兄に 、佐々孫介がいたが、佐々政次は1560年の桶狭間の序盤戦で戦死し、佐々孫介も1557年の で討死していた為、1560年に家督を継いで比良城主となった。 佐々成政の正室は、慈光院 の娘。 に仕え馬廻 直属の親衛隊 となり頭角を現した。 1561年、森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門 の叔父 を と共に討ち取る大功を立てた。 佐々成政は馬廻衆の中でも優秀だったようで、1567年、馬廻の中でもエリートである黒母衣衆に抜擢された。 1570年6月、 に先立つ「八相山の退口」では、 から直属の鉄砲隊を預けられ、 ・ らと3人で殿 しんがり を務めた。 佐々成政は3人の中で唯一負傷したが、撤退戦自体は無事に完了すると言う活躍を見せている。 1574年、 との戦いで長男・松千代丸が流れ弾に当たって戦死。 佐々成政には男子が松千代しかおらず、次女を 兄・佐々政次の子 に嫁がせて後継にしようとした。 1575年5月、 では ・野々村正成・ ・ と共に鉄砲隊を率いて、 を撃退し、大勝利に貢献した。 1575年9月、織田信長は越前の一向一揆を壊滅させ、越前を制圧すると、 を北陸方面の軍団長として に配置したが、その際、佐々成政・前田利家・ と3人 府中三人衆 が柴田勝家の与力・目付として赴任した。 佐々成政は越前府中33000石を与えられると、 を築いて居城とした。 府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、半ば独立した織田軍の遊撃軍的存在で、 との石山合戦や、播磨国平定、謀反した の討伐などに従軍している。 なお 攻めでは、府中三人衆が荒木一族の処刑を命ぜられ、荒木だしなどを処刑した。 1578年8月、能登に侵入した 勢を攻めるため、柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、 が陥落した為、撤退した。 1580年からは、柴田勝家の北陸平定作戦に参加し、 の助勢として一向一揆および に対する最前線であった越中国平定に関わった。 内政面では、度重なる河川の氾濫に悩まされていた領民のために、大規模な堤防工事を実施しわずか数年で水害を無くして領民に慕われている。 この堤防は1580年の秋に完成し「佐々堤」と名づけられて現在でも、その遺構が残っている。 1581年2月、佐々成政は正式に越中半国を与えられ、1582年に神保長住が失脚すると越中一国の主となり、 を本拠として大規模な改修をおこなった。 そして、柴田勝家、佐々成政らは、上杉景勝の防衛拠点である を3ヶ月の攻囲の末に攻略し、あと少しで に迫る勢いであった。 しかし、 の謀反により、 で織田信長が横死。 跡取りに考えていた養子の佐々清蔵も で討死した。 変報が入ると、上杉家と対陣していた織田勢の各将はおのおの領地に引き返した為、上杉勢の反撃にあい、佐々成政は防戦で身動きが取れなかった。 そんな中、柴田勝家は明智光秀を討つべく、京に軍を発したが、毛利家と和睦した羽柴秀吉が中国大返しを断行し、先に明智光秀を討った。 にて柴田勝家と羽柴秀吉との対立が表面化しても、佐々成政は柴田勝家に味方した。 柴田勝家は、羽柴秀吉と となったが、佐々成政は上杉景勝への備えの為、富山城から動けず、叔父の佐々平左衛門に600の兵を付けて、援軍するに留めた。 賤ヶ岳の戦いは、前田利家の寝返りもあり、柴田勝家は北ノ庄城に敗走。 その為、佐々成政は、娘を人質に出して羽柴秀吉に降伏し、越中一国は安堵された。 1584年、羽柴秀吉と の間での合戦である が起こると、当初、羽柴秀吉に味方する姿勢であった佐々成政だが、徳川家康・ の連合軍に応呼し、ひそかに出陣。 本隊はガラガラ坂 現・小矢部市 を越え、支隊は沢川 現・福岡町 の山道を越え、前田利家領内である を奇襲した。 しかし、 から前田利家が急行した為、挟み撃ちされて敗北を期している。 越後の上杉景勝からの圧迫も受けており、苦しい2方面展開であったようだ。 織田信雄が羽柴秀吉に降伏し羽柴と徳川が和議となると、佐々成政は徳川家康に再起を説得する為、厳冬の飛騨山脈 北アルプス ・立山山系を自ら越えると言う、強行手段にて に入った。 さらさら越え この旅は、徳川家康側の史料「家忠日記」にも記載されており、事実である。 しかし、説得に失敗し、織田信雄や からも快い返事は得られなかった。 その留守中、愛妾 側室 の早百合が、佐々成政の近習侍と密通したとのウワサが立ち、激怒した佐々成政は早百合の黒髪をつかんで引きずり走り、この榎の枝に逆さ吊りにして、あんこう斬りめった斬りの惨刑に処したと言う伝承がある。 早百合の一族である呉服村の住民も皆殺しにされたと言うが、これは後世の作り話である可能性が高い。 早百合は断末魔の苦しい声で「私は無実です。 私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びますぞ」とのろって息絶えたと言う。 また、アルプス越えの際に佐々成政は、万が一に備えて100万両 異説あり の軍資金を複数の壷に詰め込んで鍬崎山 立山の裏にある内蔵助平という盆地状の秘境 に埋めたという伝説が地元に伝わっている。 1585年、羽柴秀吉は、10万の大軍を率いて、自ら越中に進軍し富山城を大軍で包囲。 佐々成政は織田信雄の仲介を受けて降伏した 富山の役。 下記は佐々成政降参の絵画。 一命は助けられたものの越中東部の新川郡10000石を除く、ほぼ全ての領地を没収され、妻子と共に大坂城下に移住。 以後、羽柴秀吉の御伽衆として仕えた。 九州・豊後の大友宗鱗が、薩摩の島津家から攻められ、 に助勢を求めると、 は、佐々成政を使者として大友宗鱗のもとに派遣。 1587年、九州征伐が開始されると、佐々成政は 軍に属して豊後府内 大分市 ・日向を経て薩摩へ進軍。 九州の雄である は、弟・ に家督を譲り、佐々成政らの取りなしで豊臣秀吉に拝謁して降伏した。 これらの功により佐々成政は肥後一国を与えられ、 後の古城 の普請を開始。 豊臣政権下での人材不足だった人事と考えられるが、豊臣秀吉も佐々成政の能力は評価していたものと考えられる。 しかし、佐々成政は、肥後に入ると早速に太閤検地を開始。 すなわち、今までドンブリ勘定で税を納めていたところ、きっちり計算することになるとより税が重くなると言う事で、 菊池郡・ 主 と、隈部親安 鹿本郡・山鹿城主 の親子が反発。 佐々成政は病に侵されていた為、急いだとも言われるが、反発を武力で抑え込もうとした為、反発した国人が一斉蜂起し、これに農民も一味同心して、天下を揺るがす となった。 佐々成政はこの一揆を単独で鎮圧することができず、近隣国への波及を恐れた豊臣秀吉は1587年9月、付近の武将たち 毛利秀包・ ・安国時恵瓊・ ・ ・ など に肥後への出陣を命じて一揆と交戦させ、ようやく事を収めることができた。 理由はどうあれ、敵将だった者に寛大な処置により国を任せたにも関わらず、地元勢力が一揆し、更にそれを鎮圧できなかったことから、佐々成政は釈明と謝罪をするため大阪方面へ向かったが、尼崎で足止めされ幽閉された。 そして、豊臣秀吉もさすがに処罰せざるを得なくなり、佐々成政に切腹を命じた。 1588年閏5月14日、佐々成政は摂津・尼崎の法園寺で切腹。 生年が諸説あるため享年は確定していないが、享年53と推定。 兵庫県尼崎市の阪神電鉄尼崎駅からほど近い、法園寺に佐々成政の墓があるが、検使として立ち会ったのは である。 事態を重く見た豊臣秀吉は、佐々成政の後任として、腹心の加藤清正・ の2人を肥後に送り込み、肥後を分割して統治させることにしている。 佐々成政は、国人一揆の責めを負い、法園寺で切腹したが、その後の歴史に成政の子孫が多く登場する。 佐々成政の次女・岳星院は、関白・鷹司信房に嫁ぎ、7人の子女をもうけた。 そのうち、嫡子・鷹司信尚は関白に、二女・鷹司孝子は徳川3代将軍・徳川家光の正室となったほか、孫・信子は五代将軍・ の正室になっている。 また、佐々成政のもう一人の娘は、狩野永徳の子に嫁ぎ、有名な「狩野探幽」を産んだ。 佐々成政の甥の佐々直勝は、加藤清正に召し抱えられ、その子孫には、浅間山荘事件で指揮を執った、初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏がいる。 このほかにも、忠臣蔵でお馴染みの の妻・りく、 で有名な「助さん」こと佐々介三郎宗淳も、佐々成政の子孫であると言われている。 126• 762• 111• 108• 128• 115• 113• 208• 162• 156 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。 他サイトご利用の際にはご留意願います。
次の【目次】• 三成の出自・ルーツは? が父の正継のために、京都の妙心寺に建てた寿聖院に伝わる過去帳や、三成の嫡男重家が記した『霊牌日鑑(れいばいにっかん)』によると、正継の父は "前陸奥入道清心" 、正継の祖父は "前蔵人入道祐快"と、法名が記されています。 また、それ以前の先祖については確認することができません。 なお、三成の出身地は近江坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)となっています。 名前に地名を取っている点や祖先が法名で記されている点などから、石田氏は単なる農民ではなく、地侍(侍でも百姓でもある)の家柄であると推察されているようです。 『志士清談』においては、正継に関して「石田村の地士で岡村の長であった」と記されています。 京極氏の家臣だった? 一方で『京極家譜』をみると、京極氏の被官として石田氏の名が見えます。 この石田氏は京極氏の家臣であり、近江坂田郡柏原村梓河内(滋賀県米原市)を本拠としています。 そして梓河内には京極家の持城があり、近くには石田屋敷の跡も残っているといいます。 つまり、石田氏は京極家の家臣として城を守備し、その近くに屋敷をかまえていたとみられ、この石田氏が宗家と考えられているようです。 三成の家系がこの宗家に該当するのか否か、そして京極氏の家臣だったのかどうかは、残念ながら明らかにされていません。 以上、三成の出自について述べてきましたが、そもそも石田一族は三成の登場で有名になったから、これらの情報はイマイチ確証がないようですね。 三成ファミリーの顔ぶれ ここでは三成の家族(父母兄弟・妻子)について簡単に見ていきます。 石田三成の略系図 石田正継 三成の父。 先に述べたように近江坂田郡の地侍で、京極氏に仕えていた可能性もあります。 織田政権期に三成・正澄とともに羽柴秀吉に仕えたとされます。 石田正継の肖像画(妙心寺蔵) 天正14(1586)年に三成が堺の奉行となりますが、翌年には九州征伐で三成が秀吉に付き従ったため、三成の代官として堺で実際に政務をみています。 文禄4(1595)年に三成が佐和山城主を与えられてからは、五奉行として多忙な三成に代わり、佐和山領内の統治に当たりました。 正継は学問の志が深く、この頃に松尾寺から60巻の書籍を借りて読み、三成にも読ませるつもりだったようです。 秀吉の死後、関ヶ原合戦では佐和山城を守備していたが、三成の敗戦後に徳川軍に攻め込まれて自害しました。 瑞岳院 三成の母。 本名は不明で "瑞岳院" は法名。 『極楽寺系図』によれば、浅井氏の家臣・土田外記成元の娘だといいます。 彼女の死後、葬儀は大徳寺の塔頭・三玄院で行なわれたといい、肖像画が残っています。 正澄 三成の兄。 織田政権期に弟の三成とともに羽柴秀吉に仕官。 のちに秀吉から北近江に1万5千石の知行を与えられています。 蔵入地の代官や美濃国の検地奉行を務めるなど、三成同様に奉行としての活躍が目立ちます。 特に豊臣の世において、 文禄2-慶長4(1593-99)年の6年間、三成に代わって堺の奉行を務めました。 関ヶ原では、父と共に佐和山城を守備しますが、西軍の敗戦後まもなく徳川方の軍勢に攻められ、最期は正継や長男の朝成とともに自害を余儀なくされました。 女子(福原長堯室) 福原長堯の正室となった三成の妹。 名は不明。 夫の長堯は赤松氏の一族で、関ヶ原合戦では三成に加担して大垣城を守備したが、敗戦後に自害、または殺害されたといいます。 2人の間にいた子は他国へ逃れ、現在まで家系が存続しているとか。 女子(熊谷直盛室) 熊谷直盛の正室となった三成の妹。 名は不明。 夫の直盛は、豊臣政権下で豊後国直入郡の蔵入地の代官を務め、安岐城を与えられ、朝鮮出兵でも目付として渡海するなど活躍。 秀吉死後の関ヶ原合戦では、三成方として大垣城を守備し、三成敗戦後は徳川方に内応していた味方により、父子ともども謀殺されています。 皎月院(こうげついん) 三成の正室。 宇多頼忠の娘。 三成との間に三男三女を設けたといいます(=異説もあり)。 関ヶ原合戦時は佐和山城にいて、落城の際、三成の家臣に刺殺させて没したと伝わります。 また、三成の刑死後に自害した、佐和山城を脱出後して隠棲した、などの説も。 なお、彼女の家柄を通じて三成と真田家が縁戚関係にあることから、・幸村父子が関ヶ原で三成方に加担した一つの要因となっています。 重家 三成の嫡男。 関ヶ原合戦のときはまだ12~13歳の少年であり、豊臣家に対する人質として大坂城に留め置かれていたようです。 父の敗戦を知ってからは三成重臣の津山甚内に促されて城を脱出し、京都妙心寺・寿聖院に逃れたとか。 寿聖院は石田氏の菩提寺として三成が創建したものでした。 重家は住職の伯蒲恵稜のすすめで剃髪して出家したといいます。 その後、伯蒲恵稜が京都所司代・奥平信昌を通じて家康に助命嘆願したことで許され、死罪は免れました。 出家の身として、子はもうけなかったようです。 没年は貞享3年(1686)と伝わりますが、それだと100歳を超える長命になるので疑問が残ります。 なお、関ヶ原敗戦後、高野山に逃れてのちに殺されたという説、奥州の津軽為信を頼って天寿をまっとうした説など、異説も多いですが、これまた根拠となる史料の信頼性の問題から、鵜呑みにできません。 重成 三成の二男。 関ヶ原合戦時はの小姓として仕え、大阪城にいたといいます。 敗戦の報を聞いて、同じく秀頼の小姓だった津軽信建の手引きで津軽へ逃れています。 その後、杉山源吾と名乗り、津軽氏の保護のもとで静かに暮らしました。 のちに江戸に出たとも、に仕えて伊勢国で没したとも伝わりますが、真偽は定かではありません。 左吉 三成の三男。 関ヶ原合戦時は元服前で「佐吉」と称し、佐和山城にいたといいます。 決戦翌日の佐和山城包囲では、石田家臣の津田清幽に託され、出家を条件に助命されています。 のちに清幽への感謝から、佐吉は「深長坊清幽」と名乗り、甲斐国河浦山薬王寺の住職になったとか。 女子(山田隼人勝重室) 三成の長女。 石田家臣である山田上野介の子・山田隼人勝重に嫁いだとされまs。 2人の間で三男一女をもうけています。 女子(岡重政室) 三成の二女。 蒲生家臣の岡重政に嫁いだとされています。 辰姫 三成の三女。 豊臣秀吉の死後に秀吉正室・おね(高台院)の養女に。 関ヶ原合戦の後は難を逃れ、弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室となっています。 三成の子孫は?血脈は偉大な人物にも・・ 家康と敵対して大罪人となった三成。 彼には3男3女以外に庶子もいたと伝わっています。 三成の血は、徳川家によって根絶やしにされたのかと思いきや、意外にも多くの子孫を残していました。 しかも驚くような家柄・一族と混ざり合って現在にまでつなげていたのです。 以下、三成の子孫の略系図をご覧ください。 石田三成の略系図(子孫) まず嫡男の重家と三男の佐吉。 この2人に関しては関ヶ原敗戦後に出家したためか、子孫は伝わっていません。 しかし、次男重成と娘の家系は多くの子孫を残しました。 なので、この4系統について次項で説明していきます。 津軽氏に入った三成の次男・長女・三女の血統 まずは次男重成の血統について。 重成は関ヶ原以後、津軽氏の庇護下に入りましたが、子の杉山吉成は弘前藩主・津軽信枚の娘を娶って津軽家の重臣となっています。 そして吉成の子孫は代々津軽家に仕えて明治にまで至ったようです。 ちなみに吉成の子・吉熙は、系図にみるように三成の長女の血統と混ざり合っています。 つまり、はとこ同士で結婚したということですね。 次に三成の長女ですが、彼女は石田家臣・山田勝重に嫁いでいます。 2人の間に3男1女をもうけ、長男の宇吉郎は下総国で医師になったといい、『佐和山落城記』の作者で知られています。 二男・富岡武兵衛は津軽家に仕えましたが、 正保4年(1647)に起きた津軽氏のお家騒動で切腹しました。 ただ、娘がはとこの杉山吉熙と結婚して血脈を後世につなげているようです。 三男・彦兵衛は武兵衛の切腹後、津軽家に仕え、子孫も残したと伝わります。 最後に三女について。 三成の三女・辰姫は、三成の血脈を大きく広げていきました。 辰姫は関ヶ原以後に津軽信枚に嫁ぎましたが、 元和5年(1619)に誕生した嫡男信義はのちに3代目弘前藩主となり、非常に多くの子をもうけています。 その人数は40人とも50人ともいわれます。 その中で信義嫡男の信政、そして土井利房に嫁いだ萬の血統は、大名家に入り混じることに。 以下は三成三女の血統で、系図にみえる大名家です。 堀親賢:信濃飯田藩主。 酒井忠稠:越前敦賀藩主。 久世重之:下総関宿藩主。 保科正寿:上総飯野藩主。 岩城隆韶:出羽国亀田藩主。 脇坂安興:播磨龍野藩主。 松平忠桓:陸奥桑折藩主。 三成の血は彼ら大名家からさらに多くの大名家へと広がっていきます。 特に保科正寿の系統から繋がって三菱財閥の創業者一族にも三成の血が流れているようなので、驚きです。 将軍家や皇室と混ざり合った次女の血統 しかし、三成次女の血統はもっとスゴいようです。 彼女の子・岡吉右衛門の妻は、徳川家大奥の礎を築いた春日局と親戚関係にあったことがきっかけで、吉右衛門の子・於振が3代将軍徳川家光の側室となっています。 要するに家光の長女・千代姫は、徳川家康と三成の両方の血を受け継いだ娘なのです。 その後、系図にみえるように、この血統は徳川吉通を通して公家の九条家にも流れることになりました。 吉通が九条輔実の娘を娶り、三千姫ら3人の子をもうけたからです。 そして三千姫の子孫のうち、幕末の公明天皇の女御、大正天皇の皇后になった娘がいたというからこれまた驚きです。 つまり、現在の天皇陛下にも、三成の血が流れているのです。 実は嫡男重家にも子孫が!? 三成の嫡男・重家は子をもうけなかったと伝わりますが、実際には違っていて、現代にまで子孫を繋げていました。 三成から15代目にあたる石田秀雄氏がその末裔だといいます。 秀雄氏の話によると、関ヶ原決戦で三成が滅びたとき、重家はすでに家督を継いで妻を娶っており、その妻は子を宿していました。 その後、妻は越前北の庄へ逃れ、関ケ原合戦の翌年に男児・直重を産んだとか。 その直重は越前松平家に仕え、のちに越後高田藩に移り、そのまま藩内の妙高で庄屋になったけれども、父である重家とは一度も会うことはなかったといいます。 関ヶ原のとき、三成はおなかを壊していたという逸話があります。 秀雄氏はこのことを「三成腹」と呼んでおり、"わが家の持病"として自分や家族にも伝わっている、とか。 【主な参考文献】• 今井 林太郎『石田三成(人物叢書)』(吉川弘文館、1988年)• 小和田 哲男『戦国大名106家 最強の系図』(新人物往来社、2009年)• 新人物往来社編集『日本史有名人の子孫たち』(新人物往来社、2010年)• 高澤 等『戦国武将 敗者の子孫たち』(洋泉社、2012年)• 大野 信長『戦国武将100 家紋・旗・馬印FILE』(学研プラス、2016年).
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