ツァーリボンバ。 ツァーリ・ボンバ (つぁーりぼんば)とは【ピクシブ百科事典】

世界最強の爆弾ランキングTOP10 威力強すぎて実験不可!?

ツァーリボンバ

概要 やその同位体 重水素、三重水素 が核融合し、になると反応後の余分なエネルギーがとして放出される。 このエネルギーは最終的に熱になるため、これを用いて爆発を起こし強烈な熱と爆風を生じさせる爆弾である。 核融合反応そのものは水素でも可能であるが、爆弾としては核融合反応が遅すぎるため、重水素や三重水素でなければ爆弾として使えない。 爆発的な核融合反応を起こすためには… 重水素を核融合させるためには十分な量の重水素を超高温・超高圧・超高密度下におかなければならない。 すると核融合する条件を満たしたあとに、重水素と三重水素の核融合反応 D-T反応 が起こり核爆発が起こる。 の捕獲でヘリウムと三重水素に分裂する 点火に原子爆弾を使わない水素爆弾 核融合条件を満たすためにレーザーを使用したものや強力な磁場を利用したものが研究されている。 用途 兵器のみである。 軍事用途以外の使い道も考えられたが(鉱山の穴掘用など)、残留放射能問題もあり、実用には至っていない。 実験 実戦配備や実戦での使用が行われたことは無いが、開発の過程で各国により何度かの実験が行われている。 その中でも特にアメリカが等で行ったアイビー作戦、キャッスル作戦と、冷戦の最中に旧が実験したツァーリ・ボンバが有名である。 アイビー作戦 アメリカ軍によってにて行われた、人類史上初の水爆実験。 液体重水素を使用していたため冷却装置が莫大であり、一般的に想像される爆弾というより、「施設」と呼んだ方が正しいレベルの代物であった。 設置されたエルゲラブ島は爆発で消滅、後に残ったクレーターは現在でも確認可能である。 キャッスル作戦 アイビー作戦で使用された水爆は実戦に耐えるサイズではなく、小型軽量化が必須であった。 その上上記アイビー作戦の後、旧ソ連が実用的なサイズまで小型化した水爆を"開発した"というニュースが流れたため、対抗する形でアメリカも小型化の研究を行い、その成果をビキニ環礁にて試験した。 これがキャッスル作戦である。 キャッスル作戦は合計6回行われているが、それでも爆撃機に搭載できるサイズにはならず、爆撃機からの投下実験はレッドウィング作戦で行われることになる。 この時の最初の実験であるブラボー実験の際は危険水域設定が小さく見積もられすぎていたという問題があり、これが事件を起こすこととなる この時は合計で2万人もの被曝者が発生している。 ツァーリ・ボンバ 名前は正式名称ではない。 旧ソ連が開発し爆発実験を行った、史上最大の破壊力を持つ水爆 正確には多段階水爆。 当初は100メガトンクラスの爆弾として設計されていたが、実験を行うにあたって自国環境への影響を考慮して50メガトンまで落とされたという曰くつきの代物である。 発生した衝撃波は地球を3周 日本でも観測。 Tsar Bomb Technogenics 2 Discovery channel 2017年3月20日公開) 禁止へ… 1963年に調印された部分的核実験禁止条約 PTBT によって、水爆を含め大気圏・宇宙空間・水中での核実験は禁止されている。 しかし、これ以降もPTBTで禁止されなかった地下核実験はたびたび行なわれた。 1996年には地下核実験禁止を含む包括的核実験禁止条約 CTBT が国連で採択されたが、未批准国などによって核実験が強行されるなどしており、現在も条約は発効していない…。 関連タグ 関連記事 親記事.

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水爆ツァーリ・ボンバが日本に落下、被害は?

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水素爆弾『ツァーリ・ボンバ』が炸裂する動画 ツァーリ・ボンバは、ソ連が開発した人類史上最大の水素爆弾の通称である。 正式名称はAN602であり、開発時のコードネームはイワンであった。 「ツァーリ・ボンバ」の名称は西側諸国が、クレムリンに展示されている世界最大の鐘ツァーリ・コロコル、世界最大の大砲ツァーリ・プーシュカになぞらえてつけたものであるが、現在はロシアでも広く用いられている。 単一兵器としての威力は人類史上最大であり、1961年10月30日にノヴァヤゼムリャで、唯一の大気圏内核実験が行なわれ消費された(以後製造されていない)。 ツァーリボンバの跡地の現在は? ツァーリ・ボンバは北極海にあるソ連領ノヴァヤゼムリャ 73. 投下高度は10,500メートルで、内蔵された気圧計によって高度4,000メートル(海抜4,200メートル)に降下した時点で爆発した。 一次放射線の致死域 500rem は半径6. 6キロメートル、爆風による人員殺傷範囲は23キロメートル、致命的な火傷を負う熱線の効果範囲は実に58キロメートルにも及んだと見られている。 爆発による火球は地表まで届き(但し、衝撃波により実際の接触は妨げられた)、上部は投下高度と同程度まで到達(すなわち火球は投下高度とほぼ等しい長さの直径にまで成長した)。 その様子は1,000キロメートル離れた地点からも見えたという。 生じたキノコ雲は高さ60キロメートル、幅30-40キロメートルであった。 水素爆弾の性質上、核分裂による放射性汚染はわずかだった。 この爆発による衝撃波は地球を3周してもなお空振計に記録され、日本の測候所でも衝撃波到達が観測された。 当初、アメリカはツァーリ・ボンバの爆発力を57メガトンと推測していたが、1991年に公開されたソ連の関連資料により実際は50メガトンであったことが判明した。 その減少を含んでもなお、ツァーリ・ボンバの破壊力は単一の兵器としては人類史上最強である。 ちなみに、アメリカが開発した最大の核爆弾B41の核出力は最大でも25メガトンであるとされ、核爆発実験では1954年3月1日のキャッスル作戦(ブラボー実験)の15メガトンが最大である。 TNT換算50メガトンの爆発では2. 爆発中の平均仕事率は5. 3YW に相当した。 この仕事率は太陽の光度の約1. 4パーセントにあたる.

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ツァーリ・ボンバ (つぁーりぼんば)とは【ピクシブ百科事典】

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ツァーリ・ボンバの原寸大模型。 「ツァーリ・ボンバ」の名称はが、に展示されている世界最大の鐘、榴弾砲史上最大の口径であり、ギネスブックにも記載されている になぞらえてつけたものであるが、現在はでも広く用いられている。 単一としての威力は人類史上最大であり、にで、唯一の大気圏内が行なわれて消費され、現存していない。 で約100(中に全世界で使われた総爆薬量の50倍)の威力を誇り、実験では50メガトンに制限されたものの、なお型「」の約3,300倍もの威力を有し、そのは2,000キロメートル離れた場所からも確認され、はを3周した。 実験指示 [ ] ソ連のは、第22回大会開催中の10月下旬にこの爆発実験を行うよう指示を出した。 その時点で実施日まで15週しかなかったが、実験に用いるAN602はすでに完成していた。 この当時、世界情勢は極めて緊迫した状態にあった。 1961年8月の建設開始、数ヶ月前に発表されたソ連による核実験の中止、後のに結びつくへの核配備計画実施などのためである。 そのような状況下での実験は世界中を震撼させた。 設計 [ ] ツァーリ・ボンバは本来、--核分裂という3段階の反応により100メガトンの威力を実現する(Staged Radiation Implosion Bomb)である。 しかし、100メガトン級の爆発ともなればソ連領内の人口密集地へ多量の(死の灰)が降ってくることが予想されたため、実験にあたっては第3段階目の238の核分裂を抑えるようにタンパーがに変更され、出力は50メガトンに抑制された。 この結果、放出される放射性物質の量はその出力の割にはかなり小規模なものとなった。 設計はソ連の核開発でのを中心とし、後に「ソ連水爆の父」とも呼ばれる、ヴィクトル・アダムスキー、ユーリ・ババエフ、ユーリ・スミルノフ、ユーリ・トゥルトネフなどのメンバーが参加した。 サハロフはツァーリ・ボンバの爆発実験の後、核兵器反対を唱えるようになったという。 実験 [ ] に展示されるTu-95ツァーリ・ボンバ投下機 ツァーリ・ボンバは特別な改修をうけた、Tu-95vによって運搬・投下された。 この時のパイロットはアンドレイ・ドゥルノフツェフ中佐()であった。 測定・撮影用にはが随行していた。 熱線による被害を最小限に抑えるため、この2機には特殊な白色が塗られ、Tu-95では重量27トン、全長8メートル、直径2メートルと巨大なツァーリ・ボンバを搭載するために爆弾倉の扉と翼燃料タンクが取り外され、それでも収まらなかったので半埋め込み式で搭載された。 Tu-95が当時のソ連の中では最大級であったことからも、ツァーリ・ボンバの巨大さをうかがい知ることができる。 ツァーリ・ボンバには投下機が爆心地から45キロメートル程にある安全圏へ退避する時間を与えるために重量800kgにも達する多段階の減速用が取り付けられた。 火球サイズの比較、中心から ツァーリ・ボンバ 午前11時32分、ツァーリ・ボンバはにあるソ連領()上空で投下された。 投下高度は10,500メートルで、内蔵された によって高度4,000メートル(海抜4,200メートル)に降下した時点で爆発した。 一次放射線の致死域(500rem)は半径6. 6キロメートル、爆風による人員殺傷範囲は23キロメートル、致命的な火傷を負う熱線の効果範囲は58キロメートルにも及んだと見られている。 爆発による火球の下部は地表まで届き、上部は投下高度と同程度まで到達した。 火球は1,000キロメートル離れた地点からも観測された。 生じたは高さ60キロメートル、幅30-40キロメートルであった。 上述の通り、核分裂による放射性汚染はわずかだった。 この爆発による衝撃波は地球を3周してもなお空振計に記録され、の測候所でも衝撃波到達が観測された。 当初、アメリカはツァーリ・ボンバの爆発力を57メガトンと推測していたが、に公開されたソ連の関連資料により実際は50メガトンであったことが判明した。 威力を半分に抑えた当爆弾ではあるが、その威力は単一の兵器として人類史上最大である。 ちなみに、アメリカが開発した最大の核爆弾の核出力は最大で25メガトンであるとされ、核爆発実験では1954年3月1日の(ブラボー実験)の15メガトンが最大である。 50メガトンの爆発では2. 爆発中の平均は5. 3YW)に相当し、のの約1. 4パーセントにあたる。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• Zaloga, The Kremlin's Nuclear Sword, Smithsonian Institution Press, Washingthon and London, 2002, p51-52• Sakharov, Andrei 1990. Memoirs. New York: Alfred A. Knopf. 215—225. 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 Tu-95搭載時の写真あり• 微気圧計の変位を示す画像を掲載• ロシア ツァーリ・シリーズ ツァーリ・ボンバ.

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