「自分はこれからプロだ」って。 当時はジョージ大塚バンドとか、渡辺貞夫バンド、本田竹広バンドとかさ。 今では伝説みたいになってる、一世を風靡しているバンドがいっぱいあったよ。 でも、東工大を卒業してもプロの先輩は皆無だし人脈がなくて、親も心配だろうしホントに困った。 どうされたんですか? いろんなクラブに、「ピアノ弾きたいんだけど」といいに行って、夜中の時間帯で弾くクラブの仕事を見つけたんだけど。 でも、初心者のオレでもちょっと納得がいきかねるバンドで。 でも、そこでのオレの演奏を聴いた人から声をかけてもらって、「ねのはこ」というレストランで弾くようになって。 ライブシーンとは違って、レストランだからお客さんは食事しに来ているわけで。 BGMとして演奏するんだよ。 その「ねのはこ」ってレストランで弾いているときに、渡辺貞夫さんのバンドを抜けた、弟さんのドラマー、渡辺文男さんが来て一緒に演奏することになったんだ。 文男さんは、休憩時間にかかっているムードミュージックのカセットを、チャーリー・パーカーとかに勝手に変えちゃうんだよ。 「アンソロポロジー」とか、おもしろかったなあ。 文男さんはピアノを弾かないけど、すばらしいリズム感覚の持ち主で、パーカーの演奏に合わせてカウンターでピアノのコンピングをしながらメロディーを歌ってくれる。 すると、実際のピアノの生き生きとしたコンピングの音が、想像して聴こえてくるんだ。 歌にあふれた人だよ。 そんな調子で文男さんには3か月ほど毎日勉強させて頂きました。 またまた良い機会をいただいて、めぐまれてると思ったよ。 文男さんは、オレにとってジャズの最初の師匠。 オレが文男さんにコンピングしてもらったのを2、3日で曲がりなりにも覚えてもってくとさ、「お、こいつやる気だな」って、文男さんもどんどんやる気になって。 後から聞いた話だけど、学生あがりのまだ何も弾けないオレと組まされて、文男さんも最初は「あ~あ」って思ってたらしいんだけど。 オレはベースの水橋孝さんに誘われて、彼のバンドでピットインの夜の部で弾きはじめたんだ。 当時、朝の部や昼の部でも弾いていたので、その頃から他のミュージシャンの演奏もよく聴いたよ。 出番が終わっても、そのままピットインに残って。 そのあと、サックスの大友義雄さんのバンドに参加して。 「ドラムは文男さんがいい」って大友さんがいうから、オレが誘いに行って、それで文男さんはライブシーンに復活したんだよ。 『FUMIO』ってレコードの録音まで一緒にやってたよ。 その録音は大田寛二さんとふたりで半々くらいで弾いて。 最初は人脈なんてまったくなかったんだけど、場面々々で人と出会って、またつながって。 そのあともドラムの古澤良治郎さんに誘われて。 ドラムリーダーに縁があるんだよね、オレは。 彼はいわゆるカッコいい作品を作ろうとするのではないけど、キャッチーで親しみやすい曲をたくさん作って、それをレゲエやサンバのリズムにのせて演奏していたんだ。 4ビートジャズではないけれど、その頃のミュージックシーンの一角を占めていたよ。 ベースの川端民生さんとかと一緒に。 それから1982~83年の頃、小野リサさんとバンドをやらないかっていう話になって、四谷のサッシペレレという店に入り浸りながら、ブラジル音楽を再びどっぷりやることになったの。 ブラジル音楽でピアノをどう弾くのか、雰囲気はわかってるんだけど、リズムのこととか具体的にはよくわからないから、ブラジル人ピアニストのライブとか、そのお店にほとんど毎日聴きに行ってた。 でも、幸いにもそんなことはまったくなくて、興味が減るどころかどんどん増えてきちゃって。 ひとついいたいのは、オレはたまたまピアノという楽器に親しんできたからピアノでやってるけど、ピアノがうまくなりたくてやってるわけじゃないんだ。 好きな音楽を自分のその時々で納得できるトーン、音色で自分の好きなものを表現したい。 つまり、表現にいちばん大切なのはトーンということになるね。 具体的なリリース予定はないんだけど、もっと人数が多い編成の、それも木管楽器みたいな柔らかい響きや弦楽器とか、アレンジも含めて書いて、それを作品として録音していきたい。 今まで自分が書いた曲も違う編成でやってみたら、おもしろそーだなって。 とにかく能力主義にかたよることなく、自分の「好き」をつねにピカピカに磨いて進む。 同時に共演者の音を、楽器の演奏としても話としても聴く。 おもしろいと思ったことをちゃんと覚えていること。 オレの経験では、張りつめた緊張感とフィジカルにリラックスしていることが、共存している状態が最高で。 その状態だと共演者からも自分からも、はじめて聴くような音がでてきたりするんだ。 駆け出しのころ、ジャッキー・マクリーンとビリー・ヒギンズと、一夜の共演の時にそれを体験して以来、大切に思っています。 エルビン・ジョーンズとリチャード・デイビスとの共演の時も同様の体験をしました。 組み立てられている音楽の大きさに、ただただ感動して、世界はこんなにも大きくて素晴らしいんだ! と心の底から思ったのが、いまでも演奏や作曲、アレンジに向かう心意気、勇気のみなもとになっています。
次の「忘れ得ぬ君」「神様お願い」「エメラルドの伝説」などのヒット曲があり、GSでも屈指の人気グループとなった。 45年解散後は、萩原と、ザ・スパイダースの井上堯之 ギター 、大野克夫 キーボード 、ザ・タイガースの岸部修三 岸部一徳 ベース 、沢田研二 ボーカル というGSの人気メンバーを集めたロックバンド・PYGに参加。 46年脱退。 47年アラン・メリルとウォッカ・コリンズを結成、アルバム「Tokyo-New York」を発表するなど2年にわたり活動。 平成8年加部正義、ムッシュかまやつを迎え、アルバム「Chemical reaction」でウォッカ・コリンズを復活させた。 PYG脱退後は俳優としても活躍し、テレビドラマ「時間ですよ」でデビュー。 ドラマ「向田邦子の恋文」、映画「奇妙なサーカス」「FRIED DRAGON FISH」「北の零年」「日本沈没」「遠くの空に消えた」「ハブと拳骨」「カフーを待ちわびて」 遺作 などに出演した。 また、ファッションブランド「BIGI」のデザイナーでもあり、服飾会社も経営した。 昭和59年には大麻所持容疑で逮捕され、懲役6ヶ月、執行猶予3年の判決を受けている。 この間、58年女優の真行寺君枝と結婚。 平成9年自身の撮影で妻のヘアヌード写真集を出版して話題を呼んだ。 17年離婚。 ミュージシャンの大口弦人は長男。 没年月日 平成21年 1月25日 2009年 出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊) 新撰 芸能人物事典 明治~平成について.
次の2月18日テレ朝系「玉の輿に乗ったのに、その後どん底に落ちた女たちスペシャル」 女優・真行寺君枝さんが出演していました。 <劇団クセックACT>とは? 1980年1月、国際青年演劇センター KSEC に参加していた神宮寺 啓を中心に プロデュース集団KSECとして誕生。 劇団クセックACTアトリエ「エル・ノルテ」 〒462-0865名古屋市北区下飯田町3丁目58番地 Tel. 052-880-0370 劇団の公式サイトを見た感じでは、 「芸術的な」感じの劇団かなあ、と思います。 商業演劇っぽくないので、これで収入はどうなんだろう? 思いますが・・・ 比較的最近のドラマでは、 2010年、TBS系のドラマ 「ハンチョウ~神南署安積班」シリーズ3 第10話に 園田里枝という役で出演していますね。 1984年、大口広司は大麻所持容疑で逮捕され、 執行猶予付きの有罪判決を受け、会社から解雇されました。 そこで、妻の真行寺さんが、大口に対して資金援助を行い、 服飾会社「プラクティス・オブ・サイレンス」を設立します。 しかし、 共同経営者による社判の無断捺印で2度の不渡手形を出し、 1991年、「プラクティス・オブ・サイレンス」は倒産しました。 さらに、 夫の大口は、C型肝炎になり、高額の治療費が必要となります。 「一家のために一肌脱がねば」と、 決意してのことだったそうです。 ヘアヌード写真集の企画を携えて、真行寺さんは もともと所属していたアクターズプロモーションに復帰しました。 その後、仕事は入るようになりましたが、 喘息が再発し心身ともに疲弊していき、 2001年には借金を抱えたま、夫の大口と別居します。 沢渡朔撮影による『I LOVE YOU』を出版。 2005年6月、大口との離婚が成立。 翌年2006年に自己破産しています。 この「場の研究所」って 宗教、ではないんだと思いますが、 自己啓発関係な感じがします。 現在28歳くらいでしょうか。 php on line 5.
次の