーグ」)。 ただ、守備では機敏である。 には劣るものの、の車内でキャッチングポーズを維持できるほどの驚異的な筋力とバランス感覚を持つ。 またやわざとを打つなど小技もうまく、常にチームの勝利のためにプレーする。 もっとも、変則投手や変則投球には脆い一面もある(プロ入り後にに苦戦した描写がある)。 は祖父(太郎とサチ子からの呼び方は「じっちゃん」)と妹・。 両親は早くにので死亡。 太郎とサチ子もそのバスに乗っていたが、太郎が事故が起きる1分前からサチ子を抱いていたおかげで2人は助かった。 実家は昔ながらので借家だったが、プロ入り後の2000年のオフに長屋を買い取った。 祖父は畳屋を営んでいる。 プロ入りまでは貧乏なエピソードが多かった(万年蹴りを食らったじっちゃんが貧乏という理由で診断を断られそうになる。 高校進学を諦めて畳屋を継ごうとする。 実家一帯の長屋を守るための資金的な理由で、ロッテ以外ならプロ入り拒否とほのめかすなど)。 通常ルーキーは球団の独身寮に入るが、山田は実家の横浜の長屋から電車でに通っていた。 現在も長屋住まいである。 2005年のキャンプ中にホテルのを運転する描写があることからを持っている模様。 ただし、1999年の段階では、岩鬼が日本シリーズMVP賞品のを山田家にプレゼントしようとした際、妹・サチ子が「お兄ちゃんは免許を持ってない」と言っているので、それ以降に取得したことになる。 高校時代から目標としていた選手は、元のだという(2003年に判明)。 『プロ野球編』では、西武ドームでホームランボールが当たった女性・南遥と親しい関係になるが、うやむやのまま終わっている。 高校時代にも、後述の東郷学園の小林の妹から好意を寄せられたような描写もあったが、こちらもうやむやとなっている。 水島が『』にゲスト出演した際、山田は2008年現在でだと明かし、来年(2009年)に結婚させるつもりとも語った。 その後、山田は2008年12月に「あけぼの幼稚園」の先生、木之内彩子に結婚を前提とした交際を申し込んだ。 温厚な人柄であり、連続敬遠や厳しい内角攻めによる連続死球(この際、他の西武の選手達は激高し寸前だった)を受けた際も怒鳴ったりすることはほとんどない。 ただし、中学柔道時代に祖父やサチ子に危害が加えられたときは激高し、その相手と決闘した。 経歴 [ ] 生誕〜小学時代 [ ]• 父和平、母美子夫妻の長男として生誕。 ののファンだった父親はこの時既に太郎を将来のホームラン王にすると息巻いていた。 幼少時より太っていたことから、回りの人間には「の方が向いている」と評され続けていたが、それでも父は太郎に野球をやらせることに固執しつづけた。 小学校入学直後の太郎は、4年生以上でなければ入団させられないとのことからへの所属を断られる。 父は「身体を作るため」にとひとまず太郎に相撲をやらせることにした。 当時から並み外れた体格と運動神経を持っていた太郎は相撲を続けている間、常々2学年上の児童すら圧倒する力を発揮し将来の横綱と目される。 4年生となり野球が始められる年齢となった太郎を、父はいよいよリトルリーグに入れようとする。 しかし太郎自身は相撲を続けたがっており、2人のやりとりは平行線にあった。 そんな中、父・母・太郎・妹の山田一家4人はへバス旅行に出かけた際、交通事故に巻き込まれる。 4人の乗っていたバスは崖から転落し、山田太郎の両親を含む乗客の多くが死傷する大事故となった。 太郎とサチ子は奇跡的に軽傷となる。 太郎は両親を励ますべく野球を始めることを決意し、のチームに所属していた友人に自分を試合に出してくれるよう頼み込む。 友人は快諾し、自身のポジションであったの守備をで太郎に教え込む。 試合当日、怪我を騙って欠場した友人に代わりキャッチャーとして試合に出場した太郎はすぐさまその才能を開花させ刺殺やサヨナラ本塁打を記録、天才捕手誕生となった。 その日、両親は共に逝去し太郎のユニフォーム姿を見ることなく世を去るが、その後も太郎は後述する中学時代の一時期を除き野球を続けることとなる。 中学時代 [ ]• 中学2年時に西南中学から鷹丘中学に転校する。 西南中時代は野球部所属だったが、東郷学園中との試合中、ホームでのでカバーに入った小林真司の目をスパイク(金属製) で蹴ってしまい、寸前の視力低下の危機に追いやってしまう。 そのショックから鷹丘中では廃部寸前の柔道部に入り、の、らと共に大会で準優勝に輝く。 この柔道で後のとなる、と出会う。 柔道二段(試験では四段と互角に戦った)。 類稀なる才能は柔道でも非常に高く評価されていた。 その後小林自身が視力回復の手術直前に山田のもとを訪れて野球への復帰を説得し、その後手術が成功した事がきっかけとなり、再度野球に対する情熱が芽生え、一足早く転部して岩鬼が主将を務めていた野球部に入部。 その時、の名手であったと出会い野球部へ誘う。 3年夏の地区大会では、一回戦の東郷学園戦で惜敗。 当初は貧乏であるため高校進学を諦めようとしていたが、祖父ややライバル(や)の説得により明訓高校に進学。 高校時代 [ ]• 明訓高校に入学後、野球部に入部。 主将であり正捕手のには、その体型から「一昔前の捕手だ」と酷評される(しかし、後に土井垣は「山田が入って来た時『これはかなわん』と思った」と告白している)。 しかし、その人並み外れた打撃に加え、クレバーなリード、キャッチングセンスに強肩、またの策略により、1年時から明訓の正捕手、5番打者として活躍。 入部当時の背番号は「14」。 地区大会終了後、甲子園大会では正捕手の背番号「2」。 1年の夏の甲子園終了後、4番打者に定着。 明訓高校を5度に導き、春夏計4度の優勝に貢献している。 高校生活では2年夏の甲子園でに敗れただけという驚異的な勝率を誇る。 甲子園通算成績は打率7割5分、本塁打20、打点51、盗塁阻止率9割。 高校時代の主なライバルに、同じ神奈川県内の、、、そして直接対決は実現しなかったが小林真司らがいる。 1年秋の関東大会では中学時代の柔道のライバルだった賀間、影丸、中学時代同級生だった木下とも対戦。 また同じ関東代表として2年春のセンバツ大会でとも対戦している。 その他全国ではと兄弟、、、太平洋などがいる。 特に3年夏の甲子園大会では、『』と銘打ち、、、ら、水島漫画のオールスター達と対戦した。 1年秋の関東大会、甲府学院戦でのアクシデントにより、同試合終了時からクリーンハイスクール戦の終盤までになっていた。 野球に関する知識は無くなっていたが、体の感覚では野球を覚えていた(試合前に試したところストレートはキャッチングしたりバッティングをすることができたが、カーブは球種を宣言されていてもバッティングはできなかった)。 山田抜きで試合は9回2アウトまで追い込まれ、迷ったあげく代打で起用、本能だけで同点本塁打を打った。 その試合ではその後、外野を守ったが、フライをフェンスに激突しながら捕球し、そのショックで記憶が戻った。 プロ時代 [ ]• 3年の夏の甲子園終了後、で10球団(岩鬼を指名した巨人、以外)から1位指名を受け、抽選の結果に入団。 1年目の1995年シーズン当初は正捕手・の控えとしてベンチを暖めており、開幕戦のプロ初打席ではから空振り三振を喫した。 しかし驚異のスイングスピードはダイエー側を驚かせた。 プロ初安打は、対ダイエー戦(福岡ドーム)でから打った内野安打。 この試合で、同時に驚異の推定飛距離160mのプロ初本塁打も放つ(投手は)。 この試合で伊東の負傷により初めてマスクを被り、最初の打者であるに本塁打を浴びる(ただし、口外しなかったが、投手のコントロールミスであった)。 これには味方ベンチはもちろん敵の岩鬼でさえも「甘い」と嘆いたが、その後は伊東もびっくりの奇想天外なリードで相手打線を封じ込めた。 前述の試合以降、強打もあってレギュラーを奪い取り、の前を打つ3番に定着(以後、伊東は指名打者で出場。 同年のでは岩鬼が1番、が3番になったため5番で出場する)。 最終的に清原を抜く高卒新人32本塁打を放ち、本塁打王と打点王の二冠を獲得、新人王に選出される。 1996年のシーズン終了後、清原がFA権を行使して巨人へ移籍。 この時点で来季からの新4番として目されていたものの、年が明けた97年のオープン戦では同年オフにドラフト8位で指名されたに4番を明け渡し、開幕を3番で迎えた。 しかし、シーズンが開幕して獅子丸が変化球を全く打てないことが露呈され、迎えた対戦で初めて公式戦で4番に座った。 この試合ではロッテ先発の里中の前に第1打席は空振り三振、第2打席は併殺打を喫するも、7回表の第3打席で里中のノーヒットノーランを打ち破る先制ホームランを放った。 しかし、8回裏に里中の正捕手のに逆転ツーランを浴びて敗戦するも、以降は西武の4番の座を不動のものとした。 1998年はシーズン前に肩を痛めるものの、徳川監督(が変装した仙人)のアドバイスによって送球をスリークォーターにすることによって克服。 それによって捕ってから投げるまでのタイムも早くなった(里中曰くやも完全にアウト)。 2001年、開幕初打席から五打席連続本塁打を放つなど絶好調。 後半戦で右手首の負傷により10試合程度欠場するも打撃を獲得(本塁打王は岩鬼と分け合う)。 オールスター戦ではサイクル安打も記録した。 2002年、プロ野球新記録となるシーズン162を記録。 このシーズンは前年並みの成績を残すも、シーズン最終戦に殿馬に打率を逆転され、打点王・本塁打王の二冠になった。 2003年オフ、宣言し、率いる新球団・に移籍。 2006年シーズン終了時の12年間で通算490本塁打。 2007年、開幕3試合目の対戦(東京ドーム)でから本塁打を放ち、通算2000本安打を達成。 第七戦では、故障した里中の代役として投手として先発登板し、1回を3者凡退に抑える。 2回からは通常通り捕手に戻る。 9回にはから逆転サヨナラ3ランを放ち、東京の日本一を決める。 2008年、シーズン最終戦の対戦(ヤフードーム)で、プロ野球新記録の6打席連続本塁打を放つ(4、1、1)。 この6本塁打でシーズン通算46本塁打となり、と並んで本塁打王を獲得。 第七戦では、リードして迎えた最終回一死一塁の場面で、バックネットに激突しながらファウルフライを捕球。 山田の体制の崩れを見て取った一塁走者のはタッチアップを試みるが、これを驚異的な大遠投で刺殺し日本一を決める。 しかしそれと引き換えに、翌シーズンまで後を引く負傷を右肩に負うこととなる。 2009年は右肩負傷の影響で守備どころか打撃もまともにできず、開幕をベンチで迎えた。 痛みを軽減するため、右打者として打席に入る事もあった。 同年のオールスター戦ではと右打者として対戦し、三振を喫した。 後半戦になっても奮わず登録抹消され、肩の治療の一環で武蔵坊の元に身を寄せていた。 その後肩が治り復調したが、チームは4位に低迷した。 主な記録 [ ]• (1995年)• 打撃1回(2001年)• 1回(2001年)• 6回(1995,1998,1999,2001,2002,2008年)• 6回(1995〜1997,1999,2001,2002年) - 2005年にも本塁打王と打点王のどちらかを獲得している。 3回(1995,1999,2001年)• オールスターゲームで(2001年)• MVP(2005年)• 通算サヨナラ本塁打12本 - 2003年まで。 プロ野球タイ記録。 シーズン162打点(2002年) - プロ野球新記録。 6打席連続本塁打・1試合6本塁打・1試合24塁打(2008年) - プロ野球新記録。 月間16本塁打(2001年4月) - プロ野球タイ記録。 背番号 [ ]• 2(鷹丘中時代)• 02( - )• 2( - ) 銅像 [ ] 2002年、新潟商工会議所と同商店街振興組合により、新潟市中央区のアーケード内に「ドカベン」の山田太郎など水島作品の登場人物計7体の銅像が設置された。 これらの銅像については2015年に撤去の話が持ち上がったが、撤去の見直しを求める地元商店街などの要望もあり、2016年2月に撤去は見送られることとなった。 関連 [ ]• - このにちなんだ「ドカベン」という愛称を持つ。 ポジションも同じく捕手である。 脚注 [ ] [].
次の人物 [ ] 『ドカベン』の。 右投左打。 旭七ヶ町生まれの育ち。 鞄の中にだけを詰めたでっかい(ドカッと大きいドカ弁)を入れていたことから のあだ名がついた。 高校3年夏の時点では175cm、は85kgだとされる。 高校時代の設定では生まれ(明訓高校入学)、『プロ野球編』以降の設定では生まれ。 はO型。 選手としては、• を獲得するほどのパワーとバットコントロールをもつバッティング• 遠投120メートル以上の強肩と正確なコントロールを持つ送球• 際どいコースをストライクに見せるキャッチング技術• やも認める、意外性のあるリード• 幾度と無くチームのピンチに決勝打を放つ、驚異的な勝負強さ 以上より、作品中では日本一の捕手として描かれている。 唯一とも言える欠点は超がつく鈍足であり 、ライト前ヒットの当たりがライトゴロとなったこともある(岩鬼曰く「山田の足はリトルリーグ」)。 ただ、守備では機敏である。 には劣るものの、の車内でキャッチングポーズを維持できるほどの驚異的な筋力とバランス感覚を持つ。 またやわざとを打つなど小技もうまく、常にチームの勝利のためにプレーする。 もっとも、変則投手や変則投球には脆い一面もある(プロ入り後にに苦戦した描写がある)。 は祖父(太郎とサチ子からの呼び方は「じっちゃん」)と妹・。 両親は早くにので死亡。 太郎とサチ子もそのバスに乗っていたが、太郎が事故が起きる1分前からサチ子を抱いていたおかげで2人は助かった。 実家は昔ながらので借家だったが、プロ入り後の2000年のオフに長屋を買い取った。 祖父は畳屋を営んでいる。 プロ入りまでは貧乏なエピソードが多かった(万年蹴りを食らったじっちゃんが貧乏という理由で診断を断られそうになる。 高校進学を諦めて畳屋を継ごうとする。 実家一帯の長屋を守るための資金的な理由で、ロッテ以外ならプロ入り拒否とほのめかすなど)。 通常ルーキーは球団の独身寮に入るが、山田は実家の横浜の長屋から電車でに通っていた。 現在も長屋住まいである。 2005年のキャンプ中にホテルのを運転する描写があることからを持っている模様。 ただし、1999年の段階では、岩鬼が日本シリーズMVP賞品のを山田家にプレゼントしようとした際、妹・サチ子が「お兄ちゃんは免許を持ってない」と言っているので、それ以降に取得したことになる。 高校時代から目標としていた選手は、元のだという(2003年に判明)。 『プロ野球編』では、西武ドームでホームランボールが当たった女性・南遥と親しい関係になるが、うやむやのまま終わっている。 高校時代にも、後述の東郷学園の小林の妹から好意を寄せられたような描写もあったが、こちらもうやむやとなっている。 水島が『』にゲスト出演した際、山田は2008年現在でだと明かし、来年(2009年)に結婚させるつもりとも語った。 その後、山田は2008年12月に「あけぼの幼稚園」の先生、木之内彩子に結婚を前提とした交際を申し込んだ。 温厚な人柄であり、連続敬遠や厳しい内角攻めによる連続死球(この際、他の西武の選手達は激高し寸前だった)を受けた際も怒鳴ったりすることはほとんどない。 ただし、中学柔道時代に祖父やサチ子に危害が加えられたときは激高し、その相手と決闘した。 経歴 [ ] 生誕〜小学時代 [ ]• 父和平、母美子夫妻の長男として生誕。 ののファンだった父親はこの時既に太郎を将来のホームラン王にすると息巻いていた。 幼少時より太っていたことから、回りの人間には「の方が向いている」と評され続けていたが、それでも父は太郎に野球をやらせることに固執しつづけた。 小学校入学直後の太郎は、4年生以上でなければ入団させられないとのことからへの所属を断られる。 父は「身体を作るため」にとひとまず太郎に相撲をやらせることにした。 当時から並み外れた体格と運動神経を持っていた太郎は相撲を続けている間、常々2学年上の児童すら圧倒する力を発揮し将来の横綱と目される。 4年生となり野球が始められる年齢となった太郎を、父はいよいよリトルリーグに入れようとする。 しかし太郎自身は相撲を続けたがっており、2人のやりとりは平行線にあった。 そんな中、父・母・太郎・妹の山田一家4人はへバス旅行に出かけた際、交通事故に巻き込まれる。 4人の乗っていたバスは崖から転落し、山田太郎の両親を含む乗客の多くが死傷する大事故となった。 太郎とサチ子は奇跡的に軽傷となる。 太郎は両親を励ますべく野球を始めることを決意し、のチームに所属していた友人に自分を試合に出してくれるよう頼み込む。 友人は快諾し、自身のポジションであったの守備をで太郎に教え込む。 試合当日、怪我を騙って欠場した友人に代わりキャッチャーとして試合に出場した太郎はすぐさまその才能を開花させ刺殺やサヨナラ本塁打を記録、天才捕手誕生となった。 その日、両親は共に逝去し太郎のユニフォーム姿を見ることなく世を去るが、その後も太郎は後述する中学時代の一時期を除き野球を続けることとなる。 中学時代 [ ]• 中学2年時に西南中学から鷹丘中学に転校する。 西南中時代は野球部所属だったが、東郷学園中との試合中、ホームでのでカバーに入った小林真司の目をスパイク(金属製) で蹴ってしまい、寸前の視力低下の危機に追いやってしまう。 そのショックから鷹丘中では廃部寸前の柔道部に入り、の、らと共に大会で準優勝に輝く。 この柔道で後のとなる、と出会う。 柔道二段(試験では四段と互角に戦った)。 類稀なる才能は柔道でも非常に高く評価されていた。 その後小林自身が視力回復の手術直前に山田のもとを訪れて野球への復帰を説得し、その後手術が成功した事がきっかけとなり、再度野球に対する情熱が芽生え、一足早く転部して岩鬼が主将を務めていた野球部に入部。 その時、の名手であったと出会い野球部へ誘う。 3年夏の地区大会では、一回戦の東郷学園戦で惜敗。 当初は貧乏であるため高校進学を諦めようとしていたが、祖父ややライバル(や)の説得により明訓高校に進学。 高校時代 [ ]• 明訓高校に入学後、野球部に入部。 主将であり正捕手のには、その体型から「一昔前の捕手だ」と酷評される(しかし、後に土井垣は「山田が入って来た時『これはかなわん』と思った」と告白している)。 しかし、その人並み外れた打撃に加え、クレバーなリード、キャッチングセンスに強肩、またの策略により、1年時から明訓の正捕手、5番打者として活躍。 入部当時の背番号は「14」。 地区大会終了後、甲子園大会では正捕手の背番号「2」。 1年の夏の甲子園終了後、4番打者に定着。 明訓高校を5度に導き、春夏計4度の優勝に貢献している。 高校生活では2年夏の甲子園でに敗れただけという驚異的な勝率を誇る。 甲子園通算成績は打率7割5分、本塁打20、打点51、盗塁阻止率9割。 高校時代の主なライバルに、同じ神奈川県内の、、、そして直接対決は実現しなかったが小林真司らがいる。 1年秋の関東大会では中学時代の柔道のライバルだった賀間、影丸、中学時代同級生だった木下とも対戦。 また同じ関東代表として2年春のセンバツ大会でとも対戦している。 その他全国ではと兄弟、、、太平洋などがいる。 特に3年夏の甲子園大会では、『』と銘打ち、、、ら、水島漫画のオールスター達と対戦した。 1年秋の関東大会、甲府学院戦でのアクシデントにより、同試合終了時からクリーンハイスクール戦の終盤までになっていた。 野球に関する知識は無くなっていたが、体の感覚では野球を覚えていた(試合前に試したところストレートはキャッチングしたりバッティングをすることができたが、カーブは球種を宣言されていてもバッティングはできなかった)。 山田抜きで試合は9回2アウトまで追い込まれ、迷ったあげく代打で起用、本能だけで同点本塁打を打った。 その試合ではその後、外野を守ったが、フライをフェンスに激突しながら捕球し、そのショックで記憶が戻った。 プロ時代 [ ]• 3年の夏の甲子園終了後、で10球団(岩鬼を指名した巨人、以外)から1位指名を受け、抽選の結果に入団。 1年目の1995年シーズン当初は正捕手・の控えとしてベンチを暖めており、開幕戦のプロ初打席ではから空振り三振を喫した。 しかし驚異のスイングスピードはダイエー側を驚かせた。 プロ初安打は、対ダイエー戦(福岡ドーム)でから打った内野安打。 この試合で、同時に驚異の推定飛距離160mのプロ初本塁打も放つ(投手は)。 この試合で伊東の負傷により初めてマスクを被り、最初の打者であるに本塁打を浴びる(ただし、口外しなかったが、投手のコントロールミスであった)。 これには味方ベンチはもちろん敵の岩鬼でさえも「甘い」と嘆いたが、その後は伊東もびっくりの奇想天外なリードで相手打線を封じ込めた。 前述の試合以降、強打もあってレギュラーを奪い取り、の前を打つ3番に定着(以後、伊東は指名打者で出場。 同年のでは岩鬼が1番、が3番になったため5番で出場する)。 最終的に清原を抜く高卒新人32本塁打を放ち、本塁打王と打点王の二冠を獲得、新人王に選出される。 1996年のシーズン終了後、清原がFA権を行使して巨人へ移籍。 この時点で来季からの新4番として目されていたものの、年が明けた97年のオープン戦では同年オフにドラフト8位で指名されたに4番を明け渡し、開幕を3番で迎えた。 しかし、シーズンが開幕して獅子丸が変化球を全く打てないことが露呈され、迎えた対戦で初めて公式戦で4番に座った。 この試合ではロッテ先発の里中の前に第1打席は空振り三振、第2打席は併殺打を喫するも、7回表の第3打席で里中のノーヒットノーランを打ち破る先制ホームランを放った。 しかし、8回裏に里中の正捕手のに逆転ツーランを浴びて敗戦するも、以降は西武の4番の座を不動のものとした。 1998年はシーズン前に肩を痛めるものの、徳川監督(が変装した仙人)のアドバイスによって送球をスリークォーターにすることによって克服。 それによって捕ってから投げるまでのタイムも早くなった(里中曰くやも完全にアウト)。 2001年、開幕初打席から五打席連続本塁打を放つなど絶好調。 後半戦で右手首の負傷により10試合程度欠場するも打撃を獲得(本塁打王は岩鬼と分け合う)。 オールスター戦ではサイクル安打も記録した。 2002年、プロ野球新記録となるシーズン162を記録。 このシーズンは前年並みの成績を残すも、シーズン最終戦に殿馬に打率を逆転され、打点王・本塁打王の二冠になった。 2003年オフ、宣言し、率いる新球団・に移籍。 2006年シーズン終了時の12年間で通算490本塁打。 2007年、開幕3試合目の対戦(東京ドーム)でから本塁打を放ち、通算2000本安打を達成。 第七戦では、故障した里中の代役として投手として先発登板し、1回を3者凡退に抑える。 2回からは通常通り捕手に戻る。 9回にはから逆転サヨナラ3ランを放ち、東京の日本一を決める。 2008年、シーズン最終戦の対戦(ヤフードーム)で、プロ野球新記録の6打席連続本塁打を放つ(4、1、1)。 この6本塁打でシーズン通算46本塁打となり、と並んで本塁打王を獲得。 第七戦では、リードして迎えた最終回一死一塁の場面で、バックネットに激突しながらファウルフライを捕球。 山田の体制の崩れを見て取った一塁走者のはタッチアップを試みるが、これを驚異的な大遠投で刺殺し日本一を決める。 しかしそれと引き換えに、翌シーズンまで後を引く負傷を右肩に負うこととなる。 2009年は右肩負傷の影響で守備どころか打撃もまともにできず、開幕をベンチで迎えた。 痛みを軽減するため、右打者として打席に入る事もあった。 同年のオールスター戦ではと右打者として対戦し、三振を喫した。 後半戦になっても奮わず登録抹消され、肩の治療の一環で武蔵坊の元に身を寄せていた。 その後肩が治り復調したが、チームは4位に低迷した。 主な記録 [ ]• (1995年)• 打撃1回(2001年)• 1回(2001年)• 6回(1995,1998,1999,2001,2002,2008年)• 6回(1995〜1997,1999,2001,2002年) - 2005年にも本塁打王と打点王のどちらかを獲得している。 3回(1995,1999,2001年)• オールスターゲームで(2001年)• MVP(2005年)• 通算サヨナラ本塁打12本 - 2003年まで。 プロ野球タイ記録。 シーズン162打点(2002年) - プロ野球新記録。 6打席連続本塁打・1試合6本塁打・1試合24塁打(2008年) - プロ野球新記録。 月間16本塁打(2001年4月) - プロ野球タイ記録。 背番号 [ ]• 2(鷹丘中時代)• 02( - )• 2( - ) 銅像 [ ] 2002年、新潟商工会議所と同商店街振興組合により、新潟市中央区のアーケード内に「ドカベン」の山田太郎など水島作品の登場人物計7体の銅像が設置された。 これらの銅像については2015年に撤去の話が持ち上がったが、撤去の見直しを求める地元商店街などの要望もあり、2016年2月に撤去は見送られることとなった。 関連 [ ]• - このにちなんだ「ドカベン」という愛称を持つ。 ポジションも同じく捕手である。 脚注 [ ] [].
次の概要 [ ] 出身で、卒業。 血液型は。 のフロントマンであり、ほぼ全ての楽曲の制作を行っている。 稀に、本名の「一郎」の他「一路」の表記も使用する。 本人曰く、音楽を始めたきっかけは、文学との出会いだったといい 、楽曲制作においては歌詞を重要視している。 両親は小樽市富岡で「メリーゴーランド」という名前の喫茶店を営んでいた。 父は出身で、在学中はに熱中、中退後に渡仏を経てで看板画家をした後に小樽に移住し、木彫作家として活動。 保存活動に携わったことをきっかけに、に議員に当選、3期12年にわたって務めたのち、現在は木彫工房を営んでいる。 山口自身は実家の喫茶店で流れている音楽を聴き、らフォーク歌手のライブを見るうちに影響を受け、家にあるフォークギターを弾き始めた。 最初にコピーした楽曲はの「」だったという。 自身の音楽の始まりはフォークソングと語っており、その過程でや、やに出会ったと発言している。 また、影響を受けたアーティストに も挙げている。 デビュー前、レコード店()でアルバイトをしていた際にレイ・ハラカミの楽曲を耳にし、それをきっかけに電子音楽に傾倒しようと決めたと語っている。 なお、初めて買ったCDはの「」である。 [ ] 2010年に右耳にを発症。 発症からしばらくは右耳がほとんど聴こえない状態だったが、に「」に出演した際には、低い音であれば聴こえるようになったと語っている。 来歴 [ ] 「」も参照 メジャーデビュー以前• 実家の喫茶店でライブを行っていたフォーク歌手のライブに影響を受け、実家にあったフォークギターを弾きはじめる。 17歳時にレコード会社・の育成枠に組み込まれる。 山口がの同級生である岩寺らと結成していたバンド、が解散。 2007年• 山口が岩寺らと組んでいたバンドがメジャーデビューするに当たり、当時サポートメンバーだった草刈愛美、岡崎絵美、江島啓一を正式メンバーとし、が結成される。 アルバム『』で、当時の傘下レーベルであったからメジャーデビュー。 2009年• へ移籍。 2010年• 楽曲「」をへ提供。 「kikUUiki」ツアーのリハーサル中に右耳のを発症。 自身でも異常に気付いたが、ツアーを優先して病院へ行くのが遅れてしまったため完治していない。 2011年• との番組「」の不定期生放送を開始。 2012年• ラジオ番組「」のコーナーである「」として、「」のレギュラー放送が開始。 楽曲「」をSMAPに提供。 2013年• 、サカナクションとしてに初出場し、「」を演奏。 2014年• 星野源とのUstream番組「」をリニューアルした「」の生放送を開始。 10月、が描いた山口の顔のイラストが、東京で開催された「レッドブル・ミュージック・アカデミー」の広告ビジュアルに採用。 2015年• 「」で自身初のの監督を務める。 8月23日、「サカナクション・山口一郎 Night Fishing Radio」にてパーソナリティーを担当。 以前から交友のあるのドキュメンタリー映画『DENKI GROOVE THE MOVIE? ~石野卓球とピエール瀧~』で映画初出演を果たす。 8月24日、にて山口が選曲したミュージックビデオを放送するという内容の番組、「MUSICIAN'S SELECT〜selected by 山口一郎(サカナクション)〜」が放送される。 9月30日、ライブやイベントなどで以前から交流のあったアパレルブランド・の2016年春夏にサウンドディレクションとして参加。 2016年• 1月からの3ヶ月連続で、InterFM897「TOKYO NIGHT FISHING」のパーソナリティを務める。 テレビ朝日系番組「」の「」のコーナーに、3月4日、11日と二週連続で出演。 生ビール黒ラベル「大人エレベーター」シリーズのCMに出演。 同い年の俳優・との共演を果たす。 11月16日、株式会社NFを設立。 自身が代表取締役に就任。 2019年• カロリーメイトのCM「考えつづける人」篇に出演。 ナレーションも務めた。 のCM「速度制限マン」篇に出演。 広瀬すず等と共演を果たす。 2020年• ソフトバンクのCM「5Gってドラえもん?」シリーズのCMでナレーションを務める。 人物 [ ] 身長は168cmで、体型は非常に細身。 好物はグミであり 、「」第6回放送時に「コーラ餅グミ」を紹介したところ、販売元の株式会社明治から「コーラ餅グミ」やその姉妹品がボックスで贈られた。 喫煙者である。 禁煙していた時期もあるが 、現在は加熱式たばこの「」を吸っている。 札幌時代は貧乏で苦労し、居酒屋やイベント会社等の複数のバイトを掛け持ちしていた。 居酒屋のバイトの時のまかないが唯一の食事だったこともあり「いつもお腹が空いていた。 居酒屋の宴会とかで余って手をつけてないからあげをポケットに入れて食べたりもした」、また「繁華街で働くおねえさんがよく行く24時間営業のスーパーの前に立って、仕事帰りのおねえさんの買い物カゴを『持ちます』と率先して持ち、山口が買ってほしいものを『これもいいっすか?』とねだったこともあるが特別、女性と深い関係はなく買ってほしかったものを袋から取って別れるか、家まで買い物袋を持って行く程度だった」というエピソードもある。 東京に引っ越したあとは、夜釣りをするのに川沿いのホームレスに断りを入れていた。 当時愛煙していたタバコの銘柄が「アメリカンスピリット」だったため、「通行料、タバコ一本な」とホームレスに言われたり、『洋モクのあんちゃん』と呼ばれていた。 友好的な関係を築き、引っ越しをするときに不要になった服やソファーを「もうしばらく来れないから」とホームレスに上げたら喜んで、大宴会をしてくれた。 その数年後に釣りがてら「あのホームレスのおじさん達、どうしてるかな」と同じ場所に行ったら、前に山口があげたバンド仲間のTシャツをホームレスが着ていたという。 がとても好き で、オリンピックの種目に釣りがあったらミュージシャンになっていなかった、というほど。 特に夜釣りを好み、自身の作品やレーベルに「ナイトフィッシング」の名前を冠している。 また、親の影響により、やを愛読しており、ではやを、ではやを好んでおり、文学性の高い歌詞のルーツとなっている。 また、おすすめの小説として、の『』、の『』の2冊を挙げている。 好きな画家にや、、を挙げている。 小学・中学時代は野球部に所属していた。 岐阜県出身の父親の影響で、物心ついたころからファンである。 自身の誕生日である2011年9月8日に開催された対戦()では始球式を行った。 「」で共演して以来、と親交が深い。 2013年3月8日放送の『 星野源復活生放送SP』では飛び入りで出演した。 また、初代編集長である、とも親交が深く、MUSICAでは二人でのコーナーが掲載されるほどである。 建築インテリアデザイナーのに対し、「僕の人生を変えてくれた1人」と話すほどであり、共にフランスへ旅行へ行くほどの関係である。 片山の50歳の誕生日会では、個人の催し物では珍しく、サカナクションとしてのライブを行った。 一方で同郷であるとも旧知の仲ではあるが、度々「因縁の仲」として取り上げられている。 以前はのと親交が深く、Base Ball Bear「kimino-me」に山口がゲストボーカルとして招かれたり、ラジオ番組で対談を行ったりしたこともある。 実家で「とら坊」という名前のを飼っていたが、に逝去した。 出演 [ ] ラジオ [ ] 現在のレギュラー出演番組 [ ]• (2012年 - 、金曜23:25頃 - 23:40頃 「」内)• としての冠コーナーであるが、他のメンバーが出演することはあまりなく、レギュラー出演者は山口のみとなっている。 過去の出演番組 [ ]• サカナクション・山口一郎 "Night Fishing Radio"(2015年8月23日 より不定期放送、2017年4月9日より隔週日曜18:00-18:50、)• TOKYO NIGHT FISHING(2015年1月20日、2月17日、3月16日 20:00 - 21:00、897 ) 映画 [ ]• DENKI GROOVE THE MOVIE? 〜石野卓球とピエール瀧〜 2015年、監督: テレビ [ ]• NFパンチ (2015年12月-、毎月第2・第4金曜23:00 - 23:30 - )• 「MUSICIAN'S SELECT~selected by 山口一郎(サカナクション)~」(2015年8月25日 深夜24時 翌8月26日0時 - 8月25日 深夜26時 翌8月26日1時 、 )• 「ダビンチ・ミステリー」ナビゲーター• 第1集 幻の名画を探せ〜最新科学で真実に迫る〜(2019年11月10日、NHK総合)• 生ビール黒ラベル「大人エレベーター」 2016年• 」 2016年• 「」(2018年、ナレーション)• カロリーメイト「考えつづける人」 2019年、ナレーション• 「速度制限マン」 2019年 その他 [ ] 番組• ( 2014年-、月一回放送(予定)Ustream)• (2011年-2013年、不定期 Ustream)• 「サカナクション グッドナイト・プラネタリウム」(、2015年12月1日 - 2016年9月4日、 ) イベント• 「アンリアレイジ」2016年春夏パリ(サウンド・ディレクター、2015年10月、 ) 作品 [ ] サカナクションの作品についてはを参照のこと。 PV [ ]• 「」 監督 参加作品 [ ] リリース日 曲名 収録された作品 Magic Time 『』 作詞・作曲 2010年 kimino-me 『』 ゲストボーカル こどなの階段 「こどなの階段」 作曲 Moment SMAP「」 作詞・作曲 脚注 [ ] [] 出典 [ ]• 、PLAZA INTERVIEW• 『MUSICA』FACT、2010年1月号、90頁。 日本テレビ系番組ZIP! 2013年3月19日放送より [ ]• 2015年11月2日. 2015年11月1日閲覧。 BARKS 2015年7月24日. 2015年8月9日閲覧。 RO69 2015年8月24日. 2015年8月24日閲覧。 RO69 2015年8月14日. 2015年8月24日閲覧。 ナタリー 2015年8月24日. 2015年8月24日閲覧。 INFASパブリケーションズ 2015年11月2日. 2015年11月2日閲覧。 『サケノサカナ』第6回放送より• - ()• 2014年7月27日サカナクション Blu-ray&DVD「SAKANATRIBE 2014」リリース記念Ustream配信より• 2020年4月21日・・川上洋平とのInstagramライブ• LIVE PRESS 2016年9月6日. 2020年5月17日閲覧。 ; サカナクションのNFパンチ 2018年6月25日. 2020年5月17日閲覧。 ORICON NEWS. 2019年9月14日閲覧。 2014年6月12日放送. 2020年5月13日閲覧。 2019年11月28日. 2020年5月14日閲覧。 マイナビニュース 2015年10月9日. 2015年11月2日閲覧。 ナタリー 2010年6月21日. 2016年1月21日閲覧。 外部リンク [ ]• sakanaichiro -• ichiroyamaguchi - この項目は、(・・・・など)に関連した です。 SAKANAQUARIUM 2011 DocumentaLy -LIVE at MAKUHARI MESSE-• SAKANAQUARIUM 2013 sakanaction -LIVE at MAKUHARI MESSE 2013. 19-• 27-• SAKANAQUARIUM 2017 10th ANNIVERSARY Arena Session 6. 1ch Sound Around• ライブ 配信限定.
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