イラク 戦争。 湾岸戦争終結後に起きた「イラク戦争」をわかりやすく解説

イラク戦争の法的正当化は可能か?

イラク 戦争

湾岸戦争とは、1991年にイラク、クウェート、サウジアラビアといったペルシャ湾周辺の国家地域で起こったイラクのサダム・フセイン政権とアメリカを中心とした多国籍軍によって行われた戦争で、日本では1980年に同地域で起こったイラン・イラク戦争と区別する際に特に「湾岸戦争」と呼びます。 元々、いわゆる湾岸地域と呼ばれるイスラム諸国では東西冷戦以来ずっと戦争が続いていましたが、1980年に始まったイラン・イラク戦争はそれぞれの政権が支持する教派の違いと先進国への石油輸出の権利を巡ることによって起こりました。 1988年、一旦は国際連合の仲裁によって両国間に停戦が成立しましたが、両国の戦争による財政難は非常に深刻でした。 そこでイラクのフセイン政権は石1990年に油を大量に保有しているクウェートに対して攻撃を仕掛け占領します。 フセイン政権のこの行為は当然、国際社会から非難を浴びることになります。 国連安保理はイラクに対し期限までにクウェートから撤退することを要求しますが、イラクはこれを拒否。 こうして1991年1月、アメリカを中心に非戦闘参加国を含む合計35ヵ国による多国籍軍がイラクなどに対して攻撃を開始。 通称「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる空爆が数週間に渡って行われました。 空爆が行われた後、戦局は「砂漠の剣作戦」と呼ばれる地上戦に移行します。 空爆によって重要拠点が機能停止していたことで勝敗は明らか。 戦争は数ヶ月でイラクの停戦合意、そしてクウェートからの撤退という形で終わります。 長い目で見ると、湾岸戦争は長く続く中東戦争の中の一部分に過ぎません。 その背景には長い長い歴史の中で起こった対立構造を理解する必要があります。 中東地域のイスラム教の国々は、イスラム教の開祖ムハンマド(570? -632)の時代は全て一つの国でした。 しかしそのムハンマドが後継者を明確に指定しなかったことから後継者の地位を巡って争いが起こり、イスラム教はシーア派とスンナ派に分かれました。 それから千年近くに渡って妥協と分裂を繰り返しながらも存続した両派。 契機となったのが16世紀になってからのこと。 当時中東はオスマン帝国の時代でしたが、この時代になってシーア派が特に激しく迫害され続けました。 オスマン帝国はおよそ700年以上もの歴史を誇った国でしたが、第一次世界大戦によってあっさりと滅亡。 その故地には多くの民族が問題を抱えたまま放置されます(現在の領土・民族問題が形成される)。 そんな中、イスラム教を信仰する部族の中で台頭したのがホメイニー率いるイラン政権、そしてフセイン率いるイラク政権でした。 両者は前者がシーア派、後者がスンナ派という歴史の中の古い対立構造を持ち出して戦争を開始します。 その原因は外国への石油輸出権でした。 フセインはイランの石油輸出権を奪うためにイランに奇襲攻撃を仕掛けますが、実はそのバックでイラクを支援していたのが大国アメリカとロシアでした。 アメリカは中東での利権拡大のために「イスラム原理主義」と呼ばれる他宗教に対する排他的な思想を有するイランのホメイニー政権に危機を感じていたのです。 戦争の結果、イランのホメイニーがイランから亡命しますがイラクは思ったように戦果を得ることができないまま停戦せざるを得なくなります。 しかしイラクにはアメリカから借りた軍事費の債務がそのままのしかかり、債務の延長を図るもののアメリカからは拒否されました。 こうして財政難に陥ったイラクは他国から利益を盗むことで財政難を打開しようとし、ついにクウェート侵攻へと踏み切り、湾岸戦争になるのです。 湾岸戦争の口火を切ったのはアメリカですが、この時にアメリカはナイラというクウェート人少女がイラク軍がクウェートで化学兵器を使用するなどの残虐行為を行っているという演説を放映しました。 しかしこのナイラは実は元クウェート王族・現駐米大使のサウードの娘で当時アメリカにいて戦争とはまったく無関係、そしてこの演説がアメリカのコンサルティング会社によるプロバガンダだということが発覚したのです。 アメリカの真意は、冷戦によって財政危機に陥ったことからそれを打開するために石油事業を掌握することだったのです。 しかしそれにはイランのホメイニー政権のようにいわば他宗教に排他的な政権が邪魔だったのでちょうど対立関係にあったイラクを利用しました。 つまり、湾岸戦争は用済みになったイラクからさらに搾り取るための方便だったと見るべきでしょう。 湾岸戦争とイラク戦争 湾岸戦争の終了後、アメリカはイラクに対して大量破壊兵器の不保持を義務付けます。 しかしこの時以降、検査が抜き打ち方式となったためイラクはアメリカの要求に対して素直に応じません。 アメリカらはこれに対し軍事攻撃を散発的に繰り返すことでイラクを威嚇するなど、緊張状態が何年もの間続いていました。 2001年、アメリカでジョージ・ブッシュ(息子)政権が発足してまもなく、アメリカ・ニューヨークでアフガニスタン系のタリバン政権麾下のテロ組織アルカーイダのビンラディンが指示したとされる同時多発テロが発生、数台の飛行機がエアジャックされ世界貿易センタービルに突撃し多くのアメリカ国民が犠牲になりました。 この事件を受けて、アメリカは国民の心情を追悼から反戦、そして戦争へと操作していき開戦への理由を「イスラム原理主義による過激思想」へと持ち込んでいきます。 当時アメリカでイスラムに対する差別や過激派運動が横行しており、人種に関係なくターバンやサリーを巻いただけで襲撃されました。 イラクのフセインはアメリカ市民に追悼の意を表するなどむしろアメリカに対し好意的な姿勢で望んでいました。 しかしいざアメリカが報復のためにアフガニスタンに侵攻を始めると、イラクにアフガニスタンテロ組織との関連性を指摘する情報がアメリカから流されます。 明くる2002年、アメリカはイラン・イラク・北朝鮮の三国をテロ支援国家、通称「悪の枢軸」だと厳しく糾弾し、イラクに対して強引に大量破壊兵器の調査を実行するよう命じます。 結果イラクは膨大な報告書を提出しアメリカの体制を非難しますが、さらに明くる2003年にアメリカは国連にてフランス、ドイツ、ロシア、中国が反対を押し切って強引にイラク攻撃を可決。 ついにイラク戦争が始まるのです。 2006年、フセインが米軍に捕らえられて処刑。 2011年、米軍の完全撤退を持ってアメリカの完全勝利で一連のアメリカ侵攻が終わり占領時代へと入ります。 こう見ると、湾岸戦争はアメリカがイラクを介して中東の石油戦略に参入した契機だと見ることが出来るでしょう。 湾岸戦争への日本の対応 湾岸戦争には、日本も資金援助のみという形で参加していました。 ご存知のとおり、日本は太平洋戦争以来多くをアメリカに依存していましたが、当時の海部俊樹内閣の日本はバブル崩壊直前の絶頂期でマスコミからは金満国家と言われるような経済復興を果たしていました。 その繁栄を謳歌する背景には、アメリカが欲してやまない中東での石油利権にありました。 日本は自動車産業の拡大にあたって石油を多くを中東から輸入していたのです。 折しもこれより数年前、東芝の子会社がアメリカからは禁止されていたロシア企業へ製作機械を輸出していたことが発覚、さらに三菱地所がロックフェラーセンターを、ソニーがコロンビア映画を買収しており、経済危機にあえぐアメリカからは日本は異質な国だと非難が集中していました。 そんな状況下で起こった湾岸戦争で、アメリカは当然傘下に等しい日本にも「武力参戦」を要求します。 しかし日本は自衛隊発足以来一度も実戦経験がなく、かつ国内から戦争反対論が起こるなどとても答えられる状態ではありませんでした。 さらにアメリカの強行的な戦争論に対し、日本は独自でイラクへの経済制裁を行い、かつイラクへ撤退を促すことを検討していました。 日本は国軍に相当する自衛隊が派遣できない以上民間企業に海外派遣を促しますが、これもアメリカからは自国中心主義だと非難されます。 そんな時国会では自民党幹事長(当時)の小沢一郎が海部首相を押し切って自衛隊派遣をする法案を制定しようとしますが最終的には否決され、海部首相と橋本龍太郎大蔵大臣は最終的に計130億ドルを米ドル建てで軍事費として提供し、軍事力は出さないことを決定しました。 しかしこれも毎回10億ドルの分割払いであったことから日本がアメリカに至極消極的であるという印象を与えたとされています。 こうして日本国内でも人的貢献がない限り積極的貢献だとはみなされないという見解で一致し、最終的には自衛隊が地雷除去部隊として派遣されることが決定。 戦争時からの物資援助、そして地雷除去や現地での円滑な資金提供によって日本は少ないながらも確かに多国籍軍に貢献しています。 国際社会(主にアメリカ)に対して武力に屈したとする意見は今でも少なくありませんが、クウェートからは資金援助をしたことを感謝され、東日本大震災の際にはクウェートから石油の無償提供を受けるなど好印象を受けています。 以後、日本では1992年にPKO協力法が成立し平和活動においては自衛隊が実際に派遣されるようになり、国際紛争に対して積極的姿勢を見せるようになりました。 日本は湾岸戦争をきっかけに、国際社会を傍観する姿勢から脱却したのです。 森住卓は米軍基地や環境問題を主に取り組んでいるジャーナリストですが、主要な作品はセミパラチンスクやコソボ自治区、そしてイラク、福島と戦争や原子力被害に苦しんでいる地域の実態を隠すことなく移しています。 本書の内容は写真展にもなりました。 彼は人間が作り出した核による被害を正面から見つめ、現在我々人類が直面している危機を訴えかけています。 日本ではつい数年前に福島大地震で原子力汚染が問題になりましたが、行政や一般市民のこれに対する態度はまさに他人事でネットの悪口のネタ程度にしか捉えられていません。 今憲法改正によって集団的自衛権が軍事の自由に書き換えられようとしている中で、我々は戦争とは何かをもう一度よく考える時が来ているのです。 戦争の分岐点となったIT技術、情報戦 本書の特徴は、「砂漠の嵐作戦」と言われ日本でも空爆の威力を思い知らせたあの航空兵器が、実は1991年段階で依然未熟で空爆が決して多国籍軍勝利の決定打ではなかったのがわかることです。 湾岸戦争で重視されたのはIT革命というように、情報戦です。 多国籍軍が圧倒的な情報量を駆使してイラク軍の狙いを挫いたことが勝因であると判断した著者の視点から、兵力差があっても油断ならない戦争の機微とアメリカの情報操作の上手さを垣間見ることができます。 現在戦地で支援活動をしている日本も、決して無視できない情報があふれているのです。 いかがでしょうか。 湾岸戦争は日本も関与した戦争です。 国際社会で起こる戦争は今やどの国も決して無関係ではいられません。 我々日本人は特に戦争というものにことのほか無縁であるために危機感が非常に薄く感じます。 湾岸戦争は屈辱の外交として知られていますが、果たして日本は本当にアメリカがいうような自分勝手な国なのでしょうか?現在も続く中東戦争の実態を知るために、我々は湾岸戦争を学ばなければなりません。 その点で、今回紹介した3冊の本は非常におすすめです。

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イラン=イラク戦争

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イラク戦争とアメリカ さて、そもそも何故アメリカは2003年にイラクを攻撃したのでしょうか。 その理由としては以下の2点を挙げることができます。 11同時多発テロと、対テロ戦争の一環で行われたアフガニスタンへの攻撃が非常にうまくいったことです。 同時多発テロ 20001年9月11日にアメリカは世界貿易センタービルやペンタゴンがイスラーム過激派アル=カイーダによって攻撃されます。 (そして、攻撃は他にもホワイトハウスなどアメリカの中枢部を対象にしていたことが後に判明しました。 ) 米国は独立戦争以来これ程までの本土への大規模攻撃を受けたことがありませんでした。 なので非常にパニックに陥ったわけですね。 同時多発テロが起こってから数日の間は、テロ関係のニュースがひっきりなしに放送されていたことから混乱がよくわかります。 さてこうしたパニックの中でアメリカでは多くの同胞が理不尽なテロ行為によって殺されたという認識と、それに対して報復を行う必要性があるという空気が生まれたわけです。 実際、攻撃を受けたその日のうちにブッシュ大統領は犯人とその支援者を処罰することを表明しました。 また上院もブッシュ大統領の声明を満場一致で支持しました。 アメリカの上院は合衆国の外交に関して議決権を持っています。 なのでこの大統領への支持は、もし処罰を与えるために国外での活動が必要ならそれを認める可能性が高いことを暗に示していますね またアメリカ国民の8割の間ではブッシュ大統領の意見を支持していたことから、このテロに対しての報復の必要性をアメリカ全体で共有していたことがわかりますね。 そうした中で、その報復対象にしてあげられたのはテロ行為を働いたアル=カーイダとその仲間たちと言うわけです。 そしてフセインによる独裁政権下のイラクも次第にこの「仲間たち」に含められるようになります。 こうしたテロによって引き起こされたアメリカの安全保障への希求が、イラク攻撃の一要因と言えるのですね。 アフガニスタン侵攻 第二の理由がこのアフガニスタン侵攻です。 第一の理由で述べたようにアメリカでは安全保障のため、テロリストとその仲間たちを力ずくでも排除する必要性があるという認識が広まっていました。 そうした中で、テロを実行した組織アル=カイーダの首領オサマ・ビン・ラディンがアフガニスタンに潜んでいるとする説が強く主張されるようになるのですね。 もともと、ビン・ラディンは1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻の際にムジャヒディーン(聖戦士)としてアフガニスタンで対ソゲリラ戦を行っていました。 そしてビン・ラディンはアラブ世界を放浪し、ゲリラ戦に青春を捧げたアフガニスタンに帰還するのです。 当時のアフガニスタンはタリバンというイスラム過激派が支配していました。 こうした状況下でアメリカはテロの首謀者たるビン・ラディンを裁くため、その身柄を引き渡すようにアフガニスタンのタリバンに要求します。 しかしタリバンは最終的には反ソゲリラ行動の恩人たるビン・ラディンらの身柄を引き渡すことを拒否するのですね。 テロ活動の実行犯に制裁を加えることを望んでいたアメリカにとって、アフガニスタンの身柄引き渡し拒否は到底許せるものではありませんでした。 そこで、アメリカは実力行使をしてでもビン・ラディンを捕まえるということでアフガニスタンに侵攻するのです。 そして、このアフガニスタン侵攻は当初の予定よりもあっさりと完了してしまいました。 テロ攻撃によってヒステリックに安全保障を求めていたアメリカにとって、この予想外な軍事的大成功は一層強力な「テロ活動の支援者」でも容易に倒すことができるのではと自信を深めさせることになるのです。 そしてこのより強力な「テロ活動の支援者」こそがイラクの独裁者サダム・フセインなのです! このような理由からアメリカは、湾岸戦争に置いて止めを刺さなかったフセインを排除するためにもイラク戦争開戦やむなしに傾きだすのですね。 さてアフガニスタン侵攻の肝心な目的であるビン・ラディン逮捕ですが、結局は失敗することになります。 米軍はビン・ラディンをアフガニスタン国境沿いの岩山まで追い詰めしらみ潰しに探すのですが、逮捕することに失敗したのです。 逆にビン・ラディンはこの逃走劇の成功によって、イスラム過激派にとって文字通り伝説的な存在となるのです。 イラク戦争と湾岸戦争のつながり さてアメリカはアフガニスタン侵攻によってフセイン打倒の自信を深めました。 そして安全保障を絶対のものにするため、その排除を決意することになります。 ただ9. 11テロに関与していなかったイラクを理由もなく攻撃することは、いくら冷戦後唯一の超大国となったアメリカでも許されることではありません。 そこでアメリカが目をつけたのが悪名名高い湾岸戦争後イラクに課された「停戦条約」を持ち出すのです。 イラクはこの条約によってクウェート人捕虜を解放することを義務付けられていたのですが、それを実行しなかったため厳しい経済制裁の下に置かれていました。 おそらく捕虜の人たちは湾岸戦争のゴタゴタで亡くなっていたので、解放したくともできなかったのでしょうね そして、この「停戦条約」は他にも大量破壊兵器の放棄をイラクに課していました。 そこでアメリカはこの「大量破壊兵器の放棄」という条項を利用することにするのです。 そこでアメリカは、イラクのフセインは湾岸戦争の「停戦条約」で定められた大量破壊兵器の廃棄を行っていないどころか、それをテロリストに横流しをしている疑惑があると主張するようになるのです。 後に判明したようにイラクは大量破壊兵器を保持していませんでした。 しかし、イラクのフセイン政権は大量破壊兵器を保持しているような態度を匂わせつつ国連による大量破棄兵器の放棄に関する査察を拒否しました。 アメリカは本当にアフガニスタンに攻撃したので、イラクのこのような態度はアメリカから攻撃を受ける可能性を高める行為と簡単に判断することができますよね。 しかしフセイン政権はあえてそのような行為を選んだのです。 もちろんその理由としてはフセインがそのような危機があることすら理解できない愚か者だったからというわけではありません。 フセインはもちろんそのような危険性があることを十分に承知してました。 ですがあえてそのような態度を選択したのです。 その理由としては2点あげることができるでしょう。 独裁者ゆえの理由 第一の理由としてはサダム・フセインが独裁者だったからと言えます。 (これだけですと訳が分からないと批判されてしまいますね) フセインは大量破壊兵器を放棄していることを証明するために国連の査察を受け入れなくてはいけませんでした。 しかし、この査察においてある問題がありました。 それはイラク各地にある大統領宮殿などが査察の対象になっていたことです。 こうした大統領宮殿には非常時におけるフセインの隠れ家や避難通路が存在するとかしないとか囁かれていました。 そのため、それが存在しないことが証明されたり逆にどこに存在しているのかがバレてしまえば万が一イラク国民が不満を爆発させた際には、独裁者フセインの身の安全が保障されない危険性があり、それは避けたかっあのでしょう。 また外国(特にアメリカ)がいちゃもんをつけてきて戦争になった場合、そうした隠れ家などがバレていたら簡単に攻撃されてしまいヤバイということで査察を拒否したのですね。 (実は、査察官の多くがアメリカ人だったりするのですね。 こうなるとフセインの査察への拒否感が理解できますね。 ) (話は変わりますが、こうした事情を勘定するとイラクが大量破壊兵器が存在しないことを証明できなかったから悪いという意見には全面的には賛成できない気がしますね) 対イランのため 第二の理由としては対イランへの理由が挙げられます。 イラクは1980年から1988年にかけてイランと戦争を行っていました。 この戦争の初期においてイラクは優位性を保っていたのですが、後期になるとイラン軍の侵入と占領を許すまで戦況が不利になっていました。 こうした負け戦さを体験したイラクにとっては対イランへの備えを万全にしたいという思いがあったのでしょう。 そこで大量破壊兵器があるぴょ〜んとブラフでも飛ばしておけば、イランも報復が怖いからボコりに来ることはねえべと思ったらアメリカに半殺しにされてしまったという結果になってしまいました。 以上のような理由からイラクはあたかも大量破壊兵器を保持しているかのように振る舞ったのですね。 まさに、ここでリアリズムのジレンマを見ることができますね。 ネオコンとアメリカ さてここまではイラク側の動きを確認してきました。 ここからは一応ですがアメリカの動きも確認しておこうと思います。 なんども繰り返していますが、アメリカは同時多発テロによって絶対的な安全が欲しいということでテロリストとその支援者の壊滅に向けて全力投球してきました。 そしてイラクへの攻撃もその一環で行われたわけですね。 ただ、そうした安全性の確保という目的だけでイラク戦争に突っ走ったわけではありません。 ある政治思想を持つグループがブッシュ政権の中枢部に存在したことが、イラク戦争を不可避なものにしていったのですね。 そのグループとはネオコン Neoconservatism、新保守主義 と呼ばれる政治思想を持つ人たちです。 ネオコンの思想としては簡単に言えば全世界に自由と民主主義という福音を時には強引な手段を使ってでも伝導することがアメリカに課された義務であり、全人類の正義にかなった行為だとするものです。 ですから彼らネオコンは独裁者フセインの残虐な統治下にあるイラクを解放することの必要性を強く主張し、またそれが受け入れられたことでイラク戦争開戦の流れが加速していったのですね〜。 そしてイラク戦争はイスラム国を生み出す… さて結局イラクは大量破壊兵器保持の疑惑を晴らすことができず、アメリカとその有志連合との戦争に突き進むことになってしまいました。 この戦争は結果は多くの人が知るように、アメリカの強大な軍事力によってわずか2ヶ月未満で終結することとなりました。 しかし、この戦争はアメリカのみならず全世界にとっての災厄を産み落とすことになりました。 しかし、イラクの統治を任された連合国も新政府もフセインに忠誠を誓っていた者や宗教過激派の爆弾テロなどによって、その能力を完全に奪われる形になってしまっていたのですね。 そのためイラク戦争後のイラクは国土全土を有効に統治することができる中央政府が存在せず、有象無象がイラク国内で好き勝手に勢力を蓄えることができたのです。 そして、その有象無象の中には後にイスラム国(IS、ISIS,ISIL)と名乗ることとなる過激派組織があったのですね。 つまりイラク戦争による混乱の中からイスラム国が生まれたとも言えるのです。 まさにイラク戦争はバビロンの大淫婦だったわけですね〜。

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5分でわかる湾岸戦争!概要、原因、イラク戦争との違いをわかりやすく解説!

イラク 戦争

年表 [ ]• 8月 - 軍、に侵攻(湾岸危機、)。 1990年 - (国連安保理)はイラクに対するを課し、 委員会を設けた。 1月 - を中心としたがイラクを攻撃()。 その後の詳細はを参照。 - 湾岸危機後も解除されていなかった通商禁止に関し国連安保理はを採択。 通商禁止は緩和され、「石油と食料交換計画」を設け食料と衣料品を買うために石油の輸出再開を認めた。 - 互いに反目していたとを米国務省が仲介、に対抗するよう結束させた。 - は「10年間の制裁の結果はその効果だけでなく、その範囲と厳しさで、罪の無い市民を自国の政府からだけでなく、国際的共同体の行動によって往々にして犠牲になることで、深刻な疑念を持った。 包括的で厳しい経済制裁が独裁的体制に向けられている場合、悲劇的なことに一般的に苦しむのは制裁の発動対象になった行為を行った政治的エリートではなく、国民である」とした。 - で約3000人が死亡• 2001年 - 国家哀悼日に、が「この十字軍、テロとの戦争は時間がかかるでしょう(This crusade, this war on terrorism is going to take a while. )」と発言。 2001年 - の報復としてがを攻撃(、)。 - ブッシュ大統領がでイラクを非難するを行う。 2002年 - 米国副大統領は「イラクの核脅威は、予防的攻撃の正当性を証明している」と発言。 2002年 - のにおいて、は「イラクは、とを保有している。 イラクのは45分間で展開できる」と断言した。 2002年11月 - により、イラクが4年ぶりに国連の査察を受け入れ、同決議の第3項が定めるところに従い、武器申告書を査察団に提出。 2002年11月 - 米は「は、、、、など、数十種類ものの研究に着手した」と述べた。 後に、その全てがの誤情報による虚偽であり間違っていることが判明した。 [ ] 開戦前夜 [ ]• - (UNMOVIC)と(IAEA)から国連安保理へ中間評価報告。 イラクが国連決議に違反したと疑われるような証拠、痕跡はないとされた。 - 申告書に掲載されていなかったものと考えられる化学兵器搭載用ミサイル12基が発見される。 - ブッシュ大統領は演説において「が、からに利用できる500トンを買おうとした」と説明した。 後に、イギリス諜報機関から入手したこの情報は嘘であったことが判明した。 - イラクがを隠し持っていることを示す証拠をアメリカ側が安保理にて提示(報告)。 - 査察団の再報告。 武装解除の進展を積極的に評価しつつも、査察が完了しておらず、まだ時間が必要であることが示唆された。 - 戦争拒否のデモが特にこの日世界的に行われる。 - 中間報告書が公表される。 - 2度目の中間報告が公表。 この後、アメリカ側は査察は不十分として、戦争をも辞さないとする新決議を提案したが、等は査察は成果を挙げており継続すべきと主張した。 途中などが修正案も提示したが、アメリカは拒否。 - アメリカ、イギリス、がで密談。 [ ] 安保理では新決議案が反対多数で否決される見通しとなったため、アメリカは安保理での裁決を避け、独断で開戦に踏み切ることを決定した。 - ブッシュ大統領がイラクに対して、テレビ演説で。 フセイン一族と主要閣僚の48時間以内の国外退去を命じる。 大統領は徹底抗戦を宣言。 開戦 [ ]• - 米英軍による空襲「イラクの自由作戦」を開始。 - クウェート領内から、地上部隊がイラク領内へ侵攻を開始。 地上戦が始まる。 - イラク国営放送が、の支部長でイラク国民議会議員のナーイフ・シンダーフ・サーミル・ガリーブが、米軍との「戦闘」で死亡したと報道。 3月下旬 - 戦後の復旧はが全面協力をすることが明らかになるが、暫定政府がアメリカ主導であるべきか、国連主導であるべきかをめぐり、アメリカと他の数か国の間に若干の差が見られた。 3月下旬 - アメリカ軍の直面している困難として、物資の補給が遮断されている点、砂嵐が激しい点などが指摘された。 3月下旬 - のカフェで起きた19歳の男性による自爆攻撃について、のイスラム系過激派「ジハード」が声明を発表、この攻撃がイラクの英雄への贈り物であること、多数のがイラク入りしていることなどを述べた。 イスラエル側はこの件をこれまでに繰り返されたのひとつで特別な点はないとした。 - イラクのフセイン大統領の声明を情報相であるがテレビに登場して読み上げたことから、アメリカ側はサッダーム・フセインの健康状態や消息について疑問を投げかける。 アメリカのメディアでは、これはアメリカ政府がイラク側を動揺させるための情報戦であるとの見方も出される。 同日 - 米国防長官は記者会見上、作戦計画上の失敗について問われ、常にない怒りを表明。 また、和平交渉の可能性を否定し、無条件降伏を追求するとの方針を明らかにする。 同日 - イラクの副大統領は記者会見上、アラブ諸国から義勇兵が6000人来ており、半数近くが自爆攻撃要員であると述べた。 同日 - が発生。 アメリカの国威を発揚する美談とされたが、本人によって後にこれに反する事実が判明、過剰な情報操作は疑念を招いた。 - アメリカ軍は、バグダードの宮殿の一つを占拠と発表。 - フセイン政権もはや機能せず、以後の統治を米・復興人道支援室で行なう。 - バグダードのサッダーム・フセインとされる銅像が引き倒される。 後に、これは国防総省によって行われた作戦であることが判明する。 アメリカ軍が止め螺子を外し、100人程度の民衆が銅像を引き倒した。 [ ]これは、集められた報道陣より少ない人数であった。 またこの広場に入るための道路はアメリカ軍の戦車により封鎖されていた。 - アメリカ政府はフセイン政権が事実上崩壊したと発表。 を防衛していたイラク陸軍・第5軍団がアメリカ軍との交渉により投降。 これによりモースルは無血で制圧される。 - イラク西部を防衛していた西部軍管区司令官のムハンマド・ジャラーウィー将軍が、にてアメリカ軍との降伏文書に署名。 これにより西部を守備していた約1600人のイラク軍は戦わずして降伏した。 - アメリカ、イギリス、の代表と、イラク国内の、などの勢力の代表が近くの空軍基地で会合を開き、13項目の声明を発表。 ナーシリーヤでは大規模な抗議デモがあり、アメリカの介入を拒否し、シーア派による統治を求めた。 - ブッシュ大統領が「大規模戦闘終結宣言」(終戦宣言ではない)。 アメリカ兵の死者は138人。 イラク人死者数不明。 占領統治 [ ]• - (CPA)が発足。 - アメリカ政府は、アメリカ、イギリス、ポーランドの各軍が地域別に分担して各地域での平和維持軍を主導するとの構想を固める。 開戦に反対した、、と国連軍は含まれない。 - 国連安保理でアメリカとイギリスによるイラクの統治権限の承認、経済制裁の解除などを盛込んだが採択される。 5月 - イラク北部から中部をアメリカ軍、南中部をポーランド軍、南部をイギリス軍による統治を開始。 またスペイン、や東欧諸国などの参戦国は県別に配置した。 - 「20」が逃亡中のフセインと思しき車列を発見して追跡し領に侵攻、国境警備隊などシリア軍80名が死亡した。 後に車列はガソリンの密輸グループであることが判明。 - が発足。 - バグダードの国連事務所で爆弾を積んだトラックによる自爆テロ。 が死亡し、国連がイラクから撤退する。 9月 - ポーランド軍9000人が進駐。 また東欧各国もアメリカの費用支出によって派兵。 - ブッシュ大統領、極秘裏にバグダードを訪問。 アメリカ軍晩餐会に出席。 約150分で帰国する。 - イラク中部で フセイン大統領を拘束。 復興支援開始 [ ] 2004年 [ ] 形式的にはこれより復興支援。 ただし、戦闘自体は続いている。 - の本隊がイラクに派遣された()。 - 軍(約120人)が撤退。 - 発生。 このためでは政変が起こり、新政権はからの離脱とイラクからの撤兵を宣言、5月までに全軍(1400人)が撤退した。 - イラク保健省へ行政権限をはじめて移譲(以後、各省庁へ権限移譲を行なう)。 4月 - 軍(約300人)が撤退。 - 発生。 アメリカ軍はで民間人4人が殺害された事件を機に、反駐留軍活動に対し激しい包囲掃討作戦を実行した。 に空爆して民間人に多数の死傷者が出たために非難され、3日で停戦した。 - において、米兵のイラク人に対する虐待が行われていた事件の第一報がで報道される()。 - 4月中の米兵死者数は136人で過去最悪。 イラク人も約1380人が死亡と報告。 5月 - による過激派組織が米軍と大規模な戦闘が発生。 民兵の死者多数。 5月 - 軍(約370人)が撤退。 - が暫定政権を選出。 - 発足。 - イラク各省庁への行政権限委譲を完了。 から暫定政権へ主権移譲、連合暫定当局解散。 軍は下の多国籍軍へ。 - 元大統領ら計12人のを宣言。 - フィリピン人の人質事件発生、フィリピン政府は武装勢力の指示通りに軍(約100人)の撤退を1か月早め、人質は無事に解放されたが英米に非難された。 7月 - 中部の警察署前で自動車爆弾が爆発、警察官希望者70名以上が死亡した。 テロ一回での死亡者としては過去最悪。 - 特別法廷で大統領サッダーム・フセインらの訴追手続き開始。 一方、金融監督局長イフサーン・カリームが襲撃されて爆死し、高官としては主権委譲後初めての死者となった。 - 7月に入ってからのテロ事件や高官の暗殺増加に対抗し、首相アッラウィーが情報機関を設立することを発表。 - 法相マリク・ドゥハーン・ハサンの車列を狙った自爆テロがあり、法相は暗殺を免れたが、警官など4人が死亡した。 - 中部で警察署を狙った大規模な爆弾テロ発生。 主権委譲後で最大の68人が死亡した。 事件を受け、暫定政府は31日に予定されていた国民会議を8月中旬に延期。 8月上旬 - 蜂起。 多国籍軍と率いるシーア派民兵団「マフディ軍」の間で大規模な戦闘が勃発し、民兵ら数十名が死亡。 8月上旬 - 人労働者12人が武装勢力に誘拐・殺害される。 ネパールでは政府が海外労働者の保護を怠ったとして、市民が暴動を起こしてを中心に混乱した。 - 国民会議がバグダードで開催、千数百人が集まる。 諮問評議会を選出。 サドルの民兵へ、政権や多国籍軍に対しての反抗を止めるよう呼びかけ。 - 暫定政府、サドルに対して最後通牒。 末 - シーア派の指導者の停戦呼びかけに応じ、サドルが全国の武装勢力に停戦を指示。 - スンニ三角地帯において武装勢力の掃討作戦が始まる。 特には人のグループをはじめ、抵抗組織が運動を激化させているとして、が掃討作戦に乗り出す。 9月 - がに展開。 9月 - 軍(約60人)が撤退。 9月 - 軍(約450人)が撤退。 - 開戦からの米兵の死者が1001人に到達(大部分が爆弾攻撃)。 イラク人は1万4000人以上が殺害されたと推定されている。 - ()の団長 ()は、開戦時イラクには存在しなかったとする最終報告(デュエルファー・リポート )を米議会上院軍事委員会の公聴会に提出。 ただし、大量破壊兵器の製造計画を指摘し、その後の次第ではなどの国際テロ組織との連携も有り得たとの結論。 - 開戦からの米兵の死者が1100人に到達(内、5月以降の死者が961人)。 事故死・自殺が256人、負傷者は8016人。 - 英国NGOの独自調査で、開戦からのイラク人死者(軍事行動、テロ)が1万5357人に上ることが分かった。 - が再度発生。 日本人男性一名が武装勢力に拉致され、4日後に遺体が発見される。 - 英医療誌「」が、開戦以降のイラク人推定死者数が10万人となること、開戦後の死亡リスクは戦前の1. 5倍、暴力による死者は戦前の58倍であることが、米調査団によって分かったと掲載。 - が再選。 - ブッシュ大統領が「イラクを自由な国にするためには、選挙を阻止しようとする連中をやっつける必要がある」と見解。 暫定政権アラウィ首相も「国連決議の日程に従う選挙実施が使命である」としてブッシュに同調。 - 米軍がファルージャを包囲、封鎖。 暫定政府はこれを受けて地域を除くイラク全域に非常事態宣言を発する。 米軍とイラク政府軍の連合部隊がファルージャへ再侵攻し、数日をかけて制圧した。 - の武装勢力掃討のため侵攻。 - 米兵死者が1200人に到達。 - 11月中の米軍の死者が137名となり、この年4月を超えて過去最高。 12月 - 軍(約300人)が撤退。 - 治安悪化と選挙に備え、米軍を1万2000人増派。 13万8000人から15万人体制となる。 - 米兵の戦闘での死者が1000人を超える。 ファルージャなどの掃討戦が影響。 - 翌年1月下旬の国民選挙に向け、 立候補者受付と選挙活動開始。 以降、妨害のための大規模テロ相次ぐ。 - モースルの米軍キャンプ食堂で自爆テロ、米兵19人とイラク人3人が死亡し60名以上が負傷、米軍を狙ったテロでは過去最大。 この日、米兵の死者は延べ1319人に。 - 米軍が選挙対策のため、南部と北部で、武装勢力の殺害と拘束を目的とした約1か月間の大規模作戦を開始。 2005年 [ ]• 年明けから反選挙テロが相次ぐ。 市民の死傷者多数。 - 国民議会選挙が実施。 勢力のボイコットや相次ぐテロによって実施が危ぶまれたが、住民の投票率の高さにより一応の成功。 開票は当日から10日間かけて行われた。 また、投票所が襲撃され合計36人が死亡、米兵も1か月間に106人が死亡した。 - 軍(127人)が撤退。 2月 - (NATO)がイラク軍・警察の訓練に参加することを決定。 - 暫定政権発足(前年6月)からこの日までイラク人警官・軍人の死者1342人。 - 開戦からこの日まで、多国籍軍の死者は16か国1633人、そのうち米軍の死者だけで1461人。 - 国民議会選挙の結果が発表される。 得票率1位は政党連合である統一イラク連合で、48. 2位は連合政党のクルド同盟が25. 3位は首相率いるイラキーヤ・リストが13. スンナ派は多くの党派のボイコットによって獲得議席は少ないが、シーア派・クルド人は憲法草案製作に携わるよう打診した。 - イラク選挙管理委員会が国民議会選挙の結果を公式に発表。 定数275議席のうち、統一イラク連合(シーア派)140議席、クルド同盟(クルド人)75議席、イラキーヤ・リスト(アッラウィー首相派)40議席、イラキユーン・リスト(ヤワール大統領派)5議席、トルクメンイラク前線(トルクメン人)3議席、国民独立エリート集団(スンナ派の師派)3議席。 これを受け、各派は移行政府の設立準備を始めた。 - の祝日アシュラを狙ったテロが発生、バグダード周辺で8件、祭礼に参加していた市民55人が死亡した。 選挙結果に反発したものと思われる。 - 中部ヒッラで過去最大の。 治安部隊希望者の健康診断の列に自動車が突っ込み爆発、周囲の市場も巻き込まれ、市民115人が死亡、148人が負傷した。 - 拉致から解放されたイタリア人ジャーナリストが米軍に誤射され、車に同乗していた諜報機関員が死亡。 イタリアのベルルスコーニ首相が非難の声明を出した。 - 米兵の死者が1502名となる。 米国では軍入隊志願者が急減し、定員確保が課題となる。 - 選出議員による初の 国民議会が開幕。 - が発足。 大統領はの。 暫定政権解消。 - イラク全土で武装勢力のテロ攻撃。 移行政府に反発するものと思われる。 死者合計数百名。 - 警備員(実態は私設軍隊、)の日本人男性が銃撃戦の末、武装勢力に拉致される。 数日後に遺体の映像が公開されたが、行方不明のままである。 - イラク中部、南方60kmにあるにおいてタンクローリーを利用した自爆テロが発生。 およそ100人が死亡。 周辺にはのがあった。 - 新憲法草案がクルド人やスンナ派議員の反対によって否決。 1週間後に再度投票を行い、やはりスンナ派が反対して全会一致とはならなかったが、 憲法草案が承認された。 - バグダード中心部のバスターミナル等で3台による連続テロが発生。 40人以上が死亡。 - シーア派の巡礼地が迫撃砲で攻撃され、パニックに陥った信者が将棋倒しになり、過去最悪の960名以上が死亡。 なお、この時に川に落ちたシーア派の民衆を助けるよう近くのスンナ派モスクから命ぜられた人々が救出に向かったが、彼らも溺死してしまうという悲劇も発生。 - 04年11月に武装勢力に拉致された米国人男性( ())が解放される。 男性は武装勢力が公開したビデオに姿を現した際、ブッシュ大統領に助けは求めず、に助けを求めていた。 - にて、イラク警察によって諜報活動を行っていると疑われ、これに対し発砲するなどして抵抗した後に拘束された英兵を、英軍が装甲車をもって拘置所から。 拘置所が破壊され囚人が逃亡、英軍と地元警察らが交戦。 - 捕虜虐待に関連し、米国軍事裁判で予備役兵が有罪判決。 末 - 英軍、豪軍、自衛隊が相次いで翌年前半の撤退の検討に入ったと発表。 - 米軍の兵力を136,000人から152,000人に増強すると発表。 議会選挙に対する攻撃阻止のため。 - 新草案の是非を問う国民投票を行う。 国防省は、イラク派兵部隊を来年前半から削減する計画と発表。 韓国軍の派兵部隊は警備部隊と医療・工兵部隊を合わせ3,260人。 米英に次いで三番目の規模。 削減規模は約1,000人程度。 国防省は、イラクに駐留中の部隊の撤退を開始したと発表した。 も年末までに完全撤退した。 また、イタリアも9月の300人撤退に続き2006年1月に300人撤退させ、2,900人から2,600人すると発表した。 韓国は3,260人を2006年前半には約1,000人を撤退させた。 - ブッシュ米大統領がイラク開戦理由の一つである大量破壊兵器の情報に誤りがあったことを認める。 - 新憲法に基づき、新政府発足に向けた2度目の 国民議会選挙が行われる。 シーア派勢力が圧勝、またシーア派・スンナ派ともに勢力が世俗勢力を上回る支持を得た。 - 米軍、2月までにイラク兵力を155,000人から選挙前の138,000人程度に削減と示唆。 - 英首相が翌年前半の英軍撤収を検討している旨を首相としてはじめて発表。 - 軍(1600人)が撤退。 年末までに開戦からの米軍の死者が2200人に到達した。 2006年 [ ] この年の民間人の犠牲者の数は3月時点で過去2年のそれぞれを上回った。 - 4か国の外務・防衛課長級会談で、2月中にも正式政府が発足する予定であったことから、英軍は8000人の駐留軍のうち、治安の安定している南部では地元警察に権限を委譲して、500人を3月に撤収を開始し5月に完了、年末までに2000人を撤退させる計画を伝えた。 - 開戦からの英軍の死者が100人に到達した。 - 正式政府発足に向けて首相選びに難航。 選挙によって保守が台頭した事に各政党が拒否感を顕わにする。 - 英軍兵士が収容所でイラク人少年を殴る映像がテレビ放送。 撮影者の「笑い声」が波紋を呼ぶ。 翌日ブレア首相が事件調査を示唆。 - 2003年に起こった米兵による捕虜虐待の未公開写真が豪州で公開され、米国が虐待と公開の双方に不満を表す。 - シーア派聖地のアスカリ廟で爆弾テロ。 シーア・スンナ両派が抗議デモを起こすが、聖廟破壊に怒ったシーア派武装勢力がスンナ派モスクなどを襲撃して衝突し、23日にかけてスンナ派を勢力中心に宗教抗争としては戦後最大の200名以上が死亡した。 平和を訴えてきたシーア派指導者は戦後初めて「信者の自衛」を許可した。 - 前日の混乱を受けてが周辺3州に昼間外出禁止令を出したが、この日もスンナ派の報復でシーア派や警察特殊部隊ら30名以上が殺害され、外出禁止令を27日まで延長した。 同日、日米英豪4か国の防衛会談が行われたが、イラク情勢が変化した為、撤退計画が遅れる可能性が示された。 - 22日からこの日までに、両派の抗争とテロで米英兵を含めて379名が殺害された。 また、2月中の新政府発足は実現しなかった。 - 多国籍軍のケーシー司令官(米軍)が会見し、宗派抗争がに発展する可能性は低いとの認識を示した。 - バグダードで、抗争で処刑された87人の遺体が発見される。 16日にも27人の遺体が発見される。 - 米軍が治安維持のため、3月末までに650人~800人をから一時的に増派。 シーア派の宗教行事アルバインに備えるためと説明。 - 戦後最大規模の空挺作戦「オペレーション・スウォーマー」が行われる。 早朝からサーマッラーにおいて、米軍とイラク軍の連合部隊が兵員1500名(内イラク治安部隊800名以上)、車両200台、航空機50機(輸送ヘリ中心)を以って攻撃を開始した。 味方の死者もなく104名の拘束と武器集積所24ヶ所の発見という成果をあげて23日に終了。 同日、前年12月の選挙による 国民議会(連邦議会)が召集されたが、各派閥間の対立によって開会30分で休会した。 また、新政府の首相候補の(現首相)は就任辞退の可能性を示唆した。 - アッラーウィー前首相()が現状を「状態」だと断言。 - ブッシュ大統領、内戦発言を否定し、イラク経営が順調であることを強調する。 - ブッシュ大統領、ハリルザド駐イラク米国大使を通じて、ジャファリ首相の続投を望まないとする個人メッセージを伝える。 ジャファリ首相報道官は「内政干渉」と反発。 - 国務長官が「我々は戦術的に多くの誤りをおかした」と表明。 - によれば、3月中の米兵死者は29人で、前年12月を除いて10月(90人)から減少を続けている。 によれば、3月中の米軍死者は31名で減少傾向だが、イラク国民は901名が死亡し、前年12月を除いて増加傾向である。 また、米軍が危険地域の警備をイラクに移譲していることが、死者の減少に役立っているとの指摘もある。 - 米国のライス国務長官と英国のストロー外相がバグダードを訪問し、3日にジャファリ移行政府首相と会談する。 会談後、ライスは「ジャファリは国民宥和政策ができていない」と苦言。 - の大統領が「内戦はほぼ始まっている」と発言。 また、イランがシーア派に影響力を持つことに懸念を表明。 - 移行政府首脳が相次いでムバーラクに反発、「内戦とは程遠い」。 一方、の外相もムバーラクに合わせて現状を「内戦」と発言する。 - 統一イラク同盟(UIA)が首相にを擁立。 スンナ派とクルド人も容認し、連邦議会が再開。 - ラムズフェルド国防長官とライス国務長官が相次いでイラク入りし、マリキと会談。 - 4月の米兵死者が73人に急増した。 武装勢力拠点への急襲作戦が影響している模様。 5月もバグダードを中心に殺戮、無差別テロ相次ぐ。 - 米軍がラマディで1週間にわたり武装勢力と交戦し、100名以上を殺害したと発表。 - が発足。 フセイン政権崩壊から3年、当初の予定より5か月遅れである。 - が、米軍の空爆で暗殺される。 - 陸上自衛隊撤退完了。 航空自衛隊は継続。 - で、シーア派住民148人殺害で人道の罪に問われていた 元大統領の死刑執行。 69歳。 年末までに開戦以降の米軍の戦死者が3000人に達する。 2007年 [ ]• - ブッシュ大統領は21500人のイラクへの増派を決定。 - 首相は計9万人を投入し、アメリカ軍と共に「法の執行作戦」を開始。 - 米国防総省は4400人の増派を発表。 - 国際連合事務総長がバクダードで迫撃砲により攻撃されるが無事。 「イラク・イスラム国」を名乗る武装組織が犯行声明を出す。 2008年 [ ]• - 開戦以降のイラク駐留米軍の戦死者が4000人に達した(AP通信の独自集計)。 開戦5周年を迎え、各地の反米武装勢力が活動を活発化させる。 他に親族3人が負傷。 事件を知った知事は関係した将兵の処罰を求め、解決までの間、アメリカ軍への協力拒否とストライキを以っての抗議を全職員に呼びかけた。 一方アメリカ軍側は「知事と関係のある武装メンバーを無力化」と発表。 - 航空自衛隊派遣輸送航空隊の撤収が完了。 2009年 [ ]• 1月 - イラク駐留米軍の地位協定発効• 2月 - オバマ大統領、戦闘部隊の撤退計画発表• 6月 - 米軍戦闘部隊が都市部から撤退 2010年 [ ]• 3月 - 連邦議会選挙• 8月 - 最後の戦闘旅団が撤退、オバマ大統領、戦闘任務集結を宣言 2011年 [ ]• 12月 - 治安維持・部隊育成が目的の駐留部隊も撤退、これにより撤退が完了した 脚注 [ ].

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