カネ 十 農園。 130年続く静岡・牧之原の茶園「カネ十農園」が 東京・表参道にティーサロン『カネ十農園 表参道』をオープン

職人の手 02 日本茶農園『カネ十農園』 渡辺 知泰

カネ 十 農園

牧之原の茶農園で、 芳醇な一時を。 1888年創業の「カネ十農園」は、静岡県牧之原市の茶農園です。 日本一の茶処である牧之原台地に広がる茶畑は、 温暖な気候、長い日照時間、水はけの良い弱酸性土壌など、 茶葉の栽培にとって好条件が揃った環境にあり、 自然の恵みをたっぷり含んだ、大きくて肉厚な生茶葉が育ちます。 そして、収穫後は、すぐに自社の製茶場で加工。 茶農園が一貫生産することで、新鮮で風味豊かな茶葉に仕上げていきます。 茶葉はもっとおいしくなれるはず。 私たちは五代目園主を先頭に、新たな茶葉づくりに挑戦します。 冬から春にか栄養分を蓄えた茶畑から、最初に収穫される一番茶のみを使用。 牧之原の製茶法をはじめ、国内外の技術を学び、 独自に開発した製茶法により仕上がることで、茶葉が持つ可能性を追求していきます。 私たちは、100年以上に渡る経験を活かして作り上げた、茶葉がもたらす芳醇な一時を、 牧之原の茶農園からお届けします。 PRODUCTS•

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リブランディングによって売上が3倍に! 『カネ十農園』(前編)

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目の前で、お茶を淹れてくれるのもまた良い。 〈カネ十農園〉の松本さんは元々バーテンをやっていて、〈カネ十農園〉のお茶に魅せられこのお店を立ち上げたんだそう。 お茶を淹れる為に大事なことは、温度や水、蒸らし時間も大事だけど何より誰のために淹れるかが一番大事で、お客様の会話の中で「今日疲れてるのかな」とか「濃いめのが好きなのかな」など相手に合ったものを提供したいという思いは、メニューのないお店のバーテンでの経験から。 同じく〈カネ十農園〉の加藤さんもゆっくり会話を楽しみながらお茶を飲んで欲しいという思いがあるそう。 確かに、思い出に残る味は、その時の会話も込みで覚えるものだったりする。 それも込みで楽しめるのはお店で飲む醍醐味でもあります。 【本日の2杯目】〈カネ十農園〉の「一番茶チーズホイップティー(焙じ茶ラテスタイルと煎茶ラテスタイル)」 「一番茶チーズホイップティー(左・焙じ茶ラテスタイル 右・煎茶ラテスタイル)」 最後の〆はスイーツで。 「焙じ茶モンブラン」はオープンからお昼すぎには完売してしまう程の人気メニュー。 実はこの「焙じ茶モンブラン」、写真では伝わらないけど、揺するとプルプルと可愛く揺れるのです!(きになる方はぜひインスタでチェックしてみてください) その秘密は、中に焙じ茶プリンが隠れているから。 濃厚だけどさっぱり食べられる焙じ茶プリンの上に栗餡と焙じ茶パウダー、そしてお茶と相性の良いクリームチーズと混ぜたモンブランの組み合わせは新しくて今までにない感触のスイーツ。 これは並んででも食べたくなる。 焙じ茶LOVERな皆様には是非一度は食べていただきたい。 そして可愛く小躍りする焙じ茶モンブランちゃんを体験してみてください。

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話題のカネ十農園 表参道【ほうじ茶モンブラン】を味わってみた。

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30〜90代の職人16名を取材した書籍『職人の手』。 2019年12月の発売を記念して、特別に4篇をWeb連載で公開します。 02 日本茶農園『カネ十農園』 渡辺 知泰 日本茶レボリューション!? 去年の春だった。 ある月刊誌の編集長から「今、日本茶がキテるんだって。 取材しない?」と言われた。 〝日本茶がキテる〞とは? 一瞬、なんのことかわからなかった。 けれども、「コーヒーのサードウェーブを極めた子たちが、日本茶を知って、コーヒーと同じように捉えているそうだよ」と聞き、合点がいった。 コーヒーのサードウェーブとは、コーヒーの産地やトレーサビリティを重視し、豆の味を最大限に生かす淹れ方を追求、一杯ずつ丁寧に淹れるハンドドリップを追求するなど、コーヒー本来の価値を重視すること。 産地、品質、来歴、作法を特化し、ここにハマった人たちが、「急須で煎れる日本茶」に着目したのだ。 急須で煎れる=ハンドドリップ、豆に凝る=茶葉を吟味……と近しく、日本茶ブームが起きたのだろう。 急須でお茶を煎れることが当たり前の世代にしてみると、なぜ、それがブームに?となるが、ペットボトルの日本茶が誕生して今年で29年。 缶入りに至ってはもう35年も経っている。 当然、「生まれたときから、日本茶は自分で煎れるのではなく買うもの」という人たちばかりでも不思議ではない。 だからこそ、「湯を沸かし、ゆったりとした気持ちで日本茶を煎れ、憩いながら飲む」という時間が新鮮に映るのだろう。 さらには、日本茶にもシングルオリジン(単一農園の茶)があることも、このブームを後押ししている要因だ。 日本茶というのは不思議なもので、宇治茶や狭山茶といった銘柄であっても、それらは一カ所の農園の、一種類の品種でできているとは限らない。 意外かもしれないが、煎茶にするための茶葉の多くはブレンド( 合組 [ ごうぐみ ]という)である。 たいていは〝やぶきた〞というスタンダードな味わいの品種を75パーセント、残りの25パーセントに、ほかのさまざまな品種をブレンドして風味を変えている。 こう記すと、なんともマイナスなイメージに思えるが、「つねに一定の味わいの茶葉をつくり、いつでも同じようにおいしく飲むため」の、昔からずっと続く工夫なのである。 けれども、ウイスキーでのシングルモルト、コーヒーでのシングルオリジンのように、ひとつの製造所、ひとつの品種であることに慣れた身にすると、日本茶でも産地や品種など茶葉を吟味し、しかも道具に凝りたくなる。 それができる今ならば、そうした嗜好の人たちが、日本茶に流れるのは自然なことかもしれない。 その潮流を探るべく、冒頭の月刊誌で20ページほどの特集をつくった。 日本茶専門のカフェ的なショップにはじまり、日本茶三昧の旅館、道具や茶器、おいしい煎れ方、茶葉解説、歴史、日本茶農園ルポという、自分で言うのもなんだが、ギュギュッと凝縮、てんこ盛りの特集だった。 これをきっかけに、静岡・牧之原の老舗茶農園「カネ十農園」の園主、渡辺 知泰 [ ともやす ]さんに出会った。 茶を栽培する農家さんはたくさんあるが、自社のブランドがあり、直営のカフェをオープンさせるという農家さんはレアな存在だ。 しかも、カフェには日本初にして世界唯一のティーバーテンダーを擁するとあって、大いに興味をそそられ、畑と工場、そしてオープン直前のカフェ「カネ十表参道」を取材させてもらったのだ。 知泰さんは、いわゆる日本茶農園、製茶業の範疇を逸脱した業務をしていた。 また、〝くだん〞のティーバーテンダーの松本貴志さんの発想にも驚かされ、この特集後も取材をする機会をつくり、本書にもご登場いただいた。 ある日、興奮した様子の知泰さんから電話があった。 「三日三晩、三時間ごとにチェックしているんですが、すごいことになっているんです! はい、ちょうどジャスミン茶をつくっていて。 国産のジャスミン茶ってほぼ存在しないんです。 なので、うちの緑茶にジャスミンの生花で香り付けしてたんです。 ほら、ベルガモットで香り付けした『カネ十・ベルガモット』のように。 去年ぐらいから、静岡、ないしは近隣でジャスミンを育ててくれる方を探していたんですが、ようやく見つかったんです。 牧之原近くのガーベラ農家さんなんですが、この方がすばらしくって。 そのジャスミンを積んで、うちの工場に戻ってきたんですが、車がジャスミンの香りで包まれているんです。 あ〜、幸せだなって。 頭から神さまが囁いてきて!」 電話だけれども、知泰さんの恍惚とした、でも疲れがピークに達している様子が手に取るようにわかった。 そうして、あらためて取材にお邪魔して、このジャスミンについて教えてもらう。 「十日間つきっきりで作業しても、製品になるのはたったの1キロなんです。 これだと、現実的な商売は難しいですね。 でも、できる範囲でチャレンジするつもりですので」 こうやって情熱を注ぐ知泰さんの姿は、まるで、この地、牧之原を開墾し、お茶どころにするきっかけとなった、徳川慶喜の旧幕臣たちと重なるようだ。 日本茶の歴史 〝茶〞の発祥は、紀元前2700年の中国にさかのぼる。 日本に伝わったのは、奈良時代説と平安時代初期説があるが、歴史学的には平安時代が有力だ。 その理由は、最澄、空海、永忠といった遣唐使の僧が帰国した際(805年ごろ)、最澄が「茶の種」を持ち帰り、比叡山のふもとに植えて栽培したと『日吉神社神道秘密記』に記されていること。 また『日後紀』には、「嵯峨天皇が永忠から茶のもてなしを受けた」とあるからだ。 鎌倉時代初期には、臨済宗の祖・栄西が『喫茶養生記』で茶の種類や製法、薬効などを紹介し、また栽培もはじめている。 室町時代中期になると、茶道(わび茶)の創始者といわれる村田 珠光 [ じゅこう ]、戦国時代〜安土桃山時代になると、茶道の洗練者といわれる 武野 紹鷗 [ たけのじょうおう ]、茶聖といわれる千利休らが登場した。 急須が登場するのは、江戸時代初期のこと。 中国から隠元隆琦禅師が渡来し、手間をかけずに急須で茶を煎れる「 淹茶法 [ えんちゃほう ]」がもたらされた。 江戸時代中期には、京都・宇治の茶業家、永谷宗円が「青製煎茶製法」を考案し、これが現代の日本茶(煎茶)の基礎となる。 茶が伝来して約1200年。 現在、日本茶の三大産地といえば静岡県、鹿児島県、三重県であり、カネ十農園のある静岡・牧之原台地は、総面積6000ヘクタールのうち、大部分が茶畑という全国の茶園面積の約12パーセントを占める、まさに日本一の茶どころだ。 気候が温暖で日照時間も長く、水はけのいい土壌など、茶葉の栽培に適した条件を持ち、肉厚で優良な茶葉が育つという。 だが、茶葉栽培の歴史は意外にも新しく、はじまりは明治時代初期のこと。 そのきっかけは徳川慶喜にあった。 十五代将軍・慶喜が大政奉還によって、駿府に隠居すると、多くの家臣もともに移り住み、慶喜の護衛をすることに。 つまり、もう武士にあらず。 いわば職を失い、途方に暮れていたが、生きるための仕事を見つけなければならない。 そこで、家臣の隊長であった 中條金之助景昭 [ ちゅうじょうきんのすけかげあき ]は、勝海舟のアドバイスもあり、幕府直領として放置されていた広大な牧之原の開拓に従事することにしたのだ。 だが、当時の牧之原は不毛地帯以外のなにものでもなく、水を引くことすら困難だったそう。 なにか作物をと思案した結果、茶畑の開墾を決断した。 中條らは苦難の連続の末、見事に茶園の基礎を築いたのだった。 明治10年代後半になると、茶農家が増え、現在の静岡牧之原茶ブランドの礎が築かれたのだ。 そんな旧幕臣たちの苦労のもと、茶栽培が発展した場所で、明治21年(1888)、カネ十農園は創業した。 知泰さんは、ここの五代目園主である。 実家の跡を継いだのかと思いきや、なんとお婿さん! 大学時代から交際していた、妻・早弥香さんの父上、そして亡くなったおじいさんに製茶の技術を教わり、研鑽を積んできた。 婿に入って14年ということは、つまり、お茶に携わるようになって14年だ。 数年前から、知泰さんは、これまでのカネ十農園にはなかった新たな展開に果敢にチャレンジし続けている。 知泰さん、義父の渡辺さん 製茶業が儲かっていた時代 一般に、日本茶業界は、一次産業としての茶農家、二次産業としての製茶工場、三次産業として茶商(製茶問屋)があるなか、現在のカネ十農園は、生茶葉の栽培から茶づくり、販売までを一貫して行っている。 義父の代までは、オリジナルブランドや、直営のカフェといった展開はほとんどなかった。 「かつてはいいものをつくれば売れるし、いい値段が勝手についていたんです」と知泰さん。 ここで〝売る〞というのは、われわれ消費者に、ではない。 茶商に、である。 かつての渡辺家は、〝お茶を揉む〞ことに専念した製茶業だった。 「おじいさんの時代、一番茶の高級茶が売れに売れていました。 それこそ、ひと晩揉めば、今とは比べものにならないほどの金額になったとか。 うちだけじゃありません。 とにかく製茶業の人たちが儲かっていて。 一番茶だけで、茶農家も製茶工場も一年生活できたと聞いています」 おじいさんの時代は、「田中角栄のころ」というから、昭和40年代後半から50年代のことだろう。 実際、昭和35年(1960)以降の高度経済成長にともなう需要と、ユーザーの上質茶志向に支えられて、緑茶の年間消費量は増加し続けた。 ピークとなったのが昭和50年(1975)のこと。 昭和35年にひとり当たりの年間消費量が752グラムに対し、昭和50年には955グラムだったという。 全国茶生産団体連合会・全国茶主産府県農協連連絡協議会の資料によると、平成29年(2017)のひとり当たりの年間消費量は641グラムというから、その差は歴然だ。 でも、40数年という歳月で半数も減っていないのなら、それほど悪い数字ではないと思うのだが…… 「お茶のビジネスモデルが変わりました。 いえ、崩壊したと思います。 昔は、どこの商店街にもお茶の専門店がありましたけれど、今は見かけないですよね?」 そういえばそうだ。 後継者問題や商売上のあれこれで、そのまま店を辞めてしまうか、コンビニなど業態を変えたところも多々あるだろう。 なにより、商店街そのものもずいぶんと様変わりしている。 個人商店がめっきり減り、どこもかしこもチェーン店ばかりだ。 「そうなんです。 じゃあ、どこでお茶を買うの?となると、スーパーだったり通販であったり。 でも、そこには、おそらくお茶の専門家がいません。 だから、お客さんのさまざまなニーズに応えられるかどうか。 それに、売れ筋のお茶ばかりになって、多様な商品がそろうことも少ないと思うんです」 そうなると、つくり手側も、誰に飲んでもらっているのかがさっぱりわからない。 「顔が見える商売に切り替えないとマズイと思ったんです。 うちに限らず、茶農家、製茶業には、お茶をつくるプロはたくさんいるけれど、お茶を〝売る〞プロがいなかった」 そこで、より〝血の通った売り方〞をしたいと、五年前にこれまでアプローチしていなかった方法に打って出たのだった。 まずは、知泰さん自身が畑や工場に出ずっぱりになるシステムを変えた。 そのために現在も農場長を勤める、同世代の原田真吾さんをパートナーに迎えた。 原田さんは茶農家に生まれ、農業を学んだ、根っからの茶栽培好きの達人だ。 「信頼して任せられる人ができて。 ようやく〝売るプロ〞になる覚悟ができました」という知泰さんは、まずは、全国の百貨店をまわり、「試飲販売」をスタートさせたのだった。 八歳離れた実兄のひと言 有名百貨店との取引は、どのジャンルも非常に厳しいと聞いている。 出店できるか否かのジャッジも厳しく、売り上げの歩合もキツい。 だが、自社ブランドを立ち上げ、広めるにはもってこいの場である。 しかしなんのツテもなく営業するには、かなりの難関だ。 「百貨店に出たいと考えていたころ、ちょうど東京に出張していまして。 仕事が終わり、牧之原に帰るというときに、うちの兄貴が『今日帰るのか? 明日、俺についてくるか?』と尋ねてきたんです。 さらには、『目標を見つけるには、俺と一緒に来い』ってね」 実の兄である福田隆宏さんは、家業を継いでいた。 知泰さんの実家は、新潟・三条市の箸やテーブルウエアメーカーの「マルナオ」だ。 明治40年(1907)生まれの祖父・福田直悦さんが仏壇彫刻師として独立し、大工道具など主とした木工業として、昭和14年(1939)に創業したことに端を発する。 隆宏さんは三代目社長である。 19年前にマルナオに入ってから、祖父と父がつくってきた専門的な大工道具だけでなく、幅広い層に使われるプロダクトをつくることを目指した。 そこで、大工道具に使われる材である黒檀や紫檀など銘木を使った箸やカトラリーをつくりはじめたのだった。 今はカップや器、ステーショナリーもラインナップし、この8月には、県外初の直営ショップとして東京・青山に、さらには10月にはフランス・パリに出店した。 イブ・サンローランとコラボレートした箸と箸ケースも誕生したばかりだ。 内外からの注目度が高まっているマルナオだが、五年前の当時すでに、全国各地の百貨店へ卸していた。 その百貨店詣でに、兄は弟を連れて行ったのである。 特別な考えがないわけがない。 当然、事業の先輩として、弟を心配し後押しするために「明日、俺と一緒に来い」と言ったのだった。 兄の助け舟もあって、この日、知泰さんは「百貨店での試飲販売」への第一歩を進めることができた。 「兄が、実家をどんどん発展させていて。 また、燕三条の先輩たちも、『ブランディングなしには、物づくりの価値が高まらない』と考えている人が多く、そこに刺激を受けました。 渡辺のおじいさんも、生前、『知泰、お前のときは売るのが大変になる』と言っており、販売ルートを確立すること、カネ十農園の確固たる立ち位置を決めなくては、とずっと考えていました」 そのためには、「カネ十農園」としてのブランドコンセプトをかためること。 そして、自社プロダクトを開発し、商品ラインナップの充実をはかること。 そこには新たなパッケージデザインなどトータルでの改革が必要で、それらをじっくりと考え、徐々に販路を広げたのである。 また、単なる茶葉販売だけではない取り組みが注目を集めるようになる。 そのひとつが、一昨年(2017)の、家電メーカー・シャープの「テキオンラボ」とのコラボである。 テキオンラボとは、シャープの社内ベンチャーで、〝適温〞の価値を提案するプロジェクトだ。 氷点下で煎茶を抽出すると、旨みが最大限に引き出せるという特性を生かしたプロジェクトは成功。 さらにおいしく味わうために、ジンを使ったカクテル「煎茶GIN」も提案され、家電好きの間で話題となった。 蔦屋書店とのタッグも記憶に新しい。 〝本を読むときのお茶〞をテーマにして新たな日本茶を開発。 寝る前にリラックスして読書するための「焙じ茶」はカフェインを少なめに。 集中して読書したいとき用の「深蒸し煎茶」はカフェインを多めに。 さらには、休日の午後の読書用として、緑茶に乾燥ぶどうのチップをブレンドした「白ぶどう茶」などがリリースされ、現在も継続。 新たなフレーバーも誕生している。 「静岡は〝お茶のシリコンバレー〞なんです。 お茶にまつわるいろんな人たちが集まってくる。 テキオンラボも、本を読むときのお茶も、ティーバーテンダーの松本が大きく関わってくれました」 「松本」とは、冒頭で、〝日本初のティーバーテンダー〞と記した松本貴志さんのこと。 松本さんの前職は、代官山蔦屋書店のカフェ「Anjin」のバーテンダーだ。 ソムリエの資格を取ろうと勉強するうちに、農業や農薬のことを知り、土のことが気になり出して、庭師を目指すようになったという。 修業先を探していたころ、知泰さんと知り合った松本さんは、「土をさわる仕事をしたいんですよね」と話したところ、「じゃ、うちに来ればさわれるよ」と口説かれ、カネ十農園に入ったのだった。 茶栽培は未経験の松本さんだったが、はじめてのお茶摘み〜製茶の工場の仕事(工程)にすっかり魅了されたという。 知泰さんにしてみれば、「新しい日本茶のスタイルを模索しており、さまざまなカクテルをつくり生み出すバーテンダーを探していた」から、松本さんの存在は渡りに舟だった。 土いじりをしたい松本さんだったが、バーテンダーとしての話術や豊富な知識をいかし、試飲やデモンストレーションのスタッフとして、また〝ティーバーテンダー〞として、各地を飛びまわることに。 先のシャープ「テキオンラボ」も、古巣・蔦屋書店とのコラボも重要な任務をまっとうしたのだった。 そして、昨年の6月にオープンした「カネ十農園表参道」を切り盛りし、現在に至る。 茶を生かしたオリジナルメニューや、季節ごとのニューフェイスが登場し注目度も高い。 いわゆる日本茶カフェとは異なる、独自の路線は、体験型ないしは実験型ショップといったふうだ。 牧之原から世界へ 斬新な試みが目を引くが、知泰さんは、決して伝統を軽んじていない。 代々積み重ねられてきた製茶の技術を大切に、日本茶の可能性を広げている。 その証拠に、自社ブランドの売り上げも目標を達するようになった。 現在のラインナップは全8種。 はじめていただいたときも、また先日飲んだときも、いつだって「さわやかでコクがあるお茶」だと感心している。 おいしい茶葉に欠かせない条件を、農場長の原田さんに訊くと、 「土づくりが味の決め手です。 そこに生産者の個性が加わります。 また、海のもの、山のものをバランスよく与えると、たとえば、かつお節や落花生などなるべく自然に近いものを与えると、モチっとしたいい茶葉に育ちます」 摘み立ての茶葉は、一刻も早く製茶工程へと進む。 製茶は、知泰さんが義父とともに切り盛りしている。 牧之原発祥の伝統的な製茶法のほかに、独自に開発した製茶法もあるが、蒸された茶葉の乾き具合を確認しながら、次から次へとスピーディに行う。 経験とその日の環境に応じて、その都度、機械を調整しながら、ヒトの手を介しておいしい茶葉が生まれるのだ。 知泰さん曰く、 「うちは、〝オーパス・ワン〞を目指しているんです」 オーパス・ワンとは、アメリカ最大のワイン生産地、カリフォルニアはナパ・バレーでつくられる最高峰のワインのことだ。 品質のよさはもちろんのこと、唯一無二の存在感を持つワインなのである。 「収穫した茶葉を、その日のうちに加工することって、ワインに似ていると思いません?」 そう語る知泰さんは、以前、ワインメーカーに勤めていた。 ナパ・バレーにしろ、フランスのボルドーにしろ、ワインづくりにはテロワールがつきものだ。 つまり、自然環境を含めどんな農園(土地)でつくられたかということ。 当然、日本茶もしかりと考えている。 だが、まだ、その訴求ができていないと嘆く。 「おしゃれな農園を目指してはいません。 うちに来て、この農園で日本茶を体験してほしいんです。 たくさんの人たち、できれば世界中から、わざわざ、この牧之原に来ていただいて、この風景を眺めながら、日本茶を味わってほしいんです。 そのためには観光資源を強化するというか、牧之原の日本茶をもっと世の人たちに伝えたい。 オーベルジュのように、宿泊できるレストランがあればいいかなと考えています」 茶摘みや、苗木を植えるという農作業体験をして、美しい風景を眺めて、一杯の日本茶をいただく。 カネ十農園のブランドコンセプトである【牧之原の茶農園で、芳醇な一時を。 】を現地で実感できる日は、そう遠くない。

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