金子 勝。 金子勝 (経済学者)ツイッター

金子勝 (経済学者)

金子 勝

教授 金子 勝 財政学、地方財政論 制度の経済学 長い間、慶應義塾大学経済学部にお世話になりました。 この3月末をもって、義塾を退職することになりました。 もともと財政学、地方財政論を出発点にして、制度論的なアプローチから仕事をしてきました。 初期はイギリス財政史の仕事が中心でしたが、その後、日本でさまざま大きな出来事が起こるようになりました。 1990年代以降、バブルの崩壊に対して本格的な不良債権処理を怠ったため、1997年11月に北海道拓殖銀行や山一證券が経営破綻する中、金融危機が進行するに至りました。 私が慶應義塾大学に赴任したのは、そうした頃でした。 少子高齢化と労働市場の規制緩和に伴う格差の拡大によって、社会保障制度の動揺がひどくなってきました。 「グローバルスタンダード」という奇妙な議論が持ちこまれました。 こういう中で「セーフティネット」論の知的革新や「反グローバリズム」論を展開することになりました。 その後、「失われた20年」と言われるように、日本経済は「長期停滞」に陥りました。 私は、その原因究明を行う中で、2003年5月にイラク戦争が起き、石油価格が高騰し、2008年9月15日に住宅バブルがはじけリーマン・ショックが発生します。 その発生前から、バブル崩壊に警鐘を鳴らすことに努めましたが、残念ながら状況は改善しませんでした。 そして、2011年3月11日に東日本大震災が起き、福島第一原発事故が発生します。 ところが、事故責任も原因究明も十分に行われないまま、原発再稼働に向かっていきます。 技術革新も産業の国際競争力も衰えていき、「長期停滞」は「長期衰退」へと変わっていきます。 そこで、エネルギー転換と産業構造の転換について考察を進めていきました。 「脱原発成長論」です。 本来やってきたイギリス財政史の仕事は疎かになってしまう一方で、たまたま激動期に遭遇したためでしたが、いま日本が抱える問題に正面から取り組めたことは自分の研究の幅を広げてくれたと思っております。 ただ物事の進むスピードがあまりに速く、しばしば厳密な意味で学術的ではない論考を書いたり、具体的な政策論を展開したりすることになりました。 それでも、同僚たちは目をつむって許してくださりました。 いまは、私のわがままを許容してくださった慶應義塾大学の懐の深いリベラリズムの伝統に心から感謝するばかりです。 それから、長い間に、多くの優秀な学生・院生に出会うことができました。 彼らの活発な議論に教えられることが数多くありました。 私の人生にとって、それは、かけがえのない貴重な財産になっております。 改めて深く感謝しております。 ありがとうございました。

次の

【衝撃 コロナショック どうするのか この国のかたち】金子勝 立教大学特任教授:東アジア型に新型コロナ対策を転換せよ|緊急特集・衝撃 コロナショック どうするのか この国のかたち|特集|農政|JAcom 農業協同組合新聞

金子 勝

グローバリズムによって引き起こされる、マネーの暴走や 労働環境の悪化などの諸問題に対しどのように対処していく のかを、従来の感情的なアンチグローバリズムの視点を超えて 具体的な処方箋を提示して見せる興味深い一冊。 本書では、グローバリズムを、膨れ上がったドルが世界中に 引き起こすバブルの連鎖に対する、アメリカの自己正当化に 他ならないと看過しつつも、それにナショナリズムの見地から 感情的に対抗するのは、ただの気休めにしかならない、と 一蹴した上で、グローバル化した世界は前提としつつ、どう グローバル化の弊害を取り除いていくか、が解説されていく。 具体的には、現在国家単位で構成されることで機能不全に 陥っているセイフティネットを、金融の面からはより広域な レベルに社会保障の面からはより地域的なレベルに、という 二重の張り替えを行うことによって、社会の持続性を 担保していこうというものだ。 昨今盛んに争点となる国家と 社会保障のありかたについて、ありがちな国家のパターナリズムを 排し、国家の枠組み自体を問う巨視的観点に基づいたこの提言は 非常に興味深いし、現実的に議論されるに値すると思う。 もっとも、これと併行して、疲弊した世界経済を立て直すために グリーン革命(グリーンバブルを起こせ、とまで言っている)が 必要というのはどうなのだろう。 そもそも バブル循環が世界を荒廃させたのならどうして今回ばかりは 違うと言い切れようか。 この部分は眉に唾して読まざるをえなかった。 現代に対して一つの視点を得る、という意味で大変有益な本書。 その提言は多くの人の間で議論されてしかるべきものだと思うが 岩波現代文庫という、少々地味な版元であることが残念でもある。 本書を読みながら 頻りと「過渡期」という言葉を想った。 僕らは所与の「環境」に関して、それは昔から在り、今後も続くと考えがちだ。 いや、希望しがちだという方が正確かもしれない。 例えば 日本は経済大国で恵まれた国だという一般論があったとして、その状態は昔から在り、今後もそうであろうと考えるようなことだ。 歴史を考えるだけでも、少なくとも「昔から在り」という部分は間違っていることは直ぐ分かる。 1945年8月の日本が「経済大国で恵まれた国」では最早無かった。 同様に 「今後もそうであろう」という漠然とした期待感にも根拠が有るのか。 僕らは ゆで蛙のように、じわじわとした危機の中でも、それに気が付かないという感性の鈍さだけで、そう楽観しているのではないか。 つまり昔も、今も、そしておそらく未来永劫も あらゆる瞬間は「過渡期」だ。 「過渡期」に、僕らはどうしたら良いのかということが、本書の底辺を流れる主張であると僕は読んだ。 「既」という言葉が本書で目に付いた。 「既」には「米国」「新自由主義」「覇権」という意味もあれば「ナショナリズム」「計画経済」という意味も含ませてある。 将来を考えるに当たって、「既」からどれだけ自由に考えることが出来るのかということが 果てしなく続く「過渡期」をしたたかに生き延びる知恵だという事が著者のアジテーションだ。 著者の守備範囲の広い各種提言の底流には、そのアジテーションが響いている。 「諸行無常」という言葉がある。 昔から東洋には「過渡期感」というものがあった。 今一番求められているのは、「過渡期」を耐え抜き、新しい人間の在り方を示す新しい「思想」だ。 「過渡期感」を既にDNAに取り込んでいる日本人が、かような思想を構築出来る可能性は十分にあるべきだ 本書は1999年に出版された『反グローバリズム』著者同,岩波書店 のただの文庫版ではない。 もはや旧版の文庫本復古とはいえない。 これは新書である。 具体的には本書だけではこれらの構想を把握することは困難であり、神野直彦氏の著作や井出英策氏らの財政改革案も通読する必要があるだろう。 旧版『反グローバリズム』は中国でも翻訳版が出版されている。 本書もまた中国のみならず、世界各国で翻訳版が出されることを期待する。 また竹森俊平氏の『資本主義は嫌いですか』にはバブル循環に対する解答が用意されていなかっただけに、竹森氏の著書の読者には本書を一読する意義があるように思われる。 最後に、本書に提示されている方法論を政府・経済政策の関係者諸兄が参考されることを強く望む。 旧版(反グローバリズム)の出版から10年。 「グローバリズム」について理論的な批判を行い、「セーフティネット」をいち早く提唱してきた著者の功績には一目置くものがある。 しかしながら、この旧版から今回の「新・反グローバリズム」にかけて、残念ながら理論的な進化は全く無かった。 アメリカは基軸通貨国であることを利用し、ドルを野放図にばら撒き、バブルを多発させ、世界経済を滅茶苦茶にしている。 これがグローバリズムの実態だ。 だから、これに対抗する枠組みをリージョナル、ローカルレベルで構築しないといけない・・・金子氏の意見は旧版の時と同様、これに尽きる。 旧版から加筆された部分の多くは、アメリカで起こったリーマンショック、そしてそれの対応としての不良債権処理(経営責任をうやむやにしたままの「ずるずる処理」)の批判となっており、タイトルに「新」と銘打った割には、進化が無さ過ぎるのではないだろうか。 現実の世界経済を見れば、依然として金融危機のリスクが残存しているものの、中国を初めとする新興国の好調により、世界経済の二番底は回避されている。 また、世界経済は中国等の台頭により10年前に比べて一層多極化している。 金子氏はもう少し、こうした世界経済の側面も踏まえたうえで、アメリカ批判一辺倒ではない「世界経済への処方箋」の提示を行うべきではないだろうか。 また、金子氏は市場に公的空間を埋め込むとして、社会的企業家やワーカーズコレクティブなどを賞賛する。 確かに、こうした要素は市場における個人の「防御網」にもなり得るものだろうが、近年は社会的企業家などについてたくさんの著作が出ており、こうした先行研究を踏まえての理論の深化が可能だったはずなのに、そうしたものを目指した形跡が皆無である。 新書での出版ということで、スペース上の制約が多分にあったのが理由かも知れないが、旧版からの理論的深化が不十分で、読後には消化不良感が残った。 旧版をお持ちの方は買う必要が無い、と言ってしまっては言いすぎだろうか。

次の

室井佑月が経済学者・金子勝に訊く! このまま安倍政権が続いたら何が起きるのか、その恐怖のシナリオとは?|LITERA/リテラ

金子 勝

グローバリズムによって引き起こされる、マネーの暴走や 労働環境の悪化などの諸問題に対しどのように対処していく のかを、従来の感情的なアンチグローバリズムの視点を超えて 具体的な処方箋を提示して見せる興味深い一冊。 本書では、グローバリズムを、膨れ上がったドルが世界中に 引き起こすバブルの連鎖に対する、アメリカの自己正当化に 他ならないと看過しつつも、それにナショナリズムの見地から 感情的に対抗するのは、ただの気休めにしかならない、と 一蹴した上で、グローバル化した世界は前提としつつ、どう グローバル化の弊害を取り除いていくか、が解説されていく。 具体的には、現在国家単位で構成されることで機能不全に 陥っているセイフティネットを、金融の面からはより広域な レベルに社会保障の面からはより地域的なレベルに、という 二重の張り替えを行うことによって、社会の持続性を 担保していこうというものだ。 昨今盛んに争点となる国家と 社会保障のありかたについて、ありがちな国家のパターナリズムを 排し、国家の枠組み自体を問う巨視的観点に基づいたこの提言は 非常に興味深いし、現実的に議論されるに値すると思う。 もっとも、これと併行して、疲弊した世界経済を立て直すために グリーン革命(グリーンバブルを起こせ、とまで言っている)が 必要というのはどうなのだろう。 そもそも バブル循環が世界を荒廃させたのならどうして今回ばかりは 違うと言い切れようか。 この部分は眉に唾して読まざるをえなかった。 現代に対して一つの視点を得る、という意味で大変有益な本書。 その提言は多くの人の間で議論されてしかるべきものだと思うが 岩波現代文庫という、少々地味な版元であることが残念でもある。 本書を読みながら 頻りと「過渡期」という言葉を想った。 僕らは所与の「環境」に関して、それは昔から在り、今後も続くと考えがちだ。 いや、希望しがちだという方が正確かもしれない。 例えば 日本は経済大国で恵まれた国だという一般論があったとして、その状態は昔から在り、今後もそうであろうと考えるようなことだ。 歴史を考えるだけでも、少なくとも「昔から在り」という部分は間違っていることは直ぐ分かる。 1945年8月の日本が「経済大国で恵まれた国」では最早無かった。 同様に 「今後もそうであろう」という漠然とした期待感にも根拠が有るのか。 僕らは ゆで蛙のように、じわじわとした危機の中でも、それに気が付かないという感性の鈍さだけで、そう楽観しているのではないか。 つまり昔も、今も、そしておそらく未来永劫も あらゆる瞬間は「過渡期」だ。 「過渡期」に、僕らはどうしたら良いのかということが、本書の底辺を流れる主張であると僕は読んだ。 「既」という言葉が本書で目に付いた。 「既」には「米国」「新自由主義」「覇権」という意味もあれば「ナショナリズム」「計画経済」という意味も含ませてある。 将来を考えるに当たって、「既」からどれだけ自由に考えることが出来るのかということが 果てしなく続く「過渡期」をしたたかに生き延びる知恵だという事が著者のアジテーションだ。 著者の守備範囲の広い各種提言の底流には、そのアジテーションが響いている。 「諸行無常」という言葉がある。 昔から東洋には「過渡期感」というものがあった。 今一番求められているのは、「過渡期」を耐え抜き、新しい人間の在り方を示す新しい「思想」だ。 「過渡期感」を既にDNAに取り込んでいる日本人が、かような思想を構築出来る可能性は十分にあるべきだ 本書は1999年に出版された『反グローバリズム』著者同,岩波書店 のただの文庫版ではない。 もはや旧版の文庫本復古とはいえない。 これは新書である。 具体的には本書だけではこれらの構想を把握することは困難であり、神野直彦氏の著作や井出英策氏らの財政改革案も通読する必要があるだろう。 旧版『反グローバリズム』は中国でも翻訳版が出版されている。 本書もまた中国のみならず、世界各国で翻訳版が出されることを期待する。 また竹森俊平氏の『資本主義は嫌いですか』にはバブル循環に対する解答が用意されていなかっただけに、竹森氏の著書の読者には本書を一読する意義があるように思われる。 最後に、本書に提示されている方法論を政府・経済政策の関係者諸兄が参考されることを強く望む。 旧版(反グローバリズム)の出版から10年。 「グローバリズム」について理論的な批判を行い、「セーフティネット」をいち早く提唱してきた著者の功績には一目置くものがある。 しかしながら、この旧版から今回の「新・反グローバリズム」にかけて、残念ながら理論的な進化は全く無かった。 アメリカは基軸通貨国であることを利用し、ドルを野放図にばら撒き、バブルを多発させ、世界経済を滅茶苦茶にしている。 これがグローバリズムの実態だ。 だから、これに対抗する枠組みをリージョナル、ローカルレベルで構築しないといけない・・・金子氏の意見は旧版の時と同様、これに尽きる。 旧版から加筆された部分の多くは、アメリカで起こったリーマンショック、そしてそれの対応としての不良債権処理(経営責任をうやむやにしたままの「ずるずる処理」)の批判となっており、タイトルに「新」と銘打った割には、進化が無さ過ぎるのではないだろうか。 現実の世界経済を見れば、依然として金融危機のリスクが残存しているものの、中国を初めとする新興国の好調により、世界経済の二番底は回避されている。 また、世界経済は中国等の台頭により10年前に比べて一層多極化している。 金子氏はもう少し、こうした世界経済の側面も踏まえたうえで、アメリカ批判一辺倒ではない「世界経済への処方箋」の提示を行うべきではないだろうか。 また、金子氏は市場に公的空間を埋め込むとして、社会的企業家やワーカーズコレクティブなどを賞賛する。 確かに、こうした要素は市場における個人の「防御網」にもなり得るものだろうが、近年は社会的企業家などについてたくさんの著作が出ており、こうした先行研究を踏まえての理論の深化が可能だったはずなのに、そうしたものを目指した形跡が皆無である。 新書での出版ということで、スペース上の制約が多分にあったのが理由かも知れないが、旧版からの理論的深化が不十分で、読後には消化不良感が残った。 旧版をお持ちの方は買う必要が無い、と言ってしまっては言いすぎだろうか。

次の