北陸本線旧線(敦賀・今庄間 鉄道廃線跡)を走る 北陸本線旧線(敦賀・今庄間 鉄道廃線跡)を走る 北陸トンネルが開通する1962年6月10日までは北陸本線は敦賀(つるが)今庄(いまじょう)の間を山の中を通っていました。 それは勾配が1000分の25という鉄道にとってはかなりの勾配を,山の中をぬいつつ,ぬけていたのでした。 今でも北陸自動車道はこの間を山の中をぬい,しかも上下線が別ルートというように,やはり山越えの難所なのでしょう。 この,かつての鉄道が通っていた廃線あとを通り抜けてみました。 高速道路を利用すれば,あっと言う間に通り過ぎますが,時間があればゆっくり通り過ぎると,トンネルをくぐればまるで列車の運転席にいるような気分にさせられます。 また,なんといっても杉津(すいづ)からの日本海,敦賀湾の眺めが最高です。 高速道路でも杉津にパーキングエリアがありますから,そこから景色を眺めることができます。 このパーキングはぜひお立ち寄りいただきたい,おすすめの場所です。 (特に下り線,米原から金沢への方向)そこからの景色もこのページに登場します。 (左は北陸トンネル開通記念の急行券です。 ) 各ページには撮影地近辺の地図が掲載してあります。 まずは全体の地図をお示ししましょう。 (杉津から約7km沖合上空15000mから。 レンズは50mmの標準レンズ) では敦賀から 写真はクリックすると大きな写真となります。 また,次々と次のページに進むこともできます。 (写真撮影日 2000年8月27日) 敦賀市内から国道476号線を走る。 そして,まず国道8号線の下をくぐり,続いて北陸自動車道の下をくぐると,いよいよ山の中へと入っていく。 現在の北陸本線は木の芽川を渡って,すぐに北陸トンネルに入るのだが,旧線は川の右岸を山の中へと向かう。 木の芽踏切にて,今庄方向(下り方向),北陸トンネルの入り口を1枚撮影。 木の芽踏切から反対側敦賀方向(上り方向)。 上を通っているのが北陸自動車道。 このあたりから旧の北陸本線が分岐していたようだ。 木の芽川に沿って走る。 右に木の芽川がある。 今庄方向。 右の町は深山寺という町で,現在の北陸本線はすでに右の山の中の北陸トンネルを進行中。 北陸自動車道の上り線の下をくぐり,すぐに下り線の下をくぐり,またもや上り線の下をくぐって大きく右にカーブ。 ここで北陸自動車道は上り線と下り線が逆になり右側通行のような感じになる。 北陸本線の旧線は自動車道の下り線(今庄・金沢方向)としばし並行して走ると,いよいよ山の中へと入っていく。 そこにはまずトンネルが一つ。 国道は今庄方向のみの一方通行で,敦賀方向は山のすそをまわるように道が造られている。 上の地点で逆方向(敦賀方向)を見たのがこの写真。 北陸自動車道の下り線の下をくぐっている。 現在北陸道の橋脚補強工事中。 すぐその後にまたトンネルがある。 はじめのトンネルと同じように,今庄方向の一方通行。 こうやって木の芽川沿いにどんどん上っていく。 途中で振り返って敦賀方向を見たのがこの写真。 左下に木の芽川,右の山の中腹には北陸自動車道の下り線。 車で走ると,ひたすら上っているんだなあって感じである。 そして,左の山の中を北陸トンネルが通っている。 ほんの300mくらい離れているだけのはず。 しばらくすると,獺河内(うそごうち)の町,そしてそこに新保駅のあとがある。 右の車の止まっている広いところが新保駅のあと。 右に見える塀は北陸自動車道下り線。 ここに新保駅あとの記念碑が建っている。 なお新保という町はもっと山の中にある。 ここからは約3. 5kmは離れているだろうか。 あとで,その分岐点がでてくる。 新保駅あとの記念碑の下に新保駅構内の配置図が書かれている。 これはその部分の拡大。 新保駅あとを通り過ぎると,まもなく葉原の町が見えてくる。 ここで国道は右へ折れる。 標識には右は「新保2km」まっすぐは「今庄15km」と出ている。 北陸本線の旧線はこのまままっすぐ,国道と分かれ,県道となった道を行く。 しばらくは田んぼの見えるところを走るが,ここで少し北陸自動車道の上り線が見える。 左に土手があるのが北陸自動車道の上り線(敦賀,米原方向),右に並行して北陸自動車道の下り線。 右には下り線の「登坂車線」の標識が見えている。 いよいよ葉原トンネルが見えてくる。 手前の陸橋の向こうに入り口が見える。 この正面に見える山の下をくぐっていくことになる。 葉原トンネルは約1kmの長さがある。 この北陸本線旧線の多くのトンネルの中で,この葉原トンネルだけ信号機がついている。 待ち時間約5分。 青になってから写真を撮ろうと思って待っていて,1枚写真を撮ったかと思ったらあっという間に赤だった。 あわてて車を動かした。 葉原トンネルを出てから敦賀方向をふり返っている。 左上に見えるのが北陸自動車道下り線。 下り線も上り線もこの葉原トンネルに並行してこの山をトンネルでくぐっている。 真っ正面から見た葉原トンネル。 敦賀方向。 この後トンネルを2つぬけたら杉津駅あと(北陸自動車道上り線杉津パーキング)に着く。 1つ目は小さなトンネルですぐ向こうが見える。 左に見える街灯は北陸自動車道上り線のもの。 葉原トンネルから2つ目のトンネルをふり返って撮影。 このトンネルはちょっと長めでカーブしている。 トンネルの中に入って撮影。 杉津駅あとは現在北陸自動車道上り線(敦賀・米原方向)のパーキングとなっている。 しかし下り線(今庄・金沢方向)のパーキングがさらにこの上にあり,そちらの方が景色がとてもいい。 山の中で上下線が入れ代わり,右側通行になっている。 これは上り線パーキングの芭蕉の句碑。 「奥の細道」の中の敦賀での一句 「名月や 北国日和 定めなき」 である。 写真撮影 1998年秋 上り線が右,下り線が左というように上下線が逆になっている。 正面の方向が敦賀,右下に杉津の町がある。 パーキングをちょっと大きく撮影。 右側の上り線の自動車道の少し左に北陸本線の旧線のあとの道が見える。 また,中央にS字型に見える道は麓から上り線パーキングを経由し,下り線パーキングまで上がってくる道。 敦賀方向を撮影。 この林道は山中峠から山の中を通り国道365号線へと出る。 左側が杉津の町,右側が横浜の町。 上り線より下り線が眺めがよいので,下り線パーキングへと向かう。 北陸道下り線パーキングに着いて,まず一番に腹ごしらえ。 福井名物,越前そばをいただく。 この席は一番海よりの席で,この景色を眺めながら食べる越前そばがなかなかうまい。 窓際のテーブルにそばを置き,ガラス越しに1枚撮影。 中央に見えるのが杉津の町とその先の岡崎の鼻。 右に見えるのは上り線パーキングから下り線パーキングへの上り道。 下り線のパーキングには景色のよい展望場所がある。 パーキングの海寄りに休憩所もある。 このように見える景色の説明もしてある。 カメラを持ってうろうろしていると,そこで掃除をしていた女性に「いい写真が撮れましたか?」と声をかけられる。 「ちょっと今日は天気がよすぎて,遠くがかすんでますね。 」と答える。 「この間は,すごくきれいな夕日が沈みましたよ。 いつもここで仕事をしている私たちでも滅多に見ることのできないすばらしい夕日でした。 」とのこと。 「昔はこのあたりを汽車が走っていたんですね。 」と言うと, 「あの道が,線路のあとですよ。 それから下に見える上り線のパーキングのところが杉津の駅でした。 」と指さしてくれた。 この写真がその道である。 右の方に見えるのは自動車道のトンネルの入り口だ。 「どちらにお住まいなんですか。 」と聞くと,生まれは南条で,その後今庄に嫁いだとのこと。 「昔はねえ,汽車に乗って杉津まで海水浴に来たもんですよ。 」とのことだったので,思わず 「ここから海岸まで結構あるじゃないですか。 」と驚いて聞いてしまう。 「小さいころはそれだけ歩いても,海水浴が楽しみだったんですよ。 」 「この下に杉津の町が見えるでしょ。 真下は横浜です。 杉津は左の方。 」そう言って説明してもらう。 「杉津の町の左の方が海岸で,そこで泳ぎました。 」 今日はほんとに天気がよくてかすんでいる。 「そら豆をいってもらってね。 袋に入れて腰にぶら下げて出かける。 泳いでいるうちに皮がふやけてきて,ちょうどよくなったころに食べる。 」と思い出話を語ってもらう。 「泳ぎ終わって,3時頃にまた山を登ってきて,そして汽車で帰りました。 」とのことだった。 ここから杉津の海岸まで1. 5kmはあるだろう。 下りはいいとして,上ってくるのは大変だ。 「昔の汽車はねえ,機関車が1両だけじゃなくて,2つもくっついて,しかも前へ行ったり後ろへ行ったりしながらここへ上ってきたもんです。 」 「それから,トンネルがいくつもあってねえ。 トンネルをぬけて海が見えたかと思うとまたすぐトンネルで,そうやってこの杉津へたどり着いたもんです。 」 確かに,今庄からこの杉津まではたくさんトンネルが連続している。 この写真は少し拡大してみた昔の線路あとだ。 最後に再び上り線のパーキングを撮影する。 このあたりが駅だったのだなあと考えると,ここは本当に景色のいいところだったのだ。 「おばちゃん,ありがとう。 」と言って別れる。 「はい,気をつけて。 」と見送られる。 本当はこの人しっかり福井弁でしゃべってくれたのだが,うまく表現できないのであしからず。 しかし,こうやって歩いていると,このような人とのふれあいがあるのが楽しい。 再び下って,上り線のパーキングの下をくぐり抜け,旧線のあとへと出る。 福井県の県道207号線,今庄杉津線ということになっている。 この後山中峠の下の山中トンネルまでトンネルを6つほど抜けることになる。 一つ目の第一観音寺トンネルは短い。 本籍地が京都の私は,小さい頃の夏,何回かここを通ったはずだ。 しかし全く記憶にはない。 第二観音寺トンネルは右へカーブ。 そのころ車のなかった我が家は,金沢から京都は丹後へと向かうのに,汽車を使い,敦賀までは北陸線を利用していた。 当然のことながら,今庄から敦賀まで,この山の中を通ったはずだ。 かすかな記憶では,トンネルを通るときには窓を開けてはいけないと言われていた。 それがここのトンネルだったわけではないだろうが,小さい頃の記憶だ。 続いての曲谷トンネルは左へとカーブ。 金沢から丹後までは結構長い道のりだった。 その途中,小さい頃の私はここからの景色を見て何を考えていたのだろう? トンネルを抜けるといきなり海が見えてきたりする。 こんな風景はとっても子どもの喜びそうな風景だ。 (って,自分だけ?) 左かすかに,杉津の町の岡崎の鼻が見えている。 だがこの風景もつかの間,次のトンネルへとはいる。 芦谷トンネル,そして伊良谷トンネルを抜けると最後にかなり長い山中トンネルへとたどり着く。 山中トンネルを抜けて,ふり返って敦賀方向を見ている。 これから先今庄まではトンネルはない。 少し今庄方向へ下ったところに林道の入り口がある。 右の道が北陸本線の旧線だ。 ここには「ふるさと林道 山中〜大谷線」という案内(左)と山中峠の看板が旧線寄りに立っている。 そこには山中峠の由来が次のように書いてある。 山中峠 古くから奈良・京都から北陸・東北に入る北陸道は,この山中峠(標高389m)を越えた。 奈良時代には,近江から野坂山地を越えて松原駅(現敦賀市)に達した北陸官道は,樫曲・越坂・ウツロギ峠へと小坂を登り降りし,五幡(いつはた)・杉津を経て大比田・元比田へと進み,山中峠を越えて鹿蒜(かひる)駅に達した。 この駅は旧鹿蒜村大字帰(かひる)(現南今庄)に比定されている。 このことは大伴家持の歌に 可敞流廻(かへるみ)の道行かむ日は五幡の 坂に袖振れわれをし思はば (万葉集巻十八) によってうかがえよう。 「可敞流」は鹿蒜川流域の地のことであり,山中峠越えを五幡越えといったと考えられている。 また,山中峠から木ノ芽峠一帯の山並みを「かへる山」として,古歌が数多く詠まれている。 平安初期の天長7年(830),木ノ芽峠越えの新道が開かれた。 この道は国府(現武生市)への直線に近い峠であったので,このコースに北陸道は移ったものの,山中峠越えはその後も引き続き利用された。 平成10年4月 万葉の道辺を探る会 このように落石覆いがそのまま残っている。 線路を敷けばいつでも列車が走るという感じだ。 下っていくと大桐の集落が見えてくる。 敦賀方向をふり返って眺めている。 大きくカーブする土盛り。 ここを峠を目指して汽車が登っていったのかと思うと,なかなか感慨深いものがある。 大桐の集落を過ぎたあたりに大桐駅あとがある。 ホームがそのまま残っているかのような部分である。 「大桐駅跡」という碑の裏には大桐駅の経歴が以下のように書いてある。 大桐駅の経歴 明治43年3月31日,北陸線の難所といわれ,山中トンネルを頂点とした1000分の25の勾配を有し,列車運転の緩和とスイッチバックの拠点として大桐信号所が開設された。 その後地元の要望に応え,同年6月1日停車場に昇格し,旅客,貨物の取扱営業を開始した。 当時,旅客7本,貨物6本,計13往復の列車が運行された。 昭和37年6月9日,北陸本線複線電化の近代化により,新線開業と共に廃止となる。 その間54年の永きに渡り,生活物資の輸送等,住民のシンボルとして大きい役割を果たした。 北陸自動車道の下をくぐりしばらく行くと,上新道の集落になる。 そこには木ノ芽峠への分岐点がある。 ふり返って敦賀方向を見ている。 遠く後ろに北陸自動車道が見える。 左(敦賀方向からは右)に入っていくと木ノ芽峠である。 またそれは新保の町へと続く道でもある。 いよいよこの小さな旅も終わりとなる。 下新道の集落のはずれに北陸トンネルの今庄側の入り口がある。 左端に少し見えるのが北陸トンネルの今庄側の入り口である。 最後に南今庄駅の前あたりにこの鹿蒜地区の案内図があったので撮影してきた。 敦賀からこの南今庄まで,20km近くのみちのり,撮影しながら約2時間の小さな旅であった。 にもどる おたよりはをどうぞ Prince Kochan's Productionのにもどる このウェブページの地図の作成に当たっては,国土地理院長の承認を得て,同院発行の数値地図200000(地図画像),数値地図50000(地図画像),数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。 (承認番号 平22業使,第251号).
次の北陸本線旧線(敦賀・今庄間 鉄道廃線跡)を走る 北陸本線旧線(敦賀・今庄間 鉄道廃線跡)を走る 北陸トンネルが開通する1962年6月10日までは北陸本線は敦賀(つるが)今庄(いまじょう)の間を山の中を通っていました。 それは勾配が1000分の25という鉄道にとってはかなりの勾配を,山の中をぬいつつ,ぬけていたのでした。 今でも北陸自動車道はこの間を山の中をぬい,しかも上下線が別ルートというように,やはり山越えの難所なのでしょう。 この,かつての鉄道が通っていた廃線あとを通り抜けてみました。 高速道路を利用すれば,あっと言う間に通り過ぎますが,時間があればゆっくり通り過ぎると,トンネルをくぐればまるで列車の運転席にいるような気分にさせられます。 また,なんといっても杉津(すいづ)からの日本海,敦賀湾の眺めが最高です。 高速道路でも杉津にパーキングエリアがありますから,そこから景色を眺めることができます。 このパーキングはぜひお立ち寄りいただきたい,おすすめの場所です。 (特に下り線,米原から金沢への方向)そこからの景色もこのページに登場します。 (左は北陸トンネル開通記念の急行券です。 ) 各ページには撮影地近辺の地図が掲載してあります。 まずは全体の地図をお示ししましょう。 (杉津から約7km沖合上空15000mから。 レンズは50mmの標準レンズ) では敦賀から 写真はクリックすると大きな写真となります。 また,次々と次のページに進むこともできます。 (写真撮影日 2000年8月27日) 敦賀市内から国道476号線を走る。 そして,まず国道8号線の下をくぐり,続いて北陸自動車道の下をくぐると,いよいよ山の中へと入っていく。 現在の北陸本線は木の芽川を渡って,すぐに北陸トンネルに入るのだが,旧線は川の右岸を山の中へと向かう。 木の芽踏切にて,今庄方向(下り方向),北陸トンネルの入り口を1枚撮影。 木の芽踏切から反対側敦賀方向(上り方向)。 上を通っているのが北陸自動車道。 このあたりから旧の北陸本線が分岐していたようだ。 木の芽川に沿って走る。 右に木の芽川がある。 今庄方向。 右の町は深山寺という町で,現在の北陸本線はすでに右の山の中の北陸トンネルを進行中。 北陸自動車道の上り線の下をくぐり,すぐに下り線の下をくぐり,またもや上り線の下をくぐって大きく右にカーブ。 ここで北陸自動車道は上り線と下り線が逆になり右側通行のような感じになる。 北陸本線の旧線は自動車道の下り線(今庄・金沢方向)としばし並行して走ると,いよいよ山の中へと入っていく。 そこにはまずトンネルが一つ。 国道は今庄方向のみの一方通行で,敦賀方向は山のすそをまわるように道が造られている。 上の地点で逆方向(敦賀方向)を見たのがこの写真。 北陸自動車道の下り線の下をくぐっている。 現在北陸道の橋脚補強工事中。 すぐその後にまたトンネルがある。 はじめのトンネルと同じように,今庄方向の一方通行。 こうやって木の芽川沿いにどんどん上っていく。 途中で振り返って敦賀方向を見たのがこの写真。 左下に木の芽川,右の山の中腹には北陸自動車道の下り線。 車で走ると,ひたすら上っているんだなあって感じである。 そして,左の山の中を北陸トンネルが通っている。 ほんの300mくらい離れているだけのはず。 しばらくすると,獺河内(うそごうち)の町,そしてそこに新保駅のあとがある。 右の車の止まっている広いところが新保駅のあと。 右に見える塀は北陸自動車道下り線。 ここに新保駅あとの記念碑が建っている。 なお新保という町はもっと山の中にある。 ここからは約3. 5kmは離れているだろうか。 あとで,その分岐点がでてくる。 新保駅あとの記念碑の下に新保駅構内の配置図が書かれている。 これはその部分の拡大。 新保駅あとを通り過ぎると,まもなく葉原の町が見えてくる。 ここで国道は右へ折れる。 標識には右は「新保2km」まっすぐは「今庄15km」と出ている。 北陸本線の旧線はこのまままっすぐ,国道と分かれ,県道となった道を行く。 しばらくは田んぼの見えるところを走るが,ここで少し北陸自動車道の上り線が見える。 左に土手があるのが北陸自動車道の上り線(敦賀,米原方向),右に並行して北陸自動車道の下り線。 右には下り線の「登坂車線」の標識が見えている。 いよいよ葉原トンネルが見えてくる。 手前の陸橋の向こうに入り口が見える。 この正面に見える山の下をくぐっていくことになる。 葉原トンネルは約1kmの長さがある。 この北陸本線旧線の多くのトンネルの中で,この葉原トンネルだけ信号機がついている。 待ち時間約5分。 青になってから写真を撮ろうと思って待っていて,1枚写真を撮ったかと思ったらあっという間に赤だった。 あわてて車を動かした。 葉原トンネルを出てから敦賀方向をふり返っている。 左上に見えるのが北陸自動車道下り線。 下り線も上り線もこの葉原トンネルに並行してこの山をトンネルでくぐっている。 真っ正面から見た葉原トンネル。 敦賀方向。 この後トンネルを2つぬけたら杉津駅あと(北陸自動車道上り線杉津パーキング)に着く。 1つ目は小さなトンネルですぐ向こうが見える。 左に見える街灯は北陸自動車道上り線のもの。 葉原トンネルから2つ目のトンネルをふり返って撮影。 このトンネルはちょっと長めでカーブしている。 トンネルの中に入って撮影。 杉津駅あとは現在北陸自動車道上り線(敦賀・米原方向)のパーキングとなっている。 しかし下り線(今庄・金沢方向)のパーキングがさらにこの上にあり,そちらの方が景色がとてもいい。 山の中で上下線が入れ代わり,右側通行になっている。 これは上り線パーキングの芭蕉の句碑。 「奥の細道」の中の敦賀での一句 「名月や 北国日和 定めなき」 である。 写真撮影 1998年秋 上り線が右,下り線が左というように上下線が逆になっている。 正面の方向が敦賀,右下に杉津の町がある。 パーキングをちょっと大きく撮影。 右側の上り線の自動車道の少し左に北陸本線の旧線のあとの道が見える。 また,中央にS字型に見える道は麓から上り線パーキングを経由し,下り線パーキングまで上がってくる道。 敦賀方向を撮影。 この林道は山中峠から山の中を通り国道365号線へと出る。 左側が杉津の町,右側が横浜の町。 上り線より下り線が眺めがよいので,下り線パーキングへと向かう。 北陸道下り線パーキングに着いて,まず一番に腹ごしらえ。 福井名物,越前そばをいただく。 この席は一番海よりの席で,この景色を眺めながら食べる越前そばがなかなかうまい。 窓際のテーブルにそばを置き,ガラス越しに1枚撮影。 中央に見えるのが杉津の町とその先の岡崎の鼻。 右に見えるのは上り線パーキングから下り線パーキングへの上り道。 下り線のパーキングには景色のよい展望場所がある。 パーキングの海寄りに休憩所もある。 このように見える景色の説明もしてある。 カメラを持ってうろうろしていると,そこで掃除をしていた女性に「いい写真が撮れましたか?」と声をかけられる。 「ちょっと今日は天気がよすぎて,遠くがかすんでますね。 」と答える。 「この間は,すごくきれいな夕日が沈みましたよ。 いつもここで仕事をしている私たちでも滅多に見ることのできないすばらしい夕日でした。 」とのこと。 「昔はこのあたりを汽車が走っていたんですね。 」と言うと, 「あの道が,線路のあとですよ。 それから下に見える上り線のパーキングのところが杉津の駅でした。 」と指さしてくれた。 この写真がその道である。 右の方に見えるのは自動車道のトンネルの入り口だ。 「どちらにお住まいなんですか。 」と聞くと,生まれは南条で,その後今庄に嫁いだとのこと。 「昔はねえ,汽車に乗って杉津まで海水浴に来たもんですよ。 」とのことだったので,思わず 「ここから海岸まで結構あるじゃないですか。 」と驚いて聞いてしまう。 「小さいころはそれだけ歩いても,海水浴が楽しみだったんですよ。 」 「この下に杉津の町が見えるでしょ。 真下は横浜です。 杉津は左の方。 」そう言って説明してもらう。 「杉津の町の左の方が海岸で,そこで泳ぎました。 」 今日はほんとに天気がよくてかすんでいる。 「そら豆をいってもらってね。 袋に入れて腰にぶら下げて出かける。 泳いでいるうちに皮がふやけてきて,ちょうどよくなったころに食べる。 」と思い出話を語ってもらう。 「泳ぎ終わって,3時頃にまた山を登ってきて,そして汽車で帰りました。 」とのことだった。 ここから杉津の海岸まで1. 5kmはあるだろう。 下りはいいとして,上ってくるのは大変だ。 「昔の汽車はねえ,機関車が1両だけじゃなくて,2つもくっついて,しかも前へ行ったり後ろへ行ったりしながらここへ上ってきたもんです。 」 「それから,トンネルがいくつもあってねえ。 トンネルをぬけて海が見えたかと思うとまたすぐトンネルで,そうやってこの杉津へたどり着いたもんです。 」 確かに,今庄からこの杉津まではたくさんトンネルが連続している。 この写真は少し拡大してみた昔の線路あとだ。 最後に再び上り線のパーキングを撮影する。 このあたりが駅だったのだなあと考えると,ここは本当に景色のいいところだったのだ。 「おばちゃん,ありがとう。 」と言って別れる。 「はい,気をつけて。 」と見送られる。 本当はこの人しっかり福井弁でしゃべってくれたのだが,うまく表現できないのであしからず。 しかし,こうやって歩いていると,このような人とのふれあいがあるのが楽しい。 再び下って,上り線のパーキングの下をくぐり抜け,旧線のあとへと出る。 福井県の県道207号線,今庄杉津線ということになっている。 この後山中峠の下の山中トンネルまでトンネルを6つほど抜けることになる。 一つ目の第一観音寺トンネルは短い。 本籍地が京都の私は,小さい頃の夏,何回かここを通ったはずだ。 しかし全く記憶にはない。 第二観音寺トンネルは右へカーブ。 そのころ車のなかった我が家は,金沢から京都は丹後へと向かうのに,汽車を使い,敦賀までは北陸線を利用していた。 当然のことながら,今庄から敦賀まで,この山の中を通ったはずだ。 かすかな記憶では,トンネルを通るときには窓を開けてはいけないと言われていた。 それがここのトンネルだったわけではないだろうが,小さい頃の記憶だ。 続いての曲谷トンネルは左へとカーブ。 金沢から丹後までは結構長い道のりだった。 その途中,小さい頃の私はここからの景色を見て何を考えていたのだろう? トンネルを抜けるといきなり海が見えてきたりする。 こんな風景はとっても子どもの喜びそうな風景だ。 (って,自分だけ?) 左かすかに,杉津の町の岡崎の鼻が見えている。 だがこの風景もつかの間,次のトンネルへとはいる。 芦谷トンネル,そして伊良谷トンネルを抜けると最後にかなり長い山中トンネルへとたどり着く。 山中トンネルを抜けて,ふり返って敦賀方向を見ている。 これから先今庄まではトンネルはない。 少し今庄方向へ下ったところに林道の入り口がある。 右の道が北陸本線の旧線だ。 ここには「ふるさと林道 山中〜大谷線」という案内(左)と山中峠の看板が旧線寄りに立っている。 そこには山中峠の由来が次のように書いてある。 山中峠 古くから奈良・京都から北陸・東北に入る北陸道は,この山中峠(標高389m)を越えた。 奈良時代には,近江から野坂山地を越えて松原駅(現敦賀市)に達した北陸官道は,樫曲・越坂・ウツロギ峠へと小坂を登り降りし,五幡(いつはた)・杉津を経て大比田・元比田へと進み,山中峠を越えて鹿蒜(かひる)駅に達した。 この駅は旧鹿蒜村大字帰(かひる)(現南今庄)に比定されている。 このことは大伴家持の歌に 可敞流廻(かへるみ)の道行かむ日は五幡の 坂に袖振れわれをし思はば (万葉集巻十八) によってうかがえよう。 「可敞流」は鹿蒜川流域の地のことであり,山中峠越えを五幡越えといったと考えられている。 また,山中峠から木ノ芽峠一帯の山並みを「かへる山」として,古歌が数多く詠まれている。 平安初期の天長7年(830),木ノ芽峠越えの新道が開かれた。 この道は国府(現武生市)への直線に近い峠であったので,このコースに北陸道は移ったものの,山中峠越えはその後も引き続き利用された。 平成10年4月 万葉の道辺を探る会 このように落石覆いがそのまま残っている。 線路を敷けばいつでも列車が走るという感じだ。 下っていくと大桐の集落が見えてくる。 敦賀方向をふり返って眺めている。 大きくカーブする土盛り。 ここを峠を目指して汽車が登っていったのかと思うと,なかなか感慨深いものがある。 大桐の集落を過ぎたあたりに大桐駅あとがある。 ホームがそのまま残っているかのような部分である。 「大桐駅跡」という碑の裏には大桐駅の経歴が以下のように書いてある。 大桐駅の経歴 明治43年3月31日,北陸線の難所といわれ,山中トンネルを頂点とした1000分の25の勾配を有し,列車運転の緩和とスイッチバックの拠点として大桐信号所が開設された。 その後地元の要望に応え,同年6月1日停車場に昇格し,旅客,貨物の取扱営業を開始した。 当時,旅客7本,貨物6本,計13往復の列車が運行された。 昭和37年6月9日,北陸本線複線電化の近代化により,新線開業と共に廃止となる。 その間54年の永きに渡り,生活物資の輸送等,住民のシンボルとして大きい役割を果たした。 北陸自動車道の下をくぐりしばらく行くと,上新道の集落になる。 そこには木ノ芽峠への分岐点がある。 ふり返って敦賀方向を見ている。 遠く後ろに北陸自動車道が見える。 左(敦賀方向からは右)に入っていくと木ノ芽峠である。 またそれは新保の町へと続く道でもある。 いよいよこの小さな旅も終わりとなる。 下新道の集落のはずれに北陸トンネルの今庄側の入り口がある。 左端に少し見えるのが北陸トンネルの今庄側の入り口である。 最後に南今庄駅の前あたりにこの鹿蒜地区の案内図があったので撮影してきた。 敦賀からこの南今庄まで,20km近くのみちのり,撮影しながら約2時間の小さな旅であった。 にもどる おたよりはをどうぞ Prince Kochan's Productionのにもどる このウェブページの地図の作成に当たっては,国土地理院長の承認を得て,同院発行の数値地図200000(地図画像),数値地図50000(地図画像),数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。 (承認番号 平22業使,第251号).
次の敦賀駅に停車する福井方面行きの列車(2018年7月) 北陸本線の歴史 北陸本線の歴史は1882年(明治15年)、~柳ヶ瀬間、洞道口(後の洞道西口)~間および~金ヶ崎(現在の)間が開業したことにはじまります。 この頃は柳ヶ瀬と洞道口(後の洞道西口)の間は線路がつながっていなかったので、乗客はその間の山道を歩いたといいます。 雪の残る敦賀駅(2018年2月) その後、1884年(明治17年)に難工事の末にとうとう 柳ヶ瀬トンネルが完成し、~金ヶ崎(現在の)間が開通しました。 へ到着した物資は金ヶ崎(現在の)からへと運ばれ、を経由してやへと到着しました。 しかし当時は、 柳ヶ瀬トンネルは急勾配が続くので、馬力のない機関車は立ち往生することがありました。 長浜城から見える琵琶湖の風景(2017年8月) より先、~福井間は1896年(明治29年)、福井~小松間は1997年(明治30年)、小松~金沢~高岡間は1998年(明治31年)、高岡~富山間は1999年(明治32年)に延伸開業しています。 敦賀駅に停車する福井方面行きの列車(2018年7月) さらに 富山線として、富山~魚津間は1908年(明治41年)、魚津~泊(とまり)間は1910年(明治43年)、泊~青海(おうみ)間は1912年(大正元年)、 信越線として直江津~名立(なだち)間は1911年(明治44年)、名立~糸魚川間は1912年(大正元年)に開通しています。 そして、1913年(大正2年)に青海~糸魚川間が開通して~直江津間が全通しました。 新線開通 1957年(昭和32年)になると、現在の新疋田~近江塩津間に 深坂トンネルが開通し、 北陸本線は 新線(~新疋田~近江塩津~余呉~木ノ本)となります。 これにより 旧線(~疋田~刀根~洞道西口~雁ヶ谷~柳ヶ瀬~中之郷~木ノ本)は 柳ヶ瀬線(1964年/昭和39年全線廃止)と改称されました。 敦賀駅に停車する北陸本線の車両(2017年5月) さらに、1963年(昭和38年)には~新疋田間において ループ線が完成したため、 柳ヶ瀬線は疋田~木ノ本間と変更されました。 敦賀~新疋田間のループ線 新たな ループ線は方面へ向かう上り線とされ、を出ると下り線と交差し大きく右へとループを描いていきます。 単線だった頃のこの区間は25パーミルという急勾配であったため、ループを描く上り線は勾配を10パーミルにおさえることとしました。 ループ線は衣掛山を右へ巻きながら最初のトンネルへと入り、トンネルを抜けるとの街並みが見えてきます。 さらにループを巻いて、次のトンネルへ入り、そのトンネルを抜けると先ほど上ってきた上り線が見え、下り線と並行して、新疋田駅へと向かいます。 敦賀駅からループ線へと向かう新快速の車両(2018年4月) また、より先は現在は 北陸トンネルを抜けて、南今庄、今庄へと続きますが、 旧線はを出ると海岸線へ出て、新保、杉津(すいづ)、大桐、今庄へと続いていました。 旧線はを出発すると急勾配となり、小さなトンネルがいくつか続いていたといいます。 杉津に停車したときの景色はとてもすばらしかったそうです。 路線名「北陸本線」 1896年(明治29年)に~福井間( 北陸線)が開業し、その翌年に~金ヶ崎(現在の)間の旅客営業が廃止されると、1902年(明治35年)に~~金ヶ崎間()は 北陸線に編入されることになります。 敦賀駅に停車する北陸本線の車両(2017年5月) 1909年(明治42年)になると、 北陸線は 北陸本線と改称され、 富山線も 北陸本線に統合されることになります。 その後、1919年(大正8年)には~間( 北陸本線)の旅客営業が再開されます。 敦賀駅に停車する福井方面行きの列車(2018年7月) 先に述べたように、1957年(昭和32年)には 北陸本線の 新線が開通したため、 旧線は 柳ヶ瀬線と名称変更されました。 その後、 柳ヶ瀬線は廃止され、~間も1987年(昭和62年)に旅客営業を廃止しています。 北陸本線とその支線 現在では~間を結ぶ176. 6キロを 北陸本線とよび、合わせて~間(通称「」)を結ぶ 貨物支線をもちます。 敦賀駅に入る貨物列車(2018年4月) 起点のではと接続し、終点のでは IRいしかわ鉄道と接続しています。 JR西日本では、の~間および 北陸本線の~間において「」という愛称を付けており、・ 北陸本線の相互乗り入れ電車も設定されています。 敦賀駅 福井・金沢方面時刻表(2017年5月) 【IRいしかわ鉄道】 IRいしかわ鉄道は第三セクターの鉄道会社であり、~俱利伽羅(くりから)間17. 8キロを運行しています。 IRいしかわ鉄道の路線はもともと 北陸本線の一部でしたが、が延伸開業したため~直江津間が並行在来線となり、JR西日本から経営が分離されました。 敦賀駅の階段に描かれた北陸新幹線(2018年6月) このうち、~俱利伽羅間は IRいしかわ鉄道、俱利伽羅~市振(いちぶり)間は あいの風とやま鉄道、市振~直江津間は えちごトキめき鉄道へと移管されることとなりました。 , , , , , , , , , , , , , , 投稿ナビゲーション 投稿記事• カテゴリー• 101• 114• 147• 3 都道府県.
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