来歴 [ ] 18歳で中小モデルプロダクション巴比倫に所属し、 書琪の芸名でモデル活動を開始する。 この頃、映画『』に出演し実質的なヒロイン役を演じたが、諸般の事情からお蔵入りとなる。 その後、 舒琪名義で揚名映畫社から出版されたヌード写真集『私。 舒琪』に注目したの誘いを受けて香港へと渡り、『』でと共に主演する。 同時に同名の映画監督()との混同を避けるために芸名を 舒淇に改めた。 当初こそセクシーアイドルという扱いに甘んじていたが、に『』で第16回の最優秀新人賞と最優秀助演女優賞をダブル受賞。 言葉の障害をものともしない個性豊かな表現力が早い段階から評価され、次々に有名俳優と共演し人気監督の作品にも数多く出演するようになる。 には『』では第18回香港電影金像奨最優秀助演女優賞と第35回最優秀助演女優賞を受賞した。 日本では、の主演映画『』に出演したことにより、広く名を知られるようになる。 また、の烏龍茶「煌」のCMにも出演した。 には監督の『』で海外からも注目を集め、の『』で欧米映画にも進出。 その後、台湾の巨匠作品の常連ともなり、にも毎年登場。 台湾・香港映画界を代表する国際派女優のひとりとなっている。 の『』で第42回金馬奨最優秀主演女優賞を受賞。 のでは審査員を務めた。 の『』で第10回最優秀女優賞を受賞。 、俳優・映画監督のと結婚した。 出演 [ ] 映画 [ ]• 霊與慾 (1995)• 玉蒲團2之玉女心經 (1996)• 紅燈區 (1996)• 色情男女 (1996)• 慾女 (1996)• 愛情amoeba (1997)• 基佬四十 (1997)• 超級無敵追女仔 (1997)• 飛一般愛情小説 (1997)• 對不起、多謝你 (1997)• 精裝難兄難弟 (1997)• 碧血藍天 (1998)• B計劃 (1998)• 風雲 雄覇天下 (1998)• 行運一條龍 (1998)• 古惑仔情義篇之洪興十三妹 (1998)• 美少年之戀 (1998)• 新古惑仔之少年激闘篇 (1998)• 玻璃之城 (1998)• 新戀愛世紀 (1998)• 中華英雄(1999)• 天旋地戀 (1999)• 玻璃樽 (1999)• 龍火 (1999)• 賭聖3無名小子 (2000)• 星語心願 (2000)• 半支煙 (2000)• Bad Boy 特攻 (2000)• 神偸次世代 (2000)• 我愛777 (2000)• 有時跳舞 (2000)• 勝者為王 (2000)• 千禧曼波 (2001)• 絶色神偸 (2001)• 有情飲水飽 (2001)• 北京樂與路 (2001)• Le Transporteur (2002)• Office有鬼 (2002)• 幽霊人間 (2002)• 夕陽天使 (2002)• 衛斯理藍血人 2002• 奇逢敵手 (2003)• 見鬼2 (2004)• 韓城攻略 (2004)• 最好的時光 (2005)• 조폭 마누라 3 (2005)• 傷城 (2006)• 森冤 (2007)• 天堂口 (2007)• 非誠勿擾 (2008)• New York, I Love You (2009)• 全城戒備 (2010)• 精武風雲・陳真 (2010)• 非誠勿擾2 (2010)2011日本・中国映画週間で上映• 愛 (2011)第7回大阪アジアン映画祭で『』の邦題で上映、2012東京・中国映画週間では『』の邦題で上映• 情謎 (2012)第7回大阪アジアン映画祭で上映• 太極1 従零開始 (2012)• 太極2 英雄崛起 (2012)• 十二生肖 (2012)• 西游 降魔篇 (2013)• 一步之遥 (2014)• 刺客 聶影娘(2015)• 鬼吹燈之尋龍訣(2015)• 我最好朋友的婚礼(2016)2016東京・中国映画週間で上映• 健忘村(2017)アジアフォーカス・福岡国際映画祭2017、第9回京都ヒストリカ国際映画祭で上映• 西游 伏妖篇 (2017)• 俠盜聯盟 The Adventures(2017) CM [ ]• の烏龍茶「煌」 イメージDVD [ ]•
次のちょっと前に が日本政府に招きで来日した。 と言えば、91年に を授与され、国内外で軍事政権と戦うヒロインというのがほとんどの日本人が持つイメージだろう。 しかし以前に本ブログでも指摘したことがあったが、そうした彼女に対するイメージはマスメディアが作った虚像にすぎず、見た目で判断してはいけないが、単なる高慢ちきな婆さんとしか私には見えない。 彼女には偉大なる父君、 アウンサン将軍から受け継ぐべく品位が感じられず、何だか比較しては失礼だが、アッパラパーのちゃんと同じ匂いや卑しさがどことなく漂っている。 私にとっては悪いイメージしかないだが、マスメディアの報道だと彼女のことを「 軍事政権と戦っているヒロイン」「 現代の」など礼賛するのがほとんどで、彼女を批判するものはなかった。 僅かに元の記者のさんの本「 スーチー女史は善人か」があるくらいで、「 平和のシンボル」を批判するのは憚られてるような雰囲気だった。 しかし、最近はの実像が徐々にではあるが暴かれ始めている。 4月25日号「 新聞は持ち上げても 実にいやな女だった!」の中で元大使であった一氏の体験談を掲載している。 それによると、彼女は「 軍はけしからん」「 しろ」というだけで、政治的素養もビジョンもないとバッサリ、又、1997年のが加盟に際し、当時の橋本首相が賛成したことには「 軍が横暴となり、反対は皆殺しにされる」と怒鳴り散らしたそうだ。 また翌98年、国際空港の滑走路の整備に日本政府が援助を決定したことに対し烈火のごとく怒り、山口氏が「 人命にかかわることで、空港が機能しないと国際交流もなくなる」と言うと、驚くことにスーチーは「 は孤立してもいい」と言い放ったという。 今国内で自分の支持でもあったが軍から攻撃を受けている問題でも「私は関係ない」と発逃げ回っている。 ネットの世界でもに対する疑念も出ているようで、彼女に対する批判的な記事も少しではあるが見受けられる。 は訪日中の4月17日、日本の会見で「 政党のトップで国のトップになりたくない人がいるのか。 なりたくなければ偽善ではないか」と語っている。 この言葉にこの婆さんの本性が透けて見える。 婆さんからすれば、自らの名誉欲を満たすために、、と叫び続けていたのだ。 国内の不満分子やを集め、騒動を繰り返す。 そういった連中は彼女にとってはに過ぎず、恐らく政権を奪取したらポイ捨てにしてしまうだろう。 自らの栄耀栄華が目的なので早晩の国民を捨てることになると思う。 それ以前にこいつはのことを知らなさすぎるし知ろうとはしないだろう。 なぜなら彼女を育てたのは、の国土を奪い、の大半を占める を最下層に貶め、国内にインド人、中国人、を入れをした、が忌み嫌う イギリスだからである。 これは高山先生の本からだが、彼女は思春期から中年期までをインドやイギリスで過ごし、ご丁寧にイギリスは年頃になった彼女にハンサムなイギリス青年(実は諜報部員)まで提供している。 このことからして彼女自身は骨の髄までイギリス人となっているので、どうしても顔はイギリスに向く。 先ほどの空港のこともあるが、この婆さんがのことを考えているとは言い難い。 政権を取ったとしても、恐らく欧米の走狗になり、イギリス植民地時代に逆戻り、国内はガタガタになり結局彼女はから追放されるだろう。 その後、 フィリピンの女性大統領で悲劇のヒロインだが無能だった アキノの後に国を救った ラモスのような有能な人が現れれればいいが、失脚を出しに欧米、もしくはが介入し、がぐちゃぐちゃになるリスクの方が高い。 今日、前の複合施設で の最新作を見に行った帰りに、同じ施設にある図書館で、先ほどの元大使の一氏とジャーナリストの寺井融氏の共著 「はを救えるか?」(マガジンハウス刊2012年)を借り今読んでいるが、その中でとその父アウンサン将軍の比較した箇所がある。 「ともに素晴らしく頭の切れる人物という点では共通しています。 実に頭脳明晰で頭の回転が速く記憶力も抜群です。 しかし大きく異なる点が二つある。 将軍は謙虚で控えめな性格でけっして驕ることがなく、他人のいうことに耳を傾ける人物であったのに対して、娘のほうは気位が高く、高慢で、強硬な自己主張をする。 自分の言うことはすべて正しく、他人は自分の発言を聞き、それに従うべきだと思っている。 他人の発言を傾聴することはまったくない。 将軍は素朴で粗野な性格で粗削りの野人といった印象を与える人物であったのに対して、娘は西欧流に洗練された身のこなしや衣服の着こなしにいたるまで、趣味の良さを印象づける。 しかし彼女からは将軍の持っていた誠実さや率直さはみじんも感じられない」 よ、この苦言を何と聞く。 日本風に言えば、草葉の陰から将軍が泣いておられるぞ!は2000年も歴史がある国である。 それに欧米がいう民主的なシステム及び男女平等なる思想ははるか昔に達成している進んだ社会でもある。 人としての誇りがあるのなら、、真実に目覚めて欧米の操り人形を止め、のために働きなさい!!もしそれができないのであれば、潔く身を引くべきだ。 アウンサンスーチーとヒラリー・クリントン女史が握手!? - 五つの池の喫茶店 写真:無料写真素材 写真AC の寺院 追伸:この記事は私のブログの中で、最も読まれているようで、拝読率では他の記事を圧倒している。 2年前に書いたこの駄文、いまだやYahooの検索で上位に位置づけされているようで何だか申し訳ないような気がしている。 女史は今年(2015年)6月、中国を訪問し、と会談した。 法律違反を繰り返し、軟禁と言っても荘園のような広大な自宅で過ごしたスーチー女史、さすがに賢明な国民もうすうす彼女の正体に気付いているかもしれない。
次の- )は、におけるの指導者、政治家。 現在、党首。 3月30日にを大統領とする新政権が発足したことにともない、外相、大統領府相を兼任(当初は教育相と電力エネルギー相も兼任していた) 、さらに新設のにも就任した。 同国における国家元首は大統領だが、アウンサンスーチーが事実上のと紹介されることもある。 の独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ」こと将軍の娘である。 敬虔な徒とされる。 使用言語は、、、。 、訪仏時はフランス語で講演し、訪日時は英語で記者会見した。 日本や、英語メディア、仏語メディア、独語メディアなどの報道では「アウンサン・スーチー」「スーチー」などと表記されることもあるが、ミャンマー人(現在のビルマ語族の大半)は姓(名字)はなく、ミャンマー国内では通常「アウンサンスーチー」の一語で表記する()。 幼少時代と家族(1947年:前列中央が本人) 1945年6月、首都で生まれた。 当時はの末期で、敗勢のを裏切った父らの攻勢もあり、5月にラングーンからが駆逐され、大日本帝国の支援を受けていたも崩壊。 が終わりの支配に戻ったばかりのころだった。 後、1947年に父が、政敵の部下に暗殺される。 以降、ラングーンで元の母親キンチー()と2人の兄とともに暮らし、母からの厳しい教育を受けた。 次兄のアウンサンリンが8歳のとき、自宅庭の池で溺死したのち、ラングーン市内の畔に転居した。 長兄のアウンサンウー は、のちに・にとして移り、を取得した。 妹の政治活動に反対している。 アウンサンスーチーは、ラングーンの聖フランシス修道会学校を経て、にあった、ビルマのトップ英語学校メソジスト英語学校(現・ダゴン第一高等学校、)に通った。 同校の同級生に、のちにアウンサンスーチー側近となるがいた。 1960年に母親のキンチーが、政権で駐兼駐に着任すると、スーチーは母とに移り、同地のキリスト・メリー修道会学校に通った。 1962から()レディ・スリラム・カレッジ でを学び、1964年に卒業。 インドでは、の家族などと親交し、の不服従運動の影響を受けたとされる。 1964年から1967年まで、のセント・ヒューズ・カレッジ 哲学政治経済学部 PPE, で・・を学ぶ。 1967年に号を取得後、ビルマ政治史担当の助手に就任し 教授に師事。 1968年に同大学を卒業して政治学号を取得した。 しかし、オックスフォード大学での成績は不振で、2度コースを変更しようとしたもののいずれも失敗し、結局可の評価で卒業したため研究を続けることが困難となった。 1990年にオックスフォード大学名誉フェローに選出された。 1993年にオックスフォード大学の授与を打診されたものの出国できず断念。 その後、2012年に名誉博士号を取得した。 大学卒業後、友人のタンイー とともにで暮らし、1969年から大学院でを専攻してビルマ政治史が専門の Frank Trager 教授に師事したが、中退し、1969年から1971年にかけてニューヨークの行政財政委員会で補を務める。 1972年にオックスフォードの後輩で、当時在住だったチベット研究者の(1946 - 1999)と結婚し、国際連合事務局を退職し、となった。 1972年から73年までブータン外務省研究員。 1973年に長男のアレキサンダー を、1977年に次男のキムをもうける。 オックスフォード大学クイーン・エリザベス・カレッジで研究を再開し、1975年から77年まで編纂研究員を務めた。 1985年から87年までロンドン大学 SOAS で研究生を務め、ビルマ文学との関係を研究し、1988年にSOASでビルマ文学修士号を取得した。 父の研究をするため、オックスフォード大学で2年間かけてを習得。 その後ら1985年10月から翌年7月までの約9か月間、の支援で東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、関係者への聞き取り調査や、外交史料館、旧戦史部、などでの資料調査を行い、父将軍についての歴史研究を進める。 当時の受け入れを行ったのは、当時同センター長の(前・学長)らである。 でインド教育省Indian Institute of Advanced Studies IIAS 特別研究員を2年間務めたほか、政府でも勤務した。 1986年7月から10月までヤンゴンの母を訪ねたのち、オックスフォードに戻った。 軍事政権との対峙 [ ] 1988年3月31日に母が危篤との知らせを受け、病気の母を看護するため4月2日にビルマに戻る。 1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけとして学生を中心に始まった反政府運動()は、デモ中の学生が虐殺された3月以降に激化した。 7月にの軍事クーデターより独裁政治を敷いていた将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。 下では学生や市民らが大規模なデモを行った。 アウンサンスーチーは8月26日に前集会で50万人に向けて演説を行った。 9月18日に国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする(国家法秩序回復評議会、SLORC。 民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。 アウンサンスーチーは9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指して、1988年の(NLD)の結党に参加し、に就任。 全国遊説を行うが、1989年7月に自宅され、NLD書記長を解任される。 国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したといわれる。 軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いるが大勝した。 しかし、軍政側は「民主化より国の安全を優先する」と権力の移譲を拒否した。 この強硬な姿勢は国際的に激しい非難を招き、アウンサンスーチーは1990年10月12日にトロルフ・ラフト財団からトロルフ・ラフト人権賞()を受賞。 1991年7月10日に受賞、10月14日にノーベル平和賞を受賞した。 ノーベル賞賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。 ただし自宅軟禁中のため授賞式に出席できず、受賞演説を行ったのは軍政が民主化に本腰を入れ始めてから21年後の2012年6月16日のことであった。 1995年7月10日に自宅軟禁から解放される。 週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、軍政によって中止に追い込まれる。 10月10日にNLD書記長に就任。 NLDは11月に制憲国民会議のボイコットを決断し、軍政は対抗措置として同党側委員を除名した。 会議は事実上休眠状態となる(2003年に再開)。 NLDは1996年5月、アウンサンスーチー釈放以後初の党大会を計画したが、軍政側は国会議員235人を拘束する弾圧策に出た。 軍政はアウンサンスーチーに外への移動を禁止していた。 アウンサンスーチー側はと1998年にこれに抵抗したが、いずれも妨害された。 NLDは1998年9月、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、アウンサンスーチーら議員10人で構成する(CRPP)を発足させる。 1999年3月、夫のマイケル・アリスが前立腺癌で死亡。 ビルマ入国を求めたアリスの再三の要請を軍政は拒否した。 再入国拒否の可能性があるアウンサンスーチーは出国できず、夫妻は再会することができなかった。 度重なる自宅軟禁 [ ] 2000年8月24日、ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。 抗議の篭城を行うが、9月2日に首都ヤンゴンに強制送還された。 同月22日にマンダレー行きを試みたが再度拘束され、翌22日から再度自宅軟禁された。 同10月から、ラザリ国連事務総長特使らの仲介のもと、アウンサンスーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まり、に自宅軟禁は解除される。 その後、NLDの党組織再建のために各地を遊説し、訪問先で熱狂的な歓迎を受ける。 2002年5月14日、アウンサンスーチーとが5分間の電話対談を行い、録音した音声が系列の「」で放送された。 2003年5月30日、ビルマ北部を遊説中に軍政による計画的な襲撃に遭い、活動家や支援者に多数の死傷者と逮捕者が出た。 襲撃の責任者は、のちに首相となる中将とされる。 その後は軍施設に連行され、3度目の軟禁状態に置かれる。 外部からの訪問はほぼ完全にシャットアウトされた。 9月に手術入院したあとは自宅に移され、自宅軟禁状態となる。 2007年9月23日、仏教僧侶らのが広がるのにともない、軟禁先を自宅からに移されたとの情報がある。 9月30日、ミャンマーを訪れた国連事務総長特別顧問と1時間にわたり会談した。 国際社会からの支援 [ ] 2007年10月、の称号を受けた。 2008年4月、アメリカにて授与法案が可決される。 5月10日に軍事政権が信任選挙を強行した新憲法草案では、当初「配偶者および子供が外国人、もしくは外国の市民権を有する国民には選挙権を認めない」との条項があり、前夫が外国人のアウンサンスーチーの被選挙権を事実上剥奪していた。 しかし、諸外国の抗議もあり、軍事政府はこの条項を撤回。 同月23日、アウンサンスーチーは事前投票したと伝えられた。 2009年5月、アメリカ人の男が自宅に侵入したのが軟禁条件違反にあたるとして、「国家転覆防御法」違反の罪で起訴される。 5月18日、ヤンゴン市・インセイン刑務所内の裁判所で裁判が始まった。 規定では有罪の場合、禁固3 - 5年が科せられる。 自宅軟禁の最長期限は6年であり、同月末を迎えると軟禁が解かれる予定だった。 同日、アウンサンスーチー率いる野党・ NLD が刑務所周辺で抗議行動を行った。 17日の前日に、、、ら著名人44人がアウンサンスーチーの訴追に反対し、解放を求める共同声明を発表した。 26日午前、をトップとする軍事政権は軟禁期限は11月との声明を出し、アウンサンスーチーと弁護士にも軟禁解除を伝えた。 そのうえで8月11日、国家転覆の罪で禁固3年の実刑を言い渡し、直後に執行猶予と1年6か月分の特赦をつけて再度の軟禁状態に置いた。 侵入者のアメリカ人は禁固7年の実刑判決を受けた。 政治活動の再開 [ ] 2012年9月、ホワイトハウスにてと会談を行うアウンサンスーチー 、軍事政権のマウン・ウ内相が地方の会合でアウンサンスーチーについて「軟禁期限となる11月に解放される」と述べていたことが判明し、11月13日に軟禁を解除された。 政治活動の再開を進めるアウンサンスーチーに対し、政府は2011年6月28日に活動停止を通告。 7月25日、8月12日に政府側と会談し、国家の発展のため協力していくことで合意したが、これには懐疑的な見方もある。 8月14日に地方都市での政治活動を再開させた。 2012年4月1日に行われたミャンマー連邦議会補欠選挙にNLDより立候補 し、当選を果たす。 しかし軍事政権が定めた憲法に反対する立場から、議員就任の際に求められる憲法遵守の宣誓を拒否することを理由に、4月23日の初登院に応じず宣誓内容の修正を求めた。 その後方針転換し、5月2日に正式に議員に就任。 6月、国民代表院法の支配・平和安定委員会委員長に就任。 2012年1月10日、NLD中央執行委員会議長に選出。 1月13日、フランス大統領が、コマンドゥール(3等)の授与を電話で伝える。 1月25日、パキスタン大統領よりを授与される。 2月10日、が、2002年に授与が決定していたを授与する。 11月、インドを訪問し、1993年に受賞が決定していたネール賞の受賞演説などを行う。 2月15日から名誉法学博士号を受ける。 6月、24年ぶりに諸国を歴訪し、同月27日にの称号を受け、で講演を行った。 2013年2月1日、の文化館でソウル大学校名誉教育学博士号を授与された。 同日に行われた長との会談で、問題について、のでへの抵抗運動を主導した父の「誰にでも長所と短所がある」との言葉を引用し、「過ちは誰にでもあるが、過ちを認めることをためらうことこそ本当の過ち」とし、問題を否定する日本の姿勢を批判した。 27年ぶりに来日し、安倍首相と会談 4月13日、27年ぶりに来日。 や、京都滞在中に家族ぐるみの付き合いをしていた日本人との懇談や、経済界へのミャンマーへの支援の呼びかけ、首相などの日本政府要人との会談を行う。 では、京都大学名誉フェローの称号を新設して、4月15日の講演時にこれを授与した。 同日、日本滞在時から親交の深い教授夫妻がかつて教鞭をとっていたで講演を行い、龍谷大学名誉博士号を授与された。 講演では、仏教のに基づく民主化運動を行う必要があると論じ、「仏教の教えを心に置きながら変革を進めないといけない」と述べた。 9月12日、で初代大統領と昼食をともにし、外国人として2人目の名誉市民の称号を受ける。 10月にに訪問し、と面会。 10月27日、に授与が決定されたものの20年間受け取ることのできなかったの称号を、ローマ市庁舎で開かれた記念式典で受けた。 その後、名誉市民の称号も授与された。 「事実上のアウンサンスーチー政権」の樹立 [ ] 2015年11月8日に実施された総選挙において、NLDが圧倒的な勝利を収め、アウンサンスーチー自身も連邦議会下院議員に当選したことが選挙管理委員会に発表された。 10日に行われた外国メディアの取材に対し、アウンサンスーチーは新たに選出される新大統領について、憲法上アウンサンスーチーの就任が禁じられていることに合わせた措置に過ぎず何らの権限を持たない傀儡であり、「私がすべてを決定する」と断言した。 ただし、こうしたアウンサンスーチーの立場や、コーコージーなど民主化運動の有力者を議員候補リストから排除するなどの党運営について、「憲法の無視」「権威主義的な姿勢」などという批判がなどからなされた。 違憲の疑いも指摘されるが、アウンサンスーチー自身は憲法に規定がないため違憲ではないと主張している。 3月22日、ミャンマー次期大統領のは議会に新内閣の閣僚名簿を提出し、新政権にアウンサンスーチーが入閣することを明らかにした。 3月30日、ティンチョーは正式に大統領に就任し、新政権が発足した。 日本のマスコミはこの政権を「事実上のアウンサンスーチー政権」と評価している。 アウンサンスーチーは外務大臣( ()のメンバー)、大統領府大臣、教育大臣、電力エネルギー大臣の4閣僚を兼任した。 ただし、この中の教育大臣と電力エネルギー大臣のポストについてはほかに適任者が現れるまでの暫定措置であったとされており、政権発足後すぐに電力・エネルギー相は政権でエネルギー省次官を務めたペー・ジン・トゥン Pe Zin Tun 、教育相は教育省勤務経験のある西ヤンゴン大学学長のミョー・テイン・ジー Myo Thein Gyi へ交代させる人事案が連邦議会に提示されている。 ミャンマーの憲法では国会議員と国務大臣を兼任することはできないため、アウンサンスーチーは大臣就任に伴って連邦議会下院議員を自動失職した。 4月6日、ミャンマー連邦共和国のポストを新設し、それにアウンサンスーチーを任命する法案が成立した。 この「国家顧問」は、憲法の規定で大統領に就任できないアウンサンスーチーに国家の最高指導権を委ねるための措置であるとみなされている。 国家顧問は大統領に政治上の「助言」を与えることができるとされているが、アウンサンスーチーの「助言」は事実上、大統領への「指示」となっており、このためアウンサンスーチーが事実上のとみなされることもある。 外相就任後の4月5日、中国の外相と会談した。 王外相は今回の訪問がアウンサンスーチーからの招待であることを明かしたうえで「政権が交代しても両国の永続的友好関係は変わらない。 農業やインフラ分野の経済協力を進める」と応じている。 王外相は6日までミャンマーに滞在し、大統領とも会談した。 5月3日、ミャンマーを訪問した日本の外務大臣と会談した。 2017年9月、ミャンマー西部ラカイン Rakhine 州で、イスラム系少数への依頼として武装勢力との関わりについて何ら検証していないロヒンギャの村を放火するなどの事実がにより放映された。 これらミャンマー政府によるロヒンギャへの対応について、国連関係者から「」であるとの指摘がされるなどしており、同国の事実上の指導者であるアウンサンスーチーに対して、授与されたノーベル平和賞を取り消すよう求める請願運動がネット上で行われ、36万を超える署名が寄せられている。 オックスフォード市より1997年に授与された ()は、ロヒンギャ問題への対応不足を理由に2017年に剥奪されている。 ロヒンギャ虐殺の黒幕とも呼ばれている団体の指導者は当初アウンサンスーチーの支持者であり、アウンサンスーチーも支持層の1つである969運動を積極的に制止しなかったとされる。 2018年11月12日にが、アウンサンスーチーのロヒンギャへの対応に失望したとして2009年に授与した「心の大使賞」を取り消すと発表。 14日に米国副大統領のが、会談先のでアウンサンスーチーに対し「ロヒンギャに対する迫害は『理由なき暴力』だ」と述べるなど、強い口調で非難したことが明らかにされている。 2018年12月、は、アウンサンスーチーが指導者としてロヒンギャに対する暴力・虐殺に対応しなかったとして、パリ市名誉市民の称号の取り消しを決定した。 10月21日に赤坂離宮でと会談を行い、翌22日のに参列した。 2019年12月11日にミャンマーを被告としてロヒンギャに対する(集団虐殺)が問われたのに出廷して証言し、武装勢力が政府施設を襲撃したものに対応した作戦で、「一部で不相応な力を行使した」ことは認めたものの、それについては「国内の司法が裁く」、国外へ逃れたロヒンギャについては、「自主的かつ安全な帰還に向けて取り組んでいる」「ジェノサイドの意図がありうるだろうか」などと反論し、自らが「内政上の武力衝突」と主張するロヒンギャ問題を国際司法の場においてを論じることについて反発した。 BBCは、法廷の様子をテレビで見ていたのロヒンギャ難民が「嘘つき!嘘つき!恥を知れ!」と罵り声をあげたと伝えている。 受賞歴 [ ]• 名誉市民()• 、議会が名誉市民号剥奪を宣言• 名誉教育学博士()• 名誉法学博士()• 名誉文学博士()• 名誉法学博士()• 名誉博士()• 名誉市民()• 名誉哲学博士()• 名誉市民()• 賞(授与)• 、が、に対する不作為を非難し剥奪• 名誉私法学博士()• 2018年12月、は、アウンサンスーチーが指導者としてロヒンギャに対する暴力・虐殺に対応しなかったとして、パリ市名誉市民の称号の取消を決定• 名誉法学博士()• 名誉博士()• 心の大使賞(授与)• がロヒンギャに対する対応に失望したことを理由に取り消し• 名誉市民(授与)• ロヒンギャ問題への対応の不誠実さに対し剥奪• 名誉博士()• 名誉博士( )• 市より ()(授与)• にロヒンギャ問題に対する取り組みが不足していることを理由に剥奪。 同様に、市、市、市も名誉市民権を剥奪した• 名誉フェロー()• 名誉フェロー(1990年) 人物 [ ] 名前について [ ] アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取ってつけられたものである。 ミャンマーに住むビルマ民族は、性別に関係なくを持たない。 アウンサンスーチーの「アウンサン」も姓や父姓ではなく、個人名の一部分に過ぎない。 彼女の名前は「アウンサンスーチー」で、原語では分割することはない。 日本の大手メディアでは毎日新聞が1996年から、朝日新聞が2012年から「アウンサンスーチー」と表記しているがそれ以外は「アウン・サン・スー・チー」と表記している。 ビルマ人は、通常、年配の女性につける「女史」に相当する「ドー(Daw)」をつけて「ドー・アウンサンスーチー」と呼ぶ。 親しみを込めて「ドー・スー」ということもある。 逸話・評価 [ ]• 彼女の半生を基にした映画『』が2011年に制作された。 旧軍事政権との繋がりの深い政商から、が金を受け取っていたことが判明している。 彼ら政商は軍事政権の取り巻きの立場を利用して富を築いており、国内でも悪評が高い。 内訳は教育・医療対策のために実業家テー・ザから8万2,353ドル、チョー・ウィンから15万8,824ドルである。 テー・ザは武器密輸の疑い、チョー・ウィンは南部カレン州で起きた強制土地収用に関係している。 同じくNLDに献金していたゾー・ゾーが所有する財閥マックス・ミャンマーは、2013年1月現在も欧米からの制裁を受けている。 イラワジ誌によれば、NLDの行動を擁護し、「軍事政権の取り巻きだったとされる人々は、NLDなどの社会活動を支援してきた。 そのどこが悪いのか?目的もなく金を使う代わりに、彼らは支援するべきことを支援した。 それはいいことだ」と語った。 国際団体(本部ニューヨーク)は2013年版の年次報告において、アウンサンスーチーについて「少数民族の人権保護に消極的で、失望している」との批判を掲載した。 アラブ系メディアのも、イスラム系少数民族のの難民問題について、多数派である仏教徒の支持を得るために迫害を黙殺しているとの報道を行っている。 2013年にBBCのパキスタン系英国人キャスターからロヒンギャ問題について見解を問われ、「イスラム教徒と仏教徒の両サイドがお互いに恐怖心を持っていることに起因している。 恐怖心はイスラム教徒だけが抱いているわけではない」「軍事政権によって暴力にさらされ、国を追われてきたのはイスラム教徒だけではない。 それよりもより多くの仏教徒も暴力にさらされ、国を追われている」と答えた。 2017年にBBCのインタビューで、ロヒンギャ問題について見解を問われ、「それについてはすでに2013年に同じ質問を受けて回答している。 質問に答えたのに何も答えなかったかのように言われるのは、単に人々が求めているような、どちらかの陣営を強く非難するようなコメントをしなかったからだ。 しかし、私はでもなければ、でもない。 政治家だ」と答えた。 2016年にスーチーのこれらの差別的な発言をめぐり、「ノーベル平和賞取り消し」を求める署名キャンペーンがで行われ、5万人以上の署名が行われた。 ロヒンギャ問題に関しては、2017年にも「ノーベル平和賞取り消し」を求める署名活動が行われており、さらに多くの36万もの署名を集めている。 2017年9月にラカイン州のロヒンギャの武装勢力と治安維持部隊の衝突について、ロヒンギャ勢力に対し残忍な方法で鎮圧を図っているとして国際的な非難が集まっている点について、トルコのエルドアン大統領との電話会談中の発言の引用として、「政府はすでに取りうる最善の方法でラカイン州の人々を保護している。 非難はテロリストのばらまいたフェイクニュースに基づいており、それらは氷山の一角に過ぎない。 政府に対する非難はテロリストを利するものだ」と声明を出した(ミャンマー政府は軍事政権時代から、ロヒンギャを「ベンガル人」と呼び、からの不法移民であるとして自国民として取り扱っておらず、「ラカイン州の人々」にロヒンギャが含まれることについては疑問がある)。 一方、13万人近いともされるロヒンギャ難民、彼らが政府が国境地帯に急きょ敷設したとされる地雷で負傷していることについては完全に沈黙した。 著書 [ ]• 『ビルマからの手紙』 アウンサンスーチー 著、土佐桂子・永井浩 共訳、、1996年12月 (・での連載を単行本化)• 『アウンサンスーチー演説集』 アウンサンスーチー 著、伊野憲治 編訳、 脚注 [ ] []• 2013 年 4月 15日 アウン・サン・スー・チー氏 龍谷大学名誉博士号授与式 記念講演会 深草キャンパス顕真館• アセアンポータル. 2016年3月30日閲覧。 2018年10月13日. 2018年10月28日閲覧。 [ ]毎日新聞2013年04月16日朝刊• Aung San Suu Kyi: A Biography, p. 142• 『アウン・サン—封印された独立ビルマの夢』、岩波書店、1996、140—191 頁• , 2012年5月30日. 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ITmedia ビジネスオンライン 2016年4月7日• change. org 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 アウンサンスーチーに関連する および があります。 (英語)• (ビルマ語)• - (ビルマ語)• (英語)• [ ]• - (2013年4月27日アーカイブ分)• 党職 新設官職 書記長 1988年—2011年 廃止 先代: 中央執行委員会議長 2011年—現職 現職 議会 先代: 選出 2012年—2016年 空位 公職 先代: 2012年—2016年 次代: 空位.
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