古関裕而作曲のプロ野球の球団歌をご紹介!! 『朝ドラ「エール」を10倍楽しもう!~古関裕而ヒットプレイリスト』も公開!! 2 古関裕而作曲の球団応援歌「六甲おろし」または「闘魂こめて」をBGMに、もりあげる応援動画を撮影。 3 ハッシュタグ「 古関応援歌」と「 古関裕而応援歌六甲おろし」または「 古関裕而応援歌闘魂こめて」の2つを必ず付けて、応援メッセージや熱い思いとともに、撮った動画をツイート。 企画にご参加の方は、あらかじめDM受信可能な設定に変更をお願いします。 古関裕而作曲のプロ野球の球団歌をご紹介!! 古関裕而は、応援歌や行進曲など数多くのスポーツ関連楽曲を作曲したことでも知られていますが、その中にはプロ野球の球団歌もあります。 まもなくのプロ野球開幕に合わせて、古関裕而作曲の球団歌をご紹介します!! 昭和10 1935 年の都市対抗野球でコロムビア準優勝の立役者となった若林忠志投手が入社1年でタイガースに移籍したが、その交渉過程で持ち上がった企画ではないかと推測される。 昭和36 1961 年、阪神タイガースと球団名変更に伴い、再録され細々と命脈を保っていたが、朝日放送の中村鋭一アナが積極的に流し阪神ファンに浸透、超関西国民的楽曲となった。 その後も多くの人が歌っている。 解説:三木 容• 当時「ドラゴンズの歌」も「六甲おろし」もさほど知られていなかったからか、スポーツ音楽のオーソリティ古関が作曲した。 オリジナルでは、当時大人気のアイドル守屋浩、国民的ヒット「喜びも悲しみも幾歳月」の若山彰、社歌や校歌のカリスマ歌手三鷹淳が起用された。 昭和40 1965 年からの巨人V9のタイミングにあったこともあり、ファンの心をつかみ、「巨人の歌の絶対王者」の位置は今も揺るがない。 解説:三木 容• TV番組放送のお知らせ 古関裕而にスポットを当てたTV番組が放送されます。 ぜひご覧ください。 Twitter企画『朝ドラ「エール」にエールを!』スタート!! アルバム『NHK連続テレビ小説「エール」オリジナル・サウンドトラック』の発売を記念して、コロムビアレコード所属の歌手たちが古関裕而作曲の作品をリレー形式で歌うTwitter企画『朝ドラ「エール」にエールを!』が、コロムビアレコード公式Twitterでスタート!! コロムビアレコード公式ツイッターに所属歌手たちがそれぞれの思いを込めて、アカペラ・カラオケ・弾き語り等様々な形で歌唱映像を自撮りした映像を投稿。 冠二郎、クミコ、日野美歌、若山かずさ、多岐川舞子ら約20人の歌手たちの貴重な古関裕而作品の歌唱映像が今後次々と掲載される予定です。 『朝ドラ「エール」を10倍楽しもう!~古関裕而ヒットプレイリスト』公開!! Apple Music・Spotifyで古関メロディーが聴ける! 『朝ドラ「エール」を10倍楽しもう!~古関裕而ヒットプレイリスト』を公開しました!• あなたの街の「別れのワルツ」大募集!! みなさんのご存じ閉店のメロディー「別れのワルツ」ですが、古関裕而が編曲していたことをご存じでしたか。 今でもいろいろな場所で聞くことができますが、みなさんの身の回りの「別れのワルツ」情報を募集します。 「別れのワルツ」はこちらで試聴できます 例: 〇〇〇デパートの閉店の時に流れています。 〇〇〇学校の下校時間に流れています。 〇〇〇公園で夕方になると流れています。 など 頂いた情報は、今後の商品企画の参考にさせて頂きます。 みなさまのご協力よろしくお願いします。 「竹取物語」「君はるか」他、収録内容公開!! オリジナル・サウンドトラックの中には、主人公・裕一が国際作曲コンクールで2等を授賞し音楽の道に戻るきっかけとなった「竹取物語」や、後に妻となる音を想って作曲した「君はるか」など、ドラマの重要なシーンを彩る名曲の数々を収録、今後のドラマの展開と併せて楽しめる充実の内容!! 「今週の古関メロディー」バックナンバー• 当時、コロムビア野球部に所属していた若林忠志がタイガースと契約した背景もあり、球団の買取を条件に発売された「委託盤」であった。 現在は、球団名が変わっただけで阪神の歌「六甲おろし」として制作当時では考えられない人気を誇っている。 作詩の佐藤惣之助は皮肉なことに野球が嫌いだったようだ。 解説:三木 容• 古関会心の和を基調とした美しく歌曲的な作品で、三浦環が気に入り後にレコード化している。 作曲家が前間奏のメロを書いていた時代で、美しいイントロも古関によるものだろう。 ただ和楽器の使い方など奥山による歌謡曲の編曲手法は範となったはずだ。 上京前に書き上げて温めていたものが満を持して発売となった。 これもそんな一曲で、歌詩に福島の情景が多く織り込まれている。 作詩は古関の幼なじみで、現役の福島民友新聞社の記者であった野村俊夫。 浅草のオペラ歌手・天野喜久代が歌ったが、ヒットには至らなかった。 解説:板西 唱三• 応援団に伊藤久男のいとこがいて、伊藤が帝国音楽学校で金子夫人と交友があった縁で、当時無名の作曲家であった古関に作曲が依頼された。 県人繋がりとは言え、応援団と伊藤のこだわりが実を結び、早稲田を代表する応援歌が生まれた。 565名の演奏により高らかに鳴り響いた「オリンピック・マーチ」を聞き、多くの日本人はこの行進曲が日本人の手によることを誇りに思ったのではないだろうか。 清新明朗で格調高い古関作品の神髄である。 唯一日本的と言えるのはコーダーに「君が代」の旋律を取り入れたこと。 戦前のスポーツ音楽の最高峰・山田耕筰の「走れ大地を」での手法を踏襲している。 解説:三木 容• 国民的歌謡である証しの一つは替え歌で歌われることだろう。 丘はのんびりした福島の沼尻軽便鉄道をモデルに作詩、古関はアルプスを颯爽と走る列車をイメージして軽快なメロディーを付けた。 解説:三木 容• 婚約者の道子名義で応募した加賀の作品が入賞し、古関が作曲した。 怪我によりプレイを絶たれた作詩者の野球愛が根底にあり、ありきたりのスポーツ讃歌を超えている。 NHKの高校野球放送でチーム紹介のバックに流れるようになり定着、いまや国民的な歌となった。 解説:三木 容 古関裕而関連作品• それは大学の応援歌から、NHKのスポーツ番組のテーマ「スポーツ行進曲」、東京オリンピックの「オリンピック・マーチ」まで、実に数多くのマーチを作曲し、その世界では圧倒的な実績を誇っているからである。 実際、最初のレコードは、出身地である福島に材を取った「福島行進曲」だった。 それと同じ昭和6 1931 年に、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」を発表している。 だが、古関が単なるマーチ作曲家でなかったことは、数多くのヒット曲をみてもわかる。 実際、「紺碧の空」の翌年には「船頭可愛や」、そして2年後には「露営の歌」を発表している。 まさに多彩な作曲作品を書き、その実績は圧倒的である。 古関裕而は明治42 1909 年、福島市に生まれた。 生家は「喜多三 きたさん 」という呉服屋だった。 5歳の時に父親が蓄音機を買い、そのときにレコードを聴いた記憶がある。 そして10歳の時、卓上ピアノで作曲を始めた。 福島商業学校を卒業した後、音楽家を志していたが、親類の人に「遊んでいるなら、ここに勤めてはどうか」と言われ、その親類が経営していた川俣銀行に勤務する。 銀行在勤中も作曲活動は続けており、福島ハーモニカ・ソサエティーに所属しつつ、ラジオ出演などをこなしていた。 だが音楽への思いは断ちがたく、2年で上京。 昭和5 1930 年、コロムビアと専属契約を結び、はれて作曲家としてスタートすることになる。 昭和12 1937 年、「露営の歌」を作曲し、その翌年29歳で中支に従軍、すぐに除隊し、昭和15 1940 年には名作「暁に祈る」を作曲する。 若い人たちの青春の気分をうまくすくい上げた作風は勇壮なメロディとなったため、戦時歌謡としての色合いが強く、戦争協力者として非難されたこともあった。 しかし古関には好戦の気配などはなく、一貫して青春というものへの熱い思いがあったのだ。 たとえば「若鷲の歌 予科練の歌 」については、「あの歌で予科練を志望した若者も多かっただろうが、その人たちが戦争で死んでしまったことを思うと、とても辛い」と語っている。 そして戦後、作曲家・古関裕而の本格的な活動が始まる。 昭和22 1947 年7月、NHKの連続ドラマ『鐘の鳴る丘』がスタートする。 この番組は昭和25 1950 年12月まで続き、その主題歌「とんがり帽子」は古関裕而のハモンド・オルガンで流され、多くの子供たちの支持を受けた。 この演奏は連日生放送で流され、戦後を彩る歌となった。 この時に使ったハモンド・オルガンは、福島にある「古関裕而記念館」に展示されている。 このほか、歌謡曲で「夢淡き東京」「イヨマンテの夜」「黒百合の歌」や、阪神タイガースの歌「六甲おろし」などがある。 昭和23 1948 年、夏の高校野球のテーマとして、現在でも使われている「栄冠は君に輝く」を作曲。 その翌昭和24 1949 年、長崎での被爆体験を伝えるために人生を捧げた、長崎大学医学部の永井隆博士をテーマにした「長崎の鐘」を作り、永井博士との交流は長く続くことになる。 また昭和27 1952 年、NHKラジオの連続ドラマ『君の名は』の放送が始まり、茶の間の人気を集める。 そのドラマは昭和29 1954 年まで続き、この放送が始まると、銭湯の女湯ががらがらになるという話も出たほどの人気になった。 古関裕而に会った人たちが例外なく言うのは、その人柄の柔らかさである。 それは、その曲のおおらかさとつながっているに違いない。 夫人・金子のすすめで絵を描き始め、79歳の昭和63 1988 年、画集「風景の調べ」を上梓した。 本人は「私にとっては楽譜のない音楽だ」と語っていたという。 平成元 1989 年8月18日逝去、80歳だった。 勲三等瑞宝章受章。 福島市名誉市民。 明治19 1886 年6月9日~昭和40 1965 年12月29日 作曲家。 父は医師でキリスト教の伝道師だったが、耕筰が10歳の時に亡くなり、曲折を経て育つ。 岡山の姉の許に引き取られた時、義兄エドワード・ガントレットに音楽を学ぶ。 東京音楽学校を卒え、岩崎小弥太の援助によりベルリン音楽学校で作曲を学ぶ。 日本の交響楽団育成に力をそそぎ、日本交響楽協会 現NHK交響楽団の前身 を設立するが、後に分裂。 紆余曲折があったが、交響曲・オペラ・映画音楽のジャンルで、日本の西洋クラシック音楽作曲家の先達として活躍、何より日本歌曲の作曲家として唯一の国民的な存在となる成功者であった。 山田は日本のモダニズム形成において、音楽以外に舞踊・演劇・文学にも積極的に関与、日本近代化の文化面で多大な貢献をした。 昭和31 1956 年に文化勲章を受章し、西洋音楽・大衆音楽のカテゴリーで初の受章者となった。 古関は学生時代から山田に憧れを抱き、自作の曲の譜面を郵送するなどして交流があった。 昭和5 1930 年9月、コロムビアの顧問であった山田耕筰の推薦で古関はコロムビア専属作曲家として入社した。 古賀政男 こが・まさお <コロムビアレコード> 明治37 1904 年11月18日~昭和53 1978 年7月25日 作曲家。 現在の福岡県大川市に生まれる。 幼くして父を亡くし、兄のいる朝鮮に渡って生活する中で大正琴やマンドリンと出会う。 帰国後、大正12 1923 年に明治大学予科に入学、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画する。 昭和4 1929 年、マンドリン倶楽部の定期演奏会にて処女作「影を慕いて」を発表。 昭和6 1931 年にはコロムビア専属作曲家となり、一時テイチクに移籍するも、昭和13 1938 年にコロムビアへ復帰。 古関とはほぼ同時にコロムビアへ入社。 同じ専属作曲家として切磋琢磨し、生涯にわたって日本歌謡界の第一線で活躍した。 野村俊夫 のむら・としお <コロムビアレコード> 明治37 1904 年11月21日~昭和41 1966 年10月27日 作詩家。 福島県福島市生まれ。 幼いころから新聞や雑誌に俳句や詩を投稿するなどの創作好き。 大正13 1924 年に地元の新聞社・福島民友新聞社に入社、のちに記者として活躍するも昭和6 1931 年に退社して上京、作詩家としての活動を開始する。 昭和14 1939 年、藤山一郎に提供した「上海夜曲」がヒットし、専属作詩家としてコロムビアに入社して活躍。 戦後、昭和26 1951 年から昭和40 1965 年まで日本音楽著作権協会 JASRAC の理事を務めた。 古関と同じ福島市大町の出身で、子供の頃からよく一緒に遊んでいた。 昭和6 1931 年、既にコロムビア専属作曲家となっていた古関のすすめで上京し、古関と組んだ初のレコード「福島行進曲」 歌:天野喜久代 を発表。 伊藤久男 いとう・ひさお <コロムビアレコード> 明治43 1910 年7月7日~昭和58 1983 年4月25日 歌手。 現在の福島県本宮市生まれ。 実家は旧家で、父は県議会議員、兄は衆議院議員を務めるなど裕福な家庭で育った。 中学校の頃からピアノに傾倒してピアニストを志すが、家族の反対に遭って東京農業大学に入学。 その後、農大を退学して帝国音楽学校に入学するも、家族に知られて仕送りが中止されたため、コロムビアで合いの手やお囃子を吹込むアルバイトを始める。 これがきっかけとなって歌手としての道を進み、昭和15 1940 年には「暁に祈る」「お島千太郎旅唄」などのヒットを飛ばしてスター歌手の仲間入りを果たす。 戦後も「イヨマンテの夜」「山のけむり」などをヒットさせて長く活躍した。 古関とは同郷。 古関の妻である金子が帝国音楽学校で声楽を学んでいたこともあって懇意になる。 早稲田大学の第一応援歌である「紺碧の空」は当時、伊藤のいとこが応援団長だった縁で古関に作曲が依頼された。 昭和8 1933 年には古関のすすめでコロムビアの廉価盤レーベルであるリーガルよりデビュー。 すぐにコロムビアレーベルからデビューし、その後は古関の作曲による「露営の歌」「暁に祈る」「イヨマンテの夜」「君いとしき人よ」などをヒットさせた。 三浦環 みうら・たまき <コロムビアレコード> 明治17 1884 年2月22日~昭和21 1946 年5月26日 オペラ歌手。 東京・京橋生まれ。 幼少のころから日舞や長唄、箏曲などをたしなむ。 明治33 1900 年に東京音楽学校に入学し、在学中の明治36 1903 年、日本初のオペラ公演とされる「オルフェオとエウリディーチェ」で主役のエウリディーチェを演じて好評を博す。 大正2 1913 年に医師の三浦政太郎と結婚後にドイツへ留学。 第一次世界大戦の影響で、程なくしてイギリス・ロンドンに移住し、指揮者であるサー・ヘンリー・ウッドのテストを受けて認められ、アルバート・ホールに出演したことで爆発的な評判を呼び、イギリス国内のみならず各国の新聞でも報じられる。 その後、ロシアのテノール歌手であるウラジミール・ロージンからオペラ「蝶々夫人」の主演を依頼されて大正4 1915 年に初主演。 ここでも話題を集めたためアメリカやヨーロッパ各地で公演し、出演2000回を達成した。 昭和10 1935 年に帰国し、戦争が激化するまでオペラへの出演やリサイタルの開催、レコード吹込みなどを精力的に行った。 古関の著書『鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝』 集英社文庫 によると、昭和10 1935 年にコロムビア専属声楽家だった三浦が帰国した際、彼女を歓迎するコロムビア主催のレセプションで二人は初対面した。 同年は音丸の歌う「船頭可愛や」がヒットしていた折で、後にこの曲を聞いた三浦から、私も吹込みたいとの申し出があり、昭和14 1939 年にレコード化が実現した。 その後、「月のバルカローラ」も作曲して提供、これも同年にレコード化された。 当時のコロムビアでは、外国の著名な芸術家のレコードのみ青いレーベルを用いて青盤レコードと呼んでいたが、三浦は数少ない日本人の青盤芸術家であったため、この2枚のレコードは青盤レコードで発売された。 古関にとっては生涯でたった2枚の青盤レコードとなり、「コロムビア芸術家としては最高の名誉であった。 」と回想している。 高橋掬太郎 たかはし・きくたろう <コロムビアレコード> 明治34 1901 年4月25日~昭和45 1970 年4月9日 作詩家。 現在の北海道根室市生まれ。 大正8 1919 年に根室商業学校を中退後、地元の根室新聞社に入社し、記者の仕事をしながら高橋春波の名で文筆活動を始めた。 大正11 1922 年には函館日日新聞に転籍、ここでも仕事のかたわらで文芸同人誌に参加して詩や小説などの創作活動を行った。 昭和5 1930 年に民謡雑誌『艸』で「酒は涙か溜息か」を発表。 その後、コロムビアに投稿、作曲には当時注目を集め始めていた古賀政男を指名して曲が完成しレコード発売、本格的に作詩家デビューを果たした。 「酒は涙か溜息か」は藤山一郎が、同時に投稿した「私此頃憂鬱よ」は淡谷のり子が、それぞれ歌って大ヒットし、昭和8 1933 年には函館日日新聞社を退社して上京。 翌9 1934 年にコロムビア専属作詩家として入社した。 専属作詩家として、「船頭可愛や」「雨に咲く花」「博多夜船」「人妻椿」などのヒット曲を続々と発表するかたわらで、昭和16 1941 年からは歌謡同人誌『歌謡文芸』を主宰して後進の育成に尽力。 後年作詩家として活躍することになる石本美由起、宮川哲夫、星野哲郎らを輩出した。 昭和19 1944 年からはキングレコード専属作詩家となり、戦後、「啼くな小鳩よ」「瓢箪ブギ」「ここに幸あり」「一本刀土俵入り」「古城」などの大ヒットを次々と放って活躍。 昭和43 1968 年には紫綬褒章を受章した。 古関は古賀政男から「酒は涙か溜息か」でコンビを組んだ高橋を紹介され、昭和9 1934 年の春にヒットソングを生むべく潮来へ取材旅行に出かけた。 この旅行は、松平晃の「利根の舟唄」、さらに音丸の「船頭可愛や」が生まれるきっかけとなる。 「船頭可愛や」は大ヒットとなり、音丸とともに古関の名も世にとどろくこととなった。 音丸 おとまる <コロムビアレコード> 明治39 1906 年12月8日~昭和51 1976 年1月18日 歌手。 東京・麻布の履物屋の一人娘として生まれる。 昭和6 1931 年、尺八奏者の菊池淡水が指導する民謡の会で歌声を披露したことがきっかけとなり、コロムビアの廉価盤レーベルであるリーガルよりレコードデビュー。 昭和9 1934 年9月にコロムビアと契約し、本名である永井満津子の名にて「おけさくづし」で正式にデビューした。 翌10 1935 年には芸名を芸者風の音丸と改め「船頭可愛や」を歌い大ヒットさせる。 晩年まで精力的に活躍し、懐メロブームの折にはテレビにもよく出演した。 古関にとって初めてのヒット曲が、昭和10 1935 年に発表した音丸の「船頭可愛や」である。 古関は日本民謡の旋律を生かして作曲したこの曲を、楽譜が読めない音丸にピアノを弾きながら熱心に指導して大ヒットにつなげた。 この「船頭可愛や」は、専属作曲家としてコロムビアと契約してから5年近くヒットの無かった古関にとって、起死回生の一曲となった。 藤山一郎 ふじやま・いちろう <コロムビアレコード> 明治44 1911 年4月8日~平成5 1993 年8月21日 歌手。 東京・日本橋生まれ。 東京音楽学校声楽本科在学中に関東大震災や金融恐慌が発生。 その煽りで困窮した家業を助けるため、昭和6 1931 年にコロムビアから藤山一郎の名でデビュー。 「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」などのヒットを放つが、学校の規律に反するため活動を一時停止。 卒業後、ビクター、テイチクを経て、再びコロムビア専属となる。 戦後も「青い山脈」「丘は花ざかり」などの大ヒット曲を放つ傍ら、作曲家・指揮者・コーラスの指導者などとしても活躍。 長きに渡り、歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与え、美しい日本語の普及に貢献した功績が認められ、平成4 1992 年5月に国民栄誉賞を受賞した。 古関と同じ昭和6 1931 年にコロムビアへ入社。 「平右衛門 へいねも 」を吹込み、戦時歌謡としては「海の進軍」などを歌った。 戦後、「三日月娘」や「夢淡き東京」、「長崎の鐘」「ニコライの鐘」の鐘シリーズ、「東京の雨」「長崎の雨」「みどりの雨」の雨三部作などを高らかに歌い、古関-藤山は名コンビとなった。 霧島昇 きりしま・のぼる <コロムビアレコード> 大正3 1914 年6月27日~昭和59 1984 年4月24日 歌手。 現在の福島県いわき市生まれ。 農家の三男として生まれ、小学校を卒業後に上京。 藤原義江のレコードを聴いて歌手を志し、東洋音楽学校に進学。 苦学して卒業後の昭和11 1936 年にコロムビアへ入社。 翌12 1937 年にデビューし、翌13 1938 年には松竹映画『愛染かつら』の主題歌「旅の夜風」を後に妻となるミス・コロムビアと共に吹込み大ヒット。 その後も「一杯のコーヒーから」「誰か故郷を想わざる」「蘇州夜曲」などのヒット曲を放つ。 戦後も「リンゴの唄」「胸の振子」「三百六十五夜」などをヒットさせて長く活躍した。 古関と同郷。 コロムビア入社直後より古関作品を多く歌い、特に「露営の歌」「若鷲の歌 予科練の歌 」「雷撃隊出動の歌」などの戦時歌謡にヒットが多い。 丘灯至夫 おか・としお <コロムビアレコード> 大正6 1917 年2月8日~平成21 2009 年11月24日 作詩家。 現在の福島県田村郡小野町生まれ。 西田屋旅館の六男として生まれ、昭和7 1932 年、福島県郡山市立郡山商工学校商業科を卒業。 子供の頃から体が弱かったため仕事が長続きせず、職を転々とするうち読書に没頭。 西條八十主宰の雑誌に作品を載せてもらったり手紙を出したりしているうちに交流を持ち、昭和10 1935 年に西條に弟子入りして作詩の道に進んだ。 昭和16 1941 年にNHKへ入局、翌17 1942 年には毎日新聞に入社して新聞記者となる。 昭和24 1949 年、大映映画『母燈台』の主題歌の作詩をきっかけに、コロムビア専属作詩家となった。 作詩家となった後も毎日新聞に籍を置いて昭和47 1972 年の定年まで勤め上げ、毎日新聞社終身名誉職員、出版局特別嘱託となった。 昭和63 1988 年、勲四等瑞宝章受章。 古関とは昭和11 1936 年、西條八十の弟子になった翌年に出会う。 それから半年後の翌12 1937 年、コロムビアの廉価盤レーベルであるリーガルより発売された「焦れったいわネ」 作曲:東三吉、歌:南玲子 が丘のレコードデビュー作だが、同曲はかねて古関と面会した折、丘が手渡していた三篇の詩稿の中にあったもので、これが後に「白いランプの灯る道」「あこがれの郵便馬車」「高原列車は行く」など、このコンビが多くの名曲を生み出すきっかけとなった。 菊田一夫 きくた・かずお <古関裕而の盟友> 明治41 1908 年3月1日~昭和48 1973 年4月4日 劇作家・作詩家。 神奈川県横浜市生まれ。 5歳で菊田家の養子になるが、転々とし大阪や神戸で小僧をしながら夜学に学んだ。 大正14 1925 年に上京し、印刷工をしながら浅草国際劇場の文芸部に入る。 昭和8 1933 年、古川ロッパらにより旗揚げされた劇団・笑の王国に座付作家として迎えられ劇作の道へ。 昭和11 1936 年より東宝文芸部に籍を置く。 戦後間もなく、古関裕而とコンビを組んで多くのラジオドラマやテレビドラマ・映画・演劇・ミュージカルを手がけて多くのヒット作を生み出した。 昭和30 1955 年に東宝取締役となっても映画や帝国劇場・宝塚歌劇団の舞台の原作・脚本・演出をはじめ小説も執筆するなどして、晩年まで精力的に活躍を続けた。 昭和12 1937 年、古関は放送劇の音楽作曲の依頼を受け、菊田を紹介される。 以後、戦争によって交流は途絶えていたが、昭和20 1945 年10月に古関と菊田に戦後初のラジオドラマ「山から来た男」の制作依頼が舞い込みコンビが復活した。 以後、連続ラジオドラマ「とんがり帽子」「さくらんぼ大将」「君の名は」などを手がけ、大ヒットを連発。 東宝がミュージカルの公演を始めると、古関を伴って演劇やミュージカルへと活躍の場を広げていった。 「フランチェスカの鐘」「イヨマンテの夜」など、古関と組んだ流行歌のヒット曲も多数。
次の竹久夢二さんの「福島夜曲」の詩に深く感動した古関裕而さんが、感興のおもむくままに作曲したものです。 ふくしま小唄 作詞:野村俊夫さん(年代は不明です!) 福島市の北裡(きたうら)商店街の割烹・待合・芸妓でつくる三業組合が依頼して作られました。 歌詞に 福島の名所【吾妻山・競馬・飯坂温泉・弁天山など】や、 名物【さくらんぼ・萱場梨】が盛り込まれていて、当時の宴会の席では欠かせない歌だったそうです。 福島音頭 作詞:野村俊夫さん(昭和29年) ラジオ福島・福島民報社が制定した新民謡です。 昭和41年に、福島市の板倉神社にある阿武隈川畔に歌碑が建立されるのを記念して、古関裕而さんが作曲しました。 わらじ音頭 作詞:茂木宏哉 補作:丘灯至夫(昭和45年) 昭和45年から始まった、福島の夏を彩る風物詩「福島わらじまつり」の「わらじおどり」として作曲されたものです!現在の「福島わらじまつり」は、例年8月初旬に2日間開催され、初日は古関裕而さん作曲の「わらじ音頭」にあわせて踊り、2日目の「ダンシングそーだナイト」は、「わらじ音頭」をヒップホップ調にアレンジしたものになっています。 昭和12年春、古関裕而さんは夫婦で満州旅行へ。 日本に戻ってから目にした新聞に 「進軍の歌」歌詞募集の結果が掲載されていました。 古関裕而さんは東京へ向かう特急の中で、その第2席の歌詞に、満州で見たままの光景が浮かぶなど共感するものがあり、自然と作曲します。 東京に到着しコロムビアの担当者から、その「進軍の歌」第2席の作曲依頼をされ、古関裕而さんは驚きました!この曲は 「露営の歌」として レコード化して、大ヒット! 暁に祈る 作詞:野村俊夫さん(昭和15年) 愛馬思想普及のために 松竹映画 「暁に祈る」の主題歌として作曲依頼のあったものです。 野村俊夫さん・伊藤久男さん(コロムビア三羽がらす)での担当となりました。 現在では、古関裕而さん 生誕 100年を記念し、 JR福島駅の在来線の発車メロディとして平成21年4月11日から流れています。 ラジオ・映画・舞台音楽 とんがり帽子 作詞:菊田一夫さん(昭和22年) 戦災で父母を失った子供たちが巷にあふれ、上野の地下道の凍死者はあとを絶たず、誰も食べるのに精一杯の時代・・・ CIE(連合国総司令部の民間情報教育部)により、 戦災孤児救済のキャンペーンとしてNHKラジオ・ドラマ 「鐘の鳴る丘」がスタートしました。 主題歌として作曲された曲です。 この作品で、古関裕而さんは 「ハモンド・オルガン」と出会います。 2億数千万種の音色が出せ、幽玄な境地さえ表現できるので、このラジオ・ドラマにその機能が十分に発揮されました。 古関裕而さんは自伝で・・・「派手で劇的な効果に男性的な豪快さがあり、男性なら一度は歌ってみたくなる曲。 リズムが 十六分音符と八分音符の二拍子系なのに、メロディには 三連音符が多く現れる 二対三の変則的なリズムをいかに歌いこなすかが問題で、作曲にその面白みをねらってある。 」と述べています。 レコード会社は「こんな難しい歌は売れっこありませんよ」と見捨てて、ポスターを一枚も作成しませんでした!しかし、のど自慢で男性のほとんどがこの曲を歌うなど、 レコードはヒット盤となりました。 さくらんぼ大将 作詞:菊田一夫さん(昭和26年) 「とんがり帽子」に続くNHKラジオ・ドラマ 「さくらんぼ大将」の主題歌です。 前作に続き、脚本を菊田一夫さん、音楽を古関裕而さんが担当しました。 1939年「戦ふ兵隊」(亀井文夫監督)• 1944年「桃太郎 海の神兵」(瀬尾光世演出)• 1952年「安宅家の人々」(久松静児監督)• 1953年「ひめゆりの塔」(今井正監督)• 1953年「太平洋の鷲」(本多猪四郎監督・小田基義応援監督・円谷英二特撮監督)• 1953年-1954年「君の名は」3部作(大庭秀雄監督)• 1955年「赤いカンナの花咲けば」(小田基義監督)• 1957年「永すぎた春」(田中重雄監督)• 1957年「大学の侍たち」(青柳信雄監督)• 1958年「共犯者」(田中重雄監督)• 1959年「鉄腕投手 稲尾物語」(本多猪四郎監督) スポーツ音楽 栄冠は君に輝く 作詞:加賀大介さん(昭和24年) 昭和39年に開催された アジア 初の東京オリンピックで 選手入場の行進曲として使用された曲です。 オリンピック東京大会組織委員会とNHKから作曲依頼があり、古関裕而さんは東京オリンピックにふさわしいマーチがどんどん浮かんできました。 戦後復興を象徴付ける国家イベントであると同時に、国際社会に復帰する意味合いも!東京オリンピックの選手入場行進曲の作曲を依頼されたということは、名誉あることですよね! 六甲おろし 作詞:佐藤惣之助さん(昭和11年) 現在では 「阪神タイガースの歌」が正式名称ですが、一般的には 「六甲おろし」として今もなお、阪神ファンに親しまれています。 作曲した当時は、「大阪タイガースの歌」でしたが、現存するプロ野球球団のなかでも、最も古い球団歌です。 作詞を担当した佐藤惣之助さんは、神奈川県川崎市の出身!生家跡地の現在は、川崎信用金庫本店となっていて、敷地内に 「佐藤惣之助生誕の地碑」が建っています。 阪神タイガースがリーグ優勝した平成15年には同碑の上に同曲の歌碑が設置されました。 闘魂込めて 作詞:椿三平さん(昭和38年) プロ野球の読売巨人軍創立30周年を記念し、球団歌 「巨人軍の歌」として作曲されました。 現在では、 「闘魂込めて」という通称で親しまれています。 巨人軍の球団歌として3代目となります。 3曲のうち2曲が古関裕而さんの作曲で、1代目の球団歌が、昭和14年に作詞:西條八十さん、作曲:古関裕而さん、歌唱:伊藤久男さんにより、 「巨人軍の歌-野球の王者-」として発表されました。 校歌や応援歌• 北海道・・・7校• 東北地方・・・10校• 関東地方・・・72校• 中部地方・・・34校• 近畿地方・・・14校• 中国地方・・・19校• 四国地方・・・2校• 九州沖縄地方・・・19校 と、古関裕而さんはたくさんの学校の校歌を作曲しています! 福島商業高校青春歌 作詩:坂内萬さん(昭和5年) 古関裕而さんの母校、福島県立福島商業高等学校で校歌と共に、現在でも歌われています。 作詩の坂内萬(ばんないよろず)さんは、教師として大正15年から昭和15年まで国語・漢文を担当していました。 若い学生に誇りと夢を持たせたいという願いを込めてこの詩が完成! 紺碧の空 作詞:住治男さん(昭和6年) 古関裕而さんは、福島県本宮市出身の伊藤久男さんと懇意になり、伊藤さんの従兄弟が早稲田大学の応援部に属していたことから、 第六応援歌として作曲依頼を受けたものです。 歌詞は早大全学生から募集しました。 応援歌の作曲はあまり経験がなく、歌詞に合う旋律が浮かばず苦労し・・・その後、歌い継がれる応援歌(現在では第一応援歌)として完成しました! 我ぞ覇者 作詞:杉浦洸(昭和45年) 昭和21年、戦争によって中断されていた 東京六大学野球リーグ戦が再開されました。 慶応大学応援団は、「打倒早稲田」を意識!「紺碧の空」があまりにも良い曲であったので、新しい応援歌に古関裕而さんに依頼します。 古関裕而さんは、早稲田大学の了解を得ることを条件に承諾し、作曲されました。 「早稲田を倒せ」という歌詞がありますが、歌詞に特定の相手方の名前を入れるのは今までに無かったことでした。 ライバル同士の作曲に同じ作曲者を双方が選ぶというのは、 古関メロディがそれだけ応援歌として優れているという事実なのでしょうね。 その他・・・ 別れのワルツ スコットランド民謡(昭和24年) スコットランド民謡 「Auld Lang Syne」(オールド・ラング・サイン。 日本では「蛍の光」として有名。 )が、昭和24年公開のアメリカ映画 「哀愁」で効果的にアレンジされていました。 これがロング・セラーとなり、現在でも デパートやレストランなどの店舗閉店時のBGMとして使われています。 モスラの歌 作詞:由紀こうじ(昭和36年)• 1950年 NHK「今週の明星」テーマ曲(作詞:藤浦洸さん)• 1956年 NHKテレビ「歌の広場」テーマ曲(作詞:丘灯至夫さん)• 1970年 NHK「日曜名作座」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「ひるのいこい」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太さん、歌:三鷹淳さん・真理ヨシコさん)•
次のContents• 豊橋出身の古関金子さんのプロフィール 古関金子(こせききんこ)さん、旧姓 内山金子さんが生まれた時代は明治も終わり頃、1912年のことでした。 おもな年譜は以下になります。 古関金子 生まれ:1912年3月6日(明治45年) 出身:豊橋市 出身校:豊橋高等女学校(現・豊橋東高校) 1930年:古関裕而と結婚し、上京し帝国音楽学校に編入 1940年:ディーナ・ノタルジャコモに師事 1961年:欧州、中近東へ旅行 1980年:7月、乳がんで逝去(68歳) 【電子号外】古関裕而さんNHK朝ドラに 地元福島の要望実る タイトル「エール」 — 福島民報 FKSminpo 1930年、まだ当時18歳にもならない少女が、自分で手紙を書くことから、古関夫婦は結婚することになります(後述)。 なんとも素晴らしい行動力ですネ。 18歳で結婚後は東京で音楽を学び、たくさんの舞台で活躍しますが、金子さんの生涯に一貫していたのは夫の古関裕而さんを支えたことでした。 その辺りは、 NHKの連続テレビ小説「 エール」で描かれることでしょう。 ところで前回の東京オリンピックが開催されたのが1964年でした。 古関夫婦がヨーロッパや中近東を旅したのが1961年ですから、まだまだ海外旅行が珍しい時代だったことも分かります。 いだてんの最終回のあとに麒麟がくるの予告編が流れたが、大河じゃなく朝ドラに繋がるんじゃ? いだてんの最終回もエールの初回も東京オリンピックの開会式。 オリンピックマーチは、まさに金子さんたちの生涯にスポットを当てそうです。 金子さんの生まれた内山家とその家族たち 豊橋市の内山家の家族構成は、両親のもとに7人の子どもたちでした。 父: 内山安蔵 (陸軍第十五師団に物資納入の仕事) 母: 内山みつ (安蔵の死後、家業を引き継ぐ) 長兄:内山勝英 (満州で事業を起こす) 長女、次女 三女:金子(本人) 四女、五女、六女、 昔のことで、七人兄弟というのは普通のことだったでしょう。 しかし、母親のみつさんは、夫の死後、一人で子どもたちを育てていますから、逞しいお母さんだったのではないでしょうか。 金子さんは、そのど真ん中。 史実の詳しいことは分かっていません。 しかし、12歳で父親が亡くなったということで、上に兄と姉二人、下に3人の妹をかかえた金子さんもまた、健気に成長していったのではないでしょうか。 内山家はドラマでは、下にほうに記しますが「関内」家として描かれる予定です。 キャストも後述。 2020年春~放送予定の連続テレビ小説「エール」のモデル作曲家:古関裕而さん(福島市出身)と妻の古関金子さん(豊橋市出身)。 二人のご長男、古関正裕さんの音楽ユニット「喜多三」豊橋特別ライブを開催。 出身地の豊橋市と豊橋東高等学校 舞台となる豊橋市はよく知られる都市名ですが、愛知県にある人口37万ほどの都市。 昔は「 三河国吉田藩」だったこの地が、明治維新前後に「 豊橋藩」となり、現在の 豊橋市となっています。 豊橋は市名ながら、 吉田大橋というまさに巨大な「橋」が昔から架かっていて浮世絵に描かれ、現在ももちろん、豊川に架かっています。 地元の方には今さらの話ですけどもーー。 知らないのはもったいない! 「エール」のまちPRでポスター掲示/豊橋市 豊橋市は、来年春から放送予定のNHK連続テレビ小説(朝ドラ)「エール」に絡めたポスターを作った。 交通の要所に掲示して市をPRするほか、市民向けに朝ドラを周知する狙いだ。 むしろ決定前にもドラマが多々あるそうですネ。 今回の「エール」も、古関裕而さんが福島市出身の作曲家なので、 福島市と豊橋市の商工会議所青年部が二人三脚で進めてきたとのこと。 集めた署名はなんと15万名を超えるそうです。 活動してきた福島商工会議所青年部の西形吉和・福島ガス専務は 「本当に決まったのかと、びっくりした。 泣きながら電話してくるメンバーもいた」と喜びを隠しきれない様子。 そのメンバーは「難しいと思ったけれど、諦めずに続けてきて本当によかった」とむせびながら語ったという。 (2019年3月1日 産経新聞より) この状況が豊橋にも起きていたことでしょう。 豊橋出身の金子さんと、福島出身の夫。 さらに二人が東京で活躍ーーという経緯が、朝ドラ的にもたいへん適しているように見えます。 金子さんの出身校である豊橋高等女学校は現在は豊橋東高等学校となっています。 愛知県立豊橋東高等学校 豊橋高女と呼ばれた豊橋高等女学校は明治35年に設立されました。 現在の校名になったのは戦後1948年のこと。 所在地は愛知県豊橋市向山町西猿22 豊橋東高等学校の出身者には、なんと 香淳皇后も名を連ねています。 映画監督の園子温氏や 漫画家の、ほしの竜一氏も同校の卒業生。 やがて出身者の一覧に古関金子さんも載るような気がします。 金子さんと古関裕而さんの結婚は「付いて行ってそのまま」 金子さんたちの結婚は、金子さんが新聞のある記事を読んだことがきっかけとなります。 記事というのは 「福島の無名の青年が 国際作曲コンクールで入賞」という話。 古関裕而さんが国際作曲コンクールに応募した作品というのは、舞踊組曲の『竹取物語』でした。 学校で自分も、竹取物語のかぐや姫を演じたことがあるから、興味を持った・・・というそこまでは分かりますが、 金子さんの凄いところは、そこで古関裕而さんにそさっそく手紙を書いています。 エールで最初に福島で受けた取材で窪田くんが演じる古関裕而さんの記念館やいろいろな場所を見学した時に古関裕而さんが写っていた写真等を拝見しつつ常に笑顔の素敵な方だったようで大変参考になりますって言ってたような。 今気持ちも古関裕而さんになってるんだろうなあ。 しかも、受け取った古関裕而さんの反応も非常に熱かったわけです。 金子さんの作った詩「きみ恋し」に裕而さんが曲をつけました。 そして金子さんを『私のクララ』と呼んで曲を捧げる・・・等々、 二人のあっという間の燃え上がり方は、まさにドラマで描かれることでしょう。 しかも早々に裕而さんは豊橋を訪ね、金子さんは裕而さんについて行って、福島にーー しかもしかも、そのまま結婚ーー まさにドラマ(笑)です。 楽しみですね。 古関裕而「鐘よ鳴り響け」買った。 戦時歌謡から戦後はちょっと洒落た曲も。 六甲おろしやモスラの歌も彼! とても興味深い人だって思ってたんだよ~ 来年の朝ドラなんだな、、ちょっと楽しみかも。 🎵 — Makotos makotos35 手紙を書くという行為には土台があったようです。 そのころ金子さんは、名古屋で雑誌の編集の手伝いをしており、歌の勉強もしており、 裕而さんに対して単に憧れているだけでなく、自分もしっかり日々成長している者の自負があったのではないでしょうか。 朝ドラ「エール」の内山家を演じるキャストは? 金子さんの生まれた内山家については現在のところ、以下のキャストが分かっています。 内山家はドラマでは「関内」さんになります。 モデルが声楽家なので、その歌声も期待されます。 二階堂ふみさんはすでに著名人ですが、今回はオーディションを勝ち取って、2802人の中からの抜擢でした。 ぁあ…この二階堂ふみ様…GUCCIをものにしすぎていて…素敵すぎます… — MILK whiteAngel0001 ちなみに、こういうドラマなので音楽関係が気になります。 福島時代の古関裕而(窪田正孝さん)の友人として、 山崎育三郎さんの出演も決まっているそう。 楽しみです。 しかも小学校の先生として 森山直太朗さんも出演・・ また豊橋時代の金子さんに関連して、 古川雄大さんも出演するそうです。 商人として 平田満さんも。 朝ドラ「エール」のキャストはこれから続々発表されるでしょう。 窪田正孝さんは、2019年の紅白の初出場もあり、いよいよ期待が高まっています。 以上、豊橋市出身の古関金子さんについて、出身地情報や家族など、ドラマ「エール」で耳目を集めつつある話題でした。
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