主な登場人物 [ ] 野山厩舎関係 [ ] 光優馬 の野山厩舎に所属する。 ・捨造に10年に1度の、当時の優勝賞金である1億3000万円を契約金として払ってやるなどと言われされ、騎手となった。 JRAトップ騎手・左京を「うんこたれ左京」呼ばわりしているが、仲はとても良い。 照れ屋なのか、素直に優しさを見せることはほとんどないが、一見冷たく見えるが思いやりのある行動をとる。 優馬が5歳のときの光牧場が原因不明のになり、・和江がし、父親も行方不明になりの七色浜にいる源じぃにひきとられた。 では逃げの戦法をとることが多い。 野山捨造 関東地方競馬場の調教師。 優馬が勝つとよく小林と抱きつく。 気が強くのためとは愛想をつかして逃げていってしまった。 小林政宏 野山厩舎の。 馬を愛することにかけて、おそらく右に出る物はいない。 「あわわ」が口癖。 優馬にアルフィーの馬房に新しい馬を入れたらどうだと言われたが、断固拒否した。 小林にはと母がいるが、母はで小林が世話した馬の名前以外は何もかも忘れてしまった。 職歴15年以上のベテランだが仕事ではしょっちゅうポカがあり、その度に捨造や優馬に怒られている。 だが、本当は「野山厩舎は小林でもっている」と捨造に言われるほど、誰よりも信頼されている。 また、アルフィーが死の間際に優馬ではなく小林を探したり、クレイジーがジャパンカップ前に小林の不在を気にしてイレ込んだりするなど、人だけでなく馬にも慕われており、作品を語る上でなくてはならない名脇役である。 神宮寺愛 野山厩舎の。 理学部卒だが、アルフィーのダービーを見て方向転換し、厩務員となった。 野山きな子 優馬と左京の幼馴染で捨蔵の。 アルフィーの死を見てをし、七色浜でのをしている。 中央競馬 [ ] 月山左京 優馬とはのの天才騎手。 いつの間にかをしゃべっている。 1年目にが1987年に記録した新人最多勝記録の69勝を更新する73勝を挙げ、天才ともてはやされていることに驕ることなく、人前では年齢の割に丁寧な態度であるが、優馬と二人きりの時は素に戻る。 優馬を「アホ優馬」呼ばわりしているが、優馬の人間としての素晴らしさは認めていて、「優馬にはかなわんな」と発言したことがある(その時は小林が「左京は優しくて自分が女性だったら間違いなくほれてる」とフォローしている)。 優馬とは逆にストレートに優しさを表現する。 左京は優馬がのときのオール1の成績表のをなぜか持っている。 岡田鮫 JRA騎手。 騎手としての才能はイマイチだが努力する才能は超一流。 レースで騎乗するためならゴマすりやボロ(馬糞)も食うほど。 周囲からは「ゴマすりの腕は超一流だが、腕は二流」、「あんちゃん(新人騎手)よりまし」などと言われている。 ただし、田辺俊輔は「逃げ馬に乗せたら怖い」と評していた。 それゆえファンも多い模様。 伊賀広和 地味だが仕事は確実にこなすベテランジョッキー。 よく岡田に説教したり、悪だくみをしているときに止めておくように忠告したりしている。 普段は真面目だが、ダブルフェイスが遠征してきた時に長浜から「地方の馬に勝たせてはだめですよね」と悪だくみを持ちかけられ、それに乗ったことがある。 田辺俊輔 優馬のあこがれの騎手。 新人賞を受賞している。 しかし気性が荒く、よくトラブルを起こすためにだんだん騎乗馬が回ってこなくなり、酒びたりになる。 三石調教師の説得により復活を果たすが、優馬がダービージョッキーになった日の最終レースで落馬して死亡。 佐野和雄 田辺の弟弟子。 やや気弱な性格で、彼の騎乗ミスが田辺の死亡事故の原因ともなった。 その後アルフィーセカンドで菊花賞に出走するはずだったが、急遽エディに乗り変わったことで一時失踪している。 長浜英伸 ブルー軍団を率いる長浜ファームの三男。 親の威光で威張り散らす嫌な性格。 ダービーではアルフィーセカンドやバトルハートを封じ込めようとするも失敗、菊花賞では落馬と散々な結果に終わっている。 池野あやめ バトルハートの厩務員。 女性ということで周囲の人間からは低く見られていた。 バトルハートの世話を負かされるが、当初は左京が女性ということで見下し「新馬戦で走らなかったら終わり」というバトルハートを押し付けたとの噂話を信じていたため冷たく当たっていた。 しかしチャコから「左京が、チョベリグあや厩、馬に対する愛情が一番」と褒めていたとの話を聞かされたので誤解が解け、和解した。 服部千加子(チャコ) バトルハートの生産者であり馬主のニルキング牧場・服部文男氏の娘。 左京様と呼ぶほどの左京の大ファン。 処分されかかっているバトルハートのために左京に毎日手紙を送っていた。 その願いがかない、処分直前に左京に引き取られることになった。 地方競馬 [ ] 甘利弾 笠松競馬のジョッキー。 腕は優馬や左京に引けを取らない。 優馬たちが競馬学校に入学した頃にはすでに騎手として有名になっていた。 口が悪くて素直に優しさを表さない性格が優馬と似ているせいか、優馬とはそりが合わない。 口癖は「たわけ」「デラむかつく」。 山中乗人 で優馬の同期生の1人。 あだ名はのり。 父はで何度もリーディングジョッキーとなった名騎手。 穏やかで、協調性を重んじる性格。 優馬たちが無断で行ったナイター競馬で落馬、負傷により騎手の道を絶たれたため、元々の夢であった厩務員の道を歩むこととなった。 また、父も落馬により引退を余儀なくされており、親子2代に渡って落馬による不幸に見舞われている。 卒業後は高崎競馬場で厩務員となった。 長浜卓夫 地方競馬教養センターで優馬の同期生の1人。 勝気で短気。 実家はオーナーブリーダーの長浜ファームで、四男坊。 だが、父からは劣等生と見なされており、卓夫自身も父や兄に強い反発心を抱いている。 また、同じような境遇にある担当馬のモンテスターには強い思い入れを持っている。 卒業後はで騎手となった。 日本大賞典では優馬を負かすために父親に頭を下げ、中央のブルーチャンピオンに騎乗した。 レースは5着に敗れ、父親の騎乗指示にも従わなかった事については叱責されるが、頼ってきてくれてうれしかったと言われ、和解する。 伊達信長 地方競馬教養センターで優馬の同期生の1人。 大人しく気弱な性格で、その性格が災いし中学時代ににあいをしていた。 漫画を見て騎手を志すものの、気弱な性格は治らずセンターを辞めかけたこともある。 優馬たちの説得により思いとどまり無事卒業した。 騎手になってからは性格も多少は改善されたようである。 卒業後はで騎手となった。 日本大賞典ではのりの計らいで高崎のセンターコートに騎乗した。 上村鉄平 地方競馬教養センターで優馬たちの先輩。 後方からの差しきりを得意としており、まくりの鉄平と呼ばれている。 優馬を除くセンター生の中では一番の実力者。 当初は優馬を規律を乱す生意気なやつ、卓夫を落ちこぼれのクズと馬鹿にしていたが、優馬とのマッチレース後は優馬たちを仲間と認めた。 卒業後はで騎手となった。 マッチレースでの教訓を生かし、若手ナンバー1騎手として活躍している。 その他登場人物 [ ] エディ・フォード アメリカのトップジョッキー。 優馬とは義理の兄弟だが、本人はそのことを知らない。 左京に妙な関西弁を教え込まれている。 シャロン・フォード エディの妹で、優馬から見て義理の妹にあたる。 エディと異なり父親からそのことを聞きだしているため、優馬を「兄貴」呼ばわりすることもある。 調教でとはいえクレイジーを乗りこなした数少ない人物。 兄と違い流暢な日本語を話す。 ベン・フォード 優馬の父。 自分にも人にも厳しく、馬にだけは優しい人と言われている。 柊 地方競馬教養センターの教官。 かつては力道とともにオリンピックにも出場した。 生きる気力をなくしていた力道を再起させた優馬をセンター関係者ではいち早く認め、以後はよき理解者となる。 土井 地方競馬教養センターの教官。 たびたび規律を乱す優馬を毛嫌いしている。 ・ 実在する。 主にテレビの競馬中継が描写されている場面で登場する。 主な登場馬 [ ] 野山厩舎 [ ] アルフィー(父: 母:サクラハツユキ 母父:) 静内・谷岡牧場生産の競走馬。 当歳時、牧場に来た観光客にでを切られたことに驚いて観光客に噛みつき、これによって逆上した観光客から虐められた経験から非常に臆病な性格になり、中央では1度も出走できなかった。 その後野山厩舎で優馬と出会い、優馬の手によって前が見えない状態で強引にのに連れていかれ、ここで人目に慣れたことで臆病な性格を克服してレースへの出走ができるようになった。 皐月賞を勝利し、地方馬初のクラシックホースになったが、を押して出走したダービーのレース中に怪我(右前肢複雑骨折)をし、となり処分となる(作者は生存か死亡かを非常に悩んだそうだが、1995年のでが故障、競走中止し安楽死処分になったことを見て、アルフィーを同じ安楽死処分という結果にしたと語っている)なお、母馬のサクラハツユキは実在し、1994年の弥生賞馬(父)の母である。 また、アルフィーと同じくサンデーサイレンスを父に持つサクラケイザンオー(1996年の4着)も輩出した。 ケイザンオーは血統だけでなく毛色や流星もアルフィーとそっくりである。 戦績は通算6戦5勝。 青鹿毛。 主戦騎手は光優馬。 ボムクレイジー(父: 母:ラブシンザン 母父:) 新冠・山崎牧場生産の競走馬。 馬体の大きさを除けばアルフィーと瓜二つで、優馬と捨造がアルフィーの全弟を見に行った帰り、放馬して暴れているところに偶然出会った。 3歳時で既に体重500kg後半、4歳時には600kgを超えるという巨漢馬。 アルフィーとは対照的に非常に荒っぽい性格だが、反面騎手の感情の変化さえ敏感に感じ取る繊細な神経の持ち主。 地方初の日本ダービー馬となり、最後には海外遠征も果たすなど、日本を代表する名馬へと成長していく。 ブルーエンブレムにジャパンカップで負けた後はエンブレムを追って優馬が海外遠征を強行するも捨造が猛反対。 岡田を騎手として日本大賞典に出走させるもエンブレムがいないレースに出る気が起きずに勝手に厩舎へ戻り、出走停止。 以後は捨造も海外遠征に反対することもなくなった。 海外では、BCクラシックでエンブレムを倒して制覇した。 その後、35億円で引き取りたいという話が出る(捨造は乗り気だったが当然優馬は拒否)。 泳ぎが大の苦手。 リップ (父: 母:トリック 母父:) 野山厩舎の元祖暴れ馬だが、優馬が来てからはすっかりおとなしくなった。 競走中に手前を変えられないという弱点があり1勝もできず、一時は処分寸前にまで追い詰められるが、優馬の好騎乗で弱点を克服。 その後は順調に勝ち続け地方競馬を代表する強豪へと成長した。 ラブゼット(父: 母:ラブシンザン 母父:) 新冠・山崎牧場生産の競走馬で、クレイジーの半妹。 最後の子供である。 入厩前に厳しく仕上げられすぎたため、走る事に恐怖心を抱くようになってしまう。 小林により軟化したものの、能試で鞭を打たれたことで再び走る気をなくし、立ち止まってしまった。 兄とは違い泳ぎが得意で水に落ちた小林を助けるシーンもある。 中央競馬 [ ] ブルーエンブレム(父: 母: 母父: :・) 通称「白い皇帝」。 アルフィーの最大のライバル。 共に無敗で迎えたでアルフィーと初対決し、結果はアルフィーの2着に敗れる(国内では唯一の敗戦)。 続く日本ダービーでも最後の直線で先頭に立つものの、アルフィーの驚異的な末脚にあっさり交わされ2着が濃厚だったが、アルフィーが残りあと100m地点で故障発生したために半ば繰り上げのような形で優勝。 その後、永遠に勝つことのできない宿敵アルフィーの幻影を瞳に宿し、これを追い続けるという孤独な闘いを始める。 ちなみに、番外編「瞳の中のライバル」では菊花賞でもアルフィーの2着に敗れている(実際は優勝)。 また、国内ラストランとなったジャパンカップではそれまで自身の瞳の中にいたアルフィーを開放し、日本ダービーでアルフィーがスパートした地点からのガチンコ勝負を挑むが、アルフィーと同じゴール前100mの地点で故障してしまう。 だが、最後は逃げるクレイジーと優馬にアルフィーの幻影を重ね合わせ執念でゴール前これを差し切り、アルフィーに決別を告げる勝利を飾る。 その後、故障した脚の治療のためアメリカに渡るが、復帰後数戦はアルフィーという目標を失ったことから不振が続く。 だが、同じく、海を渡ったクレイジーのアメリカでの快進撃を見て、復活。 ジャパンカップ以来の再戦となるで激闘を繰り広げることになる。 主戦騎手は月山左京。 血統モデルは。 ガンファイター(父: 母:タイシンリリィ 母父:ラディガ 調教師:栗東・) 鋭い末脚を持っており、「後門の狼」の異名を持つ。 でユキノテイオーに勝利し、一躍クラシックの有力候補となった。 だがその後はアルフィーやブルーエンブレム、ボムクレイジーに敗れ勝利するシーンは描かれていない。 血統モデルは。 ユキノテイオー(父: 母:ファテマ 母父: 調教師::田中征一) 正確にラップを刻んで逃げるため、「逃げる精密機械」と呼ばれる。 デビューからレコードタイムで2連勝するが、作中初登場の若葉ステークスではガンファイターにハナ差で敗れ、皐月賞では最下位に沈むなど、勝利するシーンはない。 サンドバトル(父: 母:シナノカチドキ 母父:ファーザーズイメージ 調教師:栗東・浜田光正) 父・ブレイヴェストローマンはトウカイローマン、オグリローマン、マックスビューティーなど牝馬クラシック馬を輩出。 しかしそれ以上に多くの「砂の鬼」を輩出した名種牡馬。 その通り「ダートの王者」の異名を持ち、ダートにおいてはブルーエンブレムより強い。 日本大賞典出走の年はダートで11戦全勝、日本大賞典3連覇をかけて出走するが、ボムクレイジーの2着に敗れる。 その後は登場せず。 アルフィーセカンド(父:サンデーサイレンス 母:サクラハツユキ 母父:パーソロン 調教師:美浦・三石育夫) アルフィーの全弟。 その能力はアルフィーと互角、あるいはそれ以上とも言われる。 中央の美浦・三石厩舎所属。 馬主は当初、優馬を中央へ移籍させて主戦騎手にしようとしたが優馬がクレイジーを選んだため、三石調教師の弟子だった田辺俊輔が主戦となる。 同時に当時どん底状態にいた田辺俊輔復活のきっかけになる。 兄のアルフィー同様に無敗で皐月賞を制するが、ダービーはクレイジーの2着に敗れる。 ダービー後の最終レースで主戦の田辺俊輔が落馬、死亡したことを知り、飼葉を食べなくなりガリガリの体になるまでやつれてしまうが、厩務員のおいちゃんの体調が悪化したのを見た小林の叱責により復活。 その後、エディに乗り替わりぶっつけで菊花賞に臨むが、レース中に脚を骨折したこともありバトルハートの4着に敗れる。 バトルハート(父: 母:カロハート 母父: 調教師:栗東・植地貞夫 生産者:服部文男) 38代ダービー馬・の墓がある鹿児島県大崎町、ニルキング牧場生産。 母親の愛を受けられず骨折、さらにを発症したためでも売れ残り、あわや処分されかけた。 だがニルキング牧場の一人娘であるチャコによって招かれた月山左京に見出され、競走馬としてデビューすることになる。 新馬戦をノド鳴りに苦しみながら勝利し、その後ノド鳴りの手術のため休養。 で復帰しシャラクの2着となり皐月賞に出走するが、シャラクのに巻き込まれ4着。 日本ダービーではノド鳴りが再発し3着に敗れた。 再度ノド鳴りの手術を受け、でボムクレイジーを下し優勝。 菊花賞ではカラ馬となったシャラクに激突され肋骨を骨折しながらも優勝した。 菊花賞を最後に引退、5億円のを断り、ニルキング牧場所有の種牡馬となった。 ソイレントバード(父: 母:サバティーニ 母父: 調教師:美浦・) ボムクレイジーと同世代の競走馬で、主戦騎手は伊賀広和。 実力的にはボムクレイジーやアルフィーセカンドには一枚も二枚も劣る馬である。 菊花賞では伊賀が1500mを二度走る戦法で臨んだものの、エディに看破され敗れた。 血統モデルは公営高崎競馬のセンターコート(ただし母父が違う)。 シャラク(父: 母:ライトバード 母父: 調教師:栗東・) ボムクレイジーと同世代の競走馬で、主戦騎手は岡田鮫。 で岡田が逃げの戦法を打ち勝利する。 皐月賞でボムクレイジーの威嚇に怯んで斜行するなど、ボムクレイジーが大の苦手。 菊花賞では落馬事故に巻き込まれてになり、バトルハートに追突する。 日本大賞典では左京が騎乗している。 ブルブル 岡田のもう一頭のお手馬。 セントライト記念でバトルハートをぴったりとマークする作戦を取り、3着を確保、菊花賞の優先出走権を獲得する。 だが岡田は菊花賞でシャラクを選択したため、乗り変わった。 甘利弾は「シャラクよりブルブルの方が走る」と評しており、シャラクを選択した岡田を馬鹿にしていた。 菊花賞後は岡田のお手馬ではなくなった。 ブルーカイザー(父: 母:ブルーブルー 母父:) ブルーオペック(父: 母:ブループリマ 母父:) ブルーフォンテン(父: 母:ブルーダンサー 母父:) ブルー軍団がクラシックへと出走させた3頭。 それぞれ往年の内国産馬を父に持つ渋い血統の馬である。 で上位を独占し、ダービーへと駒を進めた。 ダービーではオペックとフォンテンが他馬を妨害し、カイザーが抜け出すという作戦を立てるも、アルフィーセカンドやバトルハートにはまるで通用せず、さらにボムクレイジーへの進路妨害でオペックとフォンテンの騎手は処分された。 カイザーのみ菊花賞にも出走したが、雨で濡れた芝に足を滑らせ転倒。 大落馬事故の原因となった。 ブルーチャンピオン(父: 母:バンシューウェー 母父:ペール) 中央競馬所属の競走馬で、ブルー軍団の馬。 GIで優勝したこともあり、他に2着の実績を持つ。 本来の主戦騎手は左京だが、日本大賞典では卓夫が騎乗した。 マイペースで走っているときは強いが、折り合いを欠くと途端に走る気を無くしてしまう。 左京曰く「気難しいお坊ちゃん馬」。 血統モデルは公営南関東のアブクマポーロ。 地方競馬(野山厩舎除く) [ ] ダブルフェイス(父: 母:ミスファピー) 所属。 普段は非常におとなしい馬であるが、カメラのフラッシュや稲光などの強烈な光を浴びると狂暴化する。 に優勝したが、事故で調教師を蹴り殺してしまいしばらく休養していた。 地元笠松のレースでボムクレイジーに勝利。 その後中央に参戦し、ではシャラクやソイレントバード相手に快勝している。 菊花賞でも一時はボムクレイジーとデッドヒートを繰り広げるものの、バトルハートの3着に敗れた。 血統モデルは公営南関東に所属、羽田杯(JRAの皐月賞にあたる)を勝ったキャニオンロマンとJRA美浦の厩舎に所属したエンビライナー。 センターコート(父: 母:シノブモチズリ 母父:) 高崎競馬所属。 32戦21勝。 のりの担当馬で、日本大賞典では信長が騎乗した。 砂のの異名を持つ粘り強い馬。 血統モデルは東京ダービー(南関東)を勝ったサプライズパワー。 尚、実在したセンターコートは、作者が共同馬主として初めて所有した馬でもある(中央5戦0勝 公営高崎33戦7勝)。 レインキラー(父: 母:グローリーサクラ 母父:) 高知競馬所属。 32戦28勝。 高知で28連勝を挙げた。 主戦騎手の負傷により、日本大賞典では鉄平が騎乗した。 血統モデルはサンエイサンキュー。 その他登場馬 [ ] 早風 七色浜で源じぃと一緒に暮らしていた老馬。 ボムクレイジーのダービー前に死亡。 39歳。 ポンコ(父: 母:グラスクィーン) 借金苦に喘いでいた光牧場が起死回生を懸けていた競走馬。 と同世代に当たる。 光牧場が倒産した際、借金返済のために優馬と生き別れになる。 その後グラスビートという名でデビューするが、鈴を追いかけるという性質が災いして活躍できず、観光用の馬となる。 鈴は全盲の母グラスクィーンにポンコがいることを知らせるために優馬が着けたもの。 力道(父:ノーアリバイ 母:レベッカの弐) 地方競馬教養センター所属の訓練馬。 優馬が入学した時点で25歳(人間に換算して80歳前後 )の老馬である。 かつて柊とともににも出場したが、柊の気遣いにより訓練馬を引退したことで立ち上がる気力さえ無くしていた。 優馬との出会いで再び走る気を取り戻し、以後は優馬の担当馬となる。 血統モデルはJRAで「白い逃亡者」と異名を取ったホワイトフォンテン。 アルケリア 地方競馬教養センター所属の訓練馬。 サラブレッドではなくである。 のりの担当馬。 自分をサラブレッドだと思っており、ポニー扱いされることを嫌う。 その後センターコートのとして再登場した。 モンテスター(父: 母:) 地方競馬教養センター所属の訓練馬で、卓夫の担当馬。 全兄に馬の、がいる良血馬だが、馬体が小さすぎたため競走馬にはなれなかった。 ヒデヨシ(父: 母:スーパービック) 地方競馬教養センター所属の訓練馬で、信長の担当馬。 臆病で照れ屋。 ダイナシーズ(父: 母:コンサートダイナ) 地方競馬教養センター所属の訓練馬で、鉄平の担当馬。 地方競馬で56戦し12勝を挙げている。 鋭い末脚を武器としており、能力は訓練馬の中でも一番。 現役の頃に鞭を使われすぎたため、左鞭に反応しなくなっている。 血統モデルは公営南関東の帝王賞を勝ったコンサートボーイ。 パレスシガー(父: 母:ソーラースルー 母父:) でエディが騎乗した馬。 やに優勝している。 フェアリーエリシオ(父: 母:エリス 母父:スルーピー) ジャパンカップでシャロンが騎乗した馬。 優勝馬。 クレイジーに負けず劣らず気性が悪い。 関連作品 [ ]• 番外編• 黒い弾丸アルフィー• 瞳の中のライバル• 白蹄のライバル 特別編• 優駿の門特別編 脚注 [ ]• 3歳は人間換算で17歳、以降1歳年をとるごとに3歳の計算式による換算.
次の(終了した番組・中継を含みます)は、での販売や公式なアーカイブなど常に参照可能な状態の、またはが紹介するまで、 出典として用いないで下さい。 に基づき除去される場合があります。 内の社内レーベルである所属。 事務所は(のグループ会社。 設立)。 「」に署名しているアーティストである。 メンバー• (さくらい まさる・ (65歳) - 、A型)((旧:秩父郡荒川村)出身) 、、、、、(初期)。 前身のConfidenceの創設者で、Confidence時代からの唯一のオリジナルメンバー。 他メンバーから「アルフィーの創始者」「高校時代にアルフィーを作った男」「創始者なのにいまだにヒラ」「桜井あってのTHE ALFEE」等と称されている。 デビュー初期を除き、常時サングラスをかけている。 (さかざき こうのすけ・ (66歳) - 、O型)(出身)本名・坂崎幸二(さかざき こうじ)。 ボーカル、(6弦・12弦・ガット)、、、、、()、、、、、、、、、、、、コーラス。 初代リーダー。 コンサートではMCを担当し、司会者的な役割も担っている。 (たかみざわ としひこ・ (66歳) - 、A型)(埼玉県出身) ボーカル、、アコースティックギター、マンドリン、、コーラス、2代目現。 THE ALFEEのほとんどの楽曲の作詞・作曲を手掛けてきたこともあり、1993年の夏のイベントのビデオパンフレットでの桜井へのインタビューでは「アルフィーを育てた男」と称されている。 アルバムは原則としてTHE ALFEE名義のプロデュースだが、アルバム"Nouvelle Vague"以降は高見沢がサウンド・プロデュースも手がける。 概要 元は三宅康夫、桜井賢、坂崎幸二(坂崎幸之助)、高橋志郎による「コンフィデンス」というグループだったが 、メンバーの入れ替わりを経て、 桜井賢と、に在学していた 坂崎幸之助、明治学院高校のまた別のバンドにいた 高見沢俊彦、コンフィデンスのオリジナルメンバーだった G の4人でデビュー。 、三宅が脱退し3人になり、現在に至る。 アイドルフォークバンド「 ALFIE」としてデビュー。 レコード会社からの脱退を経て、1979年に自作の曲で「Alfee」として再デビュー。 元来はフォークグループだったが、アルバム『』以降、の要素を取り入れ、シングル「」からバンド名を「 ALFEE」と表記変更し、ロックバンドとして活動を始める。 その後、や、あるいはなどの要素も取り入れて活動を展開。 アルバム『夢幻の果てに』のインタビューで [ ]、高見沢は「だけはどうしても理解できない」と話している。 の「」のヒット以降、30年以上にわたりTHE ALFEE名義において全てのシングルをチャートインさせるなど、コンスタントなセールスを維持している(詳しくは後述)。 、シングル「」のジャケットから、グループ表記をALFEEから THE ALFEEに変更。 2014年3月18日付でこれまでの功績が称えられ、明治学院大学で初の称号が授与された。 高見沢は、「やっとプロフィールから『中退』を外せる。 これからはTHE ALFEE(大卒)と名前を変えて頑張ります」と、喜びを語った。 メンバー3人が均等にをとり、曲毎(曲によってはパート毎)にリードヴォーカルを変えるスイッチボーカルもできる。 高見沢は全員がスイッチボーカルできるのはとTHE ALFEEくらいと語っている。 桜井にベースを、高見沢にスリーフィンガーの奏法を教えたのは、坂崎である。 THE ALFEE自体、およびメンバー各々に異業種とのコラボレーションもこなす。 との共同企画によるコンサートやによるアルバム「orb」のジャケットのアートワーク製作等、アパレル業種とのコラボレーションや、レーシングドライバーのや、1997、1998年のにから参戦したへのパーソナルスポンサー等を務めている。 野田英樹には応援歌「Wild Bahn! 」を書き下ろしている。 歴史 結成 在学中に、桜井の美声に目をつけた同級生が誘ってフォークグループ「コンフィデンス」を結成、等のコピーをしていた。 同時期に高見沢は別のクラスでロックバンド(ツェッペリン・ジュニア・スペシャル)を結成し、、等をコピー演奏していた。 コンフィデンスが出場したアマチュアフォークコンテストにて、坂崎と出会う。 坂崎は別のグループを結成して活動するが、その後坂崎のグループが解散したのを機に坂崎はコンフィデンスの一員としてその後のコンテストに飛び入り参加して出場。 に注目されデビューのきっかけをつかむ。 桜井、坂崎、高見沢、三宅の4人はに進学した。 ロックバンドを解散していた高見沢を坂崎が引き入れ4人体制となった。 大学は坂崎は1年で学費未納により除籍処分、桜井と高見沢は中退のため卒業はしていなかったが、前述の通り2014年3月、明治学院大学よりミュージシャンとしての功績を評価され、同大学初となるの学位が授与された。 3人は名誉卒業生として明治学院大学学位授与・卒業式へ出席し40年越しの卒業を達成した。 当初は全員が作詞・作曲していたが、1979年の再デビュー以降はほぼ全て高見沢が作っている。 デビュー コンフィデンスの名はデビューに際して、株式会社オリジナルコンフィデンス(現:株式会社)、および同社発行の音楽業界誌と混同の恐れがあるとして、赤坂にあるTBS会館(彼らのを持つが入居していた)の下にある店の名前と、ドレミファソラシドのシドの両方の意味で「シド」という名前で動き出した。 それがいつの間にか「 Alfie(アルフィー)」に変わっていたという。 いずれも所属事務所のによる決定であり、坂崎は「着せ替え人形のようなものだった」と語っている。 デビュー当初は喋りが達者な坂崎をリーダーとしていた。 から「浪漫派アルフィー」のキャッチフレーズのもとにアイドルフォークバンドとして、シングル「」でデビューする。 デビューは1974年8月25日で、のでイベントを行っている。 しかし、このデビュー曲はヒットには至らず、続く「」も同様であった。 に三宅康夫が脱退し3人体制となった直後の3枚目のシングル「」(作詞・作曲:)が発売日直前に会社の意向で一方的に発売中止となった のを機にビクターとの契約を解除する。 ライブハウス時代・バックバンド時代 その後、レコード会社の所属のない時代 が続き、事務所の先輩である・・・ MARK ・ VOCAL 等のバックバンドを務めながらライブハウスで活動を続けた。 ステージでは何とか観客をつかもうとコミカルな演出やMCを行う等、自身を印象付けようと努力を重ねるが、その一方で「このままでいいのだろうか」というジレンマに悩みながらの試行錯誤が続く。 その間、メンバーの3人はオリジナル詞曲作成に取り組み始める。 中でも大野真澄 元 からアドバイスを仰いだ高見沢が、楽曲の質、量ともに一番優っていた。 2019年の春ツアーのパンフレットの付録のトークCDでは、バックバントとして多くの先輩アーティストにお世話になり、中でもかまやつと研のツアーでは、アルフィーのコーナーを設けて頂いたことを明かしている。 ライブハウス時代の楽曲で、再デビュー後にレコード化された曲、タイトルが変更された曲もある(シングル曲やアルバムのページを参照)。 また現在でもCD化されていない曲もある。 「」や「」は当時は、ギターとして演奏されていた。 2015年春ツアーのパンフレットの特典のトークCDでは、ライブハウス時代に「東京」という楽曲があったことを明かしている。 再デビュー・リーダー交替・ロックへの進出 1979年に Alfee(アルフィー)と改称してから「」(作詞・作曲:高見沢俊彦)で再デビューする。 アルフィーのリーダーは1974年のデビューから坂崎が務めていた。 フォークグループとして、高見沢も長年アルフィーではエレキギターを弾かないことにこだわっていたが、1980年に出された3rdアルバム『』のプロデューサーの提案で、「落日の風」の間奏でエレキのソロを入れる。 またその頃、雑誌のインタビュー [ ]で「アルフィーの曲は室内向けだよね」と言われたことに高見沢が反発。 翌年の夏に野外イベントを開催することになる。 また1982年リリースの5枚目のアルバム『』からロック系のアレンジで発表する曲を増やし、さらにリーダーを高見沢に交替し、ロックグループとしての色彩を強くする。 なお、ブレイク前には、のCMソングの「ニューサロンパスの歌」やの「もじさがしのうた」「ごあいさつのうた」等を担当したこともあった。 の各地方ごとに制作されていたローカル番組に各地方局ごと積極的にキャンペーンで訪れゲストで出演。 当番組のリクエストランキングにだけトップに位置する現象が多々あった。 中でもので専用のを制作。 番組内で何度も使用される。 1982年夏に、で行われた初の野外イベント「ROCK'N'ROLL FIGHTING NIGHT」では、サポートメンバーを加え、ドラムス・キーボードを含むいわゆるロックバンド編成で演奏を行った。 この年の暮れに発売されたシングル「」以降、再デビュー時から用いていた「Alfee」のロゴマークを変更し「ALFEE」とした。 この年よりサポートメンバーを加えて演奏されるのが通常のスタイルとなった(サポートメンバーの歴史はの項を参照のこと)。 ロック編成初期の頃からドラムスがでアレンジされている曲もあった。 ロック・バンドとしてのイメージ作りとして、高見沢がのギターアンプにこだわり、1983年初の公演で、セットとしてマーシャルのスピーカーを積み上げたり(マーシャル・ウォール)、を多用してテレビ出演するなどの演出がされた。 ヒット 、コンサート動員力はあったもののヒット曲がない状況でに初の公演を行う。 それに続く形でアルバム収録曲の予定であったがシングルで6月にリリースしていた「」がヒットし、同年の『』にも出演することとなった。 これに続いて翌年には「」、「」などのヒット曲が続き、『』(系)などの音楽番組の常連ともなった。 またこの頃より、歌番組以外のいわゆるへの出演も増加した。 「メリーアン」以降のシングルCD(レコード)が52作連続でオリコンのランキングトップ10に入り続けている(現在)。 毎年1月下旬頃に行われる「」のイメージソングを、の第6回大会における「」以来、2018年の「勇気凛々」まで担当した。 また、同年9月より毎月20日を「THE ALFEEの日」と銘打ち、数か月間シングルまたはアルバムを定期的にリリースした。 のアルバム『』やのアルバム『』ではストリングスアレンジが多用され、、のジャンルにも分類される。 にに移籍した。 21世紀以降 のシングル「」、アルバム『』では、のサウンドを取り入れた。 春・秋のライヴツアー・夏のイベントライヴを中心に活動中。 2000年以降は、シングルは年に1枚(2009年はデビュー35周年を記念して3枚のシングルが発売された)。 オリジナルアルバムは3 - 5年に1枚、その他新録音のやアニバーサリーイヤー企画のリリースをしている。 ライヴDVDは毎年発売され、2008年8月からはEMIミュージック・ジャパンからではなく、プライベートレーベルのアルフレッドからになっている。 2月21日より、ドキュメンタリー映画『THE ALFEE 40th Anniversary Film THE LAST GENESIS 〜40年の軌跡と奇跡〜』が全国ロードショーにて上映された(前日の2月20日には、東京・シネマメディアージュにて、メンバーの舞台挨拶と先行上映が行われた)。 12月21日、メンバー3人がを迎えて以降にコンサートのアンコールで、ミリタリージャケットを身に付けて披露していた「The KanLeKeeZ」としてデビューし、アルバム「」 をリリースした。 を敬愛し、最年長新人バンドとされている。 同アルバムは翌のレコード大賞企画賞を受賞した。 12月24日の日本武道館公演で、大阪国際女子マラソンのイメージソングを、1987年から31年間担当してきた記録に関して、「同一国際スポーツ大会のテレビ放送における同一アーティストによる最多テーマソング数」がギネスワールドレコーズに認められ、認定証を授与された。 ライブ活動 全国ツアー THE ALFEEは1982年夏ごろより、コンサートツアーにタイトルをつけ、毎年全国を回ってコンサートツアーを行っている。 基本的に春(3月下旬〜7月上旬)と秋(9月中旬〜12月下旬)の2回ツアー(以下、「春ツアー」、「秋ツアー」と記述)が行われ、春ツアーと秋ツアーでステージセットやツアーの基本となるが変わる。 また、より秋ツアー終盤の、でのアリーナ公演を「ファイナルシリーズ」と銘打ち構成を一新、大ホール向けの照明演出を用いた演出、特別グッズの販売等が行われる。 その為アリーナツアーは、冬のイベント 冬イベ 的な要素がある。 2016年は春ツアーを「春フェス」、夏のイベントを「夏フェス」、秋ツアーを「秋フェス」、年末のアリーナ公演を「冬フェス」と題して行い、2017年以降も春夏秋冬に則したツアー名が付けられている。 セットリストのチェンジも多く、2日間公演などでは大幅に変える場合もある。 最も多い年では年間113公演 をこなし、2019年現在でも年間で約60公演を行うなど、ライブを中心に活動を続けている。 ツアーサポートミュージシャン• :Ds、2006年 -• 元サポートミュージシャン• :Ds 1982年 - 1983年• :Ds 1982年 - 1983年• :Ds 1983年 - 2005年• :Ds 1989年 - 1991年、2004年 - 2006年• (エンマ):Key 1982年• :Key 1982年 - 1986年、1995年 - 2007年• :Key 1986年 - 1995年• 杉山は1991年の高見沢のソロツアーにも参加。 ツアーだけではなく、レコーディングでも多くの楽曲に関わっている。 1990年代の一時期にはライブ活動時に限りTHE ALFEEの名を「バンド」扱いとし、コンサートのビデオソフト等ではTHE ALFEEの正メンバー3人とほぼ同格にサポートミュージシャン名も列挙するなどしていたが短期間で終わり、それ以降は明確に区別されている。 ツアータイトルと略歴 この節のが望まれています。 〜1982年 一貫したツアータイトルを銘打って全国ツアーを行うのは、後述の「OVER DRIVE」ツアーからとなるが、1982年夏以前にもコンサートにタイトルをつけていた。 現在、資料で確認できるもので• アドベンチャーランド• フォークソング紀行 アルフィー唄い歩き(1980年)• 稚くて愛を知らず(1981年頃)• ALMIGHTY(1981年)• フォークソング紀行 アルフィー〜heart to heart(1982年頃)• OVER DRIVE(1982年9月7日〜1983年12月28日) 1982年の夏のイベントよりツアーにドラムとキーボードを導入。 当時のサポートメンバーは Drs 、 Key 、遠藤誠一 Key だった [ ]。 ちなみに、オフィシャル・データブック「地球音楽ライブラリ アルフィー」や公式サイトのデータベースでは1983年からのツアータイトルが「OVER DRIVE」であるかのように整理されているが、公式サイトに掲載されている当時のチケット(1982年12月24日の公演)ですでに「OVER DRIVE」というタイトルを用いており、前述の「地球音楽ライブラリ」でも「秋には、を皮切りに、『OVER DRIVE』と銘打ってコンサートをスタートさせた」という記述があることから、同公演日である1982年の9月7日が正しいと思われる。 1983年の日本武道館公演の時点でサポートメンバーは富岡と山石の2人体制となっているが、一部ステージでは Drs がピンチヒッターとして参加(紅白歌合戦など )。 この年の12月17日の公演より Drs が参加する。 ツアー最終日のアンコールで、山石脱退について高見沢から発表があり、その後の「LAST STAGE」は山石に向けて歌われた。 ただし、ツアー初日、4月2日のステージのアンコール最後の曲でが登場、1曲だけの共演を果たす(一つのキーボードブースに二人で入って演奏を行った)。 この他にも山石のスケジュールが合致する会場でアンコールの数曲だけの共演が何度か見られている。 同年夏のイベント「TOKYO BAY-AREA」にも山石が参加 菊池とのツイン。 この年より12月22日から24日までの3日間は日本武道館で公演することが恒例化する。 なお、正月をまたいで行われたコンサートツアーは本年が最後である。 このツアーは「宇宙空間の地球が天空に見える架空の星でライブを行い、夏のイベント(4ACCESS AREA」)で日本各地に帰還。 ライブ終了後は再び宇宙に帰っていく」という一貫したストーリーで形成された。 そのため、モニタを多用したSF風のステージが披露される。 THE ALFEE With Jean Paul GAULTIER(1989年4月5日〜4月21日) デザイナーとのコラボレーション企画。 ファッションショーとライブを融合させたもので、メンバーはゴルチエのデザインした衣装を身にまといライブを行った。 このツアーで初めてドラムにが参加し、長谷川とのツインドラム体制となった。 1989 LONG WAY TO FREEDOM RESISTANCE(1989年9月27日〜12月28日) 前半はのツアーがあったため、「THE ALFEE」としては約5か月ぶりのツアー。 この年のステージセットはドイツのを模したものであったが、ツアー中のにのニュースが飛び込んでくる。 その後1999年にはドイツの本物のブランデンブルク門の前でコンサートを行った(後述)。 1990 LONG WAY TO FREEDOM REVOLUTION(1990年3月29日〜7月24日) ARCADIA、My Best Friend、Mind Revolutionなど同年秋にリリースされるアルバム「」に収録される新曲も演奏された。 1990 LONG WAY TO FREEDOM REVOLUTION II(1990年10月30日〜12月27日) がゲストミュージンシャンとしてツアーに参加。 長谷川とのツインドラム体制となる。 秋ツアー終盤のの武道館公演ではがゲスト出演。 に提供し、自らがセルフカバーした「クリスティーナ」を演奏した。 1991 LONG WAY TO FREEDOM COUNT DOWN(1991年9月11日〜12月27日) 前半は高見沢のソロ活動(アルバム制作、ライブツアーなど)があったため、久々の全国ツアーとなった。 Presents THE ALFEE Communication ACOUSTIC SPECIAL(1993年1月22日〜2月15日) サポートメンバーは同行せず、メンバーのみで行ったツアー。 LAWSONで募集した観覧希望者から抽選によって選ばれた観客だけ観覧することができた、通常のツアーとは異なるツアーとなった。 同ツアーの最終公演となった公演の模様はで放映された他、のちにライブアルバム『CONFIDENCE』としてCDでリリースされた(放映とアルバムでは数曲収録された曲が違っている)。 この年、高見沢は「これ以上エスカレートするときりがないから、今年の武道館ではしない」と宣言していた。 なお、上記公演では度重なるアンコールの結果、公演時間は4時間を越え、当時の武道館の1公演あたりの公演時間最長記録を更新している。 春ツアーのキーボードは山石とのツイン体制となる。 この年の1月にアルバム「夢幻の果てに」を発表したこともあり、緊張感のあるツアーとなった。 なおこの春ツアーの様子は後にライブアルバム『LIVE IN PROGRESS』としてCDでリリースされた。 この年の夏のイベントを最後に菊地が卒業。 秋ツアーのキーボードからは山石1人となる。 年末の武道館公演にはアンコールにBEATBOYSが登場し、久々にダンスを披露した。 秋ツアーのラストでは高見沢がプロデュースしたアイドルグループ「」に提供した「明日の鐘」をセルフカバーする演出があった。 同曲は翌年発売のアルバムに収録された。 春ツアーのファイナル公演はニューヨークで行われた 詳細はを参照のこと。 ニューヨーク公演には後に2003年にも参加するがサポートとしてキーボードで参加。 Final Count Down A. この年よりコンサート照明がAGESから(株)東京舞台照明に外部移管された。 秋ツアー終盤の武道館公演ではがサプライズ出演(桜井は出演を知らされていなかった)。 AUBE 2001 NEVER FADE(2001年4月5日〜7月1日) 前年までのサポートメンバーの位置は側 高見沢側 にキーボード、下手側 桜井側 にドラムという配置だったが 、本ツアーから2007年まで配置が逆になる。 高見沢曰く「気分転換」とのことだが、本ツアー以降この配置が定着する。 またこのツアーの直前、高見沢がテレビの企画でに挑戦し、左手の人差し指 ギタリストが最も多用する指のひとつ を骨折し、本ツアーで大きく影響を与える。 AUBE 2001 GLINT BEAT(2001年10月14日〜12月29日)• 高見沢がプロデュースした曲「ホリケンサイズ II」を披露する。 AUBE 2003 My Generation(2003年4月5日〜6月29日) キーボードにが1年間サポートとして参加。 山石とのツイン体制となる。 AUBE 2003 GOING MY WAY(2003年10月10日〜12月27日) が参加しハモンドオルガンが多用されたツアー同名のアルバムを再現するために、従来の山石のキーボードに加えて杉山が武部のオルガンパートを演奏する形がとられた。 大晦日のカウントダウンライブは長谷川に加えが参加、ツインドラムでの公演となった。 長谷川とのツインドラム体制となる。 秋のツアーの公演にて、ライヴ本数通算2000本目を達成。 高見沢の2000を模った変形ギターが製作されたが、披露されたのは現時点ではこの公演のみ。 また開場時にリクエストが行われ、最も多くのリクエストを集めた「」がラストナンバーとして演奏された。 この年を最後に21年間ドラムを担当してきた長谷川浩二が卒業。 クリスマスイブの武道館公演のアンコールでは、高見沢にマイクを向けられた長谷川の歌声を聴くことができ、ライブDVDでも確認可能。 ツアー最終日の大阪公演ではアンコールで高見沢から長谷川卒業について話があり、ラストナンバーの演奏前に彼のドラムソロの時間が設けられた。 そうるとのツインドラム体制となる。 また、秋ツアーの広島公演直前に体調不良により坂崎の声が出なくなるハプニングが発生。 セットリストで坂崎ヴォーカルの曲を少なめにしたり、本来坂崎がヴォーカルをとる曲をほかのメンバーが歌うなどした。 AUBE 2007 春の嵐(2007年4月5日〜7月1日) この年よりドラムが1人となる。 1983年以降の全国ツアーで、はじめてツアータイトルに日本語が採用された。 AUBE 2007 天河の舟(2007年10月5日〜12月29日) の公演からキーボードにが参加。 とのツイン体制となる。 このツアーを最後に、通算25年間キーボードを担当してきた山石がサポートを離れる。 (翌年1月に山石が自身のサイトでその旨を発表)• ライブにブロジェクタを用いた映像表現を採用する。 福岡1日目のブロジェクタを用いた映像表現では映像の歌詞と歌のズレが発生していたが、福岡2日目ではそれが解消されていた。 武道館が2Daysになる。 AUBE 2010 新世界〜Neo Universe〜(2010年4月11日〜6月27日) 4年振りにオリジナルアルバムを引っさげてのツアーとなった。 Neo Universe 2011 I Love You(2011年4月9日〜6月26日) 3月11日に発生した『』の影響により、ツアー初日予定の4月7日(木)サンシティ越谷市民ホールは6月9日(木)に延期、4月9日(土)の静岡市民文化会館が初日となった。 また、6月12日(日)仙台サンプラザホールは会場の復旧見通しが立たないため中止となり、翌日6月13日(月)同地仙台において、Zepp Sendaiで代替公演を行った。 仙台公演では来場客全員にオリジナルTシャツがプレゼントされた。 Neo Universe 2011 ALWAYS(2011年10月6日〜12月16日)• Neo Universe 2011 Final Series I Love You,Always... (2011年12月23日、24日、29日) この年より、秋ツアー終盤のアリーナ公演(日本武道館、大阪城ホール)は「Final Series」と銘打ってセットリストを大幅に変えて行った。 このツアーよりステージセットに「. Dot Image」(ドットイメージ)という最新鋭の照明機材が使われ、以後のステージにおいても使われる。 大阪城ホール公演のステージ配置が横長方向へと変更された。 Neo Universe 2012 Flowers(2012年4月5日〜6月24日) 前年のファイナルシリーズから登場したドットイメージの照明装置を全会場で使用した。 その後ドットイメージは広いアリーナ会場専用となったため春秋のホールツアーで見る機会はなくなった。 Neo Universe 2012 Flowers in My Planet(2012年10月4日〜12月14日) 春ツアーで登場したドットイメージは使われていない。 ライブの本編は第一部、休憩を挟んだ第二部の二部構成で行われた。 Neo Universe 2012 Final Series Catch Your Earth(2012年12月23日、24日、29日) 24日の公演では、11月29日(木)公演で約束された『ウルトラマン列伝』の新主題歌「」が演奏された。 またこの曲演奏前には、ウルトラファミリーがゲストとして登場した。 (ウルトラ父他、総勢8名)• Neo Universe 2013 Grateful Birth(2013年4月4日〜6月23日)• Neo Universe 2013 Grateful Birth II(2013年10月3日〜12月14日)• Neo Universe 2013 Final Series Grateful Birth Final(2013年12月23日、24日、29日) 24日の公演ではオープニングから7曲目まで、1986年の夏のイベントの東京ベイエリアのセットリストが再現された ライブ映像作品で確認可能。 また24日は、「ウルトラ怪獣総選挙」の表彰式としてウルトラ怪獣3体とウルトラマンが来場した。 また、も来場し、高見沢プロデュースによるシングル曲「」が歌われた。 40th Anniversary 2014 GENESIS(2014年4月3日〜6月29日) 坂崎と高見沢のバースデーライブでは、が登場し、高見沢プロデュースの楽曲「酒のチカラ」を演奏した。 それぞれのバースデーでは、各会場限定で還暦仕様のタオルが販売され、特定の曲に於いてメンバーと客席でを振る演出がなされた。 即完売し、その後ネットオークションに出品されるなど、大変な高値となり、物議を醸し大きな問題となった。 40th Anniversary 2014 GENESIS II(2014年10月2日〜12月13日)• 幸い大事には至らず、その後再びステージに出て元気な姿を見せた。 Best Hit Alfee 2015(2015年3月26日〜6月21日) 4月30日の相模女子大グリーンホール公演では、7月26日に夏のイベント「One Night Circle」をにて開催することを発表した。 Best Hit Alfee Autumn 2015(2015年10月2日〜12月13日)• Best Hit Alfee Final 2015(2015年12月23日、24日、29日) 12月24日の武道館公演に、ふなっしー、が来場しステージで共演した。 ふなっしーは3年連続のゲスト出演となった。 また、前年のふなっしーの事故の反省を踏まえ、ステージではスタッフお手製の柵が用意された。 Best Hit Alfee 2016 春フェス(2016年3月31日〜6月26日) 同年のを意識してか、アンコールでは久し振りに「マラカス・ブラザーズ」が登場した。 コンサートグッズではボタン電池で光る仕様のマラカスの「恋のマラカス」が販売された。 Best Hit Alfee 2016 秋フェス(2016年10月6日〜12月17日) アンコールでは、シングル楽曲50作連続トップ10入りを記念したグッズのジャケット画像のトランプを引き伸ばしたものをメンバーが引き当て、選ばれた楽曲を演奏した。 11月24日の大宮ソニックシティのコンサートにて、コンサート通算本数2600本を樹立した。 Best Hit Alfee Final 2016 冬フェス(2016年12月23日、24日、29日) アンコールでは、ブレイク前のシングルトップ10入りを逃した15曲のジャケット画像のトランプを引き伸ばしたものをメンバーが引き当て、選ばれた楽曲を演奏した。 12月24日の武道館公演のアンコールのThe KanLeKeeZのコーナーに、デビュー当時の所属事務所の大先輩に当たるが登場しステージで共演した。 Best Hit Alfee 2017 春フェスタ(2017年4月6日〜7月2日) 通常のコンサートツアーとしては2012年の秋ツアー以来の本編が二部構成でのステージとなり、約10分間の休憩を挟み第一部がThe KanLeKeez、第二部がTHE ALFEEのステージという構成となった。 休憩時間にはメンバーの衣装替えの他にもステージセットの転換が行われた。 Best Hit Alfee 2017 秋フェスタ(2017年10月5日〜12月17日) 11月4日東京国際フォーラム公演で、12月20日発売のシングル「」のボーカルのオーディンションが行われることが発表され、11月18日のよこすか芸術劇場公演で、坂崎がリードボーカルを担当することが発表された。 Best Hit Alfee Final 2017 冬フェスタ(2017年12月23日、24日、29日) クリスマスイブの武道館では、2011年以来のゲストなしの単独でのライブとなった。 45th Anniversary Best Hit Alfee 2018 春ノ巻(2018年4月5日〜7月1日) ご当地手ぬぐいが各会場限定で販売されたが、多くの会場で即完売し、その後ネットオークションに出品されるなど、大変な高値となり、物議を醸し大きな問題となった。 4月22日仙台サンプラザホール公演で、機材トラブルのため客席へ音声が出なくなった。 その復旧までのつなぎとして、坂崎の生ギター1本と3人の肉声コーラスで洋楽の曲が即興で披露された。 後述の冬の巻も含めて、ツアー先の各ホール名と開催日時が入りそれぞれ配色の異なるペナント風のフラッグが各会場限定で販売され、特定の曲に於いて観客がフラッグを振る演出がなされた。 フラッグは多くの会場で即完売し、その後ネットオークションに出品されるなど、大変な高値となり、物議を醸し大きな問題となった。 アンコールでは3人で和服を着用した「昭和兄弟」が登場した クリスマスイブ公演を除く。 10月20日の東京国際フォーラム公演では、通算コンサート数が2700本となった。 2700回目のコンサートを記念して、当日限定のピンズが販売されたが、多くのファンがグッズ列に並んでいる最中にネットオークションに出品されるなど、大変な高値となり、物議を醸し大きな問題となった。 翌年2019年は日本武道館が改修工事の関係で使用できなくなるため、毎年恒例のクリスマスイブ公演がこの年をもって一旦途切れることになった。 12月29日の大阪城ホール公演のアンコールでは、翌2019年のデビュー日の8月25日にセレモニーとコンサートが行われる旨が発表された。 45th ANNIVERSARY BEST HIT ALFEE 2019 春の乱(2019年4月3日〜6月30日) 長年専属でツアートラックを運転してきたトランポチーフの金城栄次郎が本ツアーをもって勇退。 ツアー最終日の名古屋公演のMCで高見沢からその旨の発表があり、苦楽を共にしたCREWへの感謝の言葉が述べられた。 45th ANNIVERSARY BEST HIT ALFEE 2019 秋の乱 Battle Starship Alfee II(2019年10月3日〜12月14日) ツアー開始直後に発生した台風19号の通過に伴い、10月12日の仙台公演、翌13日の会津公演が延期となった。 45th ANNIVERSARY BEST HIT ALFEE 2019 冬の乱 Battle Starship Alfee III(2019年12月25日〜12月29日) 改修工事中の日本武道館の代替会場としてが使用された。 クリスマスイブ公演は行われず25日のクリスマス公演と翌26日の開催となった。 アリーナ中央に回転式の円形センターステージが置かれ、観客スタンド席は全方位が使われた。 3公演共に、遠隔操作によるLEDリストバンドが客席に配置され使用された。 装着したキャップは各日それぞれ異なるものであり、終演後は記念品として持ち帰ることができた。 サマーイベント 彼らは夏の風物詩として野外で大規模なコンサートを行ってきた。 数回の例外はあるが例年屋根のない場所で行われ、原則として同じ場所での公演は控えてきた。 しかし晩年は場所探しの難航から、これらの原則は守ることが徐々に困難となっていた。 2007年にはそれまで25年間連続して行ってきた夏のイベントを一時休止、2009年8月8日、9日に開催された「YOKOHAMA PERFECT BURN」をもって、長年続けてきた夏の野外イベントは終了した。 その後屋内会場ではあるが、さいたまスーパーアリーナで3公演、横浜アリーナで3公演、 国際展示場で1公演が開催されている。 1982年 ROCK'N'ROLL FIGHTING NIGHT -悲しみをぶっ飛ばせ!! - (1982年8月6日、動員5,000人) 彼らにとって初の野外コンサート。 チケットには3人のメッセージが入ったが使われた。 その年の4月にでのライブを成功させ、自らのキャラクターを明確にした彼らは、ロックバンドとしての姿をこの所沢において披露。 しかし公演当日、1曲目のイントロの冒頭で、高見沢のアンプから音が出ないハプニングに見舞われる。 音が出るまでの間、高見沢以外のメンバーで冒頭の数小節を延々と繰り返したという。 また、MCで高見沢が「来年アルフィーは結成して10年になります。 来年の8月25日、何かやります」と企画すら起っていない状態にもかかわらず「何かやります」宣言をする。 (実際、1974年のデビューなので9周年だった。 現在では1973年結成となっている) 現在はステージの妨げとなるためステージに向かって紙テープを投げるのは厳禁となっているが、ステージ前に溜まった大量の紙テープの山にステージ演出で使用したのフラッシュの火花が引火し軽度のぼやが発生、スタッフが慌てて消し止めるといった一幕があった。 1983年 OVER DRIVE-ALFEE 8. 24 BUDOKAN- (1983年8月24日、動員10,000人) 当日、会場に訪れた1万人の観客全員に本人たちのなどが収録されたビデオテープ(、ともに5千個ずつ)がプレゼントされた。 終演後も席を立つ者が無く、アンコールを求める声が止まなかったが、会場に「SINCE 1982」の伴奏が流れ始めると(高見沢が舞台ソデで演奏した、ともいう)次第に静まり、遂には会場一体となって同曲を大合唱した、というエピソードが、「夢さがし アルフィー・高見沢俊彦物語」などでも紹介されている。 この大合唱の様子はライブビデオの冒頭に収録されている。 このライブで、ステージバックに当時日本での流通量が少なかったマーシャルのキャビネットを積み上げたので(マーシャルウォールとも呼ばれた)、日本中の楽器店から、マーシャルのキャビネットが消えたと言われた。 1984年 FLYING AWAY-ALFEE IN YOKOHAMA STADIUM- (1984年8月3日、動員30,000人) 当日は雨に見舞われた。 しかもステージがという、水にぬれると滑りやすくなる資材で作られたため、公演中に高見沢が滑って転倒してしまう。 そのとき、転んだ拍子にギターで胸を強く打ち、肋骨にヒビが入る怪我を負った。 また、雨の降る中「鋼鉄の巨人」というハードロックの楽曲を演奏中、ステージのバックに稲妻が光った。 当日、会場に来ていたキャニオン・レコード(現:)の社長(当時)はそれを見て「ずいぶんと金のかかっただな」と関係者に話していたという [ ]。 チケットは、青い下敷き。 3日目には開場時間から彼らはステージに上がりアコースティック曲を演奏し、観客を驚かせる。 この前座ライブは20曲以上に及んだため、一日の総演奏曲数は50曲を超えた。 また、かなり早い時間帯 から演奏したため、1曲目の「過ぎ去りし日々」が終わった時は、ほとんど観客がいなかった。 チケットは、青いバンダナ。 1986年 TOKYO BAY-AREA (1986年8月3日 動員92,500人) 日本初の単独10万人(主催者発表)コンサート。 普段はラストに演奏される事の多い「See You Again」だが、この日は1曲目の演奏となった。 13年かけてこの曲にたどりついたという「」が当日に初めて演奏され、初めて聴くにもかかわらず、観客が一体となって最後のリフレイン部分を大合唱した。 会場は、現在の社屋がある隣附近。 当時のビデオ映像などを見ると、周辺にはしか存在していなかった。 何もない所だったために組むことができた幅120メートル、高さ75メートルの巨大なセットは、10万人コンサートの名前にふさわしい規模だった。 会場には公共の交通機関が存在しなかったため、数十台のを借り切って、(当時。 現在の)のおよびと会場の間をピストン輸送した。 また開場時間は開演の6時間前に設定され、その間、春ツアーで使用したセットを組み、10組のコピーバンドがとしてステージに上がった。 終演は9時過ぎだったが、大人数のため最後の客が退場できたのは、深夜0時を回った。 チケットは、ワッペン型。 をしたコピーバンドは - (2011年5月11日アーカイブ分)と題して何回かコピーバンド大会を行った。 1987年 SUNSET-SUNRISE MUSIC LAND-IN 静岡(1987年8月8日・9日、動員62,500人) 日本初の単独オールナイトコンサート「サンセット・サンライズ」。 前年のクリスマスに、横浜スタジアムに設置した仮設テントでのオールナイトコンサートは、近隣からの騒音苦情のため、夜明け前に終了してしまった。 その雪辱戦として急遽決定したライブだった。 全体を3部構成にし、1部と3部はロックナンバー中心のライブ。 2部はアコースティックライブとなり、幻の未発表曲「まもなく2番線に…」(ライブハウス時代の楽曲。 2014年に「」にて初CD化)が演奏された。 それぞれの合間には1時間の休憩が挟まれた。 前半はさながらの豪雨にたたられ、一部の楽器に不具合もでた。 また、このコンサートの最中には、が、一部、二部ぶっ通しの特別番組を放送した。 当時、アルフィーと親交の深かったアナウンサーが、日本平ホテルの一室から放送。 事前に収録したインタビューコーナーだけでなく、休憩時間中には、メンバーが直接生出演した。 三部に入るとほとんど雨が止み、「不良少年」の演奏中には富士山が顔を出した。 最後は、このライブの為に作られた「Sunset Sunrise Kiss」を披露(同曲は長年CDには収録されず、同ライブが収録されたビデオ映像でしか聴けなかったが、2012年12月23日発売のDVD「We Get Requests! 」には2012年バージョンが収録、2014年に「Alfee Get Requests! 2」にて初CD化)。 演奏終了後、メンバーはヘリコプターに乗って会場を後にした。 エンディングの退場の際、高見沢の靴が脱げてしまい、勢いでもう片方も脱いで客席へ投げ込み、ヘリコプターに乗り込んだ。 しかし着陸したのは雨上がりの河原であったため、迎えの車まで靴のない高見沢は桜井に背負われて移動した。 (「THE ALFEE HISTORY II」に、その際の映像がある) チケットは、白いビニールシート。 1988年 ALL OVER JAPAN 4 ACCESS AREA 大阪湾南港特設会場(1988年7月24日)、札幌ジャンプヒル(7月31日)、福岡(8月7日)、横浜シンボルタワー(8月14日)動員131,260人(4日間合計) 4 ACCESS AREAとして一週毎に各地を回って開催した。 春ツアーから一貫したコンセプトによる演出になっている。 宇宙を旅したアルフィーが、各地に宇宙船で飛来、ライブが終わると再び宇宙船に乗り込む、という流れになっている。 最後の横浜では、7年ぶりにBEAT BOYSが復活を宣言。 新曲を披露した。 また、横浜では興奮した客が過換気症候群となり、25人救急車で搬送される騒ぎとなった。 翌朝の新聞にて報道された。 チケットは、バックステージパス。 1989年 U. ALFEEと親交が深かった「」(刊)の大越編集長が、軍服を模した衣装を着たり、戦闘シーンをイメージさせる特効などに苦言を呈した。 現在その会場跡にはが建てられている。 1990年 BRIDGE ACROSS THE FUTURE 横浜 臨港パーク(1990年8月12日、動員53,800人) このライブではドラムに春から一緒にツアーを回っていたそうる透も参加し、ツインドラムで重厚な威圧感のあるライブとなった。 当時は地区は開発中であり、当時のライブ映像を見ると、周辺にはしかない。 は半分程度しか出来ていなかった。 三人の衣装は、この年のホールツアーや秋に発売されるアルバム「」のイメージを踏襲した中東貴族風のものだった。 春のツアーまでは高見沢ボーカルだった「MY BEST FRIEND」が、このライブから桜井メインに変更されている。 1991年 10回目の夏-SINCE1991- COSMO OIL YOKOHAMA BAY(1991年8月11日、動員51,611人) 所沢の野外ライブから数えて「10回目の夏」。 会場になったの敷地は、前年の会場であったみなとみらい21地区の対岸であり、ライブビデオにはMM21臨港パークから桜井がリポートする場面が挿入されている。 1992年 JUST LIVE! 海辺ニュータウン(1992年8月9日、動員42,400人) 当初は同日にで「Dream on The Field」が開催する予定であったが、8月9日は長崎に原爆が投下された日だったことや騒音の面からクレームがつき、急遽会場の変更を余儀なくされる事態になる。 一時はイベント中止かとの声もあったが、スタッフらの尽力でわずか1か月半で新しい場所を探しだし、ステージやチケットのデザインも1から作り直して予定通り8月9日に開催した。 セットは、アメリカにあるの大統領の彫像をモチーフに、巨大な山のセットに三人の顔が彫刻されている。 1993年 VICTORY STADIUM (1993年8月21日・22日、動員64,000人) 久しぶりのスタジアムでのライブとなる。 初日は「Silver Night Night」、二日目は「Gold Night」のサブタイトルが付与されていた。 2日間にわたってアコースティック、ハードロックの両面を前面に出した。 1日目には彼らが応援ソングを作曲したの選手が登場し、ライブを盛り上げる。 両日のセットリスト中、共通した楽曲は「」だけで、両日併せて60曲以上が披露された。 なお、この年より2009年まで複数日での開催が定着することになる。 1994年 KING'S NIGHT DREAM 大阪(1994年7月30日)横浜臨港パーク(1994年8月13日)(動員65,790人) サブタイトルは大阪が「WESTERN CONFERENCE FINAL」、横浜が「EASTERN CONFERENCE FINAL」となっていた。 横浜ではの大会やTHE ALFEEに関する展示、当時スポンサーを務めていたレーシングドライバー野田秀樹選手のサイン会などが行われた。 また横浜の会場は当時開催されていた「国際会議」のクロージングイベントの一環として開催され、エイズ遺児支援の募金活動が行われている。 大阪では6年ぶりの野外イベントとなる。 遊園地のようなイメージでステージは作られ、高見沢はトランプをモチーフとした4本ネックのギターを披露。 しかし、ボディが通常のギターの2倍以上あるためかなりの重量があり、相当弾きづらかったため、このイベント以来使用していない。 大阪では幻の曲「」も演奏され、横浜ではデビュー曲「」を高見沢がハンドマイクで披露した。 ステージセットは遊園地をモチーフに、今までイベントのタイトルが随所に配置された。 1995年 幻夜祭 (1995年8月12日・13日、動員67,800人) アルバム「夢幻の果てに」後のライブということで・曲が演じられ、緊張感のあるライブとなる。 悲劇受胎が初演奏された。 最初のイベント ROCK'N'ROLL FIGHTING NIGHT -悲しみをぶっ飛ばせ!! -以来、久しぶりに既存の野外ステージ上にセットが組まれた。 会場が細長いため、客席の最後方部はかなり条件が悪かった。 そのためラストにはメンバーが最後方まで行き、挨拶をした。 また、ステージ後方には、コスモクロックという観覧車が見えていた。 1997年 EMOTIONAL FIELD (1997年8月9日・10日、動員63,300人) 台風による強風により、花火などの特殊効果が使用不可となる。 1日目に使用した銀テープは風にあおられ電線に架かり、付近が停電になった。 このことに関して高見沢は2日目のMCで謝罪している。 1998年 TOKYO ONE NIGHT DREAM 立川(1998年8月16日、動員62,200人) 前日の8月15日には前夜祭として、コピーバンドの決勝大会等催し物が繰り広げられる。 ビートボーイズも久々の登場となった。 前年の反省を踏まえて万全の風対策をしたが、この年はほぼ無風、酷暑の中で行われた。 1999年 A. 1999 MILLENNIUM CARNIVAL 横浜(1999年8月7日・8日、動員63,500人) 座席の代わりに地面にチケット番号が書かれた板を敷くという野外イベントならではのスタイルはこのイベントが最後となった。 1日目のアンコール、「Wings of Freedom」の直前から突然の豪雨。 曲が終わると同時にピタリと降り止むという不思議な自然の演出があった。 ドナルドダック生誕65周年を記念して制作された「D. 〜Happy 65th Anniversary for Donald Duck〜」初披露。 2000年 TOKYO AUBE STADIUM (2000年8月12日・13日、動員55,360人) 初日はCLASSICS NIGHTとしてと指揮にを迎え、との融合を図る。 2日目はロックナンバーを一気に演奏と、ALFEEの幅広い音楽性を発揮した2日間だった。 東京都の騒音条例により両日共に20時半には演奏終了となった。 2日間共にアンコールにて、高見沢は、初代による「」の着物を身に纏い登場した。 またESP製の辻が花仕様のギターを演奏した。 2001年 KINGDOM (2001年8月25日・26日、動員58,770人) 20回目のイベント、日本武道館以来の屋内での夏のイベントとなり、さいたまスーパーアリーナでは最大のスタジアムモードで開催された。 1日目は27回目のデビュー記念日だったため、ラストには事前に行われた案内に従う形で客席から「Wind Tune」の大合唱が起きる。 2日目はアリーナ席後ろからガードマンと共に登場するという演出を行った。 ラストはステージサイドから客席に降り、会場を一周した。 2002年 Legend of The Stadium V (2002年8月24日・25日、動員52,092人) 関東地区のプロ野球フランチャイズ球場である(・・・・)を完全制覇。 2日目のGold Legendではデビュー以来ほとんど披露していないという「」を演奏、公演時間は4時間を超えた。 また、このイベントにてライブ通算動員数600万人を突破した。 このライブに際して、が事前に応募した観客のみ利用できた団体臨時列車「ALFEE EXPRESS」を西武池袋 - 西武球場前間に両日二往復 復路は回送扱い 運行した。 2003年 YOKOHAMA SWINGING GENERATION 横浜 21街区(2003年8月16日・17日、動員55,247人) 二日間、土砂降りの雨に見舞われた。 1日目は交通機関の乱れなどにより開演時間になっても入場が終わらず開始時間が大幅に遅れた。 GENERATION DYNAMITE DAYでは途中で機材を覆うテントを取ってしまったために機材に水が入ってしまい、1000万円以上の機材損害を出したといわれている。 2日間とも雨だったため星空は見えなかったが、メモリアルチケットのフラッシュバッジがそれに代わり演出をした。 この年の「」のエンディングテーマ曲であった「」では、2日目の公演のみドラえもんらレギュラーキャラクター5人がゲスト出演し、高見沢がドラえもんギターを演奏した。 前年の経験から、この年以降はステージ上には屋根が架けられるようになった。 「恋人達のペイヴメント」のイントロで遊覧ヘリコプターが飛来し、高見沢が演奏を中断してヘリコプターを叱りつけるという場面も(その後同曲の演奏をやり直した)。 1日目、2日目とも客席にはペンライトが用意され、ラストにはそれぞれ「ALFEE」、「30th」という人文字が浮かび上がった。 会場跡には2019年10月31日に複合商業施設「横浜ハンマーヘッド」がオープンした。 2005年 TOKYO BAY STATION 特設会場(2005年8月20日・21日、動員50,685人) 東京では5回目のイベント。 このイベントの花道は前方の客席を大きく取り囲むドーナツ型をしているという、夏のイベントでは珍しい花道であった。 夜には満月が出て、月に因んだ新曲の初披露に華を添えた。 2019年現在、この会場の跡は2020年開催の選手村他施設の建設用地となり、会場の痕跡は失われてしまっている。 2006年 YOKOHAMA STAR-SHIP 横浜(2006年8月12日・13日 約51,000人) 横濱開港150周年記念。 1996年の「YOKOHAMA RED BRICKS」と同開催地だが、ステージの位置は1996年と反対方向に設置された。 1日目の「」演奏時には、前奏時に高見沢が足を滑らせて転倒し、エンジェルギターの羽根部分で顔を強打するというハプニングがあった。 2日間の曲目は過去のイベントでの印象に残った曲をちりばめるという、まさに25年の集大成というべき曲順であった。 このライブをもって、1982年から25年続いた夏のイベントは、一旦休止されることになった。 もともとは2000年の TOKYO AUBE STADIUMをもって休止の予定だったが、タイミングを逸したため25周年まで延期されたという。 2009年 Legendary Summer 2009 YOKOHAMA PERFECT BURN 横浜(2009年8月8日・9日 約60,000人) デビュー35周年を記念して、また、最後の夏のイベントと銘打ち開催された。 ステージタイトルは、1日目が『BURN INTO MEMORY NIGHT』、2日目が『BURN INTO PERFECT NIGHT』。 チケットはクリスタルチョーカー。 2日間のセットリストは新旧の曲を織り交ぜ、最後の夏のイベントに相応しいものとなった。 尚、両日のセットリスト中、共通した楽曲は「」、 「」、「」、「」の4曲。 1日目にはデザインを公募して作成された高見沢の『わんこそばギター』が、「君はパラダイス」で使用された。 2日目にはチケットを入手できなかったファンが最後の野外イベントに参加しようと会場に集結、その数は約3,000人にも上った。 3人も会場に入れなかったファンの存在に気付いており、特に高見沢は会場外のファンが見える花道先の舞台へ度々行き、ファンとの交流を図った。 また、公演終了後には同じ舞台で3人が深々と頭を下げ、会場に入れなかったファンに対しても感謝の意を表した。 2012年 One Night Summer Dream 2012 We Get Requests! さいたまスーパーアリーナ(2012年7月28日 約19,000人) 2009年に夏のイベントは終了と銘打たれたが、この年からは休止に改められた。 初の夏イベから30周年を記念して一夜限りで行われた。 このコンサートのセットリストはファンからの1万5千通のリクエストを基に構成された(ひとりのリクエストは最大3曲、延べ約4万5千票の中から選ばれた)。 コンサートでは1987年の夏イベで一度だけ演奏された「SUNSET-SUNRISE KISS」が、「SUNSET-SUNRISE KISS 2012」として新しいアレンジで25年振りに演奏された。 メモリアル・グッズはサインライト(青)。 3人それぞれのリードボーカル楽曲でリクエストが最も多かったのは、「」「」「」(当日の演奏順)。 リクエストにてトップ10にエントリーされた楽曲の内の9曲は演奏されたが、「」のみ本番の構成上演奏することが出来ず、同年の秋のコンサートツアーのアンコールにて演奏された。 2014年 THE ALFEE 40th Anniversary 2014「40年目の夏」 さいたまスーパーアリーナ(2014年7月26日・27日) デビュー40周年を記念して、2日間行われた。 夏のイベントが2日間行われたのは、2009年以来。 屋内会場ならではの巨大なセット、せり上がる円形センターステージ、高見沢のフライングも10年ぶりに行われ、ドットイメージによる照明演出は数をさらに増やしセンターステージや花道にまで設置範囲が拡大する大規模な演出となった。 メモリアル・グッズはサインライト(赤、白)。 2015年 Best Hit Alfee 2015「One Night Circle」 さいたまスーパーアリーナ(2015年7月26日) 中途半端な41年目を乗り切るぞと、一夜限りの開催、夏のイベントでは初となるセンターステージで行われた。 アリーナ中央に電動式で回転するギターのピックを模った形のステージ、外周には150mの花道が設定された。 観客席はステージを360度囲むように置かれた。 この年さいたまスーパーアリーナが15周年を迎え、ホール、アリーナ 3形態 、スタジアムの全てのモードでコンサートを行ったのはTHE ALFEEだけであるという事で表彰を受けた。 メモリアル・グッズはサインライト(緑)。 ラストナンバーとして演奏された「」は歌詞が大幅に変更されて、「もうひとつのLast Stage」と改題された。 ライブ映像で確認可能。 2016年 30th Summer! Best Hit Alfee 2016「夏フェス」 (2016年7月30日・31日) メモリアル・グッズはLEDシリコンブレス(ブルー・ピンク)。 30回目の夏のイベント、かつ1986年の東京ベリアの野外イベントより30周年のイベントとなった。 2日目のラストナンバーでは、当時未発表だった「この素晴らしき愛のために」がライヴでは初披露され、東京ベイエリアの際のラストナンバーの「ROCKDOM -風に吹かれて-」と同様に、その時点では音源化されていない楽曲での終演となった。 2017年 31st Summer Best Hit Alfee 2017 「夏フェスタ」 横浜アリーナ(2017年7月29日・30日) メモリアル・グッズはLEDシリコンブレス(グリーン・オレンジ)。 イベント二日目では、1987年の日本平でのオールナイトコンサートより30周年であることが話題となり、「Sunset-Sunrise Kiss」が披露された。 ステージセットは巨大な欧風の城郭(シャトー)を模していた。 センター席中央には客席を跨ぐような移動式のステージが作られ、メンバー登場時はアリーナ後方から移動ステージに乗ってメインステージまで運ばれ、その後も移動ステージを使った演出がなされた。 2019年 45th Anniversary Summer Best Hit Alfee 2019 夏の乱 Battle Starship Alfee 国際展示場1-3(2019年8月3日・4日) 幕張メッセでの公演は今回が初となった。 メモリアル・グッズはLEDオクタブレス(ブルー・ピンク)。 両日とも1曲目に「」が演奏され、異例のカバー曲からの幕開けとなった。 海外公演 1998年には、1999年にはと、企画あるいはイベントのオファーにより海外においてコンサートを行っている。 THE ALFEE in NY (1998年7月1日) NYのフォレストヒルズ・スタジアムにおいてチャリティーコンサートとして7000人の観客を集めて行われた。 春ツアーのファイナルイベントという位置づけであり、ツアー中には映像にて共演の形をとっていたニューヨークの弦楽団と実際の共演を果たした。 また、フォレストヒルズ周辺は、アルフィーが敬愛するの縁の地ということもあり、当日は「」など、サイモンとガーファンクルの曲も数曲演奏された。 またこの公演のポスターはニューヨーク在住のアーティスト、が手掛けている。 JAPANISCHE FESTPARADE 前広場(1999年9月26日) 「ドイツにおける日本年」のオープニングイベントとしてライブが行われた。 「壁の向こうのFreedom」の英詩版である「Freedom On The Other Side Of The Wall」を披露。 の指揮によるとの共演により、「ジェネレーション・ダイナマイト」「歓喜の歌」の2曲 が演奏された。 THE ALFEE in LONDON (2001年9月27日) 3度目の海外公演として、2001年の9月下旬頃にのにおいてコンサートが行われる予定であったが、公演予定日の2週間ほど前に起こったの影響を受け中止した。 この公演時に限定販売を予定していたアルバム"GLINT BEAT"の、ユニオンジャック風の限定ジャケット盤は、後に日本国内で限定でリリースされている。 カウントダウンイベント 2000年から2001年の年明け、2004年から2005年の年明けまで現時点では通算2度のカウントダウンイベントを行っている(2019年現在)。 THE ALFEE Count Down 2001 HELLO GOOD-BYE(2000年12月31日〜2001年1月1日・) 21世紀の幕開けを迎えるイベントとして企画で、チケットはウェブでの申し込みと「」の購入特典の応募抽選のみで行われた。 メモリアルチケットはとの共同デザインの特製「Swatch Access」で、内部に非接触型記憶チップ(RFID)が搭載されている。 このSwatchを入場時にスタッフに見せ、特殊な器械でチップを認証してもらい入場可能となるという最先端の認証システムが実施されていた。 新世紀の幕開けに「」が演奏された。 30th anniversary Count Down 2005 TIME AND TIDE(2004年12月31日〜2005年1月1日・) デビュー30周年記念企画イベント。 メモリアルチケットとして、イベント用に作曲された「Welcome To The New World〜Count Down 2005」が収録されたサウンドメディアが配布されたが、本番では一部分がとして使用されたのみで、演奏はされなかった(同曲は2019年現在未CD化)。 2004年最後の演奏曲は、「」でカウントダウンを挟み、2005年最初の演奏曲として「」が披露された。 その他ライブイベント• Christmas Special ALL NIGHT THE ALFEE(1986年12月24日〜12月25日・内特設テント) 上述にあるように、このイベントで朝日を見られなかったことが、翌年の夏のオールナイトイベントに繋がった。 THE ALFEE MEIGAKU LIVE(1987年11月3日・明治学院大学) メンバーの母校・明治学院大学の学園祭でのライブで、凱旋ライブであった。 BIG EGG OPENING SPECIAL EVENT(1988年3月19日〜1988年3月20日・) 東京ドームでのこけら落としイベント。 前日は巨人対阪神のオープン戦が初めてのプロ野球の試合として行われた。 世界各国からマーチングバンドが集まり,最後は「終わりなきメッセージ」をTHE ALFEEと世界のマーチングバンドとの共演で披露した。 万博のテーマ曲に「」が採用された。 (1991年3月19日・) 日本で開催されたAMAのイベント。 唯一の日本代表に選出されて出演した。 THE ALFEE CLASSICS 〜融合〜(1997年1月11日・12日・ホールA) 東京国際フォーラムのこけら落とし公演。 との共演で、指揮者は。 明治学院校歌のアルフィーバージョンが披露された。 Thanks For your Love 新記録達成記念ライブ(2002年2月16日・) 前年のシングル曲の「」で、34作連続トップ10の当時のオリコン新記録樹立を記念しての感謝ライブで、抽選での当選者のみの無料ライブイベント。 本編は、第一部(3人のみのアコースティックコーナー)の第二部(サポートメンバーを入れてのバンド形式)の二部構成で、シングル楽曲中心の構成で行われた。 セレモニーの司会は、が務めた。 アリーナに円形ステージを設置しライブが行われた。 ステージそのものが可動式ではなかった為、3人はそれぞれでマイクを手で持って移動して向きを変え、東西南北それぞれの方角で演奏した。 入場者には、パンフレットの他、会員一名一名の氏名が記載された感謝状、枡、メンバーのメッセージが収録されたプレイボタン、ステッカー(早期受け取りのみ)が配布された。 THE ALFEE 2500回記念雷舞 祝!桜井賢還暦コンサート Presented by T. Sakazaki(2015年1月31日・) 通算2500回目のライブに、桜井の還暦のバースデーも合わせて、高見沢と坂崎がプロデュースする形で行われた。 なお、当日のライブ本編は第一部、第二部の形式にて行われた。 前年の春ツアーで行われた高見沢と坂崎の還暦記念公演では、ツインテールに巫女姿を披露した高見沢であったが、この日は女子高生風のブレザー(下はスカートにルーズソックス)姿を披露し、メンバーや観客を驚かせた(メンバーにも秘密であった)。 このライブではチケット代金が高騰しオークションやチケットショップで1枚数十万円の高値となったものもあり60万円を超えたものあるという。 ファンや関係者間では大変な物議を醸す事態となった。 セレモニーの司会は、親交のあるアナウンサーがセレモニーの司会を務めた。 ALFEE史上、同会場では初となるアリーナにセンターステージを設置しライブが行われた。 40周年時と同様に、ステージそのものが可動式ではなかったため、3人はそれぞれでマイクを手で持って移動して向きを変え、東西南北それぞれの方角で演奏した。 アンコールで、高見沢は、二代目による「」の着物「俊」を身に纏い登場した。 「辻が花」は、の春ツアーでのバースデーライヴ以来のお披露目となった。 会場のロビーには、華道のよるお祝いの花が活けられた。 入場者には、パンフレットの他、会員一名一名の氏名が記載された感謝状、グラス、メンバーのメッセージが収録されたCD、大阪国際女子マラソンのクリアファイル、京都北山の夏ものお濃茶ラングドシャ「涼茶の菓」、ステッカー(早期受け取りのみ)が配布された。 しかしながらこれらの記念グッズはライブ後にオークションやフリマサイトに出品され、高値となったものもあり、ファンや関係者間では大変な物議を醸す事態となった。 フェス等ジョイントイベント• (1985年6月15日・)• FES. 上述のように、1973年結成、翌1974年デビューであるため、結成何周年記念、デビュー何周年記念に当たるアニバーサリーイヤーが2年続けてとなる。 現在、東京湾岸地域は一般に「 東京ベイエリア」と呼ばれることがあるが、これはTHE ALFEEが1986年8月3日に(現:港区台場・江東区青海地区・品川区東八潮地区)にある近接のに特設ステージを設けて行った10万人(公称)コンサートのタイトルを「1986. 大規模な施設の公演が多い。 (1988年)、国立大ホール(1994年)、(1997年)など• 2005年11月30日のでのライブで、デビューから31年で単独有料コンサートの公演回数2000回を達成した。 国内のバンドとしては前人未到とも言われる。 その際にはから、当時の会長のビデオメッセージと共に名球会会員のみに与えられるブレザーが野球関係者以外では初めて贈呈された。 この映像の上映は、メンバーも本番のステージで初めて知ったとのこと。 映画『』の主題歌「」の発売当時のジャケットに、映画のワンシーンの画像(金田正一の息子で俳優の)が使われており、金田親子とは縁が深いともいえる(2000本目のライブのMCでも語られていた)。 『』では最多ゲスト(7回)を誇る。 堂本兄弟のスペシャルでは、高見沢俊彦と坂崎幸之助が同じ舞台に立つ(向かって右側に高見沢俊彦、中央に堂本兄弟、左側に坂崎幸之助)。 高見沢はコンサートのコントの台本作成も担当している。 メンバーのうち坂崎と高見沢の生年月日が二日違い(ともに1954年4月生まれ)であるのに対し、桜井の誕生日は二人よりも9か月遅い(1955年1月生まれ)。 坂崎と高見沢も含めて、サポートメンバーの(坂崎と年齢違いの同日生まれ)、、も4月生まれのため、一時期はバースデーケーキの量が多かったと言う(ライヴのMCでも語られていた)。 デビュー当時は、と同じ所属事務所であったため、弟分的位置付けであった。 GAROのライヴのスタッフや前座を務めたこともあった。 なお、GARO解散後もメンバーとの関わりは深い。 ALFIE時代に、MARKことのソロアルバム『六夢』に3人でコーラスで参加したり、高見沢がプロデュースした女性アイドルユニット「」の歌唱指導を堀内が担当したこともあった。 1980年代に、堀内と、TOMMYことが2人で都内のライブハウスでライブ活動を行ったことがあった。 日高が欠席した時、坂崎が代役を務めたことがあった。 高見沢は、VOCALことから譲り受けた D-45を長く使用しており、コンサートツアーで披露する事もある。 2015年にリリースのアルバム『』に収録の「碧空の記憶」では、ガロへの敬意を示しており、ライナーノーツに、「With our respect to GARO」と記載されている。 2019年の春ツアーのパンフレットの付録のトークCDでは、再デビュー前に、堀内と大野にバックバンドでお世話になった旨を明かしている。 は、系列の所属事務所であった。 Alfie(当時)とは同期デビューで、解散後にに加入するとは、Alfieの3人とは同学年であった。 1980年代のALFEEのブレイク前に、メンバー3人でに、OFF COURSEのライブを観に行き、同期の松尾と大間に大いに刺激を受け、またステージも参考になったという。 1988年のアルバム『』には、がコーラスにて参加している。 その後、坂崎は鈴木のソロアルバムのレコーディングに参加したこともある。 高見沢のプロデュースを受けていたは活動時期には、アルフィーと同じ事務所のプロジェクトスリー、および同様のレーベルのZeitに所属していた。 は、一時期プロジェクトスリーに所属し、当時はアルフィーの妹分的な位置付けであった。 川村が逝去した際には、メンバー3人で葬儀に出席している。 1980年、が司会を勤める日本テレビの朝番組「OMOTAME情報局」では、まるでコミックバンド的なお笑いキャラで出演していたこともある。 TAKURO 23』と改名。 CDはこの名前で発売された。 現在は廃盤)」としてレコード発売。 ビートボーイズとは、ビートルズとビーチボーイズから由来する。 歌っているのは誰か? とクイズを出したが、殆どの葉書がアルフィーとの答えだった。 この正解発表時に正体を伏せたまま(坂崎が じょんのれん、高見沢が ポール・マッカーサー、桜井が 祥寺張扇(じょうじ・はりせん)と名乗った )『吉田拓郎のオールナイトニッポン』に覆面を被り乱入した。 そのレコードは本人たちの意に反してアルフィー本体の過去最高レコード売り上げ枚数を超えて売れた。 この際も、アルフィーとは全く違うとして本名を用いず、サクライ(桜井賢)をリーダーとし、アルバム、シングルをそれぞれリリースし、アルフィーのコンサート活動を縮小してこちらのコンサートツアーや野外ライブ「GO! NAGOYA-DAGANE! 」(チケットは宝地図)も行われた。 また、アルフィーに敵愾心を持っている設定をしており、楽器を持っての演奏はしなかった。 現に『』に出演した時は「僕たちはアルフィーは嫌いだ」と発言し正体を隠した。 同番組で1度だけアルフィーと共演を果たしている。 また『』 に出演した際には、アルフィーとの違いを以下のように説明している。 楽器がひけない! 踊りがうまい! ニューミュージック・フォーク・演歌・ヘビメタがキライ! 汗と涙と友情がキライ! メンバーの名前がカタカナである! アルフィーほど人がよくない! アルフィーの高見沢が大キライ! ライブ活動は1989年以来行っていなかったが、1996年の冬の日本武道館・1998年の立川での夏のイベント前夜祭、2004年のアルフィー秋ツアー内でゲスト出演、2006年、2007年の秋ツアーにも同行した。 2007年の武道館公演では新曲 を披露した。 2009年、2014年の武道館公演でも登場し、数曲演奏した。 CDシングルのリリースとしては、突発的に行われていたが、THE ALFEEの東芝EMI(現・EMIミュージック)移籍以降は発売されていない。 1988年以降は、作詞にや、アレンジャーに 、コーラスに鈴木康博、等など外部の音楽家を起用。 さらに『』に収録された「Let's! Break Dance!! 」ではがアレンジを担当。 FUN! TODAY』で高見沢が「小室君から戻ってきたら違う曲になっていた」と発言。 これに対し小室が「でき上がった曲を聞いたら違う曲になっていました」と冗談半分に発言していた。 その他 高見沢は、・・・・・・・・・・・等、多くのアイドル歌手やタレント達に、それぞれ楽曲を提供している。 他にも、の芝居『トーキング・ブルース』の音楽監督を務めたり、『ドラえもん』のや『』等への楽曲提供、ドラマでの音楽監督、司会の番組『堂本兄弟』に出演したり、また坂崎は2002年に期間限定で再結成したに参加したり、フォークソングのイベントなどでの司会を務めたりなどと、バンド以外での活動も多く、アイドル(、など)やフォーク歌手(、など)との交流がある 音楽以外の活動 田辺エージェンシーでは、所属歌手に歌手活動以外にバラエティ番組への出演をさせる方針がとられていた。 THE ALFEEも例に漏れず、ALFEE時代のに系列で『アルフィーの ある日ィ突然!』というが放送されている。 現在は所属ではなく、そこから独立した事務所・Project III(プロジェクト・スリー)に所属しているが、その頃からの流れは続き、グループあるいは単独でテレビ・ラジオのバラエティー番組に数多く出演している。 過去のシングル・アルバム等の版権は田辺エージェンシーの系列の田辺音楽出版が所持をしており、現在でも各種クレジットにはの名が記載されているように田辺エージェンシーとは密接な関係である。 芸能人ではかつてはとの交流は深かった。 『』で行った対決が人気となり、での最終決戦も行われた。 その功績が評価され、には日本卓球協会から名誉初段を贈られている。 また、『』では、高見沢が二度にわたってスペインでのに参加している(ただ、2度目の出演時に左手人差し指を骨折してしまい、そのすぐ後のツアーに悪い影響を与えてしまっている)。 2018年3月30日公開の『』では、3人組の情報屋・ドーガン=ダギーズ役で3人揃って声優を務めた。 ディスコグラフィ 「」を参照 タイアップ一覧 楽曲 タイアップ ラブレター 「」コマーシャルソング(1979年) 無言劇 系ドラマ『』主題歌(1980年) 美しいシーズン 『』主題歌(1980年) 星空のディスタンス 系『』主題歌(1984年) STARSHIP〜光を求めて〜 映画『』平和のテーマ(1984年) 愛の鼓動 「SF新世紀レンズマン」愛のテーマ(1984年) 恋人達のペイヴメント 「アーモンドチョコレート」CMソング(1984年) シンデレラは眠れない '85春のイメージソング(1985年) 真夏のストレンジャー 夏の北海道キャンペーンソング(1985年) 風曜日、君をつれて 全日空 夏の沖縄キャンペーンソング(1986年) 夢よ急げ 1987 第6回イメージソング(1987年) サファイアの瞳 「ページワン」CMソング(1987年) 君が通り過ぎたあとに -DON'T PASS ME BY- 『』主題歌(1987年) FOR THE BRAND NEW DREAM 東宝映画『タッチ3』エンディングテーマ(1987年) LONG WAY TO FREEDOM 「」CMソング(1987年) It's Alright 1988 第7回大阪国際女子マラソンイメージソング(1988年) Girl 系『』主題歌(1988年) WEEKEND SHUFFLE -華やかな週末- TBS系ドラマ『』主題歌 (1988年) 見つめていたい TBS系ドラマ『パパは年中苦労する』挿入歌(1988年) FOR YOUR LOVE 「裏切りへの前奏曲」の英詞版) 東宝映画『』エンディングテーマ(1988年) Catch Your Earth 系『』エンディングテーマ(1988年) Kitto 日本テレビ系『巨泉のこんなモノいらない!? 』エンディングテーマ(1989年) Loving You 「高砂殿」CMソング(1988年) FAITH OF LOVE 東映映画『』メインテーマ(1988年) YOU GET TO RUN 東映映画『将軍家光の乱心 激突』ファイティングテーマ(1988年) High-Heel Resistance 1989 第8回大阪国際女子マラソンイメージソング(1989年) 恋人の歌がきこえる 日本テレビ系ドラマ『』主題歌(1989年) FLOWER REVOLUTION '90イメージソング(1990年) 1990 第9回大阪国際女子マラソンイメージソング(1990年) Shadow of Kingdom 用ゲームソフト『』主題歌(1990年) Arcadia 1991 第10回大阪国際女子マラソンイメージソング(1991年) Someday 1992 第11回大阪国際女子マラソンイメージソング(1992年) Promised Love 日本テレビ系ドラマ『』主題歌(1992年) 君に逢ったのはいつだろう フジテレビ・イベント「最後の恐竜王国」テーマソング(1992年) RUNNING WILD 1993 第12回大阪国際女子マラソンイメージソング(1993年) Believe TBS系『』エンディングテーマ(1993年) Victory オフィシャルソング(1993年) もう一度君に逢いたい 日本テレビ系『』エンディングテーマ(1993年) 風を追いかけて 1994 第13回大阪国際女子マラソンイメージソング(1994年) まだ見ぬ君への愛の詩 「」CMソング(1994年) 愛こそ力〜Power for Love〜 フジテレビ系「」エンディングテーマ(1994年) COMPLEX BLUE ー愛だけ哀しすぎて フジテレビビデオサスペンスシリーズ『』主題歌(1994年) 冒険者たち アニメ『』オープニングテーマ(1994年) エルドラド NHKアニメ『モンタナ・ジョーンズ』エンディングテーマ(1994年) WILD BAHN! 選手応援ソング(1994年) MEN'S TENORAS CMソング(1994年) JUMP! テーマソング(1995年) LOVE NEVER DIES 日本テレビ系ドラマ『』主題歌(1996年) GLORY DAYS 1996 第15回大阪国際女子マラソンイメージソング(1996年) 倖せのかたち〜Send My Heart〜 「」CMソング(1996年) 曲名不明 「東邦生命」CMソング(1997年) Liberty Bell 1997 第16回大阪国際女子マラソンイメージソング(1997年) Crisis Game -世紀末の危険な遊戯- CMソング(1997年) Brave Love 〜Galaxy Express 999 東映アニメ映画「」主題歌(1998年) Beyond The Win 1998 第17回大阪国際女子マラソンイメージソング(1998年) Sister of the Rainbow TBS系『』エンディングテーマ(1998年) PRIDE TBS系「日立 世界・ふしぎ発見! 2005 第24回大阪国際女子マラソンイメージソング(2005年) ONE 2006 第25回大阪国際女子マラソンイメージソング(2006年) TBSテレビ・ラジオ「ドラマ原作大賞」作品募集CM(2006年) Innocent Love ・TBS系 CBCテレビ50周年記念企画 「」主題歌(2006年) Dear My Life 2007 第26回大阪国際女子マラソンイメージソング(2007年) Lifetime Love 中部日本放送・TBS系『みこん六姉妹2』主題歌(2008年) Wonderful Days 2008 第27回大阪国際女子マラソンイメージソング(2008年) Shining Run〜輝く道に向かって〜 2009 第28回大阪国際女子マラソンイメージソング(2009年) 桜の実の熟する時 テレビ朝日系ドラマ 「」主題歌 2009年) 風の詩 映画『』日本版エンディングテーマソング(2009年) 夜明けを求めて フジテレビ系『』主題歌(2009年) この愛を捧げて アニメ映画『』主題歌(2009年) 宇宙戦艦ヤマト 2009 アニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』挿入歌(2009年) GET YOUR CHANCE 2010 第29回大阪国際女子マラソンイメージソング() Let It Go 2011 第30回大阪国際女子マラソンイメージソング() 生きよう 2012 第31回大阪国際女子マラソンイメージソング() Final Wars! スマートフォン向けゲームアプリ『北斗の拳 LEGENDS ReVIVE 』テーマソング(2019年) サウンドステッカー(開始時期不明) CM出演および使用楽曲• - 「」(1996年)• 東邦生命 - 曲名不明(未CD化)(1997年)• - 「」(1998年)• のどごし生・夢のドリーム - 「」(2013年)• コンフィデンスLP「スクリーン・フォーク・アルバム『愛よこんにちは』」見開きジャケットより• アルフィーの歴史を描いた原作の漫画『ドリームジェネレーション』によれば、「 三宅(作中では「南」)の父が倒れたため長男だった彼は、家業の電気屋を継ぐため脱退した」となっている。 しかし、その記述が出てくるのはこの漫画のみで、他では一切語られていない。 在籍時の三宅は「THE ALFEE BOOK vol. 1」などで見ることができる。 THE ALFEE名義になった後の作品では、『』が Alfee名義で発売された。 1987年頃まで、テレビでの演奏時には曲毎のリードヴォーカルが中心になるよう立ち位置を変えていた。 現在は曲にかかわらずほぼ、左から桜井・坂崎・高見沢の順で固定。 、ニッカンスポーツ、2014年3月19日• 、、2014年3月19日• 、、2014年3月19日• 「オーバー・ドライブ」p. 同曲はのパロディソングであり「犯罪者を礼賛している」「社の良識に合わない」などの意見が上層部から出されたためと言われている「アルフィー物語 ドリームジェネレーション」3巻p. 123。 彼らはこの頃のことを下積み時代ではなく、上積み時代と強調する• 「」のリリースは武道館公演より前の。 武道館公演当時はチャートの30位ほどで、チャート上位に入ったのは同年の9月のことであった。 「企画賞」受賞。 1999年頃、桜井はテレビのインタビュー [ ]で「1公演ごとに8曲入れ替えられる」と証言している(これは公演ごとに全体の3分の1におよぶ曲数を入れ替えている計算になる) [ ]。 さらに1会場で複数公演行う場合や、夏のイベントなどでは全体の半分以上の楽曲が入れ替えられることもある。 1988年のツアーの公演本数。 しかし、やBEATBOYSとしての公演等、全国ツアー以外の公演数を含めるとこの年は120公演行っている。 1982年の夏のイベントの映像(リハーサル風景)で富岡の出演が確認できる。 DVDソフト「ALFEE HISTORY I」に夏のイベントに出演する遠藤の姿が残っているが、通常のツアーに遠藤が参加していたかどうかは不明。 Speakers. jp(スピーカーズ) 2013年11月28日. 2020年2月4日閲覧。 サポートメンバーがドラムとキーボードの2人体制の場合。 3人体制の場合はこの限りではない• www. alfee. com. 2019年10月16日閲覧。 www. alfee. com. 2020年4月2日閲覧。 開場と同時に演奏開始された。 、横浜市消防局 沿革• 当初4曲の予定だったが、時間の都合2曲カットされた。 当時、単一アーティストによる日本最大の動員数として記録され、1999年5月30日にが東京ビッグサイトにおいて観客動員数10万人、1999年7月31日にがにおいて観客動員数20万人のコンサートを行うまで更新されることはなかった。 この時アルフィーの名を伏せたのは、当時まだアルフィーの知名度が低く、このようなパロディー曲で有名になってしまったら今後の音楽活動に影響が出てしまうのを避けるという理由であった。 TAKURO 23)」のによると、この3人の他に リンゴ・ジュースなる人物が時々バンドに参加するとされている。 1989年6月19日放送分にて「誰よりもLady Jane」が第9位にランクインした週。 2008年3月発売のシングル「」のボーナストラックとして収録された。 「LIVE IN PROGRESS」に収録されている「JUMP'95」とはアレンジが異なる• 本来は第14回の1995年大会のイメージソングであったが、で中止となったため1997年大会で改めて使用された。 坂崎が番組を持っているため。 参考文献• 「地球音楽ライブラリー アルフィー」(TOKYO FM出版 ) 外部リンク• THE ALFEE公式ウェブサイト• 高見沢俊彦公式ウェブサイト• 公式ファンクラブ• 所属事務所• 桜井の実家• 坂崎の実家• ミュージシャンズギャラリー.
次のこの著作物の投稿日時と内容に関する証明情報は以下の通りです。 この日時以降に転載が許容されていない著作物が著作者の意図としない他のサイトに投稿されていた場合、無断転載の可能性があります。 ID 513715 DATE October 22, 2019 5:51:49 PM UTC NTP:ntp. nict. jp SHA-256 5aa041491c7c42396659d9ceaa73eca314760de26100dadb828e5126935515f1 ID 513715-69919 DATE October 22, 2019 5:51:53 PM UTC NTP:ntp. nict. jp SHA-256 7fc8878971e3ab5b65f43f40eebacb309bb514802bb93b4539dafb5b178545a3 ID 513715-69920 DATE October 22, 2019 5:51:55 PM UTC NTP:ntp. nict. jp SHA-256 a7f3bb333e8a77024a2cd2e4ed232c170f610af7cba126ed2ab43cac7177a89c ID 513715-69921 DATE October 22, 2019 5:51:57 PM UTC NTP:ntp. nict. jp SHA-256 0b62b3d552f47def20ad083abebe8e5f6eafd06f9c47725c22d4fda3e94cc046 ID 513715-69922 DATE October 22, 2019 5:51:59 PM UTC NTP:ntp. nict. jp SHA-256 571e2f3fa1ca58967821b28ef9b837fc3a3f27f3f9add5ca8678b879fbe16cf4 ID 513715-69923 DATE October 22, 2019 5:52:02 PM UTC NTP:ntp. nict. jp SHA-256 00d4bd85f9a9eda0f41c39215c6a0c37a645aea1c28ab6a65749fa7fddea523d ID 513715-69924 DATE October 22, 2019 5:52:04 PM UTC NTP:ntp. nict. jp SHA-256 ea2a3d0bb891a4e4a376ee1675c175432fed1a099d226a0d701f41d01def79c3 ID 513715-69925 DATE October 22, 2019 5:52:07 PM UTC NTP:ntp. nict. jp SHA-256 160a3f520e867fc7c51325731df357c0dfa1dc5db1cb6afa2cfa78971e713561 ID 513715-69926 DATE October 22, 2019 5:52:09 PM UTC NTP:ntp. nict. jp SHA-256 0a636b1a3a733c18f03cca64de72a2cd011e4fd7f0ffcc11c458bef5b928c266 ID 513715-69927 DATE October 22, 2019 9:43:10 PM UTC NTP:ntp. nict. jp SHA-256 66611bcd7af06c08d677aa95360eb52fcc0a9c04d10868d15e33b8cb54a2b218.
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