0 07-07-06-05 34. 9 57. 0 1 1. 5 57. 0 2 4. 7 2馬身 08-08-08-07 35. 3 56. 0 3 11. 7 54. 0 8 92. 4 56. 0 4 15. 1 6馬身 01-01-02-02 37. 6 56. 0 6 26. 3 1馬身 02-02-01-01 37. 8 56. 0 5 16. 1 5馬身 09-09-08-09 37. 8 56. 0 10 165. 1 クビ 03-03-04-07 38. 3 54. 0 7 70. 1 大差 10-10-10-10 43. 0 56. 0 9 133.
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次の【プロ野球 広澤克実選手】 1984年のロサンゼルス・オリンピックで野球日本代表の主砲として金メダル獲得に貢献し、85年に鳴り物入りでヤクルトに入団した広澤選手。 この年、ルーキーながら18本のホームランを放ちましたが、リーグ最多となる102三振も記録しています。 プロ初打席での三振以降、8年連続で実に100三振以上を記録。 通算306本のホームランを放った一方、1529三振は歴代11位です。 三振を恐れないバッティングを続けた結果、広澤選手は入団から11年連続で2ケタのツーベースとホームランを記録。 ヤクルト時代の91年と93年には打点王のタイトルを獲得するなど、中長距離砲としてチームを支えました。 また95年からは巨人で、2000年からは阪神でプレーし4番を経験。 巨人と阪神、ライバルチームの両方で4番を務めた唯一の選手でもあります。 【プロ野球 河野博文投手】 学生時代は、駒澤大学のエースとして活躍した河野投手。 4年生の秋には、東都大学リーグの最優秀投手と、ベストナインに輝く活躍で母校の優勝に貢献。 即戦力左腕として1985年、日本ハムファイターズに入団しました。 1年目から先発・リリーフの両方をこなし8勝13敗、2年目は1勝10敗と大きく負け越しが続いた河野投手でしたが、入団4年目の88年、ついにプロとして生き抜く武器を見つけて飛躍を遂げます。 この年は、先発とリリーフで自己最多の46試合に登板。 普通は疲れてくれば投球内容にも響きそうですが、河野投手は「登板間隔が空くと逆に調子が悪くなる」という理由から、持ち前のスタミナで好投を続けます。 特に日本ハムがAクラス争いをしていた9月は、チーム20試合中、半分以上の11試合に登板。 月間防御率0. 40で、この年の最優秀防御率のタイトルに輝きました。 96年にFA移籍した 巨人でも、疲れ知らずの驚異的スタミナは大きな武器となります。 河野投手は、この年からセリーグで表彰が始まった「最優秀中継ぎ投手」に輝き、初代タイトルホルダーとなりました。 【プロ野球 栗橋茂選手】 1973年のドラフト会議で、近鉄バファローズから1位指名され入団した栗橋選手。 酒豪としても知られ、試合後に飲みに行き、翌日寝ないで試合に出場することもよくありました。 しかし遠征先で飲んで遅く帰ってきたときも、深夜に宿舎の外で素振りを欠かさなかったといいます。 外国人に負けないパワーを誇り、77年から86年まで10年連続2ケタホームランも記録しました。 79年には全試合に出場。 自己最多のホームラン32本を放って、近鉄の初優勝に貢献しています。 トレード話が来ても「オレを出すならやめる」と近鉄一筋を貫いた栗橋選手。 近鉄の9年ぶり3度目のリーグ優勝を見届けて、89年限りで現役を引退しました。 【プロ野球 笘篠誠治選手】 1983年、ドラフト2位で西武ライオンズに入団した笘篠選手。 この時の西武は、前年に初の日本一に輝くほど選手層が厚く、当然、高卒ルーキーの笘篠選手が割って入ることは出来ません。 しかし2軍生活の中でアメリカ1Aへの野球留学を経験し、猛練習を重ねたことで、4年目の86年から一軍に定着。 代打や代走、内外野どこでも守れる守備のスペシャリストとして活躍し、西武黄金時代に控えで欠かせないスーパーサブとして、86年から合計9度のリーグ優勝に貢献しました。 2歳下の弟・賢治選手は、ドラフト3位で89年にヤクルトスワローズに入団。 兄弟の夢は、「日本シリーズで対戦すること」。 その夢が92年と93年に実現します。 1度目の92年、賢治選手はセカンドで日本シリーズスタメン出場を果たします。 シリーズは、最終戦の第7戦までもつれこむ大激戦の末、4勝3敗で西武が勝利。 初の兄弟対決は、兄が笑いました。 2度目の93年は、弟がリベンジを果たしました。 当時の広島はリーグ屈指の投手王国でした。 右の北別府学投手、左では大野豊投手・川口和久投手といった先発にリリーフ陣も充実しており、新人が割って入る余地はほぼありませんでした。 そこになんとか割って入るには、他のピッチャーがやっていないことでアピールをしなければ、とオーバースローからサイドスローへの転向を決意。 その結果、プロ1年目の84年にわずか1試合だった登板数は、2年目に12試合、3年目には50試合と増えていき、いつしかチームに欠かせない存在になりました。 とはいえ入団から4年間で104試合に登板しながら、残した数字はたったの2セーブ。 勝ち投手にも負け投手にもならず、毎年の成績は「0勝0敗」「勝ち星ゼロ、負け数ゼロ」という珍しい記録を作りました。 この珍記録も、5年目の88年についに途切れる時がやってきます。 通算106試合目にプロ初勝利を挙げた清川投手。 その1カ月後にプロ初黒星も喫しましたが「デビューから114試合連続で黒星なし」は、2009年に破られるまで日本記録でした。
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