20:07 昨日遅くに淡路島から帰り、今日は又朝からホトトギス社に出社しました。 月曜日で何かとばたばたしましたが、雑詠選等捗りました。 暦では明後日が満月ですが、何かニュースでは明日の月が今年一番大きく見えるスーパームーンだということです。 ただ明日は東京地方雨の予報ですので今日帰宅途中の月の写真をアップします。 結構大きいでんな。 上の写真はちょっと早いチューリップですが、この時期に咲くようにオランダと協力して栽培したそうです。 午後からは「第10回永田青嵐顕彰全国俳句大会」が開催されて、不肖私が講演をさせて頂きました。 下の写真がその様子ですが、御出席のY・O様に頂きました。 運転を止めた汀子の代わりに芦屋から運転をして下さり、重ね重ねありがとうございました。 この会は結構雨の日であることが多いのですが、今日は何とも気持ちの良い春めく日でした。 場所は何時もの深川芭蕉記念館で、吟行はこの付近の清澄庭園や隅田川界隈になりますが、記念館の庭も風情があり、上の写真のように椿が落ちていたりしました。 多くのメンバーの方々の御参加ありがとうございました。 昨日のこのコーナーでマタイ6章という聖書の箇所を申し上げましたが、下の写真で「右の手で行ふことを左の手に知らすな。 」という一文です。 私の座右の銘です。 フェイスブックで御質問頂きありがとうございました。 この聖書は昭和30年発行のフェデリコ・バルバロ口語訳となっていますが、当時は未だ正字、歴史的仮名遣いですね。 それが却って心配ですが、私は昨日から芦屋で、芦屋ホトトギス会、今日は野分会芦屋例会、青嵐会芦屋例会でした。 拙句はそれぞれに出した句ですが、上の写真は昨日の芦屋ホトトギス会で豆撒をした時、私の鬼の姿です。 フェイスブックには載せましたが、結構受けて、恋した方もいらっしゃったのでここでもアップします。 下の写真は汀子邸の梅が、そろそろ咲き始めました。 頃合いでんな。
次の明治30年1月創刊。 正岡子規の没後、高浜虚子が客観写生・花鳥諷詠を提唱し、近代俳句の礎を築いた歴史的な俳句雑誌です。 ホトトギスの雑詠欄は明治41年10月号より登場します。 これはその記念すべき巻頭句第一号です。 自由律俳句の先駆けとなった雑誌です。 大正、昭和初期、その代表格とも言える尾崎放哉、種田山頭火らを排出しました。 雲母(うんも)は、大正・昭和の俳壇をけん引した大結社のひとつです。 伝統派として重厚で格調高い作風を重んじました。 飯田蛇笏(だこつ)・龍太親子2代にわたり運営されてきましたが、平成4年(1992年)に惜しまれつつも900号をもって廃刊に。 写実派のホトトギスと袂を分かち、昭和3年、水原秋櫻子(しゅうおうし)が主宰となり俳句雑誌「馬酔木(あしび)」をスタートします。 客観ではなく主観的視点を大切にし、情感豊かな俳句の創作を目指しました。 秋櫻子が主宰となって初めて選出した巻頭句を収録。 かつらぎ主宰・阿波野青畝は創刊のあいさつ文に、「見よ、今日の俳誌の多くが陥ってゐるところの興味本位の不真面目さを。 」と、かなり挑戦的な文句を綴っています。 大正末期に起こったプロレタリア文学運動という潮流が俳句にまで押し寄せて来た時代です。 「玉藻」は、高浜虚子の次女・星野立子が創刊した女流主宰第一号の俳誌として有名です。 昭和59年(1984年)より、その一人娘である星野椿氏が継承しています。 女流俳人の発展を願い杉田久女が立ち上げた俳誌です。 創刊の辞には「久女よ。 自らの足もとをただ一心に耕せ。 茨の道を歩め。 貧しくとも魂に宝玉をちりばめよ」と、己を鼓舞する言葉がありました。 このときが表現者としてのピークだったのかもしれません。 創刊主宰は、人間探求派と呼ばれた加藤楸邨。 彼の登場により現代俳句が文学に押し上げられたといわれています。 終戦間もない女性の地位のいまだ低かった時代、杉田久女の薫陶を受けた中村汀女が、女性のための俳句雑誌として「風花」を立ち上げました。 汀女47歳の創刊号です。 いぶし銀のごとき高野素十(そじゅう)が自分のために立ち上げた俳句雑誌。 創刊の挨拶文には「之はどこからも、束縛を受けない、全く私一個人の俳句雑誌であります。 」と書かれています。 俳誌「芹(せり)」は選者一代限りの俳誌として約20年間続きました。
次の歴史 [ ] 戦前 [ ]• (30年)に社員柳原極堂がで創刊。 雑誌名は正岡の俳号「子規」にちなんだもので、創刊時はひらがなで『ほとゝぎす』。 子規、、、らが選者であった。 (明治31年)10月 場所をに移して虚子が継承する。 (明治34年)10月 雑誌名を『ホトヽギス』とする。 (明治35年) 子規没。 (明治37年)10月 選者となる。 (明治38年)1月 漱石『吾輩は猫である』連載開始、大好評を博す。 10月 『団栗』掲載。 このころより虚子小説に傾倒、碧梧桐新傾向色を強める。 (明治39年)1月 『』。 4月 漱石『坊っちゃん』。 5月 『千鳥』。 8月より碧梧桐第一回全国行脚。 9月 『海のほとり』。 (明治40年)1月 漱石『』。 2月 『縁』。 11月 『佐渡が島』。 このころ、が挿絵を描いている。 (明治41年)10月 漱石『文鳥』(ただし他誌からの転載)、選者となる。 (明治42年)から、らの批評が連載される。 4月より碧梧桐第二回全国行脚。 7月をもって雑詠欄廃止。 (明治43年)4、6月 『社会の柱』。 9月号発禁処分。 (明治44年)4月 『狐火』、『御殿女中』。 10月 雑誌名を『ホトトギス』とする。 碧梧桐編集より離れる。 (明治45年)7月 虚子選雑詠欄復活。 挿絵を描くようになる。 (2年)3月 『南国』、虚子俳壇復帰。 5月 『椿の花』。 6月 『菎蒻本』。 7月 『臆病者』。 8月 虚子がに編集の一切を任せることを表明。 10月 『護持院原の敵討』。 11月 『悪魔の弟子』。 (大正3年)4月 『青草』。 、課題選者となる。 (大正4年)1月 、が雑詠欄巻頭を飾る。 7月 『藪陰』。 、課題選者となる。 (大正5年)4月以降東洋城ホトトギスより離脱。 漱石没。 (大正6年)1月 の句掲載。 ホトトギス社を退社。 (大正8年)8月 の句掲載。 9月 神陵俳句会(翌年より京大三高俳句会)結成。 (大正9年)2月 嶋田青峰ホトトギス社を退社、編集から退く。 (大正10年)4月 の句掲載。 (大正11年)4月 、ら結成(帝大俳句会の再興)。 (大正12年)1月 発行所をへ移転。 8月 水原秋桜子『海辺にて』。 (大正13年)1月 『山の手から』。 8月 『風懐を養うこと』。 (大正14年)10月 、ら九大俳句会結成。 (大正15年)1月 山口誓子『我が小さき芸術観』。 ら雑詠句評会に参加。 (2年)、表紙、裏表紙を描くようになる。 (昭和3年)7月 東大俳句会機関誌を「馬酔木」と改題、水原秋桜子が主宰。 (昭和4年)3月 が雑詠欄巻頭を飾る。 (昭和5年)6月 により姉妹誌『玉藻』創刊。 7月 『生き物三つ』• (昭和6年)4月 星野立子『どんぐりの芽』• (昭和8年)12月- 川端茅舎『花鳥巡礼』。 (昭和10年)表紙を描くようになる。 (昭和11年)1月 ら『余生病院』。 10月 日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女をホトトギス同人より除名。 フランスを中心に海外詩人による俳句が掲載されるようになる。 (昭和12年)碧梧桐没。 4月より外国俳句座談会連載、虚子の句のフランス語訳の試み。 、表紙、裏表紙を描くようになる。 (昭和13年)3月 『最も痛烈に感じた』。 4月 『現代徒然草』。 裏表紙を描くようになる。 (昭和14年)6月 『蓄音機』。 『砲車』ベストセラーに。 表紙を描くようになる。 -(昭和15-18年)。 (昭和18年)6月 が雑詠欄巻頭を飾る。 (昭和20年)6-9月 休刊。 戦後 [ ]• (昭和21年)12月 通巻600号。 が雑詠巻頭欄を飾る。 (昭和22年)9月 ホトトギス社が代表の合資会社となる。 (昭和24年)、史上最年少で同人に推挙される。 (昭和54年)10月 が主宰となる。 (25年)8月 通巻1400号。 2013年(平成25年)10月 が主宰となる。 現況 [ ] 現在のホトトギス社主宰は高浜虚子の曽孫である稲畑廣太郎が務めている。 1979年から2013年まで主宰を務めた稲畑汀子はその母で高浜虚子の孫。 ホトトギス社はホトトギス誌以外に書籍も編集・発行しているが、発売元はホトトギス社のものと他の版元のものがある。 例えばは、虚子編「新歳時記」やホトトギス編「ホトトギス新歳時記」をが発売している。 虚子編「新歳時記」は基本的に高濱虚子が編集したものだが、ホトトギス編「ホトトギス新歳時記」は、全国の俳人からホトトギス誌に寄せられた句を元に編集したもの。 ホトトギス社は長年、に入居していたが、丸ビルの建て替えのため、に移った。 脚注 [ ].
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