序 万葉集は 我国 ( わがくに )の大切な歌集で、誰でも読んで好いものとおもうが、何せよ歌の数が四千五百有余もあり、一々注釈書に当ってそれを読破しようというのは並大抵のことではない。 そこで選集を作って歌に親しむということも一つの方法だから本書はその方法を採った。 選ぶ態度は大体すぐれた歌を巻毎に拾うこととし、数は先ず全体の一割ぐらいの見込で、長歌は 罷 ( や )めて短歌だけにしたから、万葉の短歌が四千二百足らずあるとして大体一割ぐらい選んだことになろうか。 本書はそのような標準にしたが、これは国民全般が万葉集の短歌として是非知って居らねばならぬものを出来るだけ選んだためであって、万人向きという意図はおのずから 其処 ( そこ )に実行せられているわけである。 ゆえに専門家的に 漸 ( ようや )く標準を高めて行き、読者諸氏は本書から自由に三百首選二百首選一百首選 乃至 ( ないし )五十首選をも作ることが出来る。 それだけの余裕を私は本書のなかに保留して置いた。 そうして選んだ歌に簡単な評釈を加えたが、本書の目的は秀歌の選出にあり、歌が主で注釈が従、評釈は読者諸氏の参考、鑑賞の助手の役目に過ぎないものであって、 而 ( しか )して今は専門学者の高級にして精到な注釈書が幾つも出来ているから、私の評釈の不備な点は 其等 ( それら )から自由に補充することが出来る。 右のごとく歌そのものが主眼、評釈はその従属ということにして、一首一首が大切なのだから飽くまで一首一首に執着して、若し大体の意味が 呑込 ( のみこ )めたら、しばらく私の評釈の文から離れ歌自身について反復熟読せられよ。 読者諸氏は本書を初から順序立てて読まれても 好 ( よ )し、行き当りばったりという工合に 頁 ( ページ )を繰って出た歌だけを読まれても好し、忙しい諸氏は労働のあいま田畔汽車中電車中食後散策後架上就眠前等々に於て、一、二首或は二、三首乃至十首ぐらいずつ読まれることもまた可能である。 要は繰返して読み一首一首を大切に取扱って、早読して以て軽々しく取扱われないことを望むのである。 本書では一首一首に執着するから、いわゆる万葉の精神、万葉の日本的なもの、万葉の国民性などいうことは論じていない。 これに反して一助詞がどう一動詞がどう第三句が 奈何 ( いかん )結句が奈何というようなことを繰返している。 読者諸氏は 此等 ( これら )の言に対してしばらく耐忍せられんことをのぞむ。 万葉集の傑作といい秀歌と称するものも、地を洗って見れば決して魔法のごとく不可思議なものでなく、素直で当り前な作歌の常道を踏んでいるのに他ならぬという、その最も積極的な例を示すためにいきおいそういう細かしきことになったのである。 本書で試みた一首一首の短評中には、先師ほか諸学者の結論が 融込 ( とけこ )んでいること無論であるが、つまりは私の一家見ということになるであろう。 そうして万人向きな、 誰 ( たれ )にも分かる「万葉集入門」を意図したのであったのだけれども、いよいよとなれば仮借しない態度を折に触れつつ示した 筈 ( はず )である。 昭和十三年八月二十九日斎藤茂吉。 中皇命は未詳だが、 賀茂真淵 ( かものまぶち )は 荷田春満 ( かだのあずままろ )の説に 拠 ( よ )り、「皇」の下に「女」を補って、「 中皇女命 ( なかつひめみこのみこと )」と 訓 ( よ )み、舒明天皇の皇女で、のち、孝徳天皇の后に立ちたもうた 間人 ( はしびと )皇后だとし、喜田博士は皇后で後天皇になられた御方だとしたから、此処では 皇極 ( こうぎょく )( 斉明 ( さいめい ))天皇に当らせられる。 即ち前説に拠れば舒明の皇女、後説に拠れば舒明の皇后ということになる。 間人連老は孝徳天皇紀 白雉 ( はくち )五年二月遣唐使の判官に「間人連老」とあるその人であろう。 次に作者は中皇命か間人連老か両説あるが、これは中皇命の御歌であろう。 縦 ( よ )しんば間人連老の作という仮定をゆるすとしても中皇命の御心を以て作ったということになる。 間人連老の作だとする説は、題詞に「御歌」となくしてただ「歌」とあるがためだというのであるが、これは 編輯 ( へんしゅう )当時既に「御」を脱していたのであろう。 考 ( こう )に、「御字を補ひつ」と云ったのは 恣 ( ほしいまま )に過ぎた観があっても 或 ( あるい )は真相を伝えたものかも知れない。 「中大兄三山歌」(巻一・一三)でも「御」の字が無い。 然るにこの三山歌は目録には「中大兄三山御歌」と「御」が入っているに就き、代匠記には「中大兄ハ天智天皇ナレバ 尊 ( みこと )トカ 皇子 ( みこ )トカ 有 ( あり )ヌベキニヤ。 傍例ニヨルニ 尤 ( もっとも ) 有 ( ある )ベシ。 三山ノ下ニ目録ニハ御ノ字アリ。 脱セルカ」と云っている如く、古くから本文に「御」字の無い例がある。 そして、「万葉集はその原本の 儘 ( まま )に伝はり、 改刪 ( かいさん )を経ざるものなるを思ふべし」(講義)を顧慮すると、目録の方の「御」は目録作製の時につけたものとも取れる。 なお、この「御字」につき、「御字なきは転写のとき脱せる 歟 ( か )。 但天皇に献り給ふ故に、献御歌とはかゝざる 歟 ( か )なるべし」( 僻案抄 ( へきあんしょう ))、「御歌としるさざるは、此は天皇に対し奉る所なるから、殊更に御 ノ字をばかゝざりしならんか」( 美夫君志 ( みぶくし ))等の説をも参考とすることが出来る。 それから、 攷證 ( こうしょう )で、「この歌もし中皇命の御歌ならば、そを奉らせ給ふを取次せし人の名を、ことさらにかくべきよしなきをや」と云って、間人連老の作だという説に賛成しているが、これも、 老 ( おゆ )が普通の使者でなくもっと中皇命との関係の深いことを示すので、特にその名を書いたと見れば解釈がつき、必ずしも作者とせずとも済むのである。 考の別記に、「御歌を奉らせ給ふも老は御乳母の子などにて御 睦 ( むつまじ )き故としらる」とあるのは、事実は問わずとも、その思考の 方嚮 ( ほうこう )には間違は無かろうとおもう。 諸注のうち、二説の分布状態は次の如くである。 中皇命作説(僻案抄・考・ 略解 ( りゃくげ )・ 燈 ( ともしび )・ 檜嬬手 ( ひのつまで )・美夫君志・左千夫新釈・講義)、間人連老作説( 拾穂抄 ( しゅうすいしょう )・代匠記・古義・ 攷證 ( こうしょう )・新講・新解・評釈)。 「たまきはる」は 命 ( いのち )、 内 ( うち )、 代 ( よ )等にかかる枕詞であるが諸説があって未詳である。 仙覚・ 契沖 ( けいちゅう )・真淵らの 霊極 ( たまきはる )の説、即ち、「タマシヒノキハマル内の命」の意とする説は余り有力でないようだが、つまりは其処に落着くのではなかろうか。 なお 宣長 ( のりなが )の「あら玉 来経 ( きふ )る」説、即ち年月の経過する 現 ( うつ )という意。 久老 ( ひさおい )の「 程 ( たま ) 来経 ( きふ )る」説。 雅澄 ( まさずみ )の「 手纏 ( たま )き 佩 ( は )く」説等がある。 宇智 ( うち )と 内 ( うち )と同音だからそう用いた。 一首の意は、今ごろは、〔たまきはる〕(枕詞)宇智の大きい野に沢山の馬をならべて朝の御猟をしたまい、その朝草を踏み走らせあそばすでしょう。 露の一ぱいおいた草深い野が目に見えるようでございます、という程の御歌である。 代匠記に、「草深キ野ニハ鹿ヤ鳥ナドノ多ケレバ、宇智野ヲホメテ 再 ( ふたたび ) 云也 ( いふなり )」。 古義に、「けふの御かり御 獲物 ( えもの )多くして御興 尽 ( つき )ざるべしとおぼしやりたるよしなり」とある。 作者が皇女でも皇后でも、天皇のうえをおもいたもうて、その遊猟の有様に 聯想 ( れんそう )し、それを祝福する御心持が一首の響に 滲透 ( しんとう )している。 決して代作態度のよそよそしいものではない。 そこで代作説に賛成する古義でも、「此 題詞 ( ハシツクリ )のこゝろは、契沖も云るごとく、中皇女のおほせによりて間人連老が 作 ( ヨミ )てたてまつれるなるべし。 されど意はなほ皇女の御意を承りて、天皇に聞えあげたるなるべし」と云っているのは、この歌の調べに云うに云われぬ愛情の響があるためで、古義は理論の上では間人連老の作だとしても、鑑賞の上では、皇女の御意云々を否定し得ないのである。 此一事軽々に看過してはならない。 それから、この歌はどういう形式によって献られたかというに、「皇女のよみ給ひし御歌を 老 ( オユ )に 口誦 ( クジユ )して父天皇の御前にて歌はしめ給ふ也」(檜嬬手)というのが真に近いであろう。 一首は、 豊腴 ( ほうゆ )にして荘潔、 些 ( いささか )の渋滞なくその歌調を 完 ( まっと )うして、日本古語の優秀な特色が 隈 ( くま )なくこの一首に出ているとおもわれるほどである。 句割れなどいうものは一つもなく、第三句で「て」を置いたかとおもうと、第四句で、「朝踏ますらむ」と流動的に据えて、小休止となり、結句で二たび起して重厚荘潔なる名詞止にしている。 この名詞の結句にふかい感情がこもり余響が長いのである。 作歌当時は言語が 極 ( きわ )めて容易に自然にこだわりなく運ばれたとおもうが、後代の私等には驚くべき力量として迫って来るし、「その」などという続けざまでも言語の妙いうべからざるものがある。 長歌といいこの反歌といい、万葉集中最高峰の一つとして敬うべく尊むべきものだとおもうのである。 この長歌は、「やすみしし 吾 ( わが ) 大王 ( おほきみ )の、 朝 ( あした )にはとり 撫 ( な )でたまひ、 夕 ( ゆふべ )にはい 倚 ( よ )り立たしし、 御執 ( みと )らしの 梓弓 ( あずさのゆみ )の、 長弭 ( ながはず )( 中弭 ( なかはず ))の音すなり、 朝猟 ( あさかり )に今立たすらし、 暮猟 ( ゆふかり )に今立たすらし、 御執 ( みと )らしの梓弓の、長弭(中弭)の音すなり」(巻一・三)というのである。 これも流動声調で、繰返しによって進行せしめている点は驚くべきほど優秀である。 朝猟夕猟と云ったのは、声調のためであるが、実は、朝猟も夕猟もその時なされたと解することも出来るし、支那の古詩にもこの朝猟夕猟と続けた例がある。 梓弓はアヅサユミノと六音で読む説が有力だが、「 安都佐能由美乃 ( アヅサユミノ )」(巻十四・三五六七)によって、アヅサノユミノと訓んだ。 その方が口調がよいからである。 なお参考歌には、天武天皇御製に、「 その雪の時なきが 如 ( ごと )、 その雨の間なきが 如 ( ごと )、 隈 ( くま )もおちず思ひつつぞ来る、 その山道を」(巻一・二五)がある。 なお山部赤人の歌に、「朝猟に 鹿猪 ( しし ) 履 ( ふ )み起し、夕狩に鳥ふみ立て、馬 並 ( な )めて御猟ぞ立たす、春の 茂野 ( しげぬ )に」(巻六・九二六)がある。 赤人のには此歌の影響があるらしい。 「馬なめて」もよい句で、「友なめて遊ばむものを、馬なめて 往 ( ゆ )かまし里を」(巻六・九四八)という用例もある。 軍王の伝は不明であるが、或は固有名詞でなく、 大将軍 ( いくさのおおきみ )のことかも知れない(近時題詞の軍王見山を山の名だとする説がある)。 天皇の十一年十二月伊豫の 温湯 ( ゆ )の 宮 ( みや )に行幸あったから、そのついでに讃岐安益郡(今の 綾歌 ( あやうた )郡)にも立寄られたのであっただろうか。 「時じみ」は非時、不時などとも書き、時ならずという意。 「寝る夜おちず」は、寝る毎晩毎晩欠かさずにの意。 「かけて」は心にかけての意である。 一首の意は、山を越して、風が時ならず吹いて来るので、ひとり寝る毎夜毎夜、家に残っている妻を心にかけて思い慕うた、というのである。 言葉が順当に運ばれて、作歌感情の極めて素直にあらわれた歌であるが、さればといって平板に失したものでなく、 捉 ( とら )うべきところは決して 免 ( の )がしてはいない。 「山越しの風」は山を越して来る風の意だが、これなども、正岡子規が 嘗 ( かつ )て注意した如く緊密で 巧 ( たくみ )な云い方で、この句があるために、一首が具体的に 緊 ( し )まって来た。 この語には、「朝日かげにほへる山に照る月の飽かざる君を 山越 ( やまごし )に置きて」(巻四・四九五)の例が参考となる。 また、「かけて偲ぶ」という用例は、その他の歌にもあるが、心から離さずにいるという気持で、自然的に同感を伴うために他にも用例が出来たのである。 併しこの「懸く」という如き 云 ( い )い方はその時代に発達した云い方であるので、現在の私等が直ちにそれを取って歌語に用い、心の直接性を得るという 訣 ( わけ )に行かないから、私等は、語そのものよりも、その語の出来た心理を学ぶ方がいい。 なおこの歌で学ぶべきは全体としてのその古調である。 第三句の字余りなどでもその 破綻 ( はたん )を来さない微妙な点と、「風を時じみ」の如く 圧搾 ( あっさく )した云い方と、結句の「つ」止めと、そういうものが相待って 綜合 ( そうごう )的な古調を成就しているところを学ぶべきである。 第三句の字余りは、人麿の歌にも、「 幸 ( さき )くあれど」等があるが、後世の第三句の字余りとは趣がちがうので破綻 云々 ( うんぬん )と云った。 「つ」止めの参考歌には、「越の海の 手結 ( たゆひ )の浦を旅にして見ればともしみ大和しぬびつ」(巻三・三六七)等がある。 ただ 兎道 ( うじ )は山城の宇治で、大和と近江との交通路に当っていたから、行幸などの時に仮の御旅宿を宇治に設けたもうたことがあったのであろう。 その時額田王は 供奉 ( ぐぶ )し、後に当時を追懐して詠んだものと想像していい。 額田王は、額田姫王と書紀にあるのと同人だとすると、額田王は 鏡王 ( かがみのおおきみ )の女で、 鏡女王 ( かがみのおおきみ )の妹であったようだ。 初め 大海人皇子 ( おおあまのみこ )と 御婚 ( みあい )して 十市皇女 ( とおちのひめみこ )を生み、ついで天智天皇に 寵 ( ちょう )せられ近江京に行っていた。 「かりいほ」は、原文「 仮五百 ( かりいほ )」であるが真淵の 考 ( こう )では、カリホと訓んだ。 一首の意。 嘗 ( かつ )て天皇の行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の野のみ草( 薄 ( すすき )・ 萱 ( かや ))を刈って 葺 ( ふ )いた 行宮 ( あんぐう )に 宿 ( やど )ったときの興深かったさまがおもい出されます。 この歌は、独詠的の追懐であるか、或は対者にむかってこういうことを云ったものか不明だが、単純な独詠ではないようである。 意味の内容がただこれだけで取りたてていうべき曲が無いが、単純素朴のうちに浮んで来る写象は鮮明で、且つその声調は清潔である。 また単純な独詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から伝わって来るのをおぼえるのである。 この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった。 歌の左注に、 山上憶良 ( やまのうえのおくら )の 類聚歌林 ( るいじゅうかりん )に、一書によれば、 戊申年 ( つちのえさるのとし )、比良宮に行幸の時の御製云々とある。 この戊申の歳を大化四年とすれば、孝徳天皇の御製ということになるが、今は額田王の歌として味うのである。 題詞等につき、万葉の編輯当時既に異伝があったこと斯くの如くである。 其時お伴をした額田王の詠んだ歌である。 熟田津という港は現在何処かというに、松山市に近い三津浜だろうという説が有力であったが、今はもっと道後温泉に近い山寄りの地(御幸寺山附近)だろうということになっている。 即ち現在はもはや海では無い。 一首の意は、伊豫の熟田津で、御船が進発しようと、月を待っていると、いよいよ月も明月となり、潮も満ちて船出するのに都合好くなった。 さあ榜ぎ出そう、というのである。 「船乗り」は此処ではフナノリという名詞に使って居り、人麿の歌にも、「船乗りすらむをとめらが」(巻一・四〇)があり、また、「播磨国より船乗して」(遣唐使時奉幣祝詞)という用例がある。 また、「月待てば」は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は満潮を待つのであろう。 月と潮汐とには関係があって、日本近海では大体月が東天に上るころ潮が満始るから、この歌で月を待つというのはやがて満潮を待つということになる、また書紀の、「庚戌泊 二于伊豫熟田津石湯行宮 一」とある 庚戌 ( かのえいぬ )は十四日に当る。 三津浜では現在陰暦の十四日頃は月の上る午後七、八時頃八合満となり午後九時前後に満潮となるから、此歌は 恰 ( あたか )も大潮の満潮に当ったこととなる。 すなわち当夜は月明であっただろう。 月が満月でほがらかに潮も満潮でゆたかに、一首の声調大きくゆらいで、古今に稀なる秀歌として現出した。 そして五句とも句割がなくて整調し、句と句との続けに、「に」、「と」、「ば」、「ぬ」等の助詞が極めて自然に使われているのに、「船乗 せむと」、「榜ぎ いでな」という具合に流動の節奏を以て 緊 ( し )めて、それが第二句と結句である点などをも注意すべきである。 結句は八音に字を余し、「今は」というのも、なかなか強い語である。 この結句は命令のような大きい語気であるが、 縦 ( たと )い作者は女性であっても、集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的なひびきとしてこの表現があるのである。 供奉応詔歌の真髄もおのずからここに存じていると 看 ( み )ればいい。 結句の原文は、「許芸乞菜」で、旧訓コギコナであったが、代匠記初稿本で、「こぎ出なとよむべきか」という一訓を案じ、万葉集燈でコギイデナと定めるに至った。 「乞」をイデと 訓 ( よ )む例は、「 乞我君 ( イデアギミ )」、「 乞我駒 ( イデワガコマ )」などで、元来さあさあと促がす 詞 ( ことば )であるのだが「出で」と同音だから借りたのである。 一字の訓で一首の価値に大影響を及ぼすこと斯くの如くである。 また初句の「熟田津に」の「に」は、「に 於 ( おい )て」の意味だが、 橘守部 ( たちばなのもりべ )は、「に向って」の意味に解したけれどもそれは誤であった。 斯 ( か )く一助詞の解釈の差で一首の意味が全く違ってしまうので、 訓詁 ( くんこ )の学の大切なことはこれを見ても分かる。 なお、この歌は山上憶良の類聚歌林に 拠 ( よ )ると、斉明天皇が舒明天皇の皇后であらせられた時一たび天皇と共に伊豫の湯に御いでになられ、それから斉明天皇の九年に二たび伊豫の湯に御いでになられて、往時を追懐遊ばされたとある。 そうならば此歌は斉明天皇の御製であろうかと左注で云っている。 若しそれが本当で、前に出た宇智野の歌の中皇命が斉明天皇のお若い時(舒明皇后)だとすると、この秀歌を理会するにも便利だとおもうが、此処では題どおりに額田王の歌として鑑賞したのであった。 橘守部は、「熟田津に」を「に向って」と解し、「此歌は備前の 大伯 ( オホク )より伊与の熟田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ」と云ったが、それは誤であった。 併し、「に」に 方嚮 ( ほうこう )(到着地)を示す用例は無いかというに、やはり用例はあるので、「 粟島 ( あはしま )に漕ぎ渡らむと思へども 明石 ( あかし )の 門浪 ( となみ )いまだ騒げり」(巻七・一二〇七)。 この歌の「に」は方嚮を示している。 原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、 吾瀬子之 ( ワガセコガ )、 射立為兼 ( イタタセリケム )、 五可新何本 ( イツカシガモト )」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。 契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと 謂 ( い )っていい。 そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ 厳橿 ( いつかし )が 本 ( もと )」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。 下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。 厳橿 ( いつかし )は 厳 ( おごそ )かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。 その樹の下に 嘗 ( かつ )て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。 或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。 この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。 書紀垂仁巻に、天皇以 二倭姫命 一為 二御杖 一貢 二奉於天照大神 一是以倭姫命以 二天照大神 ヲ 一鎮 二坐磯城 ノ厳橿之本 一とあり、古事記雄略巻に、 美母呂能 ( ミモロノ )、 伊都加斯賀母登 ( イツカシガモト )、 加斯賀母登 ( カシガモト )、 由由斯伎加母 ( ユユシキカモ )、 加志波良袁登売 ( カシハラヲトメ )、云々とある如く、神聖なる場面と関聯し、 橿原 ( かしはら )の 畝火 ( うねび )の山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。 考頭注に、「このかしは神の坐所の 斎木 ( ゆき )なれば」云々。 古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。 さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。 真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、 古兄 湯気 ( コエテユケ )だとした。 考に云、「こはまづ神武天皇紀に 依 ( よる )に、今の大和国を内つ国といひつ。 さて其内つ国を、こゝに 囂 ( サヤギ )なき国と書たり。 同紀に、 雖辺土未清余妖尚梗而 ( トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ )、 中洲之地無風塵 ( ウチツクニハヤスラケシ )てふと同意なるにて 知 ( しり )ぬ。 かくてその隣とは、此度は紀伊国を 差 ( さす )也。 然れば莫囂国隣之の五字は、 紀乃久爾乃 ( キノクニノ )と 訓 ( よむ )べし。 又右の紀に、辺土と中州を 対 ( むかへ ) 云 ( いひ )しに依ては、此五字を 外 ( ト )つ国のとも訓べし。 然れども云々の隣と書しからは、遠き国は本よりいはず、近きをいふなる中に、一国をさゝでは 此哥 ( このうた )にかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、 猶 ( なほ )上の訓を取るべし」とあり、なお真淵は、「こは 荷田大人 ( かだのうし )のひめ 哥 ( うた )也。 さて此哥の初句と、斉明天皇紀の 童謡 ( ワザウタ )とをば、はやき世よりよく 訓 ( ヨム )人なければとて、彼童謡をば己に、此哥をばそのいろと荷田 ノ 信名 ( のぶな ) ノ 宿禰 ( すくね )に伝へられき。 其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家に 問 ( とふ )に、全く古大人の訓に 均 ( ひと )しといひおこせたり。 然れば惜むべきを、ひめ隠しおかば、荷田大人の功も 徒 ( いたづら )に 成 ( なり )なんと、我友皆いへればしるしつ」という感慨を漏らしている。 書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「 傍国 ( かたくに )の 可怜国 ( うましくに )なり」と云った如くに、大和に隣った国だから、紀の国を考えたのであっただろうか。 古義では、「 三室 ( みもろ )の 大相土見乍湯家 ( ヤマミツツユケ )吾が背子がい立たしけむ厳橿が 本 ( もと )」と訓み、奠器 円 レ隣 ( メグラス )でミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の 美母呂能伊都加斯賀母登 ( ミモロノイツカシガモト )を参考とした。 そして真淵説を、「紀 ノ国の山を超て 何処 ( イヅク )に行とすべけむや、 無用説 ( イタヅラゴト )といふべし」と評したが、 併 ( しか )しこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田 久老 ( ひさおい )が 信濃漫録 ( しなのまんろく )で云ったその模倣である。 真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。 この訓は何処か 弛 ( たる )んでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。 「吾が背子」は、或は 大海人皇子 ( おおあまのみこ )(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。 そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。 紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。 中皇命は前言した如く不明だし、前の中皇命と同じ方かどうかも分からない。 天智天皇の皇后倭姫命だろうという説(喜田博士)もあるが未定である。 若し同じおん方だろうとすると、皇極天皇(斉明天皇)に当らせ給うことになるから、この歌は 後崗本宮 ( のちのおかもとのみや )御宇天皇(斉明)の処に配列せられているけれども、或は天皇がもっとお若くましました頃の御歌ででもあろうか。 一首の意は、あなたが今旅のやどりに仮小舎をお作りになっていらっしゃいますが、若し屋根葺く 萱草 ( かや )が御不足なら、 彼処 ( あそこ )の小松の下の萱草をお刈りなさいませ、というのである。 中皇命は不明だが、歌はうら若い高貴の女性の御語気のようで、その単純素朴のうちにいいがたい香気のするものである。 こういう語気は万葉集でも後期の歌にはもはや感ずることの出来ないものである。 「わが背子は」というのは客観的のいい方だが、実は、「あなたが」というので、当時にあってはこういう云い方には深い情味をこもらせ得たものであっただろう。 そのほか 穿鑿 ( せんさく )すればいろいろあって、例えばこの歌には加行の音が多い、そしてカの音を繰返した調子であるというような事であるが、それは幾度も吟誦すれば自然に分かることだから今はこまかい 詮議立 ( せんぎだて )は 罷 ( や )めることにする。 契沖は、「我が背子」を「御供ノ人ヲサシ給ヘリ」といったが、やはりそうでなく御一人をお 指 ( さ )し申したのであろう。 また、この歌に「小松にあやかりて、ともにおひさきも久しからむと、これ又長寿をねがふうへにのみして詞をつけさせ給へるなり」(燈)という如き底意があると説く説もあるが、これも現代人の作歌稽古のための鑑賞ならば、この儘で素直に 受納 ( うけい )れる方がいいようにおもう。 野島は紀伊の日高郡日高川の下流に名田村大字野島があり、阿胡根の浦はその海岸である。 珠 ( たま )は美しい貝又は小石。 中には真珠も含んで居る。 「紀のくにの浜に寄るとふ、 鰒珠 ( あはびだま )ひりはむといひて」(巻十三・三三一八)は真珠である。 一首の意は、わたくしの 希 ( ねが )っていた野島の海浜の景色はもう見せていただきました。 けれど、底の深い阿胡根浦の珠はいまだ拾いませぬ、というので、うちに 此処 ( ここ )深海の真珠が欲しいものでございますという意も含まっている。 「野島は見せつ」は自分が人に見せたように聞こえるが、此処は見せて頂いたの意で、散文なら、「君が吾に野島をば見せつ」という具合になる。 この歌も若い女性の 口吻 ( こうふん )で、純真澄み透るほどな快いひびきを持っている。 そして一首は常識的な平板に陥らず、末世人が舌不足と難ずる如き渋みと厚みとがあって、軽薄ならざるところに古調の尊さが存じている。 これがあえて此種の韻文のみでなく、普通の談話にもこういう尊い香気があったものであろうか。 この歌の稍主観的な語は、「わが欲りし」と、「底ふかき」とであって、知らず 識 ( し )らずあい対しているのだが、それが毫も目立っていない。 高市黒人 ( たけちのくろひと )の歌に、「吾妹子に 猪名野 ( ゐなぬ )は見せつ 名次山 ( なすぎやま ) 角 ( つぬ )の松原いつか示さむ」(巻三・二七九)があり、この歌より明快だが、却って通俗になって軽くひびく。 この場合の「見せつ」は、「吾妹子に猪名野をば見せつ」だから、普通のいい方で分かりよいが含蓄が無くなっている。 現に中皇命の御歌も、或本には、「わが欲りし子島は見しを」となっている。 これならば意味は分かりよいが、歌の味いは減るのである。 第一首の、「君が代も我が代も知らむ(知れや) 磐代 ( いはしろ )の岡の 草根 ( くさね )をいざ結びてな」(巻一・一〇)も、生えておる草を結んで寿を祝う歌で、「代」は「いのち」即ち寿命のことである。 まことに佳作だから一しょにして味うべきである。 以上の三首を憶良の類聚歌林には、「天皇御製歌」とあるから、皇極(斉明)天皇と想像し奉り、その中皇命時代の御作とでも想像し奉るか。 長歌は、「 香具山 ( かぐやま )は 畝傍 ( うねび )を 愛 ( を )しと、 耳成 ( みみなし )と相争ひき、神代より斯くなるらし、 古 ( いにしへ )も 然 ( しか )なれこそ、 現身 ( うつそみ )も妻を、争ふらしき」というのであるが、反歌の方は、この三山が相争った時、出雲の 阿菩大神 ( あほのおおかみ )がそれを 諫止 ( かんし )しようとして出立し、 播磨 ( はりま )まで来られた 頃 ( ころ )に三山の争闘が止んだと聞いて、大和迄行くことをやめたという播磨 風土記 ( ふどき )にある伝説を取入れて作っている。 風土記には 揖保 ( いぼ )郡の処に記載されてあるが印南の方にも同様の伝説があったものらしい。 「会ひし時」は「相戦った時」、「相争った時」という意味である。 書紀神功皇后巻に、「いざ会はなわれは」とあるは相闘う意。 毛詩に、「肆伐 二大商 一会朝清明」とあり、「会える朝」は即ち会戦の旦也と注せられた。 共に同じ用法である。 この歌の「立ちて見に来し」の主格は、それだから阿菩大神になるのだが、それが一首のうえにはあらわれていない。 そこで一読しただけでは、印南国原が立って見に来たように受取れるのであるが、結句の「印南国原」は場処を示すので、大神の来られたのは、此処の印南国原であった、という意味になる。 一首に主格も省略し、結句に、「印南国原」とだけ云って、その結句に助詞も助動詞も無いものだが、それだけ散文的な通俗を脱却して、 蒼古 ( そうこ )とも 謂 ( い )うべき形態と響きとを持っているものである。 長歌が蒼古 峻厳 ( しゅんげん )の特色を持っているが、この反歌もそれに優るとも劣ってはいない。 この一首の単純にしてきびしい形態とその響とは、恐らくは婦女子等の鑑賞に堪えざるものであろう。 一首の中に三つも固有名詞が入っていて、毫も不安をおぼえしめないのは衷心驚くべきである。 後代にしてかかるところを 稍 ( やや )悟入し得たものは歌人として平賀元義ぐらいであっただろう。 「中大兄」は、考ナカツオホエ、古義ナカチオホエ、と訓んでいる。 併し三山の歌とせずに、同一作者が印南野海浜あたりで御作りになった叙景の歌と 看做 ( みな )せば解釈が出来るのである。 今、浜べに立って見わたすに、 海上 ( かいじょう )に大きい旗のような雲があって、それに赤く 夕日 ( ゆうひ )の光が差している。 この様子では、多分 今夜 ( こんや )の月は 明月 ( めいげつ )だろう。 結句の原文、「清明己曾」は旧訓スミアカクコソであったのを、真淵がアキラケクコソと訓んだ。 そうすれば、アキラケクコソアラメという推量になるのである。 山田博士の講義に、「下にアラメといふべきを略せるなり。 かく係助詞にて止め、下を略するは一種の語格なり」と云ってある。 「豊旗雲」は、「 豊雲野神 ( とよくもぬのかみ )」、「 豊葦原 ( とよあしはら )」、「 豊秋津州 ( とよあきつしま )」、「 豊御酒 ( とよみき )」、「 豊祝 ( とよほぎ )」などと同じく「豊」に特色があり、古代日本語の優秀を示している一つである。 以上のように解してこの歌を味えば、荘麗ともいうべき大きい自然と、それに参入した作者の 気魄 ( きはく )と相融合して読者に迫って来るのであるが、如是荘大雄厳の歌詞というものは、遂に後代には跡を断った。 万葉を崇拝して万葉調の歌を作ったものにも絶えて此歌に及ぶものがなかった。 その何故であるかを吾等は一たび 省 ( かえりみ )ねばならない。 後代の歌人等は、 渾身 ( こんしん )を以て自然に参入してその写生をするだけの意力に乏しかったためで、この実質と単純化とが遂に後代の歌には見られなかったのである。 第三句の、「入日さし」と中止法にしたところに、小休止があり、不即不離に第四句に続いているところに歌柄の大きさを感ぜしめる。 結句の推量も、赤い夕雲の光景から月明を直覚した、素朴で人間的直接性を 有 ( も )っている。 (願望とする説は、心が 稍 ( やや )間接となり、技巧的となる。 ) 「清明」を真淵に従ってアキラケクと訓んだが、これには諸訓があって未だ一定していない。 旧訓スミアカクコソで、此は随分長く行われた。 然るに真淵は考でアキラケクコソと訓み、「今本、清明の字を追て、すみあかくと訓しは、万葉をよむ事を得ざるものぞ、紀にも、清白心をあきらけきこゝろと訓し也」と云った。 古義では、「アキラケクといふは古言にあらず」として、キヨクテリコソと訓み、明は照の誤写だろうとした。 なおその他の訓を記せば次のごとくである。 スミアカリコソ(京大本)。 サヤケシトコソ(春満)。 サヤケクモコソ(秋成)。 マサヤケクコソ(古泉千樫)。 サヤニテリコソ(佐佐木信綱)。 キヨクアカリコソ(武田祐吉・佐佐木信綱)。 マサヤケミコソ(品田太吉)。 サヤケカリコソ(三矢重松・斎藤茂吉・森本治吉)。 キヨラケクコソ(松岡静雄・折口信夫)。 マサヤカニコソ(沢瀉久孝)等の諸訓がある。 けれども、今のところ皆真淵訓には及び難い感がして居るので、自分も真淵訓に従った。 真淵のアキラケクコソの訓は、古事記伝・略解・燈・檜嬬手・攷證・美夫君志・ 註疏 ( ちゅうそ )・新考・講義・新講等皆それに従っている。 ただ、燈・美夫君志等は意味を違えて取った。 さて、結句の「清明己曾」をアキラケクコソと訓んだが、これに異論を唱える人は、万葉時代には月光の形容にキヨシ、サヤケシが用いられ、アカシ、アキラカ、アキラケシの類は絶対に使わぬというのである。 成程万葉集の用例を見れば大体そうである。 けれども「絶対に」使わぬなどとは 云 ( い )われない。 「 日月波 ( ヒツキハ )、 安可之等伊倍騰 ( アカシトイヘド )、 安我多米波 ( アガタメハ )、 照哉多麻波奴 ( テリヤタマハヌ )」(巻五・八九二)という憶良の歌は、明瞭に日月の光の形容にアカシを使っているし、「 月読明少夜者更下乍 ( ツクヨミノアカリスクナキヨハフケニツツ )」(巻七・一〇七五)でも月光の形容にアカリを使っているのである。 平安朝になってからは、「 秋の夜の月の光しあかければくらぶの山もこえぬべらなり」(古今・秋上)、「桂川 月のあかきにぞ渡る」(士佐日記)等をはじめ用例は多い。 併し万葉時代と平安朝時代との言語の移行は暫時的・流動的なものだから、突如として変化するものでないことは、この実例を以ても証明することが出来たのである。 約 ( つづ ) めていえば、 万葉時代に月光の形容にアカシを用いた。 次に、「 安我己許呂安可志能宇良爾 ( アガココロアカシノウラニ )」(巻十五・三六二七)、「 吾情清隅之池之 ( アガココロキヨスミノイケノ )」(巻十三・三二八九)、「 加久佐波奴安加吉許己呂乎 ( カクサハヌアカキココロヲ )」(巻二十 四四六五)、「 汝心之清明 ( ミマシガココロノアカキコトハ )」、「 我心清明故 ( アガココロアカキユヱニ )」(古事記・上巻)、「有 リ 二 清心 ( キヨキココロ ) 一」(書紀神代巻)、「 浄伎明心乎持弖 ( キヨキアカキココロヲモチテ )」(続紀・巻十)等の例を見れば、心あかし、心きよし、あかき心、きよき心は、共通して用いられたことが分かるし、なお、「敷島のやまとの国に 安伎良気伎 ( アキラケキ )名に負ふとものを心つとめよ」(巻二十・四四六六)、「つるぎ大刀いよよ研ぐべし古へゆ 佐夜気久於比弖 ( サヤケクオヒテ )来にしその名ぞ」(同・四四六七)の二首は、大伴家持の連作で、二つとも「名」を 咏 ( よ )んでいるのだが、アキラケキとサヤケキとの流用を証明しているのである。 そして、「春日山押して照らせる此月は妹が庭にも 清有家里 ( サヤケカリケリ )」(巻七・一〇七四)は、月光にサヤケシを用いた例であるから、以上を 綜合 ( そうごう )して 観 ( み )るに、アキラケシ、サヤケシ、アカシ、キヨシ、などの形容詞は互に共通して用いられ、互に流用せられたことが分かる。 新撰字鏡 ( しんせんじきょう )に、明。 阿加之 ( アカシ )、 佐也加爾在 ( サヤカニアリ )、 佐也介之 ( サヤケシ )、 明介志 ( アキラケシ )( 阿支良介之 ( アキラケシ ))等とあり、 類聚名義抄 ( るいじゅうみょうぎしょう )に、明 可在月 アキラカナリ、ヒカル等とあるのを見ても、サヤケシ、アキラケシの流用を認め得るのである。 結論、 万葉時代に月光の形容にアキラケシと使ったと認めて差支ない。 次に、結句の「己曾」であるが、これも万葉集では、結びにコソと使って、コソアラメと云った例は絶対に無いという反対説があるのだが、平安朝になると、形容詞からコソにつづけてアラメを省略した例は、「心美しきこそ」、「いと苦しくこそ」、「いとほしうこそ」、「片腹いたくこそ」等をはじめ用例が多いから、それがもっと時代が 溯 ( さかのぼ )っても、日本語として、絶対に使わなかったとは謂えぬのである。 特に感動の強い時、形式の制約ある時などにこの用法が行われたと解釈すべきである。 なお、 安伎良気伎 ( アキラケキ )、 明久 ( アキラケク )、 左夜気伎 ( サヤケキ )、 左夜気久 ( サヤケク )は 謂 ( いわ )ゆる乙類の仮名で、形容詞として活用しているのである。 結論、 アキラケク・ コソという用法は、 アキラケク・ コソ・ アラメという用法に等しいと解釈して差支ない。 (本書は簡約を目的としたから大体の論にとどめた。 別論がある。 ) 以上で、大体解釈が終ったが、この歌には異った解釈即ち、今は曇っているが、今夜は月明になって欲しいものだと解釈する説(燈・古義・美夫君志等)、或は、第三句までは現実だが、下の句は願望で、月明であって欲しいという説(選釈・新解等)があるのである。 而して、「今夜の月さやかにあれかしと 希望 ( ネガヒ )給ふなり」(古義)というのは、キヨクテリコソと訓んで、連用言から続いたコソの終助詞即ち、希望のコソとしたから自然この解釈となったのである。 結句を推量とするか、希望とするか、鑑賞者はこの二つの説を 受納 ( うけい )れて、相比較しつつ味うことも 亦 ( また )可能である。 そしていずれが歌として優るかを判断すべきである。 併し、「額田王下 二近江 一時作歌、井戸王即和歌」という題詞があるので、額田王作として解することにする。 「 味酒 ( うまざけ )三輪の山、 青丹 ( あをに )よし奈良の山の、山のまにい隠るまで、道の 隈 ( くま )い 積 ( つも )るまでに、 委 ( つばら )にも見つつ行かむを、しばしばも 見放 ( みさ )けむ山を、心なく雲の、 隠 ( かく )さふべしや」という長歌の反歌である。 「しかも」は、そのように、そんなにの意。 一首の意は、三輪山をばもっと見たいのだが、雲が隠してしまった。 そんなにも隠すのか、 縦 ( たと )い雲でも 情 ( なさけ )があってくれよ。 こんなに隠すという法がないではないか、というのである。 「あらなむ」は 将然言 ( しょうぜんげん )につく願望のナムであるが、山田博士は原文の「南畝」をナモと訓み、「 情 ( こころ )アラナモ」とした。 これは古形で同じ意味になるが、類聚古集に「南武」とあるので、 暫 ( しばら )く「情アラナム」に従って置いた。 その方が、結句の響に調和するとおもったからである。 結句の「隠さふべしや」の「や」は強い反語で、「隠すべきであるか、決して隠すべきでは無い」ということになる。 長歌の結末にもある句だが、それを短歌の結句にも繰返して居り、情感がこの結句に集注しているのである。 この作者が抒情詩人として優れている点がこの一句にもあらわれており、天然の現象に、 恰 ( あたか )も生きた人間にむかって物言うごとき態度に出て、 毫 ( ごう )も 厭味 ( いやみ )を感じないのは、直接であからさまで、擬人などという意図を余り意識しないからである。 これを 試 ( こころみ )に、 在原業平 ( ありわらのなりひら )の、「飽かなくにまだきも月の隠るるか山の 端 ( は )逃げて入れずもあらなむ」(古今・雑上)などと比較するに及んで、更にその特色が 瞭然 ( りょうぜん )として来るのである。 カクサフはカクスをハ行四段に活用せしめたもので、時間的経過をあらわすこと、チル、チラフと同じい。 「奥つ藻を 隠さふなみの五百重浪」(巻十一・二四三七)、「 隠さはぬあかき心を、 皇方 ( すめらべ )に極めつくして」(巻二十・四四六五)の例がある。 なおベシヤの例は、「大和恋ひいの寝らえぬに 情 ( こころ )なくこの 渚 ( す )の埼に 鶴 ( たづ )鳴くべしや」(巻一・七一)、「出でて行かむ時しはあらむを 故 ( ことさ )らに妻恋しつつ立ちて行くべしや」(巻四・五八五)、「 海 ( うみ )つ 路 ( ぢ )の 和 ( な )ぎなむ時も渡らなむかく立つ浪に船出すべしや」(巻九・一七八一)、「たらちねの母に 障 ( さは )らばいたづらに 汝 ( いまし )も吾も事成るべしや」(巻十一・二五一七)等である。 その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。 額田王ははじめ大海人皇子に 婚 ( みあ )い 十市皇女 ( とおちのひめみこ )を生んだが、後天智天皇に召されて宮中に侍していた。 この歌は、そういう関係にある時のものである。 「あかねさす」は紫の枕詞。 「紫野」は染色の原料として 紫草 ( むらさき )を栽培している野。 「標野」は御料地として 濫 ( みだ )りに人の出入を禁じた野で即ち蒲生野を指す。 「野守」はその御料地の 守部 ( もりべ )即ち番人である。 一首の意は、お慕わしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでしょうか。 それが不安心でございます、というのである。 この「野守」に就き、或は天智天皇を申し奉るといい、或は諸臣のことだといい、皇太子の御思い人だといい、種々の取沙汰があるが、其等のことは奥に潜めて、野守は野守として大体を味う方が好い。 また、「野守は見ずや君が袖ふる」をば、「立派なあなた(皇太子)の御姿を野守等よ見ないか」とうながすように解する説もある。 「袖ふるとは、男にまれ女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよ/\とをかしげなるをいふ」(攷證)。 「わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。 われは見るからにゑましきにとなり」(講義)等である。 併し、袖振るとは、「わが振る袖を妹見つらむか」(人麿)というのでも分かるように、ただの客観的な姿ではなく、恋愛心表出のための一つの行為と解すべきである。 この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、甘美な 媚態 ( びたい )をも感じ得るのである。 「野守は見ずや」と強く云ったのは、一般的に云って居るようで、 寧 ( むし )ろ皇太子に 愬 ( うった )えているのだと解して好い。 そういう強い句であるから、その句を先きに云って、「君が袖振る」の方を後に置いた。 併しその倒句は単にそれのみではなく、結句としての声調に、「袖振る」と止めた方が適切であり、また女性の語気としてもその方に直接性があるとおもうほど微妙にあらわれて居るからである。 甘美な媚態云々というのには、「紫野ゆき標野ゆき」と 対手 ( あいて )の行動をこまかく云い現して、語を繰返しているところにもあらわれている。 一首は平板に直線的でなく、立体的波動的であるがために、重厚な奥深い響を持つようになった。 先進の注釈書中、この歌に、大海人皇子に他に恋人があるので 嫉 ( ねた )ましいと解したり(燈・美夫君志)、或は、戯れに 諭 ( さと )すような分子があると説いたのがあるのは(考)、一首の甘美な 愬 ( うった )えに触れたためであろう。 「袖振る」という行為の例は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」(巻二・一三二)、「 凡 ( おほ )ならばかもかも 為 ( せ )むを 恐 ( かしこ )みと振りたき袖を 忍 ( しぬ )びてあるかも」(巻六・九六五)、「高山の 岑 ( みね )行く 鹿 ( しし )の友を多み袖振らず来つ忘ると念ふな」(巻十一・二四九三)などである。 一首の意は、紫の色の美しく 匂 ( にお )うように美しい 妹 ( いも )(おまえ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋する 筈 ( はず )はないではないか。 そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである、というのである。 この「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからと 云 ( い )って」というのでなく、「人妻に 由 ( よ )って恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。 「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひ 痩 ( や )せぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉に 甚 ( はなは )だ多い。 恋人を花に 譬 ( たと )えたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。 この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。 これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、 然 ( し )かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。 そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。 自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。 集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「 憎 ( にく )くあらなくに」、「 憎 ( にく )からなくに」の例もある。 この歌に、「憎」の語と、「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。 この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌には 縦 ( たと )い切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。 ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。 なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。 波多 ( はた )の地は 詳 ( つまびらか )でないが、伊勢 壱志 ( いちし )郡八太村の辺だろうと云われている。 一首の意は、この河の 辺 ( ほとり )の多くの巌には少しも草の生えることがなく、 綺麗 ( きれい )で 滑 ( なめら )かである。 そのようにわが皇女の君も永久に美しく容色のお変りにならないでおいでになることをお願いいたします、というのである。 「常少女」という語も、古代日本語の特色をあらわし、まことに感歎せねばならぬものである。 今ならば、「永遠処女」などというところだが、到底この古語には及ばない。 作者は恐らく老女であろうが、皇女に対する敬愛の情がただ純粋にこの一首にあらわれて、単純古調のこの一首を吟誦すれば寧ろ荘厳の気に打たれるほどである。 古調という中には、一つ一つの語にいい知れぬ味いがあって、後代の吾等は潜心その吟味に努めねばならぬもののみであるが、第三句の「草むさず」から第四句への 聯絡 ( れんらく )の具合、それから第四句で切って、結句を「にて」にて止めたあたり、皆繰返して読味うべきもののみである。 この歌の結句と、「野守は見ずや君が袖ふる」などと比較することもまた 極 ( きわ )めて有益である。 「常」のついた例には、「相見れば 常初花 ( とこはつはな )に、 情 ( こころ )ぐし眼ぐしもなしに」(巻十七・三九七八)、「その立山に、 常夏 ( とこなつ )に雪ふりしきて」(同・四〇〇〇)、「 白砥 ( しらと ) 掘 ( ほ )ふ 小新田 ( をにひた )山の 守 ( も )る山の 末 ( うら )枯れ 為無 ( せな )な 常葉 ( とこは )にもがも」(巻十四・三四三六)等がある。 十市皇女は大友皇子(弘文天皇)御妃として 葛野王 ( かどののおおきみ )を生んだが、 壬申乱 ( じんしんのらん )後大和に帰って居られた。 皇女は天武天皇七年夏四月天皇伊勢斎宮に行幸せられんとした最中に卒然として薨ぜられたから、この歌はそれより前で、恐らく、四年春二月参宮の時でもあろうか。 さびしい境遇に居られた皇女だから、老女が作ったこの祝福の歌もさびしい心を背景としたものとおもわねばならぬ。 「海人なれや」は疑問で、「海人だからであろうか」という意になる。 この歌はそれに感傷して 和 ( こた )えられた歌である。 自分は命を愛惜してこのように海浪に濡れつつ 伊良虞 ( いらご )島の玉藻を苅って食べている、というのである。 流人でも高貴の方だから実際海人のような業をせられなくとも、前の歌に「玉藻苅ります」といったから、「玉藻苅り食す」と云われたのである。 なお結句を古義ではタマモカリハムと訓み、新考(井上)もそれに従った。 この一首はあわれ深いひびきを持ち、特に、「うつせみの命ををしみ」の句に感慨の主点がある。 万葉の歌には、「わたつみの豊旗雲に」の如き歌もあるが、またこういう切実な感傷の歌もある。 悲しい声であるから、堂々とせずにヲシミ・ナミニヌレのあたりは、稍小きざみになっている。 「いのち」のある例は、「たまきはる命惜しけど、せむ 術 ( すべ )もなし」(巻五・八〇四)、「たまきはる命惜しけど、為むすべのたどきを知らに」(巻十七・三九六二)等である。 麻続王が 配流 ( はいる )されたという記録は、書紀には 因幡 ( いなば )とあり、常陸風土記には 行方郡板来 ( なめかたのこおりいたく )村としてあり、この歌によれば伊勢だから、配流地はまちまちである。 常陸の方は伝説化したものらしく、因幡・伊勢は配流の場処が途中変ったのだろうという説がある。 そうすれば説明が出来るが、万葉の歌の方は伊勢として味ってかまわない。 藤原宮は持統天皇の四年に高市皇子御視察、十二月天皇御視察、六年五月から造営をはじめ八年十二月に完成したから、恐らくは八年以後の御製で、宮殿から眺めたもうた光景ではなかろうかと拝察せられる。 一首の意は、春が過ぎて、もう夏が来たと見える。 天の香具山の辺には今日は一ぱい白い衣を干している、というのである。 「らし」というのは、推量だが、実際を目前にしつついう推量である。 「 来 ( きた )る」は 良 ( ら )行四段の動詞である。 「み冬つき春は 吉多礼登 ( キタレド )」(巻十七・三九〇一)「冬すぎて 暖来良思 ( ハルキタルラシ )」(巻十・一八四四)等の例がある。 この歌は、全体の声調は端厳とも謂うべきもので、第二句で、「来る らし」と切り、第四句で、「衣ほし たり」と切って、「らし」と「たり」で伊列の音を繰返し一種の節奏を得ているが、人麿の歌調のように鋭くゆらぐというのではなく、やはり女性にまします御語気と感得することが出来るのである。 そして、結句で「天の香具山」と名詞止めにしたのも一首を整正端厳にした。 天皇の御代には人麿・黒人をはじめ優れた歌人を出したが、天皇に此御製あるを拝誦すれば、決して偶然でないことが分かる。 この歌は、第二句ナツキニケラシ(旧訓)、古写本中ナツゾキヌラシ(元暦校本・類聚古集)であったのを、契沖がナツキタルラシと訓んだ。 第四句コロモサラセリ(旧訓)、古写本中、コロモホシタリ( 古葉略類聚抄 ( こようりゃくるいじゅうしょう ))、コロモホシタル(神田本)、コロモホステフ(細井本)等の訓があり、また、新古今集や小倉百人一首には、「春過ぎて夏来に けらし白妙の衣ほ すてふあまの香具山」として載っているが、これだけの僅かな差別で一首全体に大きい差別を来すことを知らねばならぬ。 現在鴨公村高殿の土壇に立って香具山の方を見渡すと、この御製の如何に実地的即ち写生的だかということが分かる。 真淵の万葉考に、「夏のはじめつ 比 ( ころ )、天皇 埴安 ( はにやす )の堤の上などに 幸 ( いでま )し給ふ時、かの家らに衣を 懸 ( かけ )ほして 有 ( ある )を見まして、実に夏の来たるらし、衣をほしたりと、見ますまに/\のたまへる御歌也。 夏は物打しめれば、万づの物ほすは常の事也。 さては余りに事かろしと思ふ後世心より、附そへごと多かれど皆わろし。 古への歌は言には風流なるも多かれど、心はただ打見打思ふがまゝにこそよめれ」と云ってあるのは名言だから引用しておく。 なお、埴安の池は、現在よりももっと西北で、別所の北に池尻という小字があるがあのあたりだかも知れない。 なお、橋本 直香 ( ただか )(私抄)は、香具山に登り給うての御歌と想像したが、併し御製は前言の如く、宮殿にての御吟詠であろう。 土屋文明氏は 明日香 ( あすか )の 浄御原 ( きよみはら )の宮から山の 陽 ( みなみ )の村里を御覧になられての御製と解した。 参考歌。 「ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春たつらしも」(巻十・一八一二)、「いにしへの事は知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山」(巻七・一〇九六)、「昨日こそ年は 極 ( は )てしか春霞春日の山にはや立ちにけり」(巻十・一八四三)、「筑波根に雪かも降らる否をかも 愛 ( かな )しき児ろが 布 ( にぬ )ほさるかも」(巻十四・三三五一)。 僻案抄 ( へきあんしょう )に、「只白衣を干したるを見そなはし給ひて詠給へる御歌と見るより外有べからず」といったのは素直な解釈であり、燈に、「春はと人のたのめ奉れる事ありしか。 又春のうちにと人に御ことよさし給ひし事のありけるが、それが 期 ( とき )を過ぎたりければ、その人をそゝのかし、その期おくれたるを 怨 ( うら )ませ給ふ御心なるべし」と云ったのは、 穿 ( うが )ち過ぎた解釈で甚だ悪いものである。 こういう態度で古歌に対するならば、一首といえども正しい鑑賞は出来ない。 大津宮(志賀宮)の址は、現在の大津市南滋賀町あたりだろうという説が有力で、近江の都の範囲は、其処から南へも延び、西は比叡山麓、東は湖畔 迄 ( まで )至っていたもののようである。 此歌は持統三年頃、人麿二十七歳ぐらいの作と想像している。 「ささなみ」(楽浪)は近江滋賀郡から高島郡にかけ湖西一帯の地をひろく称した地名であるが、この頃には既に形式化せられている。 一首は、 楽浪 ( ささなみ )の志賀の辛崎は元の如く何の 変 ( かわり )はないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊をした大宮人も居なくなった。 それゆえ、志賀の辛崎が、大宮人の船を幾ら待っていても待ち 甲斐 ( がい )が無い、というのである。 「 幸 ( さき )くあれど」は、平安無事で何の変はないけれどということだが、非情の辛崎をば、幾らか人間的に云ったものである。 「船待ちかねつ」は、幾ら待っていても駄目だというのだから、これも人間的に云っている。 歌調からいえば、第三句は字余りで、結句は四三調に 緊 ( し )まっている。 全体が切実沈痛で、一点浮華の気をとどめて居らぬ。 現代の吾等は、擬人法らしい表現に、 陳腐 ( ちんぷ )を感じたり、反感を持ったりすることを止めて、一首全体の態度なり 気魄 ( きはく )なりに同化せんことを努むべきである。 作は人麿としては初期のものらしいが、既にかくの如く円熟して居る。 大津の京に関係あった湖水の一部の、大曲の水が現在、人待ち顔に淀んでいる趣である。 然るに、「オホワダ」をば 大海 ( おおわだ )即ち近江の湖水全体と解し、湖の水が 勢多 ( せた )から宇治に流れているのを、それが停滞して流れなくなるとも、というのが、即ち「ヨドムトモ」であると仮定的に解釈する説(燈)があるが、それは通俗 理窟 ( りくつ )で、人麿の歌にはそういう通俗理窟で解けない歌句が間々あることを知らねばならぬ。 ここの「淀むとも」には現在の実感がもっと 活 ( い )きているのである。 この歌も感慨を籠めたもので、寧ろ主観的な歌である。 前の歌の第三句に、「幸くあれど」とあったごとく、この歌の第三句にも、「淀むとも」とある、そこに感慨が籠められ、小休止があるようになるのだが、こういう云い方には、ややともすると一首を弱くする危険が潜むものである。 然るに人麿の歌は前の歌もこの歌も、「船待ちかねつ」、「またも逢はめやも」と強く結んで、全体を統一しているのは実に驚くべきで、この力量は人麿の作歌の 真率 ( しんそつ )的な態度に本づくものと自分は解して居る。 人麿は初期から 斯 ( こ )ういう優れた歌を作っている。 然るに古人の伝不明で、題詞の下に或書云 高市連黒人 ( たけちのむらじくろひと )と注せられているので、黒人の作として味う人が多い。 「いにしへの人にわれあれや」は、当今の普通人ならば旧都の 址 ( あと )を見てもこんなに悲しまぬであろうが、こんなに悲しいのは、古の世の人だからであろうかと、疑うが如くに感傷したのである。 この主観句は、相当によいので棄て難いところがある。 なお、巻三(三〇五)に、高市連黒人の、「 斯 ( か )くゆゑに見じといふものを 楽浪 ( ささなみ )の旧き都を見せつつもとな」があって、やはり上の句が主観的である。 けれども、此等の主観句は、切実なるが如くにして切実に響かないのは何故であるか。 これは人麿ほどの心熱が無いということにもなるのである。 持統天皇の吉野行幸は前後三十二回(御在位中三十一回御譲位後一回)であるが、万葉集年表(土屋文明氏)では、五年春夏の 交 ( こう )だろうと云っている。 さすれば人麿の想像年齢二十九歳位であろうか。 一首の意は、山の神( 山祇 ( やまつみ ))も川の神( 河伯 ( かわのかみ ))も、もろ共に寄り来って仕え奉る、 現神 ( あきつがみ )として神そのままに、わが天皇は、この吉野の川の 滝 ( たぎ )の 河内 ( かふち )に、群臣と共に船出したもう、というのである。 「 滝 ( たぎ )つ 河内 ( かふち )」は、今の 宮滝 ( みやたき )附近の吉野川で、水が強く廻流している地勢である。 人麿は此歌を作るのに、謹んで緊張しているから、自然歌調も大きく荘厳なものになった。 上半は形式的に響くが、人麿自身にとっては本気で全身的であった。 そして、「滝つ河内」という現実をも 免 ( のが )していないものである。 一首の諧調音を分析すれば不思議にも加行の開口音があったりして、種々勉強になる歌である。 先師伊藤左千夫先生は、「神も人も相和して遊ぶ尊き御代の有様である」(万葉集新釈)と評せられたが、まさしく其通りである。 第二句、原文「因而奉流」をヨリテ・ツカフルと訓んだが、ヨリテ・マツレルという訓もある。 併しマツレルでは 調 ( しらべ )が悪い。 結句、原文、「船出為加母」は、フナデ・セスカモと敬語に訓んだのもある。 補記、近時土屋文明氏は「滝つ河内」はもっと下流の、 下市 ( しもいち )町を中心とした越部、六田あたりだろうと考証した。 初句、原文「嗚呼見浦爾」だから、アミノウラニと訓むべきである。 併し史実上で、 阿胡行宮 ( あごのかりみや )云々とあるし、志摩に 英虞郡 ( あごのこおり )があり、巻十五(三六一〇)の古歌というのが、「 安胡乃宇良 ( アゴノウラ )」だから、恐らく人麿の原作はアゴノウラで、万葉巻一のアミノウラは異伝の一つであろう。 一首は、天皇に 供奉 ( ぐぶ )して行った多くの若い女官たちが、阿虞の浦で船に乗って遊楽する、その時にあの女官等の裳の裾が海潮に 濡 ( ぬ )れるであろう、というのである。 行幸は、三月六日(陽暦三月三十一日)から三月二十日(陽暦四月十四日)まで続いたのだから、海浜で遊楽するのに適当な季節であり、若く美しい女官等が大和の山地から海浜に来て珍しがって遊ぶさまが目に見えるようである。 そういう朗かで美しく楽しい歌である。 然 ( し )かも一首に「らむ」という助動詞を二つも使って、流動的歌調を 成就 ( じょうじゅ )しているあたり、やはり人麿一流と 謂 ( い )わねばならない。 「玉裳」は美しい裳ぐらいに取ればよく、一首に親しい感情の出ているのは、女官中に人麿の恋人もいたためだろうと想像する向もある。 「 伊良虞 ( いらご )の島」は、三河 渥美 ( あつみ )郡の伊良虞崎あたりで、「島」といっても崎でもよいこと、後出の「加古の島」のところにも応用することが出来る。 一首は、潮が満ちて来て鳴りさわぐ頃、伊良虞の島近く 榜 ( こ )ぐ船に、供奉してまいった自分の女も乗ることだろう。 あの浪の荒い島のあたりを、というのである。 この歌には、明かに「妹」とあるから、こまやかな情味があって 余所余所 ( よそよそ )しくない。 そして、この「妹乗るらむか」という一句が一首を統一してその中心をなしている。 船に慣れないことに同情してその難儀をおもいやるに、ただ、「妹乗るらむか」とだけ云っている、そして、結句の、「荒き島回を」に応接せしめている。 或は伊勢行幸にでも 扈従 ( こじゅう )して行った夫を 偲 ( しの )んだものかも知れない。 名張山は伊賀名張郡の山で伊勢へ越ゆる道筋である。 「奥つ藻の」は名張へかかる枕詞で、奥つ藻は奥深く隠れている藻だから、カクルと同義の語ナバル(ナマル)に懸けたものである。 一首の意は、夫はいま何処を歩いていられるだろうか。 今日ごろは多分名張の山あたりを越えていられるだろうか、というので、一首中に「らむ」が二つ第二句と結句とに置かれて調子を取っている。 この「らむ」は、「朝踏ますらむ」あたりよりも稍軽快である。 この歌は古来秀歌として鑑賞せられたのは万葉集の歌としては分かり好く口調も好いからであったが、そこに特色もあり、消極的方面もまたそこにあると謂っていいであろうか。 併しそれでも古今集以下の歌などと違って、厚みのあるところ、名張山という現実を持って来たところ等に注意すべきである。 この歌は、巻四(五一一)に重出しているし、又集中、「後れゐて吾が恋ひ居れば 白雲 ( しらくも )の棚引く山を今日か越ゆらむ」(巻九・一六八一)、「たまがつま島熊山の夕暮にひとりか君が山路越ゆらむ」(巻十二・三一九三)、「 息 ( いき )の 緒 ( を )に吾が 思 ( も )ふ君は 鶏 ( とり )が鳴く 東 ( あづま )の坂を今日か越ゆらむ」(同・三一九四)等、結句の同じものがあるのは注意すべきである。 その時人麿の作った短歌四首あるが、その第一首である。 軽皇子( 文武 ( もんむ )天皇)の御即位は持統十一年であるから、此歌はそれ以前、恐らく持統六、七年あたりではなかろうか。 一首は、阿騎の野に今夜旅寝をする人々は、昔の事がいろいろ思い出されて、安らかに眠りがたい、というのである。 「うち靡き」は人の寝る時の体の形容であるが、今は形式化せられている。 「やも」は反語で、強く云って感慨を籠めている。 「旅人」は複数で、軽皇子を主とし、従者の人々、その中に人麿自身も居るのである。 この歌は響に句々の揺ぎがあり、単純に過ぎてしまわないため、余韻おのずからにして長いということになる。 一首の意は、阿騎野にやどった翌朝、日出前の東天に既に暁の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野にも映って見える。 その時西の方をふりかえると、もう月が落ちかかっている、というのである。 この歌は前の歌にあるような、「古へおもふに」などの句は無いが、全体としてそういう感情が奥にかくれているもののようである。 そういう気持があるために、「かへりみすれば月かたぶきぬ」の句も 利 ( き )くので、先師伊藤左千夫が評したように、「稚気を脱せず」というのは、 稍 ( やや )酷ではあるまいか。 人麿は斯く見、斯く感じて、詠歎し写生しているのであるが、それが即ち犯すべからざる大きな歌を得る 所以 ( ゆえん )となった。 「野に・かぎろひの」のところは 所謂 ( いわゆる )、句割れであるし、「て」、「ば」などの助詞で続けて行くときに、たるむ 虞 ( おそれ )のあるものだが、それをたるませずに、却って一種 渾沌 ( こんとん )の調を成就しているのは偉いとおもう。 それから人麿は、第三句で小休止を置いて、第四句から起す手法の 傾 ( かたむき )を 有 ( も )っている。 そこで、伊藤左千夫が、「かへり見すれば」を、「俳優の身振めいて」と評したのは稍見当の違った感がある。 此歌は、訓がこれまで定まるのに、相当の経過があり、「 東野 ( あづまの )のけぶりの立てるところ見て」などと訓んでいたのを、契沖、真淵等の力で此処まで到達したので、後進の吾等はそれを忘却してはならぬのである。 守部此歌を評して、「一夜やどりたる曠野のあかつきがたのけしき、めに見ゆるやうなり。 此かぎろひは旭日の余光をいへるなり」(緊要)といった。 一首は、いよいよ御猟をすべき日になった。 御なつかしい日並皇子尊が御生前に群馬を走らせ御猟をなされたその時のように、いよいよ御猟をすべき時になった、というのである。 この歌も余り細部にこだわらずに、おおように歌っているが、ただの腕まかせでなく、丁寧にして真率な作である。 総じて人麿の作は重厚で、軽薄の音調の無きを特色とするのは、応詔、献歌の場合が多いからというためのみでなく、どんな場合でもそうであるのを、後進の歌人は見のがしてはならない。 それから、結句の、「来向ふ」というようなものでも人麿造語の一つだと謂っていい。 「今年経て来向ふ夏は」「春過ぎて夏来向へば」(巻十九・四一八三・四一八〇)等の家持の用例があるが、これは人麿の、「時は来向ふ」を学んだものである。 人麿以後の万葉歌人等で人麿を学んだ者が一人二人にとどまらない。 言葉を換えていえば人麿は万葉集に於て最もその真価を認められたものである。 後世人麿を「歌聖」だの何のと騒いだが、 上 ( うわ )の空の偶像礼拝に過ぎぬ。 遷都は持統八年十二月であるから、それ以後の御作だということになる。 一首は、明日香に来て見れば、既に都も遠くに 遷 ( うつ )り、都であるなら美しい采女等の袖をも 飜 ( ひるがえ )す明日香風も、今は空しく吹いている、というぐらいに取ればいい。 「明日香風」というのは、明日香の地を吹く風の意で、 泊瀬 ( はつせ )風、 佐保 ( さほ )風、 伊香保 ( いかほ )風等の例があり、上代日本語の一特色を示している。 今は京址となって 寂 ( さび )れた明日香に来て、その感慨をあらわすに、采女等の袖ふりはえて歩いていた有様を聯想して歌っているし、それを明日香風に集注せしめているのは、意識的に作歌を工夫するのならば捉えどころということになるのであろうが、当時は感動を主とするから自然にこうなったものであろう。 采女の事などを主にするから 甘 ( あま )くなるかというに決してそうでなく、皇子一流の精厳ともいうべき歌調に統一せられている。 ただ、「袖ふきかへす」を主な感じとした点に、心のすえ方の危険が潜んでいるといわばいい得るかも知れない。 この、「袖ふきかへす」という句につき、「袖ふきかへしし」と過去にいうべきだという説もあったが、ここは 楽 ( らく )に解釈して好い。 初句は旧訓タヲヤメノ。 拾穂抄タハレメノ。 僻案抄ミヤヒメノ。 考タワヤメノ。 古義ヲトメノ等の訓がある。 古鈔本中 元暦 ( げんりゃく )校本に朱書で或ウネメノとあるに従って訓んだが、なおオホヤメノ(神)タオヤメノ(文)の訓もあるから、旧訓或は考の訓によって味うことも出来る。 つまり、「 采女 ( ウネメ )は官女の称なるを義を以てタヲヤメに借りたるなり」(美夫君志)という説を全然否定しないのである。 いずれにしても初句の四音ウネメノは稍不安であるから、どうしてもウネメと訓まねばならぬなら、或はウネメラノとラを入れてはどうか知らん。 引馬野は遠江 敷智 ( ふち )郡(今浜名郡)浜松附近の野で、 三方原 ( みかたがはら )の南寄に 曳馬 ( ひくま )村があるから、其辺だろうと解釈して来たが、近時三河 宝飯 ( ほい )郡 御津 ( みと )町附近だろうという説(今泉忠男氏、久松潜一氏)が有力となった。 「 榛原 ( はりはら )」は 萩原 ( はぎはら )だと解せられている。 一首の意は、引馬野に咲きにおうて居る榛原(萩原)のなかに入って逍遙しつつ、此処まで旅し来った記念に、萩の花を衣に薫染せしめなさい、というのであろう。 右の如くに解して、「草枕旅ゆく人も行き触ればにほひぬべくも咲ける 芽子 ( はぎ )かも」(巻八・一五三二)の歌の如く、衣に薫染せしめる事としたのであるが、 続日本紀 ( しょくにほんぎ )に 拠 ( よ )るに行幸は十月十日(陽暦十一月八日)から十一月二十五日(陽暦十二月二十二日)にかけてであるから、大方の萩の花は散ってしまっている。 ここで、「榛原」は萩でなしに、 榛 ( はん )の木原で、その実を 煎 ( せん )じて黒染(黄染)にする、その事を「衣にほはせ」というのだとする説が起って、目下その説が有力のようであるが、榛の実の黒染のことだとすると、「入りみだり衣にほはせ」という句にふさわしくない。 そこで若し榛原は萩原で、其頃萩の花が既に過ぎてしまったとすると、萩の花でなくて萩の 黄葉 ( もみじ )であるのかも知れない。 (土屋文明氏も、萩の花ならそれでもよいが、榛の黄葉、乃至は雑木の黄葉であるかも知れぬと云っている。 )萩の黄葉は極めて鮮かに美しいものだから、その美しい黄葉の中に入り浸って衣を薫染せしめる気持だとも解釈し得るのである。 つまり実際に 摺染 ( すりぞめ )せずに薫染するような気持と解するのである。 また、榛は 新撰字鏡 ( しんせんじきょう )に、叢生曰 レ榛とあるから、灌木の藪をいうことで、それならばやはり 黄葉 ( もみじ )の心持である。 いずれにしても、 榛 ( はん )の木ならば、「にほふはりはら」という気持ではない。 この「にほふ」につき、必ずしも花でなくともいいという説は既に 荷田春満 ( かだのあずままろ )が云っている。 「にほふといふこと、〔葉〕花にかぎりていふにあらず、色をいふ詞なれば、花過ても匂ふ萩原といふべし」(僻案抄)。 そして榛の実の黒染説は、続日本紀の十月十一月という記事があるために可能なので、この記事さへ顧慮しないならば、萩の花として素直に鑑賞の出来る歌なのである。 また続日本紀の記載も絶対的だともいえないことがあるかも知れない。 そういうことは少し 我儘 ( わがまま )過ぎる解釈であろうが、差し当ってはそういう我儘をも許容し得るのである。 さて、そうして置いて、萩の花を以て衣を薫染せしめることに定めてしまえば、此の歌の自然で且つ透明とも謂うべき快い声調に接することが出来、一首の中に「にほふ」、「にほはせ」があっても、邪魔を感ぜずに 受納 ( うけい )れることも出来るのである。 次に近時、「乱」字を四段の自動詞に活用せしめた例が万葉に無いとして「入り乱れ」と訓んだ説(沢瀉氏)があるが、既に「みだりに」という副詞がある以上、四段の自動詞として認容していいとおもったのである。 且つ、「いりみだり」の方が響としてはよいのである。 次に、この歌は引馬野にいて詠んだものだろうと思うのに、京に残っていて供奉の人を送った作とする説(武田氏)がある。 即ち、武田博士は、「作者はこの御幸には留守をしてゐたので、御供に行く人に与へた作である。 多分、御幸が決定し、御供に行く人々も定められた準備時代の作であらう。 御幸先の秋の景色を想像してゐる。 よい作である。 作者がお供をして詠んだとなす説はいけない」(総釈)と云うが、これは陰暦十月十日以後に萩が無いということを前提とした想像説である。 そして、 真淵 ( まぶち )の如きも、「又思ふに、幸の時は、近き国の民をめし 課 ( オフス )る事紀にも見ゆ、然れば 前 ( さき )だちて八九月の 比 ( ころ )より遠江へもいたれる官人此野を過る時よみしも知がたし」(考)という想像説を既に作っているのである。 共に、同じく想像説ならば、真淵の想像説の方が、歌を味ううえでは適切である。 この歌はどうしても属目の感じで、想像の歌ではなかろうと思うからである。 私 ( ひそ )かにおもうに、此歌はやはり行幸に供奉して三河の現地で詠んだ歌であろう。 そして少くも其年は萩がいまだ咲いていたのであろう。 気温の事は現在を以て当時の事を軽々に論断出来ないので、即ち僻案抄に、「なべては十月には花も過葉もかれにつゝ(く?)萩の、此引馬野には花も残り葉もうるはしくてにほふが故に、かくよめりと見るとも 難有 ( なんある )べからず。 草木は気運により、例にたがひ、土地により、遅速有こと常のことなり」とあり、考にも、「此幸は十月なれど遠江はよに暖かにて十月に此花にほふとしも多かり」とあるとおりであろう。 私は、昭和十年十一月すえに伊香保温泉で木萩の咲いて居るのを見た。 其の時伊香保の山には既に雪が降っていた。 また大宝二年の行幸は、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て京師に還幸になったのは十一月二十五日であるのを見れば、恐らくその年はそう寒くなかったのかも知れないのである。 また、「古にありけむ人のもとめつつ衣に摺りけむ真野の榛原」(巻七・一一六六)、「白菅の真野の榛原心ゆもおもはぬ吾し 衣 ( ころも )に 摺 ( す )りつ」(同・一三五四)、「住吉の岸野の榛に 染 ( にほ )ふれど 染 ( にほ )はぬ我やにほひて居らむ」(巻十六・三八〇一)、「思ふ子が衣摺らむに匂ひこせ島の榛原秋立たずとも」(巻十・一九六五)等の、衣摺るは、萩花の 摺染 ( すりぞめ )ならば直ぐに出来るが、ハンの実を煎じて黒染にするのならば、さう簡単には出来ない。 もっとも、攷證では、「この榛摺は木の皮をもてすれるなるべし」とあるが、これでも技術的で、この歌にふさわしくない。 そこでこの二首の「榛」はハギの花であって、ハンの実でないとおもうのである。 なお、「引き 攀 ( よ )ぢて折らば散るべみ梅の花袖に 扱入 ( こき )れつ 染 ( し )まば 染 ( し )むとも」(巻八・一六四四)、「藤浪の花なつかしみ、引よぢて袖に 扱入 ( こき )れつ、 染 ( し )まば 染 ( し )むとも」(巻十九・四一九二)等も、薫染の趣で、必ずしも摺染めにすることではない。 つまり「衣にほはせ」の気持である。 なお、榛はハギかハンかという問題で、「いざ子ども大和へはやく白菅の真野の榛原手折りてゆかむ」(巻三・二八〇)の中の、「手折りてゆかむ」はハギには適当だが、ハンには不適当である。 その次の歌、「白菅の真野の榛原ゆくさ来さ君こそ見らめ真野の榛原」(同・二八一)もやはりハギの気持である。 以上を 綜合 ( そうごう )して、「引馬野ににほふ榛原」も萩の花で、現地にのぞんでの歌と結論したのであった。 以上は結果から見れば皆新しい説を排して 旧 ( ふる )い説に従ったこととなる。 黒人の伝は 審 ( つまびらか )でないが、持統文武両朝に仕えたから、大体柿本人麿と同時代である。 「 船泊 ( ふなはて )」は此処では名詞にして使っている。 「安礼の埼」は 参河 ( みかわ )国の埼であろうが現在の 何処 ( どこ )にあたるか未だ審でない。 ( 新居 ( あらい )崎だろうという説もあり、また近時、今泉氏、ついで久松氏は 御津 ( みと )附近の岬だろうと考証した。 )「棚無し小舟」は、舟の左右の 舷 ( げん )に渡した 旁板 ( わきいた )( )を 舟棚 ( ふなたな )というから、その舟棚の無い小さい舟をいう。 一首の意は、今、参河の 安礼 ( あれ )の 埼 ( さき )のところを 漕 ( こ )ぎめぐって行った、あの 舟棚 ( ふなたな )の無い小さい舟は、いったい何処に 泊 ( とま )るのか知らん、というのである。 この歌は旅中の歌だから、他の旅の歌同様、寂しい気持と、家郷(妻)をおもう気持と 相纏 ( あいまつわ )っているのであるが、この歌は客観的な写生をおろそかにしていない。 そして、安礼の埼といい、棚無し小舟といい、きちんと出すものは出して、そして、「何処にか船泊すらむ」と感慨を漏らしているところにその特色がある。 歌調は人麿ほど大きくなく、「すらむ」などといっても、人麿のものほど流動的ではない。 結句の、「棚無し小舟」の如き、四三調の名詞止めのあたりは、すっきりと緊縮させる手法である。 憶良は文武天皇の大宝元年、遣唐大使 粟田真人 ( あわたのまひと )に少録として従い入唐し、慶雲元年秋七月に帰朝したから、この歌は帰りの出帆近いころに作ったもののようである。 「大伴」は難波の辺一帯の地域の名で、もと大伴氏の領地であったからであろう。 「大伴の高師の浜の松が根を」(巻一・六六)とあるのも、大伴の地にある高師の浜というのである。 「御津」は難波の 湊 ( みなと )のことである。 そしてもっとくわしくいえば難波津よりも住吉津即ち堺であろうといわれている。 一首の意は、さあ皆のものどもよ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の浜のあの松原も、吾々を待ちこがれているだろうから、というのである。 やはり憶良の歌に、「大伴の御津の松原かき掃きて 吾 ( われ )立ち待たむ早帰りませ」(巻五・八九五)があり、なお、「朝なぎに 真楫 ( まかぢ ) 榜 ( こ )ぎ出て見つつ来し御津の松原浪越しに見ゆ」(巻七・一一八五)があるから、大きい松原のあったことが分かる。 「いざ子ども」は、部下や年少の者等に対して親しんでいう言葉で、既に古事記応神巻に、「いざ児ども 野蒜 ( ぬびる )つみに 蒜 ( ひる )つみに」とあるし、万葉の、「いざ子ども大和へ早く白菅の 真野 ( まぬ )の 榛原 ( はりはら )手折りて行かむ」(巻三・二八〇)は、高市黒人の歌だから憶良の歌に前行している。 「白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に 競 ( きほ )ひて萩の遊びせむ」(巻十・二一七三)もまたそうである。 「いざ児ども 香椎 ( かしひ )の 潟 ( かた )に白妙の袖さへぬれて朝菜 採 ( つ )みてむ」(巻六・九五七)は旅人の歌で憶良のよりも後れている。 つまり、旅人が憶良の影響を受けたのかも知れぬ。 この歌は、環境が唐の国であるから、自然にその気持も一首に反映し、そういう点で規模の大きい歌だと謂うべきである。 下の句の歌調は稍 弛 ( たる )んで弱いのが欠点で、これは他のところでも一言触れて置いたごとく、憶良は漢学に達していたため、却って日本語の伝統的な声調を理会することが出来なかったのかも知れない。 一首としてはもう一歩緊密な度合の声調を要求しているのである。 後年、天平八年の遣新羅国使等の作ったものの中に、「ぬばたまの 夜明 ( よあか )しも船は 榜 ( こ )ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ」(巻十五・三七二一)、「大伴の御津の 泊 ( とまり )に船 泊 ( は )てて立田の山を何時か越え 往 ( い )かむ」(同・三七二二)とあるのは、この憶良の歌の模倣である。 なお、 大伴坂上郎女 ( おおとものさかのうえのいらつめ )の歌に、「ひさかたの天の露霜置きにけり 宅 ( いへ )なる人も待ち恋ひぬらむ」(巻四・六五一)というのがあり、これも憶良の歌の影響があるのかも知れぬ。 斯くの如く憶良の歌は当時の人々に尊敬せられたのは、恐らく彼は漢学者であったのみならず、歌の方でもその学者であったからだとおもうが、そのあたりの歌は、一般に分かり好くなり、常識的に合理化した声調となったためとも解釈することが出来る。 即ち憶良のこの歌の如きは、細かい 顫動 ( せんどう )が足りない、而してたるんでいるところのあるものである。 難波宮のあったところは現在明かでない。 難波の地に旅して、そこの葦原に飛びわたる鴨の 翼 ( はね )に、霜降るほどの寒い夜には、大和の家郷がおもい出されてならない。 鴨でも共寝をするのにという意も含まれている。 「葦べ行く鴨」という句は、葦べを飛びわたる字面であるが、一般に葦べに住む鴨の意としてもかまわぬだろう。 「葦べゆく鴨の羽音のおとのみに」(巻十二・三〇九〇)、「葦べ行く雁の 翅 ( つばさ )を見るごとに」(巻十三・三三四五)、「鴨すらも 己 ( おの )が妻どちあさりして」(巻十二・三〇九一)等の例があり、参考とするに足る。 志貴皇子の御歌は、その他のもそうであるが、歌調明快でありながら、感動が常識的粗雑に陥るということがない。 この歌でも、鴨の 羽交 ( はがい )に霜が置くというのは現実の細かい写実といおうよりは一つの「感」で運んでいるが、その「感」は 空漠 ( くうばく )たるものでなしに、人間の観察が本となっている点に強みがある。 そこで、「霜ふりて」と断定した表現が利くのである。 「葦べ行く」という句にしても 稍 ( やや )ぼんやりしたところがあるけれども、それでも全体としての写象はただのぼんやりではない。 集中には、「 埼玉 ( さきたま )の小埼の沼に鴨ぞ 翼 ( はね )きる己が尾に 零 ( ふ )り置ける霜を払ふとならし」(巻九・一七四四)、「天飛ぶや雁の 翅 ( つばさ )の 覆羽 ( おほひは )の 何処 ( いづく )もりてか霜の降りけむ」(巻十・二二三八)、「押し照る難波ほり江の葦べには雁 宿 ( ね )たるかも霜の 零 ( ふ )らくに」(同・二一三五)等の歌がある。 この歌の「と」の用法につき、あられ松原 と弟日娘 と両方とも見れど飽きないと解く説もある。 娘は 遊行女婦 ( うかれめ )であったろうから、美しかったものであろう。 初句の、「あられうつ」は、下の「あられ」に懸けた枕詞で、皇子の造語と 看做 ( みな )していい。 一首は、よい気持になられての即興であろうが、不思議にも軽浮に艶めいたものがなく、寧ろ 勁健 ( けいけん )とも 謂 ( い )うべき歌調である。 これは日本語そのものがこういう高級なものであったと解釈することも可能なので、自分はその一代表のつもりで此歌を選んで置いた。 「見れど飽かぬかも」の句は万葉に用例がなかなか多い。 「 若狭 ( わかさ )なる三方の海の浜 清 ( きよ )みい往き還らひ見れど飽かぬかも」(巻七・一一七七)、「百伝ふ 八十 ( やそ )の 島廻 ( しまみ )を 榜 ( こ )ぎ来れど粟の小島し見れど飽かぬかも」(巻九・一七一一)、「白露を玉になしたる 九月 ( ながつき )のありあけの 月夜 ( つくよ )見れど飽かぬかも」(巻十・二二二九)等、ほか十五、六の例がある。 これも写生によって配合すれば現代に活かすことが出来る。 この歌の近くに、 清江娘子 ( すみのえのおとめ )という者が長皇子に 進 ( たてまつ )った、「草枕旅行く君と知らませば 岸 ( きし )の 埴土 ( はにふ )ににほはさましを」(巻一・六九)という歌がある。 この清江娘子は 弟日娘子 ( おとひおとめ )だろうという説があるが、或は娘子は一人のみではなかったのかも知れない。 住吉の岸の黄土で衣を美しく 摺 ( す )って記念とする趣である。 「旅ゆく」はいよいよ京へお帰りになることで、名残を惜しむのである。 情緒が 纏綿 ( てんめん )としているのは、必ずしも職業的にのみこの 媚態 ( びたい )を示すのではなかったであろう。 またこれを万葉巻第一に選び載せた態度もこだわりなくて 円融 ( えんゆう )とも称すべきものである。 呼子鳥はカッコウかホトトギスか、或は両者ともにそう云われたか、未だ定説が無いが、カッコウ(閑古鳥)を呼子鳥と云った場合が最も多いようである。 「象の中山」は吉野離宮のあった宮滝の南にある山である。 象 ( きさ )という土地の中にある山の意であろう。 「来らむ」は「行くらむ」という意に同じであるが、 彼方 ( かなた )(大和)を主として云っている(山田博士の説)。 従って大和に親しみがあるのである。 一首の意。 (今吉野の離宮に供奉して来ていると、)呼子鳥が象の山のところを呼び鳴きつつ越えて居る。 多分大和の京(藤原京)の方へ鳴いて行くのであろう。 (家郷のことがおもい出されるという意を含んでいる。 ) 呼子鳥であるから、「呼びぞ」と云ったし、また、ただ「鳴く」といおうよりも、その方が適切な場合もあるのである。 而してこの歌には「鳴く」という語も入っているから、この「鳴きてか」の方は稍間接的、「呼びぞ」の方が現在の状態で作者にも直接なものであっただろう。 「大和には」の「に」は 方嚮 ( ほうこう )で、「は」は詠歎の分子ある助詞である。 この歌を誦しているうちに優れているものを感ずるのは、恐らく全体が具象的で現実的であるからであろう。 そしてそれに伴う声調の響が稍渋りつつ平俗でない点にあるだろう。 初句の「には」と第二句の「らむ」と結句の「なる」のところに感慨が籠って居て、第三句の「呼子鳥」は文法的には下の方に附くが、上にも下にも附くものとして鑑賞していい。 高市黒人は万葉でも優れた歌人の一人だが、その黒人の歌の中でも佳作の一つであるとおもう。 普通ならば「行くらむ」というところを、「来らむ」というに就いて、「行くらむ」は対象物が自分から離れる気持、「来らむ」は自分に接近する気持であるから、自分を藤原京の方にいるように瞬間見立てれば、吉野の方から鳴きつつ来る意にとり、「来らむ」でも差支がないこととなり、古来その解釈が多い。 代匠記に、「本来の住所なれば、我方にしてかくは云也」と解し、古義に「おのが恋しく思ふ京師 辺 ( アタリ )には、今鳴きて来らむかと、京師を内にしていへるなり」と解したのは、作者の位置を一瞬藤原京の内に置いた気持に解したのである。 けれどもこの解は、大和を内とするというところに「鳴きてか来らむ」の解に無理がある。 然るに、山田博士に拠ると越中地方では、彼方を主とする時に「来る」というそうであるから、大和(藤原京)を主として、其処に呼子鳥が確かに行くということをいいあらわすときには、「呼子鳥が大和京へ来る」ということになる。 「大和には啼きてか来らむ 霍公鳥 ( ほととぎす )汝が啼く毎に亡き人おもほゆ」(巻十・一九五六)という歌の、「啼きてか来らむ」も、大和の方へ行くだろうというので、大和の方へ親しんで啼いて行く意となる。 なお、「吾が恋を 夫 ( つま )は知れるを行く船の過ぎて 来 ( く )べしや 言 ( こと )も告げなむ」(巻十・一九九八)の「来べしや」も「行くべしや」の意、「霞ゐる富士の 山傍 ( やまび )に我が 来 ( き )なば 何方 ( いづち )向きてか妹が嘆かむ」(巻十四・三三五七)の、「我が来なば」も、「我が行かば」という意になるのである。 「はたや」は、「またも」に似てそれよりも詠歎が強い。 この歌は、何の妙も無く、ただ順直にいい下しているのだが、情の純なるがために人の心を動かすに足るのである。 この種の声調のものは分かり易いために、模倣歌を出だし、遂に平凡になってしまうのだが、併しそのために此歌の価値の下落することがない。 その当時は名は著しくない従駕の人でも、このくらいの歌を作ったのは実に驚くべきである。 「ながらふるつま吹く風の寒き夜にわが背の君はひとりか 寝 ( ね )らむ」(巻一・五九)も選出したのであったが、歌数の制限のために、此処に附記するにとどめた。 寧楽 ( なら )宮遷都は和銅三年だから、和銅元年には天皇はいまだ藤原宮においでになった。 即ち和銅元年は御即位になった年である。 一首の意は、兵士等の鞆の音が今しきりにしている。 将軍が兵の調練をして居ると見えるが、何か事でもあるのであろうか、というのである。 「鞆」は皮製の円形のもので、左の 肘 ( ひじ )につけて弓を射たときの弓弦の反動を受ける、その時に音がするので多勢のおこすその鞆の音が女帝の御耳に達したものであろう。 「もののふの 大臣 ( おほまへつぎみ )」は軍を 統 ( す )べる将軍のことで、続紀に、和銅二年に 蝦夷 ( えみし )を討った将軍は、 巨勢麿 ( こせのまろ )、 佐伯石湯 ( さへきのいわゆ )だから、御製の将軍もこの二人だろうといわれている。 「楯たつ」は、楯は手楯でなくもっと大きく堅固なもので、それを立てならべること、即ち軍陣の調練をすることとなるのである。 どうしてこういうことを仰せられたか。 これは軍の調練の音をお聞きになって、御心配になられたのであった。 考に、「さて此御時みちのく越後の 蝦夷 ( エミシ )らが 叛 ( ソム )きぬれば、うての使を遣さる、その 御軍 ( みいくさ )の手ならしを京にてあるに、鼓吹のこゑ鞆の音など(弓弦のともにあたりて鳴音也)かしかましきを聞し召て、御位の初めに 事有 ( ことある )をなげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし。 此 大御哥 ( おほみうた )にさる事までは聞えねど、次の御こたへ哥と合せてしるき也」とある。 御答歌というのは、 御名部皇女 ( みなべのひめみこ )で、皇女は天皇の御姉にあたらせられる。 「吾が 大王 ( おほきみ )ものな思ほし 皇神 ( すめかみ )の 嗣 ( つ )ぎて賜へる吾無けなくに」(巻一・七七)という御答歌で、陛下よどうぞ御心配あそばすな、わたくしも皇祖神の命により、いつでも御名代になれますものでございますから、というので、「吾」は皇女御自身をさす。 御製歌といい御答歌といい、まことに緊張した境界で、恋愛歌などとは違った大きなところを感得しうるのである。 個人を超えた集団、国家的の緊張した心の世界である。 御製歌のすぐれておいでになるのは申すもかしこいが、御姉君にあらせられる皇女が、御妹君にあらせらるる天皇に、かくの如き御歌を奉られたというのは、後代の吾等拝誦してまさに感涙を流さねばならぬほどのものである。 御妹君におむかい、「吾が大王ものな思ほし」といわれるのは、御妹君は一天万乗の 現神 ( あきつかみ )の天皇にましますからである。 その時の歌であるが作者の名を明記してない。 併 ( しか )し作者は皇子・皇女にあらせられる御方のようで、天皇の御姉、 御名部皇女 ( みなべのひめみこ )(天智天皇皇女、元明天皇御姉)の御歌と推測するのが真に近いようである。 「飛ぶ鳥の」は「 明日香 ( あすか )」にかかる枕詞。 明日香(飛鳥)といって、なぜ藤原といわなかったかというに、明日香はあの辺の総名で、必ずしも 飛鳥浄御原宮 ( あすかのきよみはらのみや )(天武天皇の京)とのみは限局せられない。 そこで藤原京になってからも其処と隣接している明日香にも皇族がたの御住いがあったものであろう。 この歌の、「君」というのは、作者が親まれた男性の御方のようである。 この歌も、素直に心の動くままに言葉を使って行き、取りたてて技巧を 弄 ( ろう )していないところに感の深いものがある。 「置きて」という表現は、他にも、「大和を置きて」、「みやこを置きて」などの例もあり、注意すべき表現である。 結句の、「見えずかもあらむ」の「見えず」というのも、感覚に直接で良く、この類似の表現は万葉に多い。 ウラサブルは「 心寂 ( こころさび )しい」意。 サマネシはサは接頭語、マネシは「多い」、「 頻 ( しき )り」等の語に当る。 ナガラフはナガルという 良 ( ら )行下二段の動詞を二たび 波 ( は )行下二段に活用せしめた。 事柄の時間的継続をあらわすこと、チル(散る)からチラフとなる場合などと同じである。 一首の意は、天から 時雨 ( しぐれ )の雨が降りつづくのを見ると、うら 寂 ( さび )しい心が絶えずおこって来る、というのである。 時雨は多くは秋から冬にかけて降る雨に使っているから、やはり其時この古歌を誦したものであろうか。 旅中にあって誦するにふさわしいもので、古調のしっとりとした、はしゃがない好い味いのある歌である。 事象としては「天の時雨の流らふ」だけで、上の句は主観で、それに枕詞なども入っているから、内容としては極く単純なものだが、この単純化がやがて古歌の好いところで、一首の綜合がそのために 渾然 ( こんぜん )とするのである。 雨の降るのをナガラフと云っているのなども、他にも用例があるが、響きとしても実に好い響きである。 御二人は 従兄弟 ( いとこ )の関係になっている。 佐紀宮は現在の生駒郡 平城 ( へいじょう )村、 都跡 ( みあと )村、伏見村あたりで、長皇子の宮のあったところであろう。 志貴皇子の宮は 高円 ( たかまと )にあった。 高野原は佐紀宮の近くの高地であっただろう。 一首の意は、秋になったならば、今二人で見て居るような景色の、高野原一帯に、妻を慕って鹿が鳴くことだろう、というので、なお、そうしたら、また一段の風趣となるから、二たび来られよという意もこもっている。 この歌は、「秋さらば」というのだから現在は未だ秋でないことが分かる。 「鹿鳴かむ山ぞ」と将来のことを云っているのでもそれが分かる。 其処に「今も見るごと」という視覚上の句が入って来ているので、種々の解釈が出来たのだが、この、「今も見るごと」という句を直ぐ「妻恋ひに」、「鹿鳴かむ山」に続けずに寧ろ、「山ぞ」、「高野原の上」の方に関係せしめて解釈せしめる方がいい。 即ち、現在見渡している高野原一帯の佳景その儘に、秋になるとこの如き興に添えてそのうえ鹿の鳴く声が聞こえるという意味になる。 「今も見るごと」は「現在ある状態の佳き景色の此の高野原に」というようになり、単純な視覚よりももっと広い意味になるから、そこで視覚と聴覚との矛盾を避けることが出来るのであって、他の諸学者の種々の解釈は皆不自然のようである。 この御歌は、豊かで緊密な調べを持っており、感情が 濃 ( こま )やかに動いているにも 拘 ( かかわ )らず、そういう主観の言葉というものが無い。 それが、「鳴かむ」といい、「山ぞ」で代表せしめられている観があるのも、また重厚な「高野原の上」という名詞句で止めているあたりと調和して、万葉調の一代表的技法を形成している。 また「今も見るごと」の 入句があるために、却って歌調を常識的にしていない。 家持が「思ふどち斯くし遊ばむ、今も見るごと」(巻十七・三九九一)と歌っているのは恐らく此御歌の影響であろう。 この歌の詞書は、「長皇子与志貴皇子於佐紀宮倶宴歌」とあり、左注、「右一首長皇子」で、「御歌」とは無い。 これも、中皇命の御歌(巻一・三)の題詞を理解するのに参考となるだろう。 目次に、「長皇子御歌」と「御」のあるのは、目次製作者の筆で、歌の方には無かったものであろう。 此歌はその四番目である。 四首はどういう時の御作か、仁徳天皇の後妃 八田 ( やた )皇女との三角関係が伝えられているから、感情の強く豊かな御方であらせられたのであろう。 一首は、秋の田の稲穂の上にかかっている朝霧がいずこともなく消え去るごとく(以上序詞)私の切ない恋がどちらの方に消え去ることが出来るでしょう、それが 叶 ( かな )わずに苦しんでおるのでございます、というのであろう。 「霧らふ朝霞」は、朝かかっている秋霧のことだが、当時は、霞といっている。 キラフ・アサガスミという語はやはり重厚で平凡ではない。 第三句までは序詞だが、具体的に云っているので、象徴的として受取ることが出来る。 「わが恋やまむ」といういいあらわしは切実なので、万葉にも、「大船のたゆたふ海に 碇 ( いかり )おろしいかにせばかもわが恋やまむ」(巻十一・二七三八)、「人の見て 言 ( こと )とがめせぬ 夢 ( いめ )にだにやまず見えこそ我が恋やまむ」(巻十二・二九五八)の如き例がある。 この歌は、磐姫皇后の御歌とすると、もっと古調なるべきであるが、恋歌としては、読人不知の民謡歌に近いところがある。 併し万葉編輯当時は皇后の御歌という言伝えを素直に受納れて疑わなかったのであろう。 そこで自分は恋愛歌の古い一種としてこれを選んで吟誦するのである。 他の三首も皆佳作で棄てがたい。 君が 行日 ( ゆきけ ) 長 ( なが )くなりぬ山 尋 ( たづ )ね迎へか行かむ待ちにか待たむ (巻二・八五) 斯くばかり恋ひつつあらずは 高山 ( たかやま )の 磐根 ( いはね )し 枕 ( ま )きて死なましものを (同・八六) 在りつつも君をば待たむうち 靡 ( なび )く吾が黒髪に霜の置くまでに (同・八七) 八五の歌は、憶良の類聚歌林に斯く載ったが、古事記には 軽太子 ( かるのひつぎのみこ )が伊豫の湯に流された時、軽の 大郎女 ( おおいらつめ )( 衣通 ( そとおり )王)の歌ったもので「君が行日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」となって居り、第三句は枕詞に使っていて、この方が調べが古い。 八六の「恋ひつつあらずは」は、「恋ひつつあらず」に、詠歎の「は」の添わったもので、「恋ひつつあらずして」といって、それに満足せずに先きの希求をこめた云い方である。 それだから、散文に直せば、従来の解釈のように、「……あらんよりは」というのに帰着する。 鏡王女は鏡王の女、額田王の御姉で、後に藤原 鎌足 ( かまたり )の 嫡妻 ( ちゃくさい )となられた方とおもわれるが、この御製歌はそれ以前のものであろうか、それとも鎌足薨去(天智八年)の後、王女が大和に帰っていたのに贈りたもうた歌であろうか。 そして、「大和なる」とことわっているから、天皇は近江に居給うたのであろう。 「大島の嶺」は所在地不明だが、鏡王女の居る処の近くで相当に名高かった山だろうと想像することが出来る。 (後紀大同三年、 平群 ( へぐり )朝臣の歌にあるオホシマあたりだろうという説がある。 さすれば現在の生駒郡平群村あたりであろう。 ) 一首の意は、あなたの家をも絶えずつづけて見たいものだ。 大和のあの大島の嶺にあなたの家があるとよいのだが、というぐらいの意であろう。 「見ましを」と「あらましを」と類音で調子を取って居り、同じ事を繰返して居るのである。 そこで、天皇の御住いが大島の嶺にあればよいというのではあるまい。 若しそうだと、歌は平凡になる。 或は通俗になる。 ここは同じことを繰返しているので、古調の単純素朴があらわれて来て、優秀な歌となるのである。 前の三山の御歌も傑作であったが、この御製になると、もっと自然で、こだわりないうちに、無限の情緒を伝えている。 声調は天皇一流の大きく強いもので、これは 御気魄 ( おんきはく )の反映にほかならないのである。 「家も」の「も」は「をも」の意だから、無論王女を見たいが、せめて「家をも」というので、強めて詠歎をこもらせたとすべきであろう。 この御製は恋愛か或は広義の往来存問か。 語気からいえば恋愛だが、天皇との関係は 審 ( つまびら )かでない。 また天武天皇の十二年に、王女の病 篤 ( あつ )かった時天武天皇御自ら臨幸あった程であるから、その以前からも重んぜられていたことが分かる。 そこでこの歌は恋愛歌でなくて安否を問いたもうた御製だという説(山田博士)がある。 鎌足歿後の御製ならば或はそうであろう。 併し事実はそうでも、感情を主として味うと広義の恋愛情調になる。 一首は、秋山の木の下を隠れて流れゆく水のように、あらわには見えませぬが、わたくしの君をお慕い申あげるところの方がもっと多いのでございます。 わたくしをおもってくださる君の御心よりも、というのである。 「益さめ」の「益す」は水の増す如く、思う心の増すという意がある。 第三句までは序詞で、この程度の序詞は万葉には珍らしくないが、やはり 誤魔化 ( ごまか )さない写生がある。 それから、「われこそ 益 ( ま )さめ 御思 ( みおもひ )よりは」の句は、情緒こまやかで、且つおのずから女性の 口吻 ( こうふん )が出ているところに注意せねばならない。 特に、結句を、「御思よりは」と止めたのに無限の味いがあり、甘美に迫って来る。 これもこの歌だけについて見れば恋愛情調であるが、何処か 遜 ( へりくだ )ってつつましく云っているところに、和え歌として此歌の価値があるのであろう。 試みに同じ作者が藤原鎌足の妻になる時鎌足に贈った歌、「玉くしげ 覆 ( おほ )ふを 安 ( やす )み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(巻二・九三)の方は 稍 ( やや )気軽に作っている点に差別がある。 併し「君が名はあれど吾が名し惜しも」の句にやはり女性の口吻が出ていて棄てがたいものである。 櫛笥 ( くしげ )の 蓋 ( ふた )をすることが 楽 ( らく )に出来るし、蓋を 開 ( あ )けることも 楽 ( らく )だから、夜の明けるの「明けて」に続けて序詞としたもので、夜が明けてからお帰りになると人に知れてしまいましょう、貴方には浮名が立ってもかまわぬでしょうが、私には困ってしまいます、どうぞ夜の明けぬうちにお帰りください、というので、鎌足のこの歌はそれに答えたのである。 「玉くしげ御室の山のさなかづら」迄は「さ寝」に続く序詞で、また、 玉匣 ( たまくしげ )をあけて見んというミから御室山のミに続けた。 或はミは 中身 ( なかみ )のミだとも云われて居る。 御室山は即ち三輪山で、「さな葛」はさね葛、美男かずらのことで、夏に白っぽい花が咲き、実は赤い。 そこで一首は、そういうけれども、おまえとこうして寝ずには、どうしても居られないのだ、というので、結句の原文「有勝麻之自」は古来種々の訓のあったのを、橋本(進吉)博士がかく訓んで学界の定説となったものである。 博士はカツと 清 ( す )んで訓んでいる。 ガツは堪える意、ガテナクニ、ガテヌカモのガテと同じ動詞、マシジはマジという助動詞の原形で、ガツ・マシジは、ガツ・マジ、堪うまじ、堪えることが出来ないだろう、我慢が出来ないと見える、というぐらいの意に落着くので、この儘こうして寝ておるのでなくてはとても我慢が出来まいというのである。 「いや遠く君がいまさば 有不勝自 ( アリガツマシジ )」(巻四・六一〇)、「辺にも沖にも 依勝益士 ( ヨリガツマシジ )」(巻七・一三五二)等の例がある。 鏡王女の歌も情味あっていいが、鎌足卿の歌も、端的で身体的に直接でなかなかいい歌である。 身体的に直接ということは即ち心の直接ということで、それを表わす言語にも直接だということになる。 「ましじ」と推量にいうのなども、丁寧で、乱暴に 押 ( おし )つけないところなども微妙でいい。 「つひに」という副詞も、強く効果的で此歌でも無くてならぬ大切な言葉である。 「生けるもの 遂 ( つひ )にも死ぬるものにあれば」(巻三・三四九)、「すゑ 遂 ( つひ )に君にあはずは」(巻十三・三二五〇)等の例がある。 一首は、吾は今まことに、美しい安見児を娶った。 世の人々の容易に得がたいとした、美しい安見児を娶った、というのである。 「吾はもや」の「もや」は詠歎の助詞で、感情を強めている。 「まあ」とか、「まことに」とか、「実に」とかを加えて解せばいい。 奉仕中の采女には厳しい規則があって 濫 ( みだ )りに娶ることなどは出来なかった、それをどういう機会にか娶ったのだから、「皆人の得がてにすとふ」の句がある。 もっともそういう制度を顧慮せずとも、美女に対する一般の感情として此句を取扱ってもかまわぬだろう。 いずれにしても作者が歓喜して得意になって歌っているのが、率直な表現によって、特に、第二句と第五句で同じ句を繰返しているところにあらわれている。 この歌は単純で明快で、濁った技巧が無いので、この直截性が読者の心に響いたので従来も秀歌として取扱われて来た。 そこで注釈家の間に寓意説、例えば 守部 ( もりべ )の、「此歌は、天皇を安見知し吾大君と申し馴て、皇子を安見す御子と申す事のあるに、此采女が名を、安見子と云につきて、今吾 レ安見子を得て、既に天皇の位を得たりと戯れ給へる也。 されば皆人の得がてにすと云も、采女が事のみにはあらず、天皇の御位の凡人に得がたき方をかけ給へる御詞也。 又得たりと云言を再びかへし給へるも、其御戯れの旨を 慥 ( たし )かに聞せんとて也。 然るにかやうなるをなほざりに見過して、万葉などは何の 巧 ( たくみ )も風情もなきものと思ひ過めるは、実におのれ解く事を得ざるよりのあやまりなるぞかし」(万葉緊要)の如きがある。 けれどもそういう説は一つの 穿 ( うが )ちに過ぎないとおもう。 この歌は集中佳作の一つであるが、興に乗じて一気に表出したという種類のもので、沈潜重厚の作というわけには行かない。 同じく句の繰返しがあっても前出天智天皇の、「妹が家も継ぎて見ましを」の御製の方がもっと重厚である。 これは作歌の態度というよりも性格ということになるであろうか、そこで、守部の説は穿ち過ぎたけれども、「戯れ給へる也」というところは一部当っている。 藤原夫人は鎌足の 女 ( むすめ )、 五百重娘 ( いおえのいらつめ )で、 新田部皇子 ( にいたべのみこ )の御母、 大原大刀自 ( おおはらのおおとじ )ともいわれた方である。 夫人 ( ぶにん )は後宮に仕える職の名で、妃に次ぐものである。 大原は今の 高市 ( たかいち )郡 飛鳥 ( あすか )村 小原 ( おはら )の地である。 一首は、こちらの里には今日大雪が降った、まことに綺麗だが、おまえの居る大原の古びた里に降るのはまだまだ後だろう、というのである。 天皇が飛鳥の 清御原 ( きよみはら )の宮殿に居られて、そこから少し離れた大原の夫人のところに贈られたのだが、謂わば即興の戯れであるけれども、親しみの御語気さながらに出ていて、沈潜して作る独詠歌には見られない特徴が、また此等の贈答歌にあるのである。 然かもこういう直接の語気を聞き得るようなものは、後世の贈答歌には無くなっている。 つまり人間的、会話的でなくなって、技巧を弄した詩になってしまっているのである。 神 ( おかみ )というのは支那ならば竜神のことで、水や雨雪を支配する神である。 一首の意は、陛下はそうおっしゃいますが、そちらの大雪とおっしゃるのは、実はわたくしが岡の 神に御祈して降らせました雪の、ほんの 摧 ( くだ )けが飛ばっちりになったに過ぎないのでございましょう、というのである。 御製の御 揶揄 ( やゆ )に対して劣らぬユウモアを漂わせているのであるが、やはり親愛の心こまやかで棄てがたい歌である。 それから、御製の方が大どかで男性的なのに比し、夫人の方は心がこまかく女性的で、技巧もこまかいのが特色である。 歌としては御製の方が優るが、天皇としては、こういう女性的な和え歌の方が却って御喜になられたわけである。 皇子が大和に帰られる時皇女の詠まれた歌である。 皇女は皇子の同母姉君の関係にある。 一首は、わが弟の君が大和に帰られるを送ろうと夜ふけて立っていて暁の露に霑れた、というので、暁は、原文に 鶏鳴露 ( アカトキツユ )とあるが、 鶏鳴 ( けいめい )(四更 丑刻 ( うしのこく ))は午前二時から四時迄であり、また万葉に 五更露爾 ( アカトキツユニ )(巻十・二二一三)ともあって、 五更 ( ごこう )( 寅刻 ( とらのこく ))は午前四時から六時迄であるから、夜の 更 ( ふけ )から程なく 暁 ( あかとき )に続くのである。 そこで、歌の、「さ夜ふけてあかとき露に」の句が理解出来るし、そのあいだ立って居られたことをも示して居るのである。 大津皇子は天武天皇崩御の後、 不軌 ( ふき )を謀ったのが 露 ( あら )われて、 朱鳥 ( あかみとり )元年十月三日死を賜わった。 伊勢下向はその前後であろうと想像せられて居るが、史実的には確かでなく、単にこの歌だけを読めば恋愛(親愛)情調の歌である。 併し、別離の情が切実で、且つ寂しい響が一首を流れているのをおもえば、そういう史実に関係あるものと仮定しても味うことの出来る歌である。 「わが背子」は、普通恋人または 夫 ( おっと )のことをいうが、この場合は御弟を「背子」と云っている。 親しんでいえば同一に帰着するからである。 「大和へやる」の「やる」という語も注意すべきもので、単に、「帰る」とか「行く」とかいうのと違って、自分の意志が 活 ( はたら )いている。 名残惜しいけれども帰してやるという意志があり、そこに強い感動がこもるのである。 「かへし遣る使なければ」(巻十五・三六二七)、「この 吾子 ( あこ )を 韓国 ( からくに )へ遣るいはへ神たち」(巻十九・四二四〇)等の例がある。 一首の意は、弟の君と一しょに行ってもうらさびしいあの秋山を、どんな 風 ( ふう )にして今ごろ弟の君はただ一人で越えてゆかれることか、というぐらいの意であろう。 前の歌のうら悲しい情調の連鎖としては、やはり悲哀の情調となるのであるが、この歌にはやはり単純な親愛のみで解けないものが底にひそんでいるように感ぜられる。 代匠記に、「殊ニ身ニシムヤウニ聞ユルハ、御謀反ノ志ヲモ聞セ給フベケレバ、事ノ 成 ( なり )ナラズモ 覚束 ( おぼつか )ナク、又ノ対面モ如何ナラムト 思召 ( おぼしめす )御胸ヨリ出レバナルベシ」とあるのは、或は当っているかも知れない。 また、「君がひとり」とあるがただの御一人でなく御伴もいたものであろう。 「妹待つと」は、「妹待つとて」、「妹を待とうとして、妹を待つために」である。 「あしひきの」は、万葉集では巻二のこの歌にはじめて出て来た枕詞であるが、説がまちまちである。 宣長の「 足引城 ( あしひきき )」説が平凡だが一番真に近いか。 「 足 ( あし )は山の 脚 ( あし )、引は長く 引延 ( ひきは )へたるを云。 城 ( き )とは凡て 一構 ( ひとかまへ )なる 地 ( ところ )を云て此は即ち山の 平 ( たひら )なる処をいふ」(古事記伝)というのである。 御歌は、繰返しがあるために、内容が単純になった。 けれどもそのために親しみの情が却って深くなったように思えるし、それに第一その歌調がまことに快いものである。 第二句の「雫に」は「沾れぬ」に続き、結句の「雫に」もまたそうである。 こういう簡単な表現はいざ実行しようとするとそう容易にはいかない。 右に石川郎女の 和 ( こた )え奉った歌は、「 吾 ( あ )を待つと君が 沾 ( ぬ )れけむあしひきの 山 ( やま )の 雫 ( しづく )にならましものを」(巻二・一〇八)というので、その雨雫になりとうございますと、媚態を示した女らしい語気の歌である。 郎女の歌は受身でも機智が働いているからこれだけの親しい歌が出来た。 共に互の微笑をこめて唱和しているのだが、皇子の御歌の方がしっとりとして居るところがある。 持統天皇の吉野行幸は前後三十二回にも上るが、 杜鵑 ( ほととぎす )の 啼 ( な )く頃だから、持統四年五月か、五年四月であっただろう。 一首の意は、この鳥は、過去ったころの事を思い慕うて啼く鳥であるのか、今、 弓弦葉 ( ゆづるは )の 御井 ( みい )のほとりを啼きながら飛んで行く、というのである。 「 古 ( いにしへ )」即ち、過去の事といふのは、天武天皇の御事で、皇子の御父であり、吉野とも、また額田王とも御関係の深かったことであるから、そこで杜鵑を機縁として追懐せられたのが、「古に恋ふる鳥かも」という句で、簡浄の中に 情緒 ( じょうちょ )充足し何とも言えぬ句である。 そしてその下に、杜鵑の行動を写して、具体的現実的なものにしている。 この関係は芸術の常道であるけれども、こういう具合に精妙に表われたものは極く 稀 ( まれ )であることを知って置く方がいい。 「弓弦葉の御井」は既に固有名詞になっていただろうが、弓弦葉(ゆずり葉)の好い樹が清泉のほとりにあったためにその名を得たので、これは、後出の、「山吹のたちよそひたる山清水」(巻二・一五八)と同様である。 そして此等のものが皆一首の大切な要素として盛られているのである。 「上より」は経過する意で、「より」、「ゆ」、「よ」等は多くは運動の語に続き、此処では「啼きわたり行く」という運動の語に続いている。 この語なども古調の妙味実に云うべからざるものがある。 既に年老いた額田王は、この御歌を読んで深い感慨にふけったことは既に言うことを 須 ( もち )いない。 この歌は人麿と同時代であろうが、人麿に無い 簡勁 ( かんけい )にして静和な響をたたえている。 額田王は右の御歌に「 古 ( いにしへ )に恋ふらむ鳥は 霍公鳥 ( ほととぎす )けだしや啼きしわが恋ふるごと」(同・一一二)という歌を以て 和 ( こた )えている。 皇子の御歌には 杜鵑 ( ほととぎす )のことははっきり云ってないので、この歌で、杜鵑を明かに云っている。 そして、額田王も 亦 ( また )古を追慕すること痛切であるが、そのように杜鵑が啼いたのであろうという意である。 この歌は皇子の歌よりも遜色があるので取立てて選抜しなかった。 併し既に老境に入った額田王の歌として注意すべきものである。 なぜ皇子の歌に比して 遜色 ( そんしょく )があるかというに、和え歌は受身の位置になり、相撲ならば、受けて立つということになるからであろう。 贈り歌の方は第一次の感激であり、和え歌の方はどうしても間接になりがちだからであろう。 この「人言を」の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、 窃 ( ひそ )かに穂積皇子に接せられたのが 露 ( あら )われた時の御歌である。 「秋の田の」の歌は上の句は序詞があって、技巧も巧だが、「君に寄りなな」の句は強く純粋で、また語気も女性らしいところが出ていてよいものである。 「人言を」の歌は、一生涯これまで一度も経験したことの無い朝川を渡ったというのは、実際の写生で、実質的であるのが人の心を 牽 ( ひ )く。 特に皇女が皇子に逢うために、 秘 ( ひそ )かに朝川を渡ったというように想像すると、なお切実の度が増すわけである。 普通女が男の許に通うことは稀だからである。 当時人麿は石見の国府(今の 那賀 ( なか )郡 下府上府 ( しもこうかみこう ))にいたもののようである。 妻はその近くの 角 ( つぬ )の 里 ( さと )(今の 都濃津 ( つのつ )附近)にいた。 高角山は角の里で高い山というので、今の 島星山 ( しまのほしやま )であろう。 角の里を通り、島星山の麓を縫うて 江川 ( ごうのがわ )の岸に出たもののようである。 石見の高角山の山路を来てその木の間から、妻のいる里にむかって、振った私の袖を妻は見たであろうか。 角の里から山までは距離があるから、実際は妻が見なかったかも知れないが、心の自然的なあらわれとして歌っている。 そして人麿一流の波動的声調でそれを統一している。 そしてただ威勢のよい声調などというのでなく、妻に対する濃厚な愛情の出ているのを注意すべきである。 人麿が馬に乗って今の 邑智 ( おおち )郡の山中あたりを通った時の歌だと想像している。 私は人麿上来の道筋をば、出雲路、山陰道を通過せしめずに、今の邑智郡から 赤名越 ( あかなごえ )をし、 備後 ( びんご )にいでて、瀬戸内海の船に乗ったものと想像している。 今通っている山中の笹の葉に風が吹いて、ざわめき 乱 ( みだ )れていても、わが心はそれに 紛 ( まぎ )れることなくただ 一向 ( ひたすら )に、別れて来た妻のことをおもっている。 今現在山中の笹の葉がざわめき乱れているのを、直ぐ取りあげて、それにも 拘 ( かか )わらずただ一筋に妻をおもうと言いくだし、それが通俗に堕せないのは、一首の古調のためであり、人麿的声調のためである。 そして人麿はこういうところを歌うのに決して軽妙には歌っていない。 飽くまで実感に即して 執拗 ( しつよう )に歌っているから軽妙に 滑 ( すべ )って行かないのである。 第三句ミダレドモは古点ミダルトモであったのを仙覚はミダレドモと訓んだ。 それを賀茂真淵はサワゲドモと訓み、橘守部はサヤゲドモと訓み、近時この訓は有力となったし、「 ササの葉はみ山も サヤに サヤげども」とサ音で調子を取っているのだと解釈しているが、これは 寧 ( むし )ろ、「 ササの葉は ミヤマも サヤに ミダレども」のようにサ音とミ音と両方で調子を取っているのだと解釈する方が 精 ( くわ )しいのである。 サヤゲドモではサの音が多過ぎて軽くなり過ぎる。 次に、万葉には四段に活かせたミダルの例はなく、あっても他動詞だから応用が出来ないと論ずる学者(沢瀉博士)がいて、殆ど定説にならんとしつつあるが、既にミダリニの副詞があり、それが自動詞的に使われている以上(日本書紀に濫・妄・浪等を当てている)は、四段に活用した証拠となり、古訓法華経の、「不 二 妄 ( ミダリニ )開示 一」、古訓老子の、「不 レ知 レ常 妄 ( ミダリニ )作 シテ凶 ナリ」等をば、参考とすることが出来る。 即ち万葉時代の人々が其等をミダリニと訓んでいただろう。 そのほかミダリガハシ、ミダリゴト、ミダリゴコチ、ミダリアシ等の用例が古くあるのである。 また自動詞他動詞の区別は絶対的でない以上、四段のミダルは平安朝以後のように他動詞に限られた一種の約束を人麿時代迄 溯 ( さかのぼ )らせることは無理である。 また、此の場合の笹の葉の状態は聴覚よりも寧ろ聴覚を伴う視覚に重きを置くべきであるから、それならばミダレドモと訓む方がよいのである。 若しどうしても四段に活用せしめることが出来ないと一歩を譲って、下二段に活用せしめるとしたら、古訓どおりにミダルトモと訓んでも 毫 ( ごう )も鑑賞に 差支 ( さしつかえ )はなく、前にあった人麿の、「ささなみの志賀の大わだヨドムトモ」(巻一・三一)の歌の場合と同じく、現在の光景でもトモと用い得るのである。 声調の上からいえばミダルトモでもサヤゲドモよりも 優 ( ま )さっている。 併しミダレドモと訓むならばもっとよいのだから、私はミダレドモの訓に執着するものである。 (本書は簡単を必要とするからミダル四段説は別論して置いた。 ) 巻七に、「竹島の阿渡白波は 動 ( とよ )めども(さわげども)われは家おもふ 廬 ( いほり )悲しみ」(一二三八)というのがあり、類似しているが、人麿の歌の模倣ではなかろうか。 「青駒」はいわゆる青毛の馬で、黒に青みを帯びたもの、大体黒馬とおもって差支ない。 白馬だという説は当らない。 「足掻を速み」は馬の 駈 ( か )けるさまである。 一首の意は、妻の居るあたりをもっと見たいのだが、自分の乗っている青馬の駈けるのが速いので、妻のいる筈の里も、いつか 空遠 ( そらとお )く隔ってしまった、というのである。 内容がこれだけだが、歌柄が強く大きく、人麿的声調を遺憾なく発揮したものである。 恋愛の悲哀といおうより寧ろ荘重の気に打たれると云った声調である。 そこにおのずから人麿的な一つの類型も聯想せられるのだが、人麿は 細々 ( こまごま )したことを描写せずに、 真率 ( しんそつ )に真心をこめて歌うのがその特徴だから内容の単純化も行われるのである。 「雲居にぞ」といって、「過ぎて来にける」と止めたのは実に旨い。 もっともこの調子は藤原の御井の長歌にも、「雲井にぞ遠くありける」(巻一・五二)というのがある。 この歌の次に、「秋山に落つる 黄葉 ( もみぢば )しましくはな散り 乱 ( みだ )れそ 妹 ( いも )があたり見む」(巻二・一三七)というのがある。 これも客観的よりも、心の調子で歌っている。 それを嫌う人は嫌うのだが、軽浮に堕ちない点を 見免 ( みのが )してはならぬのである。 この石見から上来する時の歌は人麿としては晩年の作に属するものであろう。 斉明紀四年十一月の条に、「於 レ是皇太子、親間 二有間皇子 一曰、何故謀反、答曰、天与 二赤兄 一知、吾全不 レ解」の記事がある。 この歌は行宮へ送られる途中磐代(今の紀伊日高郡南部町岩代)海岸を通過せられた時の歌である。 皇子は十一日に行宮から護送され、藤白坂で 絞 ( こう )に処せられた。 御年十九。 万葉集の詞書には、「有間皇子自ら 傷 ( かな )しみて松が枝を結べる歌二首」とあるのは、以上のような御事情だからであった。 一首の意は、自分はかかる身の上で磐代まで来たが、いま浜の松の枝を結んで幸を祈って行く。 幸に無事であることが出来たら、二たびこの結び松をかえりみよう、というのである。 松枝を結ぶのは、草木を結んで幸福をねがう信仰があった。 無事であることが出来たらというのは、皇太子の訊問に対して言い開きが出来たらというので、皇子は恐らくそれを信じて居られたのかも知れない。 「天と赤兄と知る」という御一語は悲痛であった。 けれども此歌はもっと哀切である。 こういう万一の場合にのぞんでも、ただの主観の語を 吐出 ( はきだ )すというようなことをせず、御自分をその 儘 ( まま )素直にいいあらわされて、そして結句に、「またかへり見む」という感慨の語を据えてある。 これはおのずからの写生で、抒情詩としての短歌の態度はこれ以外には無いと 謂 ( い )っていいほどである。 作者はただ有りの儘に写生したのであるが、後代の吾等がその技法を吟味すると種々の事が云われる。 例えば第三句で、「引き結び」と云って置いて、「まさきくあらば」と続けているが、そのあいだに幾分の休止あること、「豊旗雲に入日さし」といって、「こよひの月夜」と続け、そのあいだに幾分の休止あるのと似ているごときである。 こういう事が自然に実行せられているために、歌調が、後世の歌のような常識的平俗に 堕 ( おち )ることが無いのである。 「笥」というのは和名鈔に盛食器也とあって 飯笥 ( いいけ )のことである。 そしてその頃高貴の方の食器は銀器であっただろうと考証している(山田博士)。 一首は、家(御殿)におれば、笥(銀器)に盛る飯をば、こうして旅を来ると椎の葉に盛る、というのである。 笥をば銀の飯笥とすると、椎の小枝とは非常な差別である。 前の御歌は、「 真幸 ( まさき )くあらばまたかへりみむ」と強い感慨を漏らされたが、痛切複雑な御心境を、かく単純にあらわされたのに驚いたのであるが、此歌になると殆ど感慨的な語がないのみでなく、詠歎的な助詞も助動詞も無いのである。 併し底を流るる哀韻を見のがし得ないのはどうしてか。 吾等の常識では「草枕旅にしあれば」などと、普通 旅 ( きりょ )の不自由を歌っているような内容でありながら、そういうものと違って感ぜねばならぬものを此歌は持っているのはどうしてか。 これは史実を顧慮するからというのみではなく、史実を念頭から去っても同じことである。 これは皇子が、生死の問題に直面しつつ経験せられた現実を 直 ( ただち )にあらわしているのが、やがて普通の 旅とは違ったこととなったのである。 写生の 妙諦 ( みょうてい )はそこにあるので、この結論は大体間違の無いつもりである。 中大兄皇子の、「 香具 ( かぐ )山と 耳成 ( みみなし )山と会ひしとき立ちて見に来し 印南 ( いなみ )国原」(巻一・一四)という歌にも、この客観的な荘厳があったが、あれは伝説を歌ったので、「 嬬 ( つま )を争ふらしき」という感慨を潜めていると云っても対象が対象だから此歌とは違うのである。 然るに有間皇子は御年僅か十九歳にして、 斯 ( かか )る客観的荘厳を 成就 ( じょうじゅ )せられた。 皇子の以上の二首、特にはじめの方は時の人々を感動せしめたと見え、「磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも」(巻二・一四三)、「磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ」(同・一四四、 長忌寸意吉麿 ( ながのいみきおきまろ ))、「つばさなすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ」(同・一四五、山上憶良)、「後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも」(同・一四六、人麿歌集)等がある。 併し歌は皆皇子の御歌には及ばないのは、心が間接になるからであろう。 また、 穂積朝臣老 ( ほづみのあそみおゆ )が近江行幸(養老元年か)に 供奉 ( ぐぶ )した時の「吾が命し 真幸 ( まさき )くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白浪」(巻三・二八八)もあるが、皇子の歌ほど切実にひびかない。 「椎の葉」は、和名鈔は、「椎子 和名之比」であるから 椎 ( しい )の 葉 ( は )であってよいが、 楢 ( なら )の 葉 ( は )だろうという説がある。 そして新撰字鏡に、「椎、 奈良乃木 ( ナラノキ )也」とあるのもその証となるが、陰暦十月上旬には楢は既に落葉し尽している。 また「 遅速 ( おそはや )も 汝 ( な )をこそ待ため向つ 峰 ( を )の椎の 小枝 ( こやで )の逢ひは 違 ( たげ )はじ」(巻十四・三四九三)と或本の歌、「椎の 小枝 ( さえだ )の時は過ぐとも」の 椎 ( しい )は 思比 ( シヒ )、 四比 ( シヒ )と書いているから、 楢 ( なら )ではあるまい。 そうすれば、椎の小枝を折ってそれに飯を盛ったと解していいだろう。 「片岡の 此 ( この ) 向 ( むか )つ 峯 ( を )に 椎 ( しひ )蒔かば今年の夏の陰になみむか」(巻七・一〇九九)も 椎 ( しい )であろうか。 そして此歌は詠 レ岳だから、椎の木の生長のことなどそう合理的でなくとも、ふとそんな気持になって詠んだものであろう。 天皇は十年冬九月御不予、十月御病重く、十二月近江宮に崩御したもうたから、これは九月か十月ごろの御歌であろうか。 一首の意は、天を遠くあおぎ見れば、悠久にしてきわまりない。 今、天皇の 御寿 ( おんいのち )もその天の如くに満ち足っておいでになる、聖寿無極である、というのである。 天皇御不予のことを知らなければ、ただの寿歌、祝歌のように受取れる御歌であるが、繰返し吟誦し奉れば、かく御願い、かく仰せられねばならぬ切な御心の、切実な悲しみが潜むと感ずるのである。 特に、結句に「天足らしたり」と強く断定しているのは、却ってその詠歎の 究竟 ( きゅうきょう )とも謂うことが出来る。 橘守部 ( たちばなのもりべ )は、この御歌の「天の原」は天のことでなしに、家の屋根の事だと考証し、新室を祝う 室寿 ( むろほぎ )の詞の中に「み空を見れば万代にかくしもがも」云々とある等を証としたが、その屋根を天に 準 ( たと )えることは、新家屋を 寿 ( ことほ )ぐのが主な動機だから自然にそうなるので、また、万葉巻十九(四二七四)の 新甞会 ( にいなめえ )の歌の「 天 ( あめ )にはも 五百 ( いほ )つ綱はふ 万代 ( よろづよ )に国知らさむと五百つ綱 延 ( は )ふ」でも、宮殿内の 肆宴 ( しえん )が主だからこういう云い方になるのである。 御不予御平癒のための願望動機とはおのずから違わねばならぬと思うのである。 縦 ( たと )い、実際的の吉凶を 卜 ( ぼく )する行為があったとしても、天空を仰いでも卜せないとは限らぬし、そういう行為は現在伝わっていないから分からぬ。 私は、歌に「天の原ふりさけ見れば」とあるから、素直に天空を仰ぎ見たことと解する旧説の方が却って原歌の真を伝えているのでなかろうかと思うのである。 守部説は少し 穿過 ( うがちす )ぎた。 この歌は「天の原ふりさけ見れば」といって直ぐ「大王の御寿は」と続けている。 これだけでみると、吉凶を卜して吉の徴でも得たように取れるかも知れぬが、これはそういうことではあるまい。 此処に常識的意味の上に省略と単純化とがあるので、此は古歌の特徴なのである。 散文ならば、蒼天の無際無極なるが如く云々と補充の出来るところなのである。 この御歌の下の句の訓も、古鈔本では京都大学本がこう訓み、近くは 略解 ( りゃくげ )がこう訓んで諸家それに従うようになったものである。 初句「青旗の」は、下の「木旗」に 懸 ( かか )る枕詞で、青く樹木の繁っているのと、下のハタの音に関聯せしめたものである。 「木幡」は地名、山城の 木幡 ( こはた )で、天智天皇の御陵のある 山科 ( やましな )に近く、古くは、「山科の 木幡 ( こはた )の山を馬はあれど」(巻十一・二四二五)ともある如く、山科の木幡とも云った。 天皇の御陵の辺を見つつ詠まれたものであろう。 右は大体契沖の説だが、「青旗の木旗」をば葬儀の時の 幢幡 ( どうばん )のたぐいとする説(考・檜嬬手・攷證)がある。 自分も一たびそれに従ったことがあるが、今度は契沖に従った。 一首の意。 〔青旗の〕(枕詞)木幡山の御墓のほとりを天がけり通いたもうとは目にありありとおもい浮べられるが、直接にお逢い奉ることが無い。 御身と親しく御逢いすることがかなわない、というのである。 御歌は単純蒼古で、 徒 ( いたず )らに 艶 ( つや )めかず技巧を無駄使せず、前の御歌同様集中傑作の一つである。 「直に」は、現身と現身と直接に会うことで、それゆえ万葉に用例がなかなか多い。 「 百重 ( ももへ )なす心は思へど 直 ( ただ )に逢はぬかも」(巻四・四九六)、「うつつにし直にあらねば」(巻十七・三九七八)、「直にあらねば恋ひやまずけり」(同・三九八〇)、「夢にだに継ぎて見えこそ直に逢ふまでに」(巻十二・二九五九)などである。 「目には見れども」は、眼前にあらわれて来ることで、写象として、 幻 ( まぼろし )として、夢等にしていずれでもよいが、此処は写象としてであろうか。 「み空ゆく 月読 ( つくよみ ) 男 ( をとこ )ゆふさらず目には見れども寄るよしもなし」(巻七・一三七二)、「 人言 ( ひとごと )をしげみこちたみ 我背子 ( わがせこ )を目には見れども逢ふよしもなし」(巻十二・二九三八)の歌があるが、皆民謡風の軽さで、この御歌ほどの切実なところが無い。 倭太后は倭姫皇后のことである。 一首の意は、他の人は 縦 ( たと )い 御崩 ( おかく )れになった天皇を、思い慕うことを止めて、忘れてしまおうとも、私には天皇の面影がいつも見えたもうて、忘れようとしても忘れかねます、というのであって、独詠的な特徴が存している。 「玉かづら」は 日蔭蔓 ( ひかげかずら )を髪にかけて飾るよりカケにかけ、カゲに懸けた枕詞とした。 山田博士は葬儀の時の 華縵 ( けまん )として単純な枕詞にしない説を立てた。 この御歌には、「影に見えつつ」とあるから、前の御歌もやはり写象のことと解することが出来るとおもう。 「見し人の言問ふ姿面影にして」(巻四・六〇二)、「面影に見えつつ妹は忘れかねつも」(巻八・一六三〇)、「面影に懸かりてもとな思ほゆるかも」(巻十二・二九〇〇)等の用例が多い。 この御歌は、「人は縦し思ひ止むとも」と強い主観の詞を云っているけれども、全体としては前の二つの御歌よりも 寧 ( むし )ろ弱いところがある。 それは恐らく下の句の声調にあるのではなかろうか。 十市皇女は天武天皇の皇長女、御母は 額田女王 ( ぬかだのおおきみ )、弘文天皇の妃であったが、 壬申 ( じんしん )の戦後、 明日香清御原 ( あすかのきよみはら )の宮(天武天皇の宮殿)に帰って居られた。 天武天皇七年四月、伊勢に行幸御進発間際に急逝せられた。 天武紀に、七年夏四月、丁亥朔、欲 レ幸 二斎宮 一、卜 レ之、癸巳食 レ卜、仍取 二平旦時 一、警蹕既動、百寮成 レ列、乗輿命 レ蓋、以未 レ及 二出行 一、十市皇女、卒然病発、薨 二於宮中 一、由 レ此鹵簿既停、不 レ得 二幸行 一、遂不 レ祭 二神祇 一矣とある。 高市皇子は異母弟の間柄にあらせられる。 御墓は赤穂にあり、今は赤尾に作っている。 一首の意は、山吹の花が、美しくほとりに咲いている山の泉の水を、汲みに行こうとするが、どう 通 ( とお )って行ったら好いか、その道が分からない、というのである。 山吹の花にも似た姉の十市皇女が急に死んで、どうしてよいのか分からぬという心が含まれている。 作者は山清水のほとりに山吹の美しく咲いているさまを一つの写象として念頭に浮べているので、謂わば十市皇女と関聯した一つの象徴なのである。 そこで、どうしてよいか分からぬ悲しい心の有様を「道の知らなく」と云っても、感情上 毫 ( すこ )しも無理ではない。 併し、常識からは、一定の山清水を指定しているのなら、「道の知らなく」というのがおかしいというので、橘守部の如く、「山吹の立ちよそひたる山清水」というのは、「黄泉」という支那の熟語をくだいてそういったので、黄泉まで尋ねて行きたいが幽冥界を異にしてその行く道を知られないというように解するようになる。 守部の解は常識的には道理に近く、或は作者はそういう意図を以て作られたのかも知れないが、歌の鑑賞は、字面にあらわれたものを第一義とせねばならぬから、おのずから私の解釈のようになるし、それで感情上決して不自然ではない。 第二句、「立儀足」は旧訓サキタルであったのを代匠記がタチヨソヒタルと訓んだ。 その他にも異訓があるけれども大体代匠記の訓で定まったようである。 ヨソフという語は、「水鳥のたたむヨソヒに」(巻十四・三五二八)をはじめ諸例がある。 「山吹の立ちよそひたる山清水」という句が、既に写象の鮮明なために一首が佳作となったのであり、一首の意味もそれで押とおして行って味えば、この歌の優れていることが分かる。 古調のいい難い妙味があると共に、意味の上からも順直で無理が無い。 黄泉云々の事はその奥にひそめつつ、挽歌としての関聯を鑑賞すべきである。 なぜこの歌の上の句が切実かというに、「かはづ鳴く 甘南備 ( かむなび )河にかげ見えて今か咲くらむ山吹の花」(巻八・一四三五)等の如く、当時の人々が愛玩した花だからであった。 原文には一書曰、太上天皇御製歌、とあるのは、文武天皇の御世から見て持統天皇を太上天皇と申奉った。 即ち持統天皇御製として言伝えられたものである。 一首は、北山に 連 ( つらな )ってたなびき居る雲の、青雲の中の(蒼き空の)星も移り、月も移って行く。 天皇おかくれになって 万 ( よろ )ず過ぎゆく御心持であろうが、ただ思想の 綾 ( あや )でなく、もっと具体的なものと解していい。 大体右の如く解したが、此歌は実は難解で種々の説がある。 「北山に」は原文「向南山」である。 南の方から北方にある山科の御陵の山を望んで「向南山」と云ったものであろう。 「つらなる雲の」は原文「陣(陳)雲之」で旧訓タナビククモノであるが、古写本中ツラナルクモノと訓んだのもある。 けれども古来ツラナルクモという用例は無いので、山田博士の如きも旧訓に従った。 併しツラナルクモも可能訓と謂われるのなら、この方が型を破って却って深みを増して居る。 次に「青雲」というのは青空・青天・蒼天などということで、雲というのはおかしいようだが、「青雲のたなびく日すら 霖 ( こさめ )そぼ降る」(巻十六・三八八三)、「青雲のいでこ我妹子」(巻十四・三五一九)、「青雲の向伏すくにの」(巻十三・三三二九)等とあるから、晴れた蒼天をも青い雲と信じたものであろう。 そこで、「北山に続く青空」のことを、「北山につらなる雲の青雲の」と云ったと解し得るのである。 これから、星のことも月のことも、単に「物変星移幾度秋」の如きものでなく、現実の星、現実の月の移ったことを見ての詠歎と解している。 面倒な歌だが、右の如くに解して、自分は此歌を尊敬し愛誦している。 「春過ぎて夏来るらし」と殆ど同等ぐらいの位置に置いている。 何か 渾沌 ( こんとん )の気があって二二ガ四と割切れないところに心を 牽 ( ひ )かれるのか、それよりももっと真実なものがこの歌にあるからであろう。 自分は、「北山につらなる雲の」だけでももはや尊敬するので、それほど古調を尊んでいるのだが、少しく偏しているか知らん。 御二人は御姉弟の間柄であることは既に前出の歌のところで云った。 皇子は 朱鳥 ( あかみとり )元年十月三日に死を賜わった。 また皇女が天武崩御によって 斎王 ( いつきのおおきみ )を退き(天皇の御代毎に交代す)帰京せられたのはやはり朱鳥元年十一月十六日だから、皇女は皇子の死を大体知っていられたと思うが、帰京してはじめて事の委細を聞及ばれたものであっただろう。 一首の意。 〔神風の〕(枕詞)伊勢国にその儘とどまっていた方がよかったのに、君も此世を去って、もう居られない都に何しに還って来たことであろう。 「伊勢の国にもあらましを」の句は、皇女真実の御声であったに相違ない。 家郷である大和、ことに京に還るのだから喜ばしい筈なのに、この御詞のあるのは、強く読む者の心を打つのである。 第三句に、「あらましを」といい、結句に、「あらなくに」とあるのも重くして悲痛である。 なお、同時の御作に、「見まく欲り吾がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに」(巻二・一六四)がある。 前の結句、「君もあらなくに」という句が此歌では第三句に置かれ、「馬疲るるに」という実事の句を以て結んで居るが、、この結句にもまた 愬 ( うった )えるような響がある。 以上の二首は連作で二つとも 選 ( よ )っておきたいが、今は一つを従属的に取扱うことにした。 「 弟背 ( いろせ )」は原文「弟世」とあり、イモセ、ヲトセ、ナセ、ワガセ等の諸訓があるが、新訓のイロセに従った。 同母兄弟をイロセということ、古事記に、「天照大御神之 伊呂勢 ( イロセ )」、「其 伊呂兄 ( イロセ )五瀬命」等の用例がある。 第一首。 生きて現世に残っている私は、明日からはこの二上山をば弟の君とおもって見て慕い 偲 ( しの )ぼう。 今日いよいよ此処に葬り申すことになった。 第二首。 石のほとりに生えている、美しいこの馬酔木の花を手折もしようが、その花をお見せ申す弟の君はもはやこの世に生きて居られない。 「君がありと云はなくに」は文字どおりにいえば、「一般の人々が此世に君が生きて居られるとは云わぬ」ということで、人麿の歌などにも、「人のいへば」云々とあるのと同じく、一般にそういわれているから、それが本当であると強めた云い方にもなり、 兎 ( と )に 角 ( かく )そういう云い方をしているのである。 馬酔木については、「山もせに咲ける馬酔木の、 悪 ( にく )からぬ君をいつしか、往きてはや見む」(巻八・一四二八)、「馬酔木なす栄えし君が掘りし井の」(巻七・一一二八)等があり、自生して人の好み賞した花である。 この二首は、前の御歌等に較べて、稍しっとりと底深くなっているようにおもえる。 「何しか来けむ」というような強い激越の調がなくなって、「現身の人なる吾や」といって、 諦念 ( ていねん )の如き心境に入ったもののいいぶりであるが、併し二つとも優れている。 皇子尊 ( みこのみこと )と書くのは皇太子だからである。 日並皇子尊( 草壁皇子 ( くさかべのみこ ))は持統三年に薨ぜられた。 「ぬばたまの夜わたる月の隠らく」というのは日並皇子尊の薨去なされたことを申上げたので、そのうえの、「あかねさす日は照らせれど」という句は、言葉のいきおいでそう云ったものと解釈してかまわない。 つまり、「月の隠らく惜しも」が主である。 全体を一種象徴的に歌いあげている。 そしてその歌調の 渾沌 ( こんとん )として深いのに吾々は注意を払わねばならない。 この歌の第二句は、「日は照らせれど」であるから、以上のような解釈では物足りないものを感じ、そこで、「あかねさす日」を持統天皇に 譬 ( たと )え奉ったものと解釈する説が多い。 然るに皇子尊薨去の時には天皇が未だ即位し給わない等の史実があって、常識からいうと、実は変な 辻棲 ( つじつま )の合わぬ歌なのである。 併し此処は 真淵 ( まぶち )が 万葉考 ( まんようこう )で、「日はてらせれどてふは月の隠るるをなげくを 強 ( ツヨ )むる言のみなり」といったのに従っていいと思う。 或はこの歌は年代の明かな人麿の作として最初のもので、初期(想像年齢二十七歳位)の作と看做していいから、幾分常識的散文的にいうと 腑 ( ふ )に落ちないものがあるかも知れない。 特に人麿のものは句と句との連続に、省略があるから、それを顧慮しないと解釈に無理の生ずる場合がある。 「 勾 ( まがり )の池」は島の宮の池で、現在の 高市 ( たかいち )郡高市村の小学校近くだろうと云われている。 一首の意は、勾の池に 放 ( はな )ち 飼 ( がい )にしていた 禽鳥 ( きんちょう )等は、皇子尊のいまさぬ後でも、なお人なつかしく、水上に浮いていて水に 潜 ( くぐ )ることはないというのである。 真淵は此一首を、 舎人 ( とねり )の作のまぎれ込んだのだろうと云ったが、舎人等の歌は、かの二十三首でも人麿の作に比して一般に劣るようである。 例えば、「島の宮 上 ( うへ )の池なる放ち鳥荒びな行きそ君 坐 ( ま )さずとも」(巻二・一七二)、「 御立 ( みたち )せし島をも家と住む鳥も荒びなゆきそ年かはるまで」(同・一八〇)など、内容は類似しているけれども、何処か違うではないか。 そこで参考迄に此一首を抜いて置いた。 「東の滝の御門」は皇子尊の島の宮殿の正門で、 飛鳥 ( あすか )川から水を引いて滝をなしていただろうと云われている。 「人音もせねば」は、人の出入も稀に 寂 ( さび )れた様をいった。 第一首。 島の宮の東門の滝の御門に伺候して居るが、昨日も今日も召し給うことがない。 嘗 ( かつ )て召し給うた御声を聞くことが出来ない。 第二首。 嘗て皇子尊の此世においでになった頃は、朝日の光の照るばかりであった島の宮の御門も、今は人の音ずれも稀になって、心もおぼろに悲しいことである、というのである。 舎人等の歌二十三首は、素直に、心情を 抒 ( の )べ、また当時の歌の声調を伝えて居る点を注意すべきであるが、人麿が作って呉れたという説はどうであろうか。 よく読み味って見れば、少し 楽 ( らく )でもあり、手の足りないところもあるようである。 なお二十三首のうちには次の如きもある。 敷妙 ( しきたへ )の 袖交 ( そでか )へし 君 ( きみ ) 玉垂 ( たまだれ )のをち 野 ( ぬ )に 過 ( す )ぎぬ 亦 ( また )も 逢 ( あ )はめやも 〔巻二・一九五〕 柿本人麿 この歌は、 川島 ( かわしま )皇子が 薨 ( こう )ぜられた時、柿本人麿が 泊瀬部 ( はつせべ )皇女と 忍坂部 ( おさかべ )皇子とに 献 ( たてまつ )った歌である。 川島皇子(天智天皇第二皇子)は泊瀬部皇女の夫の君で、また泊瀬部皇女と忍坂部皇子とは御兄妹の御関係にあるから、人麿は川島皇子の薨去を悲しんで、御両人に同時に御見せ申したと解していい。 「敷妙の」も、「玉垂の」もそれぞれ下の語に 懸 ( かか )る枕詞である。 「袖 交 ( か )へし」のカフは 波 ( は )行下二段に活用し、袖をさし 交 ( かわ )して寝ることで、「白妙の袖さし 交 ( か )へて 靡 ( なび )き 寝 ( ね )し」(巻三・四八一)という用例もある。 「過ぐ」とは死去することである。 一首は、敷妙の袖をお互に 交 ( か )わして契りたもうた川島皇子の君は、今 越智野 ( おちぬ )(大和国高市郡)に葬られたもうた。 今後二たびお逢いすることが出来ようか、もうそれが出来ない、というのである。 この歌は皇女の御気持になり、皇女に同情し奉った歌だが、人麿はそういう場合にも自分の事のようになって作歌し得たもののようである。 そこで一首がしっとりと充実して決して 申訣 ( もうしわけ )の 余所余所 ( よそよそ )しさというものが無い。 第四句で、「越智野に過ぎぬ」と切って、二たび語を起して、「またもあはめやも」と止めた調べは、まことに涙を誘うものがある。 皇女と皇子との御関係は既に云った如くである。 吉隠 ( よなばり )は 磯城 ( しき )郡初瀬町のうちで、猪養の岡はその吉隠にあったのであろう。 「あはにな降りそ」は、諸説あるが、多く降ること 勿 ( なか )れというのに従っておく。 「 塞 ( せき )なさまくに」は 塞 ( せき )をなさんに、 塞 ( せき )となるだろうからという意で、これも諸説がある。 金沢本には、「塞」が「寒」になっているから、新訓では、「寒からまくに」と訓んだ。 一首は、降る雪は余り多く降るな。 但馬皇女のお墓のある吉隠の猪養の岡にかよう道を 遮 ( さえぎ )って邪魔になるから、というので、皇子は藤原京(高市郡鴨公村)からこの吉隠(初瀬町)の方を遠く望まれたものと想像することが出来る。 皇女の薨ぜられた時には、皇子は 知太政官事 ( ちだいじょうかんじ )の職にあられた。 御多忙の御身でありながら、或雪の降った日に、往事のことをも追懐せられつつ吉隠の方にむかってこの吟咏をせられたものであろう。 この歌には、解釈に未定の点があるので、鑑賞にも邪魔する点があるが、大体右の如くに定めて鑑賞すればそれで満足し得るのではあるまいか。 前出の、「君に寄りなな」とか、「朝川わたる」とかは、皆皇女の御詞であった。 そして此歌に於てはじめて吾等は皇子の御詞に接するのだが、それは皇女の御墓についてであった。 そして血の出るようなこの一首を作られたのであった。 結句の「塞なさまくに」は強く迫る句である。 この人麿の妻というのは 軽 ( かる )の 里 ( さと )(今の畝傍町大軽和田石川五条野)に住んでいて、其処に人麿が通ったものと見える。 この妻の急に死んだことを使の者が知らせた 趣 ( おもむき )が長歌に見えている。 一首は、自分の愛する妻が、秋山の 黄葉 ( もみじ )の茂きがため、その中に迷い入ってしまった。 その妻を尋ね求めんに道が分からない、というのである。 死んで葬られることを、秋山に迷い入って隠れた趣に歌っている。 こういう云い方は、現世の生の連続として遠い処に行く趣にしてある。 当時は未だそう信じていたものであっただろうし、そこで愛惜の心も強く附帯していることとなる。 「迷はせる」は迷いなされたという具合に敬語にしている。 これは死んだ者に対しては特に敬語を使ったらしく、その他の人麿の歌にも例がある。 この一首は亡妻を悲しむ心が 極 ( きわ )めて切実で、ただ一気に詠みくだしたように見えて、その実心の渦が中にこもっているのである。 「求めむ」と云ってもただ尋ねようというよりも、もっと覚官的に人麿の身に即したいい方であるだろう。 なお、人麿の妻を悲しんだ歌に、「 去年 ( こぞ )見てし秋の月夜は照らせども相見し 妹 ( いも )はいや年さかる」(巻二・二一一)、「 衾道 ( ふすまぢ )を 引手 ( ひきて )の山に妹を置きて山路をゆけば生けりともなし」(同・二一二)がある。 共に切実な歌である。 二一一の第三句は、「照らせれど」とも訓んでいる。 一周忌の歌だろうという説もあるが、必ずしもそう厳重に 穿鑿 ( せんさく )せずとも、今秋の清い月を見て妻を追憶して歎く趣に取ればいい。 「衾道を」はどうも枕詞のようである。 「引手山」は不明だが、 春日 ( かすが )の 羽易 ( はがい )山の中かその近くと想像せられる。
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次の1988年に3月にフェリス女学院大学文学部英米文学科卒業後、フジテレビに入社しましたが、同期アナウンサーである河野景子さん、八木亜希子さんと「花の三人娘」と呼ばれて活躍をしていました。 フジテレビ時代は「オレたちひょうきん族」「新春かくし芸大会」と人気バラティ番組に出演し、「FNNモーニングコール」や「ミュージックステーション」と多ジャンルで幅広く活動をしていました。 1992年10月にフジテレビを退社して、1993年4月より本格的に芸能活動を始めてタレントとなります。 2000年にはとある事情で芸能界を引退しますが、2002年3月に和田圭さんと結婚をして長女も出産します。 しかし2006年5月に和田圭さんと離婚を機に、タレントとして活動を再開しています。 以降はタレント活動だけでなく、母校のフェリス女学院大学で持っているアナウンス講座の講師の仕事を中心に活動をしているようです。 しかし、2018年1月30日に52歳と若くして死去となりました。 有賀さつきが激やせでネプリーグ出演? 有賀さつきさんは2017年7月に病気ながらもネプリーグに出演していました。 しかし、当時から激やせしているとのことで、話題・噂になっていました。 (画像引用元:,) 比べてみると、もともとスレンダーな有賀さつきさんですが、さらに線が細くなり腕が細く、共演者からは顔つきはやつれていたと言われていたのでした。 他にも何の因果かこれまたネプチューンの番組「あいつ今何してる?」に出演して痩せている姿を見せてました。 スポンサーリンク 有賀さつきがカツラで出演していた? 有賀さつきさんは激やせもそうですが、2017年に出演していた「あいつ今何してる?」「ネプリーグ」ではかつらを着用して出演していました。 (画像引用元:) 確かに、カツラと言われればカツラのように見え、やはり痩せていますね… しかし、周りには病気を知らせず、「便利ですよ」と明るく気丈に振る舞っていたのでした。 有賀さつきが激やせでネプリーグ出演!痩せた悪い噂が現実に… 有賀さつきさんの激やせからの病気の噂ですが、悪い噂は本当で亡くなってしまったようです… しかし、2017年のテレビ出演では激やせでカツラを着用ながらも気丈に振る舞い、誰にも気取られず、明るく振る舞ってプロ根性を見せていました。 そんな、アナウンサーとして活躍・活動し続けた有賀さつきさんですが、ご冥福をお祈りします。
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