スペイン映画を代表する作品をご紹介します。 監督の作品の「女性賛歌」としての特徴を備えた第一作と言えます。 あらすじ シングルマザーのマヌエラは、看護師をしながら大切な一人息子テバンを育てていた。 しかし彼の誕生日、舞台女優ウマ・ロッホのサインをもらおうと彼女の車を追いかけたテバンは、交通事故で亡くなってしまう。 マヌエラはを去り、かつて暮らしていたへと発ち、旧友のアグラードに再会する。 教会のシスター・ロサの助けを得ながら仕事を探していたが、ふとしたことから舞台女優ウマとニナの付き人となる。 マヌエラは自らの人生を振り返る中で、 ウマやロサとの出会いを経て新たな一歩を踏み出していく。 様々なとのありかた テバンとの辛い別れを乗り越えようとする主人公マヌエラの他にも、この映画には多数の女性が登場し、そのうちの何人かは母親です。 シスター・ロサはそりの合わない母親との関係がなかなか改善しません。 そんな中、シュアルで済みの元男性・ロラとの子どもを身ごもります。 母という役割から突如引き剥がされ悲しむマヌエラ、 不安定でマヌエラに頼りがちなロサ、 実の娘にもよそよそしくしか接することのできないロサの母、 母子のかたちは三者三様です。 彼女たちを取り巻く登場人物もまた多様で、そしてとにかく濃い。 ロラとを経験し、女として美の理想を追求するアグラード、 「男と女の嫌なところを合わせたような」人物ロラ、 年下の恋人ニナに夢中なのウマ、 才能はあるがわがままで奔放な若手女優ニナなど。 アルモドバル監督の映画の重要な要素に「女性賛歌」があるとよく言われますが、本作は特にそれがわかりやすい作品です。 同様に女性がほとんどの役を占める映画に『ボルベール』があります。 それでも人生は続く この映画の女性たちの共通点は、皆ままならぬ人生に直面しながらも、何とか生きているということです。 ままならん事態の内容は子との死別、病気、薬物依存などで、控えめに言ってままならなさのレベルが高すぎます。 でも彼女たちは、友人の言葉に励まされたり、仕事を全うしたり、互いに助け合いながら苦難も笑い飛ばして生きていく。 下ネタを肴に昼間からお酒を飲みながら、また仕事に出かけます。 赤を基調とした明るい映像の美しさもあって、そこにある状況の大変さの割には閉塞感や絶望感、湿っぽさがありません。 もちろん泣いて悲しみを表現することもあれば、 心配してくれた人を相手に冷静になれない時もあります。 でも、そうした場面を交えながらも、「様々な人生のうちの一つ」として映すことで、それが唯一無二の描写対象にはなっていません。 群像劇だからこそ、一人の人物に深入りしすぎず、すれ違う人生の一場面として客観性をもって表現されている気がします。 もし小説だったら、映画では詳しく説明されずさらっと画面に映るだけのことも、活字ですべて説明しなければならないので、心理描写がくどすぎる作品になったかもしれません。 映画だからこそ、一歩引いて彼女たちの人生を次々に眺め、でも温かい視線を基本失わないというバランスが表現できるのだと感じました。 他作品のモチーフ 本作では、冒頭でテバンとマヌエラが観ている映画『』、同じく2人が観に行く舞台『欲望と言う名の電車』など、他の作品がモチーフに織り込まれています。 『』をまだ観たことがないのですが、「女性であることの悲劇を描いた作品」と聞いたことがあるので、本作との対比として用いられたのかもしれません。 劇中の展開が一部、『』に似ていたというのもありますが。 『欲望と言う名の電車』は、ブランチの悲壮な運命を描くという主題のほか、妹の夫コワルスキーを人間の中にある野蛮さの象徴として描いています。 マヌエラに「男と女の嫌なところをあわせたような」奴だと言われたロラが、昔コワルスキー役を演じていたというのも納得でした。 おわりに アルモドバル監督を国際的に有名にした本作は、、監督賞などを受賞しています。 群像劇と言うこともあって、一言で「こういう映画です」と紹介することが難しく、どこが感動ポイントなのかも簡単に表せないのですが、観終わった後は何だか元気になれます。
次のオール・アバウト・マイ・マザーのネタバレあらすじ:起 スペイン・マドリード。 この街に住む臓器移植コーディネーターのマヌエラ(セシリア・ロス)は、女手ひとつで息子のエステバン(エロイ・アソリン)を育ててきた。 エステバンは将来作家になるという夢を持っており、テレビで映画を見ながら筆を走らせたりしています。 マヌエラはかつてアマチュア劇団で活動していた時期があり、別れた夫でありエステバンの父とは劇団で知り合ったのだといいます。 エステバンの17歳の誕生日、二人は「欲望という名の電車」の舞台を観に行きます。 エステバンは父のことをもっと知りたいと言ってきます。 舞台が終わり、エステバンは主役の女優ウマ・ロッホ(マリサ・パレデス)にサインをもらおうと駆け寄りますが、突然来た車にはねられてしまい、脳死状態になってしまいます。 オール・アバウト・マイ・マザーのネタバレあらすじ:承 マヌエラは悲痛な思いでエステバンの臓器移植同意書にサインします。 我が子の心臓を移植された患者が退院する様子を見たマヌエラは、息子の死を別れた夫に伝えるため、かつての想い出の地であるバルセロナに向かいます。 そこでマヌエラは再び「欲望という名の電車」を一人で観に行きます。 そこでも主演を務めたウマはレズビアンの恋人である若手女優ニーナ(カンデラ・ペニャ)の薬物中毒と奔放な性格に手を焼いており、マヌエラはウマに頼まれて付き人になります。 マヌエラは友人であるオカマのアグラード(アントニア・サン・フアン)と再会し、救いを求めて行った修道院でシスターのロサ(ペネロペ・クルス)と出会います。 オール・アバウト・マイ・マザーのネタバレあらすじ:転 ロサはマヌエラの元夫の子どもを妊娠していました。 マヌエラはショックを受けながらも、アルツハイマーの父親の面倒を見ている母親とは折り合いが悪く、行くあてもないロサを自分の部屋に住まわせ、面倒を見ることにします。 ある日、マヌエラは薬物に手を染めるニーナの代役を頼まれ、「欲望という名の電車」の舞台に出演します。 奇しくもマヌエラの演じた約は。 かつて彼女がアマチュア劇団員時代に演じていた役でした。 しかし、役を奪われたと思い込んだニーナはマヌエラを罵倒します。 マヌエラから事情を聞いたウマはギャラと共にエステバンへの手紙とサインを託します。 オール・アバウト・マイ・マザーの結末 ロサはエイズに感染していました。 感染源はゲイでもあるマヌエラの元夫でした。 マヌエラは仕事を探していたアグラードにウマの付き人を任せ、親身になってロサの面倒を見ていました。 やがてロサは男の子を出産、エステバンと名付けますが、ロサは我が子をマヌエラに託して死んでしまいました。 ロサの葬式の日、マヌエラはニューハーフとなっていた元夫のロラ(トニ・カント)と再会します。 自らもエイズを患うロラはマヌエラに最期の別れを告げにきたのです。 ロラはマヌエラからエステバンの遺品を受け取り、そしてロラとの子に対面すると思わず泣き崩れました。 それを見ていたロサの母は、自らもエイズに感染するのではないかと偏見を抱き、ロラがロサを殺したのだと激高します。 マヌエラはロサの子を偏見から守るため。 共にマドリードに戻っていきます。 そして数年後、ロサの子は幸いにもエイズに感染していませんでした。 マヌエラはロサの子を連れて再びバルセロナに行き、ウマやアグラードと再会します。 ウマはロラからエステバンの遺品を預かっており、マヌエラに返そうとしますが、マヌエラは「あなたが持っているべきだ」と言いました。
次のスペイン映画を代表する作品をご紹介します。 監督の作品の「女性賛歌」としての特徴を備えた第一作と言えます。 あらすじ シングルマザーのマヌエラは、看護師をしながら大切な一人息子テバンを育てていた。 しかし彼の誕生日、舞台女優ウマ・ロッホのサインをもらおうと彼女の車を追いかけたテバンは、交通事故で亡くなってしまう。 マヌエラはを去り、かつて暮らしていたへと発ち、旧友のアグラードに再会する。 教会のシスター・ロサの助けを得ながら仕事を探していたが、ふとしたことから舞台女優ウマとニナの付き人となる。 マヌエラは自らの人生を振り返る中で、 ウマやロサとの出会いを経て新たな一歩を踏み出していく。 様々なとのありかた テバンとの辛い別れを乗り越えようとする主人公マヌエラの他にも、この映画には多数の女性が登場し、そのうちの何人かは母親です。 シスター・ロサはそりの合わない母親との関係がなかなか改善しません。 そんな中、シュアルで済みの元男性・ロラとの子どもを身ごもります。 母という役割から突如引き剥がされ悲しむマヌエラ、 不安定でマヌエラに頼りがちなロサ、 実の娘にもよそよそしくしか接することのできないロサの母、 母子のかたちは三者三様です。 彼女たちを取り巻く登場人物もまた多様で、そしてとにかく濃い。 ロラとを経験し、女として美の理想を追求するアグラード、 「男と女の嫌なところを合わせたような」人物ロラ、 年下の恋人ニナに夢中なのウマ、 才能はあるがわがままで奔放な若手女優ニナなど。 アルモドバル監督の映画の重要な要素に「女性賛歌」があるとよく言われますが、本作は特にそれがわかりやすい作品です。 同様に女性がほとんどの役を占める映画に『ボルベール』があります。 それでも人生は続く この映画の女性たちの共通点は、皆ままならぬ人生に直面しながらも、何とか生きているということです。 ままならん事態の内容は子との死別、病気、薬物依存などで、控えめに言ってままならなさのレベルが高すぎます。 でも彼女たちは、友人の言葉に励まされたり、仕事を全うしたり、互いに助け合いながら苦難も笑い飛ばして生きていく。 下ネタを肴に昼間からお酒を飲みながら、また仕事に出かけます。 赤を基調とした明るい映像の美しさもあって、そこにある状況の大変さの割には閉塞感や絶望感、湿っぽさがありません。 もちろん泣いて悲しみを表現することもあれば、 心配してくれた人を相手に冷静になれない時もあります。 でも、そうした場面を交えながらも、「様々な人生のうちの一つ」として映すことで、それが唯一無二の描写対象にはなっていません。 群像劇だからこそ、一人の人物に深入りしすぎず、すれ違う人生の一場面として客観性をもって表現されている気がします。 もし小説だったら、映画では詳しく説明されずさらっと画面に映るだけのことも、活字ですべて説明しなければならないので、心理描写がくどすぎる作品になったかもしれません。 映画だからこそ、一歩引いて彼女たちの人生を次々に眺め、でも温かい視線を基本失わないというバランスが表現できるのだと感じました。 他作品のモチーフ 本作では、冒頭でテバンとマヌエラが観ている映画『』、同じく2人が観に行く舞台『欲望と言う名の電車』など、他の作品がモチーフに織り込まれています。 『』をまだ観たことがないのですが、「女性であることの悲劇を描いた作品」と聞いたことがあるので、本作との対比として用いられたのかもしれません。 劇中の展開が一部、『』に似ていたというのもありますが。 『欲望と言う名の電車』は、ブランチの悲壮な運命を描くという主題のほか、妹の夫コワルスキーを人間の中にある野蛮さの象徴として描いています。 マヌエラに「男と女の嫌なところをあわせたような」奴だと言われたロラが、昔コワルスキー役を演じていたというのも納得でした。 おわりに アルモドバル監督を国際的に有名にした本作は、、監督賞などを受賞しています。 群像劇と言うこともあって、一言で「こういう映画です」と紹介することが難しく、どこが感動ポイントなのかも簡単に表せないのですが、観終わった後は何だか元気になれます。
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