『力なき者たちの力』の訳者である阿部賢一も指摘しているとおり、ハヴェルの文章には、独特のクセがあって少々取っつきにくい。 しかし、これは見逃してはならない重要な点であり、これを無視してハヴェルの思想を理解するのは不可能である。 ハヴェルはチェコスロバキアの裕福な家庭に生まれたが、第二次世界大戦後、祖国が社会主義国家となったため、国家の干渉によって、行きたい学校に行けず、就きたい職業に就けない、という苦い経験を強いられた人である。 社会主義の理想は、差別のない平等な社会だから、金持ちが自分たちだけ好きに生きることを、決して容認しない。 逆に、金持ちだからこそ、実学を学び、額に汗する労働に従事せよ、お前たちは特権階級じゃない、ということで、金持ちの子弟であるハヴェルは、政治的な抑圧を受けて育った。 チェコスロバキアが、第二次大戦後に社会主義国家になったのは、大戦勃発前、ヒトラーの要求に妥協した「ミュンヘン協定」によって、イギリス、フランス、イタリアに裏切られた、という意識があったからである。 つまり、チェコスロバキアは、ソ連によって無理やり社会主義化させられた国ではなく、自由主義体制国家の現実に失望し、社会主義の理想に期待して、社会主義国家体制を選んだ国だったのだ。 ところが、やがて社会主義体制の通弊として、経済が疲弊し始める。 みんな平等に分配されるのなら、自分が頑張らなくてもいいや、ということになるからだ。 そこで、それまでは力づくで平等平板化を強制してきた政府は「人間の顔をした社会主義」を目指す、という方向転換をはかる。 要は「画一平等主義の強制」ではなく、「個人が自身を表現して、みんなの社会を活性化させる、本当の意味での社会主義」を目指そうとした。 これが「プラハの春」である。 ところが、ソ連をはじめとした社会主義陣営(東側陣営)は、これを許さなかった。 すでに資本主義体勢(西側陣営)との「東西冷戦」下にあった世界において、チェコスロバキアのこうした方向転換は「西側化」と理解されたからだ。 「プラハの春」は、ソ連軍主導のワルシャワ条約機構軍による軍事介入により潰され、その後は傀儡政権による「(社会主義への)正常化」が行われ、以前よりもまして窮屈な、ソ連式の社会主義が押しつけられることになった。 こうした激動の時代の中で、「真実の生」に生きることを掲げ、「嘘の生」に生きることを拒絶したのが、ハヴェルであった。 ハヴェルの抵抗は、社会主義体勢の本家本元であるソ連自体が経済的に傾いて、社会主義国家が連鎖的に潰れていく中で、流血の惨事をともなわない「ビロード革命」へと結実する。 チェコスロバキアは、ついに自由主義国家となり、彼はその初代大統領となるのである。 ここで言う「ポスト全体主義」とは、「一人の独裁者の意志によって牛耳られる国家の全体主義」ではなく、「体勢そのものの自動運動と化した全体主義」というほどの意味である。 前者の場合は「支配する者と支配される者」という構図がハッキリしているから「支配者を倒せばいい」という分かりやすさがあるのだが、後者の場合は「倒すべき支配者としての個人(独裁者)」は存在せず、すべての国民のなかに「自動運動化した体制」が浸透しているので、それを突き崩すのは容易なことではない。 では、どうすればこの「自動運動化した非人間的体制」を突き崩すことができるのか。 それを書いたのが、ハヴェルの『力なき者たちの力』なのだ。 『力なき者たちの力』の内容については、訳者である阿部賢一の『100分de名著 ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』』がとてもわかりやすいので、そこに書かれていることを、ここで繰り返すことはしない。 私がここで強調しておきたいのは、「文体の必要性」ということである。 ハヴェルの文体が、螺旋を描いて進むような独特の晦渋性を持つのは、彼が生きた困難な状況によるものだと言っていいだろう。 とうてい倒せそうもない「自動運動化した体制」と闘うには、とおりいっぺんの「賛成・反対」や「建前的な標語(キレイゴト)」では、まったく不十分だったからだ。 と言うのも、「自動運動化した体制」とは、誰もが逆らいにくい「建前的な標語(キレイゴト)」を押しつける体制だからであり、それに対して、同じような「建前的な標語(キレイゴト)」をぶつけても、何の効果もないどころか、相手の論理に回収されてしまうしかないからである。 だから、ハヴェルは、そうした「言語の儀式化(空疎な形式化)」による「自発的な動き(オートマティズム)」を批判し、人間が人間として人間らしく生きるという「真実の生」を取り戻し、本当の意味での、人間として「威厳ある生活」を、抽象的な「あそこ(未来のどこか)」ではなく、「今、ここ」において取り戻さなくてはならない、と主張した。 そうした「人間の秩序」というものは、なにか「人間を人間以上のものにするようなもの」ではなく、まずは「人間らしさ」を守るものとして「防衛的性格」を持ったものであると主張して、反対しにくい「建前的な標語(キレイゴト)」を掲げて「異論」を押しつぶそうとする「自動運動化した体制」に抵抗し、そうした「空疎かつ強固な政治体制」を、「人間的な言葉」で浸食することによって、突き崩そうとしたのである。 つまり、私たちが「画一化を迫る権力機構」に抵抗しようとした場合、最も大切なことは、「紋切り型」の「建前的な標語(キレイゴト)」を掲げて「正義の味方」を演じ、それに「酔う」のではなく、徹底して「私の生」に生き、それに生きる権利を要求する、ということなのだ。 そして、そういう生き方には、自ずと(嫌でも)「文体」が顕われるということなのである。 ハヴェルの「文体」がそうであったように、「人間の多様性や自由」を抑圧し搾取しようとする「紋切り型の正論」に抗うためには、当然のことながら、「建前的な標語(キレイゴト)」という「便利な権威」に依存しない、その人なりの「個性」という立脚点が必要だ。 その人自身に主張すべき「個性」が無ければ、「人間の多様性や自由を!」などと叫んでみせたとしても、それは所詮「建前的な標語(キレイゴト)」であり「虚しい空言」でしかない。 だから、例えば、ハヴェルの『力なき者たちの力』を読まずして、阿部賢一の『100分de名著 ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』』だけを読んで済ませ、それでハヴェルを理解したような気分になれる人というのは、基本的にハヴェルを「理解できない人」だと考えていい。 また、ハヴェルの『力なき者たちの力』を読んだとしても、それを語るのに、阿部賢一による「適切な解説」を「右に同じ」と書き写すような「解説」をする人も、ハヴェルを理解しているとは言えないだろう。 ハヴェルが訴えているのは「私という弱い人間」の現実から出発することであり、それが「真実の生」を生きるということなのだ。 私たちが、私たち自身の「弱さ」を隠蔽して「賢い人」や「立派な人」を演じたいと思う、その心の隙に「建前的な標語(キレイゴト)」が食い込んできて、いつの間にか私たちは、「自動運動化した体制」に組み込まれた「無思考のロボット」になってしまう。 ハヴェルは『力なき者たちの力』の最終節を、次のように書き起こしている。 『 自分が傲慢になっているのではないかと幾度となく感じるので、前節は、個人的な考察のテーマとして留めておくことにする。 以下は、問いかけの形のみで記したい。 』(P119) 自分は「傲慢」なことを言っているのかもしれない、と疑う「知性」。 それがあるからこそ、ハヴェルには「独特の文体」がある。 あの螺旋を描いて進むような、多面性を有する、慎重な「文体」となっているのだ。 だからこそ、上滑りに「自動運動化」した文体、「建前的な標語(キレイゴト)」を並べ立てて「これに異論は立てられまい」という傲慢な権威主義には、陥らないのである。 「それなら、そう書いているおまえ自身はどうなのだ」と言われそうだが、無論、私自身は「非凡に傲慢」な人間だろう。 だからこそ「凡庸に傲慢」な人間の「無自覚」を、問題としているのである。 真に「傲慢」な人間は、「謙虚」でもある。 見かけ上「謙虚」な人間は、しばしば内面的には「傲慢」である。 だが、どちらにしろ、それを意識している人間は「独自の文体」を持たざるを得ないが、自覚のない人間の「文体」は、「個性」を欠いた、一本調子にならざるを得ない。 その実例が、「ネトウヨ的文体」であるとか「サヨク的文体」という「自動運動化した(ロボット的な)文体」なのである。 さて、あなたの「文体(思考様式)」に、「個性」はあるだろうか。 ある程度の定義をしてから書かれるべき、あるいは解説を付けたほうが良い重要な用語が突然現れたり(「訳注」はあるのですが)、文と文との順番を変えたほうが分かりやすかったり、理解しやすくするために日本語を付け加えたほうが分かりやすくなる部分が多くあります。 それは勿論訳者の阿部氏の責任に帰せるものではなくハヴェルの文体の特徴によると思われ(原著は読んでいませんのであくまでも推測ですが)、それをどこまでかみ砕いて訳すかは難しい問題です(例えば詩の翻訳を思い浮かべるとイメージしやすいと思います)。 ただしハヴェルを文体を含めて理解させるのではなく、『力なき者たちの力』の内容そのものを分かりやすく理解させるのであれば、直訳ではなく思い切った意訳にして、多くの人が読みやすい本にしてもらえればより良かったような気がします。 そうした問題はあるとして、本書は悪しき権力とはどの様なもので私たちはそれにどの様に立ち向かうか、現在の日本に生きる私たちにも幅広く重い課題を提示しています。 資料として「憲章77」も載せられています。 内容は『NHK 100分 de 名著 ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』』で分かりやすく解説されています。 この解説書がなければ私などの専門外の人間は読み終えることを諦めていたと思います。 先に解説本を読むのがお勧めです。 直訳版と(大胆な)意訳版があっても良いかもしれません。 チェコの劇作家であり、後に大統領となるハヴェルのエッセイである。 本書はチェコの共産党独裁を転覆させたビロード革命という民主化革命の礎となった。 とはいえ西側や東側といった違いにはあまり触れていない。 むしろ権力構造という西側にも東側にも同様に存在するであろう仕組みについて言及する。 目的のために権力は嘘を正当化し、人々は体制から与えられた「嘘の生」を受け入れ、個人による具体的な生... 「真の生」の可能性を自ら排除する。 ハヴェルは、このように嘘をもたらす権力に対して、力なき者たちの「真の生」に基づいた誠実な職務や消費行動、芸術活動、ネットワークが権力構造に違和感を与え「ポスト全体主義」を打開する契機を生む可能性を秘めているという。 「青果店の店主は『全世界の労働者よ、一つになれ!』というスローガンをショーウィンドウの玉ねぎと人参の間に置いた」という行動が、彼を守ってくれるという現実を出発点に、その意味や権力と服従の関係性を読み解いていく。 今、福島では「復興」という名のもとに、大量の金が投じられて、立派な町役場・スポーツアリーナ・高速道路・鉄道駅・イノベーション施設が建設されている。 けれども、そこにいた人たちは避難生活で疲れ果てている。 しかし、「復興」路線に乗って行かない人々は切り捨てられ、声を上げれば身内からも責められる。 赤の他人から非難されることは耐えられるが、身内からの非難は耐えられない。 そうして、「明るい未来」を信じないけれども半ば信じて生きるしかないと思う。 この本の言葉は東欧の話というよりは、現在の日本の話なのだ。
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次の100分de名著「「力なき者たちの力」「第1回「嘘の生」からなる」」 毎月1冊ペースで、名著を紹介する番組、たまに見ています。 司会はさんとアナウンサーです。 今回の本は「力なきものたちの力」 1970年代、東欧ので書かれた、批判の本です。 今月上旬から見ているのですが、解説者の先生の言葉が難解で、番組を見てもスッと理解できず、 なかなか記事にまとまらなかったです… しかしながら、現代の「」に通じる問題を提示している気がして、 ついつい見ていました。 というわけで内容をメモしておきます。 まずこの本について。 「力なき者たちの力」の著者は。 1989年は、崩壊、東欧諸国の革命などたくさんあって激動の年でしたが (日本でも、がされた年でした) では「」と呼ばれる革命が起きた。 その中心人物がハヴェルだった。 革命後は国民に推され、大統領にも就任したそうです とはいえ彼は政治家ではなく、元は戯曲家だった そして、彼の著したこの「力なきものたちの力」が、 革命の原動力となったのだそうです。 この本の指南役はさん、文学者の方でした。 阿部さんはハヴェルが大統領だった時代、当時のに留学されていたそうで、 ハヴェルはどんな方でしたか?と聞かれ、 「毎週日曜日に、国民に語り掛けるラジオ番組を持っていました 国民に親しまれていましたね」とおっしゃっていました。 しかし、単に受け身になるだけではなく、 1968年には「」と呼ばれる革命が起きた この時はを壊すのではなく、 体制は維持しつつ「人間の顔をした」を目指す、というもの 検閲の全面転機中止などが行われる しかし、この運動が広まることを恐れたを中心とした、に弾圧されてしまう このあと、いわゆる「正常化の時代」と呼ばれる時代が来る 伊集院さんは「革命が正常じゃなかった、って、なんか皮肉ですね」 このときのことを、フランスに亡命したという方がこのように書いている 「国民を厄介払いするために、まず国民から記憶が取り上げられる。 国民の書物、文化、歴史などが破壊される。 そして誰か別の者が、彼らのために別の本を書き、 別の文化を考え、別の歴史を考え出してやる。 やがて国民が現在の自分、過去の自分をゆっくり忘れ始める」 (「笑いと忘却の書」より) 伊集院さん 「ふつうなら、これはダメ、とか言われると、逆にはっきり覚えられるけど、 「ゆっくり」忘れちゃうもんなんですね」 文化や歴史、書物などが書き換えられていくことにより、 国民は、自ら自分のを忘れてしまう… 阿部さんによれば、 この時代、当局での検閲もあったものの、 「興味深いのは、国民から自己規制、相互監視が出てきたこと」だ、と。 ハヴェル自身も、大学進学のとき、本当は人文学を学びたかったが、 に入らされたそうです。 1963、ハヴェルは戯曲家としてデビューする しかし「正常化」の時代となり、自由に活動できず、 当時のフサーク大統領に文化活動規制への抗議の書簡を送っている 「文化が規制されることにより、 将来民族の精神、倫理面での能力が、どれほど深刻に失われることになるか」 「現在の権力の利益のために、 民族の精神の未来を犠牲にした人々の歴史的罪は、その分重いものとなる」 こういう行動をとっていたので、ハヴェルは何回も反体制派として逮捕されるが、 その中で書き上げたのが「力なき者たちの力」 地下出版扱いの本だったが、人々に広く読まれ、勇気を与えたそうです この本を書いた10年後、で「」がおき、 その後大統領に就任した彼は、こんな演説をしている(映像も残っていました) 「政権は、私たちを抑圧しました。 しかし我々のように自由を求めるものは、そんな抑圧に負けず、 自由に意見を表明できる社会を作るために、 新たなスタートを切ろうではありませんか」 ずーっと「異論を唱えられる世の中を」と主張していた人だったのですね。 〇ディシデントが歩いている この本は、以下の文章から始まっている 「東ヨーロッパに幽霊が歩いている。 西側で「ディシデント」と呼ばれる幽霊が」 阿部さんによると、冒頭の一文は「」のオマージュなのだそう 、が共著の「」の冒頭は 「ヨーロッパを幽霊が歩いている、「」と呼ばれる幽霊が」で始まるそうです。 この表現を借りることで何が言いたかったかというと、 当時「」が出されてから、革命がおこり、ロシアもとなった つまりそれだけには、社会を変える力があった。 ディシデントもそれだけ社会を変える力があるに違いない、ということを暗に表現している、と。 阿部さんは、 「同時に、ディシデントは見えないものだ、ということも言っています」 〇「」が故郷を差し出す では、ハヴェルが変えたかった社会とはどんなものだったのか? それは当時の「ポスト」だそうです。 ふつうというと、の独裁のように、 、ピラミッド的な構造を思い浮かべるが、 この時代はそれとは違うである、 「」が根幹をなす「ポスト」だ、とハヴェルは言っていたらしい。 阿部さんによると、 「と言っても、政治的な主張ということではない」 ではとは何かというと、ハヴェルはこのように書いている 「寄る辺なさや疎外感を感じ、世界の意味が喪失されている時代にあって、 このは、人々に催眠をかけるような、特殊な能力を必然的に持っている。 さまよえる人々に対して、たやすく入手できる「故郷」を差し出す能力を持っている」 …なんか難しい表現だが、 阿部さんによれば、疎外感を感じる人々に、 居場所や故郷を人々に提供するのが、「」である、と。 「ただし、そのためには対価を支払わねばならない、とも言っている」 その対価とは 「理性」…自分で考え判断すること 「良心」…自分の心が訴えること 「責任」…自分の行為に対する応答 伊集院さん 「を守ることで、この3つを捨てるということですね」 阿部さん 「自分で考えない、これはある種のだから、 という言い訳になっているんですね」 伊集院さん 「…たとえばのグループで、青の色大好き会に入ってて、 でもこれ厳密に言えば紺じゃね?と思っても、 いや、ヤバイ、はじかれるから、俺青嫌いじゃないし、まあ青にしとこう、 ていうのが理性を捨てた状態で、 あと、青い服嫌いな人を入れてもいいんじゃない?と良心が言ってきても それを言い出せない、みたいな…」 阿部さん 「責任とは、英語でresposibilityというんですが、response、は応答ですよね」 …これを見ていて、 「」の過激派、団などが思い浮かびました。 でももっと身近な例でいえば、学校でのいじめグループとか、伊集院さんの言うグループもそうかもしれない。 みんなに仲間に入れてもらう代わりに、 自分の頭で善悪の判断もせず、良心の痛みも無視して、自分の行為も省みない… 「だって「」がそうやれって言うんだから、しょうがない」と思ってしまう、みたいな… 〇「私」が主語ではないスローガンを掲げるのが「」 このを、ハヴェルはの店主のたとえで説明している といっても、単なる八百屋さんではなくて、 当時のでは、 お店はみんな国営で、店主がれなどを自分の一存では決められないような環境。 その環境では、政治的スローガンを店先に掲げろ、と言われても、 受け入れるしかない、という状況が前提のお話です。 「の店主は、「全世界の労働者よ、一つになれ」というスローガンを ショーウィンドウの玉ねぎと、ニンジンとの間に置いた。 なぜ彼はそうしたのだろうか。 こうすることで、世界に何を伝えようとしたのか。 世界中の労働者が団結つするという考えを、本当に熱狂的に支持したのだろうか。 どうすれば労働者が団結し、それが何を意味するか、ほんの一瞬でも考えただろうか?」 たぶんみんな何も考えてなくて、 みんなやってるから、とか、断ると面倒なことになりそうだし、 この体制下では従わないと、自分が抹殺されるし…と思ってやっている。 しかしハヴェルはそういう行為の意味を改めて問う。 スローガンの主語が「私」だったらどうか、と。 「もし「私は恐怖心を抱いているので、ただただ従順なのです」 というスローガンをショーウィンドウに置くとしたら 店主はスローガンの意味するものについて、無関心ではいられないだろう」 もしこんなスローガンをおけば、「店主はためらうし、恥ずかしく思うだろう」と。 阿部さんによれば、 スローガンの主語である「全世界の労働者」とは記号のようなものなのだそうです。 それが、「「私」という主語を隠してしまう」 そうなると、自分の主張ではなく、他人が言っている話みたいに見えてくるので、 何のためらいもなくスローガンが置けるようになるのだろう。 一方で阿部さんは、 スローガンは自分の部屋ではなく、店頭に置く。 店先に置くことで、自分はに従っていますよ、 というしるしになっている、とも指摘しています。 伊集院さんは 「愛は地球を守る、とか言うスローガンもそうですよね。 愛は地球を救うんだ、と出てくるといいことのように思えてくる。 最近でいうと絆、という言葉。 いろんな言葉から「絆」を選ぶのはいいと思うんですけど、 自然とあれを掲げればいい、という言葉になっちゃうと、恐らくこれに近いものになる」 自分が本当に思っている言葉ではなくて、 記号が主語の言葉、みんなが「この言葉いいでしょう?」と押し付けてくるような言葉は、 になってしまう、と。 「愛」は本来素晴らしい言葉のはずなのに、この文脈だとある意味押し付けられた、暴力的な印象を受ける。 阿部さんは 「そこには「私」の意見が出しにくくなる。 大きな主語じゃないと世間には通用しないとなってしまう」と。 もはや、誰の言葉なのか分からなくなってくる… 〇日常化したスローガンが「圧力」になっていく 一方、ハヴェルは、スローガンの効用にも言及する 一見、スローガンの言葉自体にそんな大した意味が無くても、 店頭に掲げることで力を持つことになる、と。 主の示した公的な要求は、一見したところ無意味であるように見える。 誰もそのスローガンに気が付きもしない。 しかし、同じようなスローガンがそこかしこにあり、それがもはや日常の風景となってしまっている、 …というようなことをハヴェルは述べる。 そして、みんなが気づかないがゆえに 「この風景は、全体としてよく意識されている」とも述べている ハヴェルは続けて のスローガンを眺めている女性も、 何も考えず、自分の仕事場にスローガンを掲げるようになるかもしれない、と言っている。 そして、ほかの店やほかの職場でも、みんななんとなくスローガンを置くようになる… 日常の風景がスローガンだらけになり、 見慣れたスローガンを通して、誰もがなんとなく「ゲーム」を受け入れている状況になっている。 そして、互いに権力を受け入れるよう強制しあうようになる。 … そういう状況を生み出すのが「スローガン」なんだ、と。 「両者がスローガンに対して無関心である、というのは錯覚に過ぎない。 現実には、スローガンを通してゲームを受け入れ、 そうすることで権力を認めるよう、互いに強制しあっている。 つまり互いに従順であるよう手を差し伸べているのである」 「2人はともに支配される客体であるが、 同時に支配する主体でもある。 体制の犠牲者であると同時に、 その装置になっている」 「2人」というのは、スローガンを掲げている人と、スローガンを見る人、の事ですね。 どちらもスローガンの文言自体には、さして注意を払っていないけども、 どちらもスローガンを当たり前のものとして受け入れていくことで、 「受け入れないなんてことないですよね?」という状況をなんとなく、 互いに作っていく、ということですね。 このように、体制から要求されていることを、自ら察知して自発的にやってしまうことを ハヴェルは「オートマティズム」と呼んでいるそうです。 阿部さん 「平たくいうと、忖度、空気を読むということ。 ここで怖いのは、ありとあらゆる人が システムの中でこれを無意識にやっていることだ、と」 伊集院さんは 「の話になると、みんな全員やらされてる感の怖さの話になる。 でもじゃあ誰が始めてるんだ、となると…」 阿部さんは 「特定の誰かの責任ではなく、全体のシステムの問題になる。 ちょっと長いんですが、迫力ある文章なので引用しておきます。 「このようにして、ポスト体制は、 人間が一歩踏み出すたびにしてくる。 もちろんという手袋をはめて。 それゆえ、この体制内の生は、偽りや嘘で塗り固められている。 表現の不自由は、自由の最高の形態となる。 選挙の茶番は、民主主義の最高の形態となる。 権力は自らの嘘にとらわれており、 そのため、すべてを偽装しなければならない。 過去を偽装する、現在を偽装し、未来を偽装する。 統計資料を偽装する。 全能の力などない、と偽り、なんでもできない警察組織などない、と偽る。 人権を尊重している、と偽る。 誰も迫害していない、と偽る。 何も恐れていない、と偽る。 何も偽ってない、と偽る。 それゆえ、嘘の中で生きる羽目になる」 伊集院さん 「なんか、このに従え、と言われて従っちゃうもんだ、と思っていたけど みんな自主的に埋まっていくようになっているんだ… を分かっていたようで、僕は分かっていなかった」 阿部さん 「ハヴェルは、ポストの特性は、 消費社会の特性だと言っている。 スローガンを掲げれば、当局からの介入を逃れて取りあえず給料をもらえる。 良心、責任という倫理的なものと引き換えに、物質的な安定を入手している、と言える。 言葉を変えるとですよね。 ほんとのことがあっても言えなくなってしまう」と。 …私はこのくだりを見ていて、現代の色々な体制のことを考えてしまいました。 例えば現代の中国の若者。 「激動の世界を行く」という番組で見たのですが、 最近の若者は、当局批判は控え、政治的話題自体も「ちょっとそれは…」と自ら避ける。 しかし、それは誰かにやれと言われているわけでも、脅迫を受けているわけでもなく 互いに自己規制してしまっている。 それが生まれたときから染み付いている、という感じに見える。 「豊かな生活ができるならそれでいいじゃない」と。 倫理的なものと引き換え、とまで言い切れるか分からないが、 少なくとも物質的な安定のために、意見を言う自由を放棄しているように見える。 まあ、でももっと小さいグループでも、日本でも、似たようなことはあって、 たとえば過激な宗教団体から抜けられない人とかも、 その組織での地位の安定のために、教祖が素晴らしいとかいうスローガンを互いに掲げて、 互いに監視しあっているのかもしれない。 あといじめっこグループに入ってしまった人たち (ちょっと前に、大人の教師たち同士のいじめ問題がありましたが…) 自分がいじめられる側にならないために、「おかしいよ」と言えずに 互いの監視に加担してしまう、ということになっている、… そう考えると、どこにいてもどの時代でも生まれそうな状況だな、と感じました。 特にうまくいっているように見える組織や団体にこそ、 その組織での「当たり前」「常識」というがありそうで怖い。 みんな、今の物質的な豊かさ、心地よさを失いたくないがゆえに、 「なんかこれおかしくない?」と言い出せない、みたいな。 みんなやってしまうのは恐ろしいもので、どんどん嘘の上塗りになっていく」 「でも良心の気づきはどこかにあるはずで 少なくとも、いろんな意見、違う意見を聞ける、 発言できる機会があるかないか、は大事だと思います」 …「なんかおかしい」「しんどい」と思った時に、互いにそれが言い合える雰囲気。 対話できる機会があることが大事だ、とおっしゃっていました。 というわけで2回目は「真実の生を生きるために」どうするか、のお話です。 amagomago.
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