略歴 [ ] 1929(昭和4)年、父今井文平、母信子(または信、五女)の五男として東京に生まれる。 兄に今井兼一郎(元日本機械学会会長)がある。 元外務大臣、元運輸大臣兄弟らは従兄弟にあたる。 旧制東京府立高等学校から、理学部数学科卒、フレッチャー法律外交大学院 M. A およびハーバード大学院国際関係学修士 A. 朝日新聞記者(水戸支局)。 株 技術部長、首席研究員。 クウェート大使、ジュネーヴ国連軍縮会議日本政府代表部特命全権大使、メキシコ大使などを務めたのち、杏林大学社会科学部教授、原子力委員会参与を務めた。 工学博士(原子力工学、東京大学)。 著書 [ ]• 『科学と国家 ビッグ・サイエンスの論理』1968• 『核燃料時代 巨大科学から巨大産業へ』 1970• 『国際査察』 1971• 『核利用時代の発想』 1973• 『「核」と現代の国際政治』日本国際問題研究所 国際問題新書 1977• 『核新時代とエネルギー戦略』 現代エネルギー選書 1979• 『核軍縮 軍備管理の実態』 1987• 『民間大使覚え書』電力新報社 1988• 『武器の逆襲 冷戦後の核管理をどうするか』東洋経済新報社 1992• 『IAEA査察と核拡散』 1994• 『科学と外交 軍縮、エネルギー、環境』1994 中公新書• 『広島、長崎から半世紀、核の現状と展望 20世紀を支配する4つの妖怪について』世界平和研究所 1995• 『核兵器とは何か 核廃絶のために』エネルギー政策を考える会 1996 共編著 [ ]• 『あすの原子力』共著 日本工業新聞社 1971• 『原子力と人間の環境』共著 日刊工業新聞社 1972• 『国家意識なき日本人』今井等談],企画監修: 高木書店 日本の将来 1976• 『核兵器解体 恐怖の均衡から「平和の配当」へ』共編著 電力新報社 1993• 『ポスト冷戦と核』,共編 1995• 『脱「2010年の危機」 世界のエネルギー安全保障のために』ウィリアム・F. マーチン,ヘルガ・スティーグ共著,日米欧委員会編 日本電気協会新聞部 1997• 『新しい世界像 グローバリゼーションへの理論的アプローチ』共編著 世界平和研究所 1998• 『冷戦後の東アジアと軍備管理 日米共同研究プロジェクト最終報告書』共編 国際文化会館 1999 翻訳• 『日記』全3巻 末田守共訳 1968-69 論文 [ ]• 脚注 [ ].
次のいまい のぶお 今井 信郎 生誕 1841-12-02 下(現・) 死没 1918-06-25 (76歳没) 、 現・静岡県 国籍 別名 為忠 職業 、、職、、農事会会長、、 子供 克 、信夫、、守武 今井 信郎(いまい のぶお、12年() - 7年())は、末期()から初期の()、活動家、、農事指導者、活動家、。 今井は江戸に育ち、5年(1858年)、18歳で剣術の道場に入門、免許取得後のの任に就いた。 3年(1867年)5月、への入隊を拝命、副隊長として佐幕活動を行い、同年11月15日に発生したに関わった。 明治3年(1870年)2月、嫌疑をかけられ身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移され取り調べを受けた。 今井は、暗殺の詳細を証言、自分は見張り役として参加し手は出していないことを語った。 同年9月、禁固刑の判決を受け、静岡で謹慎後、明治5年(1872年)1月に赦免された。 今井は静岡を生活の基盤にし、の跡地を入手、学校の経営を始めた。 農業実習から訓練にいたるまで広範に教授した。 しかし、新政府にかつての履歴を危惧され、学校は後に無償で用地として明け渡された。 明治8年(1875年)、静岡県に出仕し、翌9年、静岡県の所轄下のへ赴任した。 八丈島で教壇に立つ職員に、自らの理想や理念を伝えた。 在島期間1年2ヶ月あまりだが、大賀郷小学校、樫立小学校が開設された。 『』の「島の教育通史」のなかで、「静岡県吏今井信郎氏が来島、学制の改革を行い、教員を啓蒙し学校教育を進展させた」と、今井の功績を称賛している。 明治11年(1878年)、大井川南方の一帯の地域である旧榛原郡初倉村(現・静岡県島田市)に、生活に移行するとともに、キリスト教に帰依した。 島田へのキリスト教伝来は明治20年(1887年)とされており、カナダ人のF.A.カシディが、島田町長らの歓迎のもと、から島田在住の信者宅を訪問したことがその起点となった。 今井の洗礼時期は不明だが、日本教会監督のから洗礼を受けている。 明治14年(1881年)、信仰生活を送るかたわら、農事改良を推進するため榛原郡農事会会長に就任した。 明治28年(1895年)、榛原郡農会と改称されたが、明治34年(1901年)までの20年間、会長職を勤めた。 明治34年(1901年)、学務委員就任、入植地の初倉尋常小学校の教育に関わった。 明治22年(1889年)より3回、村会議員に当選、明治39年(1906年)から3年間、初倉村長を勤めた。 生涯 [ ] 幼少期 [ ] 今井信郎為忠の先祖は、に従ってより移住したのの出で、本家は本郷春木町にあった。 祖父武左衛門の代に分家して一家をたて、本郷の前田邸近くに住み、指南をしていたが、武左衛門は早世、その娘に養子を迎えて跡を継がせた。 今井信郎は、天保12年10月20日(1841年12月2日)江戸本郷湯島天神下(現)で、(文化5年(1808年) - 明治4年(1907年)10月26日)の長男として生まれた。 3年(1850年)、10歳でして為忠と名乗る。 この年より湯島のに出仕し、や絵画などを学んだ。 嘉永、と世の中が騒がしくなるにつれ、文事を捨て、に専念するようになった。 5年(1858年)、18歳の時、下谷車坂のの門に入った。 榊原は講武所の教授も兼任しており、「術は講武所第一の達人」と同時代の史料に記録されるほどの卓越した技量を持っていた。 榊原の指導のもと、今井の技量は冴え、僅か3年の修業で免許の腕前となり、のの任に就いている。 「今井は、武芸を始めてから、だけでなく、、、、、、なんでも20種類とか30種類習った、武芸だけはよく出来たようです」信郎姉、森けい氏談。 「親父が亡くなる前、ずいぶん痩せたなと思って、骨と皮だけの腕に、自分の腕を比べてみると、それでも自分の腕の2倍ほどあった。 のが奉納した額に、父のが掲げてあった、その額には、榊原門下の第二位に父の名が出ていた」信郎次男、今井信夫氏談。 「父は五尺六七寸位あった。 骨太で、実に頑丈な体をしていた。 柔術の稽古をしている頃は、各所の道場を廻り、粥をすすりながら稽古をしたそうです。 当時、番町にとゆう槍術の師範がいて、その未亡人にあったところ、ある年の正月、あなたのお父さんがたいそう酔ってみえて、稽古をつけてやるといって門人たちが目茶苦茶に打ちのめされた、実に困ったと話されたことがある」信郎三男、今井健彦氏談。 今井のもっとも得意としたのは、独自の修練により編み出した「片手打ち」、猛烈極まるものであった。 の某剣士と試合をしたとき、この一撃で相手の頭を割ったので、以来、師匠榊原から片手打ちを封じられた。 元年(1864年)、24歳のとき、が兵を挙げた。 今井は、水戸藩士と交友があった関係から嫌疑を受け、講武所を去って所取締役の配下に転じ、の指南を受け、横浜の関税係を勤役の傍ら、剣道師範に携わった。 同地には先輩がおり、歩兵頭として英国の赤隊に模した操練をさかんにやっていた。 今井は、ここで古屋と莫逆の交わりを結んだ。 甲州天野家の女いわを娶ったのも古屋の媒酌だった。 佐幕活動 [ ] 慶応2年(1866年)の春、から招聘され1ヵ年の契約で赴任、剣道師範に携わっていたが、翌年の慶応3年(1867年)5月、江戸で京都見廻組への入隊を拝命、同年10月に着京した。 そして、選抜され京都見廻組頭となり、今出あたりに旅宿を構えていたが、その腕前はたちまち組じゅうに知られ、新選組では、見廻組では今井信郎と並称されるようになった。 今井は、京都で公務に邁進する過程で、ほどなく坂本龍馬暗殺事件に関わることになる。 慶応3年(1867年)11月15日朝、桑名藩士で見廻組の一員であるが今井の寓居を訪ねてきた。 二人でなにかヒソヒソ話していたが、やがて今井は、蓑をつけ、竹の小笠をかぶり、地面に引きずるような朱鞘の長刀をさし、妻いわに「ちょっと行ってくるよ」と言い、渡辺と連れ立って出かけた。 その日は朝来の曇り空で、時々しぐれ雨が寒々と降り過ぎるような天気であった。 妻いわは、今井の扮装を見て、てっきり斬込みに行くものと思い、不安な思いで待っていたが、遂にその夜は帰ってこない。 翌日になっても姿を見せない。 殺されたものなら、誰かが知らせてくれるだろうと度胸を定めていたところ、今井は、懐ろ手をしてブラリと帰ってきた。 無言のまま部屋の隅に行き、後向きになって何かコソコソしている。 ソッと覗いてみると右手の包帯をとき、か何かで消毒している。 「どうしてお怪我なさったのか」と訊くと、「よけいなことをきくに及ばん」と叱りつけ、ひどく不機嫌である。 そのまま黙って捨てておくより外なかった。 それより二十数日後の12月9日夜、小御所会議において、を後楯とするの強行により武断的大政変が行われた。 の辞職聴許と共に退官納土の内諭を下され、会桑両藩は禁門の警衛を解かれた。 上下大混乱のなか、12日夜、慶喜は倉皇としてを退き、へ退いた。 あとには幕府側の遊撃隊、新選組、見廻組、津、大垣の藩兵などが二条城に籠り、反薩長の気勢をあげた。 今井も二条城に詰め、数日間自宅に帰らなかったが、ある朝早く妻いわの寝ているうちに帰ってくるなり、「これからすぐお前だけ江戸へ帰れ。 早く荷拵えしろ、俺も手伝ってやる」と急ぎたて支度させた。 その時、長刀と一通のを妻いわに與へ「これでもって俺が坂本と中岡とを斬った。 榊原先生にお目にかけてくれ。 これは守護職から賜った褒状だ」といって、はじめて真相をうちあけた。 話によれば、坂本龍馬がのに会って帰って以来、見廻組で彼の身辺を監視していると、しきりに何か策謀しているらしい。 捨ておいては何をするか判らない、斬ってしまえというの命で、がその衛にあたる事になった。 慶応3年(1867年)11月15日、龍馬暗殺の当日、佐々木唯三郎の下には、今井信郎、、、、、の6名、連れ立って坂本の宿屋附近までやってきた。 八ッ時(午後2時頃)、まず京都の与力の桂隼之介を先行させ、在宿の有無を探らせたところ、不在とのことで、一同しばらく東山辺で時をかせぎ、夜になるのを待った。 五ッ時(午後8時)近く、四条大橋にさしかかったと時、丁度雨はやんでいたので、佐々木は一同に命じ、蓑傘を脱いで橋下に投げ捨て、各自の袂や懐中を探って、後日の証拠となるような品を投機させた。 そこで斬込み順番の籤を引くと、今井は第三番にあたったので、大不平でやりなおしを強要し、今度は第一番にあたった。 河原町三条下ル近江屋の前にくると、今井は単身先に立って、表戸を叩き、案内を乞うた。 二階から取次におりてきたのは、以前雲井龍と称した相撲上がりの下僕藤吉である。 これは海援隊書記長岡謙吉の僕であるが、警衛の意味をも兼ねて数日前から坂本につけてあった。 今井は用意してきた手札を出し、「松代藩の者であるが才谷先生はお在宿か」と尋ねると、「一寸お待ちください」と云って藤吉は手札をもち、二階へ上がろうとする。 お待ちくださいとゆうからには、在宿に決まっていると思ったので、階段を上がりかけた藤吉を、いきない背後から抜打ちに斬り倒した。 そして刀を一旦鞘におさめて、何食わぬ顔をして二階へ上がっていった。 二階八畳の間には、火鉢を囲んで二人の武士が話しをしていた。 どちらが坂本か、全然顔を知らないので咄嗟の機転で部屋に入るなり膝をつき、「坂本先生、しばらく」と挨拶し、左手で鯉口を切りながら膝行り寄った。 坂本は、「どなたでしたかな」と言って、顔をさしよせるようにした。 瞬間、今井の刀は掛声と共に鞘走って、坂本の脳天を横に拂った。 右手にいた中岡は、脇差をもって立ち上がろうとした。 そこを今井は立ち上がりざまに斬りつけた。 中岡は脇差を抜く暇なく、鞘ごと両手で頭上に捧げるようにして受けたが、受けきれなかった。 今井は、叩きつけるように数刀を浴びせ、中岡を斬り伏せた。 その間に、坂本は背後にあった太刀をとり、既にヨロヨロしながら、引き返して来ようとしていた。 それと見て今井は、踏み込むなり肩先から大袈裟に斬った。 その時坂本は、何ともいえぬ悲惨な、泣くような悲鳴をあげたので、「この意気地なし奴」、叱咤しながら又一太刀横に拂った、坂本が提げていた刀の鞘を削り、腰のあたりに斬りつけた。 部屋に入ってからほんのニ三分の間のできごとである。 「父は小太刀の名人であったという定評になっているようだが、それは何かの間違いで、いつも引きずるような長刀を好んで差していた。 しかも古刀は駄目だ、新刀の重いやつに限ると言っていた。 坂本を斬ったのも新刀の長いやつで、天井につかえて困ったそうだ。 それを母が持って帰る時に、縦にしては籠に入らず、斜めにして持ってきたというから、よほど長かったらしい。 父の右手の人差指は、第二関節から曲がったまま自由が利かなかったが、誰の過失で傷いたものか、名前は言わなかった。 現場に刀の鞘を忘れてきた者がいたが、誰であるかわ言わなかった」信郎三男、今井健彦氏談。 坂本龍馬と中岡慎太郎とが、京都河原町三条下ル近江屋の二階で暗殺された時、現場に刺客の遺失した刀の鞘1本、および瓢亭の印のある下駄一足が残っていた。 これを証拠として、下手人は次のように推定された。 一、この鞘は、新選組のものである。 たしかに見覚えがあると、証明する者がいた。 一、中岡の記憶によると、刺客が坂本を斬る時、「コナクソ」と掛聲をした。 これは四国訛であり、原田左之助は松山の浪人である。 一、瓢亭に問合わせたところ、印入りの下駄を新選組の者に貸した覚えがあるとのことだった。 暗殺を策謀したのは新選組、直接下手人は原田左之助という見当がついた、その頃、公用方と新選組との間に、頻繁に交渉のあるところから見て、三浦の手引きに相違ないと決定された。 その後も、土佐方では新選組を坂本の敵と見なし、探索を怠らなかったが、何等確証も得られなかった。 を板橋で処刑する時にも、厳重糺問したが不得要領に終わり、当の下手人と目された原田左之助は、に投じて銃創を受け、本所猿江町の邸で死んでしまったので、手懸りが途絶えた。 慶応4年(1868年)1月、に敗れた後、今井は、江戸に戻ると、の訓練を担当していた古屋佐久左衛門と共に、脱走した幕府歩兵の鎮撫に当たり、後に組織されたの副隊長となり、においては最後のまで戦い抜いた。 捕囚 [ ] 明治3年(1870年)2月21日、今井は身柄をの伝馬町牢舎へ移された。 かねてからの嫌疑に加え、別に捕らえられた元新選組隊士が、「近藤勇が酒席で今井が龍馬を討ったと語っていた」、と証言したためだ。 厳重な取り調べを受けた今井は、龍馬暗殺の詳細を証言した。 今井は、龍馬を前年に伏見寺田屋で幕吏を射殺した刑事犯として、見廻組与力頭のらと公務で襲撃したこと、その際自分は見張り役として参加、手は出していないことを語った。 龍馬殺害について元隊士の取り調べが行われたが、いずれも新選組の関与を否定した。 大石鍬次郎が見廻組が実行犯であると自供したため、今井も取り調べを受け、自供することとなった。 『』明治2年4月15日条には松平勘太郎()に聞いた話として、今井が「佐々木唯三郎(只三郎)首トシテ」犯行に及んだことを自供したという記述がある。 この中では指示したものは佐々木よりも上の人物、あるいは榎本対馬()か、わからないと記述している。 明治3年(1870年)9月2日、今井は禁固刑、への引き渡しという判決を受けた。 直接手を加えていないが龍馬殺害にかかわったこと、その後脱走して官軍に抵抗したことが罪状とされている。 今井の証言をおさめた口上書は佐々木只三郎の指示により、佐々木、今井、、、、、の七人が近江屋に向かい、佐々木・渡辺・高橋・桂の4人が実行犯となって龍馬らを殺害したというものである。 殺害の命令があった理由については、の際に龍馬が同心二名を射殺したことをあげている。 今井はに命じられたとしているが、小笠原は一切関知していないとしている。 明治5年(1872年)、今井は、により釈放された。 その後、明治10年(1877年)、八丈島にいる頃、勃発の噂が伝わった、今井は帰国し、直ちに官職を辞すと同時に、警視局に志願、1等中警部職を拝命しての一員になった。 今井は伐倒隊として、県下の士族を率いて鹿児島へ赴き、向こうに着けばに加担し、新政府に一矢報いようとする魂胆であった。 降伏人の助命はの尽力によるところであり、今井個人としても、西郷と脈絡相通ずるものがあったからに外ならない。 西郷がに破れて帰国す途中、浜松の旅宿において今井の消息をたずね、伝言を頼んで去ったとゆう因縁もあった。 しかし、鹿児島へ向かう途上、西郷隆盛戦死の報を得て、結局戦地へ到着することなく終わった。 今井が子息に語った遺談によると、この時今井は「鹿児島到着後、寝返って西郷に加担しようとの計画を持っていた」という。 その理由として、「西郷にひとかたならぬ恩義を感じていたから」と語った。 鹿児島出戦が潰えたあと、今井は二度と再び、剣や銃を執ることはなかった。 初倉村時代 [ ] 明治11年、静岡県榛原郡初倉村(現・静岡県)に帰農、初倉村の村議及びを務める。 のでその教義を知り大いに感銘を受け自らの不覚を愧じ、その信者となり牧師からを受けた。 後半生はクリスチャンとして矯風事業に貢献した。 また、同じクリスチャンであるが主宰した龍馬の法要にも出席している。 明治33年(1900年)、今井は親しくしていたキリスト教伝道師の子の取材に応じ、近江屋事件への関与について語った。 この内容は甲斐新聞に掲載されているが、結城が内容を飾り、誇張した形で掲載された。 この証言では今井が実行犯となっている。 以前の証言と異同が見られることについて菊地明は、今井が当初挙げた実行者は今井自身を除き全て鳥羽・伏見の戦いで戦死していることから、今井には渡辺篤や世良敏郎ら存命者をかばう意図があったのではないかと推測している。 後に雑誌に転載されたものを見たは、中岡からの証言と異なっていることなどから今井の証言が偽物であり、「売名の手段に過ぎぬ」と度々発言している。 このため当時は今井の証言が有力なものであるとは受け止められなかった。 その後、明治42年(1909年)12月17日、大阪新報記者の質問に対し、今井は、ようやく事実を話した。 1、暗殺に非ず、幕府の命令に依り、職務を以捕縛に向、格闘したるなり。 2、新選組と関係なし。 予は当時見廻組与力頭なりし。 3、彼会て伏見に於いて、同心3名を銃撃し、逸走したる間罪の為なり。 4、場所は、京都蛸薬師角、近江屋という醤油屋の二階なり。 今井は、当時の政権を握るの命令によって行動したということに、確呼たる信念を有していた。 それを、次いで政権を握った者の前に真相を明らかにし、極刑を処されるのは愚の至である。 今井が、明治3年(1870年)の法廷において、自分は単なる見張役に過ぎなかったと述べたのは、当然の自己防衛であった。 殊にその口書を仔細に見ると、上司や同僚の何人にも責を及ぼさぬよう、用意周到に陳述していることが観取される。 大正5年()、今井信郎はで倒れ、2年間の病床生活の後、大正7年(1918年)6月25日、死去した、行年78歳、法名は「隆徳院殿信慶了義居士」。 妻いわは、その1年半後、大正9年(1920年)1月25日、死去した、行年77歳、法名は「最勝院殿信屋知照大姉」。 東京都文京区の法輪山寂圓寺には、父今井守胤、妻きね、今井信郎、妻いわ、信郎長女りう、三女つるの墓碑がある。 同左、今井家累代之墓碑(2019年6月19日撮影) 親族 [ ]• 曽祖父 : 今井長五郎(不詳-1746)、行年75歳• 曾祖母 : 不詳(不詳-1752)• 祖父 : 武左衛門(吉野家 不詳-1817)、行年40歳• 祖母 : 八重(今井家 きね実母)• 父 : 守胤(不詳 不詳-1907)、行年99歳• 母 : きね(今井家 不詳-1899)、行年83歳• 姉 : 森けい、守胤の長女、夫平吉• 本人 : 信郎(1841-1918)、守胤の長男、行年78歳、妻いわ(天野家 不詳-1920)、行年77歳• 弟 : 永田守身、守胤の二男、妻不詳• 弟 : 今井信香、守胤の三男• 弟 : 今井省三、守胤の四男、妻重(前田家)• 長女 : 茶川りう(不詳-1953)、信郎の長女、行年85歳 、夫東九郎• 二女 : 矢部しず、信郎の二女、夫平三郎• 三女 : 相羽つる(不詳-1939)、 信郎の三女、行年64歳、夫国松• 長男 : 今井克(不詳-1884)、信郎の長男、行年8歳• 二男 : 今井信夫(不詳-1954)、信郎の二男、妻幹子• 三男 : (不詳-1966)、信郎の三男、妻(山田家 1890-1948)、。 ・・政務次官• 四男 : 今井守武(不詳-1889)、信郎の四男、行年4歳 顕彰活動 [ ]• 明治10年(1877年)、幕府紅葉山奉行の長男で、故あって幕末期より遠島となっていたが書き残した『』に「静岡県等十等今井信郎、八丈学校エ下サル官員規則書」と名付けられた六ヵ条の規則が記されている。 今井は八丈島で教壇に立つ職員に、自らの理想や理念を詳細に伝えた。 明治14年(1881年)、榛原郡内の農事改良を推進するため、榛原郡農事会が設立され、今井が同会の会長に就任した。 明治28年(1895年)、榛原郡農会と改称されたが、今井は明治34年(1901年)まで、会長職を勤めた。 郡内の16ヵ町村の農会を統率し、農作物の品評会の開催や病虫害の駆除予防、動力農具の奨励など、農事改良の為の諸策を展開した。 今井の農事改良に対する姿勢が称賛され、明治43年(1910年)に大日本農会より、功績顕著と名誉賞状を下賜されている。 明治34年(1901年)、今井は学務委員に就任、入植地である色尾地区の初倉尋常小学校の教育に関わった。 同校は、明治43年と翌44年に、続けて静岡県表彰を受けた。 最初は教授、訓育優良による表彰で、翌年は貧国の児童奨励活動を評価された。 平成14年(2002年)10月20日、初倉村(現島田市初倉地域)の村議となり村長も務めた今井の入植後の業績を顕彰しようと、地元の有志が石碑を建立する活動を始めた。 また、同月26、27の両日、「第14回初倉文化展今井信郎と緑の人々」で、今井翁の戦争日記や榛原郡をはじめ、自身が編纂した周辺地域の郷土史などを展示する。 平成14年(2002年)10月26日、今井の生涯をまとめた『今井信郎風雲録 - 是非に及ばず』が出版された。 著者は地元島田市のに詳しい元島田市議の塚本昭一、「竜馬斬殺と戌辰の役」その時歴史は動いた、「落日を超えて」信郎の家族たち、「魁偉と信郎の生きざま」、「栄光と残照」牧之原と最後の幕臣。 平成14年(2002年)10月26日、今井が自ら集めた初倉周辺地域の郷土史、初倉入植前の戦争日記や入植後書き続けたなどの資料を集め、「第14回初倉文化展今井信郎と緑の人々」と題する資料展が開催された。 平成15年(2003年)2月23日、初倉村の村長を務めた今井が、牧之原入植後の業績を顕彰する石碑が、同市坂本の屋敷跡に建立され、今井の曾孫にあたる今井晴彦の出席のもと除幕式が行われた。 石碑建立に取り組んだ有志は「屋敷跡を公園として整備したい」としている。 石碑は、屋敷跡面積約3,000m 2の一角に、伊予石を使い、高さは2. 6m、幅は2. 8mで、「今井信郎 屋敷跡」と彫られている。 平成30年(2018年)10月10日、初倉まほろばの会(塚本昭一理事長)は、今井信郎の石像(台座含め約2. 5メートル)を島田市阪本の今井信郎屋敷跡に建立、10月9日に除幕式を行った。 また、同月29日には、歴史演談会「今井信郎の後半生」を初倉公民館で開催する。 今井は1878年(明治11年)に初倉に移住、榛原郡農事会長などを務め、地域の発展に尽力、後世に伝えようとするもの。 今後は、県外からの今井屋敷跡を訪れる人も多い、周辺の散策路の整備なども行っていく。 平成31年(2019年)1月19日、初倉まほろばの会は、正月前後に咲く品種不明の早咲きのサクラを「イマイ桜」と名付け、繁殖に取り組んでいる。 大島桜の台木を使い、接ぎ木で増やすという。 大塚靖郎副理事長は「地域に農業技術を伝授した今井の思いを引き継ぎたい」と。 将来は、島田市阪本の今井信郎屋敷跡や静岡空港に植えたり、東日本大震災の被災地に苗木をプレゼントする考え。 塚本昭一理事長は「東北地方で育てれば3月11日にはきっと花をつける、復興のシンボルになれば」と。 著書 [ ]• 日本基督教団島田教会史 - 宣教110年・教会設立75年 -. 日本基督教団島田教会. 1997年5月1日. , p. 455-456. , p. 462. 461. 守部喜雅() 37-38ページ• 69-71p• , p. , p. 『坂本竜馬を斬った男・今井信郎翁を顕彰』「 26、27日に資料展も 有志が石碑建立へ」静岡新聞、2002年10月20日、朝刊19頁、2010年7月14日閲覧• 『今井信郎風雲録 - 是非に及ばず』塚本昭一著、A5版372頁、静岡新聞、2002年10月26日、朝刊19頁、2010年7月14日閲覧• 『坂本竜馬を斬った男、元初倉村長の今井信郎翁 入植後の業績顕彰し屋敷跡に石碑を建立』静岡新聞、2003年2月24日、朝刊19頁、2010年7月14日閲覧• 参考文献 [ ]• 『明治のキリスト教』吉川弘文館、平成15年(2003年)• 『日本宣教の夜明け』いのちのことば社、平成21年(2009年)• 守部喜雅『聖書を読んだサムライたち』いのちのことば社、平成22年(2010年)• 『坂本龍馬を斬った男』(新人物文庫)、人物往来社、平成21年 2009年• 『龍馬を斬った男 今井信郎伝』アルファベータブックス、平成30年(2018年)• 岩崎英重 (編者)『』第二、〈日本史籍協会叢書〉、1926年。 2018年11月24日閲覧。 木村幸比古『龍馬暗殺の謎 諸説を徹底検証』PHP研究所、2007年3月16日。 版: 2007年3月16日• 菊地明 2010年11月20日. 坂本龍馬 近江屋事件の現在. 国立国会図書館. 2018年4月11日閲覧。 『日本基督教団島田教会史 - 宣教110年・教会設立75年 -』日本基督教団島田教会、1997年5月1日.
次の無着成恭 むちゃくせいきょう 編。 1951 年(昭和 26 )青銅社刊( 1956 年『新版・定本山びこ学校』百合出版刊)。 山形県山元村(現上山 かみのやま 市)山元中学校の学級文集『きかんしゃ』の作品を中心に編まれた実践記録文集で、学級全員 43 名の散文、詩、日記、版画などが収められている。 日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞した江口江一の作文『母の死とその後』などが代表的。 貧しい山村の実生活のなかで、子供たちが感じる疑問を率直に取り上げ、学級で話し合い、ときにはデータを調べて書いたもので、担任の無着成恭は「あとがき」で「私は社会科で求めているようなほんものの生活態度を発見させる一つの手がかりを綴方 つづりかた に求めた」「貧乏を運命とあきらめる道徳にガンと反抗して、貧乏を乗り超えて行く道徳へと移りつつある勢いに圧倒され」たと述べている。 綴方を書くことによって自分たちの貧しい生活や現実社会に対する鋭い洞察力と論理的な思考力を養い、豊かな村づくりを目ざして率直に自分の考えを述べ合う子供たちを育て上げたところに、綴方教育を超えた人間教育があったと評価され大きな反響をよんだ。 小森村は奈良盆地の一隅にある貧しい被差別部落だった。 村の人々は、耕やす田畑はせまく、草履づくりでその日を送っていた。 日露戦争で父を亡くした誠太郎、孝二の兄弟は小学生だったが、伸び伸びと育っていた。 しかし、被差別部落民に対する世間の偏見はひどく、明治四年に公布された解放令も名ばかりで、就職、結婚も思うようにいかないのが現実だった。 誠太郎と孝二がそんな世間の冷い目の中で明るさを失わなかったのは、母ふでのお蔭だった。 ふではシンの強い女だった。 間もなく誠太郎は尋常料を卒業し、何でもやると言って大阪へ奉公に行った。 孝二が六年になったある日、村が火事になった。 在所の消防団は、小森村だからほっとけ、と取り合わなかった。 火事を起したのは、空腹の弟のために豆を炊こうとした武だった。 武はその夜自殺した。 武の父藤作は、武の死体を抱きながらこの村にも消防ポンプを買うのだ、と決心した。 明治四十五年。 天皇大葬の夜、孝二は同じクラスの杉本まちえが、被差別部落民の自分に好意を持っているのを知って、信じられぬほど、喜ぶのだった。 奈良盆地に春が訪れた頃、藤作の努力で、小森村は消防ポンプを買った。 そして、村対抗の提灯落し競争で、藤作たちはみごとに勝ったが、在所の人々の手で優勝旗を焼かれてしまった。 それを見ていた孝二たちは、改めて人間差別に対する怒りを燃やすのだった。 大正十一年三月三日、封建的な差別と貧困を打破るために団結した被差別部落の人々は、全国水平社を創立した。 それは被差別部落民による最初の人権宜言だった。 彼らは独立プロを立ち上げ、質の高い硬派な社会派映画で大手会社に対抗する。 23 ) 【赤旗 15. 28 】 【赤旗 15. 01 】 【「薩チャン正ちゃん」二人の巨匠特集に寄せて】 (赤旗 16. 戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠である。 東京帝国大学卒業後、東宝の前身 J. スタヂオに入り、入社 2 年で監督に昇進。 戦後は独立プロ運動の中心人物として数多くの社会派映画を手がけた。 『純愛物語』でベルリン国際映画祭銀熊賞 監督賞 、『武士道残酷物語』で同映画祭グランプリを受賞、キネマ旬報ベスト・テンでは 5 本の監督作がベスト・ワンに選出されるなど、賞歴も多く作品の評価は高い。 日本映画復興会議初代議長でもある。 主な監督作に『青い山脈』『また逢う日まで』『真昼の暗黒』『キクとイサム』など。 父は岐阜県の農家の 3 男で、子供の頃にお寺の小僧に出されて上京し、日露戦争出征を経て、霊泉院の住職になった。 母は近くの香林院の住職の妻の妹で、北里研究所の前身である痘苗製造所に勤めた経験のある人だった。 生後、今井は中耳炎にかかり、右耳の鼓膜がなくなり聴覚を失っている。 渋谷町立臨川小学校を経て、 1924 年(大正 13 年)に旧制芝中学校に入学する。 この頃から映画を多く観るようになり、本人の回想では新宿武蔵野館でジャック・カトラン(英語版)主演の『嘆きのピエロ(フランス語版)』などを観たという。 チャップリンの喜劇もほとんど観ており、英文でファンレターを書いて出したこともあった。 1929 年(昭和 4 年)、中学を卒業して旧制水戸高校に入学。 在学中、マルクス主義に関心を持ち、雑誌『戦旗』に感激してからは学内の秘密組織読書会のメンバーとなった。 翌年、特高に連行され、 1 年間の停学処分を受ける。 1933 年(昭和 8 年)、東京帝国大学文学部美術史科に入学。 学内の秘密組織に入り、同年に本富士警察署に検挙される。 翌 1934 年(昭和 9 年)にまた 1 年間の停学処分を受け、そのまま中退する。 スタヂオの入社試験を合格して入社。 500 人近くの応募者の中から選ばれたのは今井と京大卒の 3 人のみだった。 初任給は 50 円 [ 7 ] 、当時の同僚に市川崑と岸松雄がいた。 伊丹万作監督の『新しき土』で初めてロケハンに参加。 石田民三監督の『花火の街』でチーフ助監督につき [ 8 ] 、中川信夫監督の『日本一の岡ッ引』ではスクリプターを担当、ほか志波西果、並木鏡太郎、渡辺邦男監督に 1 作ずつ助監督についた。 1937 年(昭和 12 年)、 J. スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となったが、所長の渾大防五郎に抜擢されて入社 2 年目で監督昇進を指名される。 異例のスピード出世となった。 処女作の『沼津兵学校』に取り掛かるが、出演俳優が兵役に取られるなどして完成が遅れ、 2 年後の 1939 年(昭和 14 年)に公開された。 陸軍少将飯塚国五郎の実話を基にした『われらが教官』、井伏鱒二原作の『多甚古村』、石川達三原作の『結婚の生態』などと作品が続くが、いずれも成功作とはいえなかった。 1943 年(昭和 18 年)、朝鮮の国境警備隊と抗日ゲリラとの戦いを描いた『望楼の決死隊』を監督。 西部劇さながらのアクションシーンを取り入れ、入念に作られたアクション映画として評判となったが、植民地支配を正当化する軍国主義映画のため、マルクス主義者の今井としてはマイナスになる作品だった。 同年、教育召集のため麻布の歩兵第 1 連隊に入隊、 3 ヶ月で除隊した。 1946 年(昭和 21 年)の戦後第 1 作『民衆の敵』もその 1 本であり、戦中の財閥の腐敗を描いた。 続いて作った『人生とんぼ返り』は、撮影技師中尾駿一郎と初めてコンビを組んだ作品で、榎本健一と入江たか子が主演した人情喜劇となった。 1949 年(昭和 24 年)、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督。 戦後民主主義を高らかに謳い上げ、同名の主題歌とともに大ヒットを記録。 今井も第 1 級の監督として注目される。 この頃から自由に作品を作りたいと感じ、『青い山脈』製作後に東宝を退社してフリーとなる [。 1950 年(昭和 25 年)、フリーの立場で『また逢う日まで』を監督。 戦争によって引き裂かれた恋人の悲劇を描き、主演の岡田英次と久我美子のガラス窓越しのキスシーンが話題となった。 作品はキネマ旬報ベスト・テン第 1 位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞に輝いた。 その頃、レッドパージで追放された映画人が次々と独立プロを立ち上げて活動するようになり、今井も 1951 年(昭和 26 年)に山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督する。 当時ニコヨンと呼ばれた日雇い労働者たちの生活を描いた作品である。 1953 年(昭和 28 年)、東映に招かれて『ひめゆりの塔』を監督。 沖縄戦で看護婦として前線に送られたひめゆり学徒隊の悲劇を描いた本作は大ヒットを記録し、発足以来赤字に悩んでいた会社を救った。 その後、文学座と組んだ樋口一葉原作のオムニバス映画『にごりえ』、高崎市民オーケストラの草創期を描いた『ここに泉あり』など、独立プロ運動の 1 番手としてヒューマニズム映画の傑作を発表する。 1956 年(昭和 31 年)、八海事件の裁判で弁護士を担当した正木ひろしの手記の映画化『真昼の暗黒』を監督。 映画化にあたっては入念な調査を行い、裁判で死刑を宣告された被告の無罪を主張、警察・検察・裁判所の非を徹底的に批判した。 製作時は裁判が継続中だったため、最高裁判所から圧力がかかるも、今井はそれに屈せず作品を作り上げ、キネ旬 1 位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞した。 1957 年(昭和 32 年)、東映で『米』を監督。 霞ヶ浦や湖岸の田園風景を背景に農村の貧困を描き、今井にとって初のカラー作品となる。 同年公開の『純愛物語』は、原爆症の少女と不良少年の恋を描いた恋愛映画で、第 8 回ベルリン国際映画祭銀熊賞 監督賞 を受賞した。 1958 年(昭和 33 年)の『夜の鼓』は独立プロで製作し、近松門左衛門の『堀川波鼓』を映画化した今井の初の時代劇である。 この作品は封建時代の武士の妻の姦通事件を扱い、武家社会をリアリズムで描き出した異色作として評価された。 1959 年(昭和 34 年)、人種差別批判をテーマにした『キクとイサム』を監督。 黒人との混血の姉弟と、彼らを引き取って育てる老婆の交流を描き、本作は今井の代表作となった。 今井は戦争や差別や貧困など社会的テーマを掘り下げ、それに翻弄される弱者の姿を同情を込めて美しく描いた作品を発表し続けた。 1962 年(昭和 37 年)の『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』では老人問題を取り上げている。 1963 年(昭和 38 年)、中村錦之助主演で『武士道残酷物語』を監督。 封建社会の残酷さを 7 つの物語で描き、第 13 回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞する。 テレビの進出で映画が斜陽化する中、今井もテレビドラマに進出し、 1966 年(昭和 41 年)から「今井正アワー」で 5 本のドラマを演出。 翌 1967 年(昭和 42 年)には渥美清主演の『渥美清の泣いてたまるか』で 4 本を演出し、後に『天皇の世紀』でも 2 本を演出している。 1968 年(昭和 43 年) 2 月、住井すゑ原作の『橋のない川』を映画化するために図書月販の傍系会社ほるぷ映画を設立し、その社長に就任する。 翌 1969 年(昭和 44 年)に『橋のない川』第一部、 1970 年(昭和 45 年)に第二部を製作するが、第二部製作中に今井が党員の日本共産党と部落解放同盟の対立により、同盟から妨害を受け、公開後も上映阻止運動が起きた。 1971 年(昭和 46 年)、永年にわたって幽閉生活を強いられている家族を描いた『婉という女』を監督するが、完成後に資金難からほるぷ映画は解散する。 その後は、渥美清企画・主演の『あゝ声なき友』、古巣の東宝で 8. 15 シリーズの第 6 作『海軍特別年少兵』、小林多喜二の生涯を描いた『小林多喜二』、室生犀星原作の『あにいもうと』などを監督するが、 1950 年代の時と比べると不遇だった。 この 4 年後には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明する。 ほかにも脳血栓や心臓大動脈瘤など次々と病気を発症した。 1991 年(平成 3 年)、遺作『戦争と青春』を監督、一般市民から一口 10 万円の出資を募る市民プロデューサー方式で製作した [ 17 ]。 同年、上映キャンペーンのため全国各地を回るが、埼玉県草加市での上映挨拶に向かう途中、車中でくも膜下出血に倒れ、 11 月 22 日午後 3 時 20 分に草加市立病院で死去 [ 18 ]。 79 歳没。 例えば潮健児は自伝で、『米』のラストシーンの収録に、船の帆の貼り具合や船の位置、果ては雲の位置までを気にするあまり 1 週間かかったなどのエピソードを紹介している。 日本共産党員であり、娯楽色豊かなヒット作を連打し、党派を超えた巨匠として日本映画に君臨した点では、山本薩夫と双璧だが(戦中に戦意高揚映画の秀作を撮っているところまで相似している)、最後まで大手からの監督依頼が絶えなかった山本に比べると、晩年は若干不遇であった。 イタリアン・ネオ・レアリスモに影響を受けた今井正の代表作。 水木洋子の脚本。 農家の母を演じる望月優子の体当たりの演技が評判となり〝日本のおかあさん〟女優と呼ばれるようになった。 脚本・橋本忍。 「ああ声なき友」の脚本家・鈴木尚之と再び組んだ今井正が、独特の詩情で語る、東宝〝8・15〟もの第6作。 この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。 ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。 でも本当は3つ目の選択肢があるんです。 言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。 人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。 インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。 文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。 カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。 安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい 投稿日: 作成者.
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