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次の特に1968年に「群像」新人賞及び芥川賞の両方を獲得した「三匹の蟹」は、大庭がアメリカ社会に対していかに深い洞察力を持っていたかを如実に物語っている。 大庭がアメリカに渡ったのは、1959年。 大庭は「わたしを相手にしてくれない故郷ならとび出してやれという気分だった」から渡米したといっている。 しかしそれは夫の利雄が日本資本でアラスカのシトカに建設されたアラスカパルプの技術指導者として転勤になったから可能になった選択であった。 私がこの点を強調したいのは、海外転勤になった夫に妻が同行するというのは、女性史の上でも画期的な出来事であったからだ。 それまでは、欧米諸国で暮らすことができた日本人女性は一部の豊かな家系の娘か、政府から送られた留学生に限られていた。 むろん第二次世界大戦が終わった後は、アメリカをはじめとする占領軍の兵士と結婚して夫の国で暮らす戦争花嫁と呼ばれる人々がいた。 だが日本人と結婚した女性たちが、海外転勤になった夫に同行して外国に長期滞在することは稀だった。 ところが日本経済が高度成長期に入ると、企業にも海外で働く社員に妻や子供を同行させるだけの経済的ゆとりがでてきた。 大庭夫妻は、いわばそのはしりであった。 したがって、大庭のアメリカ行きは、江種満子が指摘したように、日本の「資本主義経済の成長期あるいは爛熟期に遇い得たことが可能にした選択肢だった」わけである。 ちなみに村上春樹や吉本バナナの作品が海外で人気を博すようになったのも、日本人の生活にゆとりができ、日常の生活様式や人々の意識が西欧化し、それが彼らが描く作品にも反映していることが大きい。 言い換えれば、日本文学の国際化は、日本経済の発展と密接な関連をもっている。 この点は、大庭の作品を考慮する場合にもやはり視野に入れておかねばならないと思う。 もっとも利雄の転勤先はアメリカ本土ではなく、アラスカにあるシトカという小さな町であった。 だが作家志望の大庭にとって幸運なことに、辺鄙の地ではあっても、シトカは先住民族である「インディアンと、最初の植民者であるロシア人と、ロシアからアメリカ合衆国が購入してから流入した多様なアメリカ人、というふうに多人種・他民族による集合的な文化世界ができあがっている」コスモポリタンな町であった。 大庭が書いた随筆や作品を見れば、彼女はそこで実に多様な住民と親交を結んでいたことがわかる。 彼らの名前が本名かどうかは明らかではないが、ニュージーランド生まれで元看護婦のメアリー、少年の時ロシア革命に出会い、父親につれられてロシアを脱出した画家のアンドレア、同じくロシア人で声楽家のマリア、ポーランドから来たミーチャとヤダーシュカ夫婦などとは、一緒に釣りやブリッジなどをするだけではなく、個人的な問題についても相談しあえる仲であった。 ちなみに柄谷行人は、コーネル大学で近代日本史を教えているシトカ出身の学者の母親が大庭と親友で、その学者は大庭から少年時代に日本語を学んだことがきっかけで、日本に興味をもつようになったと話してくれたと記している。 大庭はまたさまざまな機会を通して、トリンギット族などのインディアンの人々とも交流があった。 大庭はむろんシトカにのみ閉じこもっていたのではなく、家族と共に度々アメリカ本土へも旅行し、見聞を広めている。 そして1962年には、仕事で動けない夫を残して、ウイスコンシン州立大学美術科の大学院生としてマジソンにも住んだ。 さらに1967年には、シアトルにあるワシントン州立大学美術科に在籍し、そこでは主に文学の講義に出ていた。 そのような長期に渡る大学生活を通じて、大庭はアングロサクソン系米国人と親交を結んだだけではなく、さまざまな国から来ていた留学生たちとも親しくなった。 そのような体験が、大庭の国際的感覚に一層みがきをかけることになったようである。 大庭が小説を書きはじめたのは、10代のときからで、利雄とも小説を書きつづけることを条件に結婚している。 しかしW大学大学院で油絵を学んでいる日本人留学生を主人公とした最初の作品「構図のない絵」は、1963年ウイスコンシン州立大在籍中に執筆。 二作目の「虹と浮橋」を完成させたのは1967年、ワシントン州立大に在籍中のことであった。 そしてその年の秋シトカに戻ると、短期間で「三匹の蟹」を書き上げ、「群像」新人賞の応募作として日本に送っている。 その選択は大あたりで、「三匹の蟹」は1968年度の「群像」新人賞を獲得しただけでなく、同年上半期の芥川賞も受賞した。 その直後に「構図のない絵」と「虹と浮橋」も出版された。 それによって大庭は職業作家として華々しいスタートをきったわけで、大庭文学はアメリカ在住の経験なしには生まれなかったといってもよい。 「三匹の蟹」が画期的だった理由はいくつかあるが、その一つは主人公が産婦人科医の夫とアメリカに在住して数年になる専業主婦となっていることである。 そのような主人公の出現は、先に大庭自身についても言及したように、日本経済の発展抜きには考えられないことであった。 その意味で、主人公由梨は、日本が豊かな資本主義社会の仲間入りをしたことを象徴する存在だといっても過言ではない。 むろんそれは産婦人科医をしている由梨の夫の武や、物理学者の横山とその妻などについてもいえることである。 ただし「三匹の蟹」が日本の文壇に一大センセーションを巻き起こしたのは、由梨が「桃色シャツ」を着たゆきずりのアメリカ人と一夜を過ごすという出来事にあった。 そこでまずこの事件はどのような意味をもっていたのか、当時のアメリカの状況なども参照しながら論じていきたい。 「三匹の蟹」がセンセーションを巻き起こした25年前の批評、特に群像新人賞や芥川賞の選評に目を通すと、「桃色シャツ」が「アメリカ人」や「外人」を具現し、日本人の日本人妻由梨がその「アメリカ人」、あるいは「外人」と「姦通」したことに「衝撃」の大半があったように見える。 リービは続いて当時の審査員だった人々の選評をいくつか抜粋して紹介しているが、その中には例えば次の様な評がある。 大庭みな子さんの「三匹の蟹」は、気が利いたショッキングな作品だ。 この人妻はすでに外人と寝たことがあり、浮気するならあとくされのない男をさがせと友達に忠告するような女である。 アメリカ居住の日本人の夫婦者・・・・・ その妻は・・・・・一人家を出て、夜景の遊園地に行って、初めて出合ったヘンなゴロツキの若い男と共に遊園地で時間を過ごして、しまいに若い男の車で海岸に行って、三匹の蟹という赤いネオンの曖昧宿に入る。 確かに選者たちがいうように、由梨はアメリカ人と性的関係があった。 だが厳密にいえば、由梨はアメリカに住んでいるわけだから、彼女の方が「外人」と呼ばれるべきであるが。 実はそれよりも重要なのは、これらの選者、そしてリービ自身も、由梨が夫婦以外の間の性的な関係が大ぴらに認められている社会の中で暮らしていたという点を見逃していることである。 由梨と武が開いたブリッジ・パーティに招待されている男女、すなわち物理学者の横田とその妻、アメリカ文学を教えているフランク、バラノフ神父と妻のサーシャ、それに画家で教師のロンダは、実は非常に入りくんだ関係にある。 武は歌手でもあるサーシャと浮気を楽しんでいるし、由梨もフランクと寝たことがある。 もっとも由梨はフランクではなく、その前に関係のあった男性に今なお心惹かれているが。 重要なのは、由梨も武もお互いの浮気に気がついていて、時折皮肉を言い合ってはいるけれども、離婚しようという気があるわけではないことである。 一方サーシャは無神経で気の良い夫を無視して武とだけではなく、これまでにも多数の男性と性的関係を結んでいるし、由梨の相手のフランクの方は既に離婚していて、目下はやはり離婚して二人の子供を育てているロンダとつきあっている。 ところがロンダはシカゴから仕事できていた技師と親しくなり、技師と週末を過ごすためにシカゴへ行こうと計画している。 由梨はそのように性的に放縦な社会で暮らしていたわけであるが、ここでもう一つ考慮しなければならないのは、当時のアメリカでは「ワイフ・スワッピング」 妻の交換 、または「キー・パーティ」と呼ばれる現象が広がっていたことである。 「ワイフ・スワッピング」については、桐島洋子がさまざまなアメリカ紀行文で紹介しているが、それは文字通り、男たちが他の男の妻と性を楽しむことを意味していた。 「キー・パーティ」の方は、パーティに集まった男性たちが車の鍵を容器に入れると、妻や同行の女性たちが思い思いにその鍵を選び出し、鍵の持ち主とセックスを楽しむという一種のゲームであった。 このようなゲームは、1973年の東海岸の小都市を舞台にしたリック・ムーデイの小説「Ice Storm」 氷嵐 の中にも描かれている。 ただしムーデイの小説が出版されたのは1994年で、1970年代には10代だった主人公が当時の両親たちの生活を回顧する形式になっている。 そしてこの小説は台湾出身の監督アン・リーによって1997年に映画化され、映画の出来がよかったこともあって、「キー・パーティ」も、1970年代初めの虚無的なムードを反映した現象の一つとして改めて注目を浴びることになった。 ちなみに大庭が「三匹の蟹」を書いた1967年には、マイク・ニコルズ監督の「Graduate」 卒業生 という映画も発表されている。 この映画は日本でも話題を呼んだようだが、ダステイン・ホフマンが演ずる大学を卒業して間もないベンジャミンという主人公の青年が、母親の知り合いである中年女性、ロビンソン夫人に誘惑される話である。 ベンジャミンはそのうちロビンソン夫妻の娘エレーンを愛するようになり、夫人から離れていくわけだが、夫人がそれまでにも数多くの情事を楽しんできたことや、ベンジャミンが去っても、また後釜をみつけるであろうことがわかるように描かれている。 大庭はそのようなアメリカ社会の性的風俗を、「三匹の蟹」で作品化しているわけだが、しかしアメリカも、常にそのように性的に奔放な社会だったのではない。 少なくとも女性に関する限りはそうであった。 それが変化した一つの要因は、1961年に経口避妊薬 ピル が市販されるようになったことである。 それまで女性は、既婚や未婚の有無にかかわらず、妊娠への恐れからセックスには男性のようには積極的ではなかった。 また既婚女性が夫以外の男性の子供を身ごもれば、社会から排斥されることも覚悟しなければならなかった。 文学作品を見ても、例えば、名作といわれるナサニエル・ホーソンの「緋文字」は、年老いた夫が何年も不在の間に自分と同じ年令の独身の牧師と恋におちたヘスターが、妊娠したために姦通罪に問われて投獄され、釈放された後も姦通の罪を示す緋文字を常に胸につけて暮らさねばならないという話が描かれている。 それは過去のことを描いたフィクションであった。 けれども、アメリカ社会でも姦通を犯し、妊娠した女性は社会的制裁を覚悟しなければならなかった。 むろん未婚の母も排斥された。 そのように女性の性的自由が束縛されていたのは、家父長制を守るためであったが、日本でも戦前までは既婚女性が夫以外の男性と性的関係をもつことは犯罪であった。 姦通を描いた小説も発禁になったりした。 しかし1947年に姦通罪はなくなり、それとともに、大岡昇平の「武蔵野夫人」 1950 などのように、既婚女性の婚外恋愛を描いた小説が登場するようになる。 それでも姦通という言葉には反社会的なイメージがつきまとっていたが、そのようなイメージを変えるのに一役買ったのは、三島由紀夫の小説「美徳のよろめき」 1957 であった。 この小説では年上で金持ちの男と結婚した主人公が昔の恋人に再会し逢瀬を重ね、妊娠すると三度も中絶する話だが、三島はそれを「美徳のよろめき」という洒落た表現に変えたわけである。 それが大当たりし、「美徳のよろめき」という言葉はたちまち流行語になり、妻が夫以外の男性と性的関係を持つことが罪だという考えは薄れていく。 最近ではそのような関係は不倫と呼ばれているが、その言葉の持つ道徳性を抹消するために、「フリン」とカタカナ書きされることすらある。 また日本の場合、女性が性的に自由に行動するようになった背景には、姦通罪がなくなるのと前後して、妊娠中絶も簡単にできるようになったことがあった。 そのような状況を反映して、小説でも女性が中絶する話がでてくるようになり、三島の「美徳のよろめき」では、主人公は妊娠すると三度も中絶する。 しかも悩むことなく簡単に中絶する。 その意味で、この小説は「中絶天国」と呼ばれる日本の状況をよくとらえているといえよう。 おそらく日本ではこのように妊娠中絶が簡単にできたため、政府が経口避妊薬ピルの市販を許可しなくても、女性は性的に自由に行動できたのであろう。 しかしキリスト教の影響が強い国では、1960年代のはじめには法的に中絶を禁止しているところが多く、アメリカでもそうであった。 また欧米諸国では、女性たち自身も、やはりキリスト教の影響で、中絶に罪悪感を抱くことが多かった。 したがって経口避妊薬ピルが簡単に手に入るようになったことは、女性たちにとっては画期的な出来事だった。 むろん避妊の方法としてはコンドームもあった。 けれどもコンドームは、男性の協力なしには出来ない避妊法である。 ところがピルは、女性が自分の意志のみで避妊することができるようにした。 つまりピルの出現は、女性が男性から性的に自立することを可能にしたのである。 ただしその反面、ピルの出現によって、女性たちは、男性たちから〈妊娠の心配がないのだから、自分たちの性的欲求に従ってもいいじゃないか〉という圧力をかけられるようにもなった。 そのようなピルのもたらした否定的な面も、むろん認めねばならない。 しかしピルの出現によって、妊娠の恐怖から解放された女性たちが性に対して積極的になったことは確かであった。 そのようなピルの効能と共にもう一つ留意しなければならないのは、女性たちがミニスカート文化の広がりなどによって、自分たちを縛りつけていた旧来のモラルからも自由になっていったことである。 誰がミニスカートの発案者かについては議論がわかれていて、一説では、1965年冬におこなわれた春と夏のファッション・ショーで、パリのオートクチュールのデザイナー、クレージュが、膝上10cmのミニスカートと白いブーツのモデルを登場させたのが発端だったといわれている。 そしてクレージュの「ショーが終わったときには、観客の心も、それを身につける女性たちの心まで解放していた」という。 一方ロンドンでも、新進のデザイナー、マリー・クワントがそれよりも短いミニスカートを発表して有名になっていた。 クワントは自分が着たいと思う服を作ったと述べているが、クワントの服はたちまち若い女性の心をつかみ、世界中で大人気となった。 それでクワントの方が「ミニ」の元祖または「ミニの女王」として知られるようになり、1968年には英国に巨額の外貨をもたらした功績を認められ、エリザベス女王から「英帝国勲章」を授けられている。 ミニスカートは、むろんアメリカでも大流行したが、大統領夫人のジャックリーン・ケネディーが公式の場でミニをはいたことが、ミニの流行に一役買ったといわれている。 周知のように日本でも、ミニスカートは大はやりだった。 「ミニスカートが中高年女性も巻き込んで日本で爆発的に流行するのは翌68年からだが、67年にすでに街の風俗として定着していた」という。 ミニの流行に拍車をかけたのは、1967年の10月、クワントが18歳のモデル、ツイギーを伴ってやってきて、国技館でファッション・ショーを開いたことであった。 その時、8500人もの観客が国技館につめかけ、その中には一目ツイギーを見ようとやってきた男性も多数いたという。 クワントのミニスカートが革命的だったのは、一つには、ファッションを誰にでも手に入れる値段で提供したことであった。 それまでは、ファッションを楽しめたのは、金持ちの女性たち、特に裕福な中年女性に限られていた。 そのためにそれを着ると、若い女性でも「少なくとも35歳には見えた」。 ところが若いクワントは、若い女性に似合う服を、彼女たちが自分のサラリーや小遣いで買える値段の服を売り出したのである。 それは中年の女性たちにも受け、クワントの店では、安い給料で働いている若い女性たちと金持ちの中年女性が一緒に買い物をする風景が見られるようになった。 つまりファッションによる民主化である。 事実クワントはインタビューで、「ファッションの本質は民主主義。 大事なことは、つくる側が、一方的に命令する独裁を拒否することと既成概念から自由になることです」と語っている。 女性はまたミニスカートの誕生によって、従来のきっちりとセットされた堅苦しい髪型や、体をギュウギュウ締め上げてウエストを細く見せるコルセットなどからも自由になった。 パンティストッキングができると、動きにくいガードルからも解放された。 これもミニが女性たちに受けた理由の一つであった。 それまでは、ファッションは中年の裕福な女性たちのためにデザインされていたから、高価なだけではなく、軽快に動きまわれない服が多くしかもそれを着ると、若い女性でも中年のようにふけて見えたわけである。 ところがミニは、女性たちを若々しく見せただけではなく、活動的にした。 ミニと共にローヒールの靴やブーツが流行するようになったことも、女性たちの行動を活発にするのに一役買ったといわれている。 ちなみにミニスカートが流行すると、男性たちの間でもファッション革命が起きている。 ビートルズの影響で長髪が増えてきただけではなく、彼らはさまざまな色やスタイルの服を着るようになり、由梨の情事の相手の「桃色シャツ」のように、ピンクのシャツを着る男性も増えた。 そのため「ピーコック革命」という言葉が流行ったりしたが、そのような男性のファッションの女性化から、ジーンズやTシャツなどのユニセックスなファッションが生まれてくるのである。 重要なのは、そのようにファッションが変わると、女性たちの意識も変わったことである。 つまり旧来の堅苦しい服を脱ぎ捨てると、女性たちは自分たちを縛りつけていた過去の習慣も脱ぎ捨てて、自由な生き方をするようになったのである。 それに対しては非難の声もあったが、クワントは、自分の服が女性の意識を変えたのではなく、新しい生き方を探していた女性たちがミニの流行を生み出したのだと反論した。 ちなみに、私もその当時ロンドンで美術やデザイン関係の仕事をしていたという英国人の伝記作家に会ってその頃のことについて聞く機会があったが、彼も自分の周りの女性たちが新しい生き方を模索している時に、ミニがでてきたのだと語っていた。 つまりミニは、「新しい生き方を模索していた女性たちの心をつかみ、彼女たちをいきいきさせ、女であることに誇りと自信を持たせた」わけで、そこにはファッションと人間の心理との間に密接な関係があることがうかがわれる。 むろんその頃には、経口避妊薬ピルも簡単に手に入るようになっていた。 それらのことがあいまって、女性たちも男性と同じく性の自由を楽しむようになっていく。 その後、ベトナム戦争に反対し、平和と自由と愛の自然をもとめたヒッピーやフラワー・チャイルドといわれる若者たちの出現によって、フリーセックスは、若者文化の一部として定着していった。 1969年にジョン・レノンとヨーコ・オノがアムステルダムやモントリオールで戦争よりも愛をというメッセージを伝えるために公共の場で「ベッド・イン」するのも、そのような若者文化を象徴する出来事の一つであった。 もっとも二人はただ一緒にベッドに入っていただけだが。 そうした若者文化の影響で、既婚者の性のモラルも急速に変わり、離婚も増えていった。 そしてアメリカでは「ワイフ・スワッピング」や「キー・パーティ」のような退廃的なゲームを楽しむ人々もでてきたわけである。 「三匹の蟹」の登場人物たちはそこまで退廃的ではないが、大庭が彼らを当時のアメリカ社会の縮図として描いていることは明らかである。 とはいえ、大庭はそのような性の自由をささえていた経口避妊薬ピルについては直接は何も言及していないが、作中の女性たちが簡単に不倫をしたり恋人を取り替えたりするのも、ピルを飲んでるからこそだという風に読める。 また由梨が妊娠したかもしれないといっても武が信じないのも、やはり彼女がピルを飲んでいるのを知っているからであろう。 むろん彼らの避妊の手段がコンドームだと読めないこともない。 だが由梨がフランクや、見ず知らずの「桃色シャツ」とも簡単にセックスを楽しむのは、やはりピルを飲んでいるからだという風に読める。 逆にいえば、「桃色シャツ」が簡単に由梨を誘うのも、他の女性たち同様、由梨もピルを飲んでいると考えたからだと解することができる。 もっとも由梨は、「桃色シャツ」に「どうして、ミニ・スカートをはかないの?」と聞かれると、「だって、きれいな脚じゃないもの」というので、ファッションの上では、当時の流行に迎合しているわけではない。 けれども彼女もミニスカート文化と経口避妊薬ピルがもたらした性の自由は、たっぷりと楽しんでいるといえる。 このように60年代後半に顕著になってきたアメリカ社会の性に対するモラルの変化を考えれば、由梨が「桃色シャツ」と一夜を共にするのは決して突出した行為だとはいえないことがわかるであろう。 その一つは、後に日本で「台所症候群」と呼ばれるようになる主婦たちの神経症についてである。 由梨は専業主婦で、子供は10歳の梨恵一人。 自分の車を持ち、週末には自宅に友人たちを迎え、ブリッジ・パーティを開いたりする優雅な生活をしている。 自宅で二組のテーブルを置いてブリッジをするくらいだから、居間も広いだろうし、台所もケーキを焼いたりできるモダンなものであろう。 そのような由梨の生活は、当時の日本の主婦たちからすれば羨ましいほど恵まれた生活に見えたに違いないが、しかし由梨はそのような生活にうんざりしきっていた。 由梨はお菓子の粉を混ぜ合わせながら、胃の奥の方で微かな痛みを感じた。 彼女は機械的に卵を割りほぐし、バターをこね合わせ、ベーキング・パウダーや塩をふり入れながらまるで悪阻の時みたいに生唾が咽喉元まで上ってくるのを感じた。 由梨が吐き気をもよおすほど嫌悪しているのは、実は自分の生活そのものである。 これは彼女が夫や娘と交わす会話によってしだいにわかってくる。 ブリッジ・パーティを開こうというのも、実は夫の提案だった。 由梨自身はお客のためにケーキを焼いたり、ブリッジ・パーティをやることに飽き飽きしていた。 そして客が集まってきて会話が始まると、なぜ由梨がそのようなパーティに嫌悪感をおぼえているのかわかってくる。 彼らは皆、何とかして相手よりも気の利いたことを言おうとやっきになっていて、辛辣なことばかりしかいわないし、相手をほめる場合にも、お世辞であることが明らかな見え透いたほめ方しかせず、本音で話す者は誰もいなかった。 実はこの会話だけで構成されているパーティの場面は、「三匹の蟹」の中でも特に秀逸な箇所だいう定評がある。 「群像」新人賞の選考委員の一人江藤淳は、E・オールビーの「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」と類似しているけれども、それは作者の体験にもとづいて描かれたものであるとも指摘している。 またもう一人の選考委員の大江健三郎も「それぞれの「他者性」を明瞭にきわだたせた」優れて「演劇的」な会話だと評価している。 確かにその通りである。 しかし私は、大庭がこの場面を舞台劇のように構成したのは、それぞれの人物がインテリーにふさわしい役を演じようと躍起になっており、彼らの間では心の通った真のコミュニケーションが失われていることを、構成の上でも示すためだったと考える。 むろん由梨自身も決して本心を見せず、客に負けないほど辛辣な発言をする。 しかもサーシャと親密な関係にあることを大ぴらに見せつけていた「武の視線にぶつかると」、急に横田によりそうようにして、「横田さん、あなたって、ほんとに詩人。 フランクはね、フォークナーの研究家ですけど、あれ程詩人じゃないひともないわよ」と、芝居気たっぷりな見え透いたお世辞をいって、横田の気をひこうとする。 ただし由梨が彼らと違うのは、「自分の無意味な言葉と一緒に、生あくびが泡みたいに胃の奥から上ってくるのを感じた」というように、つい無意味なことをいってしまう自分に嫌悪感を抱いていていることである。 だからこそ由梨が口実をもうけて、パーティを抜け出そうとすることにも同情できるのである。 由梨が、サンフランシスコにいる姉が飛行機の乗り換えで、この町に来るけれども短時間しかいられないので、飛行場まで会いに行かねばならないといい、その口実が信憑性を持っているのは、前にも指摘したように、日本経済の高度成長によって海外在住の日本人が増えたということが背景にある。 そして車を走らせて遊園地にでかけた由梨は、そこで「桃色シャツ」の男と一夜の恋のアバンチュールを楽しむわけである。 このように自分の生活を吐き気をもよおすほど嫌悪し、性的冒険をおいかける由梨のあり方は、実は1963年にアメリカで出版されたベティ・フリーダンの「The Feminine Mystique」 直訳は「女らしさの神話」だが、日本語訳の題は「新しい女性の創造」 に報告されている専業主婦たちの悩みや行動と非常によく似ている。 フリーダンは自分の卒業したスミス大学の同期生にアンケート調査したことをきっかけに、経済的には恵まれた生活をしているアメリカの専業主婦たちが、夫や子供の世話だけに明け暮れる生活に満足感をえることができず苦しんでいる実体を明らかにした。 中には「生きているような気がしないのです」とか、「疲れきった感じで・・・自分ではっとするくらい子供たちに腹がたつのです・・・わけもないのに泣きたくなるのです」と訴える女性もいた。 また結婚するために19歳で大学を中退した4人の子持ちの主婦は、「私は子供も夫も自分たちの家も愛している」「しかし私は絶望し切っている」「私って一体誰なのか」と訴えてきた。 しかも「大勢の女性が、手足に、出血するおおきな水ぶくれができた」経験を持っていたが、それは神経的なものからくる疾患だった。 フリーダンの調査でもう一つわかったのは、このような悩みをもつ主婦たちの多くが、セックスをしている時だけが、自分が生きていると感じられる瞬間だと返答したことであった。 このように「郊外住宅の主婦が、近所の男性や知らない男性に、すすんで身をまかすようになり、夫を自分の家の家具のように考えるようになったのは、彼女たちが自己と生きがいを見出す必要にせまられているからだろう」と、フリーダンはいう。 ちなみに裕福な中流階級の家族に焦点をあてた前述のムーデイの小説でも、専業主婦の一人は近所に住む男との不倫にふけり、性にあまり関心のないその男の妻は、心の空虚さを、万引きをやってそのスリルを味わうことで埋めている。 男性であるムーデイは、フリーダンとちがって、専業主婦たちの苦悩自体には全く同情を示していないが。 興味深いのは、日本でも満たされない思いで暮らしている主婦たちの中には、売春行為に走るものもいたという。 例えば、1970年の「朝日ジャーナル」に掲載された「身もだえする幻想」という記事にはこうある。 そしてこの記事に書き手である男性は、無聊に苦しんでいる新婚の若い女性から受け取った近況報告の手紙を紹介しているが、その手紙には次のように書かれていた。 結婚して半年たちますが、あまりに暇で頭がヘンになりそうです。 せめて子供ができるまででも働きたいと思いますが、気の優しい主人なのに、パートタイムでも「絶対いかん」と認めてくれません。 仕方なく家の隅々まで念入りにお掃除をし、なるべき遠くへ毎日のお買い物をしに出かけるようにしています・・・これでいいのかと、毎日毎日自分に同じことを問いかけては日を送っています。 この記事の筆者は、「彼女に不幸の意識はない。 むしろ逆で、いいひとと結ばれて大変幸せだと思っている。 あるいはそう思い込まされている」が、「夫婦の愛なる幻想が崩れ、日常のルーティンが彼女を支えなくなったときはどうなるか」と、疑問を投げかけ、「主婦売春は、もてあましている暇を埋め、ポケットマネーを稼ぐことができ」「かなり多くの主婦が売春行為に走るチャンスをポテンシャルとしてもっているのではあるまいか」と問いかけている。 このような記事を見れば、日本でも「主婦幻想」にからみ取られ、夫や子供たちの世話や家の管理以外に生きる場をもたないために苦しんでいる女性たちが多く、中には売春行為に走る主婦もいたことがわかる。 フリーダンは、そのような女性たちの不満や悩みは、「夫や子供を通して自己を確認することは出来ないし、毎日の家事からも自分を見出せはしない」ことを明らかにしていると指摘。 そして女性たちが満たされない思いに苦しむようになったのは、第二次世界大戦後戦場から帰った男性たちに職場を提供するために、政府や学者やマスコミが「婦人は家庭に帰れ」と奨励し、女性の幸せは家庭にあるという神話をつくりあげたことと深い関連があるという。 そしてフリーダンは、女性たちが自分の生活を意義あるものにするためには、何よりもまずつくられた女らしさの幻想を碎き、自らの人間としての能力をのばしていかねばならないと指摘した。 フリーダンの本の「女らしさの神話」という原題はそこから来ているのだが、この本はたちまち女性たちの心をつかみ、大ベストセラーになった。 そしてそれは米国における女性解放運動の生まれる契機をつくり、フリーダンは1966年に成立した全米女性連盟の初代会長に推された。 その時連盟の初代委員長に選ばれたのは、大庭が学んだウイスコンシン大学継続教育部部長のキャサリン・クラレンバックであった。 ジョンソン大統領はそのような女性たちの影響を受けてその年、つまり1966年に、「アメリカの女性の能力を十分に活用しなかったことは、わが国にとって、最も悲しい、かつおろかな無駄である」、だから「女性が専門職につける機会を多くする方法を、大統領に助言するためのスタディー・グループを構成するよう命じ」、ハンフリー副大統領も、女性は「基本的人権を認められていない多数」だ、「アメリカが過去において、女性の能力、才能を無視してきたことは恥ずべきことだ」と述べている。 大庭が「三匹の蟹」を書いたのは、アメリカにそのような新しい動きが出て来た時であった。 そこで大庭は、フリーダンの本を読んだり、全米各地に支部を持つようになっていたフリーダンが会長をつとめていた全米女性連盟のことを知っていたのではないか。 全米女性連盟の初代委員長は大庭がかつて学んだウイスコンシン大学の人でもあるし。 そう思って、大庭の著書を調べてみた。 すると全米女性連盟については何も記されていないが、「黄杉 水杉」 1989 の中で、大庭はこう述べている。 「ベティ・フリーダンの女性論を読め読めとしつこくわたしにすすめたのはオリガだった。 ボーヴォワールに一足遅れて、世界の女たちをひきつけた人だった」「その頃--わたしもオリガも20代の頃、わたしたちはよく男の話をして長い白夜を過したものだ」「20代で2人の子供を連れて夫と別れたオリガは、当時としては勇気のあるフェミニズムの先駆者といったタイプの女だった。 というより、そういう体験、妻と幼い子供を紙屑のように丸めて放り出し、酒浸りになる男と結婚した運命がフェミニストにしたのであろう」と。 「黄杉 水杉」は自伝ではなく、小説である。 だから「わたし」をそのまま大庭だとみなすわけにはいかないが、そこに登場する人物たちは、大庭が2002年にシトカを訪問した時の紀行文にも出てくる。 したがって「わたし」という登場人物には、大庭自身の体験が投影されていると見てもいいであろう。 いずれにしろ大庭がフリーダンの本を読んでいたことは確かである。 だから「三匹の蟹」でも、主人公の由梨が、フリーダンのいう「得体の知れない悩み」に苦しんでいるという設定をとったのであろう。 なおそのような症状は後に「suburban neurocis」 郊外神経症、しかし日本では「台所症候群」 と名付けられるようになるわけだが、由梨が憂さ晴らしに、性のアバンチュールを楽しむのも、フリーダンの本の内容とよく似ている。 ただし「三匹の蟹」は、フリーダンが会長をしていた女性運動についてはふれられていず、かわりに女性たちがまだ連帯せず、孤立したままでいる状況をとらえた小説である。 それが最も顕著なのは、ロンダが「ユリ、淋しいのよ。 そうでしょう。 淋しいのよ。 困ったことねえ」と訴えても、由梨は耳をかさず、「どうにもならないわねえ。 どうしようもないわねえ。 じゃあ、又。 ロンダ、--愉しんでいらっしゃい」と振り切って出ていく場面である。 つまりロンダの方は自分たちの置かれている現状への不満を由梨と語り合い、淋しさを分かちあいたいと思っており、女同士の連帯を求めているが、由梨はまだ同性と連帯したいという気持ちは持っていないわけである。 それは由梨がまだ男性とのロマンテイックな対幻想にとらわれているからだが、しかしそのような対幻想が破られれば、由梨もロンダと淋しさを分かちあい、連帯する可能性をもっているということでもある。 事実小説の展開を見れば、由梨のロマンティックな対幻想は、ロンダと別れた後出かけた遊園地で出会った「桃色シャツ」の男に置き去りにされたことで破られるという風に話が進んでいく。 それは女性が自己を変革し、独自の人格を形成していくには、何よりもまず王子様と王女様が結婚して目出たし、目出たしで終わるおとぎ話がつくり出す結婚幻想から自由にならなければならないと示唆していることである。 それは由梨がケーキを焼きながら次のように武と娘にいうことによって明らかにされている。 「子供の前では、甘い優しい創り話。 きれいなお姫さまと凛々しい王子さまが恋をして、ガラスのお城に棲んで、夢の綿菓子を食べて、タララララ」 このようなおとぎ話に対する由梨の皮肉な態度は、武との結婚生活が、子供の時に聞かされた王子さまと王女さまが恋をして結婚して目出たし、目出たしで終わるおとぎ話の結末とはかけ離れていることへの不満からきている。 これは武との刺々しい会話に表明されているが、由梨がおとぎ話にこだわっていることは、梨恵を相手に次のようにいうことでもわかる。 「松浦嬢には性的魅力があるとか、サーシャはバラノフ神父の奥さまで、パパの女友達だとか、ママはそういうお客を呪いながら、お菓子をつくっているとか。 あーあー、お菓子の中から、ぱっと黒い鴉が十羽もとび出したら、ふっふ。 タララララ」 由梨はそのお菓子で「サーシャと松浦嬢を豚のように肥らせ」るのが望みだというのだが、「呪い」をかけるというのは、おとぎ話には欠かせないモチーフの一つである。 またお菓子から鴉がとび出すというのも、英語圏の子供むけの物語からきている。 そのような由梨のおとぎ話にたいするこだわりは、彼女がいまだにおとぎ話、特に王子さまと王女さまが恋をして結婚し目出たし、目出たしで終わる話の影響を受けていることを示すものである。 だから武に愛想をつかした由梨は、新しい王子さまを求めて遊園地に出かけていくのである。 元来遊園地は子供の遊び場であったが、ここでは由梨が子供の時よく聞かされたおとぎ話の世界に戻り、新しい王子に出会いたいという願望を実現させる場である。 これは9時をすぎた夏の遊園地は、「手をつないだ恋人達がネオンのついた乗物を幸福そうな眼つきで眺めてい」る世界であり、モーター・ボートの中にも「ハンドルに、倖せそうにもたれかかって水のしぶきを放心したような眼で眺めている恋人達」がいたりと、どこを見ても恋人達ばかりであることによって示されている。 しかも遊園地の中にあるオペラ・ハウスで上演されているのも、「マゴット・フォンテンの白鳥の湖」であった。 いうまでもなかろうが、「白鳥の湖」もおとぎ話によく似ていて、魔法で白鳥に姿を変えられた美しい王女が、勇敢な王子の愛によって魔法をとかれ、王子と無事結ばれて目出たし、目出たしで終わる話である。 それゆえ、これも自分を救ってくれる王子にめぐり会いたいという由梨の願望を示している。 そして由梨は、遊園地の中にある「アラスカ・インデアンの民芸品の展覧会場」の管理人をしている「桃色シャツ」の男と出会うわけである。 このロマンティックな色のシャツを着た男が王子の役を与えられていることは、おとぎ話の王子のように名前を与えられていないことを見ればわかる。 男が背が高く、若白髪はあるけれども黒い髪で、「眼は緑色に近い碧眼」だという設定も、ロマンティックな恋物語の「トール・ダーク・ストレンジャー」 背が高く、髪が黒く、異邦人 というヒーローの典型像をふまえて造型されていることが明らかである。 これは由梨が純粋の日本人である武やアングロサクソン系のフランクにうんざりしていることを見ればわかる。 武はエゴイストで毒舌家であり、機会さえあれば由梨をこきおろす。 ブリッジをやるというのも武の発案であり、「悪いけど、わたし、とっても胃が痛くて駄目だから、誰か、もうひとり招んでよ」と由梨が懇願しても、武は心配する気配は見せなかった。 それで由梨が口実を設けてパーティを抜け出そうとすると、「君は大体傲慢だ。 君が他人に我慢すると思うのは自分が秀れている、と思うからだ」ときめつけ、由梨が「わたし、ほんとうに駄目なのよ。 癌か、若しかしたら、子供ができたのかも知れないわ」といっても、冗談としか受け取らない。 しかもフランクが来ると、「ユリは最近、しきりに胃が変だというんでね、妊娠したのではないかと思っている」と他人事のようにいってのける。 またフランクに対しても、相手の痛い所を容赦なく攻撃し、「ロンダは先週、シカゴから来た道路設計の技師と夕食をしてたぜ。 自分の家に招んだんだ。 残念ながら彼氏が何時にロンダのアパートから帰ったか、見た奴は無い」などという。 それは由梨がフランクと寝たことがあるのが気に喰わないからだが、自分はサーシャと仲のいいところをみせつけたあげく、こういった。 「サーシャ、済みませんが、由梨にカルメンがホセをののしるところの、タラララ、という節の正確なところを教えてやって下さいませんか。 一方フランクも、由梨にこそ手厳しいことはいわないけれども、ロンダに向かっては、自分は絵の専門家でもないくせに、皆の前で彼女の絵をこき下ろした。 「ロンダ、近頃流行の、ポップ・アートなんて真似はやめなさい。 君は大学で講座が持てる身分なんだから、もっと真面目な仕事をしなくちゃ駄目だ」 「まあ、フランク、あなたにもっと真面目になれって言われるなんて。 わたし、落ちるところまで落ちちゃったと思うしかないわね」 「君は仲々の自信家だけど、自信家すぎて、強情なところがあるよ」 中略 「わたしがひっそりと優しい絵をかけば、「少女小説の口絵だ」みたいなことを言うしねえ」 ロンダは嘆息した。 つまりフランクも女性に対し思い遣りがなく尊大なことでは、武と五十歩百歩なのである。 ところが半分アジア人で半分白人の血が混じった「桃色シャツ」の男は、とにかく親切でやさしかった。 由梨が展示会場でころびそうになると、さっと駆け寄って抱きとめてくれるし、由梨のハイヒールの踵の皮がさけて垂下がっているのを見ると、持っていたナイフでそれを手際よく取り除いてくれ、会場に置き忘れたハンドバッグもみつけて持ってきてくれた。 そのようなやさしさを示す男に、武やフランクの思い遣りのなさに傷ついている由梨が惹かれていくのは当然だったといえる。 なおリービは、「桃色シャツ」の男に「由梨が徐々に引かれてゆく 原文ママ のは、ただの「国際的」な姦通ではなく、むしろ最も「近代的な「会話」の場を逃げた一人の近代人の、自らの前近代的感性そのものとの「姦通」ではなかろうか」といった。 これは由梨が彼のエスキモーという部分に自分との血のつながりを感じているとあることからすれば卓見であろう。 それは展示場で鴉の帽子をみた由梨が次のように考える場面を見ればわかる。 この鴉の帽子は 中略 写実的な鴉とは似ても似つかぬもので、殊に眼などは抽象化されたにしても人間の、それもかっと見開いた男の眼であったが、全体として見ると、奇妙な、人間と鴉の混同した生命のある面なのである。 未開の人種達の間では自然界の木とか草とか、山とか谷とか、動物に人間の同化した生活感情ともいうべきものがあり、お互の間の意志の疎通は信仰に近い形で信じられているようだ。 リービは、この「人間と動物の「お互の間の意志の疎通は信仰に近い形で信じられていた」というアニミズムの領域は、すべてが認識の玩具としてもてあそばれるブリッジ・パーティの世界からよほど遠い」といっている。 それは確かに卓見である。 しかし私は、この理想的なアニミズムの領域は、由梨にとってはおとぎ話の世界に踏みいることでもあったことに、注意を喚起したい。 そこで「由梨は、人間の祈りや、呪いの、ぶつぶつという低い呟き」を聞くとあるのも、おとぎ話の王女のように由梨が魔法の呪文をかけられたことを意味している。 そして呪文をかけられた直後に、流行のロマンティックな色のシャツを着た背の高いハンサムな男に声をかけられるが、このような筋書きも、おとぎ話を踏まえたものである。 このように見ていけば「桃色シャツ」は、由梨が求めているところの近代人でありつつかつまた自然界との結びつきを持った理想の王子様であることが明らかになる。 もちろん彼らの関係も、勇敢な王子と可憐な王女の物語のように進展していく。 まず「桃色シャツ」は、すでに指摘したように、由梨が展示場を出ようとして「ぐらりとして危く尻餅をつきそうにな」ると、さっと「走りよってきて、由梨を抱きとめたので、由梨は派手にころばなくて済んだ」し、由梨のヒールの皮が破れて危険なのを見ると、「ポケットからナイフをとり出し」、皮を切ってくれた。 物語の王子は王女が危険な立場にあると剣をふるって助けるが、近代の王子の「桃色シャツ」は、剣の代わりにナイフを使って助けるわけである。 靴がとりもつ縁というのも、シンデレラの物語の亜流ないしはパロディ化と読める。 そして由梨が展示場にハンドバッグを忘れたまま出てしまうと、「桃色シャツ」はそれを持ってきてくれただけでなく、またしても転びそうになった由梨をやはり抱きとめてころばないようにしてくれた。 その後「桃色シャツ」はジェット・コースターに乗ろうと誘うのだが、注目すべきは、自宅では終始雄弁でかつシニカルな態度しか見せなかった由梨の変化である。 「わたし、怖いわ。 若しかしたら、我慢できないかも知れないわ」と弱音をはき、「乗ったことある?」と聞かれると、「ううん」と少女のように「かぶりを振った」ので、「桃色シャツ」は「大丈夫さ。 僕につかまっていれば」というわけである。 これは由梨が、勇敢な王子に守られる可憐な王女に変身してしまったことを示している。 なおその時由梨は、昔武とデイトしている時に、後楽園のジェット・コースターに乗りに行くけど、結局は乗れなかった挿話を思い出すが、これは武との結婚生活がうまくいかないのは、間違った王子を選んでしまったからではないか、と由梨が考えていることを明らかにしている。 そして「桃色シャツ」は、口だけは達者だが頼もしさややさしさに欠ける武とは違い、ジェット・コースターがスピードをあげ、由梨が怖がると、「由梨の腰に手をまわして、しっかりと抱きしめるように指先に力をこめ」たので、由梨も安心して「男の肩に重心をかけていた」。 そしてジェット・コースターがとまると、「桃色のシャツの上に顔を伏せていた」由梨を、「抱きかかえるようにして立ち上らせ、更に抱きよせるように由梨の顔を覗き込」み、「大丈夫?」とやさしく声をかける。 由梨の方は、やはり何を聞かれても、「こっくりと頷い」たり、「かぶりをふった」りするだけで、全く可憐な王女様になりきっている。 そしておとぎ話では、王子と王女が舞踏会でダンスをするのも特徴の一つだが、案の定、「桃色シャツ」も由梨をダンスに誘った。 由梨がどうするか決心しかねていると、突然「ドビュッシイか何かの音楽」が聞こえてきて、「オペラ・ハウスから、着飾った観客が」出てき、「黒いスーツの男達が、むき出しの女の肩を覆うように身をかがめて、囁いていた」と叙述がある。 これは舞踏会のような雰囲気をつくり出すための装置である。 もっとも二人は舞踏会には行かず、流行のゴーゴー・ダンスを踊りにいく。 そして「スローの曲にな」ると、「桃色シャツ」はおとぎ話の王子のように、由梨をぴったり抱き寄せて踊り、「優しく笑いかけ」たので、「由梨も優しく笑い返し」「二人はただふんわりと流れていく雲の上にのっているように音楽に任せて」体を動かしていた。 それは「武と上手に踊ろうと努め」「ステップを間違えまいとからだを硬ばらせた」時の経験とは大違いであった。 このように由梨がことあるごとに武と「桃色シャツ」と較べているのは、選択を誤って武を選んでしまったために、自分の人生は上手くいかないのだと考えていることを示唆している。 一方「桃色シャツ」は、終始おとぎ話の王子やロマンティックな恋物語のヒーローのごとく振るまい、踊っている時にも「君はまるで、押えていないと、ふわりと飛んでいってしまう羽みたいに軽いよ」などと、甘いセリフを口にする。 むろん武も、そしてフランクも、そのようなロマンティックなことはいわず、やさしくもなかった。 だからこそ由梨は「桃色シャツ」に誘われるままにドライブにいき、ついには一夜を共にするのである。 この部分はいかにも性の革命の進んだ60年代的な物語である。 ところが翌朝由梨が眼をさますと、「桃色シャツ」の男はすでに姿を消してしまっていた。 しかもバスで遊園地まで戻る途中、由梨はハンドバッグから20ドル紙幣が消えているのに気がつく。 当時の20ドルといえば、今の百ドルくらいの値打があるが、それを抜き取っていったのは、明らかに「桃色シャツ」であった。 ということは、由梨は素敵な王子様に出会いたいという夢を叶えるために、20ドル支払ったということに他ならない。 この結末は、構成の上では冒頭におかれているが、そこに含まれるメッセージは次のように解釈することができる。 すなわち、おとぎ話は夢物語にすぎず、理想の王子様などいないのだ、だから自分の人生を有意義なものにするためには、結婚幻想を追わず、自分で自分の生き甲斐をみつけていかなければらなない、と。 これは決して結婚そのものを否定した結末ではない。 このことは、やはり確認しておかなければならない。 フリーダンも、結婚幻想に強く影響されている女性ほど結婚した時の幻滅や不満も大きいので、不満を解消するためには自分の生き甲斐をさがすように提案しているが、結婚そのものを排斥しているのではない。 ちなみに時代は大幅に下るが、シャーロット・メイヤーソンも、1996年に出版した「Goin' to the Chapel」という著書の中で、彼女のインタビューに答えた女性たちのうち、子供の時から女性は結婚すべきだと教えられ、結婚幻想にとらわれていた女性ほど結婚後の人生に失望を持つものが多いと報告している。 一方コレット・ダウニングは、1981年に出した「シンデレラ・コンプレックス」という著書で、子供の時から物語を通して男性に依存した生き方をすべく教えられた女性たちは、職業上成功しても仲々心理的に独立できず、男性に依存してしまいがちだと指摘している。 ここでもう少しおとぎ話の問題について言及すると、おとぎ話が女の子たちに結婚幻想を抱かせ、成人しても男性に頼る受け身の生き方を選択させるようになるということが問題にされるようになるのは、実は女性運動が盛んになった1970年代になってからであった。 その口火を切ったのは、作家でもあったアリソン・ルーリであるが、ルーリは1970年に発表した論文でおとぎ話は強い女性たちを描いているので、女性解放を推進するのに役立つと力説した。 それに反発し、おとぎ話を批判する論文が続々あらわれるようになり、おとぎ話の研究はフェミニズム運動の一環となっていく。 それらの研究は一様に、おとぎ話が女の子に性別による役割の違いを教え、物語りの王女のように従順で貞淑であれば、王子様と結婚し幸せに暮らすことをできるという受け身の生き方をするよう書かれたものであることを明らかにした。 ザイプスは古典的おとぎ話は「無害で楽しいもの」と見なされてきたが、それは人々、特に子供たちを教育するために構築されたものであること、そして欧米の主要な古典的作者であるシャルル・ぺロー、グリム兄弟、ハンス・クリスチャン・アンデルセンなどは、「ブルジョアジーの価値観や関心を浸透させ、文明的過程でのブルジョアジーの勢力をひそかに強化」したと指摘した。 またザイプスは、女の子に対する物語は、家父長制を強化し、維持するために有利な価値観を教えようとするものであり、その伝統はハリウッドのアニメーションにも継承されていると指摘している。 以上のようなザイプスの研究が明らかにしたのは、昔話やおとぎ話の文学化は、特定の価値観を子供たちに教え込むための強力なイデオロギー装置であったこと、そしてそれらの物語りは子供たちの精神世界を支配しただけではなく、成人して後の人々の無意識の領域を形成するまでにいたったことなどである。 このようなザイプスの研究は、結果的にはそれまでのフェミニストのおとぎ話研究を正当化するものであった。 その後もおとぎ話の研究は続けられ、マドンナ・コルベンシュラーグは「眠れる森の美女にさよならのキスを」を書き、古典的おとぎ話の家父長的価値観を転覆し、女性が主体性をもてるようになる物語を創作していくことの重要性を説いた。 このような歴史を考えるなら、大庭が1967年という早い時期に、女性に結婚幻想を与えるものとしておとぎ話に注目し、それを脱構築しようと試みたことがいかに画期的であったかが理解できるであろう。 そして大庭は、小説の結末部分 構成上は冒頭にある では、由梨の乗ったバスは深い霧につつまれ、視界があまりきかないといっているが、これは由梨にはまだ自分の進んでいくべき道が見えていないことを示したものであろう。 もっともその結末からは、いつか霧が晴れるように、由梨にも自分がやるべきことは何かが見えてくることは予測できる。 おそらくロマンティックな男性への対幻想から醒めた由梨は、ロンダと次に会った時には、子供を育てながら働いているシングル・マザーの彼女の寂しさや苦悩を理解し、親密な友情を築き上げていくであろうし、松浦嬢とも、セックスアピールで張り合うかわりに、彼女が米国に一人でやってきて博士号をとろうと頑張っていることを肯定的に評価できるかもしれない。 実際に歴史はそのように変化し、女性たちは自分たちの地位を向上させるために共闘していった。 そのような歴史の動きは、1967年に大庭が「三匹の蟹」を書いた時点ではまだはっきりとは見えていなかった。 だから大庭は、由梨が将来どのように生きていくかについては、明確な解答は与えられなかったのかもしれない。 また見方を変えれば、大庭は深い霧に包まれた孤独な由梨の姿を通して、女性解放運動が広がる直前の孤立した女性たちのあり方を描き出そうとしたといえる。 大庭自身は専業主婦ではなく、結婚しても小説を書くことをあきらめず、夫の転勤を最大限に利用して、アメリカの大学で勉強したりした。 しかし主婦業の単調さや、どんなに家事を完璧にやっても仲々充足感や満足感がえられないことも、周りの女性の生活から理解したであろうし、時には自分自身でも感じることがあったに違いない。 だからケーキを焼きながら苛立つ由梨の姿が生き生きとリアルに描けたのではないかと思われる。 また大庭が、自力で子供を育てているアメリカ人女性ロンダ--つまり父親業と母親業と主婦の三役をこなさなければならない立場にいる--を深い共感をもって描いたのは、オリガのように離婚して二人の子供を育てていた「フェミニストの先駆者」といえる友人がいたからであろう。 「群像」新人賞の選考委員の一人であった安岡章太郎は、「三匹の蟹」は「海外留学団地小説」だと評した。 それから30年後に江種満子は、「大庭みな子の文学では、アメリカはたんなる旅先でお客様になる国ではなく、またたんなる情報や題材にとどまるような借りの滞在先・他人の国でもなく、その異文化空間に棲む生活者として、日本女性が自分の生き方を創り出していく闘いの場そのものであった」と評価した。 確かに「三匹の蟹」も、江種がいうような特徴を備えた作品であるが、そこにはロンダを通して、アメリカ女性の闘いも描かれている。 また由梨の造型には、すでに指摘したように、オリガという名を与えられている友人が奨めてくれたフリーダンの本の影響もみられる。 そのため由梨は日本人の専業主婦というだけではなく、アメリカの専業主婦の典型としても通用する。 言い換えれば、由梨という女性はジェーンというような非日本的な名前に変えても違和感がない存在であり、「三匹の蟹」のボーダレスな魅力の一つもそのような由梨の造型にあるといえる。 するとほとんどの学生が、専業主婦である由梨の不満や悩みがフリーダンのインタビューに答えた女性たちの不満や悩みと共通していることを指摘する。 中には、60年代のニュージーランドでも多くの主婦たちが同じような問題を抱えていたからアメリカと同じように女性運動が広がったのだ、と指摘してくる学生もいた。 そしてほとんどの学生が、「桃色シャツ」がおとぎ話に呪縛された由梨の王子様であり、彼との関係を通して由梨はおとぎ話の世界を再体験しようとするけれども、それは惨めな結果に終わり、男性に頼って生きていく主体性を欠いた生き方を変革せねばならないことを思い知らされる、これが小説の筋だという分析をしてくる。 つまり「おとぎ話」というキーワードがあれば、あまり文学的訓練をうけていない学生でも、「桃色シャツ」が果たしている役割がわかるわけである。 もう一つの収穫は、学生たちがロマンスを描いた小説やハリウッドの映画などが、いかにおとぎ話と同じ家父長的イデオロギーを説いているかにも気づくことである。 その意味で、「三匹の蟹」はジェンダー教育に適切なテキストの一つである。 以上のように、「三匹の蟹」は日本人の専業主婦を主人公としているけれども、そこで描かれた問題は、アメリカをはじめ、様々な国の女性たちが直面している問題でもあった。 そして女性は結婚幻想から抜け出して、新しい生き方を見い出さねばならないという大庭のメッセージも、70年代に様々な国に広がった女性運動の発するメッセージと同じであった。 「三匹の蟹」のボーダレスな魅力の一つもこの点にあるといえる。 「三匹の蟹」がボーダレスな魅力を持つもう一つの要因は、おとぎ話やロマンティックな恋愛小説の説く結婚幻想に挑戦し、それを脱構築したことであるが、欧米のフェミニストの間でおとぎ話の研究がはじまるのが70年代になってからだということを考えるなら、大庭がそれを1967年という早い時点でおこなったことは、革新的であったといわねばならない。 また二項でふれたように、大庭がアメリカ在住の日本人のみに焦点をあてず、フランクやロンダ、そして「桃色シャツ」の男などを通して、1960年代にアメリカ社会でおきていた結婚や性に関するモラルの変化を描いたことも、「三匹の蟹」をそれまでの日本文学の枠を越えたボーダレスな魅力をもつ作品にしているのではないかと思う。 人類学では、原始人の群に既に自殺があり、少なくとも4000年も前の自殺の遺書が、近年エジプトで発見された、という確かな証拠を提出している。 人類の歴史全体を通じて見れば、近代以来、文人もしくは作家と呼ばれるような人たちの自殺はもっとも多いように思われる。 文人・作家の自殺は、ある時代における文人・作家の社会的環境が大きく変化し、彼らの心のバランスが崩れたことを反映しているとみられる。 ところで自殺とはいったいどういうものか。 なぜ文人・作家には自殺者が多く出るのか?そして、なぜ近代に入ってから、日本人の文人・作家には目立って多くの自殺者を出し、自殺の伝統のなかった中国でも文人・作家が、近代に入ってから、自殺者は増えたばかりか、プロレタリア文化大革命中、夥しく自殺した者が出たのか?本論では、自殺の社会的要素を主な視点として、近代に起きた日本と中国の文人・作家の自殺について比較的議論を展開してみたいと思う。 我々は、孤立的に存在しているのではなくて、社会という関係体系のなかに共存している。 個人の生活は、個人の自由意志によって支配されているかのように見えているが、実際、いろいろ思想的に行動的に社会というものに関連し合い、互いに制約されている。 文人・作家の自殺も大抵、家庭という社会を構成する細胞から、文壇という小社会、国内社会乃至国際社会にいたるまで、いろいろの事柄に深く関わっているから、その自殺を研究するには、何よりもまずそれに着眼しなくてはだめだと思う。 この意味から言えば、フランスの社会学者デュルケムは、誰よりも先に社会的要素に着眼した「自殺論」の重大な意義は否定できない。 人間を徹底的に「社会的存在」として考察していくこの社会学者 デュルケム の眼は、人間の生というものがいかに集団生活によって影響され、左右されるものであるかをするどく看てとっている。 いいかえれば、自殺は、この行為にはしる人間の生きてきた集団生活にかかわる要因をぬきにしては、じゅうぶんに説明されえないということなのだ。 宮島喬氏がいろいろ説明し補足した通り、デュルケムの学説は当時欧州諸社会の自殺を通じてその社会の病態にメスを入れたばかりか、社会的要因はいかに重要なのかを強調し、そして社会学的に自殺を分類したことも、後の研究者に重要な手がかりを提供した画期的な貢献と言わざるを得ない。 ところが、同じく宮島喬氏が指摘したように、今日の目から見ればデュルケム学説には、いくつか問題点があることも否定できない。 たとえば、「社会的要因」と「非社会的要因」という分け方の厳密でないことや、根拠にした官庁統計のデータは確実に権威のあるものだとは限らないことや経済的貧困・病苦を軽視したことなどが挙げられる。 そのほか、筆者の思うところでは、社会には統合力があると言われているが、物理学の力学原理に基づいて、その反動も必ずあり、統合力は強ければ強いほど、その反動も強くなるのではないか。 たとえば、中国のプロ文革という特定の時期中、社会的統合力は強くないとは言えないのに、なぜ夥しく文人の自殺が出たのか。 因みにデュルケムの研究は、19世紀のヨーロッパ向けで、東洋人の自殺のケースには必ずしもぴったり当てはまるとは限らない。 それにデュルケムは、自殺する人間を受動的なものとして固定的に扱っているように思われ、自殺者の主観的能動性を見逃したのではないかと思われる。 ここではまず、自殺の定義、種類や自殺率などから検討して、文人・作家の自殺の多発の原因を探るとともに、近代以来とくに有名な日本と中国の文人・作家の自殺を例にして、比べながら、法則らしいものを探ってみたいと思うのである。 Shneidman が、「Definition of Suicide」 自殺の定義 という一冊の本を出版したぐらいである。 そこで自殺の定義として次のようにのべることができよう。 死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。 右は近代における自殺研究の先駆者デュルケムの定義づけであるが、これは自殺の定義の代表的なもので、その後の研究者たちから、またいろいろ修正されたり、細かくしたりされていった。 なお、自殺の定義を研究していた前記のアメリカのシュナイドマンの定義は次のように自殺者の必要の角度から自殺の性格を社会の「病」と定義している-- 自殺とは「人間が自ら引き起こした、そして自ら意図し、生命を終わらせる行為」であり、「自殺とは意識的に自らがもたらした死の行為であり、ある種の問題にたいして最善の解決策であるとみなす必要に迫られた人にとっての多次元的な病として最もよく理解される」。 前記諸氏の定義の言葉遣いこそまちまちであるが、まとめて通俗に言えば、すなわち、自殺とは、死にたいと思っている、心理的に成熟した人間が、死ぬことを予知しながら、自分の意志で自分の生命を終わらせる行動を取る、ということかと思う。 「自らの意図」と「結果予測性」が大抵、定義中の二つの欠くべからざる要素である。 病理学的に言うと、自殺の思いつきは憂鬱感と大いに関係があるが、これは、医学、生物化学、生理学、病理学の分野で、学者たちの重要な研究課題である。 普通精神医学と心理学において、憂鬱は反応性と臨床性とがあり、前者は落第や失恋や事業倒産などによるはっきりした憂鬱感をさす。 このタイプは、その憂鬱の源を無くしさえすれば、時間が必要であるものの、回復する可能性は極めて大きい。 それに対し、後者の憂鬱は、はっきりした原因もないのに、理解しがたい絶望感に陥ってしまって、実際一種の原因不明の精神病であると言う。 大抵、精神医学の学者の研究は比較的にこの方面に傾いている。 心理学的に言えば、フロイトは攻撃性を、人間の持っている破壊本能が姿を現したものだとかんがえた。 殺人にも自殺にもこの傾向が見られるのであるが、殺人の場合にはこれが外に向けられ、自殺の場合には、これが自分自身に向けられる……人間には生命をつくり、子孫を増やしていこうとする傾向と、その反対に生命を分解して無機物にしようとする傾向がある。 前者が「生の本能 Eros」であり、後者は「死の本能 Thanators」である。 自殺と社会との関係を社会学的にデュルケムが次の法則をまとめている。 自殺は宗教社会の統合の強さに反比例して増減する。 自殺は家族社会の統合の強さに反比例して増減する。 自殺は政治社会の統合の強さに反比例して増減する。 デュルケムの説によれば、すなわち、社会関係の組織がよく統合され、高度の社会的集結のあるところでは、人々は自分の属する社会の一成員であることを強く自覚して、心理的孤独や寂しさから抜け出すことができ、これが自殺への志向を思い止まらせる強力な要因となるという。 逆に社会的集結力の低い社会では、文化的価値は普遍性を失って個人はアトム化され、相対化され、孤立されて、成員の経済や健康や気候などの条件とは関係なく、人々を自殺に追い込む原動力となるわけである。 言い換えれば、社会的自由度の多い社会では、むしろ自殺が多発するというのである。 なお、「非社会的原因」と「社会的原因」の比重につき、デュルケムは 説明しなければならないこの現象 自殺 は、きわめて非社会的原因に起因するか、そうでなければ、まさに社会的原因に起因するかのどちらかでなければならない。 そこでまず、非社会的原因のもたらす影響がどのようなものであるかをたずね、それが無に等しいか、もしくはごく限られた影響でしかないことをあきらかにする。 と、非社会的原因より、社会的原因に主に着眼している。 心理文化学理論の創始者アメリカのファーバーの理論をまとめれば、集団における自殺頻度は、その集団が含む高度に傷つきやすい個人の数、及びその集団に特徴的な社会的欠乏の規模に正比例する。 この法則を一般公式にすると次のようである。 すなわち社会学者としてのデュルケムがこのうちのDだけを強調し、精神分析理論がVだけを考慮していたのに対して、ファーバーの公式では自殺の「社会的」要因と「個人的」要因がともに考慮されているわけである。 自殺の仕組みの分析上、より全面的だと思われる。 1960年以来、欧米では、自殺行動と生化学的指標の関係について焦点が当てられ始めた。 日本の自殺研究学者高橋祥友氏のまとめによれば、 a「死後脳を対象にした初期の研究」、b「自殺企図者の脳脊髄液の研究」、c「死後脳の受容体結合の研究」、d「内分泌学研究」などがあるが、「現段階では生物学的な研究はあくまでも研究の域を出ておらず、いまだ日常臨床に活用するにはほど遠い。 と、生物学的研究はまだまだ結論に達しない状況であることを示している。 ところが、自殺について、在来のデュルケム理論と全く視角の違ったフランスのジャン・バッシュレール理論が現れ、自殺の是非問題に関わってきたので注目を集めている。 バッシュレールは、「自殺者」という著作の中で、デュルケム理論に対抗する研究を発表した。 彼の説によれば 自殺は究極的には個人の心理のレベルにおいて理解されねばならず、デュルケム理論のように、個人と社会との結合度から説明できるものではないという。 また、すべての自殺行為を簡単に精神異常と結びつけてしまっては、自殺を主観的世界のなかで、とらえることは不可能になる。 氏はドイツの社会学者マックス・ウェーバーの「社会行動論」を重要視して、自殺者の社会的境遇、立場または他人との関係を理解することを重んじている。 自殺原因究明の場合、「この人は長い間連れ添ってきた最愛の妻に先に死なれたために意気消沈して自殺をした」という第三者からの純客観的釈明よりも、「この人は死別した最愛の妻とあの世で再会するために自殺をした」という自殺者の主観的立場を尊重する理解が必要と主張している。 このバッシュレールの解釈は、自殺者にたいする純客観的デュルケム理論の第三者的解釈より、もっと主観的に自殺者の意志にアプローチした理解だと言われている。 意味深いことには、こうすると自殺という行為は自殺本人にとって、当たり前の主観的理由が作られ、そして、その悩みにたいする最も積極的な決断行為ということになる。 結論として、この理論は、自殺行為をも、人生における対応の一つの型として考え、自殺に対する個人の権利を肯定し、精神障害とは別な次元の積極的な人間の社会行動と見なしている。 この理論は、倫理上の諸問題に関わり、かつ自殺の是非問題にも関わるので、フランスのインテリの中で大変な反響を呼んだが、精神科の医者からは大きな反感と敵意を買ったのは云々するまでもない。 日本人の自殺事情を、バッシュレールの説明に当て嵌めたら、反社会的な三島や川端などの自殺も、合理的なもの、同情すべきものだと言えそうであるから、このすべての自殺を肯定する理論は明らかに偏った一面があると思われるのである。 筆者は、デュルケム理論よりアメリカのファーバー理論とバッシュレールの解釈に強く興味があるが、上記欧米人の理論は、東アジアにおける日本と中国の文人・作家の自殺を旨く説明できず、別にその法則を掘り出さなくてはならないと思う。 社会の統合や連帯が弱まり、個人が集団生活から切り離されて孤立する結果として生じる自殺。 反対に社会が強い統合度と権威をもっていて、個人に死を強制したり、奨励したりすることによって生じる自殺。 また、個人を超えたなんらかの集合的利益や信仰上の大義のために一身を犠牲にする行為もここにふくまれる。 社会の規範が弛緩したり、崩壊したりして、個人の欲求への適切なコントロールがはたらかなくなる結果、無際限の欲求にかりたてられる個人における幻滅、むなしさによる自殺。 その反対に欲求にたいする抑圧的規制が強すぎるため、閉塞感絶望感がつのって生じる自殺。 社会的原因による自殺タイプとして、デュルケムは自己本位的自殺、すなわち、自己中心型 その特徴として、社会との結合度が比較的弱くて個人主義が強く、作家や独身者などに多発する 、集団中心型 その特徴として、集団との結合度が強く、自己より集団を重んじて軍人や警察など国民意識の強い群れに多発する 、アノミー型 社会的規範のないタイプ、その特徴として、社会の激変期や、いきなり到来した好況や不況などの動乱時期などに多発したり、芸能人や倒産者や失業者や定年後の老人や配偶者の喪失者などに多発したりする と分類している。 また、デュルケムの分類した三種類を、それぞれ、自己的自殺、愛他的自殺と虚無的自殺という別の三つの名称に解釈する学者もいる。 理由は後述するが、自殺者のうち、文人・作家の占める比率は多い。 デュルケムによれば、19世紀に行われた自殺性向を職業別に見る調査において芸術家、学者を含む創造的職業に従事する人々は首位の軍人に続く自殺率を示しているという。 フランスでは、1826年から80年まで自殺の首位を占めていたのはこの自由業であった。 すなわち、この職業集団の人びと百万あたりの自殺は550であった。 イタリアでは1868-76年の期間では、この同じ職業従事者百万あたりは483であり 、バイエルン バヴァリアのこと では芸術家、文学者、記者の416であった。 日本の文人・作家の場合、専門的な統計数字が見つかっていないが、第一学習社出版の2002年度の「新訂総合国語便覧」に載っている詩人、俳人、評論家を含む近現代文人・作家260名のうち、北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、牧野信一、太宰治、原民喜、火野葦平、三島由紀夫、川端康成、田宮虎彦の10名の有名な作家が自殺した。 また、「近代作家研究事典」 に載せられた144名の作家のうち、芥川龍之介、有島武郎、川端康成、北村透谷、久保栄、太宰治、火野葦平、牧野信一、三島由紀夫という9名の自殺者が出た。 けれども、1899-1984年の日本男子の平均自殺率は、0. すなわち、10万人の日本男子に、23. すなわち、文人・作家の自殺率は、少なくとも近代日本の男子の平均自殺率の172倍以上である。 中国の自殺率はどうであろうか。 色々の原因で完全なデータが見つからないが、張朝陽氏の「人類自殺史」の中の完全でないデータを引用しよう。 わが国 中国 は、なお全国的自殺率のデータに欠けている。 各省市のばらばらの報告に基づいて、次のように紹介する。 自殺率:中国の自殺率は、17. なお、張朝陽氏によれば、作家を例にして言えば、楚の屈原から五四運動前まで、作家の自殺は合わせても30人を越えず、平均して百年ごとに一人という割合である。 それ以降、特にプロ文革期間中、作家の自殺は激しく増え、その人数はこれまでの数倍を超えてしまった のである。 したがって、中国人の自殺者の中に作家の占める比例は、かなり低いことが分る。 文人・作家の自殺は上記の社会学的分析によれば、第一種類の自我中心型に属するもので、個人主義や自由主義の発達した欧米に多発する筈であって、日本人の自殺は大抵集団中心型に属するとされているというのに、なぜ近代に入ってから、「集団本位自殺」でない自殺の作家が続出するのであろうか?なぜ中国の文人・作家の自殺は少ないか?ただし、自殺の伝統がなかった中国の文人作家の自殺がプロ文革中なぜ夥しく出たのか。 デュルケムの自殺の法則に相応しくないこれらの社会現象は、特殊な研究課題と言わざるを得ない。 全体的に言えば、日本と中国の文人・作家の自殺は、ある程度、デュルケムと宮島喬氏のまとめた法則に適うこともあるが、両氏とももっぱら文人作家の自殺を論じたものはなかったのである。 事実上、日、中の文人・作家の自殺は、デュルケム理論に当てはまらないこともある。 たとえば、北村透谷、藤村操の自殺も、川端康成、三島由紀夫の自殺も、密接に社会的要因に関わるが、実はそれは同じ類いのものではない。 なお、宮島喬氏の指摘したとおり、「「自殺論」の著者は、自殺の「社会的」要因をいろいろ挙げるに当たって貧困、経済的危機 失業、破産など 、病苦といった要因にはほとんど注意を払っていない」ので、川上眉山や牧野信一や中国の詩人朱湘などの自殺も、デュルケム理論から根拠が見出されないのである。 本論では、デュルケムと宮島喬氏の研究の補足というつもりで、両国のそれぞれ代表的な10人の有名な文人・作家 学生であった藤村操と陳天華の場合、自殺してから有名になったものであるのに対し、後の9人はもともと有名であったが、自殺してからなおいっそう有名になった。 なお藤村操や陳天華は学生であったが、その自殺は影響が大きかったから、文人・作家の中に一応入れておくことにした の自殺を簡単にまとめて、さらに議論を展開したいと思う。 1988・6・16 作家 石沢英太郎 縊死 老齢問題? 平成時代 1990・10・10 作家 佐藤泰志 縊死 何回も芥川賞落選など? 1993・12・13 作家 藤田五郎 ビニール袋窒息死 不明 1999・7・21 作家 江藤淳 割腕 病苦 2001・2・2 作家 加堂秀三 縊死 不明 2001・6・17 作家 青山正明 縊死 麻薬からうつ病 2002・5・29 作家 矢川澄子 縊死 離婚、親しい者に死なれて寂しくなるなど? 2004・4・11 作家 鷺沢萠 縊死 不明 日本の古代では、少数の男性が政治的失敗のため自殺するほか、女性の多くは愛情のために自殺する。 中世では、愛情の心中よりも、武士の切腹が多かったが、そのうち「殉死」というのは、実際は真の自己意志による自殺ではなくて、強いられた死である。 その自殺は、したくてもしたくなくても、本心からの死ではない。 「興津弥五右衛門の遺書」の中で鴎外は、一片の恩義が人を死なすことを美しく描き、封建道徳を肯定していながら、また一方、「阿部一族」の中で弥一右衛門の末路を通じて、殉死を否定した。 文学作品中の人物であるにもかかわらず、封建的因襲の野蛮な慣わしによって、生きようとしても死のうとしてもできないという哀れな境遇がありありと描かれている。 それに対して、文人・作家の自殺は少なかった。 一方、近世では、戯作家たちは、大衆の娯楽を旨として、それに工夫を凝らしていたが、あくまで自己追及告白により身を苛む近代作家と根本的に違っていて、近世作家の自殺はまず、聞いたことがない。 日本が明治維新以来取った「富国強兵」政策は、対外侵略を狙って庶民たちの苦難を全然顧みなかった。 そういう「近代化」に疑問符をつけ、その答案を求められずに悩んだ挙句、理想主義を旨とした北村透谷は、あきらめて自殺した。 日露戦争の直前、哲学青年の藤村操は、立身出世主義に背を向け、新しい人生価値を求められずに人生は「不可解」という「巌頭之感」を残して煩悶自殺した。 明治維新以来、知識人は、自我に目覚めたからこそ、自殺を以って社会に反抗したのである。 自己で自己の運命を握れること。 この意義からいえば、明治時代に自殺した透谷、藤村と川上の自殺には、積極的な意義も全然ないとは言えないと思う。 透谷も藤村も、社会の歪みによって自殺したと言えそうであるとともに、社会の進歩と政治的空気の緩やかさを示したとも言える。 川上眉山の自殺には、そこに文壇という小社会の原因も加わるが、直接の原因は生活難であって、これは正に社会の歪みによるもの以外の何物でもない。 大正時代に起こった民主主義を求めるという、大正デモクラシーの動きが高まっていた。 様々な運動や文化が花開き、新たな言論活動も始まった。 大正政変で幕が開き、第一次護憲運動 1912-1913年 によって、桂内閣を退陣させ、普通選挙運動が高まる。 米騒動 1918年 、第二次護憲運動 1924年 もおこった。 世界大戦を繰り返したくない願いが、新しい時代を要請したのである。 が、社会主義対策として普通選挙の実施で予想される無産政党の進出を阻むために制定する治安維持法も成立する。 「国体の変革」と「私有財産制度の否認」を目的として結社をつくることが禁じられた。 大正時代に、民主主義、大正教養主義の機運の中で、自殺した作家は確かに少なかった。 唯一の自殺した影響力のある作家は、心中の仕方を取った白樺派の有島武郎である。 実際は単なる心中ではなくて、「第四階級」 有島の言葉・プロレタリア階級のこと の発展を予感して、自らが所属する階級の前途への絶望の上、社会道徳から追い詰められて、知識人の潔癖から経済的方法で解決しようとせずに、愛情至上に逃げ場を見つけて、「生命の燃焼」という自殺をしたのである。 表面的に取れば、確かに有島と秋子は心中だと取れそうであるが、深層の原因は本階級の前途への絶望が本当の原因だと思う。 この意味から言えば、有島にしてみれば、生命を愛しないのでもなくて、むしろ並みの人よりも生命の価値を理解したかったのではないかと思うのである。 1926年から1989年にかけての長かった昭和時代であったが、昭和8年までにもはや大正デモクラシーの余韻は消え、軍国主義が日本中、大手を振って歩き始めた時代であった。 1927年金融恐慌の最中、未来のプロレタリア階級の社会を予見しながら、その運動に踏み切る勇気がなかった芥川は、神経衰弱も加わって自殺した。 なお、軍部の台頭が明らかになった1936年、「2・26事件」の9カ月後には牧野信一が、書けない悩みともあいまって悲観厭世で自殺した。 恐慌、エロ・グロ・ナンセンスの時代は、ファシズム戦争の敗北を経て、戦後の焼け跡と生活窮乏の時期を迎えた。 退廃・絶望のなかで、自分が地主の息子であることと、プロレタリア運動に共感していたこととが大きな矛盾として脳裏に焼きつき、死だけが自分を救う唯一の手段と思った無頼派の太宰治は、何回も自殺し損なったのち、とうとう戦争未亡人の山崎富栄と一緒に入水自殺することに成功した。 太宰の自殺はある意味では、典型的な「恥の文化」「罪の文化」の犠牲者といえよう。 その翌年に、同じく、毒薬、酒色に耽った田中英光も、その師匠に追随して太宰の墓前で自殺した。 また朝鮮戦争の最中、情勢が危うく核戦争になろうとする頃、自らの深刻な体験から核戦争に大反対の原民喜は、鉄道自殺を遂げた。 50年代から60年代、日本は民主化の道を歩み始め、1955-57年の「神武景気」と1960-61年の「岩戸景気」を経て、60年代中頃の「所得倍増」によって人々は生活難からようやく抜け出し、戦争への憎しみと平和の有難さを一旦舐めた日本の庶民は70年、戦争につながる「安保自動延長」反対闘争に立ち上がったが、そういう民主的ムードに不満を感じ、かつての「大日本帝国」の夢を見ようとした三島は同じ年、世論を驚かせる芝居を演じてから切腹自殺した。 1972年、日本はますます「伝統美」を失ったと感じた川端は、ノーベル文学賞をもらった4年目に「輪廻転生」という甘美な夢を抱いてガス自殺した。 前記50名の自殺した文人・作家の統計はもちろん、かなり不完全なものである。 にもかかわらず、資料入手の難しさによる原因不明の10名のほかは、本当の精神的発狂のケース、すなわち生理、病理的原因のみによる自殺は、中西梅花と山本飼山の二名だけである。 そして中西梅花の場合、恐らく不遇も自殺原因の一つであろう。 なお、「うつ病」の原因のある者には、藤野古白、久保栄、村上一郎があるが、久保と村上の場合、どちらも単純なうつ病ではなく社会的原因もかかわっている。 その他の自殺の決定的主な原因は、思想の苦悶、悲観厭世、社会への不安・不満、家庭の事情、恋愛失恋、病苦、そして老人問題など、すなわち全部が社会的要因に関わっている。 これから見ても、自殺は、この行為に走る人間の生きてきた集団生活に関わる要因をぬきにしては、十分に説明できないのである。 何千年も前に、氏族の首領共工が「怒りて首を不周の山に触して天柱折りて地維絶つ」という記述があるが、これはおそらく中華民族の一番最初の自殺の記録であろう。 ところが、中国には、「好死不如頼活着」 どんなに立派な死に方も、辛うじて生きていることに如かず などの俗言があるように、よほどの場合でもない限り中国人は自殺することはないのである。 中国の文人・作家の場合、周知の事情で確実な資料は限定されているが、歴史上の特殊な時期以外、自殺者はかなり少ないようである。 紀元前277年に楚の詩人屈原は、楚懐王、楚襄王から信用してもらえず、免官の上、追放にまでなった。 のち楚は秦に敗れ、気骨のある屈原は汨羅江に身投げして自殺した。 儒家と道家の思想の影響によって、これまで確かな統計数字がなかったにもかかわらず、五四運動まで中華民族の自殺率は低いものであった。 五四運動によって、「孔家店を撃ち潰せ」以降、儒家思想が弱まって自殺者は増えた。 作家を例にして言えば、楚の屈原から五四運動前まで、作家の自殺は合わせても30人を越えず、平均して百年ごとに一人という割合である。 これ以降、特にプロ文革期間中、作家の自殺は夥しく増え、その人数はこれまでの数倍を超えてしまった。 五四運動以前の自殺した文人・作家を挙げれば、屈原以降宋元の転換期に、文学者の謝枋得は、何回も元の朝廷からの出仕の勧めを断り、20数日間絶食して死んだ。 明から清への転換期、崇禎の進士陳子龍は、民衆を集めて抗清の戦いを続けて敗北し捕まったが、南京への護送の途中、39歳の若さで川に身投げして自殺した。 上記の3人の自殺は、いずれも「周の粟を食わず」という「民族的気骨」のためであった。 ここから見ても中国人に与えた儒家思想の影響はいかに大きいかがわかるであろう。 近代以降西側からの影響で自殺の原因も少々変化して、いろいろの社会的要因が入るようになった。 彼が24歳で自殺したのは、通説として失恋だと言われているが、実際は憂国の情がないでもない。 34歳で入水自殺した朱湘は、性質が率直ゆえに、安徽大学での講義の内容について大学当局と衝突し、怒りの余り辞職してしまった。 原稿料の収入だけでは生計を立てられず、旅館の家賃を払えなくて旅館内に拘束されることさえあった。 途方に暮れた彼は、舟で上海から南京への途中、李白の入水自殺した場所である采石磯で入水自殺した。 文学者王国維の自殺の理由には色々ある。 カントやショーペンハウエルやニーチェなどの哲学思想の影響によって自殺したという説もある。 また羅振玉から借金を責められて困り果てた説もあるし、清の王朝に殉じたという説もある。 陳舜臣氏も、「3年前にも一度自殺未遂事件を起こしたことを考えると、自殺の動機はやはり、没落し滅亡していく古い世界に殉じたと考えるべきであろう」と書いているが、中国の学者はいう。 彼 王国維 は清が滅びてから溥儀の師匠をしていたが、皇帝復位活動に参加することは念頭になかった。 しかし、あくまでも彼は溥儀の臣民で、自分よりも溥儀の安危を重要視しなければならなかった。 彼は「君が侮辱されれば臣が死ぬ」という旧道徳旧礼教の桎梏の下でとうとう「義は重ねた侮辱無し」という理由で、自分の生命を絶った。 われわれは王国維のために忌む必要がない。 この近代史上の優れた学者は、実際、旧道徳旧礼教の殉道者である。 自殺の伝統のなかった中国で、その時期これほど多くの自殺者を出したのは大抵政治運動によるもので、近代まで自殺者が少なかったのも、現代の政治運動で夥しく自殺者を出したのも、いずれも、儒教思想の影響によると思う。 前者は「身体髪膚之を父母に受く。 敢へて毀傷せざるは孝の始めなり」、という影響であるが、後者は、儒教の「士は殺されてもいいが、侮辱されるべからず」という「気骨」のためであろう。 プロ文革以降の文人・作家の自殺の原因については、80年代中後期の社会の転換期に繋がっている。 商品経済の衝撃によって、文学の方舟は狂熱的な頂上と、読者や社会の供えた神壇から墜落して立ち往生の境地に陥った。 情勢の激変は文人の位置づけのやり直しを要請し、時宜にかなって筆の方向を変えさせるが、適応できない文人は自殺に走りやすい。 ルポ作家の徐遅の自殺は正によい例である。 文学者の極致とは、切腹の前に武士が辞世の句や歌を詠むのと同様の姿勢で、一生涯書き続けるような作家が書遺すものは、いわばすべてが辞世の歌だ。 芸術家の世界は常に異常であり、病的である。 創造的職業はうっかりすれば健康に有害と言える。 なぜかというと、作家は生命を創造するという比類なく魔術的な力を備えており、作曲家、画家などよりも、より多く創造者だからである。 造物主の役割を簒奪しようとする志向は、他のいかなるジャンルの創造者よりも強い。 自分の血で書かれたものであるから、そんなにやすやすと消されない。 自殺した日本の詩人・生田春月の次の詩 或る肉体は、インキによって充たされている。 傷つけても、傷つけても、常にインキを流す。 20年、インキに浸った魂の貧困!或る魂は、自らインキにすぎぬことを誇る。 自分の存在を隠蔽せんがために、 象徴の烏賊は、好んでインキを射出する は、作家とその作品との血肉の如き関係をいきいきと示している。 詩人、ドイツ文学翻訳家としての生田は烏賊のように「インキ」で感傷的な詩多数と3巻からなる自伝体の長編小説「相寄る魂」を残して、船から湖の中に身投げした。 春月さんはペンで戦わなかった戦いを死によって戦い、ペンで書き上げなかった生きた詩を死によって書き上げたのである。 創造は創造者に最高度の自由を感じさせる活動である。 最高度の自由とは、恐怖の外に身を置くものであって、霊感というものに捉われている時、恐れるものは全然ないと言っても過言ではない。 そんな時彼らは天の寵児のように、自らの命を絶った同業者を見下げていた。 が、時が経つにつれて、その自分自身も我が命を絶つ決意をする時が訪れる。 三島由紀夫はそのよい例である。 彼は30歳の時、「私は自殺する人間が嫌いである。 自殺する文学者というものをどうも尊敬できない」と放言していながら、15年も経たないうちに彼自身も「自殺する文学者」となった。 また、川端康成も、「末期の眼」のなかで、「いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。 いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い」という大言壮語を発した何年か後に、やはりガス自殺を遂げた。 あらゆる芸術家の中で、作家は最も傷つきやすい。 文人・作家は社会の脈動に敏感で、同じ苦悩でも並みの人よりもっと強く感じられ、自分の人生を小説と混同しやすい。 21歳の若さで惜しくも自殺した文学少女久坂葉子がよい例である。 川崎重工の創始者川崎正蔵の孫娘に生まれた「箱入り娘」としての彼女は14歳の頃、戦災で家屋を焼かれてしまった。 泣き面に蜂というのか、次いで父親が「公職追放」され、勉学中の彼女は喫茶店などでアルバイトをして生計をたてざるをえなかった。 天上から地に落ちた彼女の心は、その時から既に傷痍だらけになっていた。 困苦の生活にくじけなかった彼女は、島尾敏雄や富士正晴などの指導で、18歳で「ドミノのお告げ」という小説を発表し芥川賞候補者になって文名が上がった。 昨年11月頃の「朝日新聞」は、久坂葉子についての文章を載せたが、文章の副題は、「戦後の恋に散った久坂葉子」であった。 確かに久坂は伝統観念に挑戦した勇敢な娘であって、彼女はある詩の中で隠すことなく京都のある男性への愛を告白し、そしてその愛が結実できないことへの苦悶を述べた。 新旧時代の交叉した時代に、才華に溢れた彼女は、生活の重荷を担がざるを得なかったし、古い伝統を打ち破って美しい愛情を追求しようとしたが、思うままにならなかった。 不如意は彼女に宿命論を信じさせ、死以外に打開策がないと信じ込ませた。 古い傷痕に新しい傷痕が加えられ、彼女は小説と現実を混同してしまって、とうとう自殺したわけである。 何事も集団で一致して行われる日本社会では、もっぱら個人的な職業としての文人・作家は、当然ながら自殺しやすい立場にある。 文人・作家は一人ぼっちの作業で孤独になりやすいが、孤独は自殺に密接につながったものである。 浅原六朗氏は、牧野信一の自殺の原因を分析した時、作者のもつ孤独地獄は、作者にしか解らないものである。 作者はお互いにその哀しみをもっている。 それをお互いに持ち合わせながら、慰め合うことのできない世界に作者の孤独地獄はあると書き、 また、彼のお母さんが牧野の弟の子供をつれて海に行こうとした時、「さびしくっていけない。 海なんかに行ってくれるな、ここにいてくれ」とたのんだそうである。 しかし子供がせがむので、お母さんは子供をつれて海に行ってしまった。 その留守に彼は死んでしまったのである。 隙をねらって自殺したのではなく、隙のなかに吸い込まれてしまったのであると牧野が孤独を怖がって、自殺に走ったことをありのままに伝えている。 太宰治の場合も、自己独自の閉ざされた世界の中に住み、外界との生ける接触感の欠如にいつも悩まされていた。 本質的に他者と了解不能であるという恐怖を持っていた。 他者や外界には本能的に興味を抱かない。 彼の関心は内閉的な自己の世界だけにあった。 個々から見れば、孤独は自殺の温床と言えそうではないか。 社会的現実に姑息的、妥協的態度を取らずにとことんまで突き詰めることは自殺に走りやすい。 人間は大抵、いわゆる阿Qの「精神勝利法」があるなら、どんな事態が起こっても自分で悩みを解消させることができて、自殺せずにすむわけである。 現代に比べれば、近代の文人・作家の中には、少なからず社会的現実に姑息的、妥協的態度を取らずにとことんまで突き詰めるような人がいた。 彼らは、yes と no のどちらかをあくまで守り通す性質がある。 例えば芥川の場合、未来はプロレタリア階級のもので自分の出る道はないと決め付けて、「ぼんやりとした不安」を感じた。 それに新しい時代に、彼の友人であった久米正雄や菊池寛などは、通俗小説のなかから活路を見つけ、大きな成功を獲得したのに、芥川だけは頑として、いわゆる「純文学」の陣地に立てこもり続け、少しも妥協しようとしなかった。 一作ごとに練りに練った挙げ句、彼の文学創作は枯れてしまうことが避けられないことになった。 政治的にも文学的にも明るさを見出せないという事態に、彼は自然に自殺に逃げ道を求めたくなる。 太宰治の場合は、なかなか自分の信条を変えようとせず、自分の堕落を大目に見られず、「失格」した人間として、死ぬよりほか道がないと決め付けていた。 僕たちはそれ以後、彼ほどに共感させられる文学を未だ知ることなく、彼ほどに純粋な真摯な作家を未だ発見することができないのです。 なぜ文革以前の中国の文人・作家の自殺は少なかったかと聞く読者がいるかもしれない。 前述したように、中国の文人・作家は、生死問題に対して、まったく別な文化系統に属し、観念の上で日本人と全然違っている。 中国の古代社会でも社会動乱、政治暗黒、専制迫害などしばしばあるが、中国の文人・作家は自殺より別な出道を見つけるようにした。 魏晋時代の知識人がその代表的なものである。 政治的迫害を受けた場合の普遍的な対策は、馬鹿のように狂気のふりをしたり、毎日酔っ払って支配者の注意を紛らす。 一身不自保、何况恋妻子 自身でさえ自ら守れないのに、ましてや妻子を恋しく思わんや。 迫害が今にも来ることがわかっていた竹林七賢の一人、阮籍は、自殺せずに酔払いの振りで誤魔化した。 いま一人の竹林七賢、劉伶も有名な大酒である。 そのほかに当局と合作せずに老子・荘子の道を嗜み、自殺するどころか、かえって延年益寿を求める。 稽康はその例である。 仏教の虚無的思想は彼らの精神を支えて乱世の中で解脱を求め、自分の手で自分の生命を絶つ考えなど毛頭なかったのである。 中世では、情死よりも武士の自殺が多かった。 それに対して、文人・作家の自殺は少ない。 中世から近世までは、武人の切腹自殺も情死も多発し、益々日本人の自殺の伝統を固めた。 明治維新以降、思想は幕府の支配から解放され、文明の進歩とともに見せはじめた社会の歪みに抵抗するように、文人・作家の自殺が多発する。 それらは社会に訴えるものが多かったので、デュルケムの言う「アノミー自殺」の類に属している。 軍国主義時代には、集団本位的自殺が多発するが、文人・作家では少ない。 戦後になって主に社会との矛盾による文人・作家の自殺が種々起こるが、いずれもケースバイケースで一概に論ずることは出来ないのである。 次に三つの面から見てみよう。 あとの芥川之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成の4名とも自殺した。 前章で述べたように、自国の人々が誰も彼も集団を組んでいるのに、作家だけが孤独な創作エネルギーで時代に対抗するよりほかはない。 それでもし書く力が尽きたり、霊感が枯れたり、憂鬱やパニックに陥ったり、思想的行き詰まりが出たりしたら、自民族の倫理観に打開策を求めるのである。 日本の作家の場合、各国の作家に共通するものに加えて、日本民族なりの「郷土色」を帯びない筈はない。 日本の倫理思想は神道が基礎となっており、日本人の道徳価値観の中に宗教心理と宗教情緒として深く存在する。 中国の倫理思想は、血縁関係、宗法制度を基礎としているから、これによって形成された等級身分制、権力本位観念は今もなお中国社会に影響を与えている。 日本人の倫理思想は、ほかの国々と全く違った歴史文化の背景の下で生まれ、発展してきた。 紀元5世紀まで日本には土着民俗信仰としての神道思想があった。 「古事記」「万葉集」などに見られるように、すべてを神の威力に帰して、現世を肯定、生命を謳歌する思想であった。 日本の倫理思想を変化させたのは、中国の儒教と仏教の導入である。 紀元7世紀の初めに、聖徳太子は政治変革を目指して留学生を中国に派遣し、直接、儒教と仏教を導入した。 その時から日本の倫理思想は、神道から儒仏思想を吸収する方へと変容したが、当時、自殺を認めない文化としての儒教は、主に仏経などへの信仰と崇拝に止まり、社会生活の道徳の中には、まだ沁みこんでいなかった。 一方、8世紀になってから仏教は国教とされ、以来、江戸時代まで仏教倫理はずっと社会生活の中で主導的地位を占めるようになった。 仏教文化は、死を容認する文化であって、中国の浄土思想が伝わって以来、早く死んで極楽浄土に往生しようとする者が増える。 仏教では、「生あるもの、形あるもの、必ず滅す」という理念に発端し、肝心なのは、浮世の儚さを悟って仏のお慈悲を乞うこと。 仏は芸芸たる衆生のことを可哀相に思って、死を以て浮世からの解脱を諭す。 したがって浄土宗系仏教では、死のことを死と言わずに「往生」と言う。 浄土思想は、死を容認する文化的背景を作り出した。 浄土往生の願いは、社会組織の下で生きざるを得なくなった人間が、名聞利養といった非本来的な価値や欲望に衝き動かされて生きる状況を、如来の智慧によって虚妄の現実と気付かされたところに成立した願望であった。 命の営みの根源から、人間意識の表層に念仏という幽かな回路を通して届けられた智慧が、浄土願往生の心であった。 単一の宗教に偏執するのを好まない日本人は、神、儒、仏が並立し、競い合い、習合し、道教、道家思想もそれらと並立しているにもかかわらず、神道、仏教思想の影響で、日本人は現世を肯定する思想よりも死を容認する思想が強いようである。 16世紀中頃、キリスト教も鹿児島に上陸し、日本に伝わってきた。 キリスト教で最も大切なのは、死んで魂が天国に行くとされることである。 この世はその準備のためで、用意のない魂は地獄へ落ちる。 堅く自殺を禁じ、この世での生存はいくら辛くても、それに耐えられる人が天国に行けるという。 神の作った生命を、人間が勝手に絶つと言うことは、創造主にたいする反逆だとされる。 しかし幕府の鎮圧によってキリスト教は日本の支配的宗教にはならず、死を容認する思想はあまり影響を受けなかった。 江戸時代は、日本儒学の発展の最も輝かしい時代であって、理論的に朱子学派、古学派、陽明学派などが形成され、封建主義的道徳思想がよりいっそう実った。 鎌倉時代から発展してきた「武士道」が、神道と仏教の影響のほか、儒学の影響をも受けて、武士の道徳は更に理論化、系統化された。 仏教は武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心を与えた。 神道は、武士道の中に主君への忠誠と愛国心を徹底的に吹き込んだ。 また、それは江戸時代に儒教思想の朱子学などに裏付けられて、封建支配体制の観念的支柱となった。 忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛などを重んずる。 もし、名誉と名声が得られるのであれば、サムライにとって生命は安いものだと思われた。 そのため生命より大事だと思われる事態が起これば、彼らはいつでも静かに、その場で一命を棄てることもいとわなかったのである。 すなわち、日本人の価値観は、集団のため、自身の名誉のためなら、いつでも自殺する心構えでいるというものである。 武士道のこの死生観は、日本人の死生観に多大な影響を与えた。 後になって武士道は軍国主義者に悪用されて、侵略された国々の百姓を無断で殺す道具に成り下がったが、日本の武士たちの自殺は、いわば標準的なデュルケムのいう「集団本位的自殺」と言えよう。 国家仏教としての仏教思想の影響が重いせいか、日本人は、死を終点と看做さずに、起点と見ている。 芥川は、「けれども、自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」と書いている。 川端康成と三島由紀夫の「輪廻転生」信仰は周知の通りであるし、透谷や太宰なども死をいろいろに美化し、理想化したり、憧れさえしたりしていた。 こういう思想は、ある程度、自殺を助長する働きを果したと言えよう。 大正10年11月20日に、教え子梅子と千葉県の海岸で心中した評論家野村隈畔の自殺直前の日記には、 10月2日、愈愈革命来る。 自由実現の絶対境に入るのである。 4日、永遠の世界を憧れている者は、俗人には分るものか……永劫無限の世界に旅立つ、是れ哲人の希望であり、歓喜である。 明20日こそ断じて決行しなければならぬ、日誌は今日で終を告げる。 永劫への世界の旅行者 隈畔 とあるが、自殺のことを、何か憧れの未知の海外旅行のようにさえ思わせるではないか。 一方、昔から、日本列島のなみなみならぬ生活環境、頻発する台風、地震、火山噴火などの自然災害による死亡の突発性と不可抗力は、日本人に仏教の「人生無常」の観念を強めた。 この観念の支配の下で、日本人は切に生命を把握し、生を大切にする一方、死亡を尊敬したり、崇拝さえしたりする。 いわゆる「惜生崇死」である。 日本人の理念には、「菊と刀」に書かれているように、二律背反な面がある。 「仕事の鬼」と言われるほど懸命に働く一方、また思う存分娯楽を楽しむ。 極端に自我を抑圧する一方、また極端にストレスを紛らすことをする。 日本人の民族的心象と民族精神は、このように矛盾だらけである。 日本のこうした特異な思想史と価値観によって、自殺を制限する宗教観はないと言えそうである。 自殺は、ある特定の場合の問題解決の手段として、かなり多くの日本人の心の中に根を下ろしてきた。 これはさらに、「死はすべてを浄化する」という贖罪思想にまで繋がってきた。 「引責自殺」も多く出る。 因みに、日本人には、昔からの古い自殺の伝統がある。 日本語から外国語に入ったものとして、どの言語の辞書にも、有名な二つの語があるという。 それは、「切腹」と「神風」である。 この二つの単語とも自殺にかかわるのである。 確かに、日本ならではの文化である。 日本における自殺は、愛するものにとっては悲劇であることに変わりはないが、文化的には恥辱なことであるとか、宗教的な嫌悪感を伴わないことも事実である。 それどころか、自らの手でこの世に別れを告げることには、むしろ崇高さに近い感情が存するように思われるのである。 西洋人は、精神が錯乱したり、権利を剥奪されたり、絶望したり、もしくは利己的でさえあったりした者が最後に行き着く場として、自殺をとらえる傾向がある。 中国人は、迫害されて途方にくれる時以外に普通は、自殺を考えない。 それに対し、上に述べた原因で、日本は、文化的には全く特異な性向を持っており、特定の場合の自殺という考え方は、日本文化にもっと深く根差したものである。 男の自殺なら大抵、政治的な失敗による自殺のケースが多い。 鎌倉時代から戦国時代にかけて、武士道精神と禅宗精神が流行り、武士の切腹が多発した。 たとえば、1189年の「判官」源義経の自殺などがある。 元禄時代以降、切腹と心中の歴史は事実よりも文芸に移る。 文学作品「平家物語」と史書「我妻鏡」には、平維盛、平敦盛、熊谷直実などの死が描かれている。 維盛の場合、集団から離脱した時、既に出家、入水を決めている。 集団からの離脱はつまり一種の自殺行為であった。 もちろん、入水や焼身などで、浄土での再生を願うという宗教的性格も帯びている。 敦盛の場合は、武士の名誉のために、直実から逃げなさいと言われても逃げようとせずに、とうとう直実から討たれた。 逃げられる機会を与えられても逃げずに名誉の死を遂げたことも、実際一種の自殺である。 なお直実の場合、我が子が頭に浮かんで、やむを得ず敦盛を殺してから出家遁世したのも、実際やはり一種の自殺と言えよう。 したがって、村井康彦氏は 中世の自殺ないしは自殺的行為を特質づけるものとしては、このような宗教的な意味をもつものとともに、武士社会の発展のなかで見られたそれを見落とすことはできない。 なぜなら、武士社会に生まれた主従意識昂揚、それを基調とする武士の実践倫理ともいうべき「もののふの道」「武者の習」は、つねに死と隣合わせであったから。 「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、近世武士道の書「葉隠」の言である。 と説明しており、こうした中世の死-自殺の 的行為 精神構造を検討するとき、自分自身を客観的にある種の状況に追い込んだうえではじめて行動を決定するという、こんにちでも日本人にみとめられる精神構造と行動様式とが、実は中世に形づくられたものであることが思われてくるのである。 と結論している。 封建時代の日本において、自殺の作法が儀式化され、たとえば、江戸時代では、有名な赤穂47浪士の復讐後の全員切腹や美濃平野の治水の失敗による薩摩藩士35名の引責切腹などがそれである。 情死・心中も自殺の一種である。 宮島喬氏は、「わが国で「心中」とよばれる複数自殺のうち、情死は、恋愛感情をともなうものをさす」と書いており、周作人は、「情死のことは「昔からあるものである」、南北朝時代には、記載が見られるが、「心中」という名称は徳川時代の産物であった」と書いている。 なぜ近世になってから、心中・情死などは多くなったのか。 宮島喬氏は 封建身分制度の確立した江戸時代には、武士階級の道徳が支配的な位置に立ち、家の観念、貞操の観念がつよめられ、未婚男女の交際は禁じられ、身分の差のある者どうしの結婚はゆるされなくなる。 しかし、農民や町人の階級には、自然の性愛を肯定する古来の伝統がある程度存続しており、とくに経済的に台頭する町人は、その金力にものをいわせて遊女たちと性愛を享楽することが可能になる。 こうした性愛の肯定や結婚の否定という二つの価値の対立という背景のもとで、主として町人のあいだに情死の流行がみられるにいたった。 と大原健士郎氏の説明を引用している。 なお、近世では、文学作品の中に出てくる自殺の形は、「切腹」と「心中」が多数ある。 たとえば、黙阿弥「加賀鳶」の五郎次の入水、「三人吉三」の土佐衛門伝吉の入水、「弁天小僧」の中の弁天の「たちばら」、西鶴の「好色五人女」の中の樽屋おせんの自殺、「忠臣蔵」の中の判官の切腹など。 心中情死も切腹と並んで近世社会の特徴的な自殺である。 たとえば、近松の「曽根崎心中」の手代徳兵衛と遊女お初との心中、「心中天網島」の中の紙屋治兵衛と遊女小春との心中などがある。 近世の自殺は、要するに、罪状刑罰からの逃避や厭世や生活難や失恋などのものではなくて、封建社会的関係連帯の中における自己以上の誰かのために自殺するタイプが多い。 だから、ある学者が「日本近世劇の自殺の大半は第二の愛他的自殺だ」と言っている。 近代の明治時代には、文芸評論家の北村透谷や小説家の川上眉山などが自殺したが、大正時代になってから、作家有島武郎の波多野秋子との心中事件があった。 多くの人々から「男女心中」と取られていたが、それは単なる心中ではないと思う。 太平洋戦争時の「神風」特攻隊と「回天」人間魚雷は自殺ではあるが、本当の意味で言えば、脅迫的な自殺と言えよう。 昭和時代以降、世界中の注目を集めた「武士道精神への回帰に象徴される」とされる作家三島由紀夫の1970年の自決などは、全世界の世論を賑わわせたし、その後の川端康成のガス自殺も、いろいろの謎を世の中に残した。 有島と三島という2件の自殺は、人々に近世の心中と切腹の尾を引いたかのように思わせた。 したがって、この特殊な死生観の問題は、日本人文人・作家の自殺者が多い重要な原因の一つだと思う。 上古の日本民族は現実の事物に素朴な親近感を持ち、自然に「まこと」の文学理念を形成した。 皇室や民間に伝えられてきた神話・伝説・説話や歌謡は、天皇中心の国家体制の確立や国威の誇示を意図して編まれた「古事記」「日本書紀」「風土記」に取り入れられた。 ……古代の人々はこの大和の風土の影響を受けながら、明朗素朴でたくましい気風をはぐくんできた。 その気風は、そのまま上代文学にも反映され、感動を率直に表現した素朴で力強い「まこと」の文学を生んだ。 ところが、世界を悲しむという仏教の人生観は、思想意識体系のバックに欠けていた日本の美意識の中に素早く浸透するようになった。 楽天的に現世に直面する、「まこと」の美学観は、悲しみに溢れた「もののあはれ」に取って代わられた。 中古文学は優美・繊細な情趣を基調とする。 その中心理念は、しみじみとした「もののあはれ」である。 それは、生活に調和的優美さを求めてやまぬ平安貴族が生み出したものであり、はなやかさの裏に、社会の矛盾を鋭く感じ取って、苦悩の日々を送った女性たちが生み出した理念でもある。 「もののあはれ」は紫式部の「源氏物語」で完成した。 浄土宗は貴族や庶民のなかに普及した。 それは、この汚れた現世を厭い 厭離穢土 、一心に念仏を唱えることによって、死後は極楽浄土にゆくことを求めよ 欣求浄土 と説き、悩める人々に光明をもたらし、文学にも深く浸透した。 「幽玄」は、「もののあはれ」の流れをひくもので……南北朝時代から室町時代にいたると、正徹が余情妖艶美の幽玄を唱えたのに対し、心敬が氷のように冷え冷えした平淡な美の情趣を求め、近世の「さび」につながっていくのである。 中世になって動乱に次ぐ動乱は、人心に不安から逃れようとして、心の救いを宗教に求めさせた。 この時代の文学には、優雅な貴族文学から現実的な庶民文学へ移行する過渡的な姿が見られる。 宮廷貴族は気力を失い、武士は戦乱に追われて文学に志す者が少なかったので、文学の担い手として、戦乱をよそに文筆に親しみ、作品を残したのは、主として僧侶・隠遁者であった。 したがって、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」、源平盛衰を描いた「平家物語」などは、仏教的無常観の色の濃い文学として、後世の人々の人生観や死生観などに多大な影響を残してきた。 近世になってから、文学理念としては、町人文学の「粋」「通」「意気」などが生じたが、蕉風俳諧は、閑寂・枯淡の境地を求める「さび」を求めていた。 芭蕉の「さび」は、内面的で、しかも人間的なものの中に発見された「心の色」といえよう。 桜は、綺麗でありながら命を惜しまずに、燦爛たる咲き盛りを過ぎると未練なく萎えて、大地一面に落英で飾りまくる。 日本人はあたかもこの桜のように、咲かないならば、それまでであるが、咲くと言えば燦爛として咲かなければ気がすまないのである。 特に切腹自殺を美化する風潮として、江戸時代の浄瑠璃作家近松門左衛門が20年間に15点、自殺を描く本を書いたと言う。 腹を割って首を切って血が2メートルあまり迸り、その苦痛は烈しいものなのに、日本人は、これは「壮絶」というくらいの美だと思い、痛みを我慢する時間が長ければ長いほど、美しいという。 日本人の中には、切腹してからの流血を眺めることを美談として、それは、たとえようのないほど美妙で壮烈なものだという人もあったそうだ。 惨めであればあるほど壮烈になるのである。 三島の切腹が求めたのは、まさにこういう「美」の効果と言えよう。 近代に入ってから、外国からいろいろの文学思潮が導入され、日本に色々な文学流派を形成させてきたが、「もののあはれ」「さび」などという哀愁の色と日本人独特の審美観は、相変わらず一部の作家の頭脳に残り、それはそのままその作品の中に表れ、それは言うまでもなく、自殺を誘発するもってこいの条件となる。 72歳でガス自殺した作家川端康成とその作品が、典型的な例である。 彼は「哀愁」の中で次のことを書いている。 敗戦後の私は日本古来の悲しみの中に帰ってゆくばかりである。 私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。 現実なるものもあるいは信じない。 川端の美学意識の中で、伝統的「真・善・美」は「哀愁・虚無・幻覚」の美と変容してしまった。 民国から1949年に至るまで、やはり少数であった。 1949年から1976年までは、政治運動で知識人を抑圧する迫害によって自殺した文人・作家は多数になった。 1977年から198五年まで社会は安定していたので、文人・作家の自殺は少数であつたが、1986年から現在にいたるまで、転換期による矛盾とショックによって多発した。 この時期の文人・作家の自殺は、デュルケムの第三種類の「アノミー自殺」に属している。 次に三つの視角から見てみよう。 が、一方、「殺身成仁 身を殺して仁と成す 」「舎生取義」 生を捨てて義を取る 」という言葉が示すように、「仁」・「義」のためなら、自分を殺してもいいということを主張している。 例えば、幸徳秋水は、伊藤博文を暗殺した安重根の行動を、「舎生取義 殺身成仁 安君一挙 天地皆震 秋水題」 生をすてて義をとり身をころして仁をなす安君の一挙 天地みなふるう と褒めていた。 幸徳も安も中国人ではないが、もちろん中国の儒教思想の影響を受けていたであろう。 なお、孔子は論語「里仁編」において言う、「朝聞道、夕死可矣 朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり 」と。 まとめれば、儒教では生を惜しむ一方、仁を目指したり、道を習得したりする場合、決して死を恐れないという態度である。 つまり、必要ある場合の自殺を認めないのでもない。 道家では、自殺を容認しないばかりか、「自然」「無為」「修身」を主張し、煉丹によって長生きさえ求める。 「禍莫大於不知足、咎莫大於欲得」 足りるのを知らないことくらい大きい禍はない、得しようとする欲くらい大きな咎めはない 老子「道徳経」 と、楽天知命を提唱していて、煉丹によって長生きを求める。 仏教では、輪廻転生、来世を重んじるが、仏教が伝わってきた時、儒家思想の倫理観が既にしっかりしたものとなっており、儒家では、社会生活の理性精神を重んじるので、それによって、「人々はめったに空想して精神的な「天国」を追及し、人倫道の生きた経験生活を離脱して超越、先験、無限と本体を追及することをしない」。 それは「詩言志」や「文以載道」という観念である。 「尚書・舜典」には「詩言志、歌永言。 聲依永、律和聲」 詩は志を言い、歌は言を詠む。 声は詠みにより、律はその声に和す とある。 「文心雕龍」には、「大舜云:詩言志、歌永言」 大舜曰く、詩は志を言い、歌は言を詠む、 が書いてある。 「志」とは何か。 「志」とは、内心に隠される思想感情といえそうであるが、先秦以来、儒家は「詩言志」を主張し、詩を政治道徳の道具としていた。 それでも、実際、「思想」「志」「抱負」を重んじるが、思想感情は排除していなかった。 前後漢になってから、「廃黜百家、独尊儒術」と言って、儒家思想は学術文化の凡ての分野を制御していた。 「五経」は一切の文学作品を計る最高基準となってきた。 漢の儒者の目から見れば、文学は経学の従順な奴隷にすぎない。 彼らは、詩歌の政治教化の作用を強調し、詩歌には、道を載せることを要求していた。 したがって、「志」は「情」を遠ざかり、「道」「義」に偏ることを要求された。 「文以載道」も中国古典文学の基本的理念の一つである。 「道」とは何か。 ここでは、「道」とは「儒家思想」をもっぱら指している。 宋の「五子の一人」周敦頤は「不載物之車、不載道之文、雖美其飾、亦何為乎」 「文辞第 二十八」「周子全書」 物を載せない車、道を載せない文、その飾りは美しいが、亦何の使い道があろうか と言って、「載道」の重要性を強調した。 実際、孔子、孟子の思想の中には、既に、「文以載道」のような思想が含まれていた。 ただ周敦頤はそれをまとめて、最初に「文以載道」という言葉で、こういう理念を表した人物である。 儒学、宋学 程朱理学 がいずれも官学となるにつれて、「文以載道」は中国古典文学の「最高指針」となってきた。 「五四運動」の「新文化運動」の中では、ある程度、こういう文芸理念は批判されたので、「五四」以来の文学には、政治を離れて人間の情けと情欲を描いたものが現れた。 そして、王以仁、朱湘などの自殺した文人・作家も現れたのである。 専制的国民党時代の「莫談国事」 国事を語ってはいけない や延安時代以来の「文芸は必ず政治に奉仕しなければならない」などで、中国では、五四以来の魯迅らの作品以外に、自律性のある文学というものは、ほとんどなかったのである。 体制反対とか、哀愁色彩とかいうものはかなり少なかった。 こういった文学理念が、作家の自殺を誘うことは、まずないと思う。 次は、中国人の審美観を見てみよう。 中国人の美意識は社会生活の理性精神に富んでいる。 儒教では、美の社会性、功利性を重んじている。 儒教の美学観は美の社会性、功利性が強く、社会生活、倫理道徳につながる。 道教では、人格精神と天地自然との統一を求めている。 上記から見て、道教は人間が物によって役されることに反対し、「自然」「無為」を主張し、人格心身の絶対な自由を要求するからと言って、人生が嫌になり、来世を求めることはしない。 したがって中国人には、仏教の影響による悲観厭世の美意識はたいへん少ないのである。 上記から見て、中国人の美意識は社会生活の理性精神を重要視し、人々はめったに空想して精神的な天国を追求しない。 虚無的精神的追求は少ないのである。 ・「忍辱偸生」 侮辱を忍んでどうにか生きていく。 これらは中国人の死生観をよくあらわしている。 こういった死生観は、中国の特別な社会歴史の要素によって形成されたものであるが、この中には、中国人の倫理観、価値観が潜んでいる。 奴隷社会では、「普天之下、莫非王土、率土之、莫非王臣」と言われ、貴族に反対する古代ギリシァ、ローマのような強大な平民がなく、氏族から転じてきた奴隷主の貴族のみが政権を握っていた。 国家が作られてからも、元の血縁関係から離脱しなかった。 封建社会では、小家庭を単位とする農業と手工業の結合で、安定して自己調節できたので、資本主義の芽生えを抑えていた。 そして支配階級は文化専制主義を推し進め、秦の始皇帝の「焚書坑儒」、漢の武帝の「廃黜百家、独尊儒術」など、人々の思想を制圧してきた。 科挙を通じて人材を選抜する一方、他方では残酷に異端を弾圧して、「学」と「仕」に結びつけるようにした。 したがって倫理思想は政治と一体化し、強固な血縁と宗法色彩を帯び、強烈な「中庸」の息吹を持っている。 それで人倫、精神、人道を重んじて、倫理を実現し、功業を達成させることを生命よりも高いものとされていた。 儒家と道家の思想の影響によって、「五四運動」までは中華民族の自殺率は低かった。 「五四運動」の「孔家店を打ち砕け」による儒家思想の弱まりによって、いくらか自殺者が増えた。 資料収集と紙幅に限りがあるので、日本近代以来最も影響のある10人の自殺だけを例にして、その自殺の原因を分析してみよう。 いくつかの項目により比較する一覧表を次の通り作ってみた。 19世紀末から20世紀はじめにかけての日本の近代史は、西洋社会の進歩を圧縮した形で一時に再現しようとした時代であった。 西洋の目覚しい進歩は、長い伝統を基礎として初めて可能であったが、ところがそういう基盤を持たず、鎖国期の孤立した社会から突如として近代社会への転換を企てた日本の場合には、数え切れない複雑な問題が現れた。 最も社会に敏感な階層としての知識人は、社会の抱えた問題に気づきやすい。 しかも、それへの反感から、批判を加えたり、抵抗したりして、大人しくする「順民」は少ない。 したがって、文人・作家の自殺は、ある程度から言えば、社会の風見のようになっている。 文人の自殺の様子から、大体、その当時の社会の事情を窺うことができるわけである。 筆者があげた日本の最も有名な自殺文人の置かれた時代は、北村透谷の生まれた1868年から、川端康成の自殺した1972年にわたって、前後して104年、一世紀あまりである。 日本の時代区分から言えば、ちょうど明治維新の年から、沖縄返還実現と日中共同声明国交正常化の年にかけてである。 明治時代全般、大正時代全般と昭和時代の大半をカバーしている。 前述の分析を通じて、我々は、文人の自殺は殆ど、社会の脈動に深くかかわっていると分る。 北村透谷の場合、近代自我と時代・社会との対峙相剋を認識し、魂の触覚を近代の外部に伸ばそうとし、社会の猛烈な抵抗に遭遇し、社会に自我の確立を求められず、悩みの挙句、遂に若くして生命を絶ったし、自殺のドミノ効果を引き起こした16歳の一高学生藤村操も、天皇絶対主義・国家主義思想の蔓延した中で、近代自我に目覚め、「先に国家、後は個人」に哲学的懐疑、苦悶、絶望した結果、自殺したのである。 この二人の自殺は、もちろんデュルケムの言う「社会的統合力」にかかわっていた。 一方では、明治時代は江戸時代ほど統制が強くなかった点において、この二人の自殺は近代社会の文明や進歩を標識してはいるが、もう一方では、彼らの自殺した時の社会は、決して統合力が弱い方でもないのである。 むしろ明治中期の天皇絶対主義や国家主義思想がのさばっていた時代と言えよう。 明治維新はアジアのどの国よりも早く、立ち遅れた封建的生産関係生産方式の束縛を突き破って新しい生産方式と社会文化を成功裏に作った一方、維新以降の「富国強兵」の政策は、列強の弱肉強食の国際規範に因襲し、侵略略奪の歪んだ道にずれたので、先覚者が、必ず、それを疑ったり、それに反抗したりするのは当たり前である。 この二人の自殺は全く自己本位とは言えず、後の人々に対する先駆や目覚ましの作用があり、少なくともある程度、積極的自殺といえそうである。 それで、ある意味では、デュルケムの理論では説明しにくくなる。 川上眉山の場合、侵略に拍車をかけて、人民の生活難に見向きもしない明治政府のもとで生計に困った上、自然主義思潮の気勢にのまれた悩みから自殺したのである。 文学的に行き詰まりという点では、自己本位の種類というデュルケム理論に当て嵌められるが、もう一方では、まさにデュルケムの見逃した経済的原因によったものであるので、デュルケム理論はやはり当て嵌まらないのである。 大正時代に自殺した者は、この10人の中、有島武郎ただ一人であるが、彼の自殺は男女心中の形ではあるが、逍遥の言う「消極的自殺」の類に属している筈であって、宮島喬氏のまとめた「宿命的自殺」の中に分類できそうに見えるが、前述したように、その深層的原因として「第四階級」の発展を予感し、自階級の前途への絶望を感じた上、社会道徳から追い詰められて、知識人の潔癖から、経済的方法で解決しようとせずに、愛情至上に逃げ場を見つけて、「生命の燃焼」という自殺をしたのである。 したがって、有島の自殺もデュルケム理論では、完全に説明されにくい。 昭和時代になってから、芥川龍之介の自殺は、精神的要因以外に主として彼自身が言ったように、未来社会への「ぼんやりとした不安」がその要因である。 牧野信一の場合も、その本人の神経衰弱も原因の一つであるものの、「2・26事件」発生の9カ月後、国内の右翼勢力の台頭が牧野の社会への絶望をもたらさないとは、断言できるであろうか?ましてや、牧野の場合、眉山と同じように、生計困難というデュルケムの見逃した原因もあると思う。 有島、芥川、牧野の自殺は、確かに社会的原因に関わってはいるが、社会的統合力が弱くなったという明確な証明が見られないではないか。 太宰治の自殺は1948年に起こったのであるが、その当時の社会はまだまだ「特需」とか「神武景気」とか「岩戸景気」とかいう経済飛躍の気配は毛頭見せていなかった。 焼け跡や闇市などの敗戦のシンボルともいうべきものがなお残っていた。 とくに、侵略戦争を起こして「御国」のことを無限神聖なものとし、人間の個人の自由と利益は、殆ど全部奪い取られてしまう戦争中の思想への統制さえなければ、敗戦後、その反動としての堕落鼓吹に全力を尽くした無頼派が生ずることは、まずない筈である。 したがって太宰治などの退廃と堕落もあるはずがない。 したがって、あくまで追求すれば、無頼派の退廃、堕落と社会への絶望の根源は、やはり、この「大東亜戦争」にあるのではないかと思う。 もちろん、戦後の滅茶苦茶な社会で、ほかの人はなぜ自殺しなかったのかという点からすると、太宰や田中英光自身には、確かに彼ら自身の原因も認められる。 太宰と田中の自殺はある程度、デュルケムのいう「アノミー型自殺」に近いと思う。 社会的要因を最も著しく表現したケースは、原民喜の自殺である。 研究者たちはいろいろ民喜の精神的要因を過大視して、その社会的原因を見逃した。 虚無的要素も否定できないが、米、ソなどが核戦争を起こそうとして社会に核の脅威をもたらしたため、彼は戦争に対しての反感、抵抗と恐怖から発する人類の前途への絶望などが主な原因となって自殺したのである。 当時の情勢が、核戦争になりそうな危機一髪のものでなければ、原民喜は、ひょっとしたらもう少し生き延びただろうと思う。 ところで、70年代初めの三島由紀夫と川端康成の自殺にも社会的要因があるが、事情はだいぶ違うものだと思う。 なぜかと言うと、太宰治の自殺までは、社会はまだ、いろいろ不満足な点が多かったが、70年代以降、平和憲法のもとで、一歩ずつ民主化へと歩むとともに、人民の生活も、世界の経済大国になったくらい豊かになった。 社会的歪みが既になくなったとはもちろん言えないが、大きな流れとして、日本は基本的に、ある程度、自国の世界での位置と果たすべき使命が分るようになって、平和を求めるために、世界の人民との心の触れ合いを求めようとしている。 それなのに、このような社会に不満を懐き、自殺を敢行したケースは、何と言っても反社会的な行為と言わざるを得ない。 三島の場合は、過ぎ去った「大日本帝国」の伝統を追求し、パフォーマンスをやってのけた自殺であったし、川端の場合、社会の発展、進歩が自分と全然関係ないという現実社会への不満から、美への発掘をする中で仏教的涅槃に憧れる虚無的生死観を懐き、「功成りて名遂げた」時、涅槃的な自殺を遂げた。 この二人とも輪廻転生の夢を見ていたのかもしれない。 さて、社会、国家乃至世界という視角で歴史的に全面的に文人の自殺を見れば、その自殺者には、それぞれ違った生理的原因とか、心理的原因とかがあるにもかかわらず、その共通となる主な原因は、社会的要素となっている。 これまでの多くの研究者、特に、精神医学者たちは、自殺者の生理状態や心理状態に拘り過ぎて、自殺者を国内乃至国内の社会環境の中に置くことをあまりせずに、自殺文人の個人的生理的原因を過大視したりして、「神経衰弱」や「狂気」や「非社会的」とかいう結論を下す傾向がある。 文人であるだけに、神経は繊細で、自分の置かれたマクロ・ミクロの社会環境に、並の人の倍ぐらいに敏感であるから、ごく個別のケース以外に、たいていの文人の自殺は、社会的原因と切り離すことが出来ず、社会学的に説明できそうである。 日本の近代までは、心中や武士の切腹が多かったが、近代に入ってから、文人作家の自殺が著しく増える。 バッシュレール理論によれば、時代の発展と文明の進歩の標識と言える。 現代では自殺する作家がますます少なくなるのは、近代以来の文人・作家たちほど、真剣に社会への使命感に燃え、真剣に人生を思索することをしていないことを物語っていて、これもかなり思索に値するのではないかと思う。 辛亥革命で清王朝が倒れたが、革命の成果は軍閥にのっとられ、反封建主義、反帝国主義の「五四運動」が起こるまでに、革命先駆者としての陳天華は、海に身投げして封建主義反対の先兵となった。 陳天華の自殺は藤村操の自殺よりも、積極的意義がある。 それと反対に、倒れた清の廃帝の教師を担当したことから、孔孟の古い倫理道徳に殉じた王国維の自殺は、取るに足らなかった。 「五四運動」があってから、胡適や陳独秀や魯迅などが、封建文学を倒そうとした結果、現代文学としての「狂人日記」などが現れたばかりでなく、儒教思想の束縛から解放されたからこそ、王以仁や朱湘などの自殺があったのである。 したがって、王以仁や朱湘などの自殺は、その軍閥混戦の社会の歪みを訴えるとともに、封建王朝の束縛から解放された社会の進歩をも示した。 この点では、透谷や眉山などの自殺と大差がない。 とりわけ、貧困に追い詰められて自殺した朱湘の場合、生計に困って人の厄介になる引越しの前日に自殺した眉山と、なんと似通っていることであろう。 ところで、陳布雷の場合、わりと特殊なケースであるが、中国の知識人としての彼は、自分が将来性のない人に仕えて、誤った道に嵌ったと知っていながら、改心しようとせずに、あくまでもその政権に殉じたことも、儒教思想の束縛以外の何物でもない。 1949年からプロ文革にかけては、中国の文人・作家の災難に満ちた歳月であった。 連続した政治運動は、「三反」「五反」「鎮圧反革命」運動以外は、殆どその矛先は全部知識人に向けられたものであった。 「反右」の時に自殺した文人作家はまだ夥しいとは言えず、プロ文革中、非業の死に迫られた文人作家は数えきれないのである。 しかし、この3人とも儒教思想の影響から、自分の人格を守るために死を以って迫害に訴えたのである。 ここから見て儒教思想は、人間に「気骨」というものを与えることができ、糟粕でない精華部分は馬鹿にされない。 大陸と社会制度の違った台湾作家三毛の自殺は、何と言っても、やはり、仏教の虚無的思想の影響によるものだと言えよう。 三毛の自殺はデュルケムの婚姻事情の法則に当て嵌まるものである。 あの世に行ってしまった夫の傍に行きたいというのは、社会とそれほど関係がなかったかのようであるが、実際、三毛に不安感を生じさせたものは、社会以外の何物でもなかった。 ルポ老作家徐遅の自殺は、1996年に起こったことであるが、これは、転換期の純文学を頑張った文人・作家の心理的アンバランスの屈折による。 それとともに、現代社会の社会病--老人問題を仄めかしている。 この点において、田宮虎彦や江藤淳などの自殺と似通ったところがあるのではないかと思う。 まとめて見れば、日本、中国の文人・作家の自殺には、個別なケース以外に大抵、社会事情がかかわっている。 日本の文人・作家の自殺は、同じアジアの中国の作家・文人の自殺とは社会事情の違いで、完全にデュルケム理論で説明しきれない。 透谷や操などの自殺には積極的な一面があるが、デュルケムたちは、それを見逃している。 一方、三島、川端の自殺は、透谷、操の自殺と同じく反社会的性格を持っているが、透谷、操の自殺は、進歩的思想を代表し、社会の前進を推し進める働きがあるのに対し、三島、川端の自殺は、逆コースを代表していて、社会の後退を願っていたから、消極的な作用と影響が大きい。 しかし、自殺は、倫理上、いったい悪いかどうか、これはかなり複雑な問題である。 昔から自殺に対しては、哲学者や宗教家によってさまざまな意見が述べられ、そして、時代や国や民族や信仰などによって道徳的な評価には、幾多の変化も見られた。 カントは故意に己れの生命を断つことは、まづ其が一般に犯罪であると証明され得る場合にのみ自殺 homicidium dolosum と名づけられる。 この犯罪は或いは吾吾自らの人格に対して行われ、或いは又かく己の生命を断つことによりて他の人格に対して行われる 例えば妊娠している人が自ら死ぬ場合の如く と書いて自殺を基本的に否定しているが、また、 祖国を救うために自ら万死の中に突き進むことは自殺であるか?--或いは人類一般の福祉のために身を犠牲に供する決意的殉教は亦之と等しく英雄的行動と看做さるべきか という疑問を出している。 坪内逍遥は、「自殺は二大別あり、殆ど救ふべからざるものと救ひ得べきものと、是れなり」と分類し、「救ひ得べきもの」を「消極的自殺」と「積極的自殺」に分けている。 逍遥の結論として、 自殺は絶対に非なるにあらず、利他救世の誠意の存在は多少之れをして是ならしむるなり。 但し単に自己の為のみにする消極的自殺は概ね皆非認すべし。 その形体苦のためにすると精神苦のためにすると其の有形を対象とすると、無形を対象とすると、動物欲のためにすると悔恨、慚愧、憤怨、嫉妬のためにすると名誉欲、権力欲、究理欲等のためにするとを問はざるなり。 そのうち業秒不治のために自殺するは人情の上より之れを憫み、罪悪悔恨のためにするは倫理上より見ても幾分か是なりとなす。 若し夫れ謂ふ所超倫理の批判に至りては、悉く人類と絶ち悉く人道を離れて事を是非するの標準成り立たざる限りは、殆ど全く意義無きにひとし というものであった。 筆者は逍遥の観点に基本的に同感している。 普通の中国人の目から見れば、自殺は生存意志の貧弱な臆病行為だと言われる。 実際、プロ文革中の自殺者はほとんどが冤罪を蒙って自殺したのである。 「江東の父老」に面する顔がないと烏江で自決した項羽は、絶対に劉邦を畏れたというわけではない。 項羽は自殺を以って、自分の名誉と節操を保てたのである。 プロ文革中、中国現代の優秀な作家老舎の場合、その投水自殺も絶対に「罪」を畏れるのではなくて、自分の人格を紅衛兵の侮辱から守るためであった。 したがって、自殺者にたいして、一概に弱虫だと論ずることは公平を失うことであると思う。 否定論として、臆病や無責任や人生の敗北などであるとか、精神が錯乱したり、権利を剥奪されたり、絶望したり、利己的に過ぎる人間にはもってこいの末路 西洋人 である、とかがある。 それに対し、肯定論としては、何かよいものを追求したり、悪いことと抗争したり、それから逃避したり、人々に訴えたり、呼びかけたり、目覚ませたりするように、危険や侮辱から個人の人格と尊厳を守る行為で、勇気のある、男らしくて尊重すべき行為とか、正義、正統とされる事業や人間に殉じる英雄的な行為とか、恥ずかしくて自分の汚名を雪ぐような背徳謝罪や引責謝罪の行為とかがある。 全体から見れば、カトリック教の影響の強い国では、自殺は少ないが、仏・禅の影響の強い国では、自殺はわりと多い。 国と民族によって違う自殺に対しての議論と評価はケースバイケースである。 各種の文化の是非を評論することは難しい。 ある要因に迫られて死よりも生の方がもっと苦しく思われる場合とか、または、人間らしく堂々として健康に生活していけないうえ、生存条件を変える力がない場合とか、果てしない苦しみからの解放策として、良心をごまかして辛うじて生きていくより、むしろ清らかで潔く死んでしまうほうがいいという自殺した死者を厳しく非難することは出来ない。 それにしても、自殺はあくまでも生命の誤った道であって、人間の生命は尊いもので、一回しかない。 そして、人類の歴史と全ての財産は人間の生命活動の基礎の上に作られてきた。 避けることが出来ればやはり自殺しないほうが妥当である。 無視できないことには、現代社会では、生を軽んずる傾きは往々にして現代意識の中の人文思想に繋がっている。 人々はますます人間の自己価値、個性、尊厳、独立人格、内省を重んじれば重んじるほど、現在の秩序の抑圧と人間関係の隔たりによる孤独感と苦悶が生じやすい。 そこで自殺に救いを求めるのである。 これは、社会のよりよい改善と現代科学意識の発展に期待を寄せるとともに、有益な古典を勉強して、現代でますます希薄化していく人間自身の心理素質と精神の修養を高めるほうも肝心ではないかと思う。 同じ東アジアにおいても、儒家思想の影響で中国の文人は特殊な政治運動の時期 それでも気骨を守るための自殺は多い 以外に自殺者が少ないのに対し、神道、仏教の影響で日本の文人は自殺者が多い。 日本、中国の文人・作家の自殺は本物の精神病によるものが極めて希で、殆どが社会的要因に関わっている。 この点について、フランスの社会学者デュルケムが誰よりも先に社会的要因に着眼した「自殺論」の意義の重要性は否定できない。 全体的に言えば、日、中の文人・作家の自殺は社会的要因という点で、大抵のケースはデュルケム理論に当てはまるものである。 然るに、デュルケム理論はあくまでも、19世紀のヨーロッパの国々に向けたものであって、百年来のアジアの日本と中国に全てがぴったりと当て嵌まるわけではないのも理解できそうなことである。 宮島喬氏の指摘したとおり、「自殺論」の著者は、自殺の「社会的」要因をいろいろ挙げるに当たって貧困、経済的危機、病苦といった要因を見逃しているので、日本の川上眉山や牧野信一や中国の朱湘などの自殺は、デュルケム理論で完全に説明できなくなるのである。 なおデュルケムは、自殺する人間の動機を受動的なものとして固定的に捉えているように思われ、自殺者の主観的能動性 社会発展に積極的な自殺及び社会発展に不利な消極的な自殺に分けられると思う を見逃している。 透谷や操や陳天華や老舎などの自殺には積極的一面がある一方、三島や川端や蓮田や王国維など、社会の後退を願ったものであるから、その消極的な作用と影響は無視できない。 プロ文革中、社会の統合力がいままでになく強いのに、夥しい数の文人・作家の自殺者を出したのは、政治運動の迫害によるものである。 婚姻の良好状態は自殺者のへ圧力を緩めるのに足らないことを物語っている。 だから、デュルケム理論は常態社会にしか当てはまらないが、非常態社会 中国のプロ文革中など には当てはまらない。 それから、明治という専制支配時代の文人・作家の自殺は、低年齢という特徴があるのに対し、60年代後半に入ってからの文人・作家の自殺は、田宮虎彦や江藤淳や徐遅などのように、高年齢化の傾きがある。 老人問題という深刻な社会問題を仄めかしている。 新作映画の公開はもちろん、「冬のソナタ」を初めとするテレビドラマも次々とNHKBS2で流れている。 「冬のソナタ」で一気にスーパースターとなったぺ・ヨンジュンは「ヨン様」と呼ばれ、多くの中高年女性の心を掴んだ。 ヨン様は電通が行ったインターネット調査「消費者が選んだ2004年上半期の話題商品ベストテン」の第4位となり、彼は大塚製薬「オロナミンC」、ロッテ「フラボノガム」と「マカダミアチョコレート」、SONY「ハンディカム」、ダイハツ「ミラ」、KDDIau「グローバルパスポート」などのテレビコマーシャルに出演するなど、日本のテレビや雑誌に引っ張り凧となっている。 一方、韓流には負けまいという勢いで、映画や流行歌をはじめとする香港のポップカルチャーも日本に進出している。 昨年末、梁朝偉 トニー・レオン 、木村拓哉、章子怡 チャン・ツィイー 、王菲 ウォン・フェイ といったアジアのスーパースターの豪華共演を実現できた王家衛 ウォン・カーウァイ 監督の香港映画「2046」が日本で初公開された。 中国のエンターテインメントと言うと、張芸謀 チャン・イーモウ 監督の「英雄」に続き、章子怡、金城武、劉徳華 アンディ・ラウ をキャストとするアクション映画「ラヴァーズ」も大いに日本で受け入れられた。 そして、中国の古典楽器に西洋的ポピュラーミュージックを融合させた「女子十二樂坊」は2003年から連続2年間日本で演奏会を開き、日本中に旋風を巻き起こした。 これらの現象を考えてみると、どうもアジア漢字文化圏のメディアとポップカルチャーの交流は、非常に顕著になっており、アジア全体の文化向上のためにそれぞれの国と地域はお互いに協力しているように見える。 かつて、ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」1983 の中で国民国家という共同体は活字メディアと国語の普及により作られたものだと指摘した。 現在、映画、テレビや衛星放送、CDやDVD、インターネットといった新しい視聴メディアは、あたかも地域共通の「汎東アジア文化」とでも呼ばれるものを生み出しているようである。 このような流れの中で、日本のポップカルチャーはアジア地域においてどんな影響力を持っているのか、地域の文化向上にどんな役割を果たしてきたのか、そしてなぜ広く消費されたかについて、今日は、主に1990年代半ばから2002年まで中国でヒットした日本のトレンディ・テレビドラマ 通称「日劇」 を例にして、日本の文化商品を消費する一つの主力である中国人大学生の声を交えながら、分析していきたいと思う。 ここで用いるデータは、主に中国における日本大衆文化の受容に関心を持つきっかけを与えてくださった香港大学の中野嘉子博士と共に、2001年から2年にかけて北京、南京、上海、蘇州で行ったインタビュー調査の結果である。 今日のお話も二人の共著の論文「プチブルの暮らし方 中国の大学生が見た日本のドラマ」をベースにしている。 ここで取り上げる例は、経済発展の著しい江南地域の都市部に住む大学生のことであるから、彼らの日劇に関する考え方や日本観は中国の一部の大学生の声しか反映できていないことを敢えて強調したい。 私のお話を聞いていただき、日本大衆文化の海外での受容の現状や、1990年代以降の中国の急激な社会変動を少しでも理解してくだされば幸いに思う。 1990年代初期、中国の計画経済システムが全面的に市場経済に移行するにしたがって、大都市では外資系のデパートやスーパーマーケットが次々とオープンし、その豊富な商品、多彩な陳列法、そして明るいショッピング環境が中国人の目を丸くさせた。 ケーブルテレビ、衛星テレビネットワークの実現やマスメディア産業の発展は、中国人が海外の映像を見るチャンスを増大させた。 スイッチを入れれば、外国の人々がどんな日常生活をしているのか、画面上でいつでも見られるようになった。 こうして外国人との暮らしの違いが目に見えるようになった1995年3月に、上海東方テレビ放送局は中国語版の日本テレビドラマ「東京ラブストーリー」を放送し、大ヒットさせた。 これをきっかけに、日本のテレビドラマは中国の都市部若者の間で人気を集めた。 ここで言う日本のテレビドラマとは、1980年代後半のバブル絶頂期に制作し始め、そして1990年代に入ってからのバブル崩壊を背景に、フジテレビ、TBSなどの民放テレビ局が制作した東京の若者の都市生活を描くトレンディ・ドラマやポスト・トレンディ・ドラマのことを指す。 20代の人気アイドルが主役であるから、中国では「日本青春偶像劇」と呼ばれ、また「日劇」とも略称される。 これはテレビがまだ普及していなかった1980年代 千人に一台 の頃に、中国全土でヒットした日本のテレビドラマとは全く違うタイプで、主に台湾や香港でのブームを受け次第に中国の都市部若者の間に浸透してきたものである。 1980年代の人気日本テレビドラマというと、主に四つある。 第一は、テレビ番組の不足を埋めるために海外の番組を輸入し始めた80年代初期に、上海電視台によって中国語に吹き替えられた「姿三四郎」である。 次のヒット作は、日本女子バレーボール選手の戦う姿を描いた「サインはV」である。 三番目は、1984年に放送された山口百恵の「赤い疑惑」である。 当時、このドラマの放送時間になると、皆一目散に帰宅したり、テレビのある親類や友達の家に集まったりして、町中の道路が閑散となったという人気振りだった。 四番目のヒットドラマは「おしん」である。 これらの人気ドラマに共通する特徴は、いずれも各年齢層を越えて注目を集めるホームドラマであり、伝統的な家族生活、家族愛、人間関係、若者の純情、誠実な愛情、日本人の勤勉さ、忍耐強さ、残酷な運命と戦う精神などを描くものが多かったのである。 それは、主に視聴者層が10代後半から30代半ばまでの若者向けの恋愛ドラマという点で大きな違いがある。 北京、南京、上海、蘇州などでインタビューをした時、大学生たちは皆楽しそうに「東京ラブストーリー」「ロングバケーション」「GTO」などのことを語ってくれた。 彼らにしてみれば、日劇の魅力はストーリーの面白さ、キャラクター、ドラマの魅力を高める制作技術 テーマソングとバックグラウンド音楽、行き届いた細部描写、繊細な心理描写などの非言語効果の使用 、適切な長さ、文化的近似性 容姿、感性、愛情表現、人間関係 などの要素である。 しかし、中国の現代化した都市地域に暮らす若い学生たちが最も共感を抱いたのは、日劇の中に映った中国国内のテレビ番組にはないリアルな等身大の物語、つまり自分と同じ年齢の異国の若者の大都会での恋愛模様、友情、仕事、暮らしぶりなどである。 例えば、2001年に南京の東南大学で調査をしたとき、コンピューター・サイエンス専攻の大学3年生王浩君は、「東京ラブストーリー」を見た後の感想を次のように述べてくれた。 完治は日本の会社に勤めているごく普通のサラリーマンでしょ。 僕らもあと2、3年で彼のような会社員になりますよね。 そうすると彼の身の上で起こった恋愛物語は僕の上でも起きるかもしれないし、僕の周りの人々にもあるかもしれない。 上海同済大学で力学を専攻し、夜は繁華街のパブでピアノを弾いて月に2万元の高額なアルバイト代を稼いでいる四年生の陳傑君は、福山雅治と常磐貴子主演の「めぐり合い」を4、5回も見て、心がゆさぶられるほど感動したという。 このドラマが僕に深い印象を残してくれたのは、とても自分の生活に似ていて、これまでにない共感を覚えたからです。 …中でも福山雅治が演じる役に最も共感します。 彼は建築エンジニアですが、僕の専攻もそれに近い。 彼は撮影が好きなので、卒業後建築関係の仕事に就かず、アルバイトをしながら、写真を撮ったりして、撮影の勉強をしていました。 つまり、職業を選択することや、理想の仕事と現実生活の関係を処理することにおいては、このドラマは僕と共通点がありますね。 僕も時々音楽を自分の職業にするかどうか迷っています。 ですからこのドラマを見たとき心が痛みました。 人間は自分の道を選択する時はとても迷ってしまいますね。 陳君は結局高給取りの方を選択し、今も徐家にある台湾人経営のパブでピアニストをしている。 彼のこの証言は、日劇のリアリズムが若い視聴者を惹きつけ、彼らに感情移入を引き起こさせたことを示唆している。 ドイツとの教育や文化交流が盛んな上海同済大学でコンピューター・サイエンスを専攻している銭勇君は、日本の若者のライフスタイルに目を向けている。 彼は次のように語ってくれる。 彼らは狂ってるほど仕事をしてるね。 週末も残業をする。 大企業はHigh-risesがいくつもあってね。 日本人は水を沸かさないで直接蛇口で飲む。 彼らの冷蔵庫はでっかいね。 スラム街に住んでいる人もいるが、金持ちはみんな高級マンションに住んでいる。 「ラブ・ジェネレーション」でみたら、日本人はセックスに対してとても開放的でね。 夜遅くまで外で生活をしてる。 男女デート用の専門ホテルさえあるし… ドラマの中の暮らしぶりが若者に注目される点は、戦後日本の「朝日新聞」に掲載されていたアメリカのマンガ「ブロンディ」が日本人に受容された頃の状況を連想させる。 当時の日本人にとって、電化製品に囲まれたアメリカ人の便利で豊かな家庭生活は夢のようだった。 中国の若い学生たちの目に、「衣食の心配がない」日本の若い男女が送っている自由で充実した豊かな都市生活と美しい恋愛物語は夢のように映る。 中国では長い間、テレビドラマを娯楽ではなく教育メディアとして捉えてきたから、共産党のイデオロギー的な要素が強く出てくる。 新中国誕生とその発展の歴史や、社会主義建設の業績、改革開放の著しい成果を題材にするドラマは、キーノート・ドラマといって、国家のプロパガンダのような役割を果たしている。 娯楽としての主力ドラマには、時代劇がある。 清朝の宮廷を舞台に、清廉潔白な官僚と貪欲な悪徳官僚を対照的に描くことで、実際は現代の政治腐敗を風刺している宮廷ドラマは特に人気がある。 香港の作家金庸、古竜の原作に基づいて制作した、日本で言う剣豪ドラマも人気がある。 もっと身近な題材のドラマというと、主に都市と農村の住民の家庭生活を描くホームドラマや、「改革開放の問題点」とされた浮気、失業、犯罪などのことを扱ったドラマがある。 どれも内容が切実で、若い人々に夢を抱かせるようなおとぎ話ではない。 主義主張のない娯楽映像というと、香港、台湾などの華人社会の映画・ドラマ、そしてハリウッドと日本のものがある。 恋愛ドラマは、1980年代の後半から香港、台湾、シンガポールのものが放映されてきたが、これも日米のアニメを見て育った世代には物足りなくなる。 というのは、これらのドラマは、往々にして金持ち一族の話で、家柄の格差がモチーフで、若い世代のラブストーリーに親世代の葛藤が織り込まれ、幾組かのカップルが登場し、主人公の年齢設定も少し高い。 話の展開が複雑だから、延々と40話以上続いてゆく。 親が姿を見せない一人暮らしで、恋愛そのものをテーマにし、その過程におけるさまざまな喜びや悩みを繊細に描写するものは稀だった。 そこへ、織田裕二演じる田舎ッ子の永尾完治が、鈴木保奈美演じる都会ッ子の同僚赤名リカと恋に落ちる「東京ラブストーリー」が放映され、大当たりしたのである。 突然、こういった種類の日本製トレンディ・ドラマが出てきて、描いている主人公は自分たちの年齢と大体同じで、ストーリーはまた身の回りでおきる可能性のあるラブストーリーですから、みんな興味津々でしょう。 上海大二女子経営学専攻2002年夏 中国の若者には、東洋の隣国の大都会にいる同世代の主人公たちが繰り広げる恋愛物語が新鮮に映った。 ハリウッド映画は、1995年から年に10本輸入され、中国語に吹き替えて上映されるようになり、香港映画と共に中国の娯楽映像の主流となっている。 しかし、ハリウッド映画と日本のテレビドラマとを比べると、上海外国語大学英文科の2年生で、学内放送のDJをしている陳偉君は、「 たとえば両親が映画で ヨーロッパ系の人を見ていると、非常に自分とは遠いなという感じすると思う。 つまり動物園でも見ているような感じ。 日本人を見ていると、お互いに似ているという気がします。 みなアジアの民族ですから、感情面が理解しやすいし、彼ら ドラマの人物 が何を考えているのか理解できるから」と、文化と感性の類似性から日劇の受け入れやすさを語ってくれた。 その影響で、日劇の人気は1990年代の半ばに、上海という国際大都市で爆発的にヒットした。 1995年3月に中国語に吹き替えられた「東京ラブストーリー」が上海東方電視台により放映された。 このドラマはその後すぐ北京と地方都市のテレビ局からも放映され、全国的に好評を博した。 この結果を踏まえて、中国各地のテレビ放送局は、質の高い日本ドラマを導入し始めた。 日劇は、中国国内のテレビで放映される場合、まずテレビ放送局で中国語に吹き替えて、直轄市や省レベルの地方テレビ局、もしくはケーブル・チャンネルで放映される。 中央電視台や衛星チャンネルのネット放送網を通じて全国的に放映される場合もある。 しかしなんといっても中国における日劇の普及は、上海の各テレビ局による放送に負うところが大きい。 例えば上海電視台14チャンネルの「白蘭氏劇場」は、上海各テレビ局から中国語字幕つきで原語による外国の映画とドラマを放映する番組である。 1997年から、この「劇場」は普段勉学に忙しい学生のために、日本のテレビドラマの番組に倣って、「日曜劇場」と銘打った時間帯を設け、中国語字幕付きで日本語のドラマをそのまま流す番組を作って、毎回2、三話の日劇を放映してきた。 青少年を対象にする上海教育電視台も、2000年より毎夕6時から7時までの1時間を「青春劇場」とし、主に日本のドラマを放映してきた。 上海東方電視台は、平日の連夜、いわゆる帶番組で日劇を放映していた。 1990年代半ば頃から2002年まで、上海で放映された日劇は、「101回目のプロポーズ」「一つ屋根の下」「理想の結婚」「Beautiful Life」など、50作品を超えていた。
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